はてなキーワード: 個人の感想とは
https://twitter.com/jazz_kissajp/status/1657282246162939904
怒っているわけではないのですがこんなことが増えると困るなと思うので書きます。ポパイのレコード特集のレコード喫茶紹介記事、全国の店のヴィジュアルはイラストで描かれてますが、これは当方や他の人の画像を翻案したものと思われます。たとえばこの2店は当方のものと共通点がかなり多いです。
タイトルの通り、ジャズ喫茶の写真の写真集を出している人が雑誌ポパイのレコード喫茶特集のイラストに対して自身の作品の翻案であるという主張をしている。
だけど、この主張に対して読んでいて疑問に思った。
著作物を無断で行ったという事実があるのであれば問題があるかもしれない。実際に翻案されたと主張する本人の写真と雑誌のイラストはよく似ている。
だが、この構図の類似は著作権や翻案権を侵害していると言えるだろうか?
前提として構図はアイデアであり、アイデアは著作権として保護されるものではない。
そして、ここで投稿されている二枚の写真をみると、増田はこの写真の場所に行ったことがないため、撮影者よりも後ろ側の空間がどうなっているかわからないが、増田が知る限りジャズ喫茶という場所はだいたいこの写真で写っている範囲くらいの広さの小さな店が多い。
あって後ろにテーブル席が数席といったところだろう。
その店の特徴となる場所かつカメラを持って撮影しやすい場所は自ずと限られており、誰が撮ってもこの構図になるのではないか。
であればそれをイラストに描くにしても、ツイート主の写真と似通った構図に限られてくるのではないだろうか。
写真を参考にしたとしても現地に赴いたとしても、どっちにしろ似通った構図になってしまうのは避けられないのではないか。
翻案であるという根拠に乏しいし、もっと言えば参考にしたのがこのツイート主の写真であるという根拠も弱いのではないか。
ツイート主の写真そのものも、この構図に対して新規性があり本人の感情や思想などを反映したものと言えるのか疑問だ。
増田個人の感想を言えば、自身の権利に対する過剰な反応であり、ありふれた表現に対して自分独自なものだと主張することで後から同じ場所を描く人間の表現を萎縮させる好ましくない発言ではないかと思う。
フィギュアスケートISIテストを大人が初めて受けようとした時に血眼で情報漁ったので記事にしておきます。
テストを受けるにあたって
テストを受けるにはコーチの許可が必要です。テスト課題の内容が出来てると判断されれば申込書がもらえます。
スケート教室の受講者なら教室の先生から、個人レッスンを受けていればコーチから。
申込書をもらえれば合格圏内にいるということなので、当日はいつも通りを目指しましょう。
プレアルファ
課題は簡単で周りは小さな子どもが多い。子ども9:大人1くらい。
この級は受験者数も多いので待ち時間が長いのが特徴。氷の上で順番待ちする間に体が冷えて固くなるのでとにかく寒さ対策が大切。冬は特に。
結果は○☓評価で点数もつきません。テストに慣れるテストです。
フォアクロス。足を交差する練習になりがちですが、片足アウトエッジにのること。
クロスが出来ないうちは、スケート靴のベロをしっかり押して片足の重心をのせる。それが出来たら片足アウトエッジにのったまま半円滑れるようにします。そこまで出来たら足を交差してクロス練習。
そしてISIテスト最初の難関、右回りのフォアクロス。右足と左足が同じように動かないことに初めて知るのがこの課題。
バックアウトがテーマの課題。バックにのる時の足の重心位置が大切。トゥーのガリガリ音しないのが理想。
アルファとベータ課題がしっかり出来上がっていないと、この後のターンでつまづくのでフォアとバックの重心位置をしっかり覚える。
ガンマ
体をひねって「腰をとめる」がテーマ。
スリーターンとモホーク。2種類のターンが盛り込まれてISIテストの峠。
毎度お馴染み右回りは苦戦するので左回りが形になったら早々に右回りを練習する。ターンの瞬間にガリっと音を出さないように。
インエッジにフォーカスされる課題。フォアインの滑り出しを覚える。
ここまでくればスケーティングが上達しているはずなのでガンマのような苦戦はしないはず。
苦戦するとしたら今までの課題が出来てないのでもう一度復習する。
動画を参考にしたり自己流でやるのは体幹や柔軟トレーニングまで。
スケーティングの自己流癖を直すのが一番大変で、怪我のキッカケにもなります。
先生から教わったことを素直に出来るようにするのが近道だと思います。
辺野古の座り込みに行った。ちょいちょい身バレ防止のためフェイクを入れるが行った時期はひろゆきが行った以降とはしておく。
自分のスタンスとしては「基地も軍もそりゃない方が良いだろうが、警察や税金が嫌でもあるように存在するのはしかたないことだし、ましてや沖縄は要衝であり普天間の危険性を考えれば移転やむなし」というもの。
まあ比較的保守(彼らの言い方を借りれば右翼)にあたると思う。
結論から述べると今あるような基地反対運動は彼らがこの世を去る時同時にほぼ消滅していくだろうと感じた。三点理由を挙げる。
朝早くから高齢者たちが常連感を出しつつ(これはまあいつも来ているのだからそうではあるが)ニコニコしながら集まってきて、「時間になったから始めます」と言いながらどこかで聞いたような声のあげ方をし、予定通りに機動隊に排除され、昔の学生運動を紹介する映像で見たような動きをする……はっきりいってめまいがする思いだった。何もかもが古いのだ。
全ての情報媒体は新聞、テレビ、個人が作る新聞めいたチラシ。以上。そしてそれを継続していることに誇りを持ち、新聞やテレビを見ない若者は不勉強だくらいの雰囲気をひしひしと感じた。
私は一日や二日しかいなかったため全てを見たわけではない。ないが若者を取り入れようとしているなら、比較的若い私が来たときくらいは率先して「ネットで、You Tubeで、インスタ、ツイッターでこんなことやってるよ!」と取り込みを図るくらいの気概は見せてほしかった。
そういった姿勢は全くなく、それでいて若者が来ないと嘆かれても「そりゃそうでしょ」としか言いようがない。
たとえば基地反対のデモのはずなのに、土砂搬入ゲート前で行われた最後の主張は「シュプレヒコール!」と数度叫んだ後に「基地建設反対」「岸田政権を許すな」「戦争反対」「きれいな海を返せ」「ロシアは侵略を止めろ」「軍は出ていけ」「自衛隊の共同利用反対」などなどこれでは収まらないほど沢山のことを言い募るものであった。
まず出だしから古い。シュプレヒコールって……まあそれは良いとして基地建設反対の集会・デモじゃなかったんかとこの時点で言いたくなった。
その後(正直行きたくなかったが)テントの中まで付き合って主張を聞かされたが「天皇を許すな」「マイナンバー反対」「アベ政治は未だに禍根を残してけしからん」などと口角泡を飛ばす。これで新規参入ねらいは厳しすぎる。
まず論点を一つに絞って間口を広げないことには新しい風は入ってこないだろう。
基地反対、米兵の非道は許しがたい、普天間は危険だ、戦争は繰り返してはいけない。こういったことは確かに真であるし、私もそういった部分は直していかなければならないし、また戦争反対の意見はまっとうだと思う。
だがそれに対して「どうすれば戦争は起こらないのか」とか「基地や安全保障とは何なのか」といった視点は皆無であった。ただ反対、ただ怖い、ただ嫌だ。それだけがあった。
それなのに「私は基地移転もやむなしかなと思うんですよ」などと言おうもんなら話を聞いてくれる雰囲気でもなかった。議論をする気はないのである。
もっと言えば、彼らは基地と駐屯地の区別もついていないし、若者がこの現代において過激なデモに参加することへのリスクも解っていないし、台湾問題は中国の国内問題だから日本には関係ないと本気で信じている。
反対運動は尊いものであろうし、平和を希求する心は評価されるべきだ。しかしそこに軸足を置きすぎるあまり彼らには基地建設以外の何もかもが見えていないように思えた。
これはあくまで個人の感想であり、私が実際に行って思ったことでしかない。これを読んで「ああ、やっぱり辺野古って、沖縄ってこんなもんか」と思うより前にぜひ沖縄へ実際行ってみてほしい。
沖縄県民にも賛成派と反対派はいる。だが基地問題はどう言いつくろってもそこにあるのだ。それをどう表現するかの違いでしかないが、私には少なくともこの活動はこの世代以降にはつながっていかないだろうとしか思えなかった。
そしてこの手の左派運動は全国的に終焉を迎えていくだろう。なぜなら同じ雰囲気はどの左派運動にも感じられるからだ。
ひろゆきさん、認知症入所者死亡で施設に賠償命令判決に「認知症の高齢者は預からないのが安全」と私見(中日スポーツ) - Yahoo!ニュース
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/news.yahoo.co.jp/articles/7082b24304793be24e242b4cdf9335cf5e449d00
福祉問題に詳しい人が集うはてぶの強みは、このような課題解決の場面でこそ存分に生かせる。
西村や成田や高松の浅知恵では100年たっても思いつかないような仕組みを、みんなで話し合って、はてな発で投げかけたい。
有効な提言ができれば、はてなサービスの重要性も更に広く理解されるようになる。
先日の集団自決とベクトルが揃ってる、ともかく年寄叩きすればネット俗情でウケが獲れる。勿論彼が同様の立場になることなんか絶対考えない、富裕層の強者は被害に遭わないから社会インフラは劣化して上等。
賠償金を踏み倒した反社会勢力の方を、識者みたいに記事にするのが間違っていると思います。話の中身も、陳腐なネット俗論そのもので紹介するに値しないですよね。
産科が少ないのは女性が産科選びがちなのに、その女性を排除してきてるからでしょ。女が外科医を選ばないから女を差別していいという癖に、男が産科を選ばないから排除しないのは差別だよね。外科医だって賠償は多い
twitterで私見を述べるのは自由だと思うのでどうでもいいけど、この程度の知見しか持ち得ない人を知識人として持て囃すメディアは正直信用に値しないと自分は感じる。
この道を突き進めば「医療過誤で訴えるな」「(児童養護施設、障がい者施設を)虐待で訴えるな」までいく。俗情と鬱積、悪態を喚起するだけの御仁。本音主義なるものは社会に一利も齎さぬ。
はてなーって文系学問持ち上げるわりに参考文献載せてない動画を持ち上げてここはやっぱりだめなんだなって思った
俺の世界史チャンネルとかも一切参考文献を載せてないし、たくさんいる最強のメラフォロワーの一人だし。
最強のメラは怪しい情報ソースを元に断定的かつセンセーショナルな動画を作っていたりするので界隈では昔大分批判されている。
https://dic.nicovideo.jp/b/a/%E6%9C%80%E5%BC%B7%E3%81%AE%E3%83%A1%E3%83%A9/1-
・彼は中立的に書きたいと主張しているが、功績については触れられておらず、個人の感想も多く含まれ、結果としてマザーテレサを貶める記事になっている
・そもそもマザーテレサの立場について誤解している(これは選んだソースが悪いかもしれない)
・その結果初心者向動画としては不適切。マザーテレサへの誤解しか生まれていない
後ゆっくり動画に関しては以下の問題が取りざたされてるのも知っておきたい
https://togetter.com/li/1754186
『食の雑学』は、チャンネル開設後1年足らずでチャンネル登録者数が10万人を軽く超え、急上昇1位にランクインするなど、ゆっくり解説者の中でもひときわ目立つ存在であった。しかし、その投稿内容については、雑学という名前とは裏腹に、過激なものも含まれており、一部で物議を醸していた。また、当該チャンネルは最近まで一日2本という驚異的なスピードで投稿を続けており、他のゆっくり解説者からは不思議に思われていた
https://coconala.com/requests/615440
上記は「ココナラ」というサービスにおける、ゆっくり解説の外注のうち最も初期のもののひとつである。成果物の例として『食の雑学』のYouTubeチャンネルのURLが張られているのがわかる
ちょっと前にゆる言語学ラジオが炎上してたけど、このあたりのゆっくり動画にはそれどころじゃないひどい動画で溢れてるというのが現状である。
特に俺の世界史あたりは人の動画を勝手にパクるので知的誠実どうかの以前の問題である。
文句いうばっかりだとあれなのでちゃんと参考文献を上げてるYoutubeチャンネルを上げとくと、
動画じゃなくてライブなんだけど、例えば以下のライブは大寧寺の変に対するトーマス・コンランの天皇行幸という新説の論文を解説している。
https://www.youtube.com/watch?v=CSimkIo9JXk&t=12100s
産業化した知的誠実性の欠片もないゆっくり動画じゃなくてもっとまともな動画に光が当たって欲しい。
自分は93〜97のどこかで生まれた(無駄な年齢フェイク)人間。初めてのポケモンはピカチュウ版。幼少の頃、アニメポケモンは空前の大ブームで友達も兄弟も皆ポケモンが好きだった。
勿論自分も例外ではない。特にアニメの世界観、サトシとピカチュウそして仲間達がポケモンの世界を旅する姿を見ているのがとても好きだった。
ポケモンアニメを見た夜は、布団の中で自分もポケモンアニメの世界でポケモンと一緒に旅をする夢想をしていた。欲しいドラえもんの道具はもしもボックスで、理由は「ポケモンの世界」を現実にしたかったから。
ポケモンという存在は、ポケモンアニメでは動物としていうにはあまりに人間に都合がいいほど、人間の言葉を理解し、友達でいてくれる。まさに、自分にとってサトシとピカチュウは子供のための夢の世界だったのだ。
しかし、子供は成長する。ポケモンアニメはAG中盤くらいで自然に卒業した。
しかし、生まれた時からクソオタクだったのと、ポケモンコンテンツが巨大な供給力をもっていたことにより、ハマり具合に波はあるものの、なんだかんだゲームは大体全部プレイするなどして、ずっと自分はポケモンという存在と付き合うことになった。そして、歳を重ねるごとにポケモンとの思い出も増えた。
ポケモンシリーズをプレイした時の楽しかった記憶、交流サイトでポケモンの絵を描いたら褒められた思い出。ポケモンの漫画を友達に借りた記憶、友達とゲームの感想を語ったり、交換して初めて自分のゴーストを進化させた記憶……。
気づけばポケモンアニメもサン&ムーンシリーズから見出していた。たまたま観た回が面白く(21話)、その後の話もキャラとポケモンがわちゃわちゃして楽しい話が多く、飽きずに見続けていた。けれど、ジャンルとしては「日常学園もの」となっていたので、初代とは大きく雰囲気が異なっており別物として見ていた。
ポケモンのアニメにどうしようもない「懐かしさ」を感じ、自分の中の温度感がおかしい感じになったのは、初代ポケモンアニメのリメイク映画「キミにきめた!」がきっかけだ。
上映時、仕事で大きな報告会があり疲労困憊だった帰り道のたった1回見たっきりなので内容をあまり覚えていない。観た理由も、ポケモンが好きだからなんとなくだ。
けれど、所々の初代でなんとなく見たシーンのリメイクに懐かしさを覚え、ピカチュウがサトシに何かを伝えるシーン(数年経った映画のネタバレ防止)にグッときた。そして何より、「サトシがポケモンのいない現実世界、という夢を見るも最後は夢から覚めてピカチュウと共に旅を続ける」という展開に無性に心が揺さぶられ、上映後ぼろぼろと泣いてしまった。
このサトシがポケモンがいない現実世界に存在行く話は、今は亡き初代アニメのシリーズ構成の方がアニメ最終回の時に考えていた案だ。(そのシリ構さんが書いたブログも随分前に読んだっきりなのでうろ覚えなのだが)このポケモン映画はその案を部分的に取り入れている。
シリ構さんとしては、子ども達が夢の世界からちゃんと大人になれるように…みたいな意図があって考えてた案らしいのだが、まあこの映画ではそれを取り入れつつも最後にサトシとピカチュウの旅は続く。
この時、なんとなく「自分はまだポケモンや他のコンテンツを拠り所にしていいんだ」と安心した記憶がある。社会人になりたてで、仕事も会社が辛くてしょうがなかった時だった。この会社は一年後くらいに辞めた。
それくらいからか、たまに無性に昔のポケモンのアニメが見返したくなる衝動に陥り、ミュウツーの逆襲〜ジラーチ辺りの見たことある映画を見て懐かしさに浸っていた。時にはそれじゃあ飽き足らず、観てない映画を開拓しては、やっぱり自分が1番観てた頃が面白いよなあとか思う夜もあった。
劇場版も、みんなの物語やココと言った作品は映画館で観るようになった。
過去の映画や、キミきめ以降の映画を見ていた時は大人になっても楽しむと同時に、子ども時代の楽しかったあの頃を思い出すように観ていたんだと思う。
そんなことをしては、もう2度とその時間には戻れないという現実に直視して憂鬱と諦観に苛まれるのだが。
逆にサンムーンのアニメは楽しく観ていたのだが、終盤チャンピオンリーグに差し掛かる頃から話が当然日常系ではなくなり、同時期に仕事のストレスがMAXとなった結果、観る気力がなくなってしまった。今では非常に後悔している。いつか観たい。
新無印は序盤がなんだか面白くないな…(個人の感想)と思い早々に見なくなった。
そしてつい3ヶ月前ほど、サトシとピカチュウがポケアニの主人公ではなくなるということが発表された。
この発表を知った時は、「そうか…」という微かな寂しさも感じたが、「まあそりゃそうだよな。長くやってるし、何よりよく知らないけど凄い最終回みたいなチャンピオン戦やったらしいしなあ」という納得のが大きかった。
しかし、それを機にサトシとピカチュウの冒険を締めくくるシリーズ「めざせ!ポケモンマスター」を見始めたこと、そしてなんとなく初代アニメを見返し始めたことで再び温度感の狂った懐かしさが爆発し始めた。
子供の記憶力とは恐ろしい。昔の回を見ているだけでリアタイ時の感情が生々しく蘇る。
また、配信も恐ろしい。本来記憶の中で朧げに美化され遠くなり、いつかは思い出という存在になっていくはずの現実に、いとも容易く触れられる。
そのせいで時間感覚が一瞬バグった。初代アニメをこんなに見返して、その時の感情も覚えているのに、もう20年以上も経っているだなんて……。
クレヨンしんちゃんのモーレツ!オトナ帝国でひろしが「懐かしさで頭がおかしくなりそうなんだよ!!」と叫ぶシーンがあったがそれに近い。流石にあそこまで切羽詰まってはないが。
そう、あそこまで切羽詰まってはいない。社会人になって数年経ち、仕事も転職し、今はキミにきめた!の時よりかは精神状態は落ち着いている。
でも、凄まじく人生が好転したワケでもない。仕事は毎日疲れるし、けれど稼いでるわけでもない。人生に目標があるわけでもない。夢もあったが、自分の限界に数年前に気づいてからは一層やる気がなくなった。自分には才能も、努力できる根気もなかったのだ。
趣味は程々に楽しいが、そもそも週5・8時間くらい働かないといけないのでそれにずっとかまけてもいられない。
数少ない友人はそのうち結婚や仕事等で自分から離れていくんだと思っている。
結婚願望はそもそも24時間人と関わりつづけたくないという思いから、特にない。
動物好きでペットは飼っていたが、数年前に看取った時とても悲しかったのと、また再び世話をする気力がわかなくて手を出せないでいる。
精神状態は落ち着いてはいるが、停滞した人生に倦んでいるだけかもしれない。宝石の国の月人みたいだ。(月人の説明をしようと思ったけどネタバレになりそうなので読んでください)
父親は定年退職して趣味に謳歌して楽しそうだが、コロナ禍とか物価高とか少子高齢化とか世界情勢も相まって、自分の明るい未来など想像できない。
別に死んだって構わないが、死の恐怖を乗り越えられるほど劇的な実行理由もない。
こんなうだつのあがらない自分の諦観に包まれていると、一層ポケモンアニメに浸っていた頃の自分が眩しくなってしまうのだ。
しかし、無情にも時間は進み、サトシとピカチュウの冒険はアニポケのカメラからは姿を消す。
大人の世界に辟易し、虚構の世界と思い出に夢想する人間だけを置いて。
サトシとピカチュウというキャラクターに凄まじい愛着があるわけでもない。
それでも彼らの別れが辛いのは、ただ、自分の子供時代が本当に遠くなるという事実、結局昔からほとんど変わっていないという現実が突きつけられることがやるせないからなのだろう。
多分、ひろしみたいに今が充実している人間はこんな気持ちにならないんだろうな。
いやでも最近アニメを見ていたらピカチュウが一周回ってすごく可愛く思えてきたので、それがいなくなるの普通に辛い。新しいシリーズにも別ピカチュウが出るみたいだが……。