はてなキーワード: 東京オリンピックとは
よく「金バエ」「銀バエ」と言って、少しの輝きの違いで区別していましたね。それから、犬を飼っている家庭の犬小屋などには灰色の筋の入った艶のない「クソバエ」というのが今でもいますね。
アナタの挙げられた金バエ、銀バエというのは嗅覚の鋭さでは逸品のようで、特に馬肉の腐らせたのを置いて置くと、4、5キロ先からでも嗅ぎつけて飛んできます。
現在でも、野山を走っていて道で撥ねられた狸やイタチの死骸には、カラスと金バエなどが密集していますね。
但し、現在の生活空間では、昔のようにポットントイレも少なくなり(最低でも簡易水洗トイレが多くなりましたね)家畜の死骸、ペットの死骸なども丁寧に片付けられるようになりましたので、後は、野放しで飼っている犬、猫のフンが1番の発生源でしょうかね。
また、昔(昭和30年代頃)は家の天井や壁によく張り付いていた稍々小型の「家バエ」「黒バエ」なども、東京オリンピックを契機にドブや、河川の消毒が定期的に行われるようになってから、どんな田舎でもあまり見かけなくなりましたね。
家バエさえも、森の中の腐葉土や、死骸などを求めて森に帰って行ったのかもしれませんね。
東京都不健全図書のときもそうだし東京オリンピックのときもそう
「関係あるのって男向けじゃん?」と思って興味をまったく持ってなかった
みんな正直に言おう、コンビニからエロ本を除外するって話になった際に「蓋を開けてみればレディースコミックが消えた」ことをどれだけの人が予測していましたか?
そう、私たちはなぜかコンビニからエロ本を除外するって話を聞いたとき「関係あるのって男向けじゃん?」って思っていたのだ
いや何なら「エロ本とは男向けを指すのでありレディースコミックはエロ本ではない」とすら思ってなかったか?
私は正直そう思ってたし、そう思わされていた
ビックリだった、コンビニからエロ本が消えた時ふと健全漫画コーナーへ目をやると、少女漫画の下段にいつも平置きで位置していたレディースコミックが消えていたのだ
レディースコミックが消えたことに一瞬思考が停止し、直ぐに「エロ本排除の影響か」とエロ本排除の大きさを実感した
ネット上でも散々レディースコミックだって排除されると言われていたのにレディースコミックが消えたことでその大きさを実感したのだ
男向けのエロ本が消えたことでエロ本排除の大きさを実感したのではなくレディースコミックが消えたことで実感したんだ
今たわわを標的にしているフェミニストの動きが上手く行けば、たぶんまた同じ様に私は実感すると思う
ゆうて某福沢諭吉の大学の出身の人らはどんな発言をしようが野放しですけど?
某福沢諭吉の大学の出身者に限らず、炎上商法なんてものあって田端信太郎氏みたいなのも野放し
過去の話で今後はそういう人はいなくなるみたいな単純な話ではないです
むしろ東京オリンピックや日経のたわわを見るに悪化してるまであります
まったく別のお話ですよ
TPOで終わる話
こんなんTVで乳首がばんばん出てた頃にだってTPOとしてあり得なかったのに日経がやらかすんだもんな
というか東京オリンピックの時も思ったが特定階層・界隈にサイコパスが多過ぎて草が生えない
まず生命保険に入りましょう。そして洗面器を用意し水を張ります。水に顔をつけて10分もすれば!凄い時給でお金が貰えます!!
自殺だから一義的に自己責任なのは当たり前でしょうが。上司が屋上から物理的に突き落としたりしたのですか? そんなに追い込まれても、会社なんて辞めて生活保護受ければいいわけです。あなた達、弁護士は訴訟になったほうが儲かるけどね。
https://twitter.com/tabbata/status/1002900777000566784?s=21&t=nePAOjzOckx7WvA_PkrBkA
過労死には本人の責任もある。なぜならば物理的な拘束はなく、使用者側に殺意もないから。使用者の過失責任はあるかもしれないが、本人の責任もゼロではないというのが私の見解です。36協定もない一方的な残業強制が違法ということは同意OKですよね?だとしたら組合や従業員代表の責任もゼロではない。
田端信太郎氏は目立ってナンボ・炎上して上等ってスタンスで、障害者に対する差別発言で役員を解任されるまで野放しだったし、氏を問題視する企業もまさかのなかった
いくら飛ばし記事が多いとはいえ経済誌が田端信太郎氏のスタンスを真似るとか日本堕ちるところまで堕ちた感しかない
ちなみに会社四季報を発行する東洋経済は日経以下のPV稼ぎの低知能記事を発信してるので言うに及ばずです
ほんと日本ヤベーわ
コロナ禍や東京オリンピックを経て、国民がいくら反対したところで国はどうしてもやりたいことなら押し通し、実行してしまうことが分かった。
また、国民も雰囲気やメディアに流され世論が変わっていくのを感じた。
これがたとえ戦争であってもなんだかんだ国がやると言ったら始まってしまうのではないか。今までの国や国民の動きから、100年以内に日本が戦争を開始する場合のシナリオを素人ながら想像して書いてみる。
なお、この想像に登場する「外国」は特定の国を指すものではない。まだ存在しない国かもしれない。
1.
「外国」が日本の一部を侵攻する。最初は在日米軍だけが戦っていたが、戦況の悪化につれてアメリカは日本に戦力の派遣を要請する。
国としては、アメリカの要請を拒否する手段がなく、国土を侵攻されるのも困る。また、協力すれば多額の補助金が出る。
(このきっかけが実際にありえるかは分からないので適当に設定したが、とりあえず自ら戦争に参加したい事情ができて)国が戦争への参加を決意する。
2.
世論は「自分の国は自分で守るよう努めるべき」派と「事情に関わらず日本は絶対に戦争に加担してはいけない」派の真っ二つに分かれるが、この時点では後者が8割以上である。
3.
国は一貫して「戦争」という言葉は用いず、「衝突への対応」など曖昧で暴力的な印象の弱い単語に置き換えられる。「軍」「徴兵」「武力」なども同様。
「衝突への対応」を憲法違反と見做した裁判官は降ろされるか、違憲状態としつつも放置される。
4.
弁が立つイケオジが総理大臣になる。
現状況は実質的に武力衝突であり憲法に違反するのではないかという野党の質問に対し、総理大臣は「今は国民が一丸となるべきときなのです」「これは『衝突への対応』でありやむを得ないことだと感じています」と、やや的を外した回答を行う。
5.
まだ自衛隊(的な組織)と米軍が海上で戦っているだけであり、民間人にはほとんど影響が出ていない。
6.
民間人にとっては大したことなかったので、戦争への悪印象が弱まる結果となり、沸き立つ。
7.
数年後、再び状況が変わり今度は全面戦争が開始する。
今度は民間人に徴兵令が出る。これも徴兵とは言わず「防衛協力要請」などの置き換え語が用いられる。
8.
軍人の死亡率が意外と低いことや戦争に参加するメリットがメディアでさかんに取り上げられる。また、差別用語を使って反対の意を表明した、警察に暴力を奮ったなど極端な対抗手段をとった民間人が茶化すようにメディアで取り上げられ、晒し者にされる。軍人の愛国心や優しさを感じるエピソードがさかんに報道され、軍で働くことは名誉でカッコイイという価値観が生まれる。キャラクターや魅力的なイラストを用いたプロパガンダが作られ、親近感が湧く。
軍需により経済の回転が上がり、高度経済成長期以来の超好景気を迎える。日本はお祭りモードとなる。
戦争を批判すれば、世間からは「これまでに国(君)のために死んでくれた軍人に失礼だ」「遺族の気持ちを考えろ」「また日本を不景気に戻して自殺者を増やせと言うのか」などと非国民扱いされるようになる。
「衝突への対応」はやむを得ないと考える国民は8割以上に上る。ここまで来たらもう誰にも止めることはできない。
10.
終戦。
敗北すれば、やはり戦争はいけないことだったとして太平洋戦争と同じ反省を繰り返す。勝利すれば、これはあくまで「戦争」ではなかったとして、憲法にも違反しなかったことになる。
今回は想像なので戦争開始のきっかけあたりは適当だが、国が戦争を始めたい事情ができたら何が何でも始まるのではないかと感じている。もちろん明日から戦争を始めますと言ったところで国民は納得してくれないので、一致団結、感動、戦争のメリットの意外性、成功体験などを通して、少しずつ巧みに誘導していくことは間違いないと思う。
みんな高揚していて、大好きなコンテンツが国への協力を推奨していて、景気が良く、仲間意識が生まれてもう自分は一人じゃないと感じる。自ら参加すれば今までにないほど称賛されてありがたがられる。そんな浮かれた状況で、果たして戦争は絶対にいけないことであると主張し続けられるか、平和ボケしかけた日本人は一度考えてみるべきだと思って記事を書いた。
東京オリンピックが閉幕したら死のうと思っていたのだが、あれよあれよという間に結婚していた。妻と出会ったのはほんの数ヶ月前のことだったのにも関わらず。
この北京オリンピックも盛り上がりを見せてきたところで、自殺願望もとりあえず重箱の隅に仕舞いこんでおける水準になっていることに気が付いた。
経緯を増田に簡単に書き残しておくことで、誰か必要としている人に届けば良いと思う。
僕はかなり重度の自殺願望の持ち主だ。
いや、正確に言い表すのならば、「自殺願望の持ち主だった」。
元々、どこから湧き出てくるか不明な死にたい気持ちの源泉を抱えて生活してきた。精神強者にはあまりわかってもらえないことなのだが、「生きていること自体が自傷行為」なのである。
学生時代も挫折と絶望の繰り返しで、それなりに死んでしまいたくなることはあった。なんとか資格で食っていける学位を命からがら取得し、赴任地や所属といった諸々の見通しがたった後は、気を紛らわすような生きて行くための指標を見失い、ずっと「一体、これから俺は何のために生きていけばいいのだろうか?」と迷子になりかけていた。
趣味でも、恋愛でも、誰かこの人に尽くす為に生きてゆきたい。そういった、生きる痛みを和らげ覆い隠すだけのわけが必要だった。
私にはこれといった趣味がない。何か気分がいい感じに紛れるモノを探す努力もしてみたが、一向に見つからなかった。元々根は不真面目な社会不適合者なので、昇格昇進を目指して仕事に打ち込むことも出来なかった。恋活はじめいわゆる婚活と呼ばれる活動にも参入してみた。だが、案の定誰からも愛されることは無かった。
誰からも求められず、自分は何のために生きているのかわからないまま大阪で過ごす日々は、着実に心身のHPを削っていった。
婚活で出会う女とやり取りするうちに残りギガも減りゆき、やはり自分のように価値のない人間が愛されるにはネットだけでなくリアル対面が必要なのだと思うようになった。そして、遠隔でもいいから分かりあえるパートナーと生涯を共にしたいと熱望するようになった。
いっそのこと手っ取り早く障害者手帳を取得し、ハートフル割でTwitter婚活に専念しようかと考えた。しかし手帳を申請する前段階の診断書ゲットで躓き、身動きが取れなくなってしまった。
処方薬の大量服用を試みた。失敗した。目が醒めたからだ。次はもっと致死率の高い量と血中濃度を計算しようと誓った。
いずれにしても、「実行できなかった」。自殺願望を持つ者の中でも、思い描くことと実行することには大きな隔たりがある。「俺は本当にいつでも死ぬことの出来る人間なんや!」という思いを確かにし、ずいぶん勇気づけられた僕は、急な断薬をすることにした。
サナトリウム的な保養所に連絡してサポーター氏と減薬調整を進め、彼らから「お前の寛解を認める」という言葉が得られたのは、雪がとけゴールデンウイーク目前となった頃で、私は44歳になっていた。
「寛解」という言葉の軽々しさに、「これが誤診だったらいいな」と執着心を捨てきれずにいた僕だったが、そこから次元を上昇するかのように幸福が立て続けに起こった。
元職場の上司が菓子折りを持って過去を詫びにきたり、身内が出産したり、別の身内が学会で表彰されたり、海外の親戚が帰国し、その勢いで一族での花見をやったりした。短い期間に懸賞に連続で当ったことも、一度や二度ではない。
そのわりに仕事がうまく行くようなことは無く、再開した婚活でも坑精神薬の服用歴があり厳密には完治したといえない僕のような人間を愛する異性なんているはずもなかった。
そうして悶々としているうちに、疎遠になっていたそういう友人たちのうち何人かと交流を再開するようになった。しかし僕の心の隙間は一向に満たされる気配はなかった。
もう何をやってもこの人生はなるようにしかならないと悟り、私は何を思ったか一匹の保護犬を引き取ることにした。ミニブタの飼育もはじめようと思い付いた。
そんな折、婚活仲間として意気投合し、一緒に遊んでいるうちに希死念慮を打ち明け合うようになり親しく付き合っていた友人から連絡が来た。私の数少ない、大事な親友だ。
それは、「一緒に死のう」という申し出だった。「さもなければ一人で死ぬ」という話だった。
私はその申し出を断固拒否した。その代わり、友人と
文章はここで途切れていたので、今こうして続きを入力している。
私は友人にとって特別な存在になることができた。それだけでもう、苦しんで生きた甲斐があったというものだ。そしてもう私の生きる意味も役目を遂げた。
ここから先にあるのは、更に苦しく孤独な未来しかないと思った。私自身の心ももう、本当に限界を迎えていた。
もういつ死んでもいいと思っていたが、最後にせめてやり残したことを全て終えてからにしようと思った。
さらに文章はここで途切れていたので、今度は私がこうして続きを書き込んでいる。
文章の推敲をしていると、近所に住んでいるというフォロワーの方から連絡をもらい、会うことにした。
私は彼女のことを何度も見たことがあった。見るに耐えうる程度には美しく、刺身の上にタンポポを載せるような仕事をしている人だった。
彼女は、「あなたのファンです」と言った。何故か僕が近くに滞在していることを知っていたのだという。そして彼女は、「私は、あなたの人生に責任を負う覚悟があります」と言った。
だが、僕は自分で言うのも何だがわりかし顔の造形が整っていて陰キャでコミュ障傾向にあるが自殺願望や希死念慮から起死回生を図った逞しいマッチョである。彼女のようなどこか気が抜けていてポンコツで味のある(一応誉め言葉だが彼女に文意が伝わるか定かではない)女が、僕のことなど好きになる知能を持ち合わせているはずはない。分かり切っていた。
しかしまあ、騙されても奪われるものなど無い私は、彼女の言うがままデートを重ねた。そうして数か月経った頃、気付いたときには結婚し、主夫になっていた。息子と娘も誕生した。
人生は塞翁が馬みたいな感じだ。こうなるのには奇跡のように途方もない強運が必要なのは間違いないが、しかし一つ言えることは、私は、「ぎりぎりまで生きるのを延長していた」ということだ。
私はこの人生をもはやどうでも良いと思っていたが、ひとまず「とりあえずこれをやる」というものを探し、生きるのを何度も延長した。
死ぬ前に、小説を書き上げようと思った。コロナ対策をしつつ旅に出ようと思った。ブログを書こうと思った。ふわっちやInstagramをやろうと思った。とりあえずなるべく他人と会おうと思った。
そうして何度も何度も生を僅かずつ、ほんの少しずつ延長していなければ、妻が私を見つけることは無かっただろう。
そして妻の人生もまた尋常なものではなく、私に共感を覚えるような深い悲しみを抱えている人だった。そして全てのタイミングがピックアップしたパズルの破片のように奇跡的に当てはまり、ネットの海から掬い上げられた。
自分のことを特別にして求めてくれる誰かに愛され生きることは、思っていた以上に私を楽にしてくれた。
妻は、私がナルシストでニヒリズム主義でいることを許してくれるし、妻にとって私は、今のところ良い主夫として何とかやれているみたいだ。来年の春には新しい職場で働くことが決まっている。きっと能力者扱いされると思うけれど、なろう主人公程度には大丈夫だろうと思えるくらいにはなった。
だから死にたいなんて甘えだとか、問答無用に生きるべきだとか、大事な人が悲しむだとか、生きてることに感謝しろだとか、そんなトンチンカンなことを言うつもりは金輪際ない。
一度「死ぬ」ルートに入った人間を掬い上げるのは本当に困難だし、何の代償も支払うことなく他人の人生を救うことなんて、基本的には誰にも出来ない。
だけど、もしこれを読んでいる人の中に死にたいと思っている人がいたら、死ぬ前に、何か言い訳をしてみて欲しい。
あのYouTuberが配信するから今日はとりあえず夜までは死なないだとか、映画を見まくって、芸術に触れて、ときには創ってみて、食って寝て、会いたい人に会って、未練が残らないように、ギリギリの本当にギリギリまでやることを見付けて、やり尽くして、それでも未だ死にたいと思うのなら、好きにしたら良いと思う。
その最期の一瞬までに、これを読んだあなたのことを誠実に見てくれている誰かがいて、手を差し伸べてくれることを切に願う。