はてなキーワード: シンボルとは
2016年にムサ・アル・ガルビがニューヨークに初めて来たとき、彼が最も気づいたのは「人種化されたカースト制度」の存在でした。その制度のもとでは、「使い捨ての召使い」が「あなたの家を掃除し、あなたの子供の世話をし、あなたの犬を散歩させ、調理済みの食事を配達する」のです。
この「使い捨ての召使い」は、その仕事に対して「わずかな報酬しか得られず」、ほとんどが黒人やヒスパニックで構成されており、サービスを受ける側はほぼ白人ばかりでした。しかし、誰もこのことに言及せず、「これが普通の社会のあり方だ」と考えられていました。
アル・ガルビが描写しているのは、超富裕層の集まるアッパー・イーストサイドや、億万長者たちのたまり場であるスカーズデールではありません。彼が在籍していたのはコロンビア大学であり、「人種カースト制度」で利益を得ていたのは同級生たちでした。その多くは社会正義について声高に語っていましたが、自分たちの生活を支えている社会階層の底辺の人々のニーズにはほとんど無関心でした。
4年後、同じ学生たちの多くがBlack Lives Matterの抗議に参加しました。アル・ガルビは、彼らがニューヨークのアッパー・ウェスト・サイドのブロードウェイで、同じ場所を共有している「靴も持っていないホームレスの黒人男性たち」に気づかないままデモをしているのを見ました。抗議者たちは「Black Lives Matter」と主張しながら、ホームレスの人々が使っていたベンチを占拠していて、どうやら目の前の「黒人男性たち」には関心がないようでした。
このように、社会正義を求めて活動するリベラルな学生たちの信念と、周囲にある現実の不正義への無関心を示す行動との間にある絶え間ない不一致により、アル・ガルビはその矛盾を理解するために本を書くことを決意しました。『We Have Never Been Woke』はアメリカで出版されたばかりで、間もなくイギリスでも出版される予定です。アメリカの選挙の背景を理解するための有用な出発点の一つとして、この本が挙げられます。なぜなら、選挙の物語は、アル・ガルビが感じた不一致に気づく人々と、それに気づかないか、気づこうとしない人々の分裂という観点からも見ることができるからです。
コロンビア大学の活動家たちが周囲の目に見える不正義を無視している中で、なぜ彼らは社会正義の言葉を採用したのでしょうか?言い換えれば、現実の不正義や不平等が無視される世界で、その言葉はどのような役割を果たしているのでしょうか?これらは、学生時代のアル・ガルビが悩んだ疑問であり、その本の核心をなしています。
彼の答えは、社会正義の言葉、すなわち「ウォークネス」は、実際には社会正義を目的としたものではなく、むしろ特権の階段を上り続けたいが、自分たちがエリートであるとは見られたくないエリート層を結びつけるイデオロギー的な接着剤の役割を果たしているというものです。
「ウォーク」という言葉自体は、あまり有用な言葉ではなく、分析よりも軽蔑の意味で使われることが多いものです。アル・ガルビはこの点を認識しており、侮辱として使われることを避け、定義することさえ拒んでいます。彼にとって重要なのは、この概念が実際に支持者や批判者によってどのように利用されるかです。
アル・ガルビは、「象徴的資本家」の闘争こそがウォークネスを理解する鍵だと主張しています。「象徴的資本家」とは、シンボルやレトリック、イメージやナラティブ、データや分析、アイデアや抽象概念を扱う専門家、つまり作家や学者、芸術家や弁護士、美術館のキュレーターや技術専門家を指します。この社会階層は、エリートの中で自身の地位を固め、すでにそこにいる他者を押しのけるために、社会正義の言葉を利用して地位と「文化資本」を蓄積しようとしています。彼らの闘争は、貧しい人々や弱者のためにエリートと戦っているように見せかけながら、実際にはエリートの内部での闘争なのです。
これは単なる皮肉や偽善ではないとアル・ガルビは主張しています。象徴的資本家たちは、自分たちの社会的役割についての神話を構築し、それによって不平等や不正義を助長しながらも、公正や平等を信じていると本気で思い込んでいます。この神話は多くの社会機関や権力者によって受け入れられています。その結果、社会正義の言葉は「不平等を正当化し、覆い隠す」ことに役立ち、エリート層がそのエリートとしての地位を強化し続けるのを可能にし、それはしばしば本当に脆弱で、疎外され、貧困に苦しむ人々の犠牲の上に成り立っているのです。
この議論の多くの側面は、例えば文化理論家のキャサリン・リウや哲学者のオルフェミ・タイウォによって以前から表現されてきました。リウは、プロフェッショナル・マネジャー階級が自らの自尊心を高めるため、そして「普通の労働者階級の人々に対する揺るぎない優越感」を正当化するために、「美徳を貯め込んでいる」と主張しています。また、タイウォは『Elite Capture』の中で、異なる視点からではありますが、エリートが急進的な政治を自分たちの目的のために取り込んでいると述べています。
これらの作品は現代政治の不条理を理解するのに重要です。例えば、アメリカの民主党(および多くのヨーロッパの社会民主主義政党)が次第に富裕層と高学歴者のクラブと化している理由、そして多くの労働者階級の有権者がそれらを見限るようになった理由を説明しています。また、象徴的な表現や言葉の取り締まりには熱中しつつ、現実の物質的な不平等には関心を持たない私たちの文化の執着も浮き彫りにしています。
しかし、これらの議論には、注意しなければならない落とし穴も存在します。社会正義の活動家が物質的改善のための闘争を放棄し、文化的エンパワーメントを目指すようになったのと同様に、多くの批評家もまた、新たな「文化的エリート」を主要な問題とみなし、私たちの社会における真の物質的な権力の根源を無視するようになっているのです。
今日の社会活動の質が低下した背景には、歴史的な変化があることを見失う危険もあります。アル・ガルビは、現代の「ウォーク」政治の盛り上がりは、一連の「覚醒」の最新の段階に過ぎないと主張しています。これらの「覚醒」は、1930年代に学生たちが共産党や他の急進的組織を支持したことから始まりました。
しかし、それでは変化の現実を見逃してしまいます。例えばアメリカの共産党は、1930年代のアメリカにおいて、彼らは反人種差別運動や労働者の権利擁護に重要な役割を果たし、他の急進派、社会主義者、労働組合員、黒人活動家と共に、戦後の公民権運動の基盤を築く助けとなりました。
特に、ジム・クロウ法が支配する南部のアメリカでは、彼らはシェアクロッパーや製粉工場労働者、ホームレスや失業者の組織化を支援しました。これらの活動家たちは、ブロードウェイで抗議していた人々のようにコスプレをしていたわけではありませんでした。彼らは自警団によるテロや警察の暴力に直面し、命を落とした者もいれば、多くが投獄されました。しかし、彼らは人種を超えた階級連帯の可能性を示したのです。
こうした連帯運動が崩壊したことが、社会正義運動の質の低下と労働者階級の利益の放棄を招いたのです。そのことを理解することは、「象徴的資本家」の役割を理解するのと同じくらい重要であり、変革のための運動を再構築するためには不可欠です。
日本の都道府県で打線を組むと、各地域の特長や「強さ」を野球チームのポジションに置き換える形で楽しむことができますね!以下は、日本各地の有名な観光地や産業、魅力に基づいて作成した打線です。
広大な大地と自然が豊かで、リードオフマンとしてチームにエネルギーを与える存在。四季折々の観光地も豊富で、どの場面でも活躍できる万能選手。
歴史と文化の中心地であり、日本の「古都」。テクニックに優れ、堅実にプレーする役割。チームを支える縁の下の力持ち。
日本唯一の亜熱帯エリアで観光地としても人気があり、チームのムードメーカー的存在。独自の文化や明るい気候がチームに明るさをもたらす。
日本の中心地で、経済や文化の核。圧倒的な存在感とパワーで打線の中核を担うエース。どこからでも打てる強打者として、チームに絶対的な安定感を与える。
5番・レフト:大阪府
商業とエンターテインメントの街であり、派手なパフォーマンス力もあり。チームの人気を高め、観客を盛り上げるムードメーカーでもある。
自動車産業など工業の中心地であり、堅実で頼れる存在。パワーも兼ね備え、攻守でバランスが取れている。
九州地方の中心的存在であり、食文化が豊か。バランスの取れた攻守が魅力で、攻撃面でも守備面でも頼れる存在。
平和のシンボルとしての役割があり、献身的でチームを支えるポジションにぴったり。広島のグルメや観光も充実しており、守備力が高い。
首都圏に位置し、観光名所も多く多彩な投球が可能。東京を支える大都市としての役割を持ち、安定したパフォーマンスを発揮する。
マジック・ザ・ギャザリングの新セットがお披露目されている。
昨今では当然のように日本人絵師によるアニメ調のイラストが入っているのだが、一部のおっさんに不評なんだよね。
お気持ち表明したいのはわかるが、君らのお気持ちが誰かのためになったことなんて1度たりともないんだから。
まあそんな害虫はどうでもいい。
問題は現状のMtGって驚くほど商品展開が激しくて、古参も新参もついていけないってのが一番の問題だと個人的には思う。
今回発売されるファウンデーションズというセットだけでも
という4種類が展開されている
普通のカードゲームをしたい人にとって、最新のパックを買えばすぐに遊べると思うでしょ?
あるいは、アニメ絵のイラストを当てたいと思ってる人が、間違って全然違うものかう可能性だってある。
店舗としてもこんなに複数展開されているものを横並びにするのは厳しいだろう。
さらにこれらは同じカードなのにイラスト違いが無数に存在する。
別にイラスト違いなんてTCGではごく一般的だけど、昨今のMTGは同時期に何種類も作るからね。
魂の洞窟なんて一度に8種類もでたし。
再録のたびにイラストが違ったりするなら、それはそれでいいと思う。けど一度に大量はやりすぎ。
コレクター欲をくすぐるけどそれだけ。
安くて簡単に遊びたい人にはどうでもいい。
もっといやなのは、同じパックの中で使用できるフォーマットが異なるカードが含まれていること。
スタンで遊びたい人が統率者向きのカードもらって何が嬉しいんだろうか。
しかも今回、同じカードなのにイラストが違うだけでスタンで使用できるかどうかが違うってものが複数ある。
発売時期が違うならギリギリわかるけど、同じカードで同じような売り方されているのに
エクスパンションシンボル(どのパック出身か)が違うだけで別物っていうのはEVILが過ぎる。
中古屋だってこんなのどう取り扱えばいいわからず、どんどんMTGの買取販売を停止している。
これで商品自体の品質がよいならいいけど、日本語版の誤植の多さは近年目を覆いたくなる酷さだ。
マジでどうにかしてほしい。
逮捕されずに書類送検されたがまだ起訴されていない状態は法令用語で被疑者、被疑者と被害者を間違えないように報道機関の考慮で被疑者を容疑者と呼んでるだけ。
だから宙ぶらりんでも何でもないんだよな。決してジャニーズ事務所への忖度ではありませんよみたいな言い訳じみた記事を見た気がするが、書類送検の段階で容疑者呼ばわりしてるニュース探せばあると思う。
容疑者呼ばわりだとイメージ悪くなるから容疑者を使うなって圧かけられて、容疑者って言葉自体は厳密な定義があるわけじゃないから使わなかったんだろうけど、報道機関の矜持としてさん付けは避けたんだろうな。
その結果生まれたメンバーというあの珍妙な敬称は苦肉の策なのかささやかな抵抗なのかはよく分からん。でも芸能事務所とメディアの悪辣な絆のシンボルみたいになって結果オーライだよね。
1.一般的に言われるAIは、狭義のAIすなわち完全自律自己成長型人工知能の事ではないよ
2.これをAIと認めないなら AI Act 筆頭に人工知能を対象とした規制は「生成AIはAIじゃないんで関係ないね」になるよ
3.「生成AI」はホニャララ生成モデルを包括した用語だから、当たり前に使ってる機能が実は生成AIに該当するという事もよくあるよ
1.テキストを入力したら入力通りの画像が生成表示されるText-to-Imageの様子を検索エンジンになぞらえただけのものだよ
2.本気で生成AIはAIじゃなくて検索エンジンだと思ってるのは君だけだよ
1.そういうのもあるし、そうじゃないものもあるよ
2.極端な話、個人のゲーミングパソコンで動く程度のAIはネットワーク不要だと思って差し支えないよ
3.ただ、ChatGPTのようなクローズドモデルはそもそもユーザーがモデル本体を自由に扱えないから、ネット環境がないと使えないよ
4.そうではないモデル、例えばLlamaはモデルが公開されているから、動かせる性能のコンピュータがあって生成環境が整っていれば使えるよ
1.今どきの生成AIはテキスト入力するやつだけじゃなくて色んなのがあるよ テキストは出力をガイドするために使う手段の一つだよ
例えばテキストの場合、テキストからテキストを生成するのはText-to-text、テキストから音声はText-to-speech、音楽はText-to-musicのように色々あるよ
画像を入力に使うものは大体Image-to-****って言うよ
4.最近は複数の形式を同時に処理できるマルチモーダルモデルも盛況だよ
1.特定の絵柄に寄せて生成された画像じゃない限り、元の絵師は存在しないよ
2.例えば特定の画家の絵柄で、その画家が描いたことのない表現Bを描かせたAIイラストは巷に溢れてるよね
同じように、誰とも言い難い絵柄でBを描けるよ
1.コラージュのようなものだと単純化するのはいいけど、実際はコラージュじゃない*から注意が必要だよ
*補足:『実際はコラージュじゃない』けど、「どう見てもコラージュにしか見えない」ものが生成される事はあるよ これは全ての生成物がコラージュだ、という話ではないよ
2.人間の学習とAIの学習は同じみたいな話だよ 概念に共通部分を見いだせる以上でも以下でもないよ
1.推奨はしてるけど限定ではないよ 研究目的を推奨してる理由はLaion 5B自体が最低限のフィルタリングしかしていない闇鍋だからだよ
2.Laion 5Bを使うとしても、普通はそこから目的に合わせてフィルタリングした別のデータセットを作成するよ
1.Laion 5Bは画像へのリンクとキャプション集で、画像は含まれてないよ
2.何十億もの画像へのリンクが含まれ、その中には著作物のリンクが大量にあり、CSAMにアクセスできるものも含まれていた という所までは客観的な事実だよ
1.CSAMの判定は日本で言う児童ポルノとはかなり差異があるよ
2.日本でエロ同人やエロ創作を頒布してるような作家の大半が逮捕されるくらいCSAM判定が厳しい国もあるよ
3.ここは日本だよ
1.多様なイラストを生成できるのは多様なイラストを学習しているからという理由が大きくて、それを「データセットのおかげ」と言うのは厳密には間違いではないよ
ただ「データセット」には画像以外のデータも含まれるから、これを言いたい場合は「イラストのおかげ」と言うのがいいよ
詳細が公開されている画像生成AIの場合、学習に使われた画像は初期に公開されたモデルが最も多いけど、学習している画像が減った最近のAIのほうが明らかに高性能*だよね
それは生成係と人間とを橋渡しする通訳係の性能向上や、学習の仕方の研究が進んでいるからだよ
*補足:何をもって高性能とするかは諸説あるけど、ここではプロンプト忠実度や表現力、質の高さなどを評価対象とするよ
1.その判断が出たアメリカでも、生成AI使ってるから著作権なしなんていう暴論は文章が読めない人しか言ってないよ
2.外国を持ち出すと、例えば中国ではテキストから生成したAI画像に著作物性が認められてAI画像の転載を著作権侵害とした裁判例が出てるよ
転載者が作者のクレジットを除去してたことで、氏名表示権の侵害も認められたよ
つまり調整と選択を人間が繰り返したAI画像は、AIを道具として使った人間による創作意図あり創作的寄与ありの著作物と認定されたということだよ
アメリカより中国の方が日本と近い判断基準で考え方にも合致してるから、日本でもAI画像に著作権があると見なすべきだよ
っていうことにもなるね
3.人間の手で自ら苦労して作った創作でも、最小限度の創造性や独自性がないと判断されて著作物性が認められない事もあるくらいケースバイケースなのが著作権だよ
4.どのAI画像は著作権で保護され、どのAI画像が著作権で保護されないのか外野から分からないのだから、とりあえず大抵のものは著作権があるものとして扱うのが安全だよ
君がAI画像に著作権は無いと言ってたのを信じて転載した人が著作権侵害で訴えられても、責任取れないよね
5.ここは日本だよ
1.要は国次第だよ
1.トラブル回避を目的として転載や二次利用を制限している人は全く珍しくないよ 君達の行いを考えよう
2.自分が丹精込めて作ったものが勝手に使われて嫌…という気持ちだけじゃないことは君なら分かるはずだよ
3.AI絵師が皆「バンバン転載してください!」って言ってる方が、今以上にAIだらけの環境になるから大変だよ
4.著作権の有無に拘らず、AI絵の転載や無断使用禁止を宣言するのはむしろ奨励すべきことだよ
5.それでいて著作権法の権利制限規定の影響を受けるのはみんな同じだよ
1.僭称ではなく「偽称」や「詐称」の方が正確だけど、意図は分かるからここでは横に置くよ
2.僭称とは、相応しくない身分を偽ることだよ そこから手描きと機械生成の区分を偽ることとして使われだしたよ
3.偽る、つまりAI絵を手描きだと自称するようなこと以外は僭称と言い難いよ
4.「パッと見で手描きかと思ったらAIだった」とか「AIだけどAIタグつけてない」などは僭称を意味しないよ
5.『「AIだけどAIタグつけてない」などは僭称を意味しないよ』 とは言ったけど、それはAIタグをつけなくてもいいプラットフォームに限るよ
6.騙すつもりで表記してないんだーとかまで言っちゃうと、君が処される可能性が出てくるからやめたほうがいいよ
1.君の規制論を適用すると二次創作にも被弾するよっていう程度の話だよ
2.AI使いへ言葉を選ばずに心無いツッコミをすると人間絵師にも流れ弾が当たるのと同じようなことだよ
3.反AIに本物の表現規制派が紛れてるのと一緒で、ちょこちょこ本物の二次創作アンチも参戦してるから注意が必要だよ
1.文字通りの反AIという意味で君を反AI扱いしてる人はほとんどいないよ
2.この呼称はAnti AIという単純なシンボルを、集団で連日投稿サイトに上げてた反生成AIの先輩たちによる努力の証だよ
1.君が無断学習に反対してるだけじゃないことは皆分かってるよ*
2.普段どんな事を言ってるか、何に賛同しているか、どんな呟きに共感しているかは意外と見られてるよ
*補足:本当に無断学習をどうにかしてほしいだけの人を反AIとは言っていないし言うべきでもないよ
1.『当該著作物に表現された思想又は感情を自ら享受し又は他人に享受させること』は、生成するから享受だーなんていう単純な話じゃないよ
2.享受という言葉が生成物に関わる時は、まさにその学習に使われた当該著作物を見た時と同様の知的又は精神的欲求を満たせるか、が重要なポイントになる時だよ
3.一番考えやすいのは、既に著作物だと認められている特定キャラクターが表現されている画像データで学習したLoRAを作成する場合、いわゆるキャラクターLoRAについてだよ
まず1. もちろん学習しただけでは学習元の著作物を享受できないから関係ないね
そして2. LoRAを生成に使用したとしても、無関係な画像を生成する場合には学習元の著作物は享受はできないね
*補足:LoRAとは言っても出力を特定の方向に誘導するために使うものだから、例えばマイナス方向に適用すると学習データの特徴とは離れるし、LoRA無しの場合と比べて微妙に変化が加わる程度に適用することもできるし、LoRA同士を混ぜたり引いたりできるし、色々な使い方があるよ
最後に3. 学習させたキャラクターを再現したり、部分的に改変したキャラクターを生成するための利用
*補足:学習した人と利用した人が別だと、考えることが増えるよ
そうしてやっと、作られた画像のデキ次第で類似性バトルが始まるよ ここがいわゆる「手描きと一緒」とされる部分だよ
この場合の「類似性」は法律基準であって、トレパク警察のように認定されるものではないよ
4.事前学習モデルの副産物として特定著作物の本質的特徴を再現できる場合は、AIで生成させるサービスの提供者が該当キーワードのブロックや置換などの技術的な措置を取り、普通の利用者*が生成できないように対策すべき、というのは国際的なコンセンサスが取れつつあるよ
*補足:文字列を一部書き換えたり入れ替えたり、なんとか規制を潜って生成しようとするのは「Obfuscation」という攻撃手法の一種で、こういう事をする人は「普通の利用者」とは認められないよ
2.言葉遣いが丁寧だから問題ない、悪いからアウトじゃなくて、振る舞いを総合的に判断されるよ
3.どうしてもやりたいなら自覚と責任を持ってやるんだよ そんなつもりじゃなかった、は通用しないからね
1.ディープフェイクとは、深層学習=ディープラーニングと偽物=フェイクをあわせた造語で、深層学習を利用した現実に存在しない画像や映像のことだよ
生成系AIによる生成物も「深層学習モデルで生成された、これまでに存在しなかったメディア」だよ
2.このうち、実在対象をヌードにするなどのポルノグラフィを特に、ディープフェイクポルノやフェイクポルノと言うよ フェイクポルノは、深層学習でないものも含むよ
3.言うまでもないけどフェイクポルノを公開すると法に触れる可能性が高くて、既に判例もあるんだ
生成AIを使わなければいいなどという事もないよ
4.どの法律で罰せられるか、どんな法律違反になるかは内容によるよ 主に名誉毀損、肖像権、プライバシー、わいせつ物陳列、著作権、パブリシティ権だよ
5.よく「取り締まる法律がない」というけど、それはフェイクポルノの作成自体を罰する法律がない という意味で、基本的に世論を煽る目的で言われるよ
6.作れるからというだけでツールを取り締まるのは難しいけど、フェイクポルノ作成を売りにしているくらいまで行くとチャンスはありそうだよ
「作れる」の規制が簡単にできない理由は、厳密に範囲を指定しないとコンテンツ製作に使われる顔変更やボイスチェンジャーの他、様々なツールも対象になってしまうからだよ
またなんか思いついて気が向いたら続きを書くよ
この夢は非常に象徴的で、深層心理の様々な要素を反映していると考えられます。以下に夢の分析を試みます。
山: 山は多くの場合、挑戦や成長、自己実現を象徴します。この夢では、あなたの内面にある課題や克服すべき問題を表している可能性があります。
デーモン: デーモンは通常、抑圧された感情や欲望、恐れなどの否定的な側面を象徴します。ここでは、あなたが日常生活で直面している困難や内なる葛藤を表しているかもしれません。
虫: 虫は変化や変容のシンボルとして解釈できます。デーモンを食らう虫は、問題を解決する手段や方法を象徴している可能性があります。
悪魔の王: これは超自我や権威的な存在を表していると考えられます。あなたの内なる批判者や、外部からの圧力を象徴しているかもしれません。
1. デーモン掃討作戦: これは、あなたが自身の問題や課題に積極的に取り組もうとしている姿勢を示しています。
2. 虫の培養: 問題解決のための新しい方法や戦略を模索していることを示唆しています。
3. デーモンが生まれる様子: 問題が次々と発生する状況や、抑圧された感情が表面化する過程を表しているかもしれません。
4. 悪魔の王の出現: 問題解決の試みが、より大きな課題や権威との対峙を引き起こす可能性を示唆しています。
5. 目が覚める: 夢の最後で目が覚めるのは、この課題がまだ解決されていないことを示唆しています。
この夢は、あなたが現在直面している何らかの課題や内なる葛藤に取り組もうとしている過程を反映しているようです。
問題解決のための新しい方法を探っていますが、その過程で予期せぬ困難や権威との対立に直面する可能性があることを示唆しています。
夢は無意識からのメッセージであり、この夢はあなたに、問題に立ち向かう勇気を持つと同時に、より大きな力との対峙に備える必要性を伝えているのかもしれません。
太陽の塔は今もフィギュア等グッズで稼ぐし、大阪のシンボルとして観光の価値もあるし、中に入ればわかるけど圧倒的な天才の表現で、かけた値段以上価値があるから良いよ
おお、岡本太郎批判にそのまま使えそうだ。本来は万博会場全体の予算であったものを太陽の塔ひとつに使ってしまい、途中で発覚し慌てて止めようとしたが時すでに遅し。あの塔が完成した
[B! 万博] サクッと調べたので間違えてるかもしれんが 万博会場の建ぺい率は70%な..
上記コメントは 太陽の塔内部の展示資料とパンフレットを読んだ私の記憶をもとに書いたのですが、改めて調べたところ
の間違いだと思います。いい加減なことを書いて申し訳ありません。ブコメも修正しておきます。
ただ太陽の塔建設は当時大変揉めていたこと、岡本太郎が勝手に暴走したことは事実のようです。
以下、参考になりそうなページをまとめておきます
会場計画プロデューサーの丹下健三氏と岡本太郎の取っ組み合いの喧嘩がさまざまな記事で言及されています。
中でも堺屋太一氏による「地上最大の行事 万博博覧会」は当事者による記述として興味深いので引用します
計画が出されたとき、万国博開催期間は梅雨の時期も含まれるため、人を集めるには「屋根」が必要だという意見が出た。しかし、これほど巨大な建造物の屋根をどのように作るのか、技術的な解決策は見えてこない。建設省や通産省からは安全性を危惧し、縮小変更を訴える声が強かった。
(中略: ここから大屋根建設の苦労が語られますが省略します)
お祭り広場の建築が軌道に乗り始めたと思った矢先のことだった。展示プロデューサーの岡本太郎氏が、お祭り広場の大屋根の真ん前に、塔をつくると言い出した。これが、かの「太陽の塔」である。
「すでにシンボルタワーは菊竹清訓氏が設計しています。あなたは展示プロデューサーなのだから、展示に集中してください」
菊竹氏が設計した蜂の巣状のシンボルタワーは、会場の南端に建てる予定で計画が進んでいた。しかし岡本氏は一歩も引かない。
「万国博の展示の中心には、一眼でわかるような造形が必要です。一番目立つ展示を私は考えました」と言ってスケッチブック4冊ほどを取り出した。そこには「太陽の塔」のスケッチが200枚くらい描かれていた。(中略)岡本氏の熱弁を聞いたところで、もちろん丹下氏は納得しない。丹下氏の口調は次第に厳しくなり、
「お前にそんなものを造る権利はない」「造るとしても、目立つところにあるのは許さない」
どうしても造るなら、お祭り広場の屋根の設計を変更して、太陽の塔を屋根で囲って見えないようにする、とまで丹下氏は言った。
すると岡本太郎氏は烈火の如く怒り、関係者のいる前で2人は取っ組み合いの喧嘩を始めた。互いの弟子たちは喧嘩を止めるどころか加勢し、手のつけられない状態になった。慌てた私はいったん通産省が引き取りますと2人を制したが、「引き取るとはどういうことだ」と、今度は私が2人に罵倒される始末だった。結局、大屋根の中央に大きな丸い穴をあけて「太陽の塔」を突き抜けさせるという妥協案に落ち着くまでに1ヶ月かかった。
(「地上最大の行事 堺屋太一 万博博覧会」 p269~p280)
このように「太陽の塔」はもともとシンボルタワーとして造られたものではなかったが、結果的に二つのタワーが万国博に登場した。岡本太郎氏は「自分の太陽の塔と、菊竹氏のタワー、どちらが真のシンボルタワーかは大衆の審査に委ねるべきだ」という考えを示した。と同時に「自分には自信がある」ということを盛んに表明した。この勝負、岡本太郎氏に軍配が上がったことは歴史が証明している
なお、著者である界屋太一氏は通商産業(現経済産業)省の方であること、出版が2018年であることは注意が必要です。
まるで仲介役をしていたような書き方ですが、以下の小松左京氏の著書によれば通産省も強固に反対していたようです。
当初の見解とは大きく異なり太陽の塔が歴史的シンボルになってしまったせいで不都合なことはみんなちょっとずつ伏せている感じはありますね。
予算といえば、あの「エキスポの顔」といわれた高さ六十メートルの名物「太陽の塔」があやうく消えかかったことがある。テーマ展示の、総予算は前にもいったように建設費こみのあち見つもりで三十億は必要だと、岡本氏のスタッフははじき出していた。(この金額で理事会で説明する時、岡本氏はテーマ展示には「最低三十万円」必要だ、とやってしまった。石坂会長の「明治四十五年の万国博」とともに万国博の二大迷言とされている)
大蔵省筋はこの規模を内々に承認していたが、監督官庁の通産側は、あまり正面に大きなものを建てられると、ホストカントリーの日本政府館が目だたなくなる、という理由で強硬に反対した、テーマ展示の稔予算はせいぜい三、四億でいい、というのだ。モントリオールのテーマ予算百億と大変なひらきだ。そんな予算ではとてもテーマ展示はできないとプロデューサー側がいうと、もともとテーマなんてものは万風博にはいらないものだ、とまで極言した。
(中略)
予算の三倍にふくれ上った見つもりをむりやり削るのは大変な作業だった。業者サイドと一項目ずつ検討し、全体の仕様をかえ、やっと予算の倍ぐらいまで削った。だがそれをさらに半分にするのは、背筋の寒くなるような作業だった。
場合によっては、石を一つころがしておいても、これが「根源の世界」だとひらきなおってみせると豪語していたものの、当初のイメージが、はなはだしく萎縮してしまうのはさけられなかった。それに私は平野氏と話しあって、第三スペース「心の世界」に展示する、海外民俗資料収集のための、予算六千万円は、最初からおさえて、絶対手をつけないことにしていた。一・五倍にまできりつめる時、展示構想を基本からやりかえなければならないところにまできた。
テーマ展示に関わった小松左京氏が予算で苦労する様子が書かれています。現在の国立民族学博物館は小松左京氏と平野氏が守ったのですね。知りませんでした。
(id:ryotarox さんありがとう!)
id:tapi423 さん、こちらこそどうもありがとう。
■開場前
前後左右の人との間隔は30cmもない。ただし、貴重品をもって自己責任で列を離れてもよい。(これは後述の西南も同じ)
駐車場の西側は海になっているので、海風にあたることもできなくなない。
かき氷と飲み物を販売する屋台1つずつ出店されることがあるが、長蛇の列になる。
最寄りのトイレはすべて仮設トイレとなっており、かつ水で流せない。
トイレの手洗い場は共用の蛇口2つしかなく列が長くなり、タンク式のため開場時間が近くなると水が無くなっていることもある。
「西南ホール待機列」は、国際展示場駅前の「イーストプロムナード」と南西方向の「シンボルプロムナード」、「つどい橋」、「夢の大橋」方面に列形成される。
「シンボルプロムナード」は建物に囲まれており早い時間帯では日陰になっているが、それ以外は日陰のない場所に座ることになる。
プロムナードは白系のタイルで舗装されているため、アスファルト舗装の東駐車場よりは多少マシ。
コンビニや飲料自販機が近くにあるため、飲食物の確保には困らない。(店に列はできる)
トイレは常設の公衆トイレが数か所ある。仮設トイレも併設される。
■開場後
「東ホール」の人気サークルに並ぶ場合、多くはホール外に列が形成される。
東ホール外周には屋根がないため、個人で対策して日差しを防ぐ必要がある。
東1~6ホール内は冷房がかかっているはずだが、搬入用シャッター全開になっているため涼しくはない。
東7~8ホール内は比較的最近建設されたため冷房の性能がよく、シャッター全開でも例外的に涼しい。
「西ホール」の人気サークルに並ぶ場合も、ホール外に列が形成される。ただし、1階の西12ホール外周には屋根があるため日差しは少ない。
例外として西1ホールの端のサークル場合は、2階へ伸びる搬入車用スロープに列形成されるためここは日差しにさらされることになる。
西ホール2階の人気の企業ブース列は、屋外に列形成されることが多いためこれも日差しにさらされる場合が多い。
「南ホール」は東7~8ホール同様比較的新しいため冷房が効いている。
南ホール2階のの人気の企業ブース列も屋外に列形成されることが多い。
「屋上コスプレ広場」は屋上の名の通りほぼ遮蔽物がなく、常に日差しにさらされる。
また、床面が白っぽいため照り返しが発生してさらに暑くなる。
■開場前
前後左右の人との間隔は30cmもない。ただし、貴重品をもって自己責任で列を離れてもよい。(これは後述の西南も同じ)
駐車場の西側は海になっているので、海風にあたることもできなくなない。
かき氷と飲み物を販売する屋台1つずつ出店されることがあるが、長蛇の列になる。
最寄りのトイレはすべて仮設トイレとなっており、かつ水で流せない。
トイレの手洗い場は共用の蛇口2つしかなく列が長くなり、タンク式のため開場時間が近くなると水が無くなっていることもある。
「西南ホール待機列」は、国際展示場駅前の「イーストプロムナード」と南西方向の「シンボルプロムナード」、「つどい橋」、「夢の大橋」方面に列形成される。
「シンボルプロムナード」は建物に囲まれており早い時間帯では日陰になっているが、それ以外は日陰のない場所に座ることになる。
プロムナードは白系のタイルで舗装されているため、アスファルト舗装の東駐車場よりは多少マシ。
コンビニや飲料自販機が近くにあるため、飲食物の確保には困らない。(店に列はできる)
トイレは常設の公衆トイレが数か所ある。仮設トイレも併設される。
■開場後
「東ホール」の人気サークルに並ぶ場合、多くはホール外に列が形成される。
東ホール外周には屋根がないため、個人で対策して日差しを防ぐ必要がある。
東1~6ホール内は冷房がかかっているはずだが、搬入用シャッター全開になっているため涼しくはない。
東7~8ホール内は比較的最近建設されたため冷房の性能がよく、シャッター全開でも例外的に涼しい。
「西ホール」の人気サークルに並ぶ場合も、ホール外に列が形成される。ただし、1階の西12ホール外周には屋根があるため日差しは少ない。
例外として西1ホールの端のサークル場合は、2階へ伸びる搬入車用スロープに列形成されるためここは日差しにさらされることになる。
西ホール2階の人気の企業ブース列は、屋外に列形成されることが多いためこれも日差しにさらされる場合が多い。
「南ホール」は東7~8ホール同様比較的新しいため冷房が効いている。
南ホール2階のの人気の企業ブース列も屋外に列形成されることが多い。
「屋上コスプレ広場」は屋上の名の通りほぼ遮蔽物がなく、常に日差しにさらされる。
また、床面が白っぽいため照り返しが発生してさらに暑くなる。
マリーアントワネットの首が歌うシーンが興味深かったから、意図をしりたくて、いろいろ読んだ。
具体的に言及はされていなかったから、はっきりとはわからなかったが、インタビューはどれも面白かった。
id:hazlittさんが教えてくれた、ラジオ番組からいろいろ読み始めた。
増田はフランス語は多少わかるが、わからないところは、DeepL先生に頼っているため、正確性は保証できない。
ホスト:昨日私たちは、コンシェルジュリーにおいて、革命の中、斬首されたマリーアントワネットがゴジラ(というパンクバンド)とマリナ・ヴィオッティと歌うというシーンを見ました。このシークエンスは、いったいどのような意図で書かれたのですか、ダミアン。
ダミアン・ガブリアック(監督):まず私は一人で書いたのではありません。すべてみんな(4人の中心人物)で書きました。そして理由は極めてシンプルです。私たちは、選手が進むルートに沿ってシークエンスを進めていくことにしていました。そして、ここではコンシェルジュリーです。マリー・アントワネットが斬首の前に幽閉されていた場所です。我々は自分たちに、これについては言及せざるを得ない、と言い聞かせました。ここで起きた歴史的なイベントは世界中が知っています。私たちはそこにエネルギッシュであることを求めました。だからゴジラです。そして、斬首されたマリーアントワネット、その両方。私たちは顔を突き合わせ、私たちが価値を見出していた(後述する)ロンドンのエリザベス女王とジェームスボンドを改めて思い起こしました。これだ、これだ、と。
パトリック・ブシュロン:そうですね、まず私たちがやった、みたものは、完全に、楽しく、集合的であったと考えています。そしてそれは全く同じく、議論するつもりがないことです、正確に。議論するつもりはないのです。私たちが見たものはまさに、さきほど述べられた通り、似ているのです。この多様性の物語、これが私たちのあり方だと、私たちが、大胆に主張している、複雑さと。それらは、あの歴史的なモニュメント(コンシェルジェリー)と、その美しさ、威圧的であることを望まない美しさ、私たちを勇気づける過去と一緒に示されました。私たちは誇りを回復しました、国家はアイデンティティではなく、あくまで政治的プロジェクトなのだ、という誇りを回復しました。私はそれらを若者に見せることができてとてもうれしいです。私の娘もコースでそれを見ました。あの悲痛なものを見たのです。それこそが全てです。シンプルです。私たちは、わずか数分の間にバスティーユを奪還したのです。
(中略)
ホスト:ダミアン、実際にこのセレモニーは、世代間的でもありましたね、だれにとっても自分事であるような感覚、ミュージカルレベルでもそうですし、サウンドトラックはすばらしかった。ダリダもあったし、クラシックもあった。とてもエモーショナルでした。とても美しかった。そして、話を変えるが、橋の上でのクィアたちとの最後の晩餐。かれらと一緒に生きているというシーンでしたね?ダミアン。
ダミアン:その通り。クィアはいた。でも付け加えるなら、フランスのすべてがあった。背が高い、低い、太っている、痩せている、黒人、白人、アラブ人、みんな違う衣装で、同じプレイリストを踊ったんだ。グアドループ(カリブ海)の音楽、オーヴェルニュの音楽、ヨーロッパの音楽を、同じ時にね。
トーマス・ジョリー監督に選ばれたパトリック・ブシュロンは、このセレモニーに寄せられる期待や懸念さえも承知の上で、「私たちに似た」物語を望むと改めて表明した。 「私たちはバカバカしいことや傲慢にならないように努めます。それをやったら、とんでもなく長い道のりになってしまうよ」と冗談を言う。
(中略)
「最初のシーンには、『エミリーパリへ行く』シリーズを観たアメリカ人などが期待する、パリで見られるものをすべて詰め込みました。きっと反応は「ありきたりなだな」だろうけど、それは違う。少し忍耐が必要です。所要時間は 3 時間 45 分です。紆余曲折があるでしょう。次に、これらのイメージは正反対の方向に進み、スノードームが転がるように、私たちはエッフェル塔(私たちが期待しているもの)を目にするでしょう 。私たちはすべてを揺るがすでしょう。違うものが出てきますよ。 」
(中略)
共同執筆者たちは、過去の開会セレモニーを研究しました。そして、アテネの謙虚さと、ロンドンの自虐性を継承することとし、北京の誇張されたナショナリズムを拒否することにしたのです。
「ディベートの仕方を知っている国に生きることはとても大きなアドバンテージです。おそらく、(この国に暮らす)外国人たちが我々にもたらしている、楽しい面のカオス、それには多くの憤りと尊敬が同居していますが、私たちはそれを見せなければならないのです。」
開会セレモニーの原点は、セーヌ川の流れとともに進む、という点である。
「私たちが見せる、このゆっくりとした流れるイメージ、この空想上のパレードは、パリが示すべき力の中にあります。このステージは軍隊のデモンストレーションパレードではないのです。フランスはもはやー私は全く望んでいませんがー世界に対して、我々の歴史について講釈を垂れるような立場ではないのです。私たちは、持っているもの、信じているものでやるしかないのです。我々が込めたメッセージはシンプルです。言葉で、あるいは映像で、伝わればうれしいですが、そうです、それは、”すべてがある、それでも私たちは一緒に生きていける”ということです。」
パリの歴史から離れて、歴史家は、パリジャンの通勤のあり方についても、言葉を用いずに示すつもりだといいます。
「英雄的物語の反対にあるもの」を語る、というこの歴史家が大量のインクを費やしてきたフレーズにおいて、彼は、その立場を明らかにした。「私たちはしゃべりすぎです』と彼は笑う。宣言も挑発もない。オリンピックゲームは、包括性、平等性、多様性という価値観に基づいています。セレモニーはそうでなければならない。私は歴史家だから、ナポレオンの話をしなければならないなら、どうすればいいか知っているし、そうするつもりです!しかし、それだけではありません。絵画(Tableau)ではより完全なものになります。私たちは何も削除していないのです。追加しているんです。セレモニーは軍事パレードではないが、謙虚でないのに謙虚なふりをするつもりはない。その一方で、私たちは互いの違いに連帯感を示すことができる。誰もが楽しめるものになるでしょう。」
少し考えた後、彼はこう付け加えた。
「私に、世界(の見たくないもの)に対して目をつむることを期待しないでください。パリに世界を迎えるのであれば、ありのままの世界、ドラマなども含めて歓迎します。オリンピックは原義的に政治的なものですから、政治的なものを排除するということはありえません。しかし世界の最も公正な感覚の中にあってほしいとのぞみます。」
彼は微笑みながら、「こんなに複雑なものに参加することになるとは思ってもみなかった」と話した。
(増田はルモンドやリベラシオンに課金はしていないので、まとめ記事が助かった)
(略)
ジョリーと4人の作家が2022年末に共同の冒険を始めたとき、ルートはすでに決められていました。
東のアウステルリッツ駅から始まり、ノートルダム大聖堂、マリー・アントワネットが投獄されたコンシェルジュリー、ルーブル美術館、 ガラスのドームが特徴のグラン・パレなど中世の遺跡を通り過ぎ、エッフェル塔のふもとで終わります。
「私たちはダウンジャケットを着て、アウステルリッツ橋からエッフェル塔 までボートで川を上下しました」とジョリーはル・モンドに語った。
「私たちはパリの歴史の一部であるあらゆるものを見ました。通り、記念碑、広場、彫像。文学的な書簡、映画、ミュージカルも調べました。」
彼らは何度もブレインストーミングした後、約9か月間秘密裏に執筆を続けた。
フランスのカルト映画「アメリ」やアメリカのネットフリックスシリーズ「エミリーパリへ行く」の夢のようなパリに引き込まれることを警戒し、 彼らは「常套句やアメリカ流のフランス解釈についても、茶化さずに扱わなければならない」とわかっていたとジョリーは語った。
彼らはショーを12の絵画(セーヌ川沿い、セーヌ川の上、さらにはセーヌ川から出る)に分割し、約90隻の船に乗ったアスリートのパレードと掛け合わせた。
3,000人を超えるダンサーや俳優が岸壁や橋の上でパフォーマンスを披露し、それぞれの絵画は、パリのシンボルと、過去と現在の両方について呼び起こすものを描いており、世界をパリの歴史と建築の旅へと誘う。
例えば、ノートルダム大聖堂は、ゴシック様式の記念碑であり、19世紀の作家ヴィクトル・ユゴーとのつながりであると同時に、猛烈な地獄でもあるなど、人によってさまざまな意味を持っています。
「世界が最後にテレビでノートルダム大聖堂を見たのは、火災のときでした」とブシュロン氏は言う。「誇りと壮大さの物語だけではなく、感動の、再建の物語でもあるのです。私たちが演じたかったのは、どんな困難にも負けずに共に生きていこうとする粘り強く創造的な意志の物語です。」
自らを「現代を愛する歴史家」と称するブシュロン氏は、式典はできるだけ多くの人々に語りかけるものでなければならなかったと語る。
「パーティーを開いてお気に入りのプレイリストをかけるのとは違います。世界からフランスへ、そしてフランスから世界へ語りかけるものでなければなりません。私たちはただ、人々が共感できるように、当時の状況を描写しようとしただけです。」
(略)
エマニュエル・マクロン大統領は、セレモニーでは1789年のフランス革命から1948年の世界人権宣言まで、「解放と自由の偉大な物語」を提供すると述べた。
セレモニーの詳細は秘密のベールに包まれているが、フランスの価値観が何らかの形で讃えられると推測されている。フランス系モロッコ人の小説家であるレイラ・スリマニは、パリが集合的であろうとする努力に価値を置いていることーそして力を合わせることで考えられないようなものを生み出せるーを高く評価している、とル・モンド紙に語っている。
4人の作家は、自分たちの物語に寛大な精神を持たせたかったという。
「喜び、模倣、動き、興奮、輝きがなければならない。フランスが時に自信過剰に見せたがる伝統的、哲学的、価値観だけでなくね。」
(略)
一方、昨年9月にパリで開催されたラグビーワールドカップの開会式は、「反例となった」とブシュロンは言う。
『アーティスト』のオスカー俳優ジャン・デュジャルダンが、ベレー帽にバゲットという出立ちで、1950年代のフランスの村々を再現した模型を自転車で巡り、ミルク絞りの女性やダンサーに手を振るというこのショーは、多くの批評家から、時代遅れの陳腐なフランス表現だと非難された。そして、非常に内向きなフランスだった。
「ただの古臭い過去のイメージや、現在の単純な賞賛ではないものでなければならない。歴史は揺らいでいるもので、国家はアイデンティティではなく、政治的プロジェクトであることを忘れてはならない。だから未来を語るのです。だから、私たちはセーヌ川を大旅行し、みんなを巻き込もうとしています。」
ブシュロンは、最も感動的なショーとして、ジャン=ポール・グードによる壮大な舞台美術を伴った、1989年のフランス革命200周年記念式典を挙げている。
当時20歳だったブシュロンは、それを見て歴史家になろうと決意した。
「それは歴史を痛感した瞬間でした。1989年、ソ連、中国(天安門広場の抗議活動)など、世界では多くの出来事が起こっていました。当時、私たちは多文化フランスと呼ばれていたものの価値を声高に明確に宣言することができました。それはより困難になり、ある種の幻滅感もありますが、私たちは怯んではなりません。」
数週間前、フランスでは議会選挙後に極右政党「国民連合」が政権を握るかもしれないという懸念が真剣にあった。その場合、ショーは「ある種の抵抗のセレモニーに変貌していただろう」とジョリー氏は語った。
結局、マリーヌ・ル・ペン氏の党は好成績を収めたが、セレモニーの書き直しを必要とするほどではなかった。
「私たちは、切実に、いたるところで起こっている暴力から離れて、平和の瞬間、止められた瞬間を共有することを必要としています」とスリマニは言った。
「私は本当に、7月26日にみんなが流れに身を任せてくれることを願っています。私たちの中の子供の部分、発見する楽しみを思い出してほしいです。今では本当に珍しいものになってしまいました」
と思っていたけど、セーヌ川、コンシェルジュリーが先にあることがわかった。ルイ16世でない理由もそこにある。またマリーがサン・キュロット版のア・サ・イラをうたい上げた後に上がった数多くの血しぶきは、その後のコンシェルジュリーで数多く処刑された人々のものであろうとも思う。なぜなら、マリーはすでに断頭済みだから。そして、ガブリアック氏、ブシュロン氏のコメントから、別に完全に誇っているわけでもないこともわかりました。やるしかねぇな、と言っているのですから。またブシェロン氏はdéchirer(悲痛な、引き裂かれる痛み)という言葉を使って、あそこで起きたことを示しており、歴史家である彼は当然革命期のその後の悲劇を知っているわけですから。それでもなお、彼は「バスティーユを奪還した」といい、国家は終わるもので、政治的プロジェクトに過ぎないのだ、ということを「誇って」いるという点が印象的でした。右派が怒ることなども承知の上でしょう、なにしろ、「ディベートの仕方を知っている国に生きている」のですからね。
開会式全体に込められたメッセージから判断すると、別にキリスト教を揶揄はしていないんでしょうね。挑発はしているかもしれませんが。クィアは存在する(キリスト教がないものとみなしている)ということを目ぇ開いてしっかり見ろ、ということが言いたいのでしょうから。真正面からね。
要は、暴力やクィアなど、みたくない、特にオリンピックにおいて、というものも当然パリは包摂してるぜ、外国人問題とかもカオスだけど、でもちゃんと一緒に生きてるんだぜっていうメッセージと受け取ったね。論争が起きるのとか、まさに狙い通りでしかないんじゃないですかね。
・第1作「アサシンクリード」は2007年ごろに発売され、「シャドウズ」を含めるとメインシリーズとしては14作も出ており、海外では割と人気なシリーズで、日本でもゲーマーであればタイトルくらいは聞いたことがある人も多いかもしれない。
・海外の忍者人気の高さからか、忍者といえば日本のアサシンということで日本舞台を望む声はシリーズ初期から一定数存在した。
第3作「アサシンクリード3」のオープニング映像にてホルスの目(古代エジプトのシンボル)、Ω(オメガ。ギリシャ文字)、鳥居(日本における神域のシンボル)の3つが描かれているシーンがあり、
以前から一部ファンの間ではその3カ国を舞台にしたシリーズが出るだろうという予想が出ていたが、古代エジプトが舞台の10作目「オリジンズ(2017年発売)」、古代ギリシャが舞台の11作目「オデッセイ(2018年発売)」の発売後
SEKIRO(2019年発売)やGhost of Tsushima(2020年発売)など日本を舞台にしたヒット作がゲーム業界で続いたことなどから日本が舞台のシリーズ作品の期待が高まっていた。
(実際はオデッセイ~シャドウズまでの間に2作品出たため、日本舞台のシリーズはもう出ないのではという声も上がっていたが)
主な原因としては以下の2つと思われるが、正直ここまではシリーズファンやゲームファンたちなどを中心にしたツッコミや、炎上とまでいかずとも規模の小さい小火程度だったのではないかと思う。
一言でまとめるなら「過去作に比べて雑な部分やスタンスの違いが目立った」というところだろうか。
今作はダブル主人公であり、実在人物の黒人男性「弥助」と架空人物の日本人女性「奈緒江」」である。
これまでのシリーズでは主人公は架空の現地人という法則があり、近年におけるUBIはいわゆる「ポリコレ推し」が強かったため、日本人男性を差し置いての弥助の主人公起用を疑問視する声が出た。
だが個人的にはこれは明言化された法則ではない(はず)なので、UBIに対する不満のきっかけ程度ではないかと思っている。
シリーズ作品「ユニティ」で作成したノートルダム大聖堂の3Dマップデータが、2019年の火事で焼失した部分の復旧に使用できるのではないかといわれたり、
UBI自身も直近の作品である「オリジンズ」、「オデッセイ」、「ヴァルハラ」において「ディスカバリーツアー」と称して歴史ガイド配置したり、フィールドを自由に歩き回れるようにした学習教材用バージョンを提供するなど
しかし、公開された動画の畳の形状や、田植えの風景を見て「豊作で人手がいるのだろう」という発言、植生の季節感から、事前調査や考証が不足していると捉えられる部分が多数発見されたことで不満が一気に広がった。
「海外製のゲームなのに指摘が細かすぎ」とか、「フィクションなんだから現実と違うところもあるだろう」という意見が叩かれる原因はここにあるだろう。
直近のシリーズでUBI自身が考証力の高さを売りにしていたということを知らない≒話題にいっちょ噛みしにきただけと受け取られてしまうからだ。まぁ話は既にそんな次元じゃないというのもあるが。
このあたりから急激に炎上の規模が大きくなり自分は追いきれなくなったし追っていないのでパッとおもいつくものを箇条書き程度に。
・UBIへのインタビューでの弥助起用の理由が「私達の目になれる人物が欲しかった」などの発言が拡散される。
・日本向け動画に中国語字幕を設定するなどポカミスを連発する。
・コンセプトアートに関ヶ原鉄砲隊ののぼりなど、多数の盗用が見つかった。
・ロックリー氏の関係の部分は正直良くわかってない。弥助は一次資料が少ないのに伝説のサムライが云々みたいな表現がロックリー氏の著書とUBIに共通していて、そこから発展して追求されてるみたいな感じだろうか。
アニメのOPとかって曲の長さが変則的な奴以外ほぼ1分30秒で統一されてるよな。
多分統計学的だか経験則的だか知らないけどテレビ放送という商業的な枠が決められたなかで24分のアニメを観てもらうにあたって絶妙にちょうどいいのがその長さなんだろう。
サブスクが全盛になる前のころだけど、好きな曲を自分が盛り上がるタイミングとかで切り貼りして1分30秒にまとめて勝手にTVSizeバージョン作って聴いてたりしたんだけど
曲の開始からちょうどいいとこが終わるまできれいに1分30秒でまとめてる曲ってのが意外とよくあった。
たまにちょくちょくある感じ。
そこに合わせて曲作りしてるんだ……ってのを思わされるのもなんか興ざめ感あって
そういうのに当たると勝手に「お前……!《商業》の側かっ!!」みたいになってた。
(追記)
5年前だけど、supercellのryoは自分のことを「89秒の職人」って言ってたな(たぶん放送の都合で多少の余白が必要だから1秒短い?) https://natalie.mu/comic/pp/cencoroll/page/3
実際は1:30でなく1:29。『枠は90秒ですが、音響のルールで曲の始まりと終わりに0.5秒の無音をつけなくてはいけないというものがあり、そのため89秒で制作される』 https://j-animedb.com/?p=3879
はえーそこまでちゃんと決められてるんだな。ほんとに職人の世界。
最近のだと「怪異と乙女と神隠し」っていうおっぱいアニメがあって
OP曲(遊遊 - ハザードシンボル 作詞作曲編曲まふまふ https://youtu.be/UqTd2xkHWcI)がそんな感じでちゃんと最初の部分がそんままOP(https://youtu.be/qkcXtORCwYg)だったわ。