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2018-10-16

経験C++使って二か月でソフトウェアを作って得た教訓

https://anond.hatelabo.jp/20181015215004

記事に対するコメントの冷たさに失望した。

「今の状況は辛いし、職場でどうすればいいのか分からなくなっている。気持ちを整理するため書いたけど、誰か、知恵を授けて下さい。」

と書いてる訳だが、俺が見るに、さほど参考になるようなトラックバックがついている様にも思われぬ。元増田に届くかは分からんのだが、初心者状態からC++実験データ解析用ソフトを二か月で仕上げる必要があった俺が取った手段を整理しておきたい。

はじめに

ゼロ状態から仕事に叩き込まれて、尚且つ、初歩の初歩からチュートリアルもないという状況の辛さは理解できる。俺自身が、何も知らんのに卒業まで2か月で実験データ解析ソフトVC++で作れという状態にぶち込まれた事がある。その際に、取った手段について述べる。

仕事段取りをつける

与えられた仕事について、全くの初心者なので導入まではチュートリアルがあればいいが、ないならば、参考になるプログラムはないか?と尋ねるのがいいと思う。プロジェクトの中の、どのコードのどの関数が参考になるのか?と尋ねればいい。それを理解するところから始めるのがいい。俺のケースであれば、Web上に落ちてる似たようなことをしてるサンプルコードになる。英語系のコードを公開してるサイト(今ならgithubなど)で探していた。Draw Bitmap on Panel VC++ とかで検索して、サンプルを入手していた。

関数動作と中身を理解する。

例えば、VC++パネル上に、ビットマップ画像を描画していくようなプログラムには雛形というか良くできたサンプルが存在する。元増田場合は、既に動いているプログラムで、尚且つ自分が触る必要のある関数プロジェクトの中に存在するはず。(関数と言う言葉が分からない場合は、調べて欲しいが、既存プログラム意味で良い)それを実際に動かしながら、理解を深める事を行う。

ステップ

これについて、一行づつ何をしているのかを調べて、コメント行を追加して必要なら本やネットを見ながら、各行の動作を紐解いていく事をする。その際に、その行を少しだけ書き換えてみて(元のプログラムコメント行としてコピペしておく。gitなどが使えるならば必要ないが。)、動作の違いを予想し理解を深めるのも良い。

パネル上にビットマップを描画したい場合最初構造体の事なんか全く分からないけど、画像の幅と高さをとってくるとか、描画位置を決めるにはどうすればいいのか?という実際に自分が何かをやるにあたって浮かぶ疑問があると思う。それを、理解する為に1行づつ弄っていく。

初心者がまず押さえておけばいいのは以下の構造だろうか

For文などのループ理解する
IF 文などの条件分岐理解する
Listなどの、Collection理解する

万が一、ラムダ式や、C#で言う所のLINQの様なもの(SelectManyで集めてたものをToListでリストにして、ForEachでループ処理する様な)に出くわしたら、最初はおまじないだと思って逃げるが勝ちだろうと思う。無理しちゃいけない。

自分場合で言うと、最初はwinmain の冒頭からWindowsメッセージループは何をしているものなのか?全く理解できずに、おまじないだと考えて、各イベントの処理内容を書いてソフトを完成に近づけることにだけ意識を払った。分からなくても動いている、触る必要はないというものについては無視する勇気必要だと思う。BitMapの構造体について完全に把握したのは、結構後になってからだったりするし、初めから完璧理解を目指さず曖昧に行こう。

ステップ

自分で調べてみて、理解が及ばない点については、遠慮なく尋ねるべき。質問したい内容が整理できた段階で、即尋ねていいと思う。逆に言うと、何が知りたいのか整理できてなければ質問自体無駄になるので、もうちょっと頑張れって感じになる。

  • 何を試そうとしたのか
  • 何を考えて居たのか
  • どんな結果が出たか
  • それのどこに疑問を感じているか?などがあると思う。

例えば、ボタンを押した後の動作定義した動作を追加をしたいと思いました。イベントリスト関数を追加すれば、既にあるイベントの後に実行される事を予想していましたが、イベントの追加が間違っているのか?追加した関数が実行されません。ちょっと見てもらえませんか?

ここまで言えば、ヘルプが入るはず。ここまで整理するのは最初は大変かもしれないけど、分からない事を自分理解して整理するのは、初心者にとって最もいい訓練になるので、あきらめずやってほしい。

ステップ

1,2の繰り返しだと思う。

関数の組み合わせを理解する。

プログラムベーシック構造と、基本的な構文を理解できれば関数単体での動作理解できるし、あるいは全くわからないところからでも自分で整理は出来たら、次は関数ごとの組み合わせによる動作を追う事が大事。やるべきことは、関数単体の動きを追う事と違いはないが、ここで意識してほしいのは、関数データの入出力の動きをトレースする癖をつけることだと思う。関数という単位は、入力を貰って結果を返すのだけど、その入出力の連続した動きは、良く設計されたAPI関数を使ったものより、ユーザー定義関数では複雑になりがちなので、メモを取りつつ整理すると言い。

例えば、VC++でのツールづくりの例で言えば、各メッセージイベントに対して、例えばマウスを押したメッセージの後に、どんな関数が呼ばれて、どんな引数入力として与えられて、自分は何をして、何を出力すべきか、という事を理解する必要がある。

クラスオブジェクト理解する。

Javaであれば、クラス構造理解する必要があるけど、上記ステップを踏んで自習の勘を掴めば、それほど難しい事ではないと思う。クラス理解するようになると、コード全体の設計思想を理解できるようになるので、ここまでくれば初心者は脱したと思ってよいのではないかと思う。後は勝手に成長していくはず。

終わりに

何人か新人の面倒を見てきているけど、元増田会社は酷いと思う。

酷いながらも粘ろうとしている元増田は立派ではあると思うので挫けないでほしくはある。実際に何かを作りながらプログラムを覚えるのは、ある意味では効果的な勉強の仕方なんだけど、どう勉強していいのか?を教えてくれないのであれば酷い話。

自分で試したプログラム理解していく為の手法改善しながら、少しづ勉強の仕方を確立していけばいいんだけど、その際に他の社員を使ってアドバイスは求めた方がいい。意外に長くなって済まん。頑張れよ。ネット上のどこかで応援している。

メガネ構造って、耳と目の位置が一直線になってるからあの形になってるんだよな

もし他の動物みたいに耳がもっと上の位置だったら、メガネってゴーグルみたいな形になるしかなかったのではなかろうか

そうだったらもっとコンタクトの人が多くなってた気がする

2018-10-15

anond:20181015215004

とりあえず、声をあげてたほうが良いと思うよ。

要は、アラートをあげていましたよ、ってことね。

期日に成果物が全くありません、っていう状況だけは、絶対に避けたほうが良い。後で問題が発生した時に、責任問題になる。

上司相談して、それでダメなのが現状なんだろうけど、全体にチャットツールなりメリングリストなりで、相談する。

もしくは、さらに上の人間に対して、現状こうなので自分放置したままだと炎上しますよ、と伝えておく、とかかな。

素人レベル自分だけれどプログラム側で、言うとしたら、

  • 小さく作る。小さく修正する。小さく確認する。

あたりかな。完全に自分視点なので、元増田には合わないかもしれない。

あと、質問の時は出来る範囲でいいんで、ちょっと10~15分くらい)調べて、自分なりに答えなり推測なりを出したうえで、

『〇〇が分かりません。△△△を調べました。自分□□□だと考えています』みたいな感じで聞いてくれると、自分だと教えやすい。

 

最後に、頑張らないこと。無理をしないこと。自分を責めないこと。他の人も言ってるけど、自分もその仕事先が悪いと思う。

完全に無責任位置から発言から、話半分で聞いてください。

ライブ居合わせた客が最悪だった

昨日の話。ライブって言ってもスタンディングじゃなくて、ちょっといいとこのシッティング

完売のお知らせが出てて、席は入った順にスタッフさんに案内・指定される形式だった。

開演30分前になんとか着いたら最後尾。まあ向かう途中である程度覚悟はしてたんだ。だからステージが見える角度がいつもとは違って、自分じゃまず選ばない席で、そう思いながらそれはそれで楽しみだなーと思った。が、近くのおばさん……とおばあさんの間のような年齢の女性スタッフさんに席を代わりたい、とゴネてたのが気になった。私の後から来る人用、ということで私の隣の空間がひとりぶん空いていて、どうやらそこに移動したいようだった。おばさんは私より前に来ていて、私同様スタッフさんに案内して席を指定されたはずなのに。おそらくステージが満足に見えない席だったんだろう。そんなんでごねるんなら早く来いよ、と思ったけど。スタッフさんは「後から来る方の分ですので」とやんわり断っていた。まあ勝手に移動してほしくないもん。

私の席はソファに座って、壁がある左を向いてステージを見る席だった。一番最後から通路はあるけどすぐ前に人がいるということもなく、ステージの見えない位置があるということ、トイレの隣で照明が落ちないことを除けば、前述したようになかなか面白い場所だった。

2部制のステージがはじまって、1部の最後の曲でそのおばさんが私の前を通ってトイレに行った。休憩まで我慢しろよ、あと1曲って言っただろ、と思いつつステージを見ていたら、なんとそのおばさんトイレの帰りでどさくさにまぎれて私の前に座りやがった。こっちはもうほんとに「座りやがった」という認識ですよ。でもまあ曲中だし、休憩の時に元の位置に戻ってくれるのかなーと思いながら見てた。

そうしたら休憩入っても元の位置に戻らない。なんなら連れに自分の席に置いてあったチラシ回してもらって、ああ、こいつずっと居座る気だって思った。もう最悪。しかも壁に首をつけてくれない。これね、経験者ならわかると思うんですけど、真ん前に人がいるってめちゃくちゃ見にくいんですよ。壁があれば壁に首や頭をつけて頂ければ視界がある程度あくんだけど、つけないと視界の真ん中に前の人の首や頭が入るので邪魔以外の何物でもない。

で、はじまった2部。予想通りステージがさっぱり見えにくくなるし、おばさんは首や顔を思い出したようにつけたりつけなかったり。私の後ろからも見てる人いるんですよ。お前のせいで私も見えるように動かなきゃいけないし、私が動いたせいで後ろの人も動かなきゃならねえんだぜ。考えろよ。

さらに追い打ちかけたのが連れ。連れのおっさんスローテンポの曲の変なタイミング手拍子を入れ始めた時は内心おもいっきり頭抱えた。ぱん、ぱん、っていう拍の真裏になってしまうのならまだわかる。でも付点食ったような、えっそこ? っていう変な拍のタイミング手拍子入れるし本人もやめない。連れも注意しない。そういうやつに限って手拍子の音ってやたらでかいんだよな。会場狭いから明らかに雰囲気ぶちこわしてたし、演奏も明らかに戸惑ってた。

あとさ、基本手拍子曲でも、しっとり聞かせたい部分ってあるじゃん。そこでそのおっさんだけ細かい拍手ひとりだけしてやがんの。もう最悪。

そんなこんなで鑑賞環境は最悪でした。仮にも連れだろ、なんでお互いそういうのたしなめないのか。まあ注意しないからお互いそういうことやっちゃうんでしょうけど、こっちは本当に本当に迷惑だった。2部後半から一気にいらいらしてぴりぴりしながらのライブ鑑賞だった。ものすごく疲れた。連れも含めて二度と来るな。

さっさと帰ってくれないかな~~と思ったらアンコール演者あいさつくらいで帰るそぶりをみせるというまあこれもタイミング激悪パターン。せめて退場してから腰上げろよ。

結局害悪BBA手拍子おじさんともどもどうするのが正解だったのかいまだにわかんない。私がBBA来ないようにゆとりもってソファ腰かけてればよかったの?

21:14追記)

いつも行ってるアーティストの、毎年恒例のツアーの1公演なのよ。そのアーティストファンって基本的にとてもマナー良い方が多くて、いつも気持ちよく帰ってるから余計にいらっとしてしまったというか。FCHP先行で完売してるはずだから、一応興味はあるんだろうけど……? みたいな。

さえぎられた私がこのツアー履修済みだったのが救いだったんじゃないか、とも思うが、私の後ろの数人にも後味が悪い思いをさせてしまっていたら申し訳ないとも。もっとも悪いのは明らかにクソBBAと連れなんだがな。

ドロー将棋

ルール

  1. 最初に配置されているのは、通常の位置の王/玉のみ。
  2. 両者に手だけが入る箱を用意し、それぞれの王/玉以外の駒を入れる。
  3. 開始から一手ごとに、箱の中身が無くなるまで引く。
    • ここで引いた駒を配置するか、過去に引いた駒を配置するか、配置せずに既に盤上にある駒を動かすかは自由
  4. この引いた駒は、(通常配置される範囲の)自陣の手前の三行の範囲に、自由に配置できる。
  5. 上記以外は、通常の将棋ルールと同じ。

将棋話題があったので思い出した、過去に考えていたルール

実際に一度もやったことはないので、まともに成立するか不明

上記が基本ルールとして

  • ただし王/玉が攻めた場合、その行までは最初の駒も配置可能
  • 相手から取った駒は別の箱に入り、駒を使いたいときはその箱から引く。その駒は、必ず使う。
  • 基本ルール大きく変えて、箱にお互いの全駒を入れて引く。それは使用必須。盤面全体に自由に配置できる。

みたいな追加ルールも考えたりしてた。

2018-10-14

二次創作活動をしている。気がつけばツイッターフォロワーもそこそこいて、ピクシブフォロワーもそこそこいる。ブクマいいねリツイート結構貰う。

販売会でも持っていった本は完売できるし、通販も二日三日で売り切れてしまう。

きっと、そこそこなんだと思う。

ある程度の創作者が、誰かに見てもらいたい、理解してもらいたい、賞賛してもらいたいって願う、その立場に近い位置はいると、自分でも思う。

ただ、怖い。

たくさんの目が怖い。

もともとごく少数の知人に見せるために創作をしていた。それこそ二次じゃなくて、一次で。

それがいつのまにか二次にはまり、しばらくするとぼちぼち良い評価を貰うようになって、それが嬉しかった。ツイッターもやっていないあの頃、十ついたブクマに友人に見て見て、と嬉しそうに報告していた。

ある時、爆発的に評価された。

その作品は、その万を超えるであろう創作のあるジャンルの中で、ブクマ数順に並べ替えて上から数えればすぐに見つかる程だ。

しかった。純粋に嬉しかった。こうなればいい、ああなればいい、絵空事妄想がここまで評価されたのだ。気がつけばフォロワーも増えていて、いいねブクマ投稿してから時間が経った今でもポツリポツリと伸びる。

そこからだった。

作品を上げれば、一定数は必ずブクマいいねを貰えるようになった。

嬉しい、と。そう思っていた。

認められている、共感されている、評価されている。それは創作者が必ず願うことで、嬉しいに決まっている。

ただ、一度疑ってしまった。

「この人の作品から

創作の内容じゃなく、私自身だから

なにを言ってるんだお前は、と自分でも思う。でも違うのだ。フォローしてくれている人が、上げて数分もしないうちにブクマをする。それは、本当に内容を見て、素敵だ、好きだ、共感できる、と思ってくれたのだろうか。この人の作品なら間違い無い、と思い込みブクマじゃないだろうか。

このブクマ数は、いいねは、自分作品の正当な評価なのだろうか?

人間から、誰だって依怙贔屓してしまうと思う。その贔屓の対象になっていないのか、不安で仕方ない。自分は本当に、この評価に値する作品創作できているのか、分からない。誰も教えてくれない。かけてるよ、すごいよ、と言ってくれる人はきっと贔屓目で見てくれているからだと、一度疑ってしまった自分は、信じられない。

フォローしないで、と思う。自分を見ないで、と思う。見て欲しいのは作品だ。そこに自分を入れないで欲しい。

最近創作をし始めた人に、相談される。ブクマが伸びない、いいねが伸びない、閲覧数が増えない。どうすればいい、と聞かれるのだ。

その人からすればきっと、自分はその人の憧れの対象なのかもしれない。

いい子ちゃん優等生自分は、「人目なんて気にして創作しちゃダメだよ。他人の為の創作じゃなくて、自分の好きなもの創作しよう」と模範回答をする。

本音は、そんなこと聞かないでと叫びたい。

最初の一つこそ、正当な評価かもしれない。けれどもだんだん、usersタグに引き寄せられて色眼鏡評価が増えてるのかもしれない。この人の作品から、という評価かもしれない。

自分を見ないで欲しい。

フォロワー多くていいな、と言われても、やめてほしい。違うのだ。自分はただ、創作したいだけなのだ評価して欲しくて創作を始めたんじゃない。私にとって創作はもう呼吸と同じもので、息を吐けたからと言って賞賛して欲しいわけじゃない。ただ、吐き出した息に混じった酸素を誰かが吸うのかもしれない、そう思って世に出してみただけだ。

評価してほしい、賞賛されたい。

しかにそう願う時もあったはずなのに。

いつから人の目がこんなに怖くなったんだろう。

そんな面倒くせえ感じなら創作やめちまえ、と思うが、やめられない。

結局自分は息を吸うように創作し、見ないで、と願いつつ世の中に自分の好きなものを増やすべく作品晒していくのだ。

anond:20181014071340

新しいものは、全てまだ実現してないもの。なんですよね。

から、出そうか?という人もおっかなびっくりです。断られて、次言っての連続というのはまあ起業の常というか。

「お前のやってることの有意義性?そんなの知らん。そんなことよりお前が我慢しておれて嫌な思いをすればいいんだ。たとえそれでお前がやろうとしてるものが失敗しても」みたいなのが見えて。

僕が甘い人間かもしれませんし、さっさと逃げればよかったのですが、他にもありましたからね。

まだ、僕が耐えれば僕は頑張れる位置にいるけど、僕の実力によってではないです。他の人はいくら意義があろうがアカデミックじゃないのなら、開発要素がある起業絶対やめとけとは感じます

2018-10-13

露出オナニー趣味です

私には密かに趣味にしていることがある。

運転中にちんちんをしごくことだ。

ズボンパンツも脱ぎ捨て、下半身を丸出しにして運転する。

シフトノブの代わりに握るのはちんちんだ。

このときばかりはATで良かったと思う。

だがさすがにオーガズムに達したことはまだなく、いつも寸止めをしている。

JCJKの登下校の時間彼女らの通学路でするのが最高に興奮する。

バレたらどうしようというスリルに興奮するのだが、腰が勝手に浮いてきて、ちんちん位置が上へ上へと上がってくる。

シートベルトがなければ間違いなくバレるだろう。

ある程度満足したら、人も車もほとんど通らない所まで行き、そこで射精をする。

そこではたまに全裸になり、そうした時は2回3回射精できる。

露出オナニー気持ちいい。

人に見つからなければ違法ではないので、一般的趣味になってもいいと思うほど気持ちいいオナニーだ。

anond:20181013061909

ありがとうございます

本業の方に添削していただいて、文例まで書いていただけて恐縮です。

かにそのように書いた方が、ずっと没入感があり、感覚が刺激されますね。

かにこれは第2話という位置付けです。タイトルの「サトシ原子炉」をクリックするとカテゴリページに遷移するので、そこに第1話があります。もし読んでいただけたら嬉しいです。

地の文についてですが、神の視点の文は基本的にありません。タイトルにある名前登場人物視点で書くようにしています

ご教示いただいたことを踏まえて、全体との整合性にも気をつけて修正を加えていきたいと思います

追記

語尾については、その登場人物出来事を語っているように書いています。すなわち、基本が過去形で、臨場感をもたせたいところや、客観性が乏しく、その人物感覚感情比重が大きい部分は、終止形にするようにしています

他人の体に気安く触ってるシーンがつらい

人が他人の体を気軽に触っているシーンを目にすることが、目の前でもテレビの中の出来事でも、この数年でかなりの苦痛になった。こんな嫌悪感、別人の感覚のようだと、自分感情だなんて信じられない心地もある。

わたしはかつて触る人間だった。販売員という仕事をしていて、職場女性しかいなくて、コミュニケーションのつもりで同僚の体を触る、セクハラを働く人間だった。当時のことは、本当に反省している。当時の同僚に責められたら、謝罪を尽くすしかないと思っている。

当時はわたし自身が、触られることに抵抗が少なかった。特に、異性に触れてもらえることは女性として魅力があると認められていると感じていた。(痴漢にはその頃から気持ち悪さを感じてはいた。わたしなりの線引きがあった。)

販売員仕事を辞め、大きな会社営業の職についた。その会社は、コンプライアンス比較的整っていたことと、同僚たちのその辺の意識がしっかりしていたこと、特に40代男性Sさんは、徹底した気遣いで、例えば女性が落としたものを渡す時でも肩を叩くことはなく、視界に入る位置へそっと回り、声をかけるという、意識的に触らない人だったことが、わたし感覚を叩き直してくれた。

たとえ毎日一緒にいる間柄でも、必要なければ体に触れるべきではないのだ。意識的に他人の体に触れるべき機会なんてものは、(仕事にもよるけど)日常生活でそんなにない。それくらい、他人の体に触れることには、意味や与える影響が大きく、慎重であるべきだった。

人に気安く触るべきじゃない、というマナーを知ってから電車必要以上に近く立つ人にも、人混みの中、すれ違いざまに他人の鞄を撫でていく人にも、テレビの中で、筋肉すごーい!と言いながら男性の体を触る人にも、その触る先が女性の豊かな胸に変わった場合でも、うわぁ、見たくなかった…という気持ちになるようになった。

不思議だ。触り触られることを受け入れてきたのに、こんなにも感覚は変わるものだろうか。(結婚をした、というのもあるかもしれない。今は他人性的異性として意識されることにすら嫌悪感がある。)

人に害を与えないという点で、多少はましな人間になれつつあると信じたいのと、かつてのわたしみたいな人は、早く触られてる人の不快感に気付いてさっさとやめてほしい。あとテレビバラエティであっても他人に気安く触るの控えてほしい。

2018-10-12

キズナアイ騒動を見て確信した

から思っていたことだが、今回の騒動を見て確信した。

個別イシューについて、反対者と「議論」するのは無駄

中立的立場の者(自称じゃなく)と同意者のみに向けて語るのがよい。

ネットユーザーなんてまともな専門知識のない人が大半だし、じゃあということで一から説明しても聞きやしない。

これは単純に頭が悪いというのではなく(そういうケースもあるとは思うが)、こちらの与える情報反駁対象としてしか見ていないから。

まり、揚げ足とりしかする気がないんだな。

専門知というのは体系として理解するのが重要なのであって、与えた情報反駁対象としての一断片とのみ捉えて体系的に位置づける気がないなら、いくら話したって全然彼らのうちに蓄積されていかない。

なんで、社会学者やらフェミニストやらの先生方は、個別イシューに関しては徹頭徹尾反対者を無視放置されるのがよいと思う。

反対者も啓蒙してやりたいという優しい心をお持ちなら、個別イシューから離れた基礎知識をコツコツ広めていくよりないんじゃないかな。

[]玄鉄絢少女セクト

百合マンガ金字塔・・・らしい

何度か挫折してたけど意を決して読んだ

結果、がっかり

まずマンガとしてすんごく読みづらい

キャラの書き分けがろくに出来てないくせに、やたら登場キャラが多い

さらにタチが悪いことに、各話ごとにメインキャラがころころ変わるオムニバスだったりする

そのせいでキャラや話、セリフが頭に入ってこない

イマジナリーライン無視しまくってるせいでキャラ位置視線コロコロ変わるからすんごくストレスたまる

構図、コマ割りもど下手くそ

こんなん百合マンガ金字塔どころかマンガとしてクソですやん

これを楽しむためには、かなりセリフに注意して、誰から誰に何を言ってるかを完璧に把握して、かつそのときやりとりしてる間柄がどういったものかも完璧に把握しとかないといけないから、すんげー神経つかって気合入れる必要がある

百合があふれてるこのご時世に、そこまで頑張って気を使って読みたくねーよ

雰囲気マンガって思えばまあいいのかもしんないけど

あとやたらビッチすぎてかなり引く

まあレーベルがそういうんだからってのもあるんだろうけど

別に肉体関係込みの百合ってのも否定はしないけど、なんつーか奥ゆかしさ的なもの百合の大きな構成要素の一つと思ってる自分からすると、ただれすぎてて胸焼けしたっつーか、いくら告白したり思いが通じたっつっても、いやお前別の話でやりまくっとったやんみたいに思って素直に感動できなくなるんだよなあ

続けて試し読みしたガールフレンズの読みやすさに感動したわ

ほんでもって星川銀座の再再読を始めた

うーんこっちは別にいいんだよなあ

イマジナリーライン無視もあるけどこれほどじゃないし、そもそもキャラ少ないから混乱せずに読めるし

2018-10-11

anond:20181011184334

エビデンス

実証重視の方々にとっては「物語」の代表に見えるであろう精神分析系の心理療法も、ちゃん効果確認されるようになってきたたことです。

それこそ、そのエビデンス(論文)でも提示されればいいんじゃないですかね。

この辺りのこと?

Jonathan Shedler,"The efficacy of psychodynamic psychotherapy."(American Psychologist 2010)

Falk Leichsenring,Sven Rabung,"Effectiveness of Long-term Psychodynamic Psychotherapy: A Meta-analysis"(JAMA 2008)


フロイト理論の諸々の失敗

精神分析医のフィーリス曰く(1)、フロイト派のセラピービクトリア時代の人たちには、うまく機能していたが20世紀半ば以降、人々の「性格の鎧」の質が変わり、セラピーはうまく機能せずに行き詰まって失敗することが多かった。

フロイト派の精神分析法は、「幼少期の体験が成人してから人格の基礎となる」というものが骨子の一つ(2)だが、そのことに大打撃を与える調査が出てきた。1990年代マシュマロ実験の文献を詳しく調べたマーティンセリグマンは、幼年期のできごとが成人してから人格に影響を与えるということは、ひどい心的外傷や栄養失調があった場合にはありうるかもしれないが、それ以外では有力な証拠ほとんどないと結論づけている(3)。子供時代と成人してから性質に、ごくわずかな相関は認められるが、それは主に遺伝的(生まれつきの)性質、つまり概して明るいとか気難しいといった性質の反映として説明できるという。

また心理学者のバウマイスター一同がフロイト提唱する理論メカニズムの数々を現代の文献と付き合わせて検証したところ、最も最悪な理論昇華説だということが判明した(4)。そもそも昇華説には根拠がない上、事実はその逆だと考えられる理由が多いからだ。

もちろん、フロイト理論示唆的で興味深いものが多いし、余談だが「快感原則彼岸」については現代思想の中ではかなり重要位置づけになっている。ラカン執拗にこの論文にこだわるわけだしね。

それに、フロイト批判をしたバウマイスターは、フロイト提唱する説でエネルギー重要位置に置かれていることに敬意を表して、フロイトが使っていた自己を指す言葉自我(エゴ)」を使って、「自我消耗」という言葉を「人の思考感情や行動を規制する能力が減る現象」に名付けた。自我消耗に関しては、後に脳波記録検査法(EEG)で脳内の前帯状皮質におけるスパイク発火(エラー関連陰性電位)が対応する脳機能であることが確認された(5)。


科学的な心理学

著名な心理学者であるスティーブン・ピンカーは、 今回で言えば「人生全体」「物語の蓄積」「人生の深み」といったことで、科学基本的研究方略である単純化(simplify)」を退けようとしていることに苦言を呈している(6)。 研究対象をとなる複雑な現象をいろいろなレベル単純化し、いろいろなレベルごとに 解明していくことを拒んで、複雑な現象ありのまま理解しようとしていたのでは研究はいつまでたっても現状に停滞したままになる。単純化を嫌って、複雑な現象を複雑なままで捉えようとする人文系学問に多く見られるのこうした研究方略を、ピンカーは完全な正確さを求めて「原寸大の地図」 を作った愚かな地図職人を描いたホルヘ・ルイス・ボルヘス(Jorge Luis Borges)の寓話批判している。

現代心理学の始まりブント(Wilhelm Wundt: 1832-1920)のライプチヒ大学での心理学実験室創設とされるように、そのスタートから科学を目指したものだった(7)。 人文学科学化と言っても、物理学化学実験を導入するのではなく、心理学実験手法神経科学実験手法(EEGfMRIなど)を取り入れればいいのである。また、国際的科学心理学学会APS(Association for Psychological Science)の会長だったカシオッポはこうした点に注目し、心理学科学と他の文系学問とのハブとなるべきであると主張している(8)。

個人的には、人生全体から人間理解フロイト理論人間理解よりも、人類史から人間理解(進化心理学)(9)や神経科学から人間理解の方(10)がより多くのことと整合性が有ると思うし、「物語」を一切考慮しないで休職者の約53%を予測したリシテア(11)といったことの研究心理学がより一層取り組んでいくことを願ってるわ。


▼出典

(1)Allen Wheelis,"The Quest for ldentity"(New York: Norton,1958).

(2)Sigmund Freud,"Drei Abhandlungen zur Sexualtheorie(『性理論三篇』)"(1905)

(3)M.E.P.Seligman,"What You Can Change and What You Can't :The Complete Guide to Succesful Self-Improvement"(New York:Alfred A.Knopf,1993).

(4)Roy F. Baumeister,Karen Dale,Kristin L. Sommer,"Freudian Defense Mechanisms and Empirical Findings in Modern SocialPsychology: Reaction Formation, Projection, Displacement, Undoing, Isolation, Sublimation, and Denial"(Journal of Personality,1998)

(5)Michael Inzlicht,Jennifer N. Gutsell,"Running on Empty: Neural Signals for Self-Control Failure",(Psychological Science 2007)

(6)Pinker, S."Science Is Not Your Enemy: An impassioned plea to neglected novelists, embattled professors, and tenure-less historians." (New Republic, 2013)

(7)Bringmann, W. G., Bringmann, N. J., & Ungerer, G. A."The establishment of Wundt's laboratory: An archival and documentary study." (W. G. Bringmann, & R. D. Tweney (Eds.), Wundt studies: A centennial collection (pp. 123-157). Toronto: Hogrefe. 1980)

(8)John Cacioppo,"Psychology is a Hub Science"(Observer 2007)

(9)Martin Daly, Margo Wilson,"How evolutionary thinking inspires and disciplines psychological hypotheses." Pp. 15-22 in XT Wang & YJ Su, eds., Thus spake evolutionary psychologists.(Peking University Press,2011)

(10)一例を挙げれば、心の理論(Theory of mind)における神経科学役割とか。サイモン・バロン=コーエンが有名だろうが、研究は色々有りすぎて挙げきれない。

(11)HR テクノロジーで、人や組織パフォーマンスの最大化を図る 「リシテア/AI 分析サービス販売開始(https://www.hitachi-solutions.co.jp/company/press/news/2016/1201.pdf)

正規分布

分布図の中でイチロー羽生さんみたいな天才を配置すれば

必ず真逆位置に麻原や極悪テロリストみたいな連中が入ると思う

ということは天才が現れるということは

悪の天才も同じように発生するということであって

こいつらはその天才的な能力で表に出てこずに悪さをするから

世の中はちっともよくならないということになる

から我々凡俗は白天才もっと活躍させる世界をつくらなくてはならないのだ

日本臨床心理学における査読論文価値

anond:20181009215657

心理学について書こうと思ったら、お一人書いてくださった方がいたので、そこで「特殊」とされていた臨床心理学について書きます

臨床心理学系の大学院博士号を取って、現在大学で臨床と研究をしています

論文事情を書こうと思ったら、背景にある臨床心理学事情になりました…。そして「日本の」と書いたのは、日本の固有の事情もあるためです。

はじめに

臨床心理学における研究は、おおよそ以下の3つに分けられます

 1:ブコメであったような、症例報告から始まってランダム対照試験まで行くという医学疫学的な研究

 2:事例研究やそれを踏まえた臨床論的研究

 3:その他の調査研究ちょっと大雑把ですがゆるしてください、そして私のメインはここです)

少々雑な括りで、中間位置する方や例外もままいることを踏まえ、あくまでも概要を述べているということを踏まえたうえでお付き合いください。

論文事情

https://anond.hatelabo.jp/20181009215657 では心理学論文事情として以下の順序を挙げていらっしゃいました、

 査読付き英語論文>>>>査読日本論文>>査読なし日本論文(いわゆる紀要査読有り紀要も含む)

これは、1と3を自分研究領域にしている臨床心理学者にもほぼそのまま当てはまりますし、海外でも同様です。

そのため、競争が激しい業界院生さんだと、Predatory Journalに投稿しているケースも残念ながら見ます

特殊なのは、「2:事例研究やそれを踏まえた臨床論的研究」を中心としている人たちです。

この方々の多く(全員ではありません)は、場合によっては「論文」というものを軽視すらしていますし、査読論文の数も非常に少ないです(大学に勤めている以上、建前で「論文書かないとね」と言ったりはしますが)。

これは分野外の人からはよく見えないため(もちろん業績調べればわかります)、中々ややこしい問題です。

私の観測範囲ですが、下手にこういう人たちが多い大学就職しようとしたり、あるいは就職してしまったりすると、論文業績が多い人はかえって冷めた目で見られたりすることすらあります

このような信じられない断絶が臨床心理学の中にあるので、業界からはわかりにくいのです。

ちなみに「2:事例研究やそれを踏まえた臨床論的研究」の人たちの業績に対する意識は人文系に近く、私も完全にはよくわかりません。ただ少なくとも、英語査読論文を無条件でありがたがったりはしません。

しろ”深みのある”事例研究理論検討が尊ばれ、そうしたものに特化した特定学術雑誌論文や、あるいは書籍などを重視する印象です。

業界事情(長いです)

なぜ学問を行う場である筈の大学において、こんな断絶が起こるのでしょうか。

つの要因は単純に「世代」です(繰り返しますが大雑把な区切りです)。

世代によって何が違うかというと「臨床心理学に対する考え方」が違います

もっと具体的には「エビデンスを重視するか否か」の違いです。

エビデンスを重視しないなんてバカ?」と思う方も多いと思います

私も7割同意しますが、これにはこれで事情があります

先ほど書きましたが、2の人たちが重視するのは事例研究です。

https://anond.hatelabo.jp/20181009215657 には、「事例研究には物語以上の価値はないのでは」とありました。

「そう見えるのは仕方ないだろうな」と思う気持ちと「物語価値過小評価しすぎですよ」という両方の気持ちを抱きます

なぜかと言えば、「クライエントの人生」を理解しようとすれば、どうしても「物語」というフレーム必要になるからです。

古典的な臨床家(心理療法をやる人)は、クライエントの人生全体を見ます

クライエントが訴える問題(やる気が出ないとか、落ち込むとか)を全てと考えるのでなく、むしろ人生における氷山の一角と捉えます

そして、クライエントの人生をそのものを見つめ、その人がより良く人生を歩んでいけるよう、どうにかこうにか支援をしていくわけです。

(「大きなお世話」「思いあがるな」と思われる方もいるでしょうし、下手すると実際にクライエントにとっても大きなお世話になります

その人の知能や症状の程度、パーソナリティなどを数値化して客観的に捉えることは心理学の得意技ですが、それでその人の人生全ては捉え切れません。

人生というものを捉えようとした時、どうしても物語必要になります

もちろん、物語ですから完全に同じ事象再現されることはまずありません。そのため、厳密な「エビデンス」はそこから得ることはできません。

ですが、だからといって物語意味がないわけでもありません。

物語から自分は何も学んだ覚えはない」という人がいたら、それは物語意味がないのではなく、恐らくその人に学習能力がないためです。

物語を蓄積していくことで、我々は人間に対する理解をより深いものにしていくことができます

そのため、日本臨床心理学者は「エビデンスなんかいらない」というよりも、「物語を蓄積してくしか、やりようがない」と思っていた部分もあると思います

またもう少しフォローしますと、単に物語を乱立させるのでなく、蓄積された様々な「物語」を体系づける理論の構築自体は脈々と行われてきました。

それが、「2」の後ろ半分「それを踏まえた臨床論的研究」です。

フロイト精神分析なんかは、今でも理論精緻化され続けていて、それはそれで読むと非常に面白いですし、人間理解に大いに役立ちます

というわけで昔の臨床心理学は、多分に人文的というかアート的な学問領域でした。学んでみると非常に面白いのですが学問としての欠点もたくさんあります

最たる点が、多くの方が既に感じていらっしゃる通り、物語性を重視するあまり客観性エビデンスをあまりに軽んじてしまたことです。

 ◆

しか1990年代の後半頃でしょうか、「認知行動療法」と「エビデンス重視」の立場が、アメリカから日本へ本格的にやってきました。

心理療法の一つである認知行動療法エビデンスを非常に重視します。

例えば「うつ病」ならば、患者抑うつの程度を測定し、「認知行動療法を行うと抑うつの程度が有意に下がる!」みたいな研究バンバンやるわけです。

当時の学会の様子は今でも覚えていますエビデンス重視の方々は「それエビデンスあるんですか?」と、どこかの誰かのようなセリフを旧来の臨床心理学者に容赦なく投げつけ、大変気まずい空気を作り出していました。(別に悪いことではないですが)

残念ながら旧来の臨床心理学者はそれに真っ向から反論することができません。なぜなら、実際の所エビデンスは無いからです。

ただし、客観的エビデンスが求められる研究では、「客観的に扱える要素」しか扱うことができません。

そういう「客観性」では捉え切れない人間の心を探求していったのが、これまでの臨床心理学だったはずです。

ですから多くの人にとって、「エビデンス」というものが極めて底の浅いものに見えたという部分もあると思います

実際私もそう感じる部分はありました。確かにエビデンス大事だけど、余りに機械的人間の心を扱いすぎていないか?と。

それって、本当に臨床心理学が目指していたことだっけ?

とはいえ、旧来の臨床心理学者がその文学性に浸りすぎ、客観性過小評価していたのは間違いないと思います

エビデンスに対して「人生の深みをわかっていない」「客観性が全てではない」と言っても、インチキしか聞こえないでしょう。

要するに、物語偏重し、エビデンス全否定する姿勢は間違っていますが、エビデンス偏重し、物語全否定するのも同様におかしいと、私自身は思います

そういう微妙バランスというか面白さが臨床心理学の中にはありますし、どちらも人を支援する上では大事視点だと思います

 ◆


まぁその後は各学会大学内で、明に暗に色々な小競り合いがあって、現在は昔よりもだいぶ両者が折り合いつつある雰囲気です。

一つは、純粋な「2:事例研究やそれを踏まえた臨床論的研究」の人たちが減ったという単純な理由です。大御所の多くが高齢化し、以前よりはだいぶ比率が少なくなりました。

逆に、認知行動療法がだいぶ浸透した結果、若い世代では認知行動療法が専門外でも、エビデンス重視の考えは馴染みのあるものになっています

また、認知行動療法の人たちも”表面的な”エビデンスが全てではないという姿勢の人が増えてきました。

また、個人的にすごく大事だと思うのが、実証重視の方々にとっては「物語」の代表に見えるであろう精神分析系の心理療法も、ちゃん効果確認されるようになってきたたことです。

これによって、「エビデンスが全てではない」と意地を張らなくても良くなってきたのだと思います

結局、エビデンス否定するのではなく、自らエビデンスを出すことで (とはいえ研究殆ど海外ですが)、問題は解消されつつあります学問としてこれはとてもよいことだと思います

 ◆

つい最近中室牧子さんとかによって、教育業界エビデンス視点を持ち込む動きがありますが、同じように、日本臨床心理学にもエビデンス視点を持ち込もうという動きが20年程前にあったのです。

エビデンスに対する考え方の違いは、人間理解に対する考え方の違いであり、それが論文業績に対する考え方の違いにもつながっていたという話です。

これを読んでみて、改めて「臨床心理学ってクソだな」と思った人もいるかもしれませんが、こういうゴタゴタも乗り越えつつ、少しずつ学問としてブラッシュアップされていっている臨床心理学が私は大好きです。

長くなってしまいました、すいません。

おまけ

長くなったついでで恐縮です。

https://anond.hatelabo.jp/20181011091532 「再現可能性が4割」の部分に

https://anond.hatelabo.jp/20181011091734 「びっくりするほど信用できない学問だな てか学問かそれ 」というコメントを見かけましたが、これ心理学だけの問題じゃないんですよ。

Natureが少し前にいろんな研究者に調査しましたが、理系領域だって再現性は決して高くありません。

https://www.nature.com/news/1-500-scientists-lift-the-lid-on-reproducibility-1.19970

しろ追試をちゃんとやって、どれが再現できるか否かをふるいにかけ、学問を発展させようとする態度こそが科学的だと私は思います

日本社会学における査読論文価値研究者評価大勢

備忘録程度に

社会学における査読論文位置

一般に、日本社会学において査読論文は重視されます特に、若手にとって査読論文を出すことは研究業績を重ねる上で、非常に重要であると考えられています

ただ、以下の三点が一般的な「アカデミア」のイメージとずれているため、わかりにくいところかなと思います

雑誌の格が厳格に決まっているわけではない

日本社会学においては雑誌の格が明確に決まっておらず、これがIFやh-index論文の格がある程度自動的に決定される理系(+経済学)と違うところです。

たとえば、おそらく日本社会学で一番格が高い雑誌日本社会学会が発行する『社会学評論』でしょうが、これに掲載が決まったからと言って、マーケットにおいてダントツ評価が高くなるということは無いですし、掲載率も25%程度とそこそこ高いです。

一方、関東社会学会が発行する『年報社会学論集』や関西社会学会が発行する『フォーラム現代社会学』なども掲載率は同程度ですし、評価もされると思われます。つまり査読論文の質がジャーナルの格によって決定される、という仕組みが弱いです。これは社会学領域多様性手法多様性+後述する国際意識の弱さに起因していると思われます

また、『思想』『現代思想』といった一部商業雑誌や、『ソシオロジ』『ソシオロゴス』といった同人誌に近い形態を取る査読雑誌が、ある程度の評価を受けているという点も特殊かな。

依頼論文査読論文より偉いということはないが、同程度の評価はされる

依頼論文査読論文より偉いというのはまず無いと思いますが、一方で依頼論文評価されないということもないです。一般に依頼論文査読論文と同程度の評価を受けているかと思われます

ただ、依頼論文の質がピンキリだというのが所感です。

なぜ査読論文を書かずに本にしたがるのか

エライ社会学者ほど査読論文を書きたがらない、というのは事実です。というのも、彼らは自分の考えたことを本にしてまとめてしまうからですね。

ではなぜ本にしてしまうのかというと、査読を受けたがらないというのも確かにあるのですが、概ね①社会学ギョーカイ一定程度の市場があり、エライ教授がまとめた(キャッチーor教科書になる)本は出版社としても出したがる傾向が依然としてある②査読プロセスが長い(半年-2年)ため、自分の考えをとっとと出せる本のほうが魅力的③先述した社会学領域多様性手法多様性により、査読による集合知が先駆的研究場合働きにくい場合があるという点のほうが大きいかなと思います

特に特殊なのは①ですね。この日本社会学の市場の大きさが与えたアカデミズムへの影響は、無視できないと思います

なぜ日本社会学は国際化されてないのか

日本社会学がどちらかというと内向きな傾向にあることは否定出来ないと思います比較的国際化が進んでいるのは計量分析が盛んであり、アメリカ社会学親和性が強い家族人口ネットワーク社会学の一部と、伝統的に留学風潮の強い学説史・理論でしょうか。とはいえ後者はいわゆる「国際化」とはずれてますが。いずれにせよこれら以外の領域では、英仏独語論文を書くという行為はあまり一般的ではないです。

ではなぜ内向きなのかというと、前述したように社会学比較的まだ「売れる」学問から、というのが大きいように思います。つまり国内マーケットの中で、研究にせよ知名度にせよ院生にせよある程度獲得できてしまうという現状が、外に目を向けない元凶かなと。

もちろん社会学という学問が、もともと世界的な共有知を探求するというよりも、個別特殊的事例や、異なる側面から理論体系を構築する研究を好む傾向があるということも大きいでしょう。

ただ、国際化されてないからと言って国際化が評価されていないかというとそういうことはなく、IFを持つ海外査読誌に論文が載ることは、希少故に非常に意義があるものとして認められています

社会学ムラにおける研究評価

上記したように、社会学においては論文の格は雑誌によって決定されず、査読論文と依頼論文区別曖昧であり、内向き志向である。とすれば一体研究評価はどのようになされているのでしょうか?

この問に答えるのは容易ではないですが、平均的な回答をしておきます

博論単著の出来

まず重要なのはこれで、博論単著が出せるか、出したあと評価されるかは、研究個人評価に決定的な影響を及ぼします。

一部大学院で未だに課程博士をなかなか出したがらないのは、これも影響しています。つまり単著で出せるような博論でないと、そもそも就職が覚束ないという考えなんですね。

同様に、単著就職の際の評価点として重要です。

査読論文の数

査読論文の格が特に決まってないとはいえ査読論文重要評価対象とみなされているということは、先述したとおりです。ですので、いきおい査読論文の数は、若手研究者の就職にあたって非常に重要です。いくら良い博論単著刊行できたとしても、査読論文がない研究者が就職することは(比較的)難しいでしょう。

ではどのくらい必要なのかということですが、だいたい就職までに3~4本(紀要除く)書いているのが一般的なようです。

なお、海外著名ジャーナルや『社会学評論』に載っていると、当然その分評価されますが、評価が格段に良くなるということは無いように思います。これが「格がない」という言葉事実であります

最後社会学ムラ内での振る舞い次第…

どういうことかというと、結局いくら査読論文重要とはいえ、それ以外の仕事というのも社会学では評価対象となります。つまりムラのネットワークの中で、いか仕事(ブックチャプターや非常勤講師など)を貰えるかが、結果的研究評価において非常に重要ファクターとなるんですね。コネ採用されるというのはほぼなくなったと思いますが、未だに特定大学院生比較就職やすいのは、あるネットワーク所属していると、比較研究業績を増やしやすいということもあると思います。こうした状況の中で若手研究者は業績を稼ぐために媚びへつらい、顔を売り、己が付き合っていて気持ちがいい人間であることをアピールするために、愛想笑いを浮かべながら査読論文抜き刷りを配り歩くのです。

とはいえ、これは一般的な「社会」でも一緒ですからなんとも言えないですね。とかくこの世は世知辛いアカデミアがコミュ障楽園だと思っていたら、実はベンチャー企業営業類似スキル必要であることを痛感するのは、博士課程進学後になってからなのです。

ちなみに一部の大学ではこうした制度公的に備えているところもありますが、これは先述したネットワークが発達した大学への対抗実践として見ることもできるでしょう。

なお社会学ムラ内でのふるまいのコードは、一般的な民間企業とも、いわゆる「アカデミア」の無縫さとも異なる独自の体系があるのですが、それは省略

問題などありましたら、ご指摘ください。あくまでも個人的意見です。

フェミキズナアイ服装性的でよくない」←分からん

キズナアイ論争について今更だけど、あれを女性のロールを低い位置で固定するっていう文脈批判するんなら分からんでもない。

でも、服装性的でケシカランって言ってるフェミニストは論外。

フェミニズムってのは本当なら、女性がどんな服装をしていてもむやみに性的目線で見られない理性ある世界を作っていきましょう、って話(だけじゃないけど)じゃなかったの?

男に搾取される服装をしてはいけない、じゃなくて、どんな服を着ようと自由だ男たちに搾取はさせねー!っていうのがフェミニスト気概ってもんでしょ?

から本来なら、「キズナアイ服装性的でケシカラン」って言っている男を「服見ただけでエロ妄想しない理性の世界に生きよう」って説得していくもんじゃないの?

なんで「キズナアイ服装性的でケシカラン」って女が言って、搾取しようとしている男を叩くのではなく搾取されようとしているキズナアイを叩くの?

キズナアイはどんな服装をしてても自由だよ。それに変な理屈文句をつける側こそ抑圧の側でしかない。

右隣の席のおっさんが近い

見たらPC右側にどんどん書類を収めていって自然PCと体をずらしてきていたようだ

元の真ん中の位置から30cmくらい体がこちらに寄っている

引き出しが体で塞がれてる

ちゃんと見たら足元にも書類を溜めこんで足も収まっていない

から余計に体がスライドしてしまうんだろう

 

思い切って「机の上のそれ、危なくないですか?」

と言ったらおっさんは「これね(笑)雪崩おきそうだよね」と

自分心配をしてもらったと勘違いした

「いや、雪崩とかどうでもいいんですけど、体めっちゃ左に行ってるじゃないですか。背骨曲がりますよ」

どうにか伝われと思ったがやっぱりおっさん自分心配をしてもらったと勘違いして喜んだだけで終わった

 

とうとう上司から考課面談で机の上を片せと言われてしまったらしい

50半ばになってそれ

 

そして面談から約3か月、出社したら机の上がスッキリしていた

これでおっさんちゃんとした位置に座ってくれる!

と期待したのもつかの間

距離が変わっていない

飲物を取りに行くついでに確認したらPC位置が変わっていない

机の上にあった書類10分の1くらいに減っているが結局はPCを元の位置に戻すほどではない

(上と手前に積み上げていた分がなくなっただけだった)

足元の書類もまったく減っていない(まぁね、面談で注意を受けたの机の上だけだしね)

じしんどい

2018-10-10

anond:20181010190635

周囲の位置関係を把握するには十分な光源ではあるだろ。

もちろん、大体の場合はおとりなんだが。

キズナアイ騒動あれこれ

公共放送キズナアイが出演することは望ましくない云々

前提として公共放送であるNHKテレビ番組には出演しておりません。

NHKWebサイトスペシャルコンテンツページ内にあるノーベル賞2018の特設Webページの下方へスクロールした位置に設置されているキャンペーンイメージキャラクターという立ち位置です。

閲覧者が能動的にアクセスしなければ見れません。

キズナアイ男性の望むまま使われている云々

キズナアイ女性が発起人で女性中心のプロジェクトです。

キズナアイ男性の性欲が反映されたデザイン云々

キズナアイデザイナー女性です。

ノースリーブ服装は好ましくない云々

ジェンダー論調から言えば女性自由服装をする権利が主張されるのが主流です。

例えば宗教文化的に抑圧され特定服装を選ばなければならない状況から開放されるべきと訴えているのが主流のジェンダー論です。

更に言えば、3DCG技術的な理由によりノースリーブという服装は肩や腕の稼働による衣服への干渉から来る違和感を軽減する工学的にも興味深いデザインとなっております

キズナアイ海外常識から言えば非難対象云々

キズナアイ海外から評価され逆輸入される形となり日本流行りました。

キズナアイ女性人格無視した云々

キズナアイ女性が発起人で女性中心のプロジェクトです。

キズナアイは顔を出さなくともアイドル活動をしたいというプロジェクトメンバー女性の願いか誕生したプロジェクトであり、その人格は顔を出さなくともアイドル活動をしたいというプロジェクトメンバー女性にあるので人格無視されていません。

キズナアイ気持ち悪い云々

それは明らかにあなた感想ですよね。

なんかデータとかあるんですか?

かい音を立ててしま

うるさいのが嫌いだから所作とか体の動きにすごく気をつけてるんだけど、どっか見えてなくて結局でかい音を立ててしまう。

ドアとか壁にぶつかってしまったり、スプーン落としてしまったり、電話を手から滑らせたり、脚組み替えるときに机にぶつかったり、あげればキリがない。

隣のデスクの人は本当に静かで憧れる。後ろのデスクの人はマウス位置しょっちゅう直して机がバンバン鳴ってる。キーボードガチャガチャうるさい。ハッピーハッキングじゃないよ。

なんかコツがあるのかな。

なぜフェミニズムがここまで嫌われるようになったか

根本の原因は男女それぞれの中に階層があって男であっても女であっても生きづらさがピンキリ時代になったってことを古いフェミニストはわかってないんだよな。

そりゃ19世紀とか20世紀の中盤くらいまではわかりやすいくらい男女格差はあった。わかりやす数字化したら貴族王族をのぞいた男女の社会的生きやすさを男が100~50で中央値を70、女が60~10で中央値を30くらいにしとこう。そうすると男女全体でみても中央値をみても女は圧倒的に不利。女性の大半は下位の男性よりも生きずらい状態になってる。だからなんとかせなあかんねって意見でまとまりやすい。

ただ現在もっと複雑だ。おそらく上にあげた数字が今は男は200~80で中央値が130、女は180~60で中央値が110くらいになってる。たぶん。中央値でみたらまだ女のほうが社会的に不利な場面が多いんだろうが、問題は昔とちがって男性の大半も社会的上位に位置する勝ち組女性に比べてかなり不利な位置になってしまった点だ。だからよほどの勝ち組男性でないかぎり、「(自分より上位にいる女性だけを見て)いや女のほうが生きやすくね?」と思ってモヤモヤしてしまう。

さらに面倒なのが上位に位置する女性陣が社会男女差別を訴える際、彼女らは「社会全体の問題」として訴えようとするが、実際には自分らと同じ上位社会位置する男性しか比べてない点である。つまりエマ・ワトソンセリーナ・ウィリアムズのような女性社会で上位3%(上での数字での175~180)に位置するような勝ち組女性男女差別を訴えるとき、それは大抵の場合男性社会の上位3%(190~200)としか比べてないのだが、さもそれが社会全体の問題のように訴える。そうなるとエマ・ワトソンセリーナ・ウィリアムズより社会的に下位に属する大半の男性が「お前ら何を言っているんだ?」と不満をぶち上げてくる。

もう男と女二極化で分けられるような時代ではないのだ。男女構わず中央値以下にいる弱者もっと生きやすいようにするのが正義なはずなのだが、悲しいことにメディアなどで積極的に声をあげられるのは社会的上位に位置する男女だけなのである。平均以下の庶民匿名ブログで「日本死ね」みたいな煽りタイトルでも使わないと誰も見向きもしてくれない。

もうフェミニズムなんて名前は使わないほうがいい。フェミ運動男性恩恵を受けた点もあるが、やはり名前からして女性の権利向上にしか注目してないとしか見られない。(共産党が「主張は正しいからせめて名前かえろ」と批判されるのと一緒)男女ともに弱者が団結して声をあげるにはフェミニズムの旗はもう時代遅れなのだ

anond:20181010094413

社会性があって分別のある成人なら、そういう意見もあるのかと学習するなり、ではこの人達と互いに共存する為にはどういった方法が良いかと考えるものだが。社会の中で私をどう位置づけていくかを放棄し、フェミバカフェミキチガイ!とわめきたてる幼稚な行動の一体どこに社会性があるのか問いたい。


それ、ことあるごとに吹き上がるオタクヘイターに言ってやってくれる?

オタク共存するためにどういった方法がいいのか考えたなら規制かいいださんでしょ

オタクは殴られたから反撃してるだけ。まず殴るのを辞めろ

anond:20181010093636

社会性があって分別のある成人なら、そういう意見もあるのかと学習するなり、ではこの人達と互いに共存する為にはどういった方法が良いかと考えるものだが。社会の中で私をどう位置づけていくかを放棄し、フェミバカフェミキチガイ!とわめきたてる幼稚な行動の一体どこに社会性があるのか問いたい。

2018-10-09

anond:20181009221602

まぁ元々学問としてどうなのってところもあったし、それほど高い位置にいなかったでしょ。

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