はてなキーワード: 原始的とは
そりゃ当たり前だろ。
あらゆる思想は結局のところ、混沌と野蛮が跋扈する原始的社会に陥らない範囲で、どういう方向性で社会の秩序を構築していくかってことを考えてるんだから。
自由主義も、個人的自由や経済的自由を最大限認めていきながら秩序ある社会をつくるためにあるんだから、その基盤となる理念を「なんでも自由だ」って言って打ち壊して原始状態に戻そうとするのまで肯定したがるのは、言葉遊びが好きな大馬鹿者がよく陥る間違った考え。
まあその自由を放棄するってのが、個人レベルのことで愚行権の範囲なら自由主義者は認めるだろうけどね。でも良心的にはそういう状態に陥らないよう救済や案内は立てるはずだ。
鉄 銃 疫病 みたいなタイトルの本を書いたやつが
原始的な暮らしをしていた部落の人たちに対してインタビューをしてた
ずっとお金というものを知らずにその原住民同士の小さなコミニティに暮らしてたんだけど
その地域が文明化されたことで初めてお金というものに触れてその概念を理解して実際に貨幣経済の中に組み込まれて生活するようになった
そういう人に話を聞くと
お金というものを知る前の自分の経済的な感覚というものがどういうものであったか
最早よく思い出せないと言うんだ。
確かに ずっと お金というものがない社会 で 長い間暮らしてきたんだけど
お金というものを知って 実際に使うようになって それから以後のことは
はっきりとわかるんだけど
それ以前の お金がなかった頃の
自分の中の 経済的な観念というものがどういうものであったのか
そういう何だか恐ろしい ことが書いてあった
ものすごく馴染みやすい精度で すぐに私達の心は 貨幣経済と 混じってしまうということなんだと思う
確かに 私達も 小さな子供の頃は お金という概念を理解できていなかったと思う
それは幼少の頃だから というのも もちろん あるけれど
それだけではない なにか 混じってしまって以後は純血を取り戻せない なにかが あるような気がする
ネット上では様々な暴言が溢れているように見える。ある人は「チー牛はタヒね」と言い、別の人は「弱者男性はキモい」と言う。これらの言葉は、現代社会の深層に潜む闇を映し出す鏡だ。人間の本質的な攻撃性や、社会の歪みが、匿名性という仮面の下で露わになる。しかし、最近はこういう低俗な連中にも寛容になってきた。彼らを「子どもたち」と思うようにしたのである。
この視点の転換は、ある日突然訪れた。自分の地域のbakusaiを覗き込んだときのことだ。そこには頭の悪そうな書き込みが溢れていた。その瞬間、啓示のように一つの考えが浮かんだ。愚かなことを言うのは頭が悪いからであり、頭が悪いということは、精神が子どもだということだ。
この洞察は、人間の本質に対する深い問いを投げかける。我々は本当に理性的な存在なのだろうか。それとも、理性という薄皮の下に、原始的な衝動や感情が渦巻いているのだろうか。ネット上の暴言は、文明社会という仮面の下に潜む人間の野生性の表出なのかもしれない。
子どもたちは社会が責任を持って育てていかなければならない。この命題は、単なる教育論を超えて、人間存在の根本的な在り方を問うている。我々は、自らの内なる「子ども」とどう向き合うべきなのか。社会は、その集合的な「子どもらしさ」をどのように昇華させ、成熟へと導くべきなのか。
人間の意識は、表層と深層が複雑に絡み合った多層構造を成している。表面に現れる攻撃的な言動は、その人の内面にある深い葛藤や不安の一端に過ぎない。我々は、この意識の深層にまで降りていき、そこに潜む真の欲求や恐れを理解しようと努める必要がある。
さらに、個人の意識の奥底には、人類全体が共有する原初的なイメージや衝動が眠っているのかもしれない。この集合的な無意識は、時として社会全体の行動パターンや価値観を形作る。ネット上の暴言は、この集合的無意識が現代社会という文脈の中で歪んだ形で表出したものだと考えることもできる。
しかし、この「症状」を単に抑圧したり、無視したりするのではなく、それを社会の成長のための機会として捉え直す必要がある。子どもたちが成長過程で様々な試行錯誤を経験するように、社会もまた、こうした現象を通じて自己を再定義し、より高次の段階へと進化していく可能性を秘めている。
結局のところ、我々一人一人が「子どもたち」なのかもしれない。完璧な大人など存在せず、皆が日々成長し続けているのだ。その意味で、ネット上の暴言を発する人々も、我々自身も、同じ宇宙船地球号に乗った旅人なのだ。互いの未熟さを認め合い、寛容さを持って接することで、人類全体がより成熟した段階へと進んでいけるのではないだろうか。
クイズ番組に出て来た賽子の読み方が解らなかった。
賽銭の賽と子でなんて読むんだろ、さいす?
答えはさいころ。
そう言えば賽は投げられたとか言うな。
でも賽銭、賽の河原、賽する、等々宗教的な使われ方の多い賽の中で、賽子はとても浮いている気がする。
漢字の意味を調べても、賽、神にむくいること、さいころ、と意味がちぐはぐに感じられる。
そこで調べてみたらさいころは元々投げた結果で吉凶を占う神事に使われていたらしい。
原始的な賽子では生け贄の動物のくるぶしの骨で作られていた物もあったとか。
宗教にぐっと近づいた。
賽ノ神、塞ノ神などと道祖神や、正月開けの焚き火行事を呼ぶ地域もあるらしい。西日本で言うところのどんど焼だ。
https://www.kanko-kubiki.jp/season/winter/sainokami/
このページによると名前の由来は
邪霊の侵入を防ぐ神→さえぎる神→さえの神→サイノカミ(賽の神)
遮=賽はなんだかとてもしっくりきた。
言われてみれば賽の河原はあの世とこの世を遮っている場所なので同じ由来かも知れない。
神も悪い物を遮ってくれるのと同時に、我々と神の間も遮られている。
さいころも成功と失敗の間をさえぎっていると言えるかも知れない。
しっくり来たのでこの辺で考えるのをやめた。
どっかの洞窟壁画で、二人の人間が後背位でセックスしている姿を描いたものがあるらしく、レディットですこし盛り上がっていた 世界最古のセックスビデオ・リークだとか、stonelyfansだ、とか言って
そんで思ったんだけど、セックスってマジでサルでもできるじゃん
簡単とか頭を使わないとかってことじゃなくてさ、洗練されてないってことなんですよ
洞窟壁画の時代のセックスと現代のセックスって絶対そんなに変わらねえじゃん
厳密にいうとエアコンが効いてるとかベッドにサスペンションが入ってるとかあんのかもしれねえけど、現代だってクソあっつい野外で、地べたでセックスしているような輩はいるし、そのセックス体験はたぶん屋内でシビルにやるセックスとそう大きく異なってはいない
一方でよ、食事なんかについて考えると、昔はその辺でぶっ殺した謎の野獣をロクに調味料なんかもつけないで食ってたわけじゃないですか
それを今やれって言われたら、お断りでしょう
石器時代のメシを食えとか、石器時代の住環境で暮らせとか、石器時代の娯楽で過ごせ、というのははかなりキツい
つまりセックスは進歩してねえ 石器時代の水準から大きく変化していないから、石器時代に戻ったって受け入れられる
プロジェクトヘイルメアリーを読み、鬼滅の刃を視聴し、レッドデッドリデンプション2をやれってこと
日常的にセックスしてる人間より、日常的にレッドデッドリデンプション2をプレイしている人間のほうが知的に高度…とは言えないが、すくなくとも人間文明をより享受してる
石器時代にレッドデッドリデンプション2をやることは絶対にできないが、セックスをやることはできていた
2万年前の、基礎教育のキの字もない、サル同然の雑魚でもやってたような娯楽に人生の貴重な時間を捨てるな
現代でなければできないことをやれ
セックスをやめろ
レッドデッドリデンプション2をやれ
「生きてるだけでみんな偉い」みたいなみつをだかみつるの亜流みたいな投稿をバズ狙いで繰り返す者が居り、それにいちいち信者みたいなフォロワーが「首がモゲるほど」同意を表明するみたいな予定調和的なかったるいやりとりはよく見るし、唾棄したくなる。いちいち水を差さないのは水をさすべきでないからではなく関わっても仕方ないからというだけだ。リアル知り合いがその手の拡散リツイートしてた時には何やってんのお前とは言ったことがある。
ところでしかしやす子は100%の本気でそういう説教臭いバズツイートするタイプではない。実はアレでけっこう尖ったセンス系芸人なのだ。半分素のまま・半分シャレでステレオタイプな純真・善人キャラに沿った行動してたら留保無しにそういうキャラ消費されるようになって売れたので、それもまた面白いかと自分からステレオタイプに合わせに行ってるフシがある。
気持ち悪い共感の押し売り系ツイートに対する本気の唾棄の部分と、やす子があえてやってる部分も理解した上での身も蓋もないツッコミを合わせたものとして、フワちゃんのアレは別に意外性はない。
でもすぐにあっこれはダメだと思っただろう。「いい人がいいことを言ったら、悪い人が気に食わなくて罵倒した」という平板な文脈でしか受け取られないと。
DT浜田が大物タレント相手に「死ねばいいのに」といった身も蓋もない暴言ツッコミを発するときは、それが字面通りの本気の自殺教唆ではないんですよという事前の地均しがある。そういうわかりやすい説明を省いてしまったという意味での「これはダメだ」である。
浜田のそれも字面だけで本気の自殺教唆だと受け取る、あるいは受け取りたがる人が少なくない昨今である。
空気を読めないのは正義!みたいな連中こそ異論の存在すら認めない同調圧力でギチギチなんだけどな。
まあ世間的にはフワちゃんは単なる悪者で、アレは裏アカの切り替えミスだという平板極まりない話としてのみ受け取られるのだろう。
消えるのかな。フワちゃんが消えるのは別にどうとも思わないが、そうなると一番損をするのは単なる善人で被害者という役柄を着せられるやす子である。
今後は一層、面白くもなんともない善人キャラとして消費され、やす子も早晩消えていくだろう。
タイマン森本とか見てみるといい。面白いし単なる善人じゃないから。
とりあえず純真天然バカキャラみたいなオファーに応じて足場を築いておいてそこから本当のいかれた味を出していく、ゆりやんみたいな感じで行けたらいいんだけどな。
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「いい子だし腐った芸能界に流されない気骨の人」みたいな勝手な思い入れで持ち上げる、こういうの↓に潰されるんだ。
https://anond.hatelabo.jp/20240806022152
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自分がなりゆきを案じるのはやす子の方だけでフワちゃんがどういう扱い受けても別に…というのは既述の通りだが
フワちゃんを全力非難する側はふだんあの程度の悪罵はあたりまえにやってたり攻撃的発言用に裏アカ持ってたりするタイプも多いんだろうなとは思う。
フワちゃんはなんかポリコレづいたイメージもあったからざまあみろって思うやつもおおいだろうしな
(ちょっと前にはフワちゃんが「気骨の人」キャラで持ち上げられてたのである。正義の人たちは飽きっぽい)
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「『きれいごとを言うのはつまらない、人前で死ねとかホンネをぶちまけるのがセンスいい』と言い張る、頭の古い人たちがいるんだよね!」みたいな単純な捉え方をしてる人はフワちゃんを許さないだろう。
でもそんな主張は元々ない。何のひねりもないただ単なる罵倒やいじめがかつては商売になったというのはフィクションだ。そしてそういう悪しきお笑いに対抗する「人を傷つけないお笑い」という光の勢力が台頭してるというのもフィクションである。そんなものを目指してる芸人はいない。
お笑いというのはバカにはわからないものだ。エンタの五味プロデューサーの非凡さは「全部わからなくてもいい、ふんいきで誰でも楽しくなれるのがいい」と、チンドン屋みたいなプリミティブな芸能の要素を復活させて見せたところにある。
その一方でお笑いはより精緻化している。M1なんか「ながら見」では何一つ面白さがわからない。
そして「善悪」というのは人間にとってもっとも原始的な大ナタである。
「やす子は正しいから好き」という解像度で世界が見えている野蛮人に、千万言かけても何かを伝えられる気がしない。
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「バカにはわからない」とかに反応したらしく「自分だけがわかってるというのか!」と反感を剥き出しにする人はいるが、そのなかに反論として見るべきものは皆無。「だったら〜〜するはずだろ!」←いまおんもでバタバタしてもロクなことないくらいの状況判断できないわけないだろ
「お笑いはイジメの商業化! でも◯◯さんだけは人を傷つけない笑い!」みたいなヒステリックなの、どうやったらブレーキかかるんだろうな
自尊心とか、自己肯定感とか、そういったものをできる限り破壊し続けることで、せめてAさんまでの悪化は防ぐことができると祈っている。
少なくとも、もし自分にまだ自尊心とかがまともに残っていたのなら、Aさんのようになっていたとしか思えない。別に、Aさんのようになっていないから自分が生きていていいとは特段考えられないし、自分が他人に迷惑をかけていないだなとと口が避けても言うことはできないが、それでも、まだ、多少は迷惑をかけていない、と思いたい。
いくつかブコメに上がっていたけど「暴力で躾ける」ことで解決できていた、といった意見が見られたが、きっとそういう意味なのだと思う。Aさんが上司に対しては恐怖を理由に接触せず、しかし敵対的ではない増田を傷つけ続け、迷惑をかけ続けたのだから。
まともに効かない理性の代わりに原始的な恐怖で支配し、自分は大事にされ得べきであるといった観念を持ち得ないようにする。これでようやく、他人と積極的に関わろう、といった行動を示さなくなる。少なくとも、自分などのようなまともな発達の見込めない人間は、他人と関わることは他人を傷つけることと同義であって、そのようなことは許されるべきでないことは明らかだ。
しかしながら自分のような理性も弱く衝動に駆られてばかりで他人の気持ちを理解できない間違った存在は、そうした躾をいつまでも身に刻みつけるのは中々困難なことで、産まれてすぐに徹底的に尊厳を破壊しておいて、決して二度とそうしたことが望めないような状態にするか、あるいは途中で自ら尊厳を定期的に破壊しておくようにするかくらいしか、選択肢は思い浮かばない。
少なくとも、自分の判断で選べるとすれば後者しかありえないだろう。自分が気を付けて実施しているのは以下のとおりだ。
◯失敗した場合、自分の貯金を募金する(現時点で300万円ほど)
自分のような人間が今の職場で働き続けることができるかは極めて疑問で、貯金というのはいざというときの命綱でもあるから、それを断ち切ることで恐怖を心身に刻みつけ、自分が大事にされ得る存在などではないことをはっきりと臓腑に感じさせることが出来る。
自分という人間は何をしても結局学ぶことができない。失敗し続けるしそれを改善することも殆どできない。他人との付き合いも中途半端な形で失敗し傷つけ迷惑をかける事しかできない。失敗するたびに、初対面のように謝罪し初対面のように感謝し初対面のように対応することで、常に自分の誤った距離感を訂正し続けることが、まだ、比較的マシであるという認識を持つことが大事である。
そうしなければ、増田のような人を徹底的に苦しめ続けることになる。そんなことは絶対にあってはいけない。
◯贅沢しない(ケアはする)
自分を甘やかすことをしない。贅沢と呼ばれる行為は行わない。趣味で金がかかることはしない。ただ、精神的に余裕がなくなったりストレスで業務に差し障りが出るような自体は、他人に迷惑をかける行為であるから、金のかからない程度にケアはする。マルチビタミンのサプリを飲むとか、軽い運動をするとかといったことはする。娯楽は、適当にネットで小説を読んだりするのが他人に迷惑をかけないためとても良い。
例外なく毎日、自分を肯定する意見は常に間違っており、自分を否定する意見が正しいと唱和する。
自分を否定する意見を丁寧に読み、自分が如何に間違っていて、自分に価値がなく、自分が常に排斥されるべきであるかを考え、その上で行動するようにする。
とにかく、自分の自尊心を破壊し続け、決して他人を否定するような行為を取らないこと。自分が迷惑をかけていることを自覚し続けること。自己奴隷化とでも言おうか。
それくらいしか、できることがない。なかった。
それでも許されるのかどうかなんてことは、俺が決める権利を持っていないのだから、結局許されることはないのだと思うし、本当は今すぐに死んだほうがいいのだと思っているが、死ぬのが怖いので死んでいないだけではある。
男だけど。
自分に子どもができるまでは小さい子どもが嫌いで仕方なかった。
うるさいし理解不能だし、近づいてきたら蹴っ飛ばそうかとすら思ったこともある。
でも自分に子どもができてから、小さい子どもを見る目が変わった。
もちろん自分の子どもは可愛いし、園にいくと他の子どもたちもみんな可愛い。
街中で自然と子どもを目で追っている。思わず目が合うと自分もにこにこしてしまう。
ネットやテレビで、子どもが亡くなったニュースを見ると、自分のこと以上に胸が痛む。
「子どもは宝」なんて月並みなフレーズが、理屈を超えてなんとなくわかってくる。
なんていうか、子を持ち育てるということはやはり生物として最も原始的な部分に刻まれている本能のようなものなんだと思う。
楽しいことばっかりではないのは言うまでもないし、中には子どもを愛せない人もいて、それを否定する気はない(その子どもは可哀想だが)。
世界の果てに東出昌大とひろゆき置いてきた、というabemaでやってる番組を見ている。
普段日本で東出は山で生活していてなんか動物を狩猟しているらしいというのを知る。
ひろゆきは普段フランスに住んでいてなんかIT関係の仕事をしているらしい。
番組では南米の貧しい国々を旅しており、リャマを買うところから解体して食すというところを前回やっていた。
現地の人が手伝うのかと思いきや、どういう話になったのかひろゆきがリャマを固定し東出がリャマを失神させるという構図からスタートした。
東出は普段シカとかを撃ったり食べたりしているそうだが、なぜか豚やモルモットのとさつにはかなり抵抗を持っている印象を受ける。
もしかしたらそういう演出が編集で施されているだけかもしれないが。
今回はリャマなのでシカよりでかい大きな動物だ。東出は覚悟を決めた様にひろゆきに指示を出していた。
リャマをさばいて食べようというアイディアを話し合っているシーンで、ひろゆきは自分も携わることをしぶっていた。
ひろゆきはサイコパスだが、そういう猟奇的な面とか、暴力性は全然ないんだなと知った。
東出はいわゆるちょっとめんどうくさい考えというかポリシーみたいなのがある人で、普段肉を食べているのは誰かが動物を殺しているからだ、そのとさつの負担を知らずに普段肉を食べるのはどうなのか…ということを真面目に考えていたりする。
ひろゆきなら冷笑しそうなところだが、そうでもないのか、シーズン2にも入り寝食を共にしてきているからか、その考えを理解してとさつに参加することになったようだ。
ネット番組とはいえさすがにきつい映像なのでリャマを失神させる瞬間以降はリャマは映らず、とさつを行う二人だけが映像には映っていた。
何かをよけて何かを刺すとか何かを切る切れないとかそういう生々しい会話が二人でなされ、主に東出がひろゆきに指示していた。
ひろゆきは普通にきつそうな表情をしており、やっぱり大型動物をとさつするともなるとサイコパスひろゆきでもきついよなぁと思った。
一方東出は慣れていることが分かる落ち着いた態度だった。
最終的には食料としての肉となった状態から映像に肉が映るのだが、その頃には色々慣れというか麻痺しているようで普通に肉として切り分けたり食べたりしていた。
リャマのような大型動物をとさつともなると大量の血が出てきて骨格も内臓もそれなりに大きく、ネズミやウサギとは訳が違う。
普段フランスに住んでいてパソコン画面ばかり見ている人間をその行為に加担させる東出って結構えぐいなと思った。
東出は、とさつした実感は後になってから出てくると話していて、自らの経験で普段そういう行為をしない人間が行為をした後どうなるかを知っていることも、えぐいなと思った。
実際は犯罪行為でもなんでもないのだが大型動物の命を奪い解体して食す経験を共有するって、悪いことを共犯している感じがする。
日常とは離れすぎていて原始的というか動物的な部分に近すぎて、とんでもない経験を共有してしまっているのではないかと思った。
私なら、一生忘れられない経験だ。というとキラキラした思い出みたいな表現だが、忘れたくても忘れられないし、おそらく死ぬまで繰り返し思い出す。