はてなキーワード: 散歩とは
今は私の収入(月17万円)と貯金を切り崩して生活をしていて節約を余儀なくされているのだが、不思議と物欲が無くなった。
節約は苦ではないし、それなりの食事が一食二人で300円未満で作れた時など達成感すらある。
外食もしたいと思わなくなった。
マクドナルドやスタバの新作も欲しくなくなったし、2ヶ月に一度通ってた美容院もどうでも良くなった。
こだわってたボディソープやクリーム、化粧品も最低限でいいと思うようになった。
新しい服も欲しくない。
出かけるのも近所の散歩でいい。そもそもガソリンが高すぎて車に気軽に乗れない。
幸い私の住むところは自然が豊かで山も海もある。散歩するにはいいところだ。
うん、そうやって納得してるはずなんだけど何の為に生きてるのか分からなくなってしまって、今や朝ベッドから出るのも一苦労だ。
お腹も空かない。
もともと痩せ型な私だが、食欲もないので食べなくなり1週間で2kg痩せた。
これはまずい。
生きる活力がない。
例えば犬を飼うとして
世話するのも散歩するのも好きで苦じゃないっていう人と
めんどくさい・大変だっていう人がいると思うのね。
犬の場合はめんどくさい・大変だと感じる人は飼わないだけだけど
暴力的な人間っていうか、人間自体がまだ毛の抜けた原始人と対して変わらないから、敵を血祭りにあげるのがとっても気持ちいいし
敵が空気吸ってそこらへんをうろちょろしていることに長大なストレスを感じてしまうのである。
しらんけど。
おれは攻撃を受けてるんだよ。攻撃じゃないかどうかは俺が決めたことではない、俺の本能が攻撃と受け取ったかどうかで判定されている
今日の判定は。攻撃にかなり近いものであることを確認しました。まあわざと出ないことはわかる
わかることと、本当がその説得にうなずくかどうかはまた別の話だり、現実に俺の生活の根幹を揺さぶるような実害が出始めていることもあり、本当はその視点で物事を捉えることを拒否している。
実害というのも厄介で、俺の体に血が流れるわけじゃない。社会的な信用が失われるのである。
社会的な信用というのはかなり重要で、社会的な動物である人間であるおれは、社会的な信用なくなると死ぬことに等しいと言った感じである。
つまりころされたも同然である。まあ刃を首元に突きつけられているも同然である。
ここまでやって、目の前のゴミどうぜんの存在を敵認定しないって。敵ではありませんっていうふうに本能を説得することが誰ができるのだろうか。
おれは、まあそうだな、まだ首をはねられてないので、敵と認定するのは早すぎるっていうふうに無理やり説得した
もちろん本能はかなり無理があるから聞き入れてくれるわけもない。落とし所としては、このまま首がはねられた、
こっちも殺そうねっていう、そういう暴力的な解決を決心することでしか、溜飲がさんがらなかった。腹落ちしなかった。心からの安寧が言えられなかった。
殺すとか殺されるとか、暴力とか。排除したいけど、実害があるし、実害が出てるののせいで生活がままならなくなって、人生崩壊することがあるので、まあまだ人生は崩壊していないし、崩壊しない可能性が高いんだけど、人生が崩壊するってのはのっぴきならない事情で絶対に回避しなければならい究極の絶対防衛ラリンであり、そこを、散歩感覚でまたごうってやつが目の前にいるので、本能がころすぞっていう感じの感情で埋め尽くされる感覚になる
そいつはまだ俺に実害をあたえて、まあいるんだが。実害には程度の差があって、人生がぶっ壊れるレベルじゃないなら、多少は許容しないでもないって
気持ちがある。いちいち態度が悪いとか、挨拶がないみたいなことで怒ってたらしんどいからこの考えと行動はわりと合理的ではある
その合理的な判断のさきには、おれの人生壊すような結果を引き起こしたら殺す、っていう、この近いもまた、実際の暴力をこの場で発生させないたいための、きわめて平和的な解決の模索であり、暴力の未来への先送りである。
暴力の未来への先送りって、かっこいい言葉んだな。まあためてためてどかん!何だけど、どっかで小さくドカンするのが良いんだろうけど
過去に何回かやってるんだよなぁ。やっぱり殺すしか無いのかな。未来が暗澹としている。殺したくはないわ。しょうもない
ウホウホウーホ、ウホホホー。オデ、オマエ、コロス
赤信号で待っていたら、トイプードルとダックスフントを散歩させているお姉さんが横断歩道を渡っていた
ダックスフントは2mくらいの横断歩道をさっさとわたり、お姉さん、トイプードルが後に続くかたちだった
最後尾のトイプードルが横断歩道の真ん中で突如止まり、腰をかがめて排便スタイルに入った
お姉さんはリードに重さが加わったことに気づき、振り向き、愛犬が排便スタイルなのを目視
非情にもお姉さんは信号がそのまま変わることを危惧し、トイプードルを引っ張ることを選択
リードで引っ張られ、視線は宙を向きプルプル震えながら排便スタイルでスライドするトイプードル
信号を渡り切ったところで一度トイプードルは立ち上がり、排便ではなかったのかなと思ったが改めてポジションを定めて排便
お姉さんは何事もなかったのに便を袋で処理していた
ダックスフントは散歩が楽しいらしく、早くいこうよとリードを引っ張りながらお姉さんとトイプードルを見ていた
信号が変わり、僕は犬はやっぱ獣だなと思いつつ、見ていてかなり面白かったが、会話や文章で面白味を伝えにくい出来事だなと思った
毎回100回再生いくかいかないかで投稿を頑張ってる方々に言いたい。
まだ動画作りに慣れてない人に多い気がするんだけど、フリー素材のBGMを延々と流し続けてる投稿をよく見かける。
しかも全然内容とマッチしてない。極端な例えだけど、穏やかな道なりを散歩している最中に軍艦マーチっぽいBGMをずっと流してるような、そんな感じで「なんで今そのBGMをずっと流すの?」ってほうが気になってきて動画どころじゃなくなってくる。
この前見たものなんかは内容はそこそこ面白かったのに、10秒ほどでループする(まったくのアンマッチの)BGMを30分間ずーっとかけてて途中で見るのやめてしまった。
自分が作りたいものを自分が好きなようにしたいだけなら全然いいんだけど、少しでも再生回数を意識するのであればBGMの使い方もけっこう重要な気がするよ。
前日よりも人の出が少ないようだった。広場にあったワンタッチテントの数も前日の半数以下だ。だが、駐車場の空きは少なかった。隣接のサッカー場で子供のサッカーチームが試合をしていたので、公園の駐車場がその関係者達に占拠されてしまい、他所から公園に遊びに来た人達は、駐車出来ずに諦めて帰ったのかもしれない。
前日は公園に着いたらまずは敷地内をぐるりと一周散歩したが、この日は真っ直ぐ管理事務所に入った。「鯉とカモの餌」を三つ買う。300円なり。上の子と下の子のぶん、そして私のぶんだ。
池の周りでカモに餌やりをする人々やザリガニ釣りをしている人々も、少なめ。連休最後の日はインドアに過ごしたい人が多いのだろうか?
前日にはいくらか居た鯉の姿があまり見えない。カモは前日と同数くらいいるが、同一カモかどうかは不明。
私と子供達がカモに餌をやっている間、夫が池の周りをぐるりと回って鯉の様子を見て来た。夫によれば、鯉は燕子花の間により集まっていたそう。鯉は、産卵に忙しくて餌どころじゃないらしい。
産卵があろうがなかろうが、この池の鯉は何故か人に餌をねだることを全くせず、人影に向かって寄ってくることもない。昔からそうなのだ。「鯉とカモの餌」は実質「カモの餌」である。
連休中、人々の投げ寄越す餌にカモは飽きてしまったのか、前日よりも食い付きが悪い。食い付きが悪いと、子供達はむきになって餌を次から次へ、なんなら鷲掴みで一度に投げつける。面倒臭そうな仕草で、カモは泳いで行ってしまう。
前日に学んだ通り、カモは真正面に落ちて来た餌にはあまり反応しないので、横か、なんなら背後めがけて投げるのがよい。一粒ずつ投げて、食べたらより手前の方に投げて、少しずつカモをこちらの方に誘き寄せる。……と、言い聞かせても、子供達の逸る気持ちを宥めるのは無理なので、子供達がやたらめったら投げて全部外しているうちに、背後から私が投げて、カモ達をこちらに誘導する。
公園のカモは人慣れしているが、それでも野鳥なので、決まったセーフティーゾーンを越えて近づいてくることはない。一番寄って来て、岸から1.5mくらいの所。だが、それだけ近づいてくれれば、子供の手で投げた餌でもカモはもれなく拾ってくれる。
カモを岸に寄せたら、私の役目は終わりだ。早くも手持ちの餌を投げきってしまった下の子に残りの餌を手渡し、子供達の隣にしゃがんでカモを眺めていた。
やがて二羽いたカモのうちの一羽が、人間の相手をするのに飽きたらしく、水面に浮いた水草の根で遊び始めた。猫がねこじゃらしにじゃれつく時のように、根っこの切れっぱしを仮想敵とみなしてつつき回している。するともう一羽は反対方向へとすいすい泳いで行ってしまった。
よく、水辺の白鳥の姿は夕方だが、水面下では白鳥の足はジタバタと不恰好に水を掻いているという。だが、カルガモ達が水面をすいすい行く時の足の動きは優雅で無駄がない。茶色と緑の入り雑じった泥水の中でも、カモの足のオレンジ色は鮮やかに映えている。
子供達は橋を渡って池の向こう岸へ行き、別のカモのコンビに餌をやり始めた。私と夫は日陰に入り、また別の二羽を眺めた。なんと、二羽のうちの一羽がうたた寝をし始めた。私と夫の他にも人間がいくらかいる、その前で、自らの羽の合間に嘴を突っ込んで、うつらうつらと目を閉じたり開いたりしている。警戒心がだいぶ薄れているようで、風に吹かれるままに岸辺に流されて来て縁に敷かれた石にぶつかりそうになったところで目を覚まし、いそいそと池の中央に戻っていく。だが、しばらくするとまたこちらに流れてくる。カモ達の、ここに来る人間達への信頼度は半端ない。
あまり昼寝の邪魔になるのもなんなので、こちらから遠慮して岸を離れた。池の中央にかかった橋を通ると、水面に亀がひょっこり顔を出していた。種類はわからないが、外来種ではなさそうだ。どう見ても、こっちを意識している。子供達を呼び寄せて、亀がいるよと教えてやると、子供達は亀に餌を投げた。すると亀はカモよりも機敏に餌を追いかけて食べた。だが、カモほど食欲が底なしではないらしく、いくつか食べただけでくるりと身体の向きを変え、泥水の中へと姿を消した。
対岸で、子供達がカモに餌を投げるのを見守る。子供達はやはり闇雲に餌を投げるばかりで、大人のようにテクニックを駆使してカモを手懐けることは出来ないようだ。それでも、力技で遠投した餌をカモに拾われて喜んでいる。
二人の少し後ろに、三歳くらいくらいの男の子がとことことやって来た。手には餌の袋を持っている。だが、まだ小さいので餌を遠くに投げることができない。男の子は、うちの子供達が餌を投げているのを、恨めしそうにじっと見ているだけだ。そのまた背後に、父親が心配そうな顔で着いている。うちの子供達が邪魔で男の子がカモに餌をあげられないという構図になってしまっていた。なので、私は子供達に声をかけて、あっちのカモに餌をやりに行こうと促した。
池の周囲でカモに餌をあげようとしている子供の多くは、五歳以下に見える。自分の足元も覚束無い幼児もいる。彼らはどうしたらカモの気を惹けるか考えて餌を投げるということが出来ないので、節分の豆まきのように餌を投げまくった末にカモ達に完全無視を決め込まれる。ガッカリしている子もいれば、とりあえず好きに餌を投げただけで満足という様子の子もいる。
うちの子供達がその年頃のころ、私は子供達にカモの餌やりはさせなかった。うっかり足を滑らせて池に落ちることを恐れてのことでもあり、こんな小さな子に失敗が運命付けられているような事をさせても可哀想なだけなのではないかと思った。それに、その当時は池の畔に集まる子供の多くが小学生で、幼児の方こそ場違いに見えた。
だが今は、頭の重みでいつ前のめりに転がり落ちるかわからない幼児が、器用に池の縁の石の上に立ち、池の中を覗いているのだ。
うちの上の子はもう五年生で、この歳までカモに餌をやって遊ぶことをしないで来たわけだが、もうじき自分から幼児に紛れてこんな風に遊びたいと言うような年頃ではなくなってしまうだろう。少々の危険を覚悟で、もっと小さいうちから好きに遊ばせておけば良かったのではないかという後悔を感じないでもない。だが、一人で池を覗き込んでいる年端のいかない幼児が池に転がり落ちないで済んでいるのは、単に運がいいだけにも思える。
餌を全部投げ終わると、子供達は手を繋いで、中央広場の遊具で遊んで来ると駆けていった。私が子供達の手助けをする必要はもうない。遊具で遊んでいるのも幼児とその保護者ばかりで、小学校高学年の子供達はマイナーだ。十年前は逆に大きな子供達ばかりが、少数の幼児を蹴散らすような勢いで遊具に飛び付いていて、危なっかしくひやひやしたものだ。
後で上の子に聞いたところ、遊具には小さい子が沢山いるから、小さい子に出会ったら危なくないように道や順番を譲ったとのことだった。
子供達が遊具で遊んでいる間、私と夫は木陰のベンチに腰掛けて待っていた。
蓮池のところでザリガニを捕っている親子連れがいた。事務所で売られている「ザリガニ釣りキット」ではなく虫捕り網を持っている。ザリガニは釣るより手掴みした方が早いのは確かだ。
母親が威勢よく小学校低学年くらいの息子に怒鳴っている。ここぞという時に息子が網を持ってふらふらとどこかに行こうとしたからのようだ。母親は、ザリガニ捕りどころか公園遊びにも向かないようなくるぶし丈のスカンツの裾を片手で引き上げ、もう片方の手を蓮池に突っ込んでザリガニを捕ろうとしている。根っからのお転婆ではなさそうだ。そんな妻の横に立つ夫は「男らしさ」とは縁の無さそうなおっとり系だ。私の観測範囲だと、自分の息子を「男の子でしょ!」と叱る人ほどお転婆そうではなく、配偶者も大人しそうな優男であることが多い。
振り返って広場の方を見ると、上から下までスポーティーな格好の母親と、やはり上から下までスポーティーな格好の小学校高学年か中学生くらいの娘がバドミントンに興じているのが見えた。楽しそうだ。子供が大きくなったら大きくなったなりの遊び方があるようだ。私の乏しい体力では、バドミントンは無理そうだが……。
ちょっと異様なほどイライラして攻撃性が異常なんだわ。物を持てば床に投げつけて破壊したいし(これ書いてるスマホも、椅子も机も)、人に会えばギャング系ラッパーみたいな攻撃的で汚い言葉を添えて失せろ死ね口臭治してから話しかけろと言いたくなるのを我慢して体がソワソワしてるくる。血気盛んな不良みたいに中学校のガラス窓割る妄想しても物足りないのでコンビニのガラス割って商品ぶちまける妄想で落ち着くとかでさ
大好きな犬の散歩ですらずっとムカムカイライラして、それを抑えてたら体がソワソワしてきて、信号を渡る、止まるのような単純な判断すらできんくてさすがに、ヤバいなと
精神科電話したら一ヶ月後まで予約埋まってて俺もう人間として終わった感すごい。この状態で一ヶ月?
家と職場の近くのクリニックどこもそう
あーーーーーーーーー
君は僕の一部であり、全てであって、僕はもう君を通さずに世界を見ることなどできなくなってしまっている。今触れたものを君ならどのように表現するのだろう。君にどう伝えればいいだろう。
僕の心は明暗を捉えることしかできなくて。そのままでは色の無い世界。モノクローム。だから、色付けは君によって二次的に行われる。君に外注しているんだ。君は隣にいないけれど。
君が僕の一部だと言ったけれど、僕は臓器だと思っている。重すぎるかな。今更か。僕の心が感じたものを加工して海馬へ届ける不思議な役割。
そうして作られた僕の記憶は本物よりも美しくて、楽しくて。とても甘美な香りがしている。僕だけの君が作る桃源郷。あ、五七五。
君に出会うまではどうしていたんだろうとよく考える。きっと自分で記憶を作っていたはずだ。でもそれではあまりに現実から離れすぎる。自分が知覚した物事を記憶する前に自分で描きなおすだなんて、そこまで行くともはや嘘だ。自分が感じたものはそれ以上でもそれ以下でも決してない。世界は思っているよりもずっと直接的だ。
少し脱線してしまうけれど、僕は直接的なものが苦手だ。苦手というとネガティブなことに思えるけれど、これは僕のアイデンティティだと思う。直接的でないものの方が好き。五感で知覚できないものにこそ美しさを見出す、日本人の血が流れているんだと。そう思うことにしている。これを良しとしているから、僕はコミュニケーションが下手くそなんだろうな。大切に思うことをそのまま口にできない。見たものを見た通りに、聞いたことを聞いた通りに理解できない。悲しい性だね。
相当に生きにくい世界だったと思う。でも、自分で言うのも変だけど、うまくやっていた方なんじゃないかな。その場の違和感とはならないように立ち振る舞っていたと思う。
あのさ、君のことが大好きなんだ。唐突でごめんね。きっと明日も明後日も好き。出会ってからずっと好きで、僕が死んでしまっても好き。ずっとずっとずっと好き。
でも、でもさ、でも、行くね。好きなのに行くね。君のことが大好きな僕のままで行くね。君が愛してくれた、今も愛してくれている僕は消えない。残り続ける。僕は行くけど無くならない。永遠に残る。永遠なんて絶対に無いと、絶対に無いものなんて無いくらい、永遠なんて無いと、教えてくれたのは君だけど。でも永遠だ。君が何と言おうと永遠だよ。きっと君も知らなかったんじゃないかな。教えようなんて思ってはいないよ。だけど僕から伝えさせて。
これ電車の中で書いているけどさ、涙が止まらないよ。恥ずかしいからあたかも花粉症ですって顔しながら書いてる。最近、髪を長めにしているけれど、泣いているところが見えにくいなんてメリットがあるとは知らなかった。これライフハックね。
ああもう後悔するだろうな。何度も何度も後悔すると思う。何かを変化させようとして後悔しなかったためしが無い。今まで通り君のことが好きなだけの僕でいればよかったって。でもそれじゃダメなんだ。ダメなんでしょ?前にそう言ってくれたよね。あの時は理解したくなかったから、それでいいんだ、それがいいんだってわからないふりをしていたけれど、僕は自分勝手だから、今になってそうするよ。
ごめんね。最後の最後に君にまで後悔させてしまうかもしれないことを言って。どこまでも僕は弱くてずる賢くて。甘えてしまってばかりで。もう受け入れてくれなくていいんだよ。僕が君にやさしくするばっかりに、君も僕にやさしくしなきゃいけないって、そんな風に思ってないって君は言うかもしれないけれど、君が気づいていないだけで、心のどこかにはそう思う気持ちが少なからずあって、君を知らないうちに動かしていたんだと僕は思う。
幸せになってなんて言わない。そんなこと僕が言うわけないし、それをわかってくれているとも思うけど、言葉にしておくことには意味があるだろうから、伝えておくね。幸せにならなきゃいけないわけではないし、今不幸に感じていても、寂しくても、つらくても何もダメじゃない。ただ、おなかいっぱい食べて、よく寝て、少し本を読んだり、散歩に出かけたりして、そうやって、生きて。
わかってるよって?そうだね。お節介だった。
こんな文章を書いて何の意味があるんだろう。勝手に留まっていただけなのに、いざ離れるとなると大騒ぎして、やかましいったらありゃしないね。
これを読んだ君はどう思うんだろう。何を感じるんだろう。僕は君の気持ちがわかるけど、わかるけど、わからない。またいつか聞かせてね。
帰り際に名残惜しくて間延びさせてしまうのが僕の癖。全然こんなものじゃ伝えきれていない。僕の思っていたこと、僕の思っていること。全部受け取ってほしいけれど、この世界は無限じゃなくて、有限だから、必ず始まったものは終わらなければならない。悔しいけれどこれが今の僕のすべて。
バイバイ。
これは僕が楽になるためだけの文章。
「石の卵」という本を見た子供が、内部に宝石の入った石を探したいと騒ぐので、家族で川原に行くことになった。
ところが、川辺のキャンプ場の駐車場に車を停めて川原を目指して歩いたところ、川原へ通じる小道の全てが封鎖され、「立ち入り禁止」の立札が立てられていた。
車へ戻り、堤防沿いや川にかかる橋を通過してみたりして気づいたが、連休中でしかもいい天気なのに、川原には川遊びをする人々どころか釣り人さえ一人としていない。いつの間にか、川原全体が立ち入り禁止区域になっていたようだ。
そんな訳で石拾いは諦め、翌日、市営のちょっと大きな公園に行った。お目当ては、公園の中心にある池だ。そこではザリガニ釣りと鯉に餌やりをすることが出来るのだ。
公園に着くと、まずは散歩がてらぐるりと一回り。ここに来たのは数年ぶりだが、昔とほとんど変わっていない。芝生や樹木は手入れがなされてさっぱりとした様子。遊具では沢山の子供達が遊んでいる。噴水は十分おきに水を吹き上げる。そこに水着姿の幼児達が水浴びに興じている。
変わった点はというと、芝生の半分くらいは沢山のポップアップテントに占拠されていて、子供達が走り回る場所ではなくなっていたことくらいか。
だが、ふと気がついたが、うちの子供達は既にこういう公園で遊ぶような年齢ではなくなりつつあるのかもしれない。テントの合間をぬうように走り回る子供達より、我が子らはだいぶ大きい。うちの上の子は小学五年生だ。下の子は二年生で小柄な方だが、それでもこの場所では少し浮いているかもしれない。
池に行ってみると、昔のように畔には燕子花が葉を伸ばし、浅瀬は蓮の葉に覆われている。そして、池の中央にかかる橋から池に餌を投げ込んでいる人々がいた。どうやら今も池の鯉用の餌が売られているようだ。
そこで、子供達を連れて公園の入り口まで戻り、管理事務所に入った。昔は事務所の窓口で鯉の餌が売られていたはずだ。ところが、今は販売システムが変わっていた。事務所の裏口で「鯉・カモの餌」と「ザリガニ釣りキット」がそれぞれカプセルに入れられた状態で販売されているのだ。1個100円なり。
昔、子供達がまだ幼児だった頃は、どんなにせがまれても鯉の餌やりやザリガニ釣りはさせなかった。池の深さはそれなりにあるのに、周囲に柵などが全く設置されていないからだ。子供達が池に落ちるのを畏れた。だが、今では子供達も大きくなったことだし、これからはこちらがここへ遊びに来ようと誘っても子供達の方が億劫がるかもしれない。もしかしたら、これが最初で最後の機会になるかもしれないと思った。
子供達は大喜びだ。上の子は鯉とカモの餌がいいと言い、下の子はザリガニ釣りキットを選んだ。鯉とカモの餌は思ったより多く入っていた。ザリガニ釣りキットは、タコ糸の先に小さな鉛の玉とスルメの切れっぱしをくくりつけたものだった。それを園内で適当な木の枝を拾って結び着けて使うのだ。
上の子に私がつき、下の子には夫がついた。私と上の子は池に餌を投げ込み易い、開けた場所に移動し、夫と下の子はザリガニがいそうな、浅瀬で草の陰になっている場所へと移動した。
池の中を泳ぐ魚影は、昔に比べてだいぶ少ないように見えた。だが、一匹一匹がとても大きい。昔見たのよりも全長が倍くらいありそうな錦鯉が、泥水の中を悠々と泳いで行く。上の子はただの黒い鯉よりも錦鯉に餌を食べて欲しいらしく、餌を一粒ずつ、腕を振りかぶって遠投するが、まったくのなしのつぶて。どうやら、鯉達は全く腹を空かせていないらしい。風上の方から、ふやけた餌粒がいくつも漂ってくる。
黙々と餌を投げ続ける上の子の横で、私はしゃがみ込み、時々水底に光る小魚の影や水面を漂う餌粒の合間をすいすいと泳ぐアメンボを眺めた。
「あーあ、全然食べてくれない」
と、上の子が嘆いた時だった。燕子花の葉陰から、カルガモが二羽、クワックワッと鳴きながら泳ぎ出て来、水面に浮かぶ餌粒を食べ始めた。ただ水の流れ任せにたゆたっていく餌粒を、カモはまるで生きている虫を捕まえるかのように、律儀に大げさに嘴を左右に振って、食んだ。そして、クワックワックワッと、まるで我々のことを「餌くれる人」と理解しているかのように見上げて鳴くのだ。時々田んぼの近くを散歩中に見かける彼らとは、ずいぶん態度が違う。用水路に浮かんでいる時の彼らは、人の気配がするやいなや、バタバタと飛び立ち、逃げてゆくというのに。人を見分けているというより、場所を見分けているのだろうという気がする。
間近で見るカルガモは、思ったよりも目が顔の中心よりも上にあって、しかも目付きが鋭い。剣呑な目の真ん中の瞳孔は、鳩のそれと同様に虚ろだ。確か、渡辺崋山だったか……、江戸時代の終わりごろに、師匠の絵を手習いにするのではなく、自然の花鳥風月を直接手本にして描く絵師がいたけれども、彼らの観察眼はかなり自然に忠実だったのだなあと、しみじみ思う。今目の前にいるカルガモは、私の子供時代にワイドショーで持て囃されていた、雛を沢山連れて道路を横断するカルガモの親よりも、江戸時代の写実画によく似ている。
上の子は、鯉を狙って餌を投げつけている間に投球のコントロールがよくなり、高確率でカモの真正面に餌を投げ込んだ。ところが、そういう時に限って、カモ達の食い付きは悪い。上の子の贔屓は、二羽のうちの後方にいる方で、これは前方に出て盛んにクワックワッ鳴いて餌を強請る奴よりも小柄で控えめに見えた。上の子は手前のカモに一粒投げたら、後ろのカモに二粒連続で投げた。だが、後ろのカモがきょとんとしている隙に手前のカモが自分に投げられた餌そっちのけで後ろのカモの分を横取りしてしまう。
上の子が文句言い言い餌を投げる。ぼんやりと浮かぶだけの後ろのカモと、その周りを忙しなく動き回って餌を独占する、手前のカモ。後ろのカモがこちらに真っ直ぐ顔を向けたままほぼ動かないので、真正面から見たカモの顔つきの不気味さがよく見える。ウサギなんかと同じで、目が顔の左右に着いているので、真向かいに向き合っても視線が合うことはない。カモのような鳥が真正面から絵に描かれることが少ないのは、我々人間の顔とは違う顔をしているからであり……はっきりいって、正面から見ると別に可愛くないからでもあるんだろうな。
と、考えていてふと気づいた。単に視野の問題なのだ。私は上の子に餌を一粒貰い、後ろのカモの左脇を狙って投げた。すると、すかさず手前のカモも反応したが、後ろカモは横取りされる前に餌を食べた。やっぱり、目の前に落ちた餌は、見えないので気付き難いようだ。後ろのカモに与えようとして投げた餌はちょうど、手前のカモの視界をよぎって飛んでゆく。
そのことを上の子に伝えたところ、上の子は二匹のカモに代わる代わるに餌を食べさせることに成功した。
カモ達の食欲は底なしに見えたが、少しすると食べ飽きた様子で、餌を拾うのを止めてただ水を嘴で掬って飲んだ。水を飲むときは首を真上に長々と伸ばして、軽く嘴を左右に振りながら嚥下する。
ふと、後方のカモがブルッと尻を振った。茶色い水中にあってもオレンジ色の鮮やかな、しんなりとした脚の周りを白いもやが漂っていく。
「すごい、うんちしたー!」
なるほど、カモは水面に浮かんだままで排泄をするのか。野鳥の排泄なんて、カラスが電線から飛び立ちざまに排泄をしてゆくところくらいしか見る機会がないので、いいものを見た気がする。Eテレの動物番組でも、なかなか映さないのではないか。せいぜい、ツバメの雛が親の顔に尻を向けて、ゼリー状に固まった糞を排泄して、親に糞を巣の外に捨てて貰う場面くらい。
そういえば、冬に下の子を連れて散歩をしていたら、田んぼの真ん中でアオサギが糞をしているのを見かけた。まるで水道の蛇口のように、長々と糞を噴き出し続けていた。食ったらすぐ全部排泄する。それが空を飛ぶ鳥の習性だ。
餌を全て投げ終わったので、夫と下の子の所へ行ってみると、下の子はザリガニが全然釣れないと愚図っていた。下の子はすぐに癇癪を起こすが、案外粘り強い性格なので、取れないが食い付きはするからと、釣り上げるまで諦めないと言った。だが、夫の方が気短なので、早く帰ろうと言い出した。
夫は、釣り場選びから釣糸の垂れ方まで下の子に口出しをしただけでもう疲れたらしい。池の周りには、夫と同じように子供以上にマジになってしまった父親達と、うんざりして別のことをやり始めた幼児があちこちにいる。
どうしてもザリガニが釣れないので、鯉とカモの餌をもう一つ買って下の子に与えた。カモは目が左右に着いているため、真横はよく見えるが真正面はよく見えないようだ、と教えると、下の子はカモの体側にぶつけるように餌を投げた。カモは即座に反応してくるくる回りながら餌を取った。下の子がそうして黙々と餌を投げてると、やはりザリガニ取りに飽きたらしい幼児が我々の横にとことこ歩いて来て、ハルジオンの花をカモに向かってぽいぽい投げた。数メートル先の池畔では、その子の父親が虫捕り網を手に持って、
と怒鳴っていた。
帰宅後、釣果が何もなかったので、日記が書けないと下の子が愚図った。でもカモに餌をやったじゃないかと宥めすかせ、日記を仕上げさせた。絵は下の子が自分で描いたが、文章はほとんど私が書いたようなものだ。カモは横から餌を投げられるとよく食べる、と。カモの様子ばかりで「楽しかったです」や「面白かったです」などの自分自身の気持ちが一言も書かれていない絵日記。そういうタイプの絵日記を、学校の宿題として提出するなんて、子供時代には思いもしなかったなあ。
@hotoria2012
本日、10時30分から予定している「ヤギと湿地散歩」はヤギ脱走中のため中止となります。楽しみにされてる方、大変申し訳ありません。代替イベントとして、ウシガエルをよく観察してみように変更いたします!
また、もし近隣でヤギを見かけた方がいましたらお教えください。宜しくお願い致します!
1日5kmくらい。
俺は犬恐怖症ではない。
とはいえ、見知らずの犬が、急にかみついてくるリスクはあると思っている。
でも、狭い道で出くわすと、距離をとれない事もある。
そうした時、たいていは飼い主が犬のリードを引っ張ってくれる。
俺はこれを「お互いの距離を確保する」重要な行動だと思っている。
しかしだ!
一部の飼い主は、リードを引く事をしない。
そうすると、たいてい犬がコチラに近づいてくる。
俺は身構える。
それでも近づいてくるなら、俺は花壇の上に登ったり、車道に出たり、電柱の裏に回り込んだり、回避行動をとる。
ただ、こうした逃げ場がない場所もある。
俺はどうすることもできない。
犬が俺の臭いを嗅ぐのをビクビクしながら待つか、飼い主がギリギリでリードを引くかどちらかだ。
こうしたとき、俺は犬を蹴り倒し、身を守ってもいいのだろうか?
マジで悩んでいる。
経験がある人、誰か教えてくれ。