「2010年代」を含む日記 RSS

はてなキーワード: 2010年代とは

2017-11-12

今こそ問いたい。SNS青少年保護について。

未成年自殺のキッカケにTwitterが使われてしまった。

これを放置してきた業界団体行政は襟を正さなければいけないし、

ネット利用者も、言論統制がどうだと規制に反対する前に青少年保護のことを考えてもらいたいと思う。

 

 

平成生まれの人たちにはピンと来ないかもしれないが、未成年出会い結構しっかり制限されてきた歴史がある。

簡単に振り返ると、

これらは全て、青少年保護目的として行われてきた。

「面識のない異性交際に未成年を参加させない」ために自治体警察努力してきたのだ。

 

 

しかし、規制内容を「異性交際」と限定してしまったために、

性別関係なくコミュニケーションできるサイト出会い系サイトではないよね」

という言い分で堂々と発展してきた業界がある。

それがSNSである

SNSは今でも簡単未成年との出会いが成立しうる。

これは日本における規制歴史から見ても非常にグレーな状態なのである

 

 

例えば日本事業者は、自社のサービス出会い系サイト扱いされないよう

mixi mobage GREE あたりが業界団体(http://www.ema.or.jp/) を作って対抗していたりもするが

結局は警察からの書込み削除要請が大量に行われてたりもして、実効性に疑問がある。

国産SNSですらこの程度なのだ

業界団体に入ってもないTwitter未成年出会いを防ぐような自浄能力は全く無いように感じる。

 

 

今や未成年に対して「ネットを使うな!」と声高に叫ぶのは不可能に近い。

他方、「死にたい」の声を削除するような統制にもほとんど意味がない。

しかし、今のSNS青少年をきちんと保護できているかというと疑問である

ゾーニング目線でも、利用規制でも、何かできることはないのか。

地方警察生活安全課の中にはタイムラインを日々チェックしていたりするチームもあるそうだが、限界もあるだろう。

2017-11-10

勝手リア充代弁

リア充」という概念2010年代を中心に流行している。

もちろん、彼らは人間関係仕事恋愛プライベートも超絶充実してる。インスタグラムYoutube、色んなSNSメディアで人と絡んだり、情報を集めるのが大好き。

どこからどうみてもおしゃれな一面しかみえない、みんなの憧れ「リア充」。

今日○○とネズミーランド行ってきた♡」「この美容院カラーすっごくうまいの😝」

とか、すごく充実した“報告”は、日本ならず世界中で流れている。

(もっとから流行最先端をゆく人達もいたはずだが、スマホが普及してから更にリア充は注目を集めるようになった)

もちろんリア充は、ネガティブな悩みも軽い口調で流せる術を持っている。

例:「また3kgふとっちゃった...ほんとデブ💢」「ひょっとして俺、あいつに嫌われるやつかな?笑」

でも、そんな完璧リア充たちも人間だということは忘れてはいけない。

彼らだって、常に何もかも楽しそうな感じを演出しなければならないという強迫観念を感じているに違いない。

どんなに本気で辛い時でも幸せ、楽しそうなイベントに行って、はしゃいでいる感じの投稿を1ヶ月に1回はインスタかTwitterに載せなければ、リア友フォロワーの信頼(何の?)を失ってしまうかもしれないのだ...面子を保たなければ、ある意味社会的に死んだようなもの

...まあ、世渡りが上手い人は裏アカとかで超本音を吐いている気はする。

というか、心から人生を楽しんでいそうな人もいるから一概には言えない。

その人達には上記のことは全く当てはまらなさそうなので、先に謝っておきます。すいませんです。

あなたの隣にいるリア充も、きっと本当は充実してるアピールに悩まされていることだろう...

2010年代ってどのように呼べばいいの

1990年代なら「90年代」「ナインティーズ」なんて呼べばよかった。その次の2000年代はまだ定着できてはいないけど「ゼロ年代」「にせん年代」が妥当なところだろう。

じゃあ今の2010年代は何と呼ぶのがふさわしいのか。今までの流れからすれば「10年代」だろうけど、10という数はどうも軽くていけない。10s(テンズと呼ぶのか?)も同様に軽い。「2010年代」とすれば確実に伝わるがこちらは何とも長い。

年齢層のボリュームゾーン前世紀に偏る当面は、「21世紀初頭」なんて言い方で括られるのかな。

2017-11-09

2010年代音楽クソというのも同意できないんだよな

ただいいものを掘り出すのにすごく手間がかかるようになった

なろう小説で傑作を見つけてきてくれみたいな大変さがある

宇多田ヒカルが売れていた90年代

「2010年代の音楽はクソだっ」という意見のまとめ - Togetterまとめ

テレビで誰かが「山口百恵国民の誰もが知っていたけど

宇多田ヒカルのようにはレコードは売れなかった」といった

内容のことを言っていた記憶がある。

90年代の頃から世代間に断絶があったんだよね。ヒット曲

生み出すキーワード女子高生カラオケだった。

2017-10-23

20代以下の若年世代は「同調的」という分析を、電通だかどっかが出してたのを読んだことがある。あと、バブル世代の子供たちだから基本的バカという側面はあろう

更に、2010年代民主党政権ダメさを思春期の頃に見ているだろうし、世の中全体が、共助よりも一強の方に傾いているから、まぁそういう傾向なのは当然かなとは。


現状を維持するためには、現状維持分だけの努力で済むと思ってるのかもしれないが、

実際は現状維持を心がけてもずるずると下がっていくのが世の中で、その辺は理解してない人間が少なくないかもしんない。若いとこの辺は分からんかも。

2017-09-26

差別撲滅のために、バナナ規制すべき

男の写真バナナ画像を添えてツイートすると、差別的だと騒がれて警察被害届が出される世の中になった。

同じように、女の写真バナナ画像を添えてツイートすると、今度はセクハラとか性的差別とか騒がれる。

から差別を減らすためには、バナナ規制するのが一番なのでは?

例えば野球メジャーリーグは昔は黒人差別が酷く、2000年代に入ってもなかなか改善されなかったが、2010年代から黒人選手を少しずつ減らすという「差別要素を減らす」施策を打った結果、黒人差別が激減した。

差別対象黒人選手が減ったのだから差別的行為も当然減ったのだ。

たまたま今年とある球団ファン差別的ヤジを飛ばす事案が起きたが、その球団以外では黒人差別問題はここ数年起きてない。

同じように、バナナという差別要素を物理的に減らすことが、差別減少には一番有効ではないか一般人の持つ差別意識はどうにもできないのだから差別要素を減らすしか手がないはずだ。

2017-09-13

hot chip

do do do you kow の歌詞ハゲ乱入してビーム放つPVだけ覚えてて、検索しても全然出てこない

PVは覚えてる人もいたけど、知恵袋とかスレバンド名教えてください!みたいな書き込みしてスルーされてる

2010年代 バンドで調べても同じようなコピペブログばっか出てきて話にならん

最近洋楽スレ見て片っ端からバンド検索しようと思ったところに偶然hot chip名前見つけてすべて思い出した

覚えにくい名前つけてんじゃねーよマイナーバンド

でもいい曲

しか00年代から洋楽はほぼ死んでるな。特に日本では

2000年代議論2010年代議論

中立的立場を守って安易結論は出さない」

先入観を捨てて発言字義通りに解釈する」

発言者肩書きは見ない」

どっちもどっち喧嘩両成敗」

といった態度は2000年代には美徳とされたけど今となっては通用しなくなっちまったな。

立場を明らかにして自分の主張を通す」

前後文脈を参照して相手の意を汲む」

発言者立場や経歴を重視する」

「白黒をはっきりとつける」

これが2010年代流。

2017-09-11

2017-09-09

2010年代まれ10年以上続きそうな作品

ラブライブ2010年発表らしいので後2年。

まどマギソシャゲで息吹き替えしてるし、新作アニメが出ればワンチャンある?

ガルパンバンダイは続ける気満々らしいが最終章って言っちゃってるしなぁ。

艦これは固定ファンが根強いらしい。アニメ二期いつだよ。問題古参からは飽きられ(呆れられ)、新規には複雑化しすぎて入りにくいゲームの方なんだけど。

2017-09-06

2000年代東京カルチャー

ってなんなんだろう。

やっぱりビットバレーベンチャーみたいな世界なのかな。

それがガラガラポンして90年代リバイバルをしてるのが2010年代って感じがする。

それももうすぐ終わってどうなるんだろ。

2017-08-27

いい加減、学生ローンをどうにかしてくれよ

今日本では国民借金の増加について議論が繰り広げられている。特に現在問題になっているのは学生ローンすなわち奨学金である。長引いた不景気に伴う就職難や収入不安定階層高学歴化によって自己破産する家庭が出現している。日本政府日本学歴社会化を待ち望んでいるが、奨学金ローンによる弊害を知った庶民高学歴化(高校卒業後の進学)を諦め、景気の自然回復(とはい不況から普通になっただけだが)による有効求人倍率の上昇や企業努力などによる働きやす環境の整備などもあって、早期就職選択する若者が急増している。これは政府にとって痛い現実だ。世界経済社会成熟に合わせて学歴社会が進むのが当たり前(北欧韓国がその例)だが、日本学歴社会化は減速している。(日本大学現役進学率は1990年代不況以降上昇し続けてきたが、2010年代に入ってから減少に転じた。)これは日本社会成熟させるに当たって解決せねばならない問題だ。

そこで、私は、ローン式の学生奨学金制度順次廃止して、給付式の奨学金に移行させる、学生奨学金改革提案したい。その前提として、人口増加率の減速に合わせた学校の整理を行わなければならない。具体的には底辺の私学に対する閉校勧告公立学校の整理で、学生ローンの原因となっているランニングコストの削減を図る。一般的に、日本では高偏差値学校ほど志望倍率や学生人口が多く、低偏差値になるにつれて倍率や人口が少なくなる傾向がある。欧州教育インフラ成熟がうまくいっているのは、まず大学絶対数が少ないために、公的機関によるランニングコスト負担が軽減されているかである底辺校は切り捨てられる流れにし、学生ローンでまかなっていた教育コスト負担公的に行える土壌になればよい。ついでに、加計学園のような底辺校新規開設も止めさせるべきだ。底辺校粗製乱造公共にも学生のためにもならない。そういう学生浪人して別の大学を志望するなり、大学進学が必要なければ高卒就職する方がよい。大体日本学歴社会なんて韓国よりは100倍ましなのから

なお、今ある学生ローンについてだが、私が教育界隈を司る大臣役人であれば、徳政令によって債権債務を帳消しにすることを考える。「自己責任」という意見もあるだろうが、大学学費ローンは住宅ローン並みと同じくほぼ一生付き合わされる重い負担である。その負担を軽減したほうが、経済復興の加速や若者の消費意欲の向上にも繋がるのではないか。私は国公立大学卒業した中流の上の家庭出身だが、それでも元大学生としての経済的な痛みは理解できている。もし、地方自治体レベルでもいいか選挙政治シンポジウムに参加する際には、是非とも日本学生ローン問題について取り上げてみたいと思う。


とにかく、学生ローンというのは日本社会にとって喫緊課題であるので、次の国会自治体議会において取り上げられればと思う。いや、選挙ときに争点にされなければならないレベルになっているのではないかと思う。しかしながら、私は公務員として働いており、娘や息子も今年受験して来年公務員になる予定があるので、民間人のように政治思想自由に語れないという不自由さもあるのだが……。

2017-07-08

けものフレンズ面白さの本質

けものフレンズ』の面白さの本質は、ガイナックス的なアニメ価値観から抜け出しているところにある。

少し補足すると「抜け出している」という意味は、ある価値観に反発したり、故意に避けたり、過剰に抑圧したりすることではない。一例を挙げると「あんなクズな父親のような人間には絶対にならない!」と考えることはすでに父親の重力に捉えられている、ということだ。

もうひとつの「ガイナックス的なアニメ価値観」は少し複雑だ。細部へのフェティッシュなこだわり、現場いぶし銀技術者ひとつの生物のように有機的に躍動する集団、学校文化と官僚システム/軍組織への熱い礼賛、マスメディアやと民主主義への蔑視……古い世代のアニメオタクの王道ど真ん中の価値観。この価値観の根底には「責任のとらなさ」がある。これについては後述したい。



私自身、『けものフレンズ』は話題になっているのをtwitterで見て、5話くらいから興味を持った後追い組のひとりだ。徐々にハマり、最後にはとても感動した。けれども、しばらくたってもその面白さをまったく言葉にできないことに気づいた。まるで「解」だけが前触れなく控えめに差し出されたようだった。この困惑について、福原慶匡プロデューサーインタビューで語っている。


「皆さんも、なぜ魅力を感じるのか、はっきりとは言語化できてないと思うんです。食べ物でも、なぜかクセになっちゃうみたいなものってあるじゃないですか(中略)というのも、僕が5年前にその感覚を経験しているんですよね(笑)http://a.excite.co.jp/News/reviewmov/20170327/E1490547358865.html

放送終了後、ネット上でいくつか探してみたが「大ヒットの理由」や「エヴァとの共通点」などIQの下がる批評しか見当たらなかった。その清新さや核心について書かれているものは無かった。自分で分析してみてもやはりわからない。一見すると『けものフレンズ』は、パワプロで喩えるなら「オールBでよくわからない特殊能力がたくさん付いている外野手」だ。ツッコミどころがあるようで、よくよく見ていくと隙がない。(あくまでも「一見すると」であり、構成についてはほんとに素晴らしい。監督自身は「怪我の功名」と謙遜するアライさんパートは発明と言っていいぐらいだ)

たつき監督の過去作を見ていくと、クオリティをまんべんなく上げた作品を作るというスタイルは昔から共通しているようだ。『けものフレンズ』では登場キャラクターの紹介とストーリー展開を均等に進め、両者が高いレベルで一体になることを目指したという。インタビュー記事最終話放送直前! アニメを作るのが得意なフレンズたつき監督に『けものフレンズ』の“すごーい!”ところを聞いてみた!!」(以下、「最終話直前インタビュー」)ではこう話している。

「「キャラ先論」「話先論」があると思うんです。そこをまったく同じパーセンテージか、行き来をすごく増やして、キャラ優先なのか、お話優先なのか、わからないレベルでその2つが有機接合できるといいなと考えていました」http://news.livedoor.com/lite/article_detail/12855680/

ところで、仕事でも3Dアニメを作り、休みの日も3Dアニメを作っているというたつき監督だが自主制作アニメ『眼鏡』発表後の2010年に行われたインタビューでは興味深いことを語っている。ここに一部抜粋したい。

―― アニメはお好きなんですか。

たつき 大学時代に「アニメ作りたいわー!」とか思い出したころからちょいちょい見だしたんですよね。

―― 「すごいアニメ好き」みたいな感じじゃないんですね。そもそもアニメをあんまり見てなかったのに、なぜアニメを作ろうと?

たつき アートアニメみたいなものは学校で見させられていたんですけど、もっと俗っぽいほうがいいなと思って「眼鏡」を作りましたhttp://ascii.jp/elem/000/000/532/532388/index-3.html

本人の発言を鵜呑みにするわけにもいかないが、そう質問せざるを得ないなにかを質問者も感じたのだろう。確かに『けものフレンズ』は熱心なアニオタが作ったアニメという感じはしない。1話の出会いシーンと休憩のシーンが例外に思えるほど性を表現すること行わない。その他ではペンギンの脚やカワウソのケツぐらいだ。もちろん全年齢向けというコンセプトもあるだろうし、動物と人間という認識の違いに厳密に取り組んでいることもある。だが、繰り返し見てもそこに「ほんとはエロくしたいけど抑えよう」や、「萌えを感じさせよう」などという作為が感じられない。肩の力が抜けているというか、監督の視線が別のところを見ているような奇妙な感覚があるのだ。

話題にもなったペンギンの脚については「最終話直前インタビュー」で、こだわったポイントは肉づきであり、それは未だ言語化できていないパラメーターと語っている。やはり焦点が別のところに当てられているようだ。このたつき監督独特の感覚について、チームの中では「ガラパゴス的」「ほどよく鎖国している」「天然」(「最終話直前インタビュー」)と表現されている。

たつき監督の制作に対するスタイルがかすかに見えてきたが、根本的なところ、なぜ面白いのか、なにが新しいのか、どこが違うのかが一向にわからない。繰り返し観ても「サーバルちゃんかわいい」「言われるも!」以外にこの作品を語る言葉は見つからなかった。

そんな時『シン・ゴジラ』についてのツイートたまたま視界に入ってきた。ああ、あの作品は私にとって全然ダメだったな、なぜってあれはオタクのウェーイだったから。だから受け入れられなかった……だからけものフレンズ』は良かったのか。本来なら過去や同時期に放送された作品に触れ、その違いを論じることで導き出すのが正統な論証だろう。だがここでは『シン・ゴジラ』を補助線に引くことでショトカしたい。

シン・ゴジラ』はあの庵野秀明監督による作品だ。詳細は割愛しよう。宮台真司の批判とか概ね同意だ。私がアレルギー反応のような拒否反応をおこしてしまったのは別の部分になる。同作でも、指揮命令系統のフェティッシュともいえる再現、圧縮された膨大な情報量、巨大な生物のようにフル回転する官僚機構がたっぷりと描かれる。ああ庵野秀明だ、ああガイナックスだと感じた人も多いだろう。ただ、結構な面積が焼き払われ、放射能に汚染され、東京の中心で彫像のように固まったゴジラが実写として映し出されるとシニカルな感想も浮かぶ。「想定外の天災」とはいえ主要な登場人物はなんの責任も取らないだろうな、“庵野秀明から”。

ガイナックス庵野秀明に代表される彼らが、凝縮し、エッセンスを取り出し、世に提示してきた価値観。古い世代のオタクの王道ど真ん中の価値観。そこには、新兵器があるなら使おう、ボタンがあるなら押そう、ロケットがあるなら飛ばそう、人類補完計画があるなら発動させよう……後は野となれ山となれだ、という姿勢がその根本にある。責任の取らなさ。それが露出してしまうと、フェティッシュに埋め尽くされた119分はオタクが「ウェーイ!」とはしゃいでいるようにしか見えなくなる。

新しい爆弾が作れるなら作りたい、作ったなら使ってみたい。そういう欲望はギーク価値観として近代には普遍的にあるものだろう。それは責任とセットになっていなければ極めて危うい。『ジュラシックパーク』(1作目)に出てくるでぶが度し難いように。『シン・ゴジラ』の官僚たちは誰一人弾劾されず、断罪されずスムーズに復興へ移っていくだろう。彼らの合理性なら、半減期が2週間なら翌月から暮らすことができるだろう。三権が一体化した効率の良い行政システムを築くだろう。責任を切り捨てたからこそ、フェティッシュの興奮に耽溺できたのだ。棄てられた責任野ざらしにされ担う者はいない。

2000年代2010年代アニメにおいてもガイナックス的な価値観は揺るいでいない。おそらくこんな声が聞こえるだろう。「『ハルヒ』は?『らき☆すた』は?『けいおん』は?『まどマギ』は?『化物語』は?日常系を無視するなとんでもない!“大きな物語”をまだ求めるのか?!」このあたりはもっとその分野に詳しい人の評論を待ちたいと思う。私の見立てでは、それらは(主に女性の)キャラクターについてのフェティッシュを深めたにすぎず、逸脱はしていない。フェティッシュに注力すればするほど与えられた価値観の中での反復行為となり、自らをその価値観の内部に限定させるという結果を生む。そして、目を背けた価値観のもの形骸化しながらもしっかりと保存され、視聴者を貴族的な愉しみという隘路に導く。

もし汲々とした再生産のサイクルの中にどっぷり浸かった人なら、そこから抜け出すには並々ならぬ苦闘と意志が必要だ。たつき監督にはそうした努力は必要なかっただろう。『けものフレンズ』は最初から“できている”。

これは自由の味だ。

ジャパリパークではフレンズたちは当たり前のように責任を持ち、細部へのこだわりは新しい領域に向けられているがそれ自体に耽溺していない。古い価値観を超えるものを作ろうとして頑張った結果やっとできた、ということではなく、初めからそうした問題意識のものが存在していないかのように新しい価値観を持っている。それほどあまりに自然に表現された作品として我々の前に現れた。

可能にしたのは主に3つの要素からなる。「3DCG作画」、「バランス感覚」、「アニメばかりを見ていないアニメ監督」。この3つは密接に関係している。「手書きには温もりがある」という言説は否定できないが、大勢が1枚1枚セルに色を塗るという時代ではなく、1人である程度は全部作れる3DCGという環境がたつき監督にとって不可欠なものだったことは想像難くない(実際はirodori時代から分業していたことはブログからも伺えるが、作業量や機材を比較して)。Wikipedia情報によると、彼はサンライズ作品のCGを担当することで商業的なキャリアスタートさせ、以降手がけた仕事は一貫してCG関係だ。これがもし手書きスタッフとしての参加なら、今の形の『けものフレンズ』は存在しなかったし、たつき監督もおそらく従来の価値観に染まっていただろう。

3DCG上で現在主流の2Dの表現をそのまま再現することは難しい。「不気味の谷現象」ではないが、3DCGから2Dアニメに寄せようとすれば違和感が増え、それを克服するためには新しいアプローチ必要になる。たつき監督はレイアウト(構図というよりも画角)の段階からキャラクターの正面を巧みに演出し、同時に正面ばかりで飽きさせないように一話一話を構成することでこの問題に挑んでいる。技術的な分野における刷新、さらに強く言えば断絶。これにより従来のアニメ表現から自然と距離をとることができたことは『けものフレンズ』にとって幸運なことだった。

次にバランス感覚が挙げられる。たつき監督のスタイルにも作品の全てをコントロールしたいという欲望が見える。映像作家としてこうした欲望は一般的ものだ。ただ、「監督、コンテ、演出、シリーズ構成脚本たつき」と商業アニメで網羅しているのは尋常ではない脚本についてはWikipediaの項目を参考にした)。福原Pは、その秘訣はレイアウトからビデオコンテ、セリフ、声の仮当て、声優への細かな演技指導、修正、差し替え、調整という全ての作業をやりつつも「作業のカロリー計算ができる」ことだと語っている。

「そこらへんはプレスコで作ってきた『てさぐれ!部活もの』の経験が活きていると思いますたつき君はその場のグルーヴ感で「これはやったほうがいい」と思ったら作業しちゃうんです。その後のカロリー計算も、しっかりできる人」

http://www.animatetimes.com/news/details.php?id=1488452395

「北風がバイキングを作った」ではないが、繁忙期は1ヵ月ほぼ泊まり込みだったという『てさぐれ!』における過酷な進行がたつき監督を鍛え上げたことは間違いない。余談だが、ファンによるスタッフロールの解析やたつき監督のTwitterでの発言から、『てさぐれ!』2期からirodoriメンバー関西から呼び寄せたようだ。一部で話題になった出来事もこのあたりに遠因があるのかもしれない。閑話休題

福原Pの言うカロリー計算とは、「作業量」と「かかる時間」と「納期まで時間」を正しく見積もることができるという意味だ。結果、各話を見ても全体を通して見てもまったく破綻していないばかりか、各話のバランス、全体のバランスがとても良い。ほとんどの工程にアクセスし、手を入れ、なおかつどこか一場面に片寄っていないということは特筆すべき能力だ。このバランス感覚ミクロの視点とマクロの視点、ミクロの作業とマクロの作業の両セットを備えていないと成り立たないものだろう。シナリオ含め、一貫してたつき監督の思想が反映された『けものフレンズ』。そこでは、「美少女の細部にひたすら耽溺したい」というような偏ったフレームは分解され、ごく抑制の効いたボリューム/表現としてバランスが整った形で配置されることになる。

最後は、アニメばかりを見ていないアニメ監督。これは富野由悠季が公言し宮﨑駿も暗に語る「アニオタが作るアニメはつまらない」という言葉の裏返しであるたつき監督がケニア育ちだったから、というわけではないが本人の発言ではアニメを「ちょいちょい」見るようになったのは大学で「アニメを作りたい」と思った頃からだという。この時点で「東浩紀は『セーラムーン』をリアルタイムで観ていなかったニワカ」とディスられたレベルでのガチのアニオタではないとも言えるが、ここではirodori制作の短編を元に検証してみたい。

1作目『眼鏡』にあるのはメガネ萌え主人公エヴァギミックNARUTOアクションジョジョネタ(格闘ゲーム版)、東方という、既視感のあるオタネタだ。テンポの良さやオチの付け方など評価できるポイントはあるが、お約束というメタ設定(いくら殴られても負傷しない、カエルが空を飛ぶ、怒りで異形化、いくらでも撃てる弾薬など)のあしらい方はごく普通オタク価値観を共有している人向けに作った短編という印象だ。

続く『たれまゆ』では全体的にパステルカラーキャラクターの柔らかい描写に取り組んだことが見て取れる。手描きによる2Dアニメで制作され、架空の田舎の超常的儀式を通して小さな世界が描かれる。しかし、作業コストが高かったのか、合わなかったのかこの後は2D手書き手法は行われていない。

第三弾『ケムリクサ』では再びソリッドな3DCGに戻る。NARUTO風のアクションレベルアップし、設定も作り込まれている。リナちゃんズと呼ばれる5人の可愛らしさと非ー人間ぽさには独特の魅力がある。『眼鏡』のようにネタをそのままネタとして扱うことはなくなり、説明は最低限。たつき監督の作家性の輪郭がはっきり見えだした時期だろう。30分弱の作品にかかわらず、構成やカット割りに無駄がなくかなり洗練されている。しかし、完成度の高さと裏腹に、注目を集めた『眼鏡』よりも再生数や評価は低調だった。ニコニコ動画の過去のコメントを見ると『眼鏡』の軽いパロディのノリを期待する声が多く、制作側としては不本意な結果だったのではないだろうか。ここでは、1作目でふんだんに盛り込んだパロディで注目を集め、2作目では手描きアニメに挑戦。結果、手描きからは撤退し3作目では3DCGでストイックな作品に挑戦したという流れを指摘するに留めたい。

4作目となる『らすとおんみょう』は福原Pと出会うきっかけとなった作品と言われているが、1話を作ったのみで未完となっている。女性のキャラクターの表情はまた一段レベルアップしており、3DCGの中で2Dアニメ表現に歩み寄りたいという制作者の努力が見て取れる。何がこの作品を放棄させたのかは推測でしか語れない。多忙となったためや、異国の魔女と「適当だけど超強い男子中学生っぽい陰陽師(の下請け?)」が子作りするという設定に着地が見出だせなかったのではないかと思われる。現在残された多くの断片からは具体的な落としどころは示されていない。同作はいわゆるハーレムものの構造を取っており、一方でたつき監督の描く萌えはごく控えめだからだ。

5作目となる『のための』はirodoriとして最後の自主制作作品となった駅長さんシリーズ。できあがった時期は前出の『てさぐれ!』の激動を超え、プロフェッショナルとして確立した後になる。正確には『らすとおんみょう』より前に断片的な映像が出ていたが途中に長い中断があり、実質的に『てさぐれ』後に作られたものとみなすことができる。時系列で書くと2012年に2年がかりで『ケムリクサ』が完成。2013年前半に『らすとおんみょう』(1話)。2013年後半から2015年まで『てさぐれ!』シリーズ2016年8月末に『のための』が『駅長さん フル版』(以下、『駅長さん』と便宜的に表記する)として完成した。この作品は5分という短い時間ながらプロの仕事というべきものだ。目が描かれていない駅長さんの動く姿には、これまでに向上した技術が昇華されシンプルな姿で完成している。

ここで「アニオタの作るアニメ」(以下、オタアニメ)の定義について考えてみよう。もちろん厳密な定義などできようもないが、本文章が求める要件は「特定の層だけをまなざしている作品」であり、具体的には「アニオタ視聴者を満足させることを目的とした作品」であるたつき監督は『眼鏡』では明白にオタアニメを目指し、続く『たれまゆ』では本格的に手描き2Dを試み、より迫ろうとした。ここで最初の転機が訪れる。手描きという手法があまりにハイカロリーだったからか、ここでこの方向は放棄された。なろうと思っていたがなれなかったのだ。以降、アニオタ視聴者をメインの観客に据えることはなくなり、アニメばかりを見ていないアニメ監督として本来の姿、幅広い層へアプローチする道を歩むことになる。

ケムリクサ』の段階で3DCGによる手法に迷いはなくなり、削られたカットからも抑制の効いた演出を志向していることが見て取れる。この作品から作風が変わったようにみえるのはテーマシリアスからだ、という批判も予測されるが「ストーリーシリアスになる=オタクに媚びていない」という短絡は採用しない。実際、表向きはオタク向けの作品ではないと装いながら水面下で「今回はこういう感じで行くのでひとつよろしく、へへへ」と、メタ構造(オタアニメにおけるお約束の構造)やメタ構造を逆手に取った仕掛けを差し出すという交渉を行う作品は実に多い。同時に「まったくオタクに媚びてませんよ」という宣言は、冒頭に挙げた父親の比喩と等しく、オタアニメの枠組みから実は一歩も踏み出していない。『ケムリクサ』では前2作であえて“なろう”とした努力が消えている。木の枝が河に落ちるように自然に、観客と交わす密約もなく、反発もなく、媚びていない。ピンポイントに評価される層よりも広い範囲をまなざしている。『眼鏡』よりクオリティは高いにも関わらず受け入れられなかったことは間接的な傍証になるだろう。

『らすとおんみょう』ではその揺り戻しといえる現象が起こっている。ギャグテーマTwitterで発言しているが、いかにもオタアニメという構造(そのままアフタヌーンあたりで掲載されても不思議はない)にチャレンジするも1話を完成させた後に頓挫。理由は色々考えられるが、これまで見てきた通りハーレムものの企画自体がたつき監督に合わなかったと考えるのが妥当だろう。この時期が2度目の転機になる。ある程度スタイルが固まったのだ。それは『ケムリクサ』で表現されたスタイルの延長にありジャパリパークへ続く道だ。キャラクターに瞳を描くことさえ取り止めた『駅長さん』は『らすとおんみょう』の続きは作らないという静かな意思表明とも受け取ることができる。


再び繰り返しておきたいのは「3DCG作画」、「バランス感覚」、「アニメばかりを見ていないアニメ監督」この3つはどれかひとつが先立つものではなく、お互いに深く関連しており不可分なものだ。『けものフレンズ』ではこの全ての要素が花開いている。この作品に超絶的な技巧が込められた作画や、ぴちぴちとした美少女あるいは美男子を求めることはできない。あるのはサバンナに向けて開かれたような、開け放たれた窓だ。振り返ると、室内にはエヴァ以降20年にわたる作品がある。時代を代表する色褪せない傑作もあるだろう。でも、もう昔の作品だ。新鮮な空気を胸いっぱいに吸い込み、清々しい朝日に貫かれた後では、戸惑いつつも思い知らされるのだ。どれだけ偏狭な価値観に縛られていたか。こんなにもこだわっていたものは汲々としていたか。自由とはこういうことだったのかと。

自由の味。開放されるということは、決定的に変わってしまうということでもある。一度開放されたことを理解してしまうと、重さの無いなにかが失われてしまい、二度と戻ってはこない。それを無視して、例えば「エヴァけもフレ」というように馴染みのある文脈に引きずりこみ安心することもできる。「ローエンドなCGでもいいものは作れるんですよ」と心の平穏を装うこともできる。でも、そういうことはもうやめにしよう。『けものフレンズ』はこの20年間潜在的に待ち望まれていたアニメばかりを見ていない監督によって作られたアニメなのだ。その面白さの本質は、ガイナックス的なアニメ価値観とは別の場所に立っていることによるのだ。私はたつき監督の成果に最大限の賛辞を贈りたい。素晴らしい作品をありがとう

ただ、アニメを見る目がこれまでとは違ったものになったことは少し寂しく感じてしまう。世に次々と出てくる新しい作品がどれだけ面白くても、それらが“過去の遺跡の新作”ならばそれだけで手放しで楽しめなくなったからだ。つまり、ちょっとした困難をかかえこんでしまったことになる。でもそんな心配はあまり気にする必要はないのかもしれない。なぜなら、すでに誰かが言っていたようなのだ。困難は群れで分け合えと。

2017-06-13

2010年代に消えた職業

「将来消える職業」はよく話題になるけど

現在消えた(9割型消滅した)職業ってなんだろうと考えてみた

ケータイサイトゲーム作成者

アナロググラフィックデザイナー

電車バス車掌

床屋

・自営の文房具

・自営のメガネ

フィルム現像

ペリカン便

サンクスサークルK

2017-06-02

日本社会を一発で改善する有効

痴漢を一発でなくす方法

世界で最も痴漢問題が激しく、陰湿化する国は日本なのである。おなじ満員電車の国のアメリカ韓国中国には痴漢はない。なぜ先進国で唯一日本だけこの問題があるかと言うと、それはおそらく「責任主体明確化することを渋る」からではないか痴漢戦犯第一加害者だが、加害男は、ただ好き勝手やってれば自分処分されることをわかっているため、他人責任を負わせるのである鉄道趣味などを煽り傍観者共犯者じわじわと作る。そうすることで、自分ひとりが糾弾されたりすることから逃れられるのだ。もし仮に利用者のうち80%くらいが加害者傍観者含む)となれば、その常態企業は「問題がある」と認めることはできない。なぜなら利用者加害者家族含む)から「うちの人生がどうなってもいいのか!」と糾弾さらされることになるからで、行政からも圧がかかる。

もし仮に、その鉄道都市のすべての鉄道路線のうちにたった1路線がそういった常態だったとしても、それでも1路線危険地帯一色に染まるともなれば由々しき事態なので、当然新聞沙汰になるし、運営も、場合によっては行政の面々なども処分をされかねなくなる。かくして隠ぺいや黙殺が起きるのだ。隠ぺいや黙殺すればするほど痴漢じわじわ鉄道路線全体に広まる。そしてそれがどの鉄道でも当たり前になり、どの交通機関でも当たり前に、どの都市も平均的な風景になったのが今の日本だ。東ドイツと同じなのである宗主国の顔色を窺った東ドイツ政府が、無責任国民ハラスメントするような構造と一緒だ。

痴漢問題は、加害者が少人数(できれば一人)の時点で発見し、その利用者定期券没収などの制裁を科すことができればいい。もしそれが食い止められずに全体に広まれば、運営の首を飛ばす仕組みを作れば、運営会社もっと積極的にマトモにこの手の問題と向き合うようになる。なぜこれができないのか。本当に日本公共交通ダメだ。

裏社会過激派左翼をなくす方法

韓国中国過激派左翼暴力団がない理由を考えたのだが、おそらく「公的勢力権限」が徹底されているからだと思う。2000年代以降の韓国中国風景は、さまざまな公共団体への相談窓口が用意されており、裏社会につながる利権パイプが発生しないようになっている。これは最近欧米でも普通のものだ。ようするに公共サービスが徹底していて、社会の裏側に必然的に手出ししないように済むわけで、住民安心して問題点解決できる。サービス効率や質もよい。日本場合公的機関権限がいい加減だから下の人間(昔は裏社会で今は過激派左翼)が利権を作る原因になるんじゃないか

これは社会イメージアップもつながり、問題などを一番小さな次元で食い止めることができる。日本のような公的機関蔑視される環境だと、公共責任あいまいになり、過激派利権問題JKビジネスのようにとりかえしのつかない規模になってしまう。いま、世界に名だたるオタクの街が潰れかかっているのはまさにそれが原因ではないか。よくいえば都市国家イメージアップになり、人民利益モチベーションのアップにつながる。これは本当に良いと思うので、日本採用してほしい。欧米だけではなくアジアでこういうシステムをやらないのは日本だけだよ。

日本人民度ダメになる理由もこれ

日本民度がいまダメになっている理由もこれで説明がつく。なぜ1940年代日本や今で言えば韓国の過ちと同じことを繰り返そうとしているのかというと「忖度」してしまうから。これはネトウヨ高齢者も考えるべきことだ。君たちの大嫌いな「だらしない日本人の態度」の原因は、特定人間責任にできないことにある。

アメリカ人であれ中国人であれ、世界のどの超人職人個人単位での評価が当たり前である

韓国超人紹介を見ると、必ず名前の紹介がある。日本みたいに民族のもの評価になることはない。これは米国でも欧州でも当たり前だ。

日本でこのような考え方が徹底されるようになったのは2010年代以降である。それまで、あたか日本社会自体がすごいという拡張表現することしかないし、インタビューさえ氏名不在の場合が多い。誰が取材したのか、誰が伝えているのかがさっぱりわからない報道が目立つ。

結果的に、無関係のない人達が矢面に立たされてしまい、特定世代がひっくるめて糾弾されることになるのではないか。あれだって世代における共通点があったとしても、悪いのは顔の見えない、名前も出て来ない者である

2017-05-24

なぜオタク褐色肌に金髪銀髪白髪を合わせたがるのか問題

褐色と明るい髪色の組み合わせは、

現実にはあまりないにもかかわらず、

キャラでも女キャラでも人気が高いと思う。

俺も好きだ。

一方で、日本漫画には黒人キャラが少ないと言われている。

萌え業界において黒人美少女の描き方はまだ確立されておらず、

来る国際化においてその確立は最優先事項と言って過言でない。

では褐色肌のキャラ黒人と言っていいのだろうか?

髪を明るい色にすることで黒人美少女も成立するのだろうか?

そう考えていくと「なぜ褐色肌に金髪銀髪白髪を合わせたがるのか問題」は

「どうすれば黒人キャラが増えるのか問題」とつながっていると分かるだろう。

曖昧なまま放置されてきたこの問題を考えることこそ2010年代オタクに与えられた課題と言えよう。

2017-05-22

鉄道趣味界隈の番長化?

http://anond.hatelabo.jp/20170528064815


2010年代を生きる人間にもなって、20世紀ヤンキーがやった事を真似る?

お兄さんお姉さん、少年院とか人生の転落じゃ済まないって事を分かってるのかなぁ?

仮に時間が無くても、金と【自由】は未だ持っている筈。

非難糾弾され、孤立精神的に貧しくなる事の不自由さ。

1回目(仏ならば3回目)なら見逃してもらえるだろうけれど、それにしてもみっともない大人

なんだかねぇ…大人としての価値現代人の価値を既に放棄してる。

 

お兄さんお姉さん、しっかりしろよ。

少なくとも、80才までは生きなきゃならないのだから。でしょ?

先人のガキがやった事を真似るだけ?

そんなの誰も笑っちゃくれない。

試しに不良に絡まれてみたら分かるでしょ、

他人の痛みが。

情けない野朗だわ。

アーカイブ ヘルプ
ログイン ユーザー登録
ようこそ ゲスト さん