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2024-03-15

[] 2024-03-15

日本人であるからノアの法を守れば神に認められるらしいです。

ではなぜ日本人である私は、聖書を学び始めったのでしょうか。

私は善悪や知恵には、単なる好き嫌い相対主義を超えるものがあると考えています

しかし何が「絶対であるのかは全くわからないので、歴史的テキストとして聖書を学んでいるのです。

それを学んだことによって布教をするつもりもなければ、○○教徒であると言うつもりもないし、特定民族に気に入られようと考える気もありません。

まだ学び始めて浅いのですが、これまで読んだのは、創世記モーセ五書箴言、コヘレト言葉です。

実用的側面から箴言・コヘレト言葉・そしてヨブ記を読みたいと思ったのです。

なぜ実用的と思うかといえば、歴史的に残された「知恵」が現代に通じるのであれば、普遍的善悪について何かがわかるかもしれないからです。

私は「聖書の教えを守って神に認められよう」と考えているわけでは必ずしもありません。

それを「知恵」と呼ぶのであれば、善悪判断したり、円滑に生きるために役に立つと言える何かがあると思うわけです。

いくつかの道徳宗教が陥りがちな「相対主義」についていつも疑問に思います

相対主義が極端な形になると、「倫理は人それぞれ」などと言い始める可能性があります

すると、殺人肯定するような価値観も「人それぞれだ」といって許されるということになりかねません。

ちなみにノアの法では殺人禁止されます

善悪について気にしなければならない理由、と言われてもすぐにはピンときませんが、少なくとも悪人にはなりたくないでしょう。

私は自分遺伝性格から倫理判断が苦手であり、それによって様々なトラブル経験してきました。

そうすると、何が正しくて何が間違っているのか。それを知りたくて懇願しています

世の中には、まるで蛇のように曲がったことを言う人たちがいます

蛇に騙されて自分がどんどんと悪の方向に流されているなら、自分の中で善を持つ必要があると思うのです。

一般的日本人本能レベル倫理性を持っているところを、私は持っていないので、知恵の本に頼るしかないのです。

聖書にも、女の中には毒のようなどうしようもねぇのがいてそいつに目をつけられたら命を取られる、みたいなことが書いてあるが、頂き女子のことだよな

2024-03-07

セックスはしたいけど妊娠はしたくないなんて、傲慢ではないか

傲慢だよね?

わがままだよね?

自然の摂理に反してるよ

性加害はダメだけど、同意の元なら妊娠覚悟してセックスするべき

妊娠したくないならセックスしない

ガンジーもそう言っている

妊娠意図のないセックスダメだと

岩波文庫のガーンディー聖書に書いてある

あなたガンジーよりものを知っているというのか?

ガンジーに反対するのか?

よろしい、それならガンジー十八番ハンガーストライキで対抗だ!

お昼抜くぞ!

(ごめん、無理です。許して。あなたの勝ちです)

2024-03-04

SNS左翼伝統破壊するためのシステム、という陰謀論がある

伝統とは、米国で言えばキリスト教のことであるとしよう

するとSNS伝統的価値観を破壊するようなことがたくさんあることがわかる

以下に例としてリストを示してみよう。聖書引用と、SNS破壊しようとしている事柄対応

 

愚か者名誉を受けるとしたら、真夏に雪が降り、太陽が西から上るようなものだ。

実際には愚か者インフルエンサー等)が名誉を受ける仕組みになっている。

 

酔っ払いにとげが刺さっても痛くないように、愚か者が教訓を語っても心に訴えない。

実際には愚か者が教訓を語って、それに対するいいねがたくさんつく仕組みが作られている。

 

怠け者は仕事にも行かず、「外にライオンがいる」と言い、ごろごろ寝がえりを打つばかりです。ちょうど蝶番でドアが回転するように。おまけに自分の手で皿に乗った食べ物を口に運ぶのも面倒がります。その上、知識のある人が束になってかかってきても自分の方が賢いと思っています

コロナ禍で、自称インテリが「外出するな」と発狂していた。

 

友人をだましておきながら「ちょっとからかっただけさ」と言うのは手当たり次第、火のついた矢や人を殺すことが出来る矢を射るようなものです。

SNSでは友人に対してすら宣伝行為スパムを送る連中が後を絶たない。

 

関係のない争いに首を突っ込むのは犬の耳を引っ張るのと同じように馬鹿げています

関係のない争いに関わらせようとするおすすめアルゴリズム

 

これ以外にも探せばたくさん見つかる

SNSいかに旧来の伝統善悪破壊しようとしているのか、そしてこれは「オバマ」という悪魔が行おうとしたことである

「もし無人島ひとつだけ持ってくなら」の元ネタ探求をしましょうね

いくつかバリエーションがある

無人島に[ジャンル制限]をn個だけ持っていくなら?」

無人島に[本]をn個だけ持っていくなら?」

無人島に[レコード]をn個だけ持っていくなら?」

……のような

[本]の場合に「聖書」という回答が西洋メジャーなことから元ネタ日本以外なのだろうとあたりをつける

調査の初手はとりあえずこれ

Desert Island Discs - Wikipedia

Desert Island Discs is a radio programme broadcast on BBC Radio 4. It was first broadcast on the BBC Forces Programme on 29 January 1942.[1]

Each week a guest, called a "castaway" during the programme, is asked to choose eight audio recordings (usually, but not always, music), a book and a luxury item that they would take if they were to be cast away on a desert island, whilst discussing their life and the reasons for their choices.

Desert Island Discs は、BBC Radio 4放送されているラジオ番組です。1942 年 1 月 29 日に BBC Force Program で初めて放送されました。

番組中「漂流者」と呼ばれるゲストは毎週、8 つの音声録音 (通常は音楽ですが、常にそうとは限りません)、本、そして船で漂流された場合に持っていく贅沢品を 1 つ選ぶよう求められます無人島での生活とその選択理由について話し合います

このラジオ番組存在から1942年時点で「あるあるネタであることは確認できる

アメリカ一コマ漫画で「無人島もの」というジャンル存在する……が、それが特に流行ったのはだいたい19世紀初頭頃の出来事なので"Desert Island Discs"とそう時代は変わらない

普通に考えれば『ロビンソン・クルーソー』以降なのよ

ロビンソン・クルーソー』は1719年4月25日出版された

これが売れて多くの人に読まれたからこそ"Robinsonade"というジャンルまで生まれ

Robinsonade - Wikipedia

Robinsonade (/ˌrɒbɪnsəˈneɪd/) is a literary genre of fiction wherein the protagonist is suddenly separated from civilization, usually by being shipwrecked or marooned on a secluded and uninhabited island, and must improvise the means of their survival from the limited resources at hand. The genre takes its name from the 1719 novel Robinson Crusoe by Daniel Defoe. The success of this novel spawned so many imitations that its name was used to define a genre, which is sometimes described simply as a "desert island story"[1] or a "castaway narrative".[2]

ロビンソナード (/ˌrɒbɪnsəˈneɪd/) は、主人公が突然文明から切り離され、通常は難破するか人里離れた無人島に置き去りにされ、手元にある限られた資源から生き残るための手段即興で考えなければならないフィクション文学ジャンルです。 このジャンル名前は、ダニエル・デフォーによる 1719 年の小説ロビンソン クルーソー』に由来しています。 この小説成功により、非常に多くの模倣作品が生み出されたため、その名前ジャンル定義するために使用され、単に「無人島物語」[1] または「漂流者の物語」[2] と表現されることもあります

ということは、探すなら18世紀か……

一応シェイクスピアの『テンペスト』も孤島が舞台になる物語だけど…

1611年頃

一応英wikipediaの"Uninhabited island"の"In literature and popular culture"の項にはもっと古い作品について言及がある

Uninhabited island - Wikipedia

The first known novels to be set on a desert island were Hayy ibn Yaqdhan written by Ibn Tufail (1105–1185), followed by Theologus Autodidactus written by Ibn al-Nafis (1213–1288). The protagonists in both (Hayy in Hayy ibn Yaqdhan and Kamil in Theologus Autodidactus) are feral children living in seclusion on a deserted island, until they eventually come in contact with castaways from the outside world who are stranded on the island. The story of Theologus Autodidactus, however, extends beyond the deserted island setting when the castaways take Kamil back to civilization with them.[8]

無人島舞台にした最初小説は、イブン・トゥファイル (1105-1185) が書いた『ハイイ・ブン・ヤクダン』で、次にイブン・アル・ナフィス (1213-1288) が書いた『テオログス・アウトディダクトゥス』が続いた。 両方の主人公(『ハイイ・ブン・ヤクダン』のヘイイと『テオログス・アウトディダクトゥス』のカミル)は、無人島で人里離れて暮らす野生の子供たちだが、最終的には島に取り残された外の世界から漂流者たちと接触することになる。 しかし、テオログス・アウトディダクトゥスの物語は、漂流者たちがカミル文明に連れ戻す無人島の設定を超えて広がります。 [8]



こういうmeme的というか、とりとめのない雑談あるあるネタがいつから存在するかって探すの超大変だ

残念ながら"Desert Island Discs"の1942年以前ではっきりと「もし無人島ひとつだけ持ってくなら」のようなmemeの記述発見できなかった

何故調べる事になったかって、なんもかんもこのツイートのせい

https://x.com/Circle_Halberd/status/1762628685679464845?s=20

有名な「無人島ひとつだけ持って行けるなら何?」という問答の元ネタ坂本龍馬

坂本龍馬は「国ぜよ」と答えて勝海舟を驚かせたという。

……という嘘豆知識

正直フフッと笑ったが、それはそれとして本当の元ネタが気になるのじゃわしは

wikipediaの"Uninhabited island"の以下の記述

The term "desert island" is also commonly used figuratively to refer to objects or behavior in conditions of social isolation and limited material means. Behavior on a desert island is a common thought experiment, for example, "desert island morality".[3]

無人島」という用語は、社会的孤立し、物質手段が限られている状況での物体や行動を比喩的に指すのにもよく使われます無人島での行動は、たとえば「無人島道徳」などの一般的思考実験です。

これの出典がOEDになっている

ひょっとしたらOEDに私の欲しい情報があるかもしれないが、OEDをすぐさま読める環境にないな……

人々が「無人島にもし漂着したなら?」というIFを雑談ネタとして共有できるということは大航海時代以降……"Robinsonade"というジャンル一般認知されている環境……であるはず

しか調査頓挫、有力情報がひっかかるまで塩漬けにする

へたすりゃギリシャ神話時代までさかのぼることが出来るネタかもしれん

オデュッセイア』とか……アルゴー船の冒険の話とか……船旅のエピソードがあるので、無人島に関するなんらかのミームの源流がそこにあっても驚かない

そうなったら手に負えん

日記

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改めてこれを参考に探し直すか……元気な時に

元祖や系譜、起源、お約束、新語などに関する「まとめのまとめ」&関連リンク 『初出・系譜ポータル』 - Togetter

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ちょっと方針を変えてみるか

19世紀後半〜20世紀前半ごろがこの問答が定番になった時期である、という可能性を探りましょうね

近代的なレジャーとしてのキャンプとか、ボーイスカウトとか……サバイバルスキル知識一般に広まったのがおそらくこの時期

その知識がないと無人島何持ってく問答は発展定着しにくいかもしれない

いやーでも聖書って回答が多いって話があるならサバイバルスキル知識関係なさそうに見える……

聖書って回答が多いってのはどこ情報ソース無いですやん

→初期の定番問答は本を問う形式だった可能性もある、なんともいえん

サバイバルガイド的な本が19世紀刊行されてないかを調べてみるか

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"Desert Island Discs"の1942年以前で「もし無人島ひとつだけ持ってくなら」のようなmemeの記述発見

無人島に本を一冊だけ持ってゆくとすれば: ケペル先生のブログ

このことを最初に明言した人はだれだろう。明治期にドイツ系ロシア人哲学者東大で教鞭をとり、学生の人気を集めたラファエル・フォン・ケーベル(画像1848-1923)らしい。彼は「ケーベル博士随筆集」のなかで「無人島に1年間流されるとしたら、自分が選んでもってゆく一冊は、まず聖書である」と述べている。かれは次に、「ファウスト」「ホメロス」「ドン・キホーテ」、ニーチェのものベートーベン楽譜などをもって行きたいと書いている。しかし有名なデフォーの「ロビンソン・クルーソー」(1719)のなかで絶海の孤島に流れついた主人公が「聖書」を読んで信仰の支えにしたことを書いている。

発言時期が不明だが、この方は1923没なので"Desert Island Discs"よりおそらく古い

ケーベル博士随筆集』という本に記載があるらしいが……図書館に行かないと読めない類の本だな

しかしやはり『ロビンソン・クルーソー』が念頭にある発言か……

見立ては大外れしていなかったか

さて、さらにこれ以前に遡れるだろうか?

もうちょっと古い時代にも言及がありそうな雰囲気はある

ケーベル博士ロシア出身日本にやってきた人で、"Desert Island Discs"はイギリスラジオ番組

20世紀初頭には世界中で認知されている定番ネタということじゃないか

しかインターネットだけでの調査はそろそろ限界

本があるならいくらでも読むが、どの本を読めばいいかのあたりをつけるのが難しい

ここらで再び調査打ち切り、有力情報がひっかかるまで塩漬け

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ん……なんか別のバリエーションを見つけてしまったな

ゲーテが『私が獄につながれ、ただ一冊の本を持ち込むことを許されるとしたら、私は聖書を選ぶ。』という言葉を残しているらしい

この発言の出典元文書ちょっとすぐには見つけられていないのだが

偉人名言は「実は言っていない」ってことが往々にしてあるから疑ってかかるスタイル

ゲーテの生没年は1749~1832

無人島に持ち込むものは何問答と直接の関係はないかもしれないが、一種クローズド環境に何を持ち込む?という発想はこの時代からあったということ

Robinsonadeの流行で便利なクローズド環境として無人島一般認知された?

元々「閉鎖環境に一冊本を持ち込むなら」という発想が存在した(その一冊とはたいてい聖書、なんというか最初から聖書という答えありきの仮定に見える気がする)
↓
Robinsonadeの流行で閉鎖環境として無人島が定着した
↓
メディアの発展で本以外(レコードなど)も問われるようになった
↓
さら時代下り、持ち込めるものジャンル制限になった

みたいな流れという仮説を立てれそうだが……

まあまあ、結論を急ぐことはない

頭の片隅エリアにこの疑問を保管してこの疑問は一旦クローズ

anond:20240304102832

今更聖書記述に従ってホモ死刑にするわけにもいかないのだから

やっていることは所詮聖典つまみ食いというか二次創作しかない

anond:20240304102832

カビくせえ聖書に頼らず、てめえの力で倫理規範を作れや。俺達は現代に生きてんだぞ

anond:20240304102614

いや、聖書重要だろう

聖書がなければ、善悪は「好き嫌い」の問題、つまり相対主義になってしまうから

「俺はこれを善だと思う。なぜならそれは俺が気に入っているから」という発想を防ぐために聖書重要である

anond:20240304102429

傲慢になるな」「軽率発言をするな」「自分自身を賢いと思い込むな」「性的不品行をするな」という戒め


現代においてこの程度の戒めをいちいち聖書依拠する必要はないんですよね

教育勅語にもいいことは書いてあるって言ってるどっかの市長じゃあるまいし

anond:20240304101717

教養文化人気取りの道具にするアホ

例えば「聖書を読むことによる教養」とは何かを考えた時、聖書知識をひけらかしたり共通知識で会話する満足を得ることではない

傲慢になるな」「軽率発言をするな」「自分自身を賢いと思い込むな」「性的不品行をするな」という戒めを、実際の行動に変換して「教養」と言う

2024-02-29

古文漢文必要派vs不要派」は政治的な争いであ

古文漢文なんていらねぇ!という主張は、とにかく評判が悪い。受験期になると毎年のようにこの手の論争が再燃するが、話がまともに前進することは稀である

ほんとうに意味のない教養信仰マウントやwhataboutismをとりのぞいたとき、私の考えでは、必要派のまともな論拠は以下の一点に絞られる。すなわち、古文漢文学習することは、日本人としての文化的アイデンティティを養うことに繋がるので、古文漢文は学ばれるべきなのだ

いずれにしたって、古文漢文に優先的に学ばれるだけの価値があるとすれば、それは役に立つからである

任意学問について学ぶことにはそれ自体価値がある(誰もこれを否定するべきではない)のだが、それだけでカリキュラムに組み込まれるわけではない。古文漢文英語数学とならんでとりわけ役に立つからこそ、受験科目にするほどの価値を認められているのだ。そうでないとすれば、あれやこれを受験科目にせず、古文漢文受験科目にすることがまったく正当化できない(これはいくらかwhataboutismだが)。

古文漢文はなんの役に立つのか。古文漢文をやっていれば、これに絡んだワードセンス物語優美さ・ユーモアが汲み取れる、というのはどう考えても小さすぎる利点なので、この程度の「役に立つ」を指摘して満足してしまうのは小物のやり口である

もっとがっつり役に立つ、例えば大学社会に進んだら漢文古文を読む機会がたくさんある、古文漢文で読解力や論理的思考が大幅に養われる、などと指摘するのは嘘つきのやり口である。そんなことないからこそ、不要論が立ち上がるのだ。

したがって、古文漢文が真に役に立つのだとしたら、上に述べた通り、日本人としての文化的アイデンティティを養うことに繋がるというのが、その「役」なのである。この「役」は、聖書プログラミングを学ばせても代替できない点で、古文漢文をとりわけ優先するもっともらしい理由を与えてくれる。中高生たちは日本人としての文化的アイデンティティを養うべきであり、古文漢文はこの望ましい帰結をもたらすからこそ役に立つ、優先的に学ばれるべきなのだ。というか、これこそが古典教育目標であることは(ここまで露骨ではないものの)高等学校学習指導要領に書かれている。

古典としての古文漢文古典に関連する文章を読むことによって、我が国伝統文化に対する理解を深め、生涯にわたって古典に親しむ態度を育てる。

古文漢文必要派は、この一点突破を狙うべきだろう。小さすぎるお役立ちを挙げるのも、大きすぎるお役立ちを挙げるのも、教養信仰マウントやwhataboutismに徹するのも、墓穴を掘って自らを辱めるだけだ。

しかし、「中高生たちは日本人としての文化的アイデンティティを養うべきだ」という前提は、すでにかなり党派的なものである。それはれっきとした国粋主義であり、軍国的な仕方で「国民」なるもの要請している。このグローバル化が進みきった時代において、なぜ日本人にっぽんじん)としてのアイデンティティを持たなければならないのか、それがなんの「役に立つ」のかという疑問はスキップされており、とにかく、「文化的アイデンティティを養うべだ」という義務けが突きつけられている。

実際、古文漢文不要派の一部は、まさにこの「国民」の押し付けにこそ反対しているのであり、特定文化的アイデンティティ固執するべきではないと考えているのだ。必要派が本質的ナショナリストならば、不要派は本質的アナーキストである

というふうに、「古文漢文必要派vs不要派」の争いは多分に政治的な争いであり、私が思うに、発信する人の多くはこれを分かっている(ほんとうに無自覚な人もいるが)。しかし、両陣営ともに自らの政治的立場を明言しないのが普通である。というのも、露骨党派性を示してしまえば、そうしなかった場合には言いくるめられたフォロワーまで引かせてしまうからだ。そのせいで議論はいつも上滑りし、互いに口汚く罵り合って、相手馬鹿だと結論し、翌年の再戦を待つばかりだ。

中高生たちは日本人としての文化的アイデンティティを養うべきだ」という前提の是非にのみ話を絞れば、古文漢文必要性をめぐる議論はもう少し見通しが良くなるだろう。

なんにせよ、アイデンティティを持つことは、心身の健康にとって必要不可欠であるかもしれない。国民であるという拠り所すら失われたときに、人はどれだけの孤独を感じるのか。そんなものに寄りかから自分の脚で立て!というマッチョ個人主義に、みんながみんなついていけるわけではない。

はたまた、仮に日本人としてのアイデンティティを養うべきなのだとして、古文漢文やらせるというのは理にかなった方法なのかという疑問も意味をなしてくる。これだけ少なくない人々に、古文漢文という科目への悪いイメージを植えつけているのだとすれば、それはいわゆる「義務教育の敗北」ではないか

はたまた、少なから党派的な思想を陰に陽に植えつけようとする事自体中高生自律性を脅かすパターナリズムでなくてなんなのか。「自分の脚で立て!」とまではいかないにせよ、子どもたちには一定選択が与えられるべきであり、古文漢文必須受験科目とすることはその道を閉ざしているのではないか

そんなに言うなら、私立理系に進めばいいだけの話だ!と言われるかもしれない。しかし、だとすれば理系はなぜ日本人としての文化的アイデンティティを養う義務から(ある程度)自由を許されるのか、と問われるかもしれない……。

疑問・議論は尽きないが、私たちはいまや「古文漢文必要なのか」というはじめの問いよりも、はるかに全うな問いたちを手にしつつあるのではないか

2024-02-21

anond:20240221074044

好きなの選んでいいぞ

 

A:(大前提:神は男女の肉体と魂と役割をお作りなられた)神は間違いをおかさないから、男は男に生まれるし、女は女に生まれる。聖書を読むべき(増田の主張に近いやつ)

 

B:(大前提:神は男女の肉体と魂と役割をお作りなられた)すべての生き物は病気障害で通常と異なった外見になることがある。神の定めた役割にあった外見にすることを消極的に認める

 

C:正直、聖書を読むに○○だと思う。しかし、神の意志推し量ることはできても、それを知ることはできない。また、神が、私たちが人を愛し、赦し、助け合うようにと願っておられることは確かだ。人を裁いてはいけない(マタイ7章1節—6節)し、不用意な発言信仰の妨げや(以下略)

 

D:おっ!クィアアピして信者Getだぜ

2024-02-16

天使の輪が死人を表す漫画表現になっているのって変だな

人が死んでも天使になるわけじゃない、キリスト教世界観においても

この表現を多用している一番有名な漫画はおそらくドラゴンボールだろう

どこかで発想の飛躍があったのかな

気になるねえ、ぐぐりましょうねえ

天使に限らず聖人などを描いた絵画にも、聖人の後ろに光が差す表現が用いられたのだとか

天使に限らないのであれば以降は天使の輪じゃなくヘイローとここでは書くようにしておこう、ブルーアーカイブ風の呼び方

発想としては仏教の後光と同じか

まだ足りない

天使聖人を描いた絵画???漫画表現の死者を表す記号としてのヘイロー、間に挟まるものを探さないと

なんかこれだ!って情報がなかなかヒットしないな

勘だけど風刺画が間に挟まる気がするんだよな

天使聖人を描いた絵画パロディで、天使を例えば政治家差し替え風刺画みたいなのがどっかにあるんじゃないか

それが転じて死者の頭上にヘイローを用いるのが一般化したとか?

うーん、あくま根拠のない憶測

こういうのは英語圏情報を探さないといけないな

一応、英語圏イラストで死者の頭上にヘイローがあるイラストはまあまああるっぽいが……

日本でもなんかドラゴンボール以前に死者の頭上にヘイローがある表現をした漫画いか

……手塚治虫がやってる気がする

あの人だいたい何でもやってるからな、あとで探すか

ってことはディズニー作品でもなんかあるような気がしてくるな

うーん、探し方が下手

wikipediaの「光輪 (宗教美術)」の「大衆文化における使用」の記述が少ないな

英語版だと……英語版の「Halo (religious iconography)」には大衆文化の項自体無いのか

うーんアメコミにもヘイロー使用あるかもだが、アメコミに詳しくない

調査頓挫する予感

ここまで調べたというメモ

なんかコレ!っていう本があれば読みたいんだが、この疑問をずばっと解決する文化史本は無いかもなあ

今週の『サチ録』、番外編15を読んだ結果

日記

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ポップカルチャー宗教序論」という論文を読んだ

こういう路線で調べていくのがよさそうか

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なぜ亡くなった人の頭上に「天使の輪」を描くようになったのでしょうかよろしく... - Yahoo!知恵袋

漫画記号表現としては昔からある定番スタイルですよね。 ディズニーアニメにも、ヨーロッパカートゥーン(cartoon)にも良く死者の記号として使われていますね。

http://www.cartoonstock.com/cartoonview.asp?catref=amc0009

ふーむ、やっぱり古くから定番なんだな

この回答者によるとディズニーでもやはり使用されていると

人間は死ぬと天使になりますか | ものみの塔 オンライン・ライブラリー

人間死ぬ天使になります

アリーロという,まだ7歳の幼い女の子が亡くなりました。悲しみに打ちひしがれた両親は,柩に横たわる白いドレス姿の娘を前に,ぼう然としています。慰めようとして,神父がこう言います。「神様は,天使をもうひとりお望みになって,アリーちゃんお召しになったのです。幼子の魂は,今ごろ,神様のみそば翼を広げて飛んでいますよ」。

死んだ人間の魂が天使になる,と信じている人は少なくありません。公式教理として教えられることはまれですが,映画テレビ連続ドラマでは,死んだ人が翼のある天使になって,生きている人を守る,という話がよく取り上げられます

あなたはいかがですか。愛する人が死後に天使になると考えておられますか。聖書は何と教えているでしょうか。では,天使本質について,また死んだ人の本当の状態について,聖書のものが何と述べているかを調べてみましょう。

うーん、「死んだ人間の魂が天使になる」という発想は無いわけではないのか

それが転じて天使ではない死者の霊魂的な何かの頭上にもヘイローが描かれるようになった?

ドラゴンボールの影響がどのくらい大きいか、気になるな

っていうかドラゴンボールつまみ食い的にしか読んだこともアニメを見たこともないんだよな

何より先に原作コミックを読んだほうがいいのかもしれん

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天使とは何か キューピッドキリスト悪魔

天使と人の文化史

ここら辺の本があるいは参考になるか

だいたい最終章は「現代における天使がどのような姿で描かれているか」みたいな話題から、そこに期待が出来る

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英語圏情報を探そうとしてもゲームの『HALO』ばっかり引っ掛かってやりにくいったらありゃしない

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そうだ、『トムとジェリー』で爆死したトムが雲の上でヘイローつけた状態で不満そうな顔してるってオチエピソードがあった気がする

ネズミ取り必勝法』か、これ大好き

プレゼントボックスに入ったトムが針でめった刺しにされるシーンは涙なしでは見られない

オチはやはり爆死で……天使になってるな、これ

やっぱり「死んだら天使になる」って発想がポップカルチャーである程度一般的に表現されていたようだ

翼とヘイローがあってハープを持っている

ネズミ取り必勝法』は1944年11月23日に公開

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ってことは

天使聖人を描いた絵画→死後に天使になる認識、またそれを表現したイラストアニメ天使ではなく単なる死者にもヘイローがつけられた

……か?

まだ足りないぞ

「死後に天使になる」って発想がどこから来たんだって

キリスト教教義だと死んでも天使になるわけじゃない、それはカトリックだろうがプロテスタントだろうがエホバだろうが他の何かであろうがだいたい同じだろう

ヘイローは聖なるもの加護を表すからどんな死者でもヘイローは頭上に表れる?

でもトムは爆死して天使になっとるじゃろがい

まだまだ調べないと納得できないな

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ひょっとしたら演劇ミュージカル側の文化関係している可能性もある

死者を表現する記号として頭の上にヘイローをのっけた衣装を着ていた……とか、あるかもしれない

一応留意して調べる事

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「池にコインを投げる風習はいから始まったのか?」みたいなテーマでおととい調べて日記書いたときは、その風習を有名にした「Three Coins in the Fountain」っていうアカデミー賞受賞作品を見つけたんだよな

これも同じパターン可能性がある

聖者記号としてではなく、単なる死者の記号としてヘイローを使った何らかのヒット作品があったので一般化したみたいなキッカケがひょっとしたらあるかもしれない

しかあんまりこの仮説に固執するのはよくないな、気長に探そう

あるとすれば19世紀後半以降くらいのはず

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そうか、調べるポイントが二つに分かれちゃったんだなあ

①「死後に天使になる」という考えの源流を辿るルート

漫画表現で死者が天使となった描写漫画表現で死者に(翼など他の天使的要素抜きで)ヘイローのみが付与される描写となった転換点を探すルート

こりゃ大変だ、いったん追加調査ここまで

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次にやる事

守護聖人絵画での描かれ方を確認する

→実は守護聖人の頭上にヘイローだけでなく、翼がはえているなどあったりするかどうか

:積んでるキリスト教入門みたいな本をさっさと読む

→なんもかんも体系的な知識が欠けているのが悪い

 →でもなー、自分の興味の向き先は「キリスト教教義はこういうものです」って知識じゃなくて「人々はキリスト教をこのように解釈して信仰していました」という知識なんだよなあ、基礎の勉強ってどうしても飽きちゃって

  →だとしても体系的な土台の知識が無いと何も始まらないだろ!

   →はい、おっしゃる通りです、すみません……

第一次世界大戦風刺画ヘイロー描写が無いか探す

第一次世界大戦1914年7月28日1918年11月11日、ちょうど探したい年代

キリスト教素養がない私がヘイロー描写を見たとき、それが宗教的な性質を持っているのかそれとも記号化したものなのかを区別できるのか?という点について考える

→やっぱり基礎の勉強しましょうね~

そもそもヘイローがあって翼があったらそれは天使とみなしていいのか?「天使」って何?「御使い」って何?何もわからない、調べる

→基礎(略

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②についてだが「ゲームドット絵キャラが死んだことを表現するのにヘイローが便利で、ドット絵で翼を描くのが大変だったから省略された」という仮説を思いついた

流石にお話として出来すぎな気がする、この仮説は最終的に棄却することになりそうだ

しかし調べるとっかかりとしては魅力的

ヘイロー関係ないけど「ゲーム戦闘不能をどう表現するか?」というテーマを調べるのめちゃくちゃ楽しそう

棺桶幽霊化、ヘイロー付与etc……

また別の機会に調べよう

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Heaven Cartoons」というジャンル風刺画があるらしい

画像検索してみるとなるほど確かに天国天使なんやかんやする種類の一コマ漫画

いつ頃から描かれているかちょっと調べてみたがなかなか難しい

Wikipediaの「カリカチュア」のページの「主な作家」の項に載ってる人の代表作を一つずつ見ていくしかない

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星新一アメリカ一コマ漫画蒐集してそれについてエッセイを書いた『進化した猿たち: The Best』をkindleで購入

これにアメリカ一コマ漫画挿絵掲載されて……いない!

権利関係問題のせいかほとんど掲載が無くなってしまっているようだ

しか天国ものについてのエッセイは変わらず掲載がある

数少ない挿絵の作者は……Sidney Harris

漫画家としてのキャリア1955年から

うーん、トムとジェリーのほうが時代が古い

もっと挿絵を見たいか挿絵が載ってる物理書籍のほうを読まないといけないなこれは

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Cartoon of the politics of the Second Empire (Bonapartiste Regime) directed by Napoleon III (Charles... | bridgeman images

やっとひとつ見つけた

ざっくり言うと政治家が天に召されている様子の風刺画1868年1869年?に描かれた、ってところか

翼があり、ヘイローもしっかり完備

トムとジェリー1944年よりだいぶ古い!

しかし余談だけれど死後4年後たってから風刺画が描かれていて不思議

なんか「天使になる」ってのは語弊があって「昇天するとき天使と同じ装いをする」という言い方の方が正確なのかもしれない

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トムとジェリー以前のオールカートゥーンを片っ端から観ているが、天に召されるシーン自体全然見つけることができていない

ところでチャップリンの『キッド』に天使が登場するシーンがあった

翼だけ背中にあってヘイローなし

実写映画も調べる範囲に含まないといけないか

オールカートゥーンの本当に初期の初期は紙の漫画をそのまま映像化したようなやつだったから、漫画文脈だと思うんだけどな……

うーん、難航している いよいよ調査が行き詰まりそうだ

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マーク・トウェイン天国建設の旅』という論文を見つけたが、これは読む価値がありそうだ

天国観の変遷について言及がある

絵やイラストとして描かれていなくても天国に行くとヘイローと翼とハープが通行証かのように与えられる認識は当時の人々視点で昔からあったようだ

18~19世紀文学作品天国描写しているものを探すべきだな

ここらへんは先行研究論文を探しやすそうだ

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Elizabeth Stuart Phelps Wardという人が書いた『The Gates Ajar』という宗教小説アメリカ1868年刊行されめちゃくちゃ売れたらしい

当時の人々の天国観に影響ありそうに見える

その小説で語られた天国観は

In contrast with traditions of Calvinism, Phelps's version of heaven is corporeal where the dead have "spiritual bodies", live in houses, raise families, and participate in various activities.

カルヴァン主義伝統とは対照的に、フェルプス天国は、死者が「霊的な身体」を持ち、家に住み、家族を養い、さまざまな活動に参加する身体的なものである

とのこと(『The Gates Ajar』のwikipedia英ページより引用しdeepl翻訳

うーむ、おぼろげに流れが見えてきた気がする

カルヴァン主義の事よく知らないからそこは調べないといけない

マーク・トウェイン天国建設の旅』という論文序文あたりに19世紀半ば以降に天国もの小説流行ったみたいなことが書いてあったが、その一因はこの小説な気がする

なぜ流行たかというと南北戦争の影響やろなあ

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そういえばこの日記メモには記述をしていなかったが、宗教美術におけるヘイロー写実主義の高まりによって19世紀までにほとんど衰退しているらしい

なので宗教美術において死者(例えば聖人殉職者など)にヘイローが描かれたものがあったとしても、カートゥーンヘイロー描写がその影響を受けているとはちょっと考えにくいのではないか

一度断絶しているのでは?という疑問を持っている

ヘイロー描写は一度衰退し、再び風刺画カートゥーンなどで記号として便利なので復活したという前提で調べている

あー、いや……この前提本当に大丈夫か?自信ないな

記号として復活させたとしても参照元は必ずあるわけで

19世紀アメリカで人々が見ることが出来た美術絵画はどのようなものだったのか?というのがわからないと正確なことは言えないな……

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自分確認した限り、カートゥーンアニメで「死んだら天使の装いをして天に召される」表現をやった一番古いものは『トムとジェリー』の『ネズミ取り必勝法

オールカートゥーンを全て総ざらいして確認したわけではないかもっと古いのがあってもおかしくはない(アカデミー短編アニメ賞受賞作品すらすべて確認できていない)

キャラ死ぬ描写そもそも全然ねーんだわ

トムとジェリーがどんだけ過激なことやってるかって話ですよ

幽霊は沢山出てくるんだけどねえ

ネズミ取り必勝法』はアカデミー賞とる程度には人気だったので、カートゥーンにおける元祖でなかったとしてもビジュアルイメージ固定に大きく貢献したといっていいか

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キリスト教教義では死者は天使になるわけではない、という認識があった(今でもそうではある)

19世紀半ばにスピリチュアル小説流行り、人々の天国観を変えた

→それは死後に霊的な体を持った死者が天国で現世と同じような生活を営むものだった

→死後に天使のような装いになる認識が生まれ

たまたま印刷技術の発展とタイミングが同じで新聞挿絵風刺画漫画などで聖人でもなんでもない普通の人の死者の絵が多く描かれるようになった

→死者に天使の装いをさせた風刺画、紙の漫画カートゥーンアニメビジュアルイメージが固定される(この時点ではヘイローと翼はセット、あくま天使など聖なる魂的な存在専門用語を適切に使う自信が無いので曖昧表現)と同じ装い)

日本キリスト教文脈無視された記号的な描写がされ、ヘイローのみで死者を表す記号表現となる

……という流れだという仮説を立てることが出来た

うーん、自信ない

18世紀以前に普通の死者も天に召されるとき天使と同じ装いをするという認識があった」と言える材料を見つけることができていない

印刷技術が生まれる以前だと絵画にそこらへんの人が天に召される絵なんて描かれないんだよなあ

探すとすれば厳格な宗教者が教義通りに書いた本でなく、人々を慰撫する目的教義からすれば不正確な内容が書かれた本みたいなのがあればあるいは……(というか、それが『The Gates Ajar』なのよ)

また、『The Gates Ajar』などの天国観を変えるイベントによって死者が天使の装いをするようになった、とある程度の自信をもって言えるような材料は正直見つけることができていない

しかし、とりあえず一定レベルで納得は出来たからこの疑問はクローズ

18世紀19世紀の米英のキリスト教史を調べないともうちょっと正確な認識ができるのだろうけれど、それは今後の宿題だな

西洋世界文化史キリスト教歴史は不可分だから体系的に勉強したい

2024-02-14

[] 2024-02-14

自己啓発本や伝記を読むのは負け犬だと聞いたことがあります因果関係が逆なのです。読むから負け犬になったのではなく、負け犬から読んでいるのです。

そういう私もいくつかのミニマリスト本を読んだことがあります。足るを知るというのは、本当に重要だと思うので、その哲学を深めたいと思っています

しかし単にエンタメ目的なら、アメコミでも買って読んでいた方がよいでしょう。

いえ、私はヤングシェルドンを見て、アメコミに興味を持ったのです。例えばXMenは、人とは違うミュータント活躍するストーリーですが、統合失調症の私に共通することがありそうです。

しかし私はシェルドンとは性格は違います。私は潔癖症でもないし、若い時のIQは低かったです。

かに小学生の時に1から10(あるいは100だったかもしれない)までの和を出せと教師に言われて、ガウスと同じことをして褒められたことはあります

しかしなんというか、常識とか倫理とか、そういった人々が共通して持っている知識の欠如が私を苦しめてきたのです。

その点はシェルドンに似ているかもしれませんが、シェルドン自然に善人になっているのに対して、私の子時代悪人のソレでした。

私に対して道徳感の重要性を説得できた身近な大人はいませんでした。大人になって本を読み、聖書を読み、獲得したのです。

しか道徳といっても、日常の行動の細かな点を見つければ悪が潜んでいるものです。

ソロモン王は舌の罪について述べています現代匿名ダイアリーTwitterなど、舌の罪を犯す場が多すぎて、しゃべらないほうが本当はいいのです。

16:30 人は目を閉じて暴言を考え出し/悪を果たして口をすぼめる。

まさに現代SNSのものです。しかしなぜしゃべらない方が賢いと思われるのに、しゃべってしまうのでしょうか。

私は普段、人と会話しないので、誰かと話したいと常に思っています。寂しいのです。

2024-02-11

anond:20240211220308

古い人間なので、聖書神話伝説SF解釈した作品には生殖主題としたものが割とあったななどと思い出した

2024-02-09

[] 2024-02-09

与えられた仕事がない時は自分仕事を見つける必要がありますが、やる価値のあることは少ないのです。

やってコストになるならやらないほうがマシです。

それで、私は「これをやってほしい」とあちら側からやってくるのを切望しているのです。

社畜といえばそれまでですが、私は金儲けは得意ではないので、金儲けの戦略を考えるような話では戦力外です。

生産性を上げるためにこういうツール必要だ、作ってくれ」という話ならば、やる気が湧くのですけどね。

それはそうと、私のチェスの腕前は素人レベルなのですが、chess.comで勝つといい気分になります

結局、チェスとは1日における有限の集中力の割り当てゲームです。休日に朝起きて、朝食を食べた後ぐらいにやれば勝率が格段に増加します。

しか調子に乗って二戦やると、すでに集中力を使っているので負ける公算が高いのです。

何か新しい趣味はないだろうか、と探し続けてしばらく経ちますが、ブログ執筆というのが一番しっくりくるような気がしているのです。

私はこれまでに何種類かのブログを書いてきました。

学生時代サイバーセキュリティブログ就職後は自然言語処理ブログ、あとはいくつかの黒歴史です。

バカも黙っていれば利口に見えるというのは、聖書にすら書いてあります

ブログなど書いても、チェス集中力の話と同じで、いつか気力の弱い時にボロが出るだけでしょう。

それよりも一冊、フィクション小説を書いてみるというのはどうでしょうか。

いや、私は知っています。世の中には溢れんばかりの小説がありますが、その需要限界を迎えていることを。

例えばこういうのはどうでしょう。つまり、語り弾きの録音をして、soundcloudで発信するというのは?

しかすると、アウトプットのできる趣味を求めるのが間違っているのかもしれません。

そもそもアウトプット社会を前提とします。私の脳が社会本能を持ってしまっているために、社会に何かを出したいと思ってしまっているのです。

しかし誰かに認められることなく、家の中で数学をやっている虚しさを私は経験しています

結局学問というのは、社会に成果を発表してこそやる意味があるのです。今、卓上で宇宙真実発見したと言っても、虚しいだけです。

では趣味全般が、社会との交点を有意義さのために必要とするのでしょうか。

いえ、そんなはずはありません。私の母親趣味農業ダイビングをやっていますが、情報発信などせずに充実しているようです。

そうすると、なぜ私は社会のことを過剰に気にしてしまっているのでしょう。

それについては、たぶん私の「新規探究性」にあると思います遺伝的に私は新規探究性が高いので、ようするに新しいことをしたいのです。

社会からの反応は、その刺激を高める傾向にあります

インターネットに不満を感じ始めたのは、目新しさが減り、なにもかもがありきたりに感じ始めたからかもしれません。

私はtiktokが出た時も、「ありきたりなアイデアだなぁ」と思っていました。

マルチメディア動画画像テキスト・音声ぐらいしかなく、そのバリエーションで言えば、動画次元である再生時間」に制限を加えたSNSが出てくることぐらいは誰もが予見していたでしょう。

生成AIが出た時は、「AIもここまで進歩たか」とちょっと驚きましたが、触ってみるとすぐに飽きるのです。小説AI,ChatGPT,画像生成など色々試しましたが、AGIが出てこない限りはあまり驚くこともないでしょう。

「刺激」というのであれば旅を楽しめばいいのでは?それも悩ましいところです。体力と金がないので、旅に向かないと思います

どこか近くに、まだ行ったことのない美味しい料理屋でもあれば行ってみたいですけど、少食なんですよ。

2024-02-04

[] 2024-02-04

私は頭が悪いので「頭が良くなる方法」とよく調べることがあります

なぜかというと、数学チェス趣味であるというのと、仕事プログラマーであるのとで、頭をメンテナンスしたいからです。

そして最も重要なのは睡眠食事運動であることがどの情報にも書かれています

睡眠に関しては、努力はしています。夜更かしをしないようにしていますが、目が覚めてしま場合もあります

食事については疎かになっているかもしれません。こどおじなので、両親が作ってくれますが、朝は食べないことが多く、昼は卵かけご飯ぐらいしか食べていません。

そして最大の難点が運動です。私は過去に「美しいお尻になりたい」といって運動したことがありますが、1ヶ月しか続きませんでした。

ランニングしたこともありますが、やはり1ヶ月程度です。

苦しいと思うことを習慣にしようとしても続かないらしいのです。

しか運動が足りないことを補うために、部屋の中でぐるぐると歩き回ることがありますが、このような運動でも効果があるのでしょうか。

東京の人は割と歩く距離が長いようですが、私は田舎なので、歩くことが極端に少ないのです。

いや、田舎からというよりは、フルリモートの影響が大きいでしょう。

といってもフルリモートをやめるつもりはないですけどね。電車時間が往復で2時間かかるから、それがないだけでQoLが上昇します。

しか電車で通っていた時期もありました。その時はQoLの足しになるように、電車内での読書を必ずやっていて、毎月1冊は読破できたのです。

怠けた生活になってからは、読書さえも少なくなってしまいましたね。

増田SNSなどのデジタルに費やす時間を減らし、それを補う形で読書ができれば良いと思うのです。

デジタル空間に「ソーシャル性」を持ち込んで、良かった試しがありません。きっと、聖書箴言の言っていることが正しいのでしょう。

愚者ほど言葉数を増やすのです。

あるいはこうとも言います:雄弁は銀、沈黙は金

2024-02-02

原作厨はいい加減にしろ

例の件があって以来、脚本家と名の付く者は問答無用ネットリンチしていい、みたいな風潮だが、お前らは何の権利があってそんなに偉そうなんだ。

原作者が「原作通りに」と要望するのは分かる。自分かわいい子ども」だからな。一方で、その辺の考え方は作家によるわけで、原作通りでないから無条件にダメなわけではない。

脚本家が「自分オリジナリティを出したい」というのも分かる。曲がりなりにも創作者だからな。原作者との約束は履行すべきだし、その自身感性解釈再構成したもの面白いか、それに見合った能力があるのかは別の話だが、「完全なオリジナルでないなら自我を出すな」なんて言い始めたら、世の中の大半の創作物は世に出せなくなる。

翻って原作厨は何なんだ。いや、お前らは高々消費者の分際で何様になったつもりなんだ。さしたる教養がなくとも、「原作通りじゃない」なんて批評未満のことは誰にでも言える。誰にでも言えるから棍棒になる。棍棒を持ったら日頃の憂さを晴らしたいよな。分かるよ。

だけどな、それで殴ってる相手が生身の人間だってこと、もうちょっと考えようや。棍棒で人を殴り続けると人は死ぬんだ。知ってるよな?

なら、どうすればいいのかは分かるな。お前らは「聖書に書いてない」っていう理由で人に殴りかかる奴らと同じことをしているんだ。作家は人を楽しませるために作品を作ってるんだ。お前らの棍棒を作るためじゃない。

2024-01-28

キリスト教聖書などを下敷きにした物語

はっきりわからないレベルでもいい。オタク考察した結果そういう説が出てるレベルOK

媒体アニメor漫画がいい。


その昔、エヴァめちゃくちゃハマってたんだけど

最近始めてジョジョ6部(ストーンオーシャン)見てドハマリした。

1〜6部アニメ見たけど、6部が一番好き。

結局キリスト教モチーフにされちゃうと、読み解きが楽しいんだと思う。ゾクゾクする。

全ての要素に何かが隠されているのではないか!?と血眼になってアニメ一気に3周してしまった。これから4週目見る。


テーマも壮大になるので話もおもしろい。

そういう物語もっと見たい。

おすすめがあったら教えてほしい。


進撃の巨人北欧神話だけどあれもとても面白かった。

七つの大罪は脱落した。

2024-01-27

教育ゴロが何言っても無駄

NHK未来教育について議論しているのを見たが、その議論をしている人々は、教育に対する狂気的な親と同じような考えを持っている。

彼らに何を任せても無駄だと思う。もし私がタイムスリップして子供の頃に戻ったとしても、ハッカー精神を貫き、自己責任論を早いうちから獲得したいと思う。

ハッカー画家」という本では、学校は成長するまでの子供を収容する刑務所であると述べている。

世の中の真実とは、意思決定において自分自身しか責任をとれないということだ。大学受験をするもしないも、何を学ぶかも自己責任だ。

インターネットを早いうちから使えれば、賢い子供ならそこから加速度的に学習するだろう。強いていうなら、IT系企業で働く大人子供ネットリテラシーを教えると良い。

小中高で習うような学習内容はいつでも再学習可能なので、落ちこぼれて悔やむ必要はない。

高学歴しか雇わないJTCが社会構造支配しているという問題を、教育問題すり替えるのは愚かだろう。

それも自己責任だ。JTCで雇われようと考える必要はない。

もし大人が教えなければならないとしたら、それは基本的倫理についてだ。

クソフルエンサーを目指したり、バズ狙いで稼いだりすることがなぜナルシスト的で自己破滅させ、他者迷惑をかけるのか。

現代における倫理をまともに教えられる大人こそ、教育者としてふさわしいと言えるだろう。

難しい話ではない。そのような倫理はすでに旧約聖書に記されている。新約聖書ではない、旧約聖書である

仏教や禅からも学べることはあるが、坊主のように浮世離れしたところで生きていくことはできない。

倫理には実用性が必要であり、聖書には現代に通ずるものがある。タイパが重要というなら、ソロモン王の箴言だけでも読んでおいた方が良い。

日中韓教育ママ倫理教育を疎かにし、インテリ気取りで受験のためのコンテンツを詰め込もうとするが、それは教育ではなく、妖怪製造工場だ。

かに知識重要であるしか知識競争傲慢さを生む。自分を賢いとみなす者が幅を利かせる地獄である

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