はてなキーワード: 有益とは
Gemini君の回答
「国家はなぜ衰退するのか」は、教養本や自己啓発本のような、軽い読み物として分類されるべきではありません。
この本は、経済学、政治学、歴史学を融合させた、学術的な研究に基づいた 社会科学 の書籍です。
具体的には、 政治経済学 や 開発経済学 の分野に属します。
内容は、国家の盛衰を決定づける要因を、政治制度と経済制度の相互作用という観点から分析したもので、歴史的な事例を豊富に用いながら、説得力のある議論を展開しています。
そのため、教養を深めたい、社会の仕組みを理解したいという人には非常に有益な本ですが、気軽に読める自己啓発本のような軽い内容ではありません。
この意見にはいくつかの問題点と矛盾が含まれています。また、いじめを正当化するのは、職場の健全な環境づくりや倫理的責任の観点からも大きな問題です。
いじめを「庶民の武器」と称し、特定の人を排除する手段として認めることは、職場の安全と平等を損ないます。これは法的なリスクを高め、組織の評判や雇用者としての義務にも悪影響を及ぼします。厚生労働省のガイドラインに基づくと、職場のいじめ・ハラスメントは法的に禁止されており、組織にはこれを防止する責任があります 。
いじめと追い出し部屋の使用は、組織としての対応を誤る要因となります。追い出し部屋は非効率的で、人材の適切な管理とは言えません。代わりに、職場の問題がある従業員に対しては明確な評価基準に基づき、必要に応じたサポートを提供するなど、建設的な対応が求められます。
3. 「ハッタショ」への偏見
発達障害を抱える人を「ハッタショ」と表現し、いじめの対象にすることは偏見に基づいた不適切な対応です。現代の職場では、個々の違いを理解し、多様なニーズに対応するインクルーシブなアプローチが求められます。障害者に対する差別や偏見を助長する行動は、職場の倫理基準や法的要件に反するものです 。
「庶民の武器」としてのいじめは暴力行為の代替としていますが、これは建設的な解決策ではありません。対話や適切なフィードバックの提供が可能であり、いじめという手段を正当化することは論理的に矛盾しています。職場のトラブルは、正当なフィードバックを通じて解決することが求められます。
穏当な対応策
問題のある被雇用者と面談を通じ、問題の原因や改善の可能性について話し合うことは効果的です。問題を特定し、改善目標を設定して、明確な指導を行うことで相互理解が深まります。
繊細でコミュニケーションに課題がある被雇用者には、メンターやコーチのサポートを提供することも有益です。業務上の悩みやスキル向上のための支援を行い、安心して成長できる環境を提供することが、職場全体の向上につながります。
適正に基づく配置転換や、個人に合った役割を明確にすることで、負担や不満を軽減できます。人事部門や管理職が適切な支援を提供することで、従業員の強みを生かし、職場の調和を維持することができます 。
職場では、お互いの個性を尊重し、建設的なコミュニケーションを図ることが不可欠です。いじめは長期的に見ても悪影響を及ぼし、代替手段としては不適切です。
我々は生成AIについて海外の事例や言論も参考にする必要があるため、著作物や二次的著作物を無断学習した成果であるところのGoogle翻訳やDeepLなどの自動翻訳ツールは容認されなければならない。
また生成AIを活用した事例は多数あるが、これらの利益は社会にとって有益なため、勿論受容されるべきである。
https://mirai-works.co.jp/business-pro/business-column/generative-ai-case-study
https://metaversesouken.com/ai/generative_ai/japanese-companies/
データセットがクリーンなら問題ないという意見も見られるが、基盤モデルから再構築されたクリーンな生成AIを使用しても炎上している現状があるので、許可されるべきではない。
https://x.com/GEMVOX183838/status/1849636540877766955
また投稿された画像が生成AIによるものかを判定するために無断学習の成果物であるHiveを使用することも必要になるだろう。
30万以上のユーザーが画像生成ユーザーに絶滅して欲しいという現実を踏まえ、画像生成AIのみを規制するための法整備が直ちに必要だと考えられる。
https://x.com/innocence_SAC/status/1850747057490800900
あのですね、こういったご質問にはですね、非常に慎重にお答えしなければならないわけであります。まさにですね、肛門や性についての発言というのはですね、社会的な常識やモラルが問われるところであると、私はそのように考えております。
えー、このような質問に対してですね、私から申し上げられるのは、いいですか、まさに公共の場での発言には節度が求められるということなんですね。リベラル、保守、そういった思想の違いにかかわらず、他者の尊厳を尊重することこそが、健全な社会を築くために必要な土台であると、そう思う次第であります。
ですから、このような問いかけはですね、国民の皆様にとっても有益な議論とは言い難い。そういった意味でですね、節度ある表現を心がけていただきたいと、私としてはそう申し上げているわけであります。
や野次はやめてください。
「仕事の役に立つ」「自分を成長させる」「人生観が変わる」タグがついた記事を必死にブックマークするが、一度も見返さない
「この世のすべての知識を手に入れよう!」と張り切ってブックマークを増やしすぎた結果、カテゴリ整理が手に負えず、結局全部「あとで読む」にまとめられる。
「あとで読む」記事を1000個ブックマークしたけど、やったことは0個。
「こんな有益な記事があったのか!」と自分で発見し感動するが、よく見たら数年前に自分が保存してたやつだった。
「はてブでコメント書けば、友達と会話した気分になるからもう孤独じゃない」って言ったら、友達に「もっと孤独になるやつ」と突っ込まれる。
「またブックマークが増えたけど、読まないといけないプレッシャーがすごい」とつぶやきながら、そのプレッシャーを乗り越えるために新しい記事をブックマークする。
ブックマーク数1000の有益そうな記事を見つけたのに、内容が「意識高い系の朝ごはんは何がいいか?」というどうでもいいものだった。
他人のはてなブックマークのコメントを見て、「この人と価値観合うな〜」と思いきや、全然違うジャンルばかりブックマークされているのを見つけてびっくりする。
いざ「整理するぞ!」と思った瞬間、急に気分が重くなり「来世の自分に任せるか…」とタブを閉じる。
「みんなが保存してるし、これは読むべきだ!」と思って保存したけど、一度も開かず「人気記事に流されてるだけじゃん」と冷静になる。
ChatGPTは多くの人々にとって有益なツールであり、知識の共有や問題解決に役立ちます。これを「バカに送りつける」と表現することで、ChatGPTの価値を誤解させる可能性があります。
このような表現は、AI技術やその利用者に対するネガティブな印象を助長する恐れがあります。AIは多くの分野でポジティブな影響を与えており、その利用を軽視することは適切ではありません。
「煽りが定着してきた」という表現は、他人を挑発する行為を正当化するように聞こえます。煽り行為はコミュニケーションの質を低下させ、建設的な対話を妨げるため、避けるべきです。
他人を「バカ」と呼ぶこと自体が倫理的に問題があります。尊重と共感を持ったコミュニケーションが重要です。
このような意見を持つことは自由ですが、他者への影響や社会的な影響を考慮することが重要です。どのような意見でも、建設的で前向きな対話を心がけることが大切です。
この意見は、深い無力感や疎外感、また社会や政治に対する不信感を強く表現しています。以下のように、感情に配慮しつつも、意見の中に潜む問題点や矛盾点について考えてみます。
1. 共感と受容
まず、この意見を表明する背景には、投票や社会参加を通じて得られる成果や意味に対する深い失望があることが感じ取れます。多くの人が投票を重要視する中で、それを「無意味」と感じる彼の気持ちには孤立感や疎外感が含まれているため、理解しがたいと感じてもまずは共感し、理解しようとする姿勢が大切です。
2. 選挙制度に対する不満と疑問
この意見には、選挙が「完璧な制度だと信じられている」と感じていることへの違和感が表れています。確かに選挙制度は不完全で、現行の民主主義においてもさまざまな課題があります。若い世代の意見が反映されにくいことや、一票の格差、投票率の低さが問題視されていることは彼の意見を裏付ける部分でもあります。この点については、現状を認めつつも、選挙制度の改良が続いていることや、多様な意見が必要であることを伝えることで、共感と理解が生まれるかもしれません。
一方で、社会や政治に対して「どうでもいい」という姿勢は、彼が無力感を抱いている理由とも矛盾します。「どうでもいい」という考えが続けば続くほど、社会が変わる可能性はさらに低くなり、結局は自らの意見が反映されない現状に逆戻りします。この点で、「無関心」ではなく「異なる形での関わり」や「発言の場を変える」ことが一つの解決策となる可能性を示唆することも有効です。
投票に行くことが「自己満足」や「人に褒められるため」と捉えている彼に対しては、投票行為の根本的な意義を再考してもらうよう促すのも有益かもしれません。投票は、完璧な制度ではなくても、少しずつ社会に影響を与える手段の一つです。また、多数の人々が参加することで、他者に流されない個々の意見を社会に届けることが可能になります。これが必ずしも全ての不満を解決するわけではないものの、投票を通じて意見を発信する価値を伝えることも有効です。
まとめ
この意見に対しては、彼の感情を理解しつつも、現状の不満が他の参加者にとっても共有されていることを伝え、対話の中で自分の意見を発信する方法を見出せるよう促す姿勢が大切です。
Xでは、コミュニティノートという、投稿に背景情報を付加できる仕組みが運用されています。特に、デマや陰謀論に対してコミュニティノートが付与されているのはよく見かけられます。
ノートは、コミュニティノートの参加者として登録した人が匿名で(正確にはコードネーム制で)ノートを書いたり、他の人が書いたノートを評価する仕組みがあります。
コミュニティノートに参加してノートを書くための敷居はそんなに高くないので、的外れなノートやイタズラが書かれることもあります(日本でも外国でも、選挙絡みやイーロン・マスク絡みの不適切ノートはよく見られます)。
そのようなノートは評価者から低評価を受けるため一般ユーザーに表示されることは滅多にありません。ノートが適切に評価されるように、コミュニティノートは「追加の背景情報が必要ない理由を説明するノート」を書く機能があります。これは、要するにノートに対する反論です。不適切なノートに対しては誰かが反論を書いておくことで、通りすがりの評価者がノートを正しく評価するのを手助けします。
ノートは、根拠となるURLを示すことが推奨されています。反論においてはよくあるのは、
「~~のような指摘はコミュニティノートの目的ではありません。コミュニティノートではなく返信や引用で指摘してください。コミュニティノートのルールを再確認ください https://communitynotes.x.com/guide/ja/about/introduction 」
のようなものです。定番なのは、パクツイ(無断転載)に対して「無断転載です」というコミュニティノートが付くと、「無断転載の指摘はコミュニティノートの目的ではありません」という反論が付きます。
この記事で言いたいのは「いや、コミュニティノートのルールにそんなこと明記されていないよ」ということです。
コミュニティノートは反論も含めて文字数制限が厳しいので、主張をこの記事にまとめました。これを書いた人はこの記事を適宜引用して利用しますが、もちろん、他の人も自由に引用したりリンクしたりできます。
コミュニティノートの根幹は「さまざまな視点を持つ十分な数の評価者が“役に立った”と評価したら、そのノートは表示される」ということだけです。
コミュニティノートのドキュメントは、どのような観点で評価すべきかということに重きを置いており、評価者によって意見が分かれることが大前提となっています。
評価者の意見によらず、「こんなノートを表示すべき」「こんなノートは表示しないべき」という具体的なことは、コミュニティノートの公式ドキュメントにはほとんど書かれていません。
ですから、コミュニティノートのドキュメントのURL( https://communitynotes.x.com/guide/ja/about/introduction など)を出しながら、「コミュニティノートのルール」を根拠にノートへ反論するのはごく一部の例外を除けば間違っています。書いていないことを書いてあるかのように見せかけて引用するのは悪質な印象操作であり、適切な評価を妨げてしまいます。
ノートへの反論は、あくまで自分の言葉で、コミュニティノートのドキュメントに頼らずに行うべきです。ノートが表示されるかどうかを決めるのは、ルールではなく、評価者の意見です。
ここからは、上記の主張を補強するために、コミュニティノートをどう評価すべきかについて、コミュニティノートの公式ドキュメントに実際には何が書いてあるのか説明します。
意外なほど、どんなノートを評価すべきかについては明記が避けられています。書かれているのはあくまでコミュニティノートの「目的」であって、その目的をもとに個々のノートを評価するのは評価者の仕事です。
ただし、ドキュメントを全部読むと分かりますが、一部例外的に、不適切なノートについても言及があります。そのようなノートに対する反論を書く時だけは、ルールのURLを根拠としてもよいでしょう。(この記事最後のまとめを参照してください。)
コミュニティノートは、誤解を招く可能性があるポストに、Xユーザーが協力して役に立つノートを追加できるようにすることで、より正確な情報を入手できるようにすることを目指しています。
ノートの中身に言及されました。評価者は「役に立つノート」かどうかを評価することが求められています。
また、「誤解を招く」という用語が登場しました。この用語はXのインターフェース上などでも使われており、コミュニティノートの対象として「誤解を招く可能性があるポスト」が想定されていることが分かります。
ただし、注意しなければならないのは、「誤解を招く」かどうかの判断もまたノートの評価者に委ねられるということです。どのようなポストが誤解を招くとみなされるべきか、コミュニティノートのドキュメントには明記されていません。
「陰謀論は誤解を招く」、「無断転載は誤解を招かない」のような区分けはコミュニティーノートのドキュメントに一切書かれていません。個々のケースに応じてそれを判断するのも評価者の仕事のうちです。
つまり、「この投稿は誤解を招いていないのでコミュニティノートは不要です。コミュニティノートのルールを再確認してください」のような反論は不十分です。反論は、他の評価者が「これは誤解を招いていない」と納得してもらうのが目的であり、コミュニティノートのドキュメントはその根拠になりません。
Xがノートの作成や評価を行ったり、ノートに介入したりすることはありません(Xルールに違反している場合を除きます)。Xでは、表示されるノートをユーザーの意見によって決めることは、正確な情報を入手するのに役立つ背景情報を追加するための公平で効果的な方法であると考えています。
Xがノートの評価を行うことはないと書かれています。もちろん、評価という実作業とルール整備とは別のものですが、ここでも「表示されるノートをユーザーの意見によって決める」ことが強調されています。
「○○のようなポストに対してはノートは不要」といった基準をXの側で用意していないことを示す記述です。どんな内容の投稿であっても、評価者がノートが必要と判断したのであれば、ノートが表示される可能性があります。
Xでは現在、人々がさまざまな視点から役に立ち、参考になると考える背景情報を、コミュニティノートが確実に提供できるようになることに焦点を合わせています。
コミュニティノートは、さまざまな視点からユーザーに有益で役に立つ背景情報を提供するために作られており、Xのその他のポリシーやルールを補完することを目的としています。
コミュニティノートの目的はさまざまな箇所で繰り返し説明されています。
コミュニティノートの理念を説明するページであり、特にノートの評価にあたって参考になるページです。
コミュニティノートは、ポストを読んだユーザーが、常により優れた情報を把握できるように、有益な背景情報を提供することを目指しています。ノートは、取るに足らない内容を気軽に投稿したり、個人的意見や侮蔑的な内容を投稿したりする場所ではありません。ポストについてや、それが誤解を招くかもしれない理由について、自分とは反対の意見を持つ人々も含め、誰もがより深く理解できるように、明確で根拠に基づいたノートを作成しましょう。
この箇所は、珍しく不適切なノート内容に言及されています。「取るに足らない内容」は結局評価者に委ねられるのでさて置いて、「個人的意見や侮蔑的な内容」についてはノートとして適切ではありません。このようなノートに対する反論としてなら、コミュニティノートの理念を引用することができます。
「個人的意見」の逆は、「客観的事実」です。そのため、客観的事実をもとに指摘しているのであれば、そんな指摘はコミュニティノートでしなくていいと思ったとしても、コミュニティノートの理念を引用できません。自分の言葉で反論すべきです。
コミュニティノートは、異なる視点を持つ可能性のある人々も含め、あらゆる人々がポストで議論されている問題について、より深く理解できるようにすることを目的としています。あなたの意見に同意しない可能性のある人々にも、有益性と敬意を感じ取ってもらえそうな投稿を心がけてください。ヘイト表現、中傷的表現、扇動的表現は避けてください。
ここでも、「ヘイト表現、中傷的表現、扇動的表現」がノートにふさわしくない内容として言及されています。このようなノートに対する反論としても理念を引用することができます(ただし、ヘイト表現などはXルールにそもそも違反するため、ノートに反論するよりもノートを報告してしまうほうが適切かもしれません)。
対象のポストが誤解を招く可能性があり、追加された背景情報が事実の理解に役立つとノートで主張する場合、そのノートが十分な数の協力者により「役に立った」と評価されると、対象のポストに表示されます。
コミュニティノートは、Xで誤解を招く可能性のある情報に遭遇したユーザーに、役に立つ背景情報を提示することを目指しています。
役に立つノートと役に立たないノートの特徴が列挙されています(「品質の高い資料を引用している」など)。また、役に立つノート・役に立たないノートの例も掲載されています。
これらはノートの評価に対する直接的な指針となりますが、ここで挙げられている「品質の高い資料を引用している」といった特徴は実際にノートを評価する際に評価者が選択する選択肢そのものです。
つまり、これらの指針に当てはまるかどうかを評価者が個々の視点で評価すべきということであり、評価の根拠として使えるようなページではありません。
コミュニティノートのガイドの全てのページを見ても、どのようなノートが適切か、適切でないかの具体的な説明は限られています。理念のページで以下の内容が不適切とされている以外は、すべて目的の説明や評価制度の説明です。
よって、コミュニティノートに対して、以上の内容に当てはまらない反論を行いたい場合は、「コミュニティノートのルールをご確認ください」のようにコミュニティノートのルールを根拠とした反論はできません。
SNSってほんとクソだよなぁって思うんだよね。ゴミ情報の下水道でしかねぇ。
対面で会ったこともねぇ連中の私生活の開陳を見せられて何が面白いんだ?
お前がいくらネット上で俺と親しいようなフリをしようと、すげぇ浅ぇの。
画像とか動画のようなコンテンツだとしても、イラッとするようなのが多いんだよな。
誰かを非難するためだけに書かれた漫画とか、選挙動画とか、俺は興味ねぇの。
猫とかミームとか見てるとキレそうになるんだよね。
なんでこのゴミを俺に見せるんだろうなって。
numpyのアップデートを追う?githubをRSSフィードで追うとか、そういうのでいいわけで、Xのnumpyアカウントをフォローする必要はねぇよな?
最新の数学研究について知りたい?arxivをRSS購読すればいいよな?
なんで発信してるの?そんなゴミ情報を。男女論?弱者男性論?フェミニスト?ウゼェだけだろ。
Xの最もクソな点は、おすすめ、トレンド、リツイート。俺の興味のないことを表示するからイライラが勝る。
ぐらいのもんだな。
その日は彼氏とデートだったので、めかし込んでいたわけであるが、如何せん、デート先が中華街だったものでしこたま食べてしまって腹が苦しかったわたしは、帰りの電車は座って帰ることを切望していた。
この時間帯ならガラガラであることは知っていたので、予想通りのガラガラの電車に乗りこみ、わたしは椅子に座って帰路についた。
満腹感と電車の揺れが、朝から歩き回って疲弊した身体に心地よく、睡魔がわたしを襲う。その睡魔にあらがえずにうとうと、と船をこぐ。
まどろむ感覚が心地よいが、完全に意識を手放す醜態は公衆の面前で晒すわけにはいかなかったので(これは自分のプライドと美学の問題)、なんとか意識を持ち堪えていたときのことである。
三人がけの椅子の右端に座っていたわたしは、左端に男が座ってきたことを視界の端で認めた。
いつもなら人が近くにいることを認識したら、あとはもう何も気に留めないのだが、この日ばかりは違った。
男が、定期的にこちらを向いてくるのが分かったからである。じと、と嫌な汗が首筋を伝った。その嫌な感覚に眠気はぶっ飛び、頭は完全に覚醒する。
スマホを弄ってネサフをして気付いていないフリに努めていたが、明らかに男はこちらを何度も凝視してくるばかりか、柔軟のようにして、身体をこちらに向けてくるのがわかった。流石にきもちが悪い……と警戒心を強めた。
しばらくして男が「眠気のために身体が揺れる」演技をしだしたのがわかった。
何故か演技と断定するのかと言われたら根拠には薄いかも知れないが、電車で眠いのを我慢してるときって、身体の揺れって電車の進行方向と逆に体を戻そうとするよね?少なくともわたしはそうだ。
だって重力と慣性の赴くままに船を漕いでたら、そのうち車内をスピンしていく羽目になるだろうから。怪我したくないから、眠るのを我慢しようとして、眠くても意識的に大きく身体を起こしたり姿勢を正したりするはずだ。
しかしながら、男にはそれが見られない。こちら側のみに身体が揺れるのを繰り返しながら、地味に距離が近寄ってくるのだ。
となると、「あ、こいつ停車の勢いにかこつけて胸に飛び込めるように距離をはかってきてる」となんとなく予想がつく。
肌がピリつくのがわかる。こいつが仕掛けてくるのは一駅後か、二駅後か。ただらぬ緊張感だが、わたしは努めて冷静を装った。
向かいにすわるお姉さんが不安そうにわたしを見ている。確かにこんなやついたらそんな顔もするよね、と思う。思っているだけで逃げないのは、過度な緊張感のせいで、「席を移動する」という択がすっぽり頭から抜け落ちていたのだと今にして思う。
そして一駅後、停車のタイミングより一拍おくれて男が倒れ込んでくるのがわかった。
瞬間、わたしは男に対して背中を向け、膝を抱えるようにして限界まで身を小さくした。
胸、もしくは膝にダイブされるくらいなら背中にぶつかるほうがマシだと感じたし、男のダイブが避けられるなら御の字だと思ったからだ。
──男の頭はわたしの抱えた膝のわずか数センチ横を横切り、そして椅子から転落した。
あまりの近さに「うっっっわ!!」と叫んでしまったが、それよりもガッドン!!といった鈍い衝撃音もなかなかインパクトがあった。たぶんひっくり返ったから、後頭部から床にダイブしたんだろう。あまりの勢いのよさと痛みに男が足元で呻いている。気持ち悪い。
向かいのお姉さんがドン引きしている。そのやや離れた位置に座る男性もドン引きしている。わたしもドン引きしている。だって足下やぞ。
男はふらり、と立ち上がった。
ふらふらした足取りは、演技なのかガチなのか。判断がつかないが、向かいのお姉さんのほうへ男がたたらを踏んだ。おいまじか。「ヒィ…」とお姉さんが小さく悲鳴をあげながら、首をすぼめて男の手から逃れようとしていた。
最終的にお姉さんの後方にある窓へ手をついた男は、そのまま無言でふらふらと降車した。
向かいのお姉さんと男性と目が合う。二人とも強張った顔をしたいた。たぶんわたしも似た顔をしてるだろう。
張り詰めた空気感は、男が降車した直後に扉が閉まり、発車したことで少し和らいだ。ふう、と大きく息をついたことで、失っていた冷静さを取り戻そうとする。
彼氏や男友達、あるいは弟と一緒に居るときにはこんな珍事には遭遇しない。したことがない。決まってエンカウントするときは一人だ。
第三者から見ても知人だとわかる男がいる女には、エンカウントしてこないんだろう。選んでやってるんだろうな。──とわたしは辟易とする。
経験上、白い肌のヒョロガリの男がエンカウントしてくる。今回もそうだった。
体型に恵まれていない男性でも勝てると思って、女性ひとりを狙ってきているのだろうか。
ばかやろう、こちとらパチンコ台抱き上げられる怪力女だぞ!などと胸中でひとりごちていたのだが、ある種の現実逃避だ。直接的な被害はなかったとはいえ、流石に胸に燻るなんとも言えない不快感は消せなかったからだ。
まあ、つまるところ、これを機にボクシングでも習おうかと思って近くのジムの体験を申し込んだ。
変質者のソロ討伐出来ないときついな、と思ったのもあるけど、今後ソロ討伐の機会がなくとも、それを習うことによって得られるスキルなどは有益になると思ったからだ。
自衛できるように、手段と知識があるに越したことはないだろう。備えあればなんとやら、だ。
しかしながら、備えることの大切さを実感したとはいえ、あのジットリとした嫌な緊張感は不快だった。
全神経を逆立てて警戒するのは、想像以上に精神が摩耗する。自衛のために常在戦場の心構えで警戒しろ、というのはいささか不条理ではなかろうか。そんなの常人ならば耐えられまい。
ただ、警戒することなく日常を送りたいだけだ。戦場でもあるまいし、兵士でもないのだから。
この日常にスパイが紛れ込んでいて、いつ襲われるかわからない!なんてハラハラ感を日常に求めているわけではないのだ。
性別に関係なく「兵士のように精神をすり減らしながら警戒することなく日常をおくれる」ということこそが、モラルある人間の成せるものではないだろうか。それこそが正常な人間の営みだと思うのだ。
どちらか一方に配慮や負担を強いるのも、理性ある文化的な人間的な営みとは言い難いとは思う。
人間的モラルが欠如しているというか。人間的に相互に思いやる気持ちがあれば、世界のバグを少しでもデバッグできるんじゃないかと思うが、どうやらそうもいかないらしい。ああなんて素晴らしき現世、やってらんねーな。
嫌なエンカウントから思う愚痴が思ったよりも壮大になってしまった。
少なくともわたし自身はデバッグ出来るように、他者に思いやりのある人間でありたいと望むが、悪意がある限りは今回のように意図を持って回避、あるいは悪意を返すのだろう。南無三。