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はてなキーワード: 移住とは

2017-06-23

https://anond.hatelabo.jp/20170623002448

移民を入れて日本語日本の文化が残ると本気で思っているのか

そもそも移民移住先の国にはなじまない

彼らは移住先に故郷再現しようとし、これに例外はない

また、日本の文化を残してくれることもない

仮に移民日本の文化継承したとしても、それは必ず別物に変化する

カリフォルニアロール寿司と言えるかどうか?俺は言いたくない

https://anond.hatelabo.jp/20170622232950

結構叩かれてるからもういいっちゃいいんだけど、入院とかなんなんだろう。反省する振りだけしておいて、まだ姑息なことをしようっていうんだろうか。

開き直って「秘書がどうしようもなく愚かだったんです」って言ったほうがなんぼかマシ。

国会議員でありながら、暴露されたら恥ずかしくて自分ダメージを負うようなことを臆面もなくやり、バレたら逃げまくる。

秘書の娘の殺害予告でもしているんじゃないかと思うほどの卑劣発言をしたのは、キチガイ議員の息子娘に跳ね返ってくるんだろうな。

あのキチガイ遺伝子を受け継いでいるとか、いじめられたり、結婚もできないかもよ。だってさら遺伝しちゃったら嫌すぎるでしょ。

かわいそうだから海外とかに移住させちゃいなさいな。

あ、結構叩かれてるからもういいって言いながら、叩いちゃったよ。ごめんごめん。

2017-06-22

https://anond.hatelabo.jp/20170622142345

日本でも頑張ればプログラマで1000万行くのかな。

移住してアメリカ仕事出来るスキル……。

いから無理だわ…!

2017-06-20

父に困ってる

70前の父です。

今までもずっとそうだったんだけど、周りの人の話を全く聞いてくれない。

注意しても無視か、逆ギレする。

自営業なんだけど、商品改善点とかアドバイスとかまったく聞き入れてくれない。

これはうちの商品が売れなくなるだけなので、まぁいいよ…。

問題は車の運転

から車の運転が荒い。上手いから今まで事故はおこしたことないけど、昨今の老人の運転事故を見てると他人事に思えない。

何度注意しても聞かない。他の人が運転するから変われといっても絶対に聞かない。本当に絶対に人の言うことを聞かない。

母はもう父の頑なさに参って父とまともに会話できなくなってしまっている(離婚すれば?って言ってるけど聞かないんだよね…)。

私と両親の家は1000キロ以上離れてる。私も両親も最低でもあと7年は移住できない。

両親の住んでいる地域交通手段が少なく、車を使わない生活は老人には厳しいということは認める。

から車を捨てろとは言えない。自分の腕を過信せず、もうちょっとスピードを落として運転してほしい。

とりあえずお金をためて自動ブレーキ搭載車を送りつけようとは思ってる。

2017-06-19

アメリカ結婚して移住した女性の特徴

アメリカ12年ほど住んできて多くのアメリカ在住日本人と触れていくうちに、アメリカ移住した女性結構似通っていると気づいた。とりあえず箇条書き。

・大抵はアメリカに憧れて留学しそのままアメリカ人結婚した女性が多い

旦那アジア系アメリカ人が7割ほど

専業主婦が多い

英語ほとんど喋れないことが多い

アメリカ人友達は少ない。現地の同じような状況の日本人友達になるケースが多い

SNSなどはほとんど日本語圏。

お茶、花などにハマってることが多い

大体こんな感じか。

2017-06-16

https://anond.hatelabo.jp/20170615214500

どこで知り合った相互フォロワーなのかによると思う。自分が交友関係の続いている大学時代の友人はオタクだらけだけど、法律系の学部だったせいか(かなり政治系の講義もやる)ネット右翼ほとんどいない。逆に、今は疎遠になった中~高時代の友人にはその毛のある人がちらほらいる。

自分年代(30前後)では2chから輸出される極右系のスレッドを、コピペブログニコニコ動画を介して目にしてきた人がものすごく多い。残念だけどこれはもう一種エンターテイメント化しているので、もし仮にあなたが今のフォロワーを切って同年代や別のクラスタ移住しても、必ずそれなりの割合に遭遇することになる。自分場合は「ちらほら」なのでスルーで事足りているけど、どうしても辛ければSNSではない、ある程度の秩序がある同好のコミュニティを探したほうがいいと思う。

2017-06-09

富裕層死ね

富裕層けが移住できる惑星を作って、その惑星隕石追突させて、富裕層人間を皆殺しにしよう

人って1000年後もいるか

どんどん発達して成長するかな。

N5Sでドローン禍したりしないよね。


まじめな話、西暦3000年の未来想像出来ない。

今さ、地球問題だらけじゃん。

これを上手に処理して明るい未来へと向かってほしい。

政治的駆け引きから開放される世界になってほしい。

色々な星へ移住出来たらいいのにな。


隕石以外で滅ぶ……なんてことないよね。

2017-06-03

これから痴漢冤罪メチャクチャ増えるよ

中国人が目をつけたってことは

すぐに組織化されてビジネスとして行われるようになる

今回は目撃者がいたけど、

目撃者も仲間から出すようになって

善意目撃者暴力で黙らせるようになる

元々中国人って暴力的だし

日本人弱腰男がなんか言いかえしたとしても

殴る蹴るされたらビビって何も言えなくなるだろ

これから日本人男はランダム痴漢として殴られて

示談金を吸い上げられるだけの存在となる

そしてそのガチャ確率は日ごとに上がっていくのだ

からいまこそ高知移住しよう

イケハヤは正しかったんだ

みんなイケハヤ信じろ

2017-05-31

Qiitaが取るべき道

2chで好き勝手やるネラーを長く見ていて思うんだが

理想的指向性を持った場を作るためには、それ以外の人が居心地のいい場を新たに作ったほうがうまくいくと思う

「ここでは◯◯しないでください」ではなく「◯◯専用の場を用意しました」とすればよい

ただ後者をやっても、人はより多くの人が居る方でやりたがる

したがって、移住作業は本気で取り組まなければならない

 

QiitaQiita◯◯のように、少しずつ指向性の異なる場を用意するとよいよおもう

Qiitaプログラミング(今のQiita

Qiita研究

QiitaIT

Qiitaなんでも

 

こうすることで、ユーザーが興味のあるジャンルが適切に見つかる

正直、ネットITエンジニアの興味は、プログラミング以外のエンジニアリング研究領域に偏ってるフシがあるから

今のまま続けるほど、プログラミングの共有は隠れてしまうと思う

 

QiitaTeamもやってるわけだし、これはそこまで難しいことではないと思う

2017-05-29

anond:20170529134208

もちろんまっとうな尊重の上での引用文脈に沿った引用ならよい。判決でも3要件はこれを暗にさしている。

しかしこの論文のケースでは

・著者への尊重はない(そもそも目的使用許可も取ったことはない)

AIに判定させるデータに使うのはそれは鑑賞なり解釈しようとした上の「引用」どころか加工、「改変」なのでは。

 

どこかでみかけたたとえだが、「幼稚園児の書いた母の日の絵を、(勝手に持ってきて)保護者肥満認定に使う」くらい本来の鑑賞目的からはなれている。

いうまでもないが、母の日の絵は母親を喜ばせようと幼稚園児が必死に書いたものなのだから、当の母親目線でのみ読み取るべきであって、他のいかなる立場の人が感想を述べようと鑑賞目的からはずれる可能性が高い。

かろうじて(たとえば小児科医や育児書の編集者が本に沿える目的で)引用してよいとしても、まず母(子供保護者から使用目的を精査し許可をとらなければならないのは常識だろう。勝手に見も知らない子の書いた絵について「この絵は〇〇障害兆候」とかレッテル貼りをしてしま目的なら合法引用といいはるのは無理だ。著作権よりプライバシー権が上回る。

というわけで学術目的にも使えるはずの32条ってそんなに万能で便利な条文ではないことがちょっと考えればわかる。

から今回のピクシブからサンプルをかっぱらってくるやり方についてはまっとうな学者からも「何してくれた」と異論が多数出ている。

 

 

これも蛇足中の蛇足だが、二次創作での批判がまったく受け入れられないわけではないが批判への対応メジャータイプ

「私にとっての神作品文句つけるなんて神の二時創作意欲がなくなったらどうしてくれる。

私の生きる気力に直結してるんで帰れ。

帰らないならこっちが神の移住についていく。

どうしてもっていうなら自分もっと萌えるやつ書いて同プラットフォーム投稿して神を超える閲覧・いいねを稼げてから出直せバカ」。

これをみても、公表傾向より囲い込み傾向が強いため、二次創作ファン同士のコミュニケーションなのだとわかる。

anond:20170529121436

なら一橋の人は、死ぬべくして自殺したと思ってるわけ? 

 

二次創作の多くが本ではなく、SNSソーシャルネットワーキングサービス)で、わざわざタグ付けだの棲み分けだのをうるさく自主規制しているのは「そのソシエティ」にいる「同好の士」だけにあてたラブレターという使い方だから。だれもベストセラーになりたい金儲けがしたいとおもって二次創作なんかしてないんだよ。同好の士が増えてくれたらいいとはおもってるけど。

そういう使い方を黙認してただけのピクシブから一ツ橋大学と同様にうちには責任ありません、原告にもなりませんというのが一番簡単対処法ではあるね。

被害者泣き寝入り。ただし、引用ネタハンティングの場になったらマストドンに大量移住するだけ。

大体法的にはそういう流れとされてるんだろうけど。

 

法律には金目当て・名声目当てとコミュニケーション目当ての区別がつかないか

いちいち著作権が読めないやつにこうやって説得してまわらなければならない。

出版社やぴくしぶは著作権者でさえないんだぞ。

文章を書いている人間その人が著者なんだ。

でも著者は今回みたいな、心をもった、か弱い存在から

出版社ピクシブ司法渡り合う力を持っていなければならない。

ピクシブがんばれ。法律誤読した引用万能論者なんぞにまけるな。

さもなくば1編ずつ自分作品人質として提出しなければいけないマストドンとか非常に面倒な秘密結社をつくらなければ「非公表」コミュニケーションが成り立たなくなる。

なんだこりゃ。禁酒法か。

信者と受信者の聖域がまたこうやって踏みにじられる。著作権法32条っていったいなんなんだ??

http://anond.hatelabo.jp/20170529004230

戦争とか天変地異とか、社会的強者よりも弱者へと過大な負担が降りかかる。戦争天変地異も嫌だ。地球が滅亡するとなったら、金持ちは他の惑星へと移住するだろう。

2017-05-28

もう正規雇用に憧れるのやめたほうがいい

経産省が発表したペーパー「不安個人、立ちすくむ国家モデル無き時代をどう前向きに生き抜くか〜」( http://www.meti.go.jp/committee/summary/eic0009/pdf/020_02_00.pdf )において

A.産業構造の変化に抵抗し、誰もが自由で安定した生活を得られる製造業中心の社会を維持する(従来の左派

B.産業構造の変化を不可避なものとして受け入れつつ、商品化された生活オルタナティブを目指す

「Aというのはもう現実的には無理で、Bとして社会を再構築するしか無い」という視点提示されて、それに対して「まあそうやね」「やっとその視点一般化したか」というようなコメントが多くつけられた。たぶんこの「Aはもう無理でBにいくしかない」ってことそのものは、大きな合意が得られたのだろうと思う……んだが、じゃあ「Aは無理ってどういうことか?」ってのが、実はちっともイメージされてないのだと感じる。

解雇規制緩和は正しいのか

http://anond.hatelabo.jp/20170527133211

「Aは無理」ってのはどういうことかというと、端的に言えば「正社員制度もう無理」って話だ。正社員制度ってのはいろんな側面があるんだけど、すくなくとも能力とは無関係昇給制度とか終身雇用とかはもう無理。諦めて別の道探そうね、ということだ。にも関わらず、正社員になりたいってのは時代に逆行している。

時代からして、もう、労働者は全員経営者になるしか無いのだ。この経営者っていうのは、よくブラック企業が言うような「経営者視点を持て(そして経営者の苦悩を理解して唯々諾々と従え)」という意味のそれではなくて、労働者全員が「自らの労働時間)」という自分自身商品を手にもって、それを企業に売るなり自分運用するなり、とにかく、自分自身の主として主体的労働市場と関わっていかなければならないという意味だ。

何だそれ当たり前だろ。いままででもそうだっただろ? と言える人は幸いで、その種の人はもうすでにそのルールゲーム移住しているのでショックは少ない。しかし、そうではないルールで生きてきたひともいる。そういう人も新しいルールに移行すべきだ。そのために解雇規制緩和が必要なのだ

考えてみると、派遣社員というシステムは「Aはもう無理でBにいくしかない」という過渡期である現在に生まれた、おそらく一時的システムだ。

派遣社員というシステムは「主体的に動きたくはないが職を求めたい個人」と「解雇規制にはばまれ正規雇用を増やしたくない企業」の合作として現在活躍している。

Bの社会において、離職して職を求める個人がすべきなのは自分スキル時間を新しい企業に売り込むことであって(そして契約を結び一定期間、あるいはプロジェクト単位仕事をすることであって)、「通うべき職場を指示してくれるご主人様を探す」ことではない。

Bの社会において、スキルをもった労働者雇用したい企業がすべきなのは、適正な人材を見極めて(もしその能力に欠けるならエージェント雇用してでも見極めて)適切な契約を結び労働してもらうことであって、「あたりが出るまで派遣ガチャ人材をとっかえひっかえする」ことではない。

もちろんこの話と、福祉別にあってそれはそれで必要だ。この話は自己責任の話とかマッチョの話ではなくて、どちらかというと「誰もあなた人生あなたの代わりに生きることはできない」という話に近い。日本終身雇用は、長い間、人生の丸投げに近かった。その黄昏が来ただけの話だと思う。

2017-05-25

移住するような奴は移住するような奴なのだから地元民と同じ待遇は望むべくもないな。

差別的扱いはともかく、その土地に身をうずめる蓋然性の薄い移住者には一線引かれた扱いにならざるをえない。

お客様として扱われる分にはいい気分になれるかもしれないが。

2017-05-23

ツイッターを退会した

毎日ダラダラと空き時間、なんなら仕事中にもツイッターウォッチをしていた。

しかし身になる事など何一つ無くただただ時間を消費してるだけだと感じ退会に至った。

マストドン移住します!

2017-05-22

ミアキス進化から考える発達障害問題

ネコイヌって共通先祖を持ってるんです。知ってましたか

その名もミアキス。姿はイヌっぽいネコ。何とも奇妙な印象です。地上に天敵がいたため樹上で生活するミアキスが「普通」でした。

そのミアキス平原移住し、体や心が普通ミアキスから変異して平原環境適応したのが【イヌ】なんです。

一方樹上生活を続け、樹上の環境により適応したのは【ネコ】なんです。

さて、ここで問題です。

この「普通」でなくなってしまったミアキスは「障害者」なのでしょうか?

大きな環境変化にそれぞれ適応しただけのネコイヌしか元祖ミアキス基準とするとイヌは異常といえるかもしれません。

パソコンゲーム携帯電話など「著しく急速」なデジタル化による生育環境の変化、ネットへの適応はヒトのコミュニケーション能力犠牲新しい時代におけるヒトの進化の傾向(多様性型)を示しているという視点はどれだけ正当性があると考えられますか?

イヌ的なミアキスネコ的なミアキス分岐が始まった時代元祖ミアキスは樹上生活適応せず木を降りてしまった少数派を障害のある異常者と認識排除しようと行動したでしょうか?おそらくそれぞれの居場所移住することで「住み分け共存」していったはずです。

一方ヒトはイヌミアキスネコミアキスを樹上か平原かどちらかで生活強要するように、同じ環境に異なる発達をした多様性型のヒトを押し込み生活困難な方を障害者と括っているのではないでしょうか。

イヌミアキスに薬を投与して心体が適応した平原を忘れさせ樹上生活への恐怖を軽減させたら、果たしてイヌ型はネコ型と対等に競争共存することができるのでしょうか?

生態学から発達心理学への提議です。現在人口の1/15に達していると言われる発達障害者日本10,000,000人という計算です。これだけの比率ならば冗談でなく進化過程とも受け取ることができるのかもしれません。関係メディアネット住民の皆様にもお願いです。どうか慎重に報道下さい。

■今読んでおきたい最新研究の動向について

自閉症者が人類社会に「不可欠」である理由 〜実は障害ではない!(正高 信男) | 現代ビジネス | 講談社(1/3)

http://gendai.ismedia.jp/articles/-/51688

2017-05-21

http://anond.hatelabo.jp/20170521170805

だーかーらー

東京みたいに競争率が高いとこじゃなくて、田舎ならまだ高卒でも十分働き口もあるし、何より男ってだけで高下駄履かせてもらえるから大丈夫だって

みんなで九州移住しよう!男尊女卑帝国をつくるんだ!

東京ですらまともなとこに就職できないやつが地方移住してまともな職につけるわけないのに

こいつらなにいってんだとしか思わんわ

http://anond.hatelabo.jp/20170521163947

女尊男卑ガーって言ってる連中はそうして地方移住すればいいのに、なんでわざわざ自分が不利になる環境いつまでも身を置きたがるんだろうな

地方も人が潤って万事解決ではないか

2017-05-19

三一権実諍論(さんいちごんじつ の そうろん)は、平安時代初期の弘仁年(817年)前後から同12年(821年)頃にかけて行われた、法相宗僧侶・徳一(生没年不明)と日本天台宗の祖・最澄767年 - 822年)との間で行われた仏教宗論である。「一三権実論争」「三乗一乗権実諍論」「法華権実論争」などとも。

目次 [非表示]

1 概要

2 平安初期の仏教

2.1 法相宗と徳一

2.2 天台宗最澄

3 論争の経緯

3.1 論争の発端について

3.2 著作応酬

4 最澄激昂の理由

4.1 最澄孤立

4.2 南都教団への対抗

4.3 中傷者徳一に対する怒り

4.4 蝦夷征討との関係

5 その後

6 注・出典

7 関連項目

8 参考文献

概要[ソース編集]

「三一権実諍論」の「三一」とは、三乗一乗の教えのことであり、「権実」の諍論とは、どちらが「権」(方便真実理解させるための手がかりとなる仮の考え)で、どちらが「実」(真実の考え)であるかを争ったことを言う。一乗三乗の「乗」とは衆生を乗せて仏の悟りに導く乗り物であり、天台宗根本経典である法華経』では、一切衆生の悉皆成仏(どのような人も最終的には仏果(悟り)を得られる)を説く一乗説に立ち、それまでの経典にあった三乗一乗を導くための方便と称した。それに対し法相宗では、小乗声聞乗・縁覚乗)・大乗菩薩乗)の区別を重んじ、それぞれ悟りの境地が違うとする三乗説を説く。徳一は法相宗の五性すなわち声聞定性・縁覚定性・菩薩定性・不定性・無性の各別論と結びつけ、『法華経』にただ一乗のみありと説くのは、成仏の可能性のある不定性の二乗を導入するための方便であるとし、定性の二乗仏性の無い無性の衆生は、仏果を悟ることは絶対出来ないのであり、三乗の考えこ真実であると主張した。このように三乗一乗のいずれが真かをめぐり真っ向から対立する意見の衝突が行われた。

ただし、徳一と最澄の論争は三乗一乗の争いのみに留まらず、教判論(数ある経典の中で釈尊の考え方に最も近いものを問う)における法華経正統性を問うたものでもあるから「法華権実論争」と呼ぶべきとの考えもある[1]。この論争の間、最澄は『守護国界章』『法華秀句』など大部の著作執筆しており、これは徳一から批判への反論の書として書かれたものである。一方の徳一側の著書は、真言宗空海774年 - 835年)への論難である真言宗未決文』以外現存していないため、詳細は不明である。しかし、徳一の主張は最澄側の批判書に引用される形で部分的に残存しており、ある程度の復元が可能である

いずれにしろ論争は著作応酬という形式で行われ、実際に両者が顔を合わせて激論を交わしたということではない。

平安初期の仏教界[ソース編集]

奈良時代興隆したのは、法相宗華厳宗律宗などの南都六宗である本来南都六宗教学を論ずる宗派で、飛鳥時代後期から奈良時代にかけて日本に伝えられていたが、これらは中国では天台宗より新しく成立した宗派であった。天台宗は後述の如く最澄によって平安時代初期に伝えられたため、日本への伝来順は逆となったわけである

この時代日本における仏教は中国と同様、鎮護国家思想の下、国家の管理下で統制されており、年ごとに一定数の得度を許可する年分度者の制度施行され、原則として私度僧は認められていなかった。このことは逆に仏僧と国家権力が容易に結びつく原因ともなる。実際、奈良時代には玄昉(? - 746年)や道鏡(700年 - 772年)など、天皇の側近として政治分野に介入する僧侶も現れていた。桓武天皇737年 - 806年)が平城京から長岡京平安京遷都した背景には、政治への介入著しい南都仏教寺院の影響を避ける目的もあったとされる。新王朝の建設意識していた桓武天皇にとって、新たな鎮護国家宗教として最澄天台宗に注目・支援することで従前の南都仏教牽制する意図もあった。

法相宗と徳一[ソース編集]

日本での法相宗は、南都六宗の一つとして、入唐求法僧により数次にわたって伝えられている。白雉4年(653年)道昭(629年 - 700年)が入唐留学して玄奘三蔵(602年 - 664年)に師事し、帰国飛鳥法興寺でこれを広めた。

徳一は一説には藤原仲麻呂恵美押勝とも。706年 - 764年の子といわれるが疑わしい[2]。はじめ興福寺および東大寺で修円に学び、20歳代の頃に東国へ下った。東国布教に努め、筑波山中禅寺(茨城県つくば市)・会津恵日寺(福島県耶麻郡磐梯町)などを創建したという。

前述のごとく、徳一の著作ほとんど現存していないため、その生涯は不明な点が多い。

天台宗最澄[ソース編集]

天台宗は法華円宗、天台法華宗などとも呼ばれ、隋の智顗(538年 - 597年)を開祖とする大乗仏教の宗派である。智顗は『法華玄義』『法華文句』『摩訶止観』の天台三大部を著して、『法華経』を根本経典とし、五時八教(仏教理解度の5段階に合わせて記された経典のうち、法華経を到達点とする)の教相判釈(経典成立論)を説く。

最澄ははじめ東大寺で具足戒を受けたが、比叡山に籠もり、12年間山林修業を行った。さらにそれまで日本に招来された大量の仏典を書写し研究する中で、南都六宗の背景にある天台教義の真髄を学ぶ必要を感じ始め、親交のあった和気氏を通じて桓武天皇天台宗学習ならびに経典の招来のための唐へ留学僧の派遣を願い出た。これを受け、桓武天皇最澄本人が還学僧(短期留学の僧)として渡唐するように命じた。こうして延暦24年805年)の遣唐使船で最澄は入唐を果たす。予定通り天台山にのぼり、台州龍興寺において道邃(天台宗第七祖。生没年不明)より天台教学を学び、円教(天台宗)の菩薩戒を受けて、翌年(806年帰国した。

帰国後、最澄桓武天皇に対し従来の六宗に加え、新たに法華宗を独立した宗派として公認されるよう奏請、天皇没後には年分度者の新しい割当を申請し、南都六宗と並んで天台宗の2名(遮那業・止観業各1名)を加えることを要請した。これらが朝廷に認められ、天台宗正式に宗派として確立。これが日本における天台宗のはじまりである最澄さらに同じく入唐した空海師事して、密教への理解を深める一方、六所宝塔院(比叡山寺(後の延暦寺)を中心とする)の造立計画を立て、弘仁5年(814年)には九州へ、同8年には東国へ赴くなど精力的に活動する。最澄の悲願は大乗戒壇設立であり、大乗戒を授けた者を天台宗菩薩僧と認め、12年間比叡山に籠って修行させるという構想によって、律宗鑑真(688年 - 763年)がもたらした小乗戒の戒壇院を独占する南都仏教既得権益との対立を深めていた。

論争の経緯[ソース編集]

論争の発端について[ソース編集]

論争の発端となったのは徳一が著した『仏性抄』であるとされる[3]。この書における一乗批判法華経批判に対して最澄が著したのが『照権実鏡』であり、ここから両者の論争が始まった。

ただし、そもそも徳一が『仏性抄』で論難したのは中央仏教界の最澄ではなく、東国活動していた道忠(生没年不明)とその教団であったとする説がある[4]。道忠は最澄が入唐前の延暦16年以降、あらゆる経典の写経を行った際、東国からはるばる駆けつけて2000巻もの助写をしたほど親交があり、東国における最澄の盟友的存在であった。道忠自身鑑真弟子で、律宗僧侶であったが、戒壇が設けられた下野薬師寺との関連か[5]東国に住し、広く弟子を持つ僧侶であった。最澄東国へ下った際には、すでに道忠は没した後で教団は広智(生没年不明)が率いる状態であったが、後に天台座主となった円澄(771年 - 836年)や円仁794年 - 864年)・安慧(794年 - 868年)らは、もともと道忠の弟子もしくは孫弟子(広智の弟子)であり、道忠との縁から最澄に入門したなど、道忠は初期の天台教団の中で、非常に重要役割果たしていた存在であった[6]。

筑波山を開山し、会津拠点とした徳一が標的としたのは、むしろ地理的東国において布教を行っていた道忠教団であった可能性が高い。徳一の『仏性抄』の存在最澄に知らせたのも道忠教団であったと見られる[7]が、異論もある[8]。

著作応酬[ソース編集]

三一権実諍論に関する著作としては、

≪徳一側著作

『法華肝心』2巻

『法華権文』1巻

『中辺義鏡』20巻

『慧日羽足』3巻

『遮異見章』3巻

『義鏡要略』7巻?

法相了義灯』11巻

『通破四教章』1巻

最澄著作

『照権実鏡』1巻

『依憑天台集』1巻

守護国界章』9巻

『決権実論』1巻

『通六九証破比量文』1巻

『法華秀句』5巻

などが挙げられる[9]。論争の主要な流れとしては、

徳一の『仏性抄』(成立年不詳)に対し、最澄が『照権実鏡』(弘仁8年(817年)成立)で反論

徳一の『中辺義鏡』『慧日羽足』に対し、最澄が『守護国界章』(弘仁9年(818年)成立)で反論

最終的な結論として、最澄が『法華秀句』(弘仁12年(821年)成立)を著す。

となっている。なお諍論の前期において、最澄が『照権実鏡』で徳一の『仏性抄』を批判したのに対し、徳一の『中辺義鏡』では最澄反論に全く答えていない。そのため『中辺義鏡』の批判対象としては、書名のみ残っている最澄の著書『一乗義集』ではないかとする説[10]、もしくは道忠教団によって書かれたと思われる『天台法華義』とでも称すべき書であったとする説がある[11]。続いて『守護国界章』下巻における三一権実論に対する徳一の反論として『遮異見章』『慧日羽足』が書かれたと思われ、それに対して最澄が『決権実論』で反論結論の書として『法華秀句』を撰述したと見られる[12]。

一連の論争の内容は難解で、一乗三乗の権実のみならず、教判論における法華経天台三大部の正当性、天竺・震旦の先哲による教義解釈の是非など広範囲に及ぶ。しかし一方では、最澄の教法に対する価値論に対し徳一は仏法理解先天的素質論を述べており、両者の論争の焦点があまり噛み合っておらず、議論のものも詳細というよりは瑣末的であり、時折相手側への罵倒に近い表現も見られる(後述)など、すれ違いの印象も与えている。

天台宗側では『法華秀句』の成立をもって論争の終結とする(翌年に最澄は入寂)。論争の歴史を天竺や中国の仏教史まで遡って述べたもので、『法華秀句』の書名は、智顗による天台三大部の『法華文句』を意識したものと思われ、最澄の論争決着への決意が現れている。ただし、これは最澄側の一方的な論争打ち切りであり、徳一側からは決着がついていないとも言える[13]。なお徳一は天台宗のみならず密教に対しても問題視していたと見られ、真言宗空海に対しても『真言宗未決文』で批判している(なお、これが徳一の著作として現存する唯一の史料である)。

最澄激昂の理由[ソース編集]

下記は、取り立てて、最澄の書き物に怒りは表明されていないが、法相宗派の学者の何人かは、そのようにとらえているようである。その理由をあえて挙げるとすれば、次の事柄をあげられるが、これも、特にここに特記すべきほどのことではない。参考までに、法相宗派側の意見を以下に述べる。 最澄は、しばしば非常に激烈な表現を用いて論敵を攻撃しており、たとえば『守護国界章』において最澄は、非難の対象である徳一のことを「麁食者(そじきしゃ。粗末な食べ方をする者、半可通のこと)」「謗法者(ほうぼうしゃ。賢しらに法を曲げる者)」「北轅者(ほくえんしゃ。南に行こうとして牛車・馬車の轅(ながえ)を北に向ける者。方角もわきまえぬ者)」などの蔑称で呼び、本名の徳一で呼ぶことは一切ない。どちらかといえば秀才肌で生真面目な感のある[14]最澄が、これほどまでに攻撃的な姿勢で論争に臨んだ背景として、いくつかの原因が考えられる。

最澄孤立[ソース編集]

最澄は入唐求法から帰国する直前、越州に寄り、密教を龍興寺の順暁(密教の法灯においては傍流に属する。生没年不明)に学び、灌頂を受けている。帰国後も最澄の密教への関心は高く、自身より年少で僧としての地位も低いながら、正統的な密教を学んで帰国した空海師事することになる。

最澄と同じく804年の遣唐使で入唐した空海は、真言八祖の一人恵果(746年 - 806年から正統的な密教を学び、大量の経典・法具を携え、最澄よりやや遅れて大同元年806年)に帰国していた。最澄空海の招来した仏典を借り受けて密教を本格的に学びはじめ、弘仁3年(812年)には弟子の泰範(778年 - ?)らとともに空海高雄山寺において灌頂を受け、正式空海弟子となっている。さらに泰範らを空海の下に派遣して密教の奥義を学ばせようとしていた。

しかし、弘仁4年(813年)最澄が『理趣釈経』(『理趣経』の解釈書)の借用を空海に申し出たところ、空海が密教の真髄は文章修行ではなく実践によってのみ得られるとして拒絶したため、両者の仲は悪化する。さら最愛弟子であった泰範が、最澄の再三の求めにもかかわらず比叡山への帰還を拒み、空海の下での修行を望んだことなどが重なり、両者は義絶するに至った。真言宗側では、これをさかんに吹聴するが、『理趣釈経』は、いわば、後世、淫靡宗教と結びついたものであり、空海がそれを見せたがらなかったのは、故あることであったようである。つまり密輸入書物とも言えるものであり、かえって、見ないほうがよかったのではないかと思われている。

天台宗に密教の要素を取り入れ、新たな宗派としての地位を高めようとしていた最澄にとって、泰範・空海との訣別により孤立感が深まったことで、南都諸宗に対してより敵対的姿勢に駆り立てられたともいわれる[15]。なお天台宗最澄の死後、本格的に密教化することになる(→台密)。

南都教団への対抗[ソース編集]

最澄が論争相手とした徳一自身は、若年から東国拠点を移して活動していた地方僧であったものの、彼が所属する法相宗自体は、当時の仏教界においては主流である南都六宗の中心であった。後世に天台宗の方が興隆していったため、三一権実諍論全体としては、新興宗派の総帥である最澄が、古い法相宗代表する徳一を退けたという印象が残るが、実際には当時においては法相宗の方が主流派に属していたのであり、最澄はむしろ挑戦者であった[16]。前述のごとく年分度者の割当を勝ち取り、大乗戒壇設立など、天台宗確立して南都仏教に対抗しようとする最澄にとって、法相宗理論である徳一を説き伏せることは、天台宗南都六宗への優位を示すことにも繋がるため、より攻撃的になったと、現代法相宗派の学者は考えている。

中傷者徳一に対する怒り[ソース編集]

徳一の『仏性抄』は最澄にとって看過しがたい法華経批判の書であり、この法敵に猛反論しなければ自宗の存在意義のものが危うくなる。しかしまた徳一にとっても、天台法華宗や密教の擡頭は、彼自身の属する法相宗にとっても、また従前の仏教体制秩序にとっても、異端なのであって、これを徹底的に論破しておく必要があった。徳一は『中辺義鏡』において法華教説や最澄に対して「凡人臆説」「顛狂人」「愚夫」などと悪し様に罵倒している[17]。最澄が『守護国界章』で徳一を「麁食者」「北轅者」と呼んだのはこれに呼応するものであり、互いに自宗派の存在意義をかけた真剣な論争であったがゆえに、ともに中傷めいた表現までもが用いられたともいえる。

蝦夷征討との関係[ソース編集]

宮原武夫(1933年-)は最澄と徳一の論争がここまで大きくなったのは、最澄が当時の朝廷が進めていた蝦夷征討に徳一が「非協力」的とみなしていた政治的問題にあったとする説を唱えている。

最澄東国に下った際に活動拠点としていたのは亡き道忠が活動拠点としていた下野国と隣の上野国であったが、両国は当時朝廷が推奨していた蝦夷征討の兵站基地となっており、更に下野上野両国から陸奥出羽両国に対しては国司から課役を逃れるための逃亡や朝廷による移住政策によって多くの人々が移り住んでいた[18]。蝦夷討伐には徳一の法相宗を含めた南都六宗東国鹿島神宮香取神宮も征討の成功を祈願したり、寺院神社を建立するなどの積極的な協力を行ってきた[19]。朝廷から天台宗公認を得たばかりの最澄東国における蝦夷征討を巡る様々な動きに直面して関心をもったと考えられ、この時の最澄東国行きに随行した弟子円仁下野出身)も立石寺など東北から北関東にかけて多数の天台宗寺院が建立したと伝えられており、最澄とその門人は下野上野両国を足掛かりに奥羽の人々に対する教化を進めようとしたとみられる[20]。

これに対して徳一の方は会津地方から越後方面への布教活動を進めており、蝦夷征討への協力や蝦夷がいる会津以北の奥羽への布教を示す史料は残されていない。宮原最澄は『決権実論』の中で「北轅者常に迷ひて、分明の文を指さしめ、南、越の方に向はしむ」と記しているが、これは自分達や南都六宗と違い、蝦夷征討に対して祈祷<

ルジャンドルフランスウラン(Oullins)に生まれランス大学およびパリ大学に学んだ[1]。父親のJean-François Legendre-Héralは人物像を得意とした古典主義彫刻家エコール・デ・ボザールの教師[2]。24歳のときニューヨークの著名な弁護士の娘であったクララヴィクトリア・ミュロックブリュッセル結婚した。結婚後すぐに米国移住し、帰化した。

南北戦争[編集]

1861年に南北戦争が勃発すると、ルジャンドルは第51ニューヨーク志願兵歩兵連隊兵士募集に協力し、1861年10月29日に同連隊少佐に任官した。その後ノースカロライナでの戦闘従事し、1862年のロアノーク島の戦いにも参加した。しかしながら、1862年3月14日、ニューバーンの戦いで重傷を負った。

負傷にもかかわらず、ルジャンドルは軍を離れず、同年9月20日には中佐に進級。1863年には第9軍に配属され、多くの戦闘に参加した。1863年3月14日には大佐に進級。ヴァージニア荒野の戦いではユリシーズ・グラント将軍の指揮下にあったが、その最中の1864年5月6日ルジャンドルは再び重症を負った。今回は顔面を撃たれ、左目と鼻を失った。アナポリス病院入院したが、その間にも南軍最後攻撃から街を防衛するための準備を手伝った。その後ニューヨーク移送され、そこで第9軍の兵士募集を手伝った。1864年10月4日名誉除隊したが、1865年3月13日には准将名誉進級した。

中国[編集]

1866年7月13日ルジャンドル厦門米国領事に任命された。7月ニューヨークリバプールに向けて出港し、その後ヨーロッパアジア大陸旅行12月厦門に到着した。領事として、ルジャンドルは5つの条約港、すなわち厦門基隆台北、淡水および高雄責任を持った。そこでは、年季奉公人の不正取引抑制に尽力した。

1867年3月12日米国ローバー号が台湾遭難し、その乗員が台湾原住民殺害されるローバー事件(en)が発生した。ルジャンドルは福州へ赴き、台湾中国側当局問題解決圧力をけるように、福建・浙江総督を説得した。福建総督は自ら行動は起こさなかったが、ルジャンドル台湾に行く許可を与え、台湾知事が協力するように紹介状を書いた。

ルジャンドルは、遭難現場訪問のために米国船アシュロット号を雇い、台湾当局に行動させようとした(これは失敗した)。その後アメリカ合衆国海軍ヘンリーベル少将懲罰作戦実施したが、これも失敗した。さら情報を集めるため、ルジャンドルは再び台湾に出向いた(このときは、紹介状は無しであった)。

中国へ戻ったルジャンドルは、南台湾に軍隊派遣するよう福州の総督を説得し、ようやくこれに成功した。ルジャンドルは400〜500人の規模を希望したが、これよりはかなり小さな遠征隊が、1867年7月25日台湾に送られた。ルジャンドル砲艦派遣ベル提督要請したが、これは拒否された。このため、武装商船ボランティア号が雇われた。ルジャンドル9月4日台湾上陸したが、上司に対しては全くの傍観者として行動したと報告している。

ルジャンドル直ちに本来任務を開始した。南台湾の険しい山岳地帯を通りぬけ、原住民酋長と難破した欧米の船員の安全保証するための条約協議した。

1871年9月6日琉球宮古島)の船が台湾沖で遭難したが、ローバー事件と同様に、多数の船員が殺害された(宮古島島民遭難事件)[3]。1872年2月29日ルジャンドルは先に結んだ条約日本人船員にも適用するよう拡大するため、台湾に出向いた。任務は不成功に終わり、またルジャンドル北京駐在米国公使フレデリックロウ(en)とも不仲になってしまった。

日本[編集]

1872年厦門から米国へ戻る途中、ルジャンドル日本に立ち寄り、明治政府台湾問題武力解決提唱した。これは副島種臣外務卿意見とも一致しており、ルジャンドル米国領事の職を辞し、1872年12月12日外交および軍事顧問として明治政府雇用された[1]。1873年2月、副島は2年前に台湾で起きた宮古島殺害事件の処理交渉特命全権公使外務大臣として北京派遣されたが、ルジャンドルもこれに参加した。この交渉部分的には成功であったが、引き続きルジャンドル1874年台湾出兵の準備を手伝った。台湾問題に関して、ルジャンドル駐日米国公使チャールズ・デロングの支援を受けており、また個人資格でこの遠征に参加するつもりであった[4][5]。加えて、2名のアメリカ軍人が雇用された。ところが、デロングの後任の米国公使ジョン・ビンガムは、ルジャンドルを支持せず、1874年4月19日台湾出兵は一旦延期とされた。ルジャンドルらは長崎で出征準備を整えていたため、大久保利通長崎に向かった。結局遠征部隊5月18日長崎を出港したが、ルジャンドル大久保と共に東京に戻った。その後、ルジャンドル交渉のため福州に派遣されることとなったが、アメリカ総領事職場放棄の罪に問われ、短期間ではあるが上海収監されてしまったため、遠征には参加できなかった。1875年には日本政府から勲二等旭日重光章を授与されたが、これは外国人としては最初のものであった[1]。その年の末には顧問を辞任した。

ルジャンドル1890年まで日本滞在し、大隈重信個人的顧問を務めた。

韓国[編集]

1890年3月ルジャンドル日本を離れ、朝鮮王高宗顧問となった。1899年9月1日漢城(現 ソウル)で卒中により死亡するまで、その職を務めていた[6]。

2chからどこに移住すればいいの?

2chにいろいろ問題があるのは承知している。

でもいいところもたくさんある。

その1つは、板・スレによって話題が細かく分割されていること。

マイナー話題趣味でも2chを探すと必ずと言っていいほどそのためのスレが見つかる。

そこに行けば同じ事に興味を持つ人と情報交換できる。

そういう場って2ch以外にあるのかな?

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