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はてなキーワード: 別フレとは

2024-08-21

男だけど別冊フレンド読んでたら17歳出産しててビビった

別フレってそういう漫画描くんだ!?って思った

てかテレビドラマにもなってるんだって知らなかった

「あの子の子ども」っていう漫画

2023-07-08

anond:20230707220934

女性向けの作品から離れて男性向けの作品を読もう。

りぼんなかよしちゃおも、付き合ったら終わりだった。マーガレットとか別フレとかも付き合うまでのプロセスと付き合ってからの悩み

2023-07-07

どうやったら抱きたいアラサーになれるか

抱きたい女の方程式公式がわからない。

好きな人はいる。「抱いてみたいな」くらいに思われたらもうこの人生上がりだと思う、実際抱かれなくてもいい。

ただ、その「抱いてみたい」に至る、相手にそう思わせられるすべを知らない。

普段自分は、よく喋る、面白い、みたいな感じのイメージだと思う。わからんけど。

本を読むのも映画を観るのも好きだし、お笑いも好きだ。痛くない程度に日常会話にそれらから得た「おもしろエッセンス」を散りばめている。つもりだ。他者から評価はわからない。

でもそれは、友達と、知り合いと、だから発せられるし、効果があるものだ。「好きな人に」じゃない。

好きな人の前で、自分の振る舞い方がわからない。

これまでに二人の男と付き合い、セックスまでする関係になった。けど、何かよくわからないままに別れた。どっちも20代前半だった。

その二人と付き合ったとき、二人きりでいるとき、いやらしい雰囲気になったとき、致しているとき自分は「何かで見た、読んだ」行動しか取ってない。

かわいい彼女」っぽい行動は、全部小学校の頃に読んだりぼんやら姉が読んでたマーガレットやらから得た言動コピーだった。

「致すときセクシーな感じ」は、映画とか面白半分で見たAVで見た行動の模倣だった。

結局自分は「何かしら見たこと聞いたこと読んだことあるものからしか「ハマる」会話とか流れとかを学べない。そしてそれしか知らない。

二十代前半ならまだ、まだギリ許されたんだろう、だから恋人ができた。

しかし今、四半世紀以上生きた状態で繰り出す「りぼんとかマーガレット主人公っぽいかわいい行動」は、ただの「痛い女」で、同世代とかそれ以上の人には響かない。年下にも引かれる。AVリアルじゃない。

好きな人10歳年上で、優しくて、おおらかな人だ。私から見たらめちゃくちゃ大人だ。そんな人にりぼんやらマーガレットに載っているガキのテクニック通用しない。

りぼんなかよしちゃおも、付き合ったら終わりだった。マーガレットとか別フレとかも付き合うまでのプロセスと付き合ってからの悩みを描いて終わりだった。たまにセックスしても、そっから主人公が何か精神的に成長して終わりだった。

アラサーの、働く女が好きな人意識してもらって、「抱きたい」に至るまでのプロセスを描く漫画なんてなかった。リサーチ不足かもしれないが。

そもそも「何かしらの媒体から得た知識」を基に恋愛してコミュニケーションして抱き合うに至るのが間違いかもしれない。

誰かの模倣ではなく、「好きな人」その人を知り、話し、聞き、探り、それでやっとその人の「好きなタイプ」になれるんだろう。

三十前後にもなって、「ありのままわたしを愛して」なんて思わない。

こんな人間の嫌なところを抽出して人型に成形したようなクズを愛する変態なんていない。

飾らない自分を愛してなんて思わない。

化粧しなきゃ外に出られない。

けど、じゃあ誰が私を抱いてくれる。

どうやったら私はあの人に抱かれる。抱きたいと思わせられる。

私が得た「人間社会で生きていく席」は話すポジションだった。

可愛い美人セクシーは既に埋まっている。

空いてる席は「男性とも対等に渡り合える(マンスプレイニングに対抗できる)賢くて話が面白い人」ポジションだけだった。

けど、それじゃ私はあの人に抱かれない。あの人を抱けない。

私はあの人を抱きたい。抱かれたい。

いい女と思われたい。

また会いたいと思われたい。

せめてキスだけでもしたいと思わせたい。

あの人に求められたい。

誰か私に抱きたくなる女性モデルを教えてくれ。

2022-01-16

anond:20220116124251

普通の日本人韓国が嫌いではないか韓国文化日本で広まっているんだが、

それと国家間信頼関係は完全に別フレームだから

ラーメン屋を含む中華料理屋は日本全国あちこちにあるけど、中国という国を信用してる日本人は少ないでしょ

2020-12-31

パプリカ」と嵐の「カイト」と米津玄師

アイドルグループ「嵐」2020年いっぱいで活動を休止する。最後テレビ歌唱12月31日の「紅白歌合戦」だろう。

おそらく「紅白」で披露するメドレーにはNHKの「NHK2020ソングキャンペーンタイアップしていた「カイト」も含まれるはずだ。

本来ならば7月24日東京オリンピックが開幕し様々な種目の試合結果に世間一喜一憂しているはずであった。

嵐が7月29日に発売した「カイト」はオリンピックを初めとするNHKの各所キャンペーンで大々的に使用される意図があったことは明白だ。

また嵐自身活動休止という事情を踏んで、20年以上に及ぶその活動の総決算ファンへの忘れ形見として製作陣やリスナーはこの「カイト」を据えてもいた。

そして国家総力を挙げた一大イベントアンセム日本トップアイドル記念碑を兼ねたこ楽曲トータルプロデュース制作したのは、これまた稀代のカリスマとして君臨しているシンガーソングライター米津玄師である

まあ、ここまでは周知され切った事柄であり別段僕が説明する必要もないのだが、日本という国の2020年という時代を背負うことを予め定められたこの激重プロジェクトに「カイト」はどのように応えようとしたのか僕なりに感想を書き連ねた。

合唱曲としての親しみやす

米津は前年にもNHKタイアップソングとして「パプリカ」の書き下ろしプロデュースを行っている。

結果として「パプリカ」は2019年を代表するヒットソングとなったが、その一要因として歌唱グループであるFoorinの愛らしさと無邪気なダンスがあげられる。

バズヒットの現代において「パプリカ」も例にもれずそのダンスを真似するムーブメントが起きた。「パプリカ」がEテレで繰り返し流されたことやFoorinメンバーと同年代である小学生が親近感を覚えたことも相まって、運動会の催しとして「パプリカ」のダンス披露する小学校が続出したことはこのヒットの象徴出来事であった。

おそらく「カイト」のキャンペーンはこの流れを踏襲していた。「パプリカ」と同じように運動会使用される想定はもちろんとして、「パプリカ」に親しんだ子どもたちの門出を激励する卒業ソングとしても使われることをNHKサイドは期待していたように見える。

ともすれば「高度な技術を持っていない素人でも合唱伴奏がそこまで難しくない曲を」という注文が米津側に与えられたはずだ。現に「パプリカ」にせよ「カイト」にせよ歌唱音域は1オクターブ半以内にコンパクトに収まっている。コードもところどころ4和音がでてくるものの実際に演奏すればわかるとおり、転回系を利用すればほとんどコードフォームを変えることない上に指の移動も少なくスムーズな運びとなり難易度の高くない造りになっている。

(そうはいっても「パプリカ」の”晴れた空に種をまこう”のノンダイアトニックコード、「カイト」における”高く飛んでいくカイト”の激しい跳躍やサビでの拍の取り方など、個性的な米津節に我々は始め戸惑うのだが)

また学校教育の場での合唱曲として「カイト」を見たときコーラスワークの絶妙塩梅は見事。基本ユニゾンだが、要所要所で二宮が3度上、松潤が1オクターブ下を歌っている。嵐はユニゾン主体だが大野がメイン、桜井ラップ二宮が上ハモ松潤が下ハモ相葉ファルセットという役割分担がありアレンジしだいでは主メロとは別フレーズを歌うらしく、このメンバー構成を活かしたようだ。なにより飽きが来ないよう工夫しつつもそれを不特定多数素人が寄せ集められて歌ったとしても収集がつく程度の複雑さに収めているのがいい。ブルーノマーズプロデュースの「Whenever You Call」ではブルーノ自身も加わりふんだんにコーラスを織り交ぜ比較的高レベルパフォーマンスを見せていたが、とっつくやすさで比べると格段に「カイト」が勝っていた。

カイトというモチーフ

なぜ米津玄師カイトというモチーフで曲を書いたのか。未来を切り開くポジティブさや成長のイメージとして飛翔体モチーフに据える曲はあまたとあるがなぜ凧なのか。

同じくNHKテレビ番組とタイアップしヒットした「地上の星」や「365日の紙飛行機」も飛翔するものから見た世界を歌っている。

これらと「カイト」の大きな違いはカイトは出発地点と着地地点が同一であるということである

地上の星」は上空を見渡すことのできる渡り鳥超人的な視座をもった存在として捉え、それに動乱する世界を切り抜ける道筋を教えてくれと訴える曲である。「365日の紙飛行機」は惰性で飛ぶしかない紙飛行機を世相に揉まれる人の人生に準え愚直に一日一日を丁寧に過ごすことを説いた曲である。どちらも世界は常に変動的なものであり人は同じ環境に居続けられないという前提がありそれを踏まえてリスナー冒険心を鼓舞する内容なのだ

対照的に「カイト」におけるカイトは作中では常に同一のものとして描写されているため変化がない。そもそもカイトは糸で繋がれているため自由に飛んでいけない物体である

さら面白いのはこのカイト最初から空に浮かんでいるということだ。”小さな頃に見た”からの冒頭4フレーズは、かつて”憧れた未来”は別世界一番星の横に鎮座しているようだったとその様をカイトに例えて”ぎゅっと強く握りしめていた糸”というフレーズで夢に邁進していたことを説明している。それが二番に入ると成長した今では”カイト”や”憧れていた未来”は”とても古く小さい姿”で”右ポケット”に忍ばせておく程度のものになってしまったと幻滅に近い感情吐露する。そして大サビでそれでもこの小さいカイトが嵐のように厳しい世間を生き抜く指標であり心の拠り所であることを告白する。

まりカイトとは未来に向かって邁進する人間のもの象徴ではなく彼らの先進の当たる親や先輩といった人々なのである。この曲が巧みなのはカイトを地上から見上げる立場であった主人公もまた今は後進から憧れを背負ったカイトであるという双方向性を示している点だ。

カイトへの郷愁や憧れを語りつつもサビでは”君の夢よ叶えと願う”。大サビに至っては”嵐の中を”からの2フレーズカイトの先に焦がれた自身の憧れを歌いつつ、続く”悲しみを超えて”からは人々の模範となるカイトの先から視点に移る。何よりすごいのは憧れを一身に集め自身の悲しみすら超越して前に進んでいけと言った直後に”糸の繋がった先まで”帰ろうと優しく口添えしているところだ。

人は絶えず不安孤独に苛まれ瀬戸際で生きている。そんなきりきりした思いを汲んで「幼年期に自分形成した、自分が無邪気でいられた場所や人はカイト手綱を握る人のように自分の足元にある」「自分カイトとなってもカイトを揚げる側だった頃の場所はなくならない」と安心感を与える文句を曲のハイライトに持ってくる米津玄師の慈悲深さや度量の広さには舌を巻くし、米津玄師がこの時代に指示される所以垣間見た気がする。

パプリカ」との関係

パプリカ」と「カイト」には”らるらりら”や”一番星”など共通するワード散見される。また「パプリカ」出だしのキーはA、「カイト」出だしのキーはEであり下属調関係となり、DかD#かの違い以外は殆ど同じ調である。サビでは短3度下のメジャーキー、つまり平行調同主調に移るという同じパターンの転調を両曲とも行っている。

これは「パプリカ」と「カイト」は同じ世界観にあり同じ事象を取り扱っているとみていいのではないだろうか。「パプリカ」も先人から思いを受け取ることや後進に託していくことについて語った曲であり、幼少期のシンボルとしてAやEのキーが設定されそこからの成長として短3度下への転調があると。

そう考えれば「パプリカ」内でミステリアスな”誰か”や”あなた”の存在、また”パプリカ”という言葉意味も合点がいく。「カイト」の世界に照らし合わせればこの”あなた”は自分たちが進む道を作り上げたこれまでの先人たちや自分たちが歩む先の未来にいる自分自身のことだと見なすことができる。

パプリカピーマンには明確な違いはない。ただ主観的に派手な色味であることや比較甘味があること等で区別されている。ピーマン実像象徴とすれば、パプリカ子どもが憧れる華やかな夢のようなものなのだ。そしてパプリカ花言葉は「同情」「憐み」「君を忘れないである。僕の解釈では”パプリカ”もまた子ども次世代を見守りかつて子どもだった自分郷愁を寄せる歌である

よって「パプリカ」はサビにおいて、”花が咲いたら”つまり夢が叶えばその立場で私欲を満たすような「実になる期間」をすっ飛ばして後進育成のために種を蒔くことを誓い、自分の描いた夢が自分が憧れた上の世代に伝わっていてほしいと願っている。

カイト」が下世代への決意を固める歌であれば「パプリカ」は上世代に向けた誓いを告げている。

パプリカ」の”会いに行くよ”から始まるCメロは、憧れの先人がいる「カイトの先」の次元まで自分もたどり着いてみせるという宣誓なのだ。そして「パプリカ」の宣誓に対し「カイト」は”君の夢よ叶えと願う”と励ましのアンサーを告げている。

これに加えて5人組の子集団であるFoorinと、ローティーンから20年以上活動を続ける5人で構成される嵐という、歌い手自身の対比や世代間の違いにも意識して両曲が制作されたとまでいうのははたして考えすぎだろうか。

 

カイト」という曲は「パプリカ」の続編であり無邪気に夢を語っていた子どものその後を捉えた曲なのだと思う。荒れ狂う嵐のなかで傷つくことがあっても、かつての空を見上げていた自分のように下から羨望の眼差しを向ける子どものためにメッセージを発信し続ける姿を描写し、「パプリカから託された”らるらりら”がしっかり自分たちに届き溢れ出していると返答している。

そしてそんな自分を見守ってくれた親の様な存在や友人や”あなた”が投げかけてくれた思いは不変で誰でもそこに甘えたっていいと働きづめの同世代も励ます

様々な期待を抱え自分を追い込みながら高みを目指すトップアスリートや人気絶頂アイドルが抱えるドラマテック感傷のみならず、信条のもと日々頑張る人々や未来に向かって前進する若者なら誰でも共感できる叙情が「カイト」にはある。

この物語徳島実家から独立ニコニコ動画からトップクリエイターへと様々な場面や人々を経ながら飛躍していった米津玄師自身にも当てはまる。

そして「カイト」はファンにとって嵐からの餞別でもある。

ジャニーズではデビュー以前で持ち歌のないJrメンバーコンサートテレビ番組で歌唱する場合披露されるのはもっぱら先輩の曲だ。このレパートリーには今は活動していないグループや退所した者の曲も含まれる。歌い継ぐことをテーマにした「カイト」をジャニーズJrが歌うときそこには確実に嵐のメンバーの幻影が守護霊のように現れる。この先何があろうとジャニーズ存在する限り嵐という存在が薄れていくことはないのだ。

オリンピックというドラマに加えるエッセンスや嵐というアイドルグループメモリアル的な意味合いをしっかりクリアしながら、普遍的人間感情を見事に描写しただけでもとてつもないが、それでもなお米津玄師作家性は微塵も薄らいでいないことでその才能の大きさを再確認させられた。ただの合唱向けのバラードとして割り切れないエッジがこの曲には確かにあって、そういう細やかなセンス米津玄師足らしめているのだなと唸ってしまった。そしてそれだけの才能の上に立ちながらこの曲を自分のものにしている嵐のタレント性にも感心してしまった。

2016-06-20

社会から隔絶されてるベテラン少女漫画家

24年組とかそういう少女漫画の枠を超えた~みたいなひとじゃなくて、

90~00年代とかにマーガレット別フレりぼんとかで活躍してたような少女漫画家最近アラサーとかターゲットにした漫画描いてるけど、

マジ?何十年前のバリキャリイメージ恋愛観?結婚観?みたいな内容が多くてびっくりする。

青年誌出張するような漫画家だとまた違ったりするし、全体がそうってわけじゃないと思うんだけど、

私の見る範囲では漫画家しかやってないと社会一般的な考えとか流れとかそういうのから置いてかれるんだなーって思うことが多い。

 
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