はてなキーワード: 享受とは
東京にうまいもんは売ってない。少なくとも廉価なものに関しては。
それはわかるが、うまいもん食いたきゃ金出すか、地方に行けばいいんじゃね?
農家出身とか、農村出身で東京の食いもんに文句言うやつは利便性を享受しておきながら、金は払いたくないんだよ。言ってしまえば贅沢なの。言っとくが、金さえ払えば、東京ほど美味いもん食える都市、世界中探してもそんなにないぞ。全くないとは言わないが。
俺は嫉妬深く、逆恨み精神が強く、いつも妬み嫉み、僻んでいる。
自らの状況を改善する努力はしないくせに、眠る前に目を閉じれば、浮かんでくるのは妬ましい奴らの妬ましい生活ばかり。
インターネット上には、妬まないためのマインドの持ち方やら、すっぱいブドウ理論で己を慰めているような奴らの文章ばかりだ。
俺はただストレートに、まっすぐにこの薄汚い嫉妬心をぶちまけたいんだ。そして聞きたいんだ他人のそれも。
俺は従兄弟が憎い。
こうしんちょうこうしゅうにゅうこうがくれき。
びじんな、おくさん、かわいいむすめ。
『せっかく東京に来たんだから上野美術館や◯○大学のキャンパスを見学にいきなよ。俺が案内するし。あ、いや、✕✕君は埼玉の鉄道博物館の方がいいかもな』
おまえはこの台詞、なんの悪意もなく言ったんだろ?
なんの悪意もなく、田舎者で頭も悪いオタクの俺は、美術館での芸術鑑賞や絶対に合格したりしない大学の見学なんかより、
お前はこんな風にしゃべったことすら覚えてねぇだろうな。
俺はお前が妬ましくて毎晩この台詞を思いだしてイライラして眠れなくなる。
お前が五体不満足になって家族に捨てられてもうこんな人生嫌だ死んでしまいたいってそんなふうになる日が来ないと俺は救われない。
小さな趣味や幸せを見つけろだって?自分の人生を楽しめってか。そうできるならもうしてるさ。
できないから苦しんでるんだろ。
俺にDEATH NOTEがあれば、お前を真っ先にむごたらしいやりかたで56したい。
「妄想だ」と叩かれることが多いけど、「女の子が降ってくる」に近い事態というのは現実にあって、
20代前半の頃、ぼんやり生きていたら、積極的な女の子が急にグイグイ来て、悪い気はしないので受け身に付き合った。
でもその女の子が美少女なわけではなく、普通のルックスで、会話がかみあわないことがある子だったりして、
「結婚したいという気は起らないなあ」なんて上から目線のことを考えながらぼんやり付き合っていたら、
唐突に振られて(本当は唐突ではなく、サインが出ていたのに、気づかなかったか、面倒だから無視していただけなのだろう)、
振られたあとは20年、あらゆる女性から「人間」としては会話してもらえるけど、「恋人・配偶者候補」としては無視されて、
元彼女の一件は「奇跡」であったことを、10年20年経って、さすがに直視しなくてはならなくなる。
元彼女は今でも自分のことを好きでいてくれるはずという幻想にも浸れない。とっくに既婚者になっており2児の母だ。
ぼうっとしている人間が、ラッキーで女性の好意を得られても、ぼうっとしているままなら、逃す。
ラッキーがあったときは、ラッキーが途切れないうちに、運の流れが来ていると感じているうちに、
死ぬ気で、自分を作り替える勢いで、求められることができる人間になれるよう学ぶべきで、
そうでないと流れが途切れたときに、全部が元通りになる。
プライベートの人間関係だけではなく、仕事でもなんでも、人間が関係するものはすべてそうなのではないか。
女性についてだけ書いているようだが同性の友達もいない。積極性やサービス精神がないと同性にも相手にはされない。
分かれ道は、まず「運の有無」があって、次に「運に乗って学習するか否か」がある。
ひたすら運がない、本当に運がなくてすべての機会が絶たれている場合は気の毒だ。
でも、多数派は俺みたいに、運がもたらした機会を怠惰によって台無しにしているのではないか。
本当は怠惰が原因なのに、運がなかったと思い込んで、努力家が享受しているものだけを、あいつは運がいいと言って、ねたんでいるのではないか。
「上の世代が下の世代に押し付けた」みたいなのはず~~~っと延々と続いてきたことで、今の老人達 (年金受給者) だって繁栄の享受だけしたわけでもない。 もちろんその前の世代だってだ。
1980年頃までの日本の田舎では魚屋はハエだらけで、水道が通ってないとこもまだ有って、水洗トイレなんて無く、住宅不足で納屋に住みながら長男家族にいびられる。 そんな世界だった。
体験したわけじゃないのでそれがどのくらいひどい時代だったかというのは実感はできないが、話に聞く範囲だけでも耐え難い。
その頃には日本で一番裕福な人だってインターネットを利用できなかった。 だって日本にインターネットが無かったから。
今がそうじゃないのはどうしてだと思う? そりゃあ先人たちが解決してきたからだ。
我らは間違いなく先人たちが残した恩恵を受けている。 それを忘れて解決しきらなかった問題ばかりをあげつらって世代ごと悪として扱うのはあまりいい態度ではないよ。
豊かさは物やサービスであって、カネをたくさん持ってても無いものは買えない。 総合的に見れば今の若者にとっても極端に不遇な時代というわけでもない。
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/anond.hatelabo.jp/20220508104059
「たわわだけに騒ぐのは、たわわを好むキモい非モテ男性に対する嫌悪感を作品にも感じて叩いてるんだろう、園子温は地位と財産と才能をもつ強者男性のクリエーターでキモくないからスルーするんだろう」なんて穿った見方をしてる人たちがいるけど、
そんなことはない
そこまで考えてない。
たわわの広告は生活してて自分の目に入る(可能性が)あって、現実離れした男に都合のいい妄想女を見ると不快だから無くすことは大事で、園子温(をはじめとした映像業界人)は自分が生活していく中で今後一生関わることはないだろうから関心が持てない、という単純な話なの。
仮に園子温と関わることがあったとしても、彼の性的要求の対象になるのは美しく容姿の優れた女優・女優志願者だけで、私のような頭でかくて足短くて等身低くて寸胴で胸もない十人並みな容姿の女なんて手を出す対象にならないだろうしね。
日本人口1億人の半分の5千万人の女性のうち、映像業界人から被害にあう可能性のある女って、せいぜい数百人単位でしょ。しかも無作為抽出でなく、女優になれるほど(目指せるほど)優れた容姿をもってる人だけで、世の大多数の女性にとっては全く関係ない話。
だからみんな騒がないんだよ。
心の暗い部分の話をすれば、被害にあった女優達は、これまで優れた容姿でさんざんいい目に合って容姿のメリットを享受してきたんだから(女優を目指せる、ていうのもメリットの一つだよね。私は子供のころから鏡を見て自分が女優になれるかもしれない、女優を目指そうなんて気は全く起こらないもの)それくらい受け入れたら?嫌なら最初から私みたいに冴えない男と妥協して結婚して時給千円でスーパーのレジ打ちパートを一生すればいいじゃん、て思ってしまう。
私がどんなに努力しても生まれ持った顔と体型で女優になれる可能性は0%だけど、女優たちはレジ打ちパートに明日からでもなれる。そういう非対称性がある。私は持たざるもの、彼女らは大きな魅力を持って生まれた強者女性で、それだけで同情心が消え失せてしまう。
ざまみろまでは思わないよ。そこまでひどくはない。ただ世の中ってやっぱりバランスとれてるんだな、くらいの感覚。
こういう感覚、表には出せないけど、多かれ少なかれ多くの女性は持ってると思うよ。
だから女性相手に商売してるハフポストが、ふだんは性的搾取とかにうるさいスタンスを取ってるのに、この問題には触れないんでしょう。主要な顧客にとってはどうでもいいニュースだから。
いやいやいやいや、何で自分の好きなものへ投資して開拓して楽しんだら先行利益を享受しているって話になるんだよ
ん?じゃあその理論で行くと電子書籍へ投資して開拓して楽しんだら先行利益を享受していて、VRへ投資して開拓して楽しんだら先行利益を享受しているって話になるの?
オタクが投資して開拓して楽しんでいたものが世間一般に流行れば先行利益を享受しているって主張が通るなら、オタクが投資して開拓したコンテンツのインフラへフリーライドしてんじゃねーよって主張も通るよな?
PIMへもPDAへも投資しなかったヤツによる「オタクはスマホを使いこなしていてズルイ」という主張が正論で、オタクの今までの投資や開拓は悪なんだな
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/twitter.com/nogawam/status/1521713882733375488
ここのブコメで中絶禁止の考えはキリスト教由来、ってことで批判されてて、
中には宗教がサスティナビリティを損ねる、みたいな意見もあるけど。
こと“出生”というサスティナビリティに関しては宗教の力って凄いと思うなぁ。
その分男女交際に慎重な人も多いよ。
自分はノンクリだけど、友人のクリスチャン(プロテスタント、めちゃくちゃ善い奴)は、
まぁそれら含めて「なんか嫌だな」って思う人もいると思うけど。
んで、婚姻や出生に関して宗教的・倫理的に奨励しているっていうのもあって、
この流れが続いたら、いつの日がクリスチャンが多数派になったりすんじゃないの?
結局ローマ帝国と多神教は少子化でキリスト教に飲み込まれたし、
アメリカテキサス州で、実質、人工中絶が不可能になる州法が成立したらしい。
まず、これに関するリアクションのうち、それは間違っているよ、と言う諸々を指摘する。まず、この州法が違憲、あるいは脱法的であると言う見解について。
そもそも合衆国憲法で、中絶権の規定は無い。今日の妊娠中絶合法化は連邦議会レヴェルでの立法措置も経ておらず、1972年のロー判決を根拠としている。レンクイストとホワイトは、ロー判決に関しては、「司法による立法措置」であることを理由として、ロー判決に反対している。
つまりそこにあるのは、司法解釈であって、法律や明確な憲法規定ではないわけだ。だからそもそも「違憲」になりようがないし、脱法的にもなりようがない。そして司法解釈に過ぎないから、司法解釈で変更され得る。現在の最高裁に今回のテキサス州法の案件が回れば、ほぼ確実にロー判決の司法解釈は棄却される。
「違憲だ」「違法だ」と言うけど、保守派は法廷闘争を待ち望んでいるのだ。法廷闘争になれば、負けるのはリベラル派であり、そうなれば「違憲だ」「違法だ」と指をさされるようになるのはリベラル派の人たちであり、人工中絶した女性はめでたく犯罪者だ。
ここ40年、おおむね最高裁は保守派優位で推移してきたけども、ロー判決を廃棄できる機会が何度かありながら、それが出来なかったのは、レーガンに指名されたオコナー、ケネディ、スーターの3判事が、最高裁陪席判事になってから、スタンスを保守派からリベラル派に変えてしまったせいだ。そもそも合衆国憲法自体がリベラルなので、ごりごりの保守派とみなされていたスカリアでさえ、憲法原理主義的な解釈をする人なので、判決としてはリベラルになることもあった。
それの前例も踏まえて、今の保守派判事たちは、かなり強固な保守派が選ばれているので、最高裁長官の職務にあるロバーツが職責上、敢えて中立的なスタンスをとることもあるのを除けば、リベラル寄りの判決を出すことはまずあり得ない。今は最高裁は6対3で保守派が優勢なのだ。
保守派にしてみれば、法廷闘争ばっちこい、と言う感じである。とはいえ、その6対3の保守派優勢の最高裁が、トランプが要求したオバマケア違法化にはNOを突き付けたように、100%党派的な思考をとるわけではないが、中絶は、命の問題だから、そうそう簡単に妥協する余地も無いのだ。
中絶に関する議論で、男女平等と言う観点から、もっと言えば「男も逮捕しろよ!」的な意見から立論する人もいるが、根本的にその人たちの論理が間違っているのは、これが公共の福祉の調整案件だと言うことを認識していない点にある。胎児の人権と女性の間での公共福祉の調整案件が発生しているのであって、そこには男性の権利と調整しなければならない必然性は全く無いのである。
これは言うなれば、過去の徴兵制における男女不平等が、「機能的な軍隊を必要とする政府の必要」と「徴兵されることによって著しい負荷がかかる男性の諸権利」との間に発生したものであって、それは男女不平等ではなく、「女性は関係がない」案件であったのと同じことである。ロジカルにはそうでもあるし、歴史的に言えば、徴兵制のように女性には他人の命を犠牲にして、法益を享受してきたと言う「実績」もある。
言ってみれば中絶禁止は、「女にとっての徴兵制」であって、徴兵制の名のもとに、徴兵された男性たちの「戦死」を見守って来た女性たちには、「女にとっての徴兵制」自体を批判するロジカルな資格は無いのである。
そして、中絶に関して言えば、どこからがヒトとみなすかと言う難しい問題はあるにしても、1月1日13:00に新生児が誕生するとして、13:01に新生児を殺せば殺人で、12:59に”胎児”を殺せば器物破損に過ぎないと言うのは、機能的にも倫理的にもかなり無理がある。自然着床した受精卵にヒトと同等の、あるいはそれに準じる人権を想定するのは、最も無理が無い解釈だろう。放っておけばいずれヒトに至るのだから。
そして胎児や受精卵はDNAが違うので、女性の一部ではないし、女性の付属物でもない。他人の命を女性に無条件に与えていいのかと言う問題でもある。
胎児の人権(生存権)と女性の身体自由権を比較した場合、どちらが重篤な損害を被るのかと言えばそれはもう生存権であるのは間違いないので、人権を重視すれば重視するほど、中絶は違法化する以外には考えられない。この袋小路を女性が逃れ得るとすれば、「胎児はヒトではない」とするか、より根源的な人権思想ではなく、単なる女権思想を至上としてその上に立脚して「女性に損害をもたらすから中絶禁止こそが違法である」とするしかないのである。
どちらもナチス的なファシズムに陥っている。つまり機能的には既に自立しているような胎児に対しても、ヒトではないと規定し得ると言うことは、障碍者、LGBTQ、ユダヤ人などをヒトではない、少なくとも生存が許され得るヒトではないと規定出来る権能を、政府社会に与えると言うことである。人権思想の上に女権思想を置くことは、ナチズムそのものである。
宗教保守から中絶禁止の動きが一方的に起きているわけではなく、リベラルの内部においても、人権思想の観点から中絶には批判がなされていることには留意すべきである。
とはいえ、強姦の結果としての妊娠出産まで強制するのはプロライフ派の大多数にとっても本意ではない。それは、性的被害の記憶と結果が多大な負担と共に長期化し、心身ともに女性を生存レベルで危険に追い込むことに他ならないからである。この場合は「緊急避難」が想定されるだろう。誰も他人の命を救うために、死や死に等しい損失を甘受する義務はないのだ(徴兵制はこの意味でも、最も過酷で最も非人間的な強制であった。そして女性はそれを放置していた)。しかし現実の中絶案件のほとんど、かなり緩く見積もっても95%以上は、強姦案件ではない。性行為をしなければ防げるものであるし、避妊器具を用いれば防げるものであるし、ピルを飲んでいれば防げるものであるし、アフターピルを用いれば防げるものである。数多くのルート回避の方法があるにも関わらず、それらの回避をしなかった結果の妊娠中絶である。当然、胎児の生存権を上回る法益性がそこにあるとは考えにくい。
私は、強姦案件での中絶は合法、それ以外は違法、とするのが妥当だと思うが、その妥当な落としどころが「女性の身体権の絶対性」主張派とは築くことが出来なかったがために、より人権原理的な立法措置が、アメリカやヨーロッパでも徐々に取られつつあるのが現状である、と言う認識である。
法律婚を願う、かつどちらの姓にするか揉める男女は女性が改姓するパターンが多いのでは、という話を聞いた。データ取ったわけじゃないんだろうが、まあそうなっても不思議じゃないなと個人的に思う。
私自身は選択的夫婦別姓導入して欲しい派かつ絶対苗字変えたくない派だ。ゆえに、これは女性が苗字を変えることを推奨する意図の文章ではない、と先に明記しておく。
まず男女平等の観点から言うと、9割以上が女性側が改正している現状を変えるためには男性に変えてもらう方がいいだろう。『女性が苗字を変えるのが当たり前』という現在の風潮は『多くの場合、女性が苗字を変えている』という事実に支えられているから。
ただ、結婚してどちらが姓を変えるかというのは結局のところ個人と個人の間の話だ。ゆえに議論するにあたり『いかにして男女差別を無くすか』よりも、『いかに落とし所を見つけて良好な関係を継続するか』が大切になる。(男女差別に日頃から意識を向けている人間同士であれば前者の方向性で話を進めることもできるかもしれないが、稀有な例だと思う。)
日本人の女性の多くは『結婚したら自分が改姓するだろうな』と、きっと一度は思ったことがある。ゆえに自分ごととして、改姓までの道がとても面倒なことも理解している。そこで男性が改姓する場合はさらに、『希少性』が追加される。
例えば男性が改姓することとなれば少なからず周囲に「どうしたの?」と聞かれるだろう。また、自分の息子には苗字を変えてほしくないという親もいるだろう。
相手の立場で考える女性ほど、周囲の視線や親戚の説得といった『改姓によって生じる男性ならではのコスト』を相手に背負わせることに躊躇する。だから自分が変える、ということになってしまう。『相手に思いやりを持つこと』は結婚生活を続けるにあたり、重要なことだからだ。
私個人としては、だからといって常に女性が改正すべきだとは思わない。女性は「結婚するの?苗字何になるの?」と当たり前のように苗字変わる前提で話を振られる。『苗字を変えたくない』という気持ちを伝えただけで、相手や相手の親戚に拒否反応を示される。苗字を変えたくない女性だって、風潮に晒されて傷ついてきたのだ。男性サイドがそうゆう女性の傷つきに寄り添って苗字変えてくれてもいいんだよ?と正直思う。
話を戻す。要は、女性(特に苗字変えたくない女性)の方が男性より改姓に伴うアレコレを考える機会も多く、そのため相手の負担も見えてしまうし考えてしまう。そして、自分が譲らざるを得ないという結論になってしまうのではないか。
ただ、そのようにして女性が我慢して改姓したことについて、どれだけの男性が感謝しているのか、また感謝を忘れないでいられるのかとも思う。
これは『当たり前のことに感謝するのは難しい』という話だ。
例えばこの国では蛇口をひねれば水が出るし、スイッチをつければ部屋は明るくなる。でも、そのことをありがたいと日々感じている人はどれくらいいるだろうか。
改姓もそれと同じで、男性にとっては『相手が変えるのが当たり前のこと』だ。なにせほとんどの夫婦がそうしている。
幸い、水や電気に日々感謝の意を示さなくても料金を払う限り日本人は当たり前にそれを享受できる。ただ夫婦関係は、金さえ払えばいいってものでもないだろう。
相手が自分のために何かしてくれることは当たり前ではない。これは人間関係の基本ではないかと思う。パートナーが苗字を変えてくれた側は、それはパートナーがあなたとの関係を思って出した結論だということを心に留めておいてほしい。
ここまでは、法律婚をしたい男女に対して私が思うこと。ここから先は私個人の話だ。
冒頭でも書いたが、私は絶対に苗字を変えたくない。そして、嫌がる相手に苗字を変えさせたくもない。選択的夫婦別姓が無理なら事実婚だ。子供を持つ気もないし。
私はもし自分が苗字を変えるとなれば一生根に持つ。それこそ、その後のあらゆる選択の主導権を全て自分が握ったとしても気が済まないだろう。逆に嫌がる相手に渋々変えさせても一生負い目に思うだろう。
日々の感謝は忘れられがちだが、負の感情は意外と長持ちするものだ。片方が一生モノの恨みや負い目を抱えてる夫婦ってどうなんだろう?と思うので改姓を伴う結婚はしない予定だ。
このような問題で各々が悩むのは、現行の制度で法律婚する場合どちらかの苗字に統一しなければならないためだ。1日も早く、選択的夫婦別姓が導入されることを願っている。
月曜日のたわわってめっちゃポリコレに気を使ってる漫画なんだよなあ…。
セクハラダメ!って話は毎回のように出てくる。「これは女性の自由意志、女性からの好意」という強調がむしろクドい位出てくる。
とか言ってる人がtwitterにいたんだけど、ここでいう「ポリコレに気を使ってる」って、〈配慮〉じゃなくて〈アリバイ作り〉、つまり周到な言い訳や逃げ道の確保のことなんだよね。
「たわわ」って「読者が自己投影する匿名的な主人公が、自らの主体的意思と行動自体はポリコレに抵触せずに、でも色々な事情でやむなく、積極的なJKやら天然な同僚社員やらの身体に接触したり鑑賞することになったりする、つまり何ら責任を問われることなく性的な興奮や愉悦や癒やしを感じられる筋立ての漫画」じゃん? その点では確かに「ポリコレに気を使ってる」とは言えるよ。でもそれは全然評価されるべき要素じゃないよね。
「セクハラダメ!って話は毎回のように出てくる」のも「「これは女性の自由意志、女性からの好意」という強調がむしろクドい位出てくる」のもそのアリバイ作りのためなのは、普通の漫画読みなら誰だってわかるだろう。自分のほうが能動的・積極的にアプローチしてるわけではない。たまたま状況がそのようになったり、相手が自分に好意を持ってたり、自由意志で行動した結果、主人公側がその女性身体の性的要素、胸の豊満さを堪能できる状況になってしまう。言い換えれば、「いや〜んエッチ!」というビンタの伴わないラッキースケベ。
第1話からして、「痴漢からアイちゃんを守らなければいけないので彼女の至近距離で密着する」というシチュエーションが作られ、その状況下で不可避の出来事としてアイちゃんがしゃがみこみ、自分の下半身に胸を押しつけて摩擦することになり、自分が意図せず興奮・勃起してしまい(ご丁寧に「💢マークつきの上向き矢印」という漫符で表現されている)、アイちゃんも薄々それを承知し、まんざらでもなく思っている。どれひとつとっても一切自分のせいじゃないけど、結果としてのお楽しみは自分が享受できる。全てが主人公にとって都合の良い世界。
そういう作り物の物語構造を理解したうえで「男性青年誌に掲載されてる、そういうのが読みたい読者層向けの漫画なんだから、別にいいやろがい」という擁護のスタンスをとるなら、まだわかるんだよ。でも、あれが女性の自由意志を尊重した女性主体の漫画だとか、胸にコンプレックスがある女性がそれを受け入れる女性のセルフエンパワメントの物語だ(後者は別の有名ネット論客の評)とか言い出すのは、単純に卑怯だよね。責任0リスク0のライトエロを堪能させてくれる物語構造に、気づいていながら気づかないふりをする読者。欺瞞的な物語に欺瞞的な迎合をするやつ。俺はそういうチキンなやつは嫌い。
(続き)教育に悪いと思うのはまさしく偏った価値観に基づく考えだ。
100万年前とかに生まれていたら裸でほっつき歩いていても何も感じるものはないはずだからだ。
その教育に悪いという考えで子供に性に関するあらゆることを隠すことが、子供に性に関することへの後ろめたさを植えつけることになるのだ。
そもそも法律が撤廃されると言う前提ならその未来の撤廃された世の中で裸で歩いていても全く反社会的な行動ということにはならないので、裸を見て育つことが将来裸になって歩く因子になっているのだとしても、教育に悪いということには全くならないはずである。
法改正直後には街やテレビの映像として裸が視界に入ってくることになり、それに不快感を示す人も一定数出て来ることだろう。
しかし社会の移行期には誰かしら不都合を被る層が出てきてしまうことは当然なのである。
一切の不都合を被る層が出て来ることを恐れてはより理想的な方向への変革もままならないのである。
LGBTに対する多様性を確保した次には、このような法改正をすることでより大きな多様性を確保していくべきである。
いずれネイティブに性に後ろめたさを感じる人はいなくなっていって、裸に不快感を示すことなど「お気持ち」に過ぎなくなるだろう。
ある意味で原始時代に戻るわけである。原始時代においてそんなことに不快感を感じる人など奇異な存在というものである。
どんなときでも服を着なければならないということではなくなることによって、社会はより合理的に回るようになるだろう。
それだけではなく、同意の無い他人を巻き込まない限りは街中でオナニーすることや野外セックスだって可能である。
こんなことを言えば、また教育に悪いとか言う人が出て来るだろうか。
極端な話だが目の前で殺人が起こったからといってただちにその子供の将来が殺人犯ということになっていくのだろうか。
そこらへんもひっくるめてリアルタイムで子供を矯正していくのが親の務めだと思う。
むしろ自己完結的なあるいは納得ずくの性行為と同意なき人を巻き込んだ性行為との峻別を絶えず親は教えていくべきである。
街中で他人の納得づくの二者間のセックスを見たからといって、その子供の将来がただちに強姦魔に決するというのは、殺人の一部始終を見た子供が殺人をするようになる以上の飛躍というものである。
普通に教育すればこれほどの飛躍が発生することはまずないはずである。
現代の面前DVの定義には性行為を見せることというのがあるそうだが、個人的には嫌なことを強要し続けた段階で何事もDVであると思う。
逆に、嫌なそぶりを見せたらすぐひっこめればDVには当たらないと思う。
教育用のひらがなを教えるようなビデオを見せても関心を示さない子供の首を無理やり固定してするようなことはむしろ虐待であるから、勉強とかに興味がないとわかったら、ただちにボール遊びとか、次の将来につがなるなかで子供が興味を示すようなことを模索するものである。
興味を示したらもっと見せればよく、将来AV俳優として大成するかもしれない。
性に関することについて何が処罰される社会に変わるのか少しわかりづらいかもしれない。
簡単に言えば現代でも強要罪にあてはまるものに処罰対象が限定されるようになるということである。
しかし立ち去った相手にわざと近づいてその眼前で性器をぶらさげながらとおせんぼするようなことは、公然わいせつなどが廃止されても強要罪にあたるだろう。
そういうことがしたかったなら、もし既に裸であるなら一定の離れたところから(具体的な距離はここで考えることではない)同意を求めるべきである。
事後承諾に期待するのは勝手だが、あとで同意がなかったと被害届を出されても事後承諾を図っていたことが発覚した時点で情状酌量の余地はないことに留意するべきである。
ゆるくするところはゆるくなら、きつくするところはきつくというものである。
基本的には強要罪に一元化されるが、性に関することについては厳罰化も検討されるというのは前にも書いたとおりだ。
基本的に同じ行為に対する罰則が理由なく厳罰化するということには不公平感を感じられるものだと思う。
しかし煽り運転が厳罰化したように、悪質な犯罪が増えた場合にはそのようなことになるという例はある。
悪質な犯罪が増えることが予期された場合には厳罰化の検討ということも普通に考えられるわけである。
もっともとそれが性に関する法律を一部ゆるくするという法改正によるものならば、最初からそんなことしなければ厳罰化しなくても済むじゃないかという反論もありえよう。
なので結局改正のほうを否定するのではなく、改正したのちの未来の犯罪の動向についてどう対処すればよいかという話に帰結するべきだということになるわけである。
性に関する法律がこのように緩和されて性に対する余計な後ろめたさがなくなれば、今はわいせつとかされているものに対する不快感もなくなっていくだろう。