はてなキーワード: 辟易とは
Vtuberに飽きてきた。
流行り始めてからVtuberを沢山ではないが気になったやつを選んで見てきた。
ツイッターに関しては面倒なので全く見てない。youtube上で見れる範囲で追っかけてた。
最初はたしかに面白かった。でも結局、散々言われてるがアニメアイコンの生主と変わらなかった。
元々はゆっくり実況とかが好きで生声実況とかは全然見ないほうだった。
Vtuberは生声がもたらす現実世界の存在をキャラのガワで中和してくれた。
最初のうちは数少ないVtuber同士だったから仲間意識も芽生えてコラボ等のやりとりで盛り上がったろう。
しかしVtuberという肩書きが外のVtuberと絡む口実になる事実を作ってしまった。
界隈は盛り上がっていて数字を取るならとにかく始めろという風潮まで出来上がってた。
とりあえずキャラ紹介動画だけ出すならマシな方だった。酷いとキャラだけ決めて動画もないのにツイッター上で「Vtuberです」なんて呟くやつもいた。
たぶんVtuberになれば人気のあの人にお近づきになれるかもとかいう考えでVtuberになった奴ばっかだったんだろう。
昔から今でもVtuber限定で凸待ち配信とかやってるけどこれは悪しき風習だと思う。配信主を見に来てんのに視聴者退けて知らんやつとの放送見させられて面白くないんだよ。
とにかくVtuberはコラボが大事と芸能界かよと思えるような状況だった。
それ故、視聴者よりもVtuberのほうが大事にされてる気がして嫌気がさす。疎外感が半端ない。
配信ではキャラ崩壊は当たり前どころか大前提でそれが笑いの種にもなっていた。
一応キャラのガワと設定はあるが中身が透けて見えるような言動があれば視聴者はいじっていた。
そんなのを見続けているとキャラのガワを貫通して、カメラに向かって喋りかけている生主の姿が当然思い起こされる。結局は実在の人間なのだと。
いつの間にかVtuber=自分と同じ人間というのが頭の中に根付いてしまった。
Vtuberが流行り始めた頃は多種多様なオリキャラがゆっくり実況のような動画を出していくんだろうなと期待していた。でも主流とかを追っかけていたら生身の人間が喋るのを聞いてるだけだった。
現実世界は透けて見えないし演劇動画でさえ彼らの日常の一部であるらしい。
こんなに飽き飽きしたのは追ってたVtuberが週6投稿といいながらオンゲーに現をぬかし、新モデル公開は遅れるわ、興味ない奴らとapexやってるわで嫌気が差したから。
あとVtuberの炎上まとめ動画を最近いくつも見たせいでもともと冷めかかってた熱が潰えたのもある。
Vtuberはスキャンダルありませんしとかいっといて、アズマリムるとかいう糞ムーブが存在したりするし、Vtuber限定凸待ちとかいう視聴者の得しない風習はあるし辟易したからかな。
利尿剤や下剤などの薬物服用、過食嘔吐などを含めた不健康なダイエット方法のこと。通称病みダイ。
※この記録は無理なダイエットをお勧めするものではありません。むしろ、心身ともに破壊されます。絶対にやめましょう※
☆
私は幼い頃から食べることが好きだった。朝も夕飯も机に一汁五菜は軽くないと拗ねる父親と、料理大好きでそんな父のリクエストにも軽く応えてしまえる調理師免許持ちな専業主婦の母親の元で育った。ちなみに、お昼は幼稚園〜高校と全て私学に通ったせいで給食というものに縁がなく、15年毎日母親の手作り弁当をぶら下げていた。
想像に難くないと思うが、育ったのは年齢だけではなく横幅も順調に大きくなった。なんと小学校6年の頃は160cm 75kg、高校を卒業する頃には165cm 120kgと、小さい頃から大きくなるまで痩せていた期間がまるでないエリートデブの道を歩み続けた。
高校卒業後は医療系の大学へ進学し、日々講義や試験、実習に追われる中で次第に「このまま社会人になってもあまりにもデブすぎて患者さんに説得力ないよなぁ……」などと思い始めた頃に、1年を通した病院実習が始まった。その実習では、比較的学年の中でも声の大きい男子を含めた3人と一緒になった。
声が大きいだけで真面目というわけではなく、講義はサボるし実習も出来る限り出ない。課題は出来る学生のものを借りて写す。テニサーの女好きで、まあ、いわゆるクソみたいなパリピ的存在のやつだった。
あー、多分実習の課題は全部私が見せるんだろうし、代返もさせられそうだし面倒だなと思っていたところ、実際その通りの展開となった。「どうせ君真面目だから全部見ていくでしょ?俺早く帰りたいから早めに抜けるわ。悪いけど、学生1人いれば先生の班への印象もいいもんで最後まで残っておいて」などというお願いは日常茶飯事で辟易していたが、文句を言って関係が悪くなるのも嫌で黙って従っていた。
そんな折に彼が別グループの男子学生たちに向かって、休憩室で「いやまじアイツと一緒とかないわwwwこう、もっと可愛い女の子と一緒に実習できるの期待してたのにあのデブスと一緒なのはマジ最悪www」とこれ見よがしに言っているのを聞いてしまった。
実際彼としては本心なのだろうし、普段なら受け流せた発言だったはずだ。エリートデブとして培われたデブやブスといった単語に対する免疫力を舐めないでほしい。ただ、その時は課題のことや出席のことなど散々肩代わりしてやっていた頃だったため、「(お前散々人に迷惑かけといてその言い草はなんなんだよ)」とそっち方面でイラついてしまった。
そして、このままではあまりにも自分がデブ過ぎて医療関係者としての説得力にかけるという自覚もあったために、ダイエットを決意した。
実習は忙しく、生活自体が気をつけないといとも簡単に破綻する。食事制限するにはもってこいだった。まずは食事をイベント(上の先生が奢ってくれる、友達とご飯に行くなど)以外では極力摂らなくなった。
しばらくすると、何かを食べようとしても食べることへの罪悪感から物が胃に収まらなくなった。友人たちと食事をして帰宅するとそのまま猛烈な吐き気に襲われて、トイレで全部吐いてしまう。食べることは好きだけど、そのままでは太ってしまう。味を感じられればあとは吐けば良い。そういった思考に陥り、ここから過食嘔吐生活が始まった。
ご飯はそこそこ食べるのだが、しばらくすると吐いてしまう。そして吐いたことによってスッキリする。体重計に可能な日は朝夜寝る前と乗り、前回より10gでも増えていると耐えられなくなった。市販の下剤を飲んだり、長風呂で汗をかいて数字だけは減らす日々。最終的にはあんなに好きだった食べることさえも苦痛となり、ほぼ絶食状態へ。
ただ、流石に缶コーヒーを週で2本しか飲まなかった時は、病院へ行く電車に乗ろうとして意識がブラックアウトしてしまった。電車とホームの間に落ちた私を助けてくれたOLさん、サラリーマンのお兄さんには感謝しかない。
そして体重の推移を事細かに記載し続け、2年で50kgほどの減量に成功した。max125kgはあった体重が、75kgまで減った。
途中、1ヶ月で20kgほど体重を落とした際は体重減少性無月経や低体温に悩まされたりもしたが、体重を落とす速度を緩やかにした結果改善した。一時食事が食べられなくなってしまった身体は、母親の献身的な支えによって今まで通りに食事が取れるまでに回復した。
今考えると人外かというレベルの三桁デブを卒業した私は、その後は一応デブな人間として生きることができた。なにより、デブ御用達の大きいサイズ専門店ではなく、その辺の普通のお店で服が買えるようになったことが一番嬉しかった。
大学を卒業し、リバウンドもなく2年間は社会人として仕事を続けた。3年目になり、異動した先の職場はかなり激務だった。食生活も乱れまくり、気がついたら体重は10kgほど増え、85kgほどになっていた。流石にこのままではやばいと思い、再度生活の見直しを始めた。なるべく体を壊さずに、ジム通いや食事内容の変更をするように心がけた。その後、通っていたジムの周辺で連れ去り殺人事件が起きたことからジムだけはやめてしまったのだが。
そんな折に職場の同僚が、長らく付き合っていた彼女と遠距離の末に別れたという話を聞いた。何やらとても美しく優秀な女性だったようで、彼としては結婚も考えていた相手との破局に未練タラタラだった様子であった。
「君も早く彼氏作ったら?」
「いやー、私デブだしブスだし無理かな。今は仕事も忙しいから、そのうちね」
私も親からここ数年結婚に関しては強く言われ始めていたが、自分の容姿が一般男性ウケしないことは誰よりも重々承知していた。だからこそ、まずは自分の見た目をなんとかしてからでないと、恋愛や結婚を考えるなど分不相応だという気持ちが強かった。男性側からしたら、こんな見た目の女に好かれても迷惑としか思えない。
別に同僚はただの同僚であり、入職から今までなぜか常に私に対しては上から目線が強かった男だった。そんな彼からの面倒な詮索に関しても、適当にあしらって話を終わらせて帰ろうと思った。しかも自分の元カノの容姿、性格その他ひたすら褒め続けるのを聞くのにも疲れた。適当に自分を卑下して話の腰を折り、さっさと撤収に限る。しかし、それがなぜか彼の変なスイッチを入れてしまったようだった。
「どうせ自分の見た目がダメだから、とかいうんでしょ?正直言ってそれはそう。太ってる女が好きな男はまずいないから。俺も細い子が好きだしね。男はね、女が男の顔しか見てないのとおんなじで身体が良ければ顔とか性格は割とどうでもいいんだよ。」
「はぁ……?」
突然何を言いだすんだこいつ、と思ったが彼の勢いは止まらない。
「君はまず痩せること。痩せればモテるよ。胸もデカいし、綺麗になると思う。だから明日から君はご飯食べちゃダメ!ファスティング!!筋トレ!!!わかる?ファスティングと筋トレだからね!!」
「」
「あと男を見つける努力が足りない!!ちゃんと婚活とかしてる?あ、みんなで出かけた帰りとかよく飲み屋街でナンパされてるの見けど、あーいうのに着いていけば良いじゃん!簡単に男できるし、新しい世界が広がるよ」
「いや、そういう明らかに一杯飲んだらこのあとホテルへ的なのは……」
実はこの1年前くらいに、知らない男に夜道で車に無理やり乗せられかけたことがある。そのときは抵抗して逃げ切ったが、今でもあの時のこのまま車に入れられたらどこかで知らない男に犯されていたかも、下手したら殺されていたかもと言った恐怖が色濃く、それを伝えた上であまりそう言った話題は、とお願いした。通っていたジム付近での殺人も女性が連れ去りの果てに殺されたというものだったため、余計に怖かったのである。
「んー、俺の彼女もよく声かけられてて大変だったけど、そんな雰囲気なかったよ」
「それはすごく美人さんだから、手軽に犯せそう!みたいな軽いタイプが選ぶ相手じゃなかったんだよ。意外とそういうところは相手選ばれてるよ」
「ふーん。まあ、君の場合は身体から始まる関係もありじゃない?まずは行動あるのみ!今度はそういうのにも着いて行ってみなきゃ!世界を広げよう!!」
愕然とした。こんなに気軽に性犯罪に巻き込まれるかもしれないような提案をされたこと、そうでもしなければ男なんかできないと言われたことがショックだった。
確かに私はデブだし、ブスだけど私にも人を選ぶ権利、出会いを選ぶ権利はあるはずなのに。ほぼ同じ内容のことを、その日の夜に別の同期と3人で出かけた時にも言われた。別の同期がトイレに立つと、私に言いたいことをぶつけてくるという状態であった。
それ以来精神的に参ってしまい、同期がいる前では満足に食事をとることが出来なくなった。それでも腹は減るため、職場で我慢した分家ではありえないほど食べてしまう。そうすると罪悪感で吐く。過食嘔吐が再発した。マロリーワイス症候群のようになり、血を吐いたりもした。
この時、別の同期は3人で卓を囲んでいた時もその時の飲み会での私への態度が酷かったことに、ひっそりと気付いていたらしい。
「気を遣わせてごめんね、ありがとう」
「でもあいつなんて言ったと思う?『あのくらい言っても良いくらいの関係は築いてるから大丈夫』とか言ってんだぞ?クズか?」
親しき仲にも礼儀あり、とはよく言ったものである。過食嘔吐に苛まれながら、さらに職場で彼と会うことが苦痛になった。なんと、それ以来私にあれだけ断食しろと言っておきながら
「パン余ったんだけど、食う?」
「飲み会やるんだけど、来てよ」
と、職場で声を掛けてくるのだ。パンなどは断ったが、もしかしたら飲み会などは誘いに乗るしかなくて物を食べている私を内心馬鹿にしているのかもしれない。お腹が空いてごめんなさい、ご飯を食べてしまってごめんなさい。後で全部ちゃんと吐いて綺麗にします。
エスカレートした被害妄想は止まらなくなり、仕事に行きたくなくて、消えない食欲の罪悪感から彼の顔も見たくなくてしょうがなくなった。でもデスクは隣だし、仕事も被っている。どうしても無理だ。昼休みを隣のデスクで過ごすことも苦痛で、女子ロッカーの椅子に腰掛けて過ごすようになった。
何らかの方法で胃を悪くしてご飯が食べられなくなれば彼は許してくれるのではないか。ふと、そんな考えが頭をよぎった。
これは名案かもしれない。
簡単に胃をやるとすれば、数年前にダイエットしていた時に一番効いたのは、アイスコーヒーの1Lパックを1日で2本弱飲み干した時だった。なるほどカフェインは胃酸の分泌を亢進させる働きがあるから、胃は傷めつけられそうだ。ついでに利尿効果もある。ちょうどいい。
カフェインについて調べると、そういえばエナジードリンクと錠剤の併用が原因らしいという死亡事件が一時期話題になっていたことを思い出した。カフェインは人間は個体差はあるものの、ある程度摂取が可能だが、その他の哺乳類にとっては猛毒である。また、人間にとっても中毒域と致死量の幅が狭い。嗜好品としてのコーヒー程度ならば問題ないが、錠剤の多量摂取は気軽にやると急性カフェイン中毒を引き起こすし、下手をすれば死んでしまう。
ならば、中毒域に入らない程度でカフェインを飲んでいい感じに胃を悪くしてやろうと思い立ち、ドラッグストアでカフェイン剤を購入した。
家に帰って1回2錠1日2回までと書いてあった箱を開けると、茶色い錠剤が20錠出てきた。とりあえず2錠飲んでみたが、何の変化もない。
時計を見ると17時半。明日から仕事であることをまた思い出し、次第に同僚に会いたくない気持ちと恐怖と嫌悪感がむくむくと頭をもたげだ。いっそ身体が壊れればしばらく休職できるかもしれない。頭の中でカフェインの中毒量と致死量を計算した。体重換算で一箱飲んだら中毒量は超えるが、致死量は全然超えない。まだ両親も健在で、死ぬわけにはいかない。全部飲んでも死なないなら、いっそ全部飲んで身体さえ壊れてしまえばいいのでは。仕事を休みたい。
気付いた時には20錠分の空のPTPシートを手にしている自分が、床に座り込んでいた。
タイミングよく実家の母親から電話が来た。何を言ったのかは朦朧としていたためにあまり覚えていないが、同期が嫌で仕事に行きたくなさすぎて薬を飲みすぎてしまったことは伝えた気がする。
4時間半ほど経ち、動悸と頭痛、冷や汗と吐き気に苛まれているところに焦った母親が高速を飛ばしてやってきた。ベッドに横たわる私と、ゴミ箱の中の薬の空き箱やシートを確認すると、
「そんなくだらない男のためにこんなことしないで。死のうとするならママも一緒に連れて行って」
と泣き崩れてしまった。
「大丈夫、致死量は飲んでないから気持ち悪くて胃が悪くなるだけで、そのうち薬が抜けたらよくなるから……この量じゃ絶対死なないから。計算したから……」
その後のこともおぼろげなのだが、職場への救急搬送は意地でもされたくなかったため、一晩母親の付き添いで明かした。朝、立って歩くこともやや覚束ない状態となった私は上司に電話をしたが、ODのことは踏ん切りがつかずに伝えられなかった。
「気持ち悪くてずっと吐いてます。今日の仕事は出られそうにありません……」
「腸炎か?ノロ、流行ってるからなぁ。君、一人暮らしだろう?飯も食えない、水も飲めないだともう入院したほうがいいんじゃないか?受診の手続きを整えるから」
そう言って電話は切れた。上司はどうやら感染性腸炎を疑っているようだった。母親も病院で補液をして早く血中濃度を薄めるように、という。まず、上司や先輩たちは私が精神的に不安定だったことを知らない。ODを疑われる要素は職場には絶対にない。もし、血液検査異常などで疑ってかかられたとしても、抗不安薬や抗うつ薬などと違って、カフェイン中毒はそれを念頭に置かないとバレる可能性は低いだろう。
そしてそのまま感染性腸炎疑いとして入院となった。血液検査異常も少なく、ODはまるで疑われなかった。母親は自分自身の通院があるため、入院の手続きだけして実家へとんぼ返りした。部屋を出る際、再度泣きながら
「もうこんなことしないでね。もし死にたくなったら一緒だからね」
と言われたことを覚えている。
気持ち悪さに苛まれている間、何よりも強く思ったのは少しくらい太っていてもいいから、本来なら美味しくご飯が食べられる身体は大事にしたほうがいいということだ。
あれだけ好きだったお粥も、お魚の煮付けも、サラダも、まるで喉を通らない。無理に食べても全て数分後には吐き出している。制吐剤を打ってもらわないと夜は眠れないほど胃が辛い。切り取って水洗いしたいほどに苦しく、ベッドの上でひたすらのたうち回っていた。睡眠不足でうとうとすると悪夢が見える。同期が笑いながら私を蔑んでくる。はっとして起きると、気持ち悪さで苦しい。夜通しその繰り返しだった。
しかし、致死量までは飲んでいないのも本当で、制吐剤と補液で徐々に改善傾向にある。食事もお粥半量程度なら口にできるようになった。それでも頭痛と心窩部不快感は残っているのだが。
こんな苦しい思いをするのなら、そして親に多大な心労をかけるならこんなことしないほうがマシだったと思う。
でも、食事が取れるようになってくると、再度食事をすることへの罪悪感が生まれてくるようになって来ているのも事実である。あまりにも辛かったことからODは2度としないが、もしかしたら退院できてもまたしばらくは過食嘔吐や拒食からは抜けられなくなるかもしれない気はしている。
ダイエットを考えている方々には、こんな自分の身体を痛めつけるようなことはやめるべきと伝えたい。適度な食事制限と、運動が遠回りに見えても何よりの近道だ。むしろ少し太ってたって、美味しいものを美味しく食べられることは、こんな風に身体をボロボロにするよりは幸せかもしれない。
ダイエットしている人や、太っている人が周りにいる人は、その何気ない一言が相手の心を大きく傷つける可能性があることを今一度考えて過ごしてほしい。私は思いとどまれたが、私も両親という枷がなければ勢い余って致死量まで飲んで死んでいたかもしれない。
自戒を込めて、記録に残そうと思った。
まだベッドから降りて動き回るのはつらいが、そろそろ退院と自宅療養が見えてきた。今は身体が辛くて精神も持たないため、今後の仕事での身の振り方や、今回の件に関しての相談をどうするかについては身体が良くなったら考えることにする。
元増田です。
私は秋葉原にまだバスケボールコートがあったときからラジオ会館とかを利用していたのですが、随分様変わりしましたね。今はよりどりみどりなので知らない人は驚かれると思いますが、当時は秋葉原はご飯不毛の地と呼ばれており、牛丼やラーメンくらいしか食べるものがありませんでした。コンビニも無かったのでお金もおろせませんでした。もちろんその頃が一様に良かったというわけでは決してなく、日が落ちてから少し裏通りに入れば手焼きCDに手書きでWindowsやPhotoshopと書かれた謎の商品を路上で売っている人がいたものです。そこからそこそこの年月が経つと、「絵画に興味はありませんか?」としつこく追いすがってくる女性や、毎日閉店セールを行う貴金属屋が名物になっていました。また、ダイビルのような明らかにこれまでとは目的が異なる建物が建ち、ここから先が電気街、その向かい側はビジネス街という認識が出来ました。その後、2008年には秋葉原通り魔事件が起こり、連日のニュース報道と大変なバッシングがありました。今でも最終的に逮捕の場所となったクラブセガの横道を通るときは複雑な気分になります。歩行者天国もかなり趣が変わりましたが、よく持ち直したものだと思いつつ、関係者の苦労が偲ばれます。さらに時が経ち、今ではメイドカフェに限らず様々なカフェの客引きが跋扈し、リフレが点在する街になりました。ここは歌舞伎町か大宮かな?と思うほどしつこいアレには大変辟易しており,さっさと規制されることを強く願っています。
https://camp-fire.jp/projects/view/114420
台風21号の被害を受けた大阪の銭湯を支援しよう。【大阪府公衆浴場組合×東京銭湯】
というクラウドファンディングが始まった
400軒の銭湯がある中で7割が何らかの被害を受けたのは本当だろう
完全に無傷だったほうが少ないという実感は有る
しかしあの文章を読んで他府県の人達は7割が甚大な被害を受けたと誤解しないか?
そこらじゅうで煙突が折れた光景を想像してしまわないだろうか?
それをミスリードさせることを意図しておおげさに文章を作成していないだろうか?
心配だ
https://tokyosento.com/column/23154/
どうして彼らにそんな事まで分かるのか?
多い少ないの基準はどこなのか?
そんな話を聞いたことがあるというだけでは無いのか
何軒に取材したのか
彼らのしたことはちょこっと大阪に来て少し話を聞いただけではないのか?
組合役員に話を聞いて長瀬温泉を訪ねた、それが全てだったりしないだろうか?
本当にまともな取材をしたのか?
心配だ
どうだろう?良かったじゃん、と感じないだろうか?
もちろん、苦しんでる銭湯は確かにある、助けてやりたいなら助ければ良い
いい事だ、反対する理由はどこにもない、どんどんやれ
大阪の銭湯の大半が大変な被害を受けたと誤解させてまでやる事なのか?
良い事をしているのだから、少々誤解させたっていいじゃん、と思っていないか?
心配だ
経費は200円で300円が支援に当てられるそうだ
グーグルに聞いてみてもステッカーの制作にそれほどかかるのか疑問だ
制作費でも実費でもなく経費200円、なるほど
クラウドファンディングではcampfireの取り分も発生する
心配だ
実際にどこに援助するのかはこれからだそうだ
大丈夫か?
同意した覚えはない
心配だ
選考してストーリーにはまれば良いがグダグダになりはしないか?
東京の金髪兄ちゃんに数百万~の金を貰う、金玉を握られる、一生頭上がらない
本当にすんなり受け取ってもらえるアテはあるのだろうか?
彼らのポケットマネーになるようなことはないとは思うが
頂いた浄財がきちんと生きるのか
いわゆるゾンビ企業にならないためには継続した関与が必要だろう
心配だ
SNSを見ていると、ステッカーを売っている銭湯が批判を浴びているのか、少し苦しそうだ
これは森川と日野がしっかりサポートして批判は2人に向くようにして欲しい
ステッカー販売にて梅の湯栗田の抜け駆け、サウナの梅湯湊の内ゲバがあった
いくつかの浴場がそれに続く流れができてきている
日野の統制力のなさも原因
「ふろいこか」ではなく「おふろいこか」
未だ存在が確認できない煙突が屋根を突き破ったけど外観の修復まで完了してる銭湯
さすがに次はないだろう
女らしい格好もしたことなかったし、家族からも子ブタちゃん的な扱いされてた。
学生時代はブスキャラとして女芸人的な立ち位置をキープしてたうえ、自分が可愛いなんて高校まで1度も思ったことがなかった。
んで、大学入る前あたりからダイエットして、見た目整えたら女性扱いされるようになった。
脂肪の乗った目は、ぱっちり二重になり、頬に埋もれていた鼻もでてきた。
ついでに背が高かったのでモデルもやった。クラブのホステスもやったし(当時そんな言葉は無かったが)食事パパとかもいた。
そんな頃から美人と言われることが増え、それと同時に自分の認識との差に苦しむことが増えた。
鏡で見る私はどうしたって醜い。
モデルもホステスも全て死ぬ程ブスじゃないことへの確認行為だし、それから数年経った今でも、寝る前に自分の醜さに辟易することがある。その頃摂食障害になって5年ほど地獄の苦しみを味わった。
去年鼻を整形した。あとプチ整形も何ヶ所かした。
ナチュラル派の先生だったので誰にも気が付かれず、親にすら鼻に入れたシリコンの存在に気が付かなかった。
でも整形した事実が多少の自信になった。
私はブスだけどそれを認め乗り越えるためにお金を、時間を使って変わろうとした!という感じの。
歯も数十万かけて白い差し歯にしたし、毎朝1時間以上かけて化粧して髪整えて会社行ってる。
初対面の人にも、容姿を褒められることがよくある。でもまだ整形しなきゃいけない箇所は多いし、鏡を見るとため息しか出ないし、すっぴんを見せるのを親ですら躊躇う。
怖くて鏡を見れない時すらある。
卑屈なのかもしれないけど、街ゆく美人を羨望の目で見てしまう。
年々、少しずつ他人が容姿を褒めてくれることに対して感謝をいえるようになった。
でもブスには変わりがない。
今のままの自分を認められるようになりたい。人より努力してるのは客観的に見て分かる。でも顔を見られるのはいまだに怖い。じっと見つめられると冷や汗が出てくる。
母親の喪服選びに付き合った
昨日は父親も同行した
でも実際は、単にパニクりやすいのだと私は思っている
父親は母親の試着が終わらないうちに「それを買え」と言い出したり、店を出て少し話しているときに「次はどこに行くんだ」と大声でがなりたてたりした
父親は診断こそ付いてないけどアスペルガー症候群だと思う。私自身がアスペルガーだからわかる。
父親は聴覚過敏を多分持っていて、こういうショッピングセンターみたいな場所にくると音でパニックを起こす。そしてパニックを起こした結果、「早く買え」「早く買い物を終わらせろ」になるんだと思う。
家に帰ってから母親は私に謝った。母親は何も悪くないのに。母親は機能不完全家族出身で、何かにつけて自分が悪いと思い込む。
私は診断済みのアスペルガーだ。
そういう父と母のやり取りを見ると、私もいつか配偶者に母親みたいなことをさせるんだろうかと思う。
でも私は耳栓をつけている。父親は「大丈夫だ」と言って未だに発達特性への対策を全く取らないけど、私は耳栓をつけて対応している。医者にも通っている。本を読んで勉強もしている。
私は父親にはならない。私は父親とは違う。母親はときどき私は父親にそっくりだと言う。父親と私は勉強ができて集中力があるから、いい意味でそう言っているんだと母親は言う。冗談にもならない。
兄は、父親に辟易して、親と疎遠にしている。兄は父親と似ていない。
兄は親のことを諦めているので、私が付き合うしかない。私が兄と同じように親と疎遠にしたら、本当に私と父親が同じになってしまうから。
せっかくの土日を最悪な形で潰した。父親は私のことを親に協力的な娘だと褒めて外食をおごってくれたけど、あんな気持ちで食べるなら一人でカップラーメン食べてた方がまだうまい。
何やってるんだろう。なんのために生きてるのかわからなくなってきた。
gdgdだが、吐き出す。どうにも許す気になれん。
親父は昔からパワハラ気味&上から目線なところがあって、辟易していたんだが、マンションも買い与えてくれたし、5年くらいまえからは生前贈与だ、といって税金がかからない範囲で少しずつ金を振り込んでくれてる。
俺はSEをしていて、実家のパソコン3台を数年前に買い替えた時も、無線LANとか、プリンタとか、OSの認証とか、一通り半日かけて設定してやった。
今年の正月も元旦に顔をだして、相変わらずパワハラ気味な所とか、俺のほうがまだ年収は上だしなとか(子供相手に何言ってんだ、という話)、そういう親父に愛想笑いして帰ってきたのだが、3日の朝に電話があって、
親父が年賀状を作っているパソコンが動かないから直しにこい、と喚いていた。片道大体1時間位なんだが、正月休みの朝の9時に叩き起こされたので、午後から行ってやる、と言って、午前中は2度寝していた。
14時位に実家に行くと、早く直せ、宛先の印刷が出来ないだろ、と喚いていたので、ググって出てきた郵便局の年賀状作成フリーソフトを動いているPCに入れてやって、それで印刷しとけ、と黙らせてから動かなくなっていた
VAIOを見た。純正の診断ツールを走らせて、ハードディスクを修復して、何回やっても、「windowsが正しくシャットダウンされませんでした」という例のエラー回復画面から起動しない。セーフモードでも起動しない。
診断ツールの走りが遅かったのでここまで3時間。タバコを吸っていると、タバコ吸う暇あるならさっさと直せ、と親父が喚いてくる。ツール走らせてんだよ、ボケが。素人は黙ってろ、と思ったがそこまではその時は
言わなかった。
もうめんどくせーから、初期化するか、と決断して、親父にデータ全部消していいか、と聞いたら、過去何年分かの年賀状のデータと宛先のデータ、写真は救いだせ、と喚く。後出しだが、親父は昔、役人をしていて、
俺がガキの頃から12月と1月初めは年賀状作成バカになる。宛先をきっちり管理し、毎年律儀に数百枚出す。そんなに大事ならバックアップとっとけよ、と思ったが、VAIOの純正ツールにデータ救出みたいな項目があったので、
それを走らせてみた。救出するフォルダを選べ、と画面が出てきたので、年賀状作成ソフトのフォルダまるごとと、住所録の簡易データベースみたいなものがあるらしき場所と、ピクチャのフォルダを丸ごと指定して、
外付けのHDDにコピーを開始したら、「終了まで8時間」とか出た。まあ、古い外付けHDDだし、コピーしていくうちに画面の時間表示も減るだろう、と思って、お袋が用意してくれた晩飯を食った。
すると、先に飯を食い終わった親父が画面表示に気がついて、「8時間とはどういうことだ」「お前はここで徹夜すんのか」「いや、むしろ終わるまで帰るなよ」と喚き出した。丁寧に説明してやっても良かったんだが
さすがにキレてしまった。喧嘩口調に切り替え、5分位罵りあったのだが、「だったら、修理にだすわ」と親父がほざいたので、「ああ、そうかい」と言って、お袋に帰るね、と言って帰り支度を始めた。青ざめた顔を
して見ていたお袋もなんとなく頷いてくれたので、帰ろうとしたら、親父が「仕事を投げ出して帰るのか」とか色々ほざきだしたので、「修理屋さんが直して下さいますよ」と嫌味たっぷりに言ってその日は帰ってきた。
翌日。朝の9時半、10時に親父の携帯から着信があったが、また叩き起こされたので無視して寝た。ちなみにその日はそれ以降親父から着信はなかった。
その翌日。また朝の9時半、10時に親父の携帯から着信があったが、無視した。用事があったんで、起きてはいたんだが。その日もそれ以降親父から着信はなかった。
その翌日。また朝の9時半に親父から着信があったが無視した。友達と昼に待ち合わせだったので、そのまま出かけると、電車の中で親父から入ったショートメールを見た。
曰く、
「こちらから呼びつけておいてひどいことを言いました。反省しています。すいませんでした。」
「宛先印刷のソフトを入れて頂いてありがとうございました」(ほぼ原文)
その日の夜に「メッセージは見た。これ以上は罵る言葉しか出てこないので返信しない」とだけ返しておいたら、翌日に「わかりました。落ち着いたら連絡をください。」と返ってきた。
あれから1週間以上になるんだが、未だに親父を許す気になれん。親父もお袋も70歳までカウントダウンだし、寛容になってみるべきなんだろうか。
むしろ、死に目にあえなくてもいいかな、くらいにも考えてる。色々積もり積もったものがあるからね。
吐き出しですまん。
とりあえず説明しやすくするために、平成の次の元号を毎回毎回「平成の次の元号」と言ってしまうと面倒なため、「応仁」としてみます。実際の元号は「応仁」にはならないと思いますが、便利なので「平成の次は応仁」だととりあえず思い込んでもらいたいです。
さて、あなたはプログラマあるいはSEになりました。まあ、とにかくソフトウェアの修正をしなければいけない立場になりました。
今回修正するソフトウェアは、他の企業が平成8年に作成したもので、本来は平成15年でメンテナンスを終了するという契約だったようでした。なのでメンテナンスも特にされてはいません。顧客が「使えるのだからいいだろう」ということで長年使い続けてきたものです。しかし、この度改元にともなって、あなたの会社に改元の発注が舞い込みました。
「なんで5月に改元なのに1月に発注するんだ……遅すぎるぞ」とあなたは呆れていますが、仕事は仕事です。諦めて作業にとりかかりました。
あなたはまず、このソフトウェアがどういうものなのかを確認します。取引先が取引先に売るためのソフトウェアのようです。比較的大きなソフトウェアなのでまずどのようなものなのかを確認するのが大変でしたが、あなたはなんとかソフトウェアの全容を理解し始めました。
ここで、あなたは直感的に「平成」となっている部分を「応仁」に変えてみます。
すると今年は平成31年のはずなのに応仁31年となってしまいます。横着をして計算しないとこういうことになってしまうので、まずは内部では平成31年の5/1以降なら応仁元年ということにします。応仁1年ではダメと言われてしまったので、ちゃんと1のときは「元年」に変えます。「元年」のときだけレイアウトが崩れてしまいましたが「平成元年も崩れますよね?」という交渉を行って、なんとか鉾をおさめてもらいました。
さて変更したので、ちゃんと動作がうまくいっているかテストを行います。自動で出力される書類の日付は「応仁元年5月2日 発行」となっています。
すばらしくうまくいっています。テストをしている人(もちろんあなたです!)は心をよくしてそのままテストを続けていました。そうすると「H31 05/02」というものを発見しました。
そうでした。アルファベットの方も変更しなければいけませんでした。先程と同じように平成31年の5/1以降はHではなくOというふうに書き直します。なあんだ。簡単じゃあないか。誰だ難しいと言ったのは。
「平成30年の3年後は応仁3年」という計算もすばらしくうまくいっています。
あなたはこれに気をよくして取引先に納品しました。納品にあたってメンテナンス期間を設けて深夜に出勤し、問題がないかチェックをしました。そうして更新されたソフトウェアが取引先で使われ始めました。
取引先も「いいじゃないか」と言ってそのまま応仁元年5月1日を迎えました。
あなたは驚いてクレームの箇所を確認しました。すると㍻31年5月1日となっている箇所を発見しました。なんとここだけ使われている文字が違ったのです。「㍻」と「平成」は全く違う文字です。あなたは新しく追加された「細い応仁」の文字を使わなければいけません。この前と同じように、ネットから新しく発表された「細い応仁」をコピペして、日付計算だけして終わろうとします。
あなたは「やらかしてしまった」と冷や汗をかいていますが、これでなんとかなるだろうと楽観していました。
するとエラーが出ました!
数時間かかけて調べるとどうやら新しい「細い応仁」は、Unicodeというものを使っていて、Shift JISというものを使っているこのシステムでは使えない文字のようでした。これに驚いたあなたは「Unicodeというのを使わないといけません!」と上司と相談し、取引先と交渉することになりました。結果は「それはダメ。なんとかしてくれ。なお追加予算は出せない」ということでした。
Unicodeを使えるようになってしまうと、文字化けが起こったり不正な文字(入力されるとエラーになる文字)をバンバン入力できるようになります。そうするとまた全部の箇所をひとつひとつ確認することになります。予算もかかるし時間もかかります。取引先が、取引先の取引先とも連携できなくなる可能性すらありました。なので却下されました。でも「細い応仁」でないとダメだということです。
しかたないのであなたはそこの部分のときだけ文字ではなく「細い応仁」の画像を出力するようにしました。これはとても大変な作業でした。何しろ昔のソフトウェアですから、昔のコンピュータの上でも動くように作らなければいけなかったのです。
そのあと㍻と出力のされていた部分を一通りテストしていきました。しかしまだ「㍻」となっている部分がありました。あなたはため息をつきながらそこの部分も修正します。
さあこれでとうとう終わった!あなたは晴れやかな気分で顧客に頭を下げて再度納品しました。もちろん、深夜作業も行いました。
半年後、応仁元年12月5日のことです。あなたは再度クレームを受けました。「平成31年がない!」というのです。
あなたはそんなバカなという顔をしてその箇所を確認します。そこはユーザーに生年月日を選択させる箇所でした。
「平成29年」「平成30年」「応仁元年」「応仁2年」というように元号が並んでいる箇所があり、ユーザーはこの中から生年月日を選ぶようになっています。ここは「平成31年/応仁元年」と書かなければいけない箇所でした。
あなたは「応仁元年」となっていた文字の場所を「平成31年/応仁元年」と書き換えました。するとレイアウトが崩れました。取引先に確認すると「レイアウトが崩れるのはダメ」ということでした。「レイアウト崩れは許容しないとこれは無理」という交渉を行うことになりました。数日間の交渉の結果、なんとか折れてもらうことになりました。
ここに至って、あなたは「改元対応すらまともにできない人」という烙印を押されていて、味方がおらず、だんだんイライラするようになります。
ただその後は特に問題がないようで、あなたは胸をなでおろしました。
応仁2年3月17日。あなたが別のプロジェクトをやっていると「決算の書類が平成31年度じゃなくて応仁元年度になっている!」と言われました。そうです。応仁は5/1から始まったので、応仁2年3月末までは平成31年度なのですね。あなたは「どうでもいいだろ」と一瞬思いましたが、かなり重要な問題だということで、仕方なく修正しました。いままでの経験が生きたのですぐに修正自体は終わりましたが、顧客の場所まで深夜に行ってメンテナンスをしないといけないのだけが大変でした。
あなたはソフトウェアを作った人に「最初から改元のことを考えて作っておけよ」というふうに呪います。しかしこのソフトウェアが作られたのは1996年のことでした。1996年というと平成8年です。そして再掲しますが、平成15年までという契約だったようです。だから改元のことなど考えなかったようです。もしかしたら予算の都合かもしれません。当時はそれよりも2000年問題の方が重要でした。
また、1996年というとインターネットが出始めたばかりのころです。2chもまだ存在していません。パソコンの能力も今の1万分の1だと思ってもらってかまいません。そういう時期に作られたものをメンテナンスするのは大変です。いろいろなものが今と違うし、当時の書類が残っていないこともあります。そもそも今の開発機で動かない可能性もあります。
あなたは今の話を聞いて「改元に伴ってこの他にやるべきことは絶対にない」と言い切れるでしょうか。たぶん、そんなことはないはずです。だって実際の元号は応仁ではないし。
さて、怖い話は終わりです。
改元に伴う修正というのは、これらを事前に調査してすべて変更し確認するということです。「あ、そうでしたッ!」とならないように、プログラマはこれらを事前にやり、確認します。簡単な仕事だと思いますか?だとするとあなたは改元に関するソフトウェアの修正で大儲けすることができます。自信をもってプログラマになってください。
昔からあるソフトウェアは大変ですが、もちろん大変でない企業もあります。そもそも西暦しか使っていない企業がそうです。あらかじめ改元のことを考えていた企業もあります。とくに最近作られたソフトウェアは、そういうことを見越して作られているので変更は比較的容易です。そういう人は「大変だ!」とは騒ぎません。「大変そうだなあ」と静観しています。
ぼくも静観する組なので、実際の大変さについてはよくわかりません。
見た目では確かに「平成」を「応仁」に変えるだけです。それだけなのに騒いでいる人を見ると騒いでいる人がバカっぽく見えます。確かに騒ぎすぎてる人もいて、辟易とする気持ちはわかりますが。
でも、見た目を変えるのは簡単そうに見えますが違います。「異性にモテないなら顔を美形にしろ」と言われてすぐできるものではないのと同じことです。見た目を変えるというのは、見た目を変えるだけでは済まないことも多いのです。
ぼくも静観する組なので、実際の大変さについてはよくわかりません。
でも「大変そうだな」ということはわかってほしいなと思います。
ぼくも静観する組なので、実際の大変さについてはよくわかりませんが。
たまに声優のドキュメンタリーとか見ると普段自分が見ている作品の背後にこんな壮絶な世界が広がっているのかと感嘆、いや畏怖を覚える。
声優たちが「現場」と呼ぶ場所のあの張り詰めた空気。人から寄せられる期待の嵐。プロとしての責任。そういうのを見ているだけで苦しくなってくる。ぼくはあの場で正気を保っていられないだろう。立っていることすらままならないかもしれない。
いまぼくが生きているのは、彼らの仕事にかける情熱のおかげであると言っても過言ではない。極限まで洗練され磨き上げられた声は人の心を揺り動かすのに十分に過ぎると思う。それは芸術を見る目がなくこの上なく鈍感であるぼくですらもだ。アニメというのは声優の声に膨大な情報がのっている。文体だけでは決してのせられないような情報。それによって、作品によっては、難しく高尚な概念とされるものもなんというかその雰囲気というか、境地に達したものの醸し出す覇気のようなものを現実よりも誇張して増幅して見せるのである。それの尊さというものをなんとなく感じさせてくれる。人がそれへと向かっていくためにとても大切なもの。心暖まる気持ち。
例えば最近でいえば、SAO のアリシゼーション編などはとても良い。ユージオとキリトの関係の美しさとか、キリトが花を踏みにじられて流す涙とか、カーディナルをキリトが抱きしめて「報われた」場面とか、そういうところにふと「いいなあ」と思う。誇張なく尊いものを感じる。心暖まる気持ち。これこそがもっとも重要なのである。これこそがぼくがアニメに求め、救われたものなのである。それは自信を持って言える。これが一般にアニメが表現したい本質の一端であると信ずる。この気持ちを闇に沈めて、世間の荒波に飲まれて醜悪の限りを尽くしている人間もいる。そういったものへの一種の反抗なのではないかと思っている。SAO は最初ラノベ風のセリフに辟易としていたし、ユイに「パパ、ママ」などと言わせた時は「これだからラノベは・・・」などと思ったものだが、アリシゼーション編はそれとは "重み" の違うものを感じる。それこそ、描写の "重み" が比較にならないのである。アニメ関係者はもちろん、著者は腕をあげられたのかなあなどと思う。ぼくはああいうアニメの本質を析出した透明に輝くものが好きである。
いままで実に様々なアニメを見てきたが、やはり肝要なところはそこだと思う。そして、巷では (全てとは言わないが) ラノベ原作の内容の薄い、現実とのギャップを面白さと勘違いしているような、アニメ審美眼のない人々のために作られたアニメというのも跋扈している。
しかしその中で、余計の要素のない純度の高い美しいものがいくつかある。中には哲学的な思想を描き出しているものもある。
そういった凄まじい表現力の影には、声優たちの熱き "願い" があるのだなあと感嘆した。セリフ一つに徹底的にこだわる彼らのその魂の叫びこそこの "重み" を作っているのだと、忘れてはならないと思う。
週刊SPA!の特集記事、ヤレる女子大学生ランキングについて母校が抗議した。
人や団体を侮辱する記事は当たり前にあってはならない。それを主張すれば良いのに、なぜ、わざわざ、女性軽視、女性蔑視、女性の名誉、尊厳とあんなにも女性を強調したのか。その点において悲しくて仕方がない。
同じく母校が、以前から合コンしたくない大学と言って侮辱されている。世間は(そういう思考がある人は)対象が女性であるか、男性であるかは関係なく、下に見ている人、団体を侮辱するし、そんなことは決してあってはならない。ただそれだけのこと。
正直、近頃の女性の活躍!女性の社会進出!女性の、女性の、女性の、女性のというムーブメントに辟易している。もう、やめて欲しい。これ以上私たち女性にスポットライトを当てるのをやめて欲しいという気持ちでいっぱいだ。
そんなに話題にしてくれなくても、関心を向けてくれなくても、わざわざ外から女性の権利を守りましょうと言わなくても、こちらは自分で権利は当たり前に得ていくし好きに自由に自分のしたいように生きていくので、これ以上構わないで欲しい。
男性100人女性は私1人というような規模の職場で働いているが、1秒たりとも男性たちから下に見られているなんて感じたことがない。もちろん気を遣って親切にしてもらうことは多々あるが、ああ女性軽視の蔓延ってる社会だ!なんて思ったことは今まで一度もない。職場だけでなくどこでも。
むしろ、そういう状況であるのに、いたるところで女性、女性、女性、女性と外野が騒ぐから注目を集めてしまうし、彼らも私がいることが珍しく感じてしまう。こちらは毎日のことなので珍しくも何ともない、圧倒的に男性が多い状況もそこに少ない女性がいることもただの日常でしかない。
そうやって世間が女性女性女性と発するたびに私たち女性が無駄にスポットライトを当てられて、うるさいなぁ!もういいよ!と感じていることを、母校は分かっていると思っていた。それなのにあんな抗議をしたのが悲しすぎる。
ああやってホットな話題、女性軽視、女性蔑視として抗議したことによって更に人々はその話題に関心を持ち、話をする。その期間が延びれば延びる程、女子学生たちは大学名を言ったときに、あぁあのランキングのね笑という反応をされる期間が延びる。そういう反応をする人を根絶するのが理想だけれどもそうはいかないし、そういう人たちは女性であろうが男性であろうが人を小馬鹿にするものだ。きっと。正義を主張することは間違っていないのだけれど、それが最適であるとは限らない。
1秒たりとも男性たちから下に見られていると感じたことはないのは、私と関わってくれる男性たちが良識ある人たちであることはもちろんある。そして私は下に見られていると思っていないから。相手が女性であろうと男性であろうと誰であろうと、私とあなたは同じ目線だ!と思って生きている。上から見られるとかそういう感覚的な話はそう思わないことが一番だと思う。上から見られていると思ったらそう認めたら、その認めるという自分の行動が起因となって、本当に上から見られてしまうんだと思う。
そしてそういう状況に仮になってしまったときに、相手にやめてくれと求めるのは良くないと思う。人を下に見ることはそういうことをする人たちにとってきっと心地良いことで、それを他人のために辞めろと言われて辞めることができるような人はそもそも他人を下に見ない。だから相手が変わることが道徳的に正しい解決方法ではあるが、それは無理であってそんな現実的でないことを望んでいてもね。つまり自分が意識的に同じ目線だ!と確かな意思をもって人と付き合っていくしかない。
女性軽視、女性蔑視は遺憾だ、という抗議は能動的に見えて、実はとても受動的なのではないかと思う。私たち女性を上から見るのをやめてという発言は、上から見られていると認めてさらに相手の変化を期待しているだけで、その他力本願的な一面がさらに女性軽視、女性蔑視を助長する気がする。本当に女性軽視、女性蔑視を感じているならば、意識的な意味で自分が上にあがっていくしか、自分で同じ目線になるしか解決方法はないのではないか。
だから、女性は清く強く正しく賢く美しく生きていくこと、制服を着て歩けば自分が学校の顔となることを私に教えてくれた母校には、女子大学生たちにも同じこと、どんな相手とも同じ目線で付き合っていくことを、下に見られかねない行動を自らするべきではないこと、自分がそこの学生であると名乗ったならば自分が学校の顔となることを教えてあげて欲しいし、あのような女性を無駄に強調した抗議をして欲しくなかった。必要以上のスポットライトを、関心を、軽い視線重い視線を集めるきっかけを作って欲しくなかった。
女性女性女性というムーブメントをやめて欲しいと言ったところで世間はやめないので、気にしないで今日も生きていくだけなのだけれど。