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はてなキーワード: 道徳とは

2021-04-15

anond:20210415230415

単純な利害だけ考えれば、あと数年しか生きられない人よりあと数十年生きる人を生かす行動取る方が有益

道徳倫理面で大問題だろうけど

anond:20210414001604

アインシュタイン宗教を、人々が道徳を学ぶツールと見なしていたらしい。

まり逆に。

小学校で使った道徳教科書をまるまんま教典にしちゃおうぜ。

2021-04-14

自分人権軽視の差別主義者なんだと思う


2年前くらいか匿名ダイアリーとかはてブとか使いだして、今までの人生じゃ全然触れてこなかった情報問題に触れるようになって、自分の考えを相対的に捉える機会が増えた。

その結果、自分自己責任論や自助思考が強くて、一般的はてな的?)には人権を軽視する差別主義者というくくりになるんだと思う。

具体的に言えば、少数の生活を助けるために多数が苦労するのは無駄だと思っちゃう現在日本で言えば高齢者不自由なく暮らせるようになるために若年性代に過剰な負担結果的に国や社会の首を締めてるって。

こう言うと「自分がその立場になったときの事を考えないのか?」的な反論がよくあるけど、自分がその立場になったら見捨ててくれていいと思ってる(実際にその立場になったときに確実にそう思えるかの保証はないけど)。

--

車椅子障害者の件は、業務の一環というのもあるから上記の限りではなくて微妙な話だとは思うけど、代替手段があるならタクシー使えばいいじゃんなんて。

業務ではなくて、障害者を健常者が過剰な負担で支える必要があるのであれば、それも良しとしていいのか考えるべきだと思っちゃう

あとよく言われる「遺伝子多様性」なんてのも障害者高齢者とか「自身での生活が難しい人間」を支えるコストがあれば、レッドリスト生物どれだけ救えるんだろうとか遺伝子多様性的にはそっちのほうが重要じゃないとか。

--

同じ社会構成員として今は弱者と言われる人たちを助けることが、結果的自分や周りの人を助けることになるってのはもちろんよく分かる。

ただ、それが果たして現実的なのかってのがピンとこないのと、発展や効率を考えると無駄ことなんじゃないかって合理性を考えてしまって、

当然こういった意見を持つことが現在一般的価値観からすれば蛇蝎のごとく嫌われる差別的価値観であることはわかってるけど、倫理道徳との葛藤が終わらない。

ホームレスデートの件を「良い話」と受け取った人間です

ブコメ見て皆が何を言ってるかわからず、しかしとにかくひどい言われようで、今はただあれを良い話と思うこの受け取り方が悪なんだと思うことしかできない。

よくわからないが皆の剣幕を見てこれは自分が改めなければいけない感覚なんだと思うし、この感覚を持ったまま生き続けることは無教養クズであるということを公言するようなものなのだろうと思う。

思えば東日本大震災の時もデマツイートに踊らされてリツイートしてしまったクチだった。あれで怖くなって自分Twitterをやめるべきだと思ってやめたのだけれど、無道徳と無教養までは直らなかったらしい。

小中学生の頃は自己責任論者だった。それが無教養だと知ったのは、高校生になってはてなアカウント登録して、はてブでいろんな人の意見を見て学んだからに他ならない。(言い訳がましいかもしれないけど、自分も含めて高校ではほとんどの人が、成績が悪いのは単なる努力不足以外の何物でもないと思っていたと思う。成績が悪い人間人権はなく、裕福な人間が多い高校だった)

苦手なもの自虐したら人を泣かせたことがある。その人が自分よりその物事が苦手だったということを後で知ったのだが、そういう可能性があるという思慮が足りなかった。

いつだってそうだった。人から指摘されないと直らないのだ。

想像力問題ですむ話だろうか。自分は平気で人を傷つけるサイコパスなのかもしれない。

それでも沢山学んで昔より少しましになったのだと驕っていた部分があった。

今はブコメを見て皆があの記事をそのように批判する理由を繰り返し読み込むしかない。まだ悪いから悪いというレベル学習しかできないが、同じ感じ方をいつか身につけられるだろうか。

anond:20210414174628

増田人間側の心理学的な性質考慮に入れていない。躾と虐待紙一重。厳しく接することで道徳観が曲がり、一線を超えてしまうかもしれない。

厳しくするのはあくまで演技の範囲に留めるべき。

犬にだって感情に揺らぎがあるし、一貫性を損なわない程度であれば、見逃すことがあってもいいと思う。人に迷惑をかけない範囲内であれば。

2021-04-12

自分は人権軽視の差別主義者なんだと思う

2年前くらいか匿名ダイアリーとかはてブとか使いだして、今までの人生じゃ全然触れてこなかった情報問題に触れるようになって、自分の考えを相対的に捉える機会が増えた。

その結果、自分自己責任論や自助思考が強くて、一般的はてな的?)には人権を軽視する差別主義者というくくりになるんだと思う。

具体的に言えば、少数の生活を助けるために多数が苦労するのは無駄だと思っちゃう現在日本で言えば高齢者不自由なく暮らせるようになるために若年性代に過剰な負担結果的に国や社会の首を締めてるって。

こう言うと「自分がその立場になったときの事を考えないのか?」的な反論がよくあるけど、自分がその立場になったら見捨ててくれていいと思ってる(実際にその立場になったときに確実にそう思えるかの保証はないけど)。

--

車椅子障害者の件は、業務の一環というのもあるから上記の限りではなくて微妙な話だとは思うけど、代替手段があるならタクシー使えばいいじゃんなんて。

業務ではなくて、障害者を健常者が過剰な負担で支える必要があるのであれば、それも良しとしていいのか考えるべきだと思っちゃう

あとよく言われる「遺伝子多様性」なんてのも障害者高齢者とか「自身での生活が難しい人間」を支えるコストがあれば、レッドリスト生物どれだけ救えるんだろうとか遺伝子多様性的にはそっちのほうが重要じゃないとか。

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同じ社会構成員として今は弱者と言われる人たちを助けることが、結果的自分や周りの人を助けることになるってのはもちろんよく分かる。

ただ、それが果たして現実的なのかってのがピンとこないのと、発展や効率を考えると無駄ことなんじゃないかって合理性を考えてしまって、

当然こういった意見を持つことが現在一般的価値観からすれば蛇蝎のごとく嫌われる差別的価値観であることはわかってるけど、倫理道徳との葛藤が終わらない。

2021-04-11

anond:20210410183304

いい加減サヨとかウヨとか、曖昧な線引で分けるの辞めろ。

昔のウヨには保守的であるべき彼らなりの理論があったが、現代ウヨはただの盲信カルト自民信者で、反中のくせに親中自民応援する、矛盾の塊。

さら政治的理念とはまったく関係ない倫理道徳までおかしくて、自民がやることは全て肯定するという。これは本当ウヨサヨ言う前に、一歩引いて倫理のあり方を考えたほうがいいよ。

現代ウヨはただのカルト盲信教徒倫理という一般教養すら持たないただの知恵遅○である

2021-04-10

anond:20210410205310

共感してくれてうれしいよ

倫理道徳善悪のような極めて相対的概念が持ち込まれるとさ、

どうしたって「不当に」分断がすすんだり、排除される可能性が高まるよね

2021-04-09

道徳教科書に載ってた話

テストで満点だったらご褒美を買ってもらえるけど

先生の採点ミスで満点になってたのを正直に話してエラいみたいな話

別に黙ってても悪い行いではないなと思う

あえて言えば採点ミスした先公が悪い

anond:20210408181026

ただしこれは「コミュニケーション介護者」の不快な振る舞いを、ある程度までは大目に見る風潮を醸成することも目的に含むわけで、不快な振る舞いをされたらハラスメントと指摘すべきという昨今の道徳とは衝突するが。

まさにこれで、本人に邪気のない(しかし決定的に不快な)セクハラをする中高年男性をこれまで社会的コストとして認容していたところ、もうそういうのはやめてくれませんかねというのがまさしく人権尊重であって、いやあコミュニケーションが不得意な人の不快言動も許容しましょうよというのはさすがに通らないんじゃないかだってそういう人が求めてるのが「若い女に、場合によってはとても失礼な軽口を叩いてコミュニケーションをとって癒されたい」とかだとしたら、若い女だけにコストを強いることになってしかもそれを社会的に許容するってフェアじゃなさすぎるでしょう。

そういう人を、そういう人はかわいそうなので助けてあげましょうという視点なら、職業として介護はするがこれは無償ボランティアではないってキッパリ言うしかない。介護と同じでいままで嫁がやってたんだからそうしましょうよというのには戻らないよ。

年寄り障害者に優しくするのと、ターゲットを絞って加害してくる人の不快言動を受け止めるのを同じレベルでは語れないと思うよ

anond:20210409050154

日本における「道徳」ってのはそういうもんだよ

明治から

anond:20210409040638

これで中立ぶれてると思うんだからそうとうおめでたいよね

既得権益層が有利になる価値観しかない「道徳」がどうのだの言い出すのは「障害者はわきまえろ」以外の何者でもないですよ

障害者だろうが健常者だろうが、通常業務から外れる範囲でかつかなり時間的負担の大きい業務を30分前に依頼するのは非常識でしょ

障害者感謝するべきとは言わないが、末端の駅員を批判して無用感情労働を強いていいとも思えん

バリアフリーのために努力しなければならないのは「障害者」でも「労働者」でも勿論「利用者」でもなく、「事業者」です

事業者努力が足りないために利用者が不便を被ることになるならそれは十分批判対象になるという話です

もちろんたかだか1駅数千万程度の出費だけで「運賃2倍w」などという経営努力の欠如が生じるのであればそれは当然批判されて然るべきですね

そりゃまあ建前としてはそうだろうけどさ、事業者努力すればノーコストで完全なバリアフリーが実現すると思うんだったら具体的な改善案を出してほしいわ

それが出来ないか批判してんの

1+1=80じゃないんだからさ、いくら頑張っても出来ることと出来ないことがあるの

まあ今回は該当地域では既に計画が進んでいたわけで、たまたま利用者不利益にはならんかったわけだけども、日本中の全駅のバリアフリー化を目指すなら何らか利用者に不便を強いることは考慮して然るべき事柄だろ

anond:20210409040638

既得権益層が有利になる価値観しかない「道徳

そんな道徳はお前のアタマの中だけでは・・・

anond:20210409035304

伊是名夏子の行動は適法だが少なくとも道徳的ではないと思っている。

これで中立ぶれてると思うんだからそうとうおめでたいよね

既得権益層が有利になる価値観しかない「道徳」がどうのだの言い出すのは「障害者はわきまえろ」以外の何者でもないですよ

バリアフリーのために努力しなければならないのは「障害者」でも「労働者」でも勿論「利用者」でもなく、「事業者」です

事業者努力が足りないために利用者が不便を被ることになるならそれは十分批判対象になるという話です

もちろんたかだか1駅数千万程度の出費だけで「運賃2倍w」などという経営努力の欠如が生じるのであればそれは当然批判されて然るべきですね

2021-04-08

anond:20210408111244

弱者男性を「コミュニケーション介護者」と捉えた場合、その支援訪問しておしゃべり、みたいな直接的かつ具体的な支援に限らないだろう。

たとえば「コミュニケーション介護者」ともできるだけ親しく関係を持つのがよいことです、というプロモーションを明に暗に打ち続ける方法がある。

年寄りには席を譲りましょう、白杖を持っている人が立ちすくんでいたら声を掛けましょう、みたいな感じでな。

仕事としておしゃべり介護してもらうのも悪くないが、プライベート友達恋人が作れたらもっと嬉しいんだし、プロモーションの影響で人々がキモくてカネのないおっさんおばさんに対するイメージがよくなり恋人ができる可能性が増すならよろこばしい。

これは弱者男性に限らず弱者女性も「コミュニケーション介護者」に含むことができ、彼女たちの孤独を救うことができるだろう。

ボダメンヘラや鬱や統合失調症の人も友達恋人ができやすくなるってわけだ。

なにより、社会がお前たちを排除矯正していくつもりではないというメッセージを出すことで、彼ら彼女らに希望を持たせられるのがいいことだ。

弱者男性が反フェミニズムに熱心になりがちなのはフェミニズムの声ばかり重用されて自分たち男性がどんどん追い詰められる未来の流れが見える不安鬱憤があるからで、フェミニズムで女の欲望肯定していくけど、男の欲望は男の欲望社会として肯定していく意図があるよ、という雰囲気があればだいぶ状況が変わるだろう。

ただしこれは「コミュニケーション介護者」の不快な振る舞いを、ある程度までは大目に見る風潮を醸成することも目的に含むわけで、不快な振る舞いをされたらハラスメントと指摘すべきという昨今の道徳とは衝突するが。

anond:20210408112745

妥当だけど、でも現代の人々は道徳やらなんやらの理由であまり一夫多妻制を推進したくない傾向にあるようだから

「それなら最大多数の最大幸福の方が好ましいですよね?」という方向で弱者男性に目を向けさせるのは戦略としては正しいのでは

anond:20210407191608

人権同士が衝突することも多いってのを勘案してくれ。

世の中はままならないので、増田のような、人権侵害は迷うことな拒否してよいしそれでうまくいく、って整理では片付けられないのだ。

たとえば要介護者の世話は、家族など周囲の人間が担わねばならんのだが、それは周囲の人間人権侵害している。

公的にも私的にも扶助はあるが、それでもきょうだい障害者を持って生まれた辛さ、みたいな記事がたまにバズるよな。

これは要介護者と健常者の人権がぶつかる中で、妥協点を探って暫定的に今の仕組みになってるわけだ。

万人の人権を万全に守ることは残念ながら不可能なので、周囲の健常者や国民の税を要介護者にあてがいましょうという仕組み、これが現時点での対処である

だが、増田のような考え方では、介護公共のためであっても、人権制限に繋がるあてがえ論はノータイム拒否してよい、となってしまう。

もしも誰かが、要介護者の意見で聞く価値があるのは「私は障害があり要介護者だけど仕事や外出や人間関係を楽しみたいのが本音だ、でもそれには他人介護強要する人権侵害をせねばらなんので、おとなしく家にこもることを選ぶよ」という内容だけだ! とか言ったら現代社会では賛同されづらいだろう。

そして増田の、弱者男性意見で聞く価値があるのは「ぼくは女性とのコミュニケーションが欲しくて苦しいが、その苦しみの解消には女性人権侵害せざるをえないとわかってるから、おとなしく苦しみつづけることにします」ってタイプ弱者男性だけだ……という態度はこれに近いのだ。

何よりまずいのが、この危うさに気づいていいはずのブコメ聴衆さえも、増田道徳的で素晴らしい考え方をしていると褒めまくってしまうことであり、弱者男性の生きづらさが認めてもらえないというのはこういう部分も含むのだろう。



話を簡単にするため、シスヘテロ弱者男性を想定して論じる。

弱者男性論の、異性恋愛部分で揉めやすいのは、人権同士が衝突するからだ。

周囲の人間自由意志尊重することと、キモいとされる男性が異性とのコミュニケーションを得られず孤独に苦しむのをを救うこと、その両立が困難だと判明してきたからこじれているのだ。

(多くの人間または男性の心には、性的対象とのコミュニケーションによってしかまらない大きな飢えがあり、非恋愛の友人関係では満たせない、という仮定はとりあえず正しいとする。その真偽は心理学者などが長い時間をかけて研究せねばならないだろう)

箇条書きにすると、以下のようになる。

不快相手との交流を強いられることは人権侵害である

・だが、悪意がなくても他者不快感を抱かせがちな上に改善困難な人間存在し、その代表キモくてカネのないおっさんのような弱者男性である。(女にもそういう存在はいる)

・彼らと交流させられることは、人権侵害である

・よって、他者不快感を抱かせる弱者男性は、諦めて孤独に暮らすべきだ。

・いや、それで本当に倫理的にいいのだろうか?




繰り返すが、弱者男性人間関係についての話は、介護障害者支援と近いんだよ。特に支援が進まない精神障害問題

接触すると周囲の負担になりやす人間をどう扱うか、という問題だ。

介護者を厄介者みたいに言うのはかなり危ういんだが、実際のとこ、厄介者(とされちゃう人)をどう包括するかを真面目に考えることで社会福祉は成り立っている。

現在日本では、家族扶養義務とか、介護ビジネスへの補助金とか、福祉とか、障害者雇用義務とかで要介護者に対処している。

たまたま家族に要介護者がいるからってその世話をさせられるのは人権侵害ではないか、という論点は当然あるが、今のところ、その人権侵害一定程度許容してでも、要介護者を社会から切り捨てるのを防ぐべき、という風になっているわけだ。

その果てに介護疲れによる自殺などもあるんだけどな。

ここで増田の整理を抜粋する。

耳を傾ける意見:「正直異性(他人)とのコミュニケーションは欲しいが、現実女性意思人権制限するなんて酷いことは考えていない」

無視すべき意見弱者男性問題解決のために女性意思人権制限すべきという意見全般(女をあてがえ派を含む)

すなわち、周囲に不快感を抱かせてしま気持ち悪い弱者男性にもコミュニケーション欲求があるのは納得するが、その援助が周囲の人権制限しなければならないなら無視してよい、ということになるだろう。

自由意志制限するべきではないので、周囲が世話をしたがらないなら要介護者は介護される必要なし、弱者男性につきあってやる必要なし。

それで本当にいいのだろうか。



弱者男性を要介護者と並べるのは突飛に見えるかもしれない。

だが、弱者男性と言うカテゴリの中には、精神障害者やパーソナリティ障害発達障害さら障害と健常のボーダー位置する人間がおそらく結構割合で含まれる。

また、そのボーダー時代と共に変化し、歴史の傾向としては要支援障害者認定される範囲が広がっているのだからワガママで苦しいアピールする人間と正当な要介護者を現在基準で完全に分割して別物と扱うのは適切ではない。

これは弱者女性についてもそうだ。

そして、弱者男性問題を、介護障害と地続きの問題として見れば、精神障害者への支援の遅れと近いことに気づける。

対人能力人格情緒の安定にハンデを抱えている人間に対する扱いは、いまだに相当に厳しい。

障害者支援代表例は雇用義務だが、精神障害は本当に厳しくて、障害者雇用でも採用されるのはおもに身体障害者だ。

精神障害者の雇用義務ができたのは、驚くべきことに2018年というつ最近だ。(https://www.mhlw.go.jp/stf/seisakunitsuite/bunya/0000192051.html

精神病院についてのゴタゴタも頻繁に取りざたされる。

今も世の中には、「精神障害のある人たちも苦しいだろうけど、関わるの負担が大きいし、その負担を強いるのは人権侵害から、仕方ないだろ」なんて感覚があるのだ。

そして精神障害者と弱者男性の避けられ方は近い。



弱者男性支援する具体策については、深く踏み込みたくない。

政策知識のない俺が具体的なことを考えたってツッコミどころが多いだろうし、そこにツッコミが入りまくると、まるで総論としても弱者男性論が間違ってるような印象を持たれるからだ。

具体策として考えた内容に穴があるからって、総論としての方向が間違ってるとは限らないのにな。

……と思ってたが、「要は公的カウンセリング風俗か? それとも奴隷化か?」なんて人が多いので、それ以外の方法として、AC広告みたいなイメージ戦略なども考えられるよね、とトラバで書いた話を追記として挟んでおく。(このパラグラフだけ4/9の朝に追記

弱者男性を「コミュニケーション介護者」と捉えた場合、その支援訪問しておしゃべり、みたいな直接的な支援に限らない。

たとえば、コミュニケーション介護者ともできるだけ親しく関係を持つのがよいことです、というプロモーションを明に暗に打ち続ける。

年寄り地域交流しましょうもたつきは温かく見守りましょう、白杖を持っている人が立ちすくんでいたら声を掛けましょう、みたいな感じでな。

仕事としておしゃべり介護してもらうより、プライベート友達恋人が作れたらもっと嬉しいんだし、プロモーションの影響で世間からキモくてカネのないおっさんおばさんに対するイメージがよくなり「自由意志」でイチャコラしてもらえる可能性が増すならよろこばしい。

これは弱者男性に限らず弱者女性コミュニケーション介護者に含むことができ、彼女たちの孤独を和らげることができるだろう。

男女問わずボダメンヘラや鬱や統合失調症アダルトチルドレン無職の人も友達恋人セフレができやすくなるってわけだ。(弱者女性はむしろセックス相手として求められすぎて困ってるみたいな話もあるが)

なにより、社会がお前たちを排除矯正していくつもりではないというメッセージを出すことで、彼ら彼女らに希望を持たせられるのがいいことだ。

弱者男性の中に反フェミニズムに熱心になる層がいるのは、フェミニズムの声が主に重視されて自分たち男性相対的にどんどん追い詰められる未来が予想されて不安鬱憤があるからで、フェミニズムで女の欲望肯定していくけど、同時に男の欲望は男の欲望社会として肯定していく意図があるよ、という雰囲気があればだいぶ状況が変わるのではないか

もちろんこれは「コミュニケーション介護者」の不快な振る舞いを、ある程度までは大目に見る風潮を醸成することも目的に含むわけで、不快な振る舞いをされたらハラスメントと指摘すべきという昨今の道徳とは衝突するので常にバランス綱引きが行われるだろう。

あとはアンドロイドセクサロイド代替とかってのもアリかもと思うが、それならそれで、真面目にその方向の技術振興をしましょうという政策議論に繋げるべきだ。

「50年後か100年後にできたらいいよね~科学の発展に期待~」じゃなくて、それを少しでも早められるよう本気で向き合ってほしいんだよ。

追記ここまで)



まあダラダラ書いたけどさ、とにかくこういうことよ。

健康で文化的な最低限度の生活のためには周囲に負担を強いることが必要になる、広い意味での「要介護者」は世の中にけっこういる。税金を利用する全員がそうだとさえいえる。

人権侵害絶対拒絶すべきという考え方をすると、周囲の強制負担も認められないということになり、その「要介護者」たちは見捨てられることになってしま

現代では、人権同士が衝突する場面も多いとわかってきたのだから、その中でどう折衷していくかが大事だ。

そのためには、人権侵害議論余地なく即却下、という素朴で潔癖な姿勢は話が進まなくなるので良くない。




このさい、弱者男性論はさておいてもいいや。

現代では人権同士がぶつかりあってるので、「人権絶対守るべし。そしてみんなの人権を同時に守れる方法はある」とシンプルいかないことはわかってくれや。

2021-04-07

anond:20210407185920

それはあながち間違っとらんな。

人の心や道徳ってのは「守るもの」ではなく、あくまでも下々に「守らさせる」もんやからな。

anond:20210406154303

日本人普段意識していないレベル常識道徳といったもの

他の宗教信者異文化の人からは「宗教」に見える、という話。


日本人にとって神社賽銭を投げるのは一種社会常識であり、

神社に行って賽銭を投げない人がいたら日本では「常識がない」と言われると思う。

ましてや親が死んで葬式を上げなかったら非常識まりないと糾弾される。

日本人は骨の髄まで常識に染まって生きていて、常識の異なる社会の人と接する機会が少なく

自分の持つ常識が外部からどう見られるかを意識することが普段ないので

それが信仰と呼ばれるものだと気づかない。

2021-04-06

anond:20210406202713

ようするに

神様を信じるってことは神様にもこっちを信じてもらうために(その神様目線からいえば)いい子にするってこと(大まかに信仰のありかた)

・どの神様が何していいとか何しちゃだめとかいろいろ決まりがあるけど日本人はそれ守る気はない(逆説的に上記神様に信じてもらうためというのを否定してる)

 学校教育が「日本においてあるべき情報の基礎」と思われるくらい義務化されてるから宗教文化情報の記録で教育で治世的なものであるという役割を捨ててる

 道徳倫理も「学校で学んだろ」って言葉で完結してしまうし善悪基準は「世間さま」

 神ってものが何なのかよくわからないけれどもおなじ立ち位置に「みんな」「世論」「世間」とかを据えてる

この二つで信仰心はないし無宗教っていえる

さら

神様にお願いする行為はなんでもするけど、神様がお願いしてる事(禁則事項)は守る気はない

神様はえいかうちら庶民ことなんかとりたてて監視しないしそんなきついこともいわんやろ、けど神様基本的人権について忘れてそうっておもったらすごい勢いで呪う

概念想像範囲内はすぐ頼るけど、それに到達しないと現実のなにかをめっちゃ攻撃する

駅に階段しかなかったら駅員を晒すし望みのレストランに入れなかったら晒す 運を神様が操って自分にだけカスタマイズされた試練だとは思ってない

でも運よく予約がとれたら日頃の行いっていうしスムーズに事が運べば神様感謝して実際の関係者には感謝しない

構造的に一番安上がりな事をするというだけ

受験勉強を寝ずに毎日頑張るのよりも小銭で絵馬を書いて願掛けしたら匹敵するかもって期待しておちたら学校制度を呪うし合格したら何らかの実力を誇る

という理由で神の座がないってことやね

anond:20210406154303

いいたいことはわかるけどそれは無宗教とかではなくて「無信仰信仰方法自由(とりとめのない・まとまりのない・定型でない)にしてるということではないでしょうか

信仰宗教は違うのかというとそれはもう文字意味も違うので違うのだと思います

どの神様に、と選べる時点で無宗教宗教宗派に属していないといえると感じるのは、選択できる範囲や競合をできる組織体内にあるということでもないし完全に別団体に属したものを選べることを自由(無節操さ)だといえるところからです

宗教に属す宗派に属すということが「その教義の行動規範に則る」べきであるというところからになるでしょう

宗教は人の考えや行動を縛り自由を奪うものなのかといわれたら、言い方次第ではそうだといえるでしょう


自由という範疇についてすこし絞っておくと

自由を奪うことは罪であり悪であり宗教道徳といった観念から排除されるべきものととらえるのは早計でしょう

選択肢として明示し行動として示したものを許諾の例として言葉にしなければ実質制限されていることも自由範疇におさめることができます

どんな宗教悪事自由ではなく制限され道徳権利自由からそれらを排除にむかわせるべきだとしていますが時に悪事とされる善行にあたることもあるでしょう

自己犠牲として自発的に損失を被ることについて、自己犠牲になりたいと思った本人の行動がどこからが本人の意思決定であったか、その根源たるを他の人の意思であるというところまでつきつめると洗脳による自害自損ともいえるでしょう

それがどこまで近い段階であっても言葉にしなければ「美しい自己犠牲」とも言えるわけです

自由で公平で自発的なのか、恣意的他人欲求だったのか、視野自由にできるのならどれも自己責任でありますし、どれも他人所為でもあります

この定義方法を、議論考察研究文化形成生活安全性自発性に任せる部分を安全かつ効率的に使うためには関係者認識共通させる必要があります

その基準定義宗教なわけです

Aの宗教ではこれをしていいが、この場面ではBの協議にしたがう、Cの教徒とおなじ慣習をもちつつ、Dの祝い事に参加する、これが問題なのは主催者の意に沿わない参加者が発生するということです

その土地では年齢や性別に大きく関係する分類や層づくりがあって行動様式がある、それは土地の形状や生産物文化継承方法について試行錯誤の結果できたものだとして、それをどの視野範囲からかわからないけれども否定をする必要性や異なる文化への融合を促進する必要性など、人の欲求という根源以外にないわけです

これをもとに行動を個人が大きく他人を巻き込むと、独占的な判断継承されるべき文化や人々の生活などがその人の基準のみで変化しま

民主主義多数決といった構造で全体的な存続と発展の利をとるために組織されている一つの目標団体が、多目的に他情報積極的に取り込み侵食する必要はないのです

日本は結果として無宗教という無制限で垣根のない侵食を行える体制がありますが、これが陸続きの土地ならば過去大陸を大幅に占領した戦争などに近いことになるのではないかと思います日本島国日本以外にその文化も習慣もひろまることがありませんでした

この自由という行動者にとってだけ都合がよくて状況を受ける側の圧倒的不利さをせき止める防壁として戒律などがあります

培ってきた文化財産、知恵や技が家族一族を存続させるために必要であるのに、ただ血脈のなかでも一人秀でた人がいたので対応できる新技術に乗り換えたとしたら、次の世代一族はそれを継承できるのか、できなかった場合についての対策をしなくてはならないのではないか、その保守性などが宗教という組織体自由制限自由を得るための礎となるわけです

自由自由みたいなことになってしま言葉の使い方が混乱を招くわけですが、選択権を握るためには選択できる手段をもっていなくては「自由選択することすらままならなくなる」のです

両手にあまる自由をふんだんに持ち選んだりえらばなかったりすることができる、という状態自由ともいえますが過剰な供給で十分に生活ができなくなり結果として選択ができなくなる状態においこまれることを自由とまた同じ言葉で表すのは、理解をもとめるためには効率的でもないし意味のないことでしょう

自由という状態を過剰に与えるということは選択しないという自由を与えることにもなってしまう、つまり自由侵害するために自由供給されているともみれます

選択肢を狭くすることで状況を予測やすくする、想定した状況にあわせて対策を行い対処し乗り切る、その中にある判断や行動の種類の多さについて自由という言葉を使うべきなのではないでしょうか


さてお話を戻して宗教というのが行動を縛るということ、それは状況の発生予測を絞ることで行動の選択をしやす解決をしやすい方向へ導くためのルール規則単位である宗教のあるべきところだろうと私は考えます

宗教というならば、複数の神の名の下つまりコードネームのようなもの定義にある行動規範にのっとり判断し行動するという手段複数あるということになるかもしれません

それが戒律を越えなければ可能かもしれませんが、健康文化による財産生産を失う可能性があるものだとすれば到底受け入れられるものではないはずです

日本調理方法さえまちがっていなければ牛でも豚でも鶏でも食べれます これは宗教によるものということでもありますがこれは宗教による教育と統率が必要いからです

気温が50度を超える環境冷蔵庫家屋に扉が密閉できる状態でなく、電気も家庭に全てあるわけではなく、調理方法も保管方法も十分に洗浄された水が供給されていない状態無宗教日本とおなじ文化必要とする人権を唱えたところで、人権を守るためにはその土地戒律をまもったほうがより安全ではあるということがあります

これ豆知識としてこの土地では、という情報が何年間、どの範囲でどこまで残るものでしょうか

それを残すための独立組織宗教団体です

お布施などで共同運営しだれのところに優遇されることな中立でいて安全のためだけに情報継承する立場聖人という代替概念でその尊厳意味づけて形作っているのが宗教です

これを複数またいでいいとこどりをするのが、経済力などで圧倒的に安全性保障を引き受けられる個人団体、または暴力などで制圧した強制力でなければできないでしょう

その場ごとにルールがかわるのであれば、みな知恵などなくその場で判断した欲求をそれぞれに解消していけばよいだけです


日本無宗教なのはほとんどの生活行動範囲安全なため危険回避するための教えが伝承される必要がなくなっているところです

交通安全山登り川遊びで人は死にます これを避けるために必要な教えがあるはずですがこれらの発生原因をほとんど人に置き換えられるのが現状です

まり神様によって救われたり悪魔によって害をなされたりするわけではないので概念ではなく「責任者賠償要求する」という解決方法が人のあつまりにおけるルールになっているのです

責任者不在の害を受けるところには近づかないという行動規範定義づける必要がないため宗教に縛られることがなくなるのです

個人や団体において弱みや充分に練度の高まっていない部分にほかの人が了承を得ながら近づいてきて根こそぎもっていかれる、なんて詐欺犯罪から身を守るための小規模な団体の積み重ねや知恵も裁判で公平に、などと考えているかもしれません

それぞれの個人責任において自由という自分からみて選択肢が複数あること、それが他人からみて自分を奪い取る対象にしている人からもおなじ数があることが公平、といった形でそれらの安全担保しているのが政府国家がいざとなれば自分という個人をまもってくれる、その象徴日本人にさえうまれれば日本人の象徴として存在している天皇自分日本人だとして人権自由国家を通じてまもってもらえるはずだ、と言葉にはしていませんが実質その構造をもっているのが日本人の宗教といえば宗教ではあるでしょう

その宗教に属しているからこそほかの宗教に属さないということはあるかもしれません



男性女性は、と議論をするときにまず男性女性議論であればその人数から層や傾向を定義してその話をするべきでしょう

宗教宗派戒律ルールもそうです

男性100人いればそのうち5人が、女性ならば8人が、という割合や、具体的に割合から引き出された数字で話すときは「でもそうでない人がいるでしょう」とはならないはずなのです

「それ、あなた感想ですよね」ってそれは人が人の口から言っているのでその人の責任における言動あきらかでしょう

その進めたい方向と目的にあわせて議論をすすめていくところに、ルールことな干渉があるとどうなるでしょうか

いまは「そういう例の人」という100人以外でかつ数例、1例ごとに全然ちがう数例をもちだして100人構成比較議論する基準が「人であるから」というのではお話になりません

「それあなた意見ですよね」というのは誰の意見ならば、どの意見ならば、意見とは何人がどこから出せば「その人の意見」ではなくなり、その発信者責任を持つ言動以上に求められる言葉はなんの必要があるのでしょうか

裁判官が有罪と口にしたら「それあなた意見ですよね」と言うのでしょうか そうではないとしたらどの口で言うべきなのでしょうか

裁判官は裁判所のルールにしたがって、国家ルールに従って定義されたその役職で行動をしているわけでその人が構成であるということがそれらの代弁代行に意味なすことができるわけです

一人が自己責任権利において他の人に干渉するのであればそれこそ借り物の権利でほかの人の守られるべきと大きな組織定義している範囲侵害されるべきではないでしょう

これらルールにのっとり、ルール適用範囲ではルールに従った行動をし責任を果たし権利を得るという環境づくりが宗教というくくりであったり団体定義方法なのです


日本では、海外では、といったところで海外でしていることが日本でしていいのか、といった境界安全繁栄目的のために定義する最大が国家であり、そこから法的には自治体単位で、人のより能動的な生産や貢献活動の促進のために定義していない範囲だけれども、できるだけ広い範囲で知見を共有し無駄闘争議論を省き、豊かさへ行動するのに安心できるよう定義するのが宗教で、そこから地方ルールや家ルール個人ごとの約束などがあるわけです。

まり神様を何体コレクションするかということが宗教に属するということではなく、宗教ごとの福音をいくつ得たいかということが宗教に属すということではなく、自分宗教に属することで行動範囲限定利益を最大化するということ、これについて多くの人が専属的に属しているか、もしくはしていないかということにおいて、無宗教という属さない人が比較的多くいるということです

自由時間抑制しより賃金収入を拡大し効率化するためにサラリーマンになったり、収入を最低限にして自由時間を多く得るためにフリーターとなる、それらを選べる自由という選択肢の幅が宗教自由といったところでしょうか

会社につとめながら、フリーター自由さを味わい、フリーター責任の小ささを同じ労働をしている人間なのだからと訴えるのは、その組織に属している他の人が迷惑するということなのでそれを避けるためのルール戒律罰則があるわけです

複数の神を信仰する自由は、個人可能範囲自由謳歌してもらって問題ないのですが、異なるルールをほかの定義からもってくるのを禁止し、その傾向をできるだけ排除することで安定性と安心感、長期にわたる組織体の維持にあてているわけです

いかがだったでしょうか?

日本人が無宗教という表現に、いくつかばかり参考や選択肢の候補になりましたでしょうか?

anond:20160521231654

和姦:双方の合意の上での姦通

 姦通: 男女が道徳や法にそむいて情を通ずること

から増田の主張は間違っていない。

anond:20210406005902

俺は茨城人だから小学校入るまで狂ったように食ってたが、入った瞬間食えなくなった。

2時間目が道徳時間だったか給食時間までに自我を獲得できたんだと思う。

2021-04-04

今更だけど、昔のボイスドラマ面白かった

アスカが、レイはまったく喋ってないのに人気があってムカつく、とか愚痴ってて、

だったらレイもっと喋ればエヴァの人気は鰻登りみたいにNERVスタッフが言い出して、

冬月「喋らせていいんだな」ゲンドウ「ああ…」

じゃあ、話は心機一転学園ドラマにしようということになって、

花のあすか組!みたいにヤンキーやってるアスカレイを散々挑発していると、

途中からレイが「喋っていいの?」みたいに言い出して、

そこから林原めぐみが地で喋りだすの、もう数十年前のネタなんだろうけど知らんかった

面白かった

というか、本当に25、26話に怒ってる視聴者気持ち自分理解できなくて、

意味なく話を盛り上げておきながら最後の学園ドラマとか、

朝勃ちしてるシンジアスカビンタするとか、

これはこれでガイナらしいというか、これでもいいと自分は思ってた

そもそも、その前の段階で作画絶望的な状態なのは見え見えで、

補給路を絶たれた塹壕での消耗戦みたいなのによく耐えた、

おめでとう!ありがとう!だったわけだけど、

やっぱり、エヴァアニメと違う世界の人たちを視聴者として取り込んだこともあるんだろうか、

BBS庵野○ねとか書かれてたかは知らんけど、そう書かれててもおかしくない雰囲気はあったし、

解説読本みたいなの色々出版されてたけど、自分本屋で手に取ったぐらいで買わなかったんだよなあ

早稲田インタビュー庵野自身も読んでませんと言ってたみたいだしw

映画観に行ってないけど、面白いんだろうけど、やっぱり自分にとってはあれで終わってるんだよなあ

今やってる映画は父殺しにも決着を付けたんだろうけど、アレはアレで良しだったと思う

そんなことより、最終回露骨自己啓発セミナー描写に、

作者の精神ヤバイ方向に向かっているんではないか心配したぐらいで

それは正しかったんだろうけど、本当に自己啓発セミナーを描きたかったのか、

皮肉ギャグだったのか、そこのラインがあれだと見分けられなくて、寧ろ心配になったし、

あれを勘違い?してカルト自己啓発セミナービジネスのカモに視聴者がならないかとか心配した

オウム真理教の冊子とかはアホかと思うぐらいつまらないものだったけど、

エヴァみたいに面白い冊子だったら自分も、嵌りはしなくても集会に顔を出すぐらいはしてたかもしれない

寧ろそういう怖さを感じたんだよなあ

比較最近で言うなら、イスラム国雑誌出版していて、PDFのを眺めたりしたけど、

こんな感じでテロリズムオシャンティーにすることもできるわけで、

そういうところがYouTuberみたいな近年の肥大した自己承認欲求とも被って見えるというか、

安倍晋三ではないが、承認欲求を満たしたり扇動行為やってる本人と信者面白いんだろうけど、

いつかは本当の実力とか暴力にそういう薄っぺらものは屈する日が来るんだよね

そういう意味ではアニメも同じでフィクションなわけで、

フィクションは銃や巡航ミサイルや核に勝てるわけもなく、

それは人間道徳倫理思想もある種のフィクションであって同じなんだよね

ただ、信念というか、宗教であっても本当に信じている狂信者であるならば、

それは殺されそうになっても揺らぐことはないわけで、

最後に残るのは暴力狂信者だけなんだよなあと思うのだった

痩せ型女としての24年間 - 子ども時代から続く葛藤から今、思うこと

敢えてハッキリ言うと、私は痩せている。

容姿風貌に関しては客観的指標を出すことが難しいと思われるが、体型はある程度数値で示すことができる。

24女性現在の体型は

身長157.5cm

体重37.1kg

BMI数値14.96

参考までに

身長157.5cmの標準体重(日本肥満学会では、BMIが22を適正体重(標準体重)とし、統計的に最も病気になりにくい体重とされている)は54.57kg

日本肥満学会での判定基準においては、BMI18.5未満を低体重(痩せ型)としている。

以上を踏まえると、私の体型が標準体重からも、低体重とみなされるBMI18.5からも逸脱していることがわかる。

私は摂食障害を患っていないし、ダイエット特にしていない。

しかし、あまり認めたくはないが他の人よりも食べる量が少ないのは事実だ。

酷い時は36キロ台まで体重が減る時もあり、そうなると正直、普通に生活してても息が上がり苦しくなる。

幸い、月経は毎月きちんと続いている。


私は元々から痩せ型だった。生まれた直後は3000g近くある、健康的な赤ちゃんだったが、

幼稚園時代から今日に至るまで、ずっと細い細いと言われ続けてきた。

幼少の頃はとにかく偏食で、少食だった。

給食で出されたものほとんど食べられず、当時は食事を残すことや人に譲ることは禁じられていたため、幼稚園時代小学生時代の私に昼休みなどなかった。

皆が昼休みを終え、教室掃除を始めても、隅っこでずっと給食と向き合っていた。無理なものは無理だ。そこで、見かねた教師給食室の残飯入れまで私を連れて行く…というのが日常だった。

辛かった。

どうしても無理なのに、ワガママでやってるわけじゃないのに、悪いことをしているとみなされ、同級生から怪訝な目で見られ、無理やり食べられないもの、食べきれない量のものを食べさせられることが、苦しかった。

中学校弁当制だったため、強制的に食べ切るまで残されることはなかったし、母親が私が食べられるもの、量を毎朝作ってお弁当に入れてくれたため、昼休みをようやく手にすることができた。

食べられないものを無理に食べさせられるプレッシャーから解放、他の人と同じように食事をとり、昼休み満喫できたことがとても嬉しかったのを憶えている。

ところで、私は元・優等生だった。敢えて元とつけたのは、中学校2年生の終わり頃から優等生を辞めてしまたからだ。

小学生時代、私は教師の言うことに歯向かったことはないし、何か悪さをして立たされたことなどないし、他の人がやりたがらない学級委員長などの仕事も率先してやっていたし、行事にもきちんと取り組み、宿題をきちんと提出するのは当たり前、テストは毎回100点を取らないと気が済まなかった。

真面目でいなければならない、ルールは守らないといけないと、今の私とは比べ物にならないくらい、厳しく自分自分を律していた。

それなのに。

これだけ優等生として振る舞い、教師や周りからも真面目な子だと評判だったのに、こと給食に関しては学校の誰も、私の叫びを聞いてくれなかった。

私はワガママを言うような子じゃなかったのに。

日々の生活でこうあるべきだ、こうしなきゃと考え、模範的であろうと努めていた私であっても、どうやら食事に関しては全く別の話のように扱われた。

今思うと…たとえ誠実であろうと、真摯であろうと振る舞っていても、それで周りからもてはやされていても、結局学校の誰も私の苦しみに耳を傾けてくれなかったじゃないか

「あの真面目な子があんだけ給食に関しては難儀しているということは、何か問題があるんだろうな」という発想は浮かばなかったのだろうか?

もっと言うと、いい子ちゃんでいても誰も私のこと信じてくれないんじゃ意味ないじゃないか

…と憤る気持ちでいっぱいである。

小学生の頃はそこまで考えが至らず、

自分が悪いんだ。と自身を責めるだけだったが、

今の私は…無理なものは無理なんだよ!仕方がないだろう!と開き直るし、当時の私にもそう言ってあげたい。

ここでひとつ私の大好きなTHE HIGH-LOWSの曲を紹介する。

ゲロ」(アルバムロブスター」収録)

苛立つ私の気持ちを爽やかに代弁してくれている曲だ。中学生時代に初めて聴いた時、「ホントになぁ…」と深く共感したものだ。

さて。

幼稚園小学生時代までの恨みつらみが長くなってしまったが…

中学校に入ってからは、私の偏食は少しずつ解消され、食べられる量も増えてきた。

朝ごはんは食べられてもご飯一杯だけだったが、その分昼と夜に(自分としては)たくさん食べていた。

昼は母が作るお弁当、夜は母の手料理を食べていた。

間食もしていたし、高校時代に至っては放課後、街へ遊びに行きマクドナルドサイゼリヤ、時には一蘭替え玉までしてガッツリと食べ、その後遅めに帰宅し母の作った夕食を食べる…

今の私だと確実に翌日までダメージを喰らいそうな食べっぷりだったが、胃を壊すこともなく元気に過ごしていた。

それでも痩せ型なのは変わらなかった。

身長は今と同じ、体重はおよそ42キロ弱だった。

現在よりはまだマシな気がするが、それでも低体重なことには変わりない。

周りからは「細いから何してても面白い」とからかわれ、

当時好きだった人からは「細すぎ、もう少し肉をつけた方が魅力的だよ」と言われてしまった。

その言葉がズーンと響き、ダイエットならぬデブエットを始めたこともある。

当時は「糖質制限ダイエット」なるもの流行る前、ろくな知識もない私は「タンパク質体重を増やしてくれるだろう」と何故かそう思い至り、いつもの食事とともに ご飯納豆と溶き卵をかけ、それを二杯食べる…という行動をとった。

結局それは長く続かず、体型も変わらなかった。

当時何より悲しかったのが、内科かかりつけ医が私の体型、体重を見かねて

「親御さんはきちんとご飯を食べさせてくれていますか?」と訊いてきたこと、

時々周りの人たちが母に向かって「○○ちゃん(私)にもっとちゃんご飯食べさせてやらんといかんよ」と言ってきたことだった。

冗談混じりで「○○が痩せているから私が文句言われる〜」と度々母から言われたことがあったが、正直本当に申し訳なく思った。

母はちゃんガッツリご飯を作ってくれるし、私の体のことも理解してくれているのに。

これは私の問題なのに、私が未成年ということもあってどうしても親に矛先がいってしまう。

今はもう、私もいい大人なので「自己責任」としてみなされるため、ある意味気楽なもんである

大人になっても、社会人になっても痩せ型なのは変わらないどころか余計に酷くなっていた。

冒頭で述べた通り今の私は体重が37キロしかない。最後に40キロを超えてたのはいつだっただろうか?

家族からは「そんなに体重が落ちるのはいくらなんでもおかしい、病院に行きなさい」と心配されてしまっているので、近々健康診断も控えているし…一度病院にかかり、相談してみようかと思う。

しかし、痩せ型の人に対しては医師も冷淡なものだ。

前の健康診断では体重を見た医師から「元々そういう体型ですか?」と問われ、「そうですね」と答えると、「それなら問題ないでしょう。我々は太り過ぎによる生活習慣病を問題視してますから」と言われ、それで終了である

しか生活習慣病のリスクはそんなにないかもしれないが、低体重による他の病気リスクはあるのに。

現に今、あまり体調が万全ではなく、冒頭でも触れたように息が上がり、変な動悸があり、仕事終わりには疲れ切って何もできないほど体力が落ちている。

この文章は今朝、起き抜けに勢いで書いたものだ。

私は何故いきなり4000字以上に及ぶこんな長文を書いたのか。

はっきりとした動機はないし、誰かに何かを強く伝えたいわけでもない。

ただのぼやきというか、私の個人的な振り返りに過ぎないところはある。自分語り的な側面が強い。

しかし、太っている人には

「太ってますね」「デブ」と面と向かって言ってはいけないという世間一般道徳観念があるにもかかわらず、

痩せている人に対してはその観念が欠如している人があまりにも多いことへの疑問・不満、

好きでこの体型になったわけではないのに「過度なダイエットはよくないよ」「多少肉あったほうが男ウケいいよ」というクソバイスを浴びせられたことに対しての憤り、

そして…世の中には「痩せ型」であることに悩み、体重を増やしたいと本気で思い、あれこれ考え行動している人がいるということ、その証言

このような感情で書き連ねたといったところかと思う。

世の中にはダイエット情報商品摂食障害にまつわるあらゆる研究考察が流布されているが、

元々低体重の人への言及はあまりにも少ないと感じている。

もちろんTwitter検索したら私と同じように体重を増やしたいと悩んでいる人は何名も見受けられたが、あくま当事者だけだ。

そうでない、外野の人からの真面目な考察は見当たらない。

正直なところ、「大した問題じゃない」とみなされていることを嫌でも実感させられる。

私は昔に比べて自分の体型が嫌だと思うことはなくなり、周りから色々と言われても「自分自分」と、割り切ることができるようになった。

自分のことを認めてあげられるようになった。

上記で書き連ねた言葉以外にも、実はもっと心を抉られるような発言をされたことがあるが、敢えてここには書かないしそれで自分自身が揺らぐことはない。

ただ、その人のことを一生赦さないというだけだ。

しかし、やはり体重が体温並みになってくるとさすがに日常生活に支障がでてくる。

現在、平日フルタイム仕事をしているが、こんな状態ちゃんとやっていけるのか?と不安気持ちは拭えない。

健康になりたい、と願う気持ちは強い。

自分の体質だとMAXでも42キロが精一杯といったところだが、それでも今よりはずっとマシである

とりあえず日々の生活習慣改善から進めていこう!と改めて決意し、この雑文を終えることにする。

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