「地元」を含む日記 RSS

はてなキーワード: 地元とは

2024-03-19

今更「82年生まれキム・ジヨン」を読んだ最初感想

この本しんどいな。

「82年生まれキム・ジヨン」を読んだ最初感想がそれだった。

土曜の夜23時、昼間参加した友人の結婚式の疲れを引きずりながら、少し暗くした部屋でベットに寝そべりダラダラと読んでいた。隣のリビングからは、夫が録画した刑事ドラマを見ている音が響いてくる。あしたは日曜で何も予定がなく、深夜までドラマを見続けるのだろう。美咲も多分、明日は午前中はダラダラと寝て過ごし、パンカップスープ適当昼ごはんを食べ、夕方なんとなく近くの駅ビルの買い物に出かけ、夕食は作るのが面倒になって外食で済ませて帰ってくるのだろう。結婚して1年近く続く何もない週末のいつもの過ごし方。

鈴木美咲1990年まれ28歳。生まれ山梨県で、大学上京するまでは地元自営業を営む両親のもとで特に大きな反抗もなく健やかに育ったと自分では思っている。勉強は小さい頃から得意で、地元進学校に進学した際には、東京に行くことが当たり前の選択肢になっていた。市内の一番偏差値が高い大学はいわゆる”駅弁”の大学で、進学校の中でも勉強のできる子は上京するのが当たり前だった。彼女の両親は東京大学を出て地元に帰ってきた人だったため自分大学上京することに特に違和感は抱かず、自然東京大学を目指した。根が真面目な彼女高校時代勉強に多くの時間を割き、国立大学不合格となったものの、無事都内私立大学合格し、18歳の春に上京した。今年で上京して10年目になる。


彼女母親時代女子が進学するといえば短大だったそうで、その時代東京の4年制大学卒業した美咲母親はそれを誇りに思っている節があり、娘にも上京を勧めた。母が20代の頃、美咲の母方は酒の卸業を営んでいた。当時はだいぶ繁盛しており経済的に余裕があったためか。美咲の母は就職活動をせず地元に帰り2-3年ほど家業を手伝い、美咲の父となる人物お見合い出会い結婚した。父は口下手で商売が上手なタイプではなかったが、家庭の中では優しい父親だった。母がよく癇癪を起こしているのに対し、父が言葉を荒げているのは美咲記憶にはない。花が癇癪を起こすのは大抵父が全く家事を手伝おうとしないからだった。母は父を一生懸命教育しようとしていたが、家事女性がやるものと思っていた父はなかなか身につかなかった。60代になりようやく自分で皿を洗うようになったと最近母が言っている。

美咲に対して、母は今後は女の人も外で働く時代なのだから一生懸命勉強しなさいと強く進めた。美咲の成績が上がると母も喜んだ。東京大学に行くことを賛成し、美咲英語が得意だとわかると英会話塾のパンフレットをたくさんもらってきては彼女能力を伸ばすことに力を注ぎ、美咲外国語大学志望だと進路希望で話すとその大学出身卒業生のエッセイなどを買ってきては彼女の夢を応援した。美咲自身は多感な年頃ならではの母親へのウザさのようなものは感じていたが、基本的には嫌いではない母親だった。


美咲地元にいた頃から一貫して共学で育ってきた。自分自身があまりまれ容姿ではなく、自分ニキビからかわれ、「ニキビ」という知性のかけらも無いそのままのあだ名をつけられてから男子が嫌いになりずっと距離を置いていたため共学ならではの彼氏ができるとか放課後一緒に男子と帰るといった甘酸っぱい青春を過ごすことはなかった。しかし、男子が身近にいることは普通だったし、2つ離れた年下の弟もいた。美咲勉強ができたが、それに対して男子比較されて何か不都合を感じたことはなかった。勉強ができる人は男女関係なく一目おかれたし、男女関係なく進路を好きなように決めたし、母のように女子短大といった時代でもなかった。ただ文系クラスの方が女子が多かった。男子があまり得意ではなかった美咲にとって、女子が半数を占める文系クラスは過ごしやす環境だった。国立に落ち第二志望で進んだ私立大学も、外国語教育に力を入れており文系がメインの大学だったため、全体的には女子の方が多い大学だった。大学の間も相変わらず彼氏はできなかったが、多摩地域のんびりしたキャンパスで4年間を過ごし、休みの間には短期海外留学経験して、語学力を向上させながらやりたかった海外分野の勉強をして過ごした。



自分女子であることに違和感のようなものを感じるようになったのは、就職してからだった。震災後に採用を抑えていた2012年就活戦線はなかなか苦戦し、50社以上のエントリーシート、20社の面接を受け、最終的に内定が出たのは2社だった。当初地元に帰ろうかなと思っていたものの、内定した会社は誰もが名前を知るIT企業メーカーで、大手企業就職が決まったことで、彼女自身家族もホッとし、東京に残ることを納得した。結局新しいことができそうなIT企業への就職を選んだ。IT業界リモートワークなどの制度を生かして女性活躍しています、と先輩社員セミナーで語っていたのも理由の一つだった。メーカーの方は男性ばかり出てきて少し古い印象を持ったことを美咲は覚えている。



美咲ソフトウェア製品営業職として2013年4月社会人生活スタートさせた。自分の同じ部門認識できる範囲には100人ほどの人がおり、女性の先輩も2割ほどいたので全くいないわけではなかったが、営業職の先輩は、みな独身か、結婚していても子供がいなかった。既婚子ありの女性の先輩は業務部門でひっそりと仕事をしている印象があり、営業職の美咲ほとんど関わりがなかった。営業部門は8割が男性で、かつ半数以上は50代だった。夜の飲み会は大抵自分以外はおじさんという状況が多く、美咲はその場ではじめて焼酎水割り・お湯割の作り方を覚えた。飲み会では大体業務部門の人たちは営業できないお荷物、という言い方をされ、美咲はただ笑って過ごすしかなかった。いずれ子供を産んだら自分もそこに行くのかな、という思いもある中、関わったことのない業務部門の人たちについて何かをかばうことも出来ないし、やり過ごすほかなかった。



その会社でのソフトウェア事業は、正直言ってメイン事業ではなく、ハードウェアのおまけのような扱いの部門であった。営業職として客先に行くには、まずは社内営業ハードウェア営業に客先の同行をお願いし、OKが取れたらやっと客先に行き、自分製品を紹介する。ある女の先輩は言っていた。「飲み会に誘ってもらえるのは女子特権なんだから若いうちの飲み会は全て断らずに参加しなさい」と。先輩のアドバイスは正しかった。美咲お酒は弱かったが、飲み会のような場は嫌いではなかったため、最初の2年ほどは結果も出せず苦労したが、もともと人と関わるのが好きな彼女は社内の飲み会にも積極的に顔を出し、仲のいい人を多く作って行くことで仕事も徐々に自分で結果が出せるようになっていった。


入社して5年目、一通りの経験をこなし、大きな案件複数経験して自信が出た美咲は、社内異動制度に応募してハードウェア部門へ異動した。ある意味傍流から本流に異動したわけで、彼女としても意気揚々の再スタートだった。前の部門でおじさんと飲むことに慣れていた美咲は、異動初日飲み会で、やはり50代の男性が多い同じチームのメンバーに対して「私はセクハラ大丈夫なんで」と笑って宣言した。意外だったのは、部門である優秀な40代マネージャーが、「そういう発言はやめたほうがいい」とはっきり言ったことだった。彼は今後役員まで上がるだろうと期待されている、社内のエースのような存在だった。えらい人からそのようにキッパリ言われたことで少し美咲ビビったが、その発言はそのほかのメンバーには笑って流された。


「82年生まれキム・ジヨン」を読んで、美咲には何かが刺さった。これまでの彼女人生の中で、キム・ジヨンのような思いをした経験が、同じ世代日本人女性なら1度や2度はあるはずだ。と、こんな風な長々した文章を書いてしまうくらい、何かを伝えなければ、声を上げなければと感じた。しかし何を言えばいいのかがわからない。何か目の前の明確な不平等を変えて欲しいわけでは無い、自分はむしろまれているほうだと思う、でもそれでも何度か自分のせいだけとは思えない壁にぶつかり、しんどい思いをした、ように思う。何が変えられるのかよくわからないが、とりあえず自分の思いを言葉にしないことには始まらない。

90年生まれで一番多い名前の、数多くの美咲に変わって、中途半端ですが、ひっそりとここに吐き出します。

今更「82年生まれキム・ジヨン」を読んだ最初感想

この本しんどいな。

「82年生まれキム・ジヨン」を読んだ最初感想がそれだった。

土曜の夜23時、昼間参加した友人の結婚式の疲れを引きずりながら、少し暗くした部屋でベットに寝そべりダラダラと読んでいた。隣のリビングからは、夫が録画した刑事ドラマを見ている音が響いてくる。あしたは日曜で何も予定がなく、深夜までドラマを見続けるのだろう。美咲も多分、明日は午前中はダラダラと寝て過ごし、パンカップスープ適当昼ごはんを食べ、夕方なんとなく近くの駅ビルの買い物に出かけ、夕食は作るのが面倒になって外食で済ませて帰ってくるのだろう。結婚して1年近く続く何もない週末のいつもの過ごし方。

鈴木美咲1990年まれ28歳。生まれ山梨県で、大学上京するまでは地元自営業を営む両親のもとで特に大きな反抗もなく健やかに育ったと自分では思っている。勉強は小さい頃から得意で、地元進学校に進学した際には、東京に行くことが当たり前の選択肢になっていた。市内の一番偏差値が高い大学はいわゆる”駅弁”の大学で、進学校の中でも勉強のできる子は上京するのが当たり前だった。彼女の両親は東京大学を出て地元に帰ってきた人だったため自分大学上京することに特に違和感は抱かず、自然東京大学を目指した。根が真面目な彼女高校時代勉強に多くの時間を割き、国立大学不合格となったものの、無事都内私立大学合格し、18歳の春に上京した。今年で上京して10年目になる。


彼女母親時代女子が進学するといえば短大だったそうで、その時代東京の4年制大学卒業した美咲母親はそれを誇りに思っている節があり、娘にも上京を勧めた。母が20代の頃、美咲の母方は酒の卸業を営んでいた。当時はだいぶ繁盛しており経済的に余裕があったためか。美咲の母は就職活動をせず地元に帰り2-3年ほど家業を手伝い、美咲の父となる人物お見合い出会い結婚した。父は口下手で商売が上手なタイプではなかったが、家庭の中では優しい父親だった。母がよく癇癪を起こしているのに対し、父が言葉を荒げているのは美咲記憶にはない。花が癇癪を起こすのは大抵父が全く家事を手伝おうとしないからだった。母は父を一生懸命教育しようとしていたが、家事女性がやるものと思っていた父はなかなか身につかなかった。60代になりようやく自分で皿を洗うようになったと最近母が言っている。

美咲に対して、母は今後は女の人も外で働く時代なのだから一生懸命勉強しなさいと強く進めた。美咲の成績が上がると母も喜んだ。東京大学に行くことを賛成し、美咲英語が得意だとわかると英会話塾のパンフレットをたくさんもらってきては彼女能力を伸ばすことに力を注ぎ、美咲外国語大学志望だと進路希望で話すとその大学出身卒業生のエッセイなどを買ってきては彼女の夢を応援した。美咲自身は多感な年頃ならではの母親へのウザさのようなものは感じていたが、基本的には嫌いではない母親だった。


美咲地元にいた頃から一貫して共学で育ってきた。自分自身があまりまれ容姿ではなく、自分ニキビからかわれ、「ニキビ」という知性のかけらも無いそのままのあだ名をつけられてから男子が嫌いになりずっと距離を置いていたため共学ならではの彼氏ができるとか放課後一緒に男子と帰るといった甘酸っぱい青春を過ごすことはなかった。しかし、男子が身近にいることは普通だったし、2つ離れた年下の弟もいた。美咲勉強ができたが、それに対して男子比較されて何か不都合を感じたことはなかった。勉強ができる人は男女関係なく一目おかれたし、男女関係なく進路を好きなように決めたし、母のように女子短大といった時代でもなかった。ただ文系クラスの方が女子が多かった。男子があまり得意ではなかった美咲にとって、女子が半数を占める文系クラスは過ごしやす環境だった。国立に落ち第二志望で進んだ私立大学も、外国語教育に力を入れており文系がメインの大学だったため、全体的には女子の方が多い大学だった。大学の間も相変わらず彼氏はできなかったが、多摩地域のんびりしたキャンパスで4年間を過ごし、休みの間には短期海外留学経験して、語学力を向上させながらやりたかった海外分野の勉強をして過ごした。



自分女子であることに違和感のようなものを感じるようになったのは、就職してからだった。震災後に採用を抑えていた2012年就活戦線はなかなか苦戦し、50社以上のエントリーシート、20社の面接を受け、最終的に内定が出たのは2社だった。当初地元に帰ろうかなと思っていたものの、内定した会社は誰もが名前を知るIT企業メーカーで、大手企業就職が決まったことで、彼女自身家族もホッとし、東京に残ることを納得した。結局新しいことができそうなIT企業への就職を選んだ。IT業界リモートワークなどの制度を生かして女性活躍しています、と先輩社員セミナーで語っていたのも理由の一つだった。メーカーの方は男性ばかり出てきて少し古い印象を持ったことを美咲は覚えている。



美咲ソフトウェア製品営業職として2013年4月社会人生活スタートさせた。自分の同じ部門認識できる範囲には100人ほどの人がおり、女性の先輩も2割ほどいたので全くいないわけではなかったが、営業職の先輩は、みな独身か、結婚していても子供がいなかった。既婚子ありの女性の先輩は業務部門でひっそりと仕事をしている印象があり、営業職の美咲ほとんど関わりがなかった。営業部門は8割が男性で、かつ半数以上は50代だった。夜の飲み会は大抵自分以外はおじさんという状況が多く、美咲はその場ではじめて焼酎水割り・お湯割の作り方を覚えた。飲み会では大体業務部門の人たちは営業できないお荷物、という言い方をされ、美咲はただ笑って過ごすしかなかった。いずれ子供を産んだら自分もそこに行くのかな、という思いもある中、関わったことのない業務部門の人たちについて何かをかばうことも出来ないし、やり過ごすほかなかった。



その会社でのソフトウェア事業は、正直言ってメイン事業ではなく、ハードウェアのおまけのような扱いの部門であった。営業職として客先に行くには、まずは社内営業ハードウェア営業に客先の同行をお願いし、OKが取れたらやっと客先に行き、自分製品を紹介する。ある女の先輩は言っていた。「飲み会に誘ってもらえるのは女子特権なんだから若いうちの飲み会は全て断らずに参加しなさい」と。先輩のアドバイスは正しかった。美咲お酒は弱かったが、飲み会のような場は嫌いではなかったため、最初の2年ほどは結果も出せず苦労したが、もともと人と関わるのが好きな彼女は社内の飲み会にも積極的に顔を出し、仲のいい人を多く作って行くことで仕事も徐々に自分で結果が出せるようになっていった。


入社して5年目、一通りの経験をこなし、大きな案件複数経験して自信が出た美咲は、社内異動制度に応募してハードウェア部門へ異動した。ある意味傍流から本流に異動したわけで、彼女としても意気揚々の再スタートだった。前の部門でおじさんと飲むことに慣れていた美咲は、異動初日飲み会で、やはり50代の男性が多い同じチームのメンバーに対して「私はセクハラ大丈夫なんで」と笑って宣言した。意外だったのは、部門である優秀な40代マネージャーが、「そういう発言はやめたほうがいい」とはっきり言ったことだった。彼は今後役員まで上がるだろうと期待されている、社内のエースのような存在だった。えらい人からそのようにキッパリ言われたことで少し美咲ビビったが、その発言はそのほかのメンバーには笑って流された。


「82年生まれキム・ジヨン」を読んで、美咲には何かが刺さった。これまでの彼女人生の中で、キム・ジヨンのような思いをした経験が、同じ世代日本人女性なら1度や2度はあるはずだ。と、こんな風な長々した文章を書いてしまうくらい、何かを伝えなければ、声を上げなければと感じた。しかし何を言えばいいのかがわからない。何か目の前の明確な不平等を変えて欲しいわけでは無い、自分はむしろまれているほうだと思う、でもそれでも何度か自分のせいだけとは思えない壁にぶつかり、しんどい思いをした、ように思う。何が変えられるのかよくわからないが、とりあえず自分の思いを言葉にしないことには始まらない。

90年生まれで一番多い名前の、数多くの美咲に変わって、中途半端ですが、ひっそりとここに吐き出します。

anond:20240319154504

介助者以前に、ワイの地元映画館、自走で楽々映画見にいけるんだが…。

そういう風になるのが普通ってもんよ。

東京人の心はチャオズ

東京駅今日も混んでいる。

いつも通りに複雑で、久しぶりなのでつい迷ってしまった。

立ち止まっているとすれ違いざまにぶつかり「すみません」と思わず謝った。

相手は何も言わず、私の言葉無視してそのまま立ち去った。

いつもこうだ。

東京人の心はきっとチャオズなのだと思う。

競争の激しい東京ではついていけないと、心を地元に置いてきた。

そうしないと東京では戦えないのだ。

でもチャオズもつれきてほしい。

心は必要だと思うのだ。

サブウェイ、お前…

久しぶりにサブウェイエビアボカドサンド食べたいな♪と思って店舗検索したら居住市内に一店舗もなかったことに今更気付いた(引っ越してきて半年

そこそこの地方都市なのにないなんてある?!(学生時代住んでた)岐阜にさえあったのに!と思ったら岐阜駅にあったサブウェイは閉店してた

ウソだろ…と思いつつ公式店舗一覧を確認したら地元ショッピングモールにあったはずのサブウェイが消えていた。跡地はケンタッキーになっていた。無常

葉山とか軽井沢が朝市とか地元感出すのやめてほしい

お前ら他の地方とかと違って金持ちじゃん

観光でウハウハ言ってるやつじゃん

朝市じゃなくてモーニングマーケットとか言って別の名前にしてほしい

他の地方と並ばないで

春のお皿を回す芸を磨く増田巣膜が身を鋳毛諏訪間をラサオノルは(回文

おはようございます

最近さ、

ずっとお昼のランチタイムは本をもって喫茶店にずーっと時間までいたりキーボードの付いた電子端末を持ち込んでなにかを取り組んで文字を打ち込んでいるんだけど、

まったく同じお店に通っていると

それはそれで楽チンだけれど、

新しい情報がまったく入ってこないのよね!

まり

あたらしい街のニュースを取り入れないと

ネタが無くなっちゃうことに出会うことの確立が低くなるような気がして、

なんだかそれに気付いたのよね。

からたまにはいものお店とは別のところに通り道かいのそういうお店でもいいじゃない。

違うことをして違う体験発見ができるから

いつも同じところをループしていると気付いた時は

ふと隣の行く回数の頻度が少ないお店に行って見ると実現を現実的に取り戻せるのかしら?って思って今日はどうしようかなー?って思うのよね。

思い立ったら吉日パーリータイム

早速行動に移すべく私はお昼ちゃんと真っ当に空いている時間帯で混む前にお店に飛び込み前転でき入店できるかなぁーって思うのよね。

一応事務所の周りはそんなんでもないけれど、

とはいえ

お昼のランチタイムピー時間のそんな時間帯にはお客さんが割といっぱいになるから

ちょっとでも時間がずれちゃうと行きたいお店に行きにきにくい感じになるのよね。

そんで最近海外からのお客さんも多くて地元のお店の何でもないようなことが幸せだったと思うってロードの第256章の歌詞で出てきそうな地元の何気ないうどん屋さんも行列が出来ていて、

長く通った地元のお客さんも足が遠のいちゃってる感じよ。

わざわざ行列できてまではーって思うの。

でも観光客がド無視する飲食店ってのもあって、

町中華インド料理屋さんは比較的空いているの。

ここは観光客とは無縁ね。

ほっぽど日本の食通で中華インド料理がどう日本向けにローカライズされているのか!ってテーマ研究にして来日している人なら別かも知れないけど、

女将さんに聞いたらわざわざ観光に来て中華を食べに来る人は居ないってことで、

へーなるほどねー!って思ったのよね。

からそう言った

いわゆる穴場に私は今日は行こうかなぁーと目論んでいるのよ。

パン祭のシールを集めたいと思っても

近くにシールの貼った商品が売っていないことが多くて、

私はパン祭参加出来ないのがちょっと悲しいけれど、

でも逆に参加したら参加したで

あの白いお皿が増えまくって意外と困るってこともあるのよね。

なにしろあの白いお皿は頑丈すぎてほぼ一生使える代物で

そう思ったら食器屋さんって食器いつ買うタイミングある?って思わない?

パン祭であん割れないお皿タダでシール貼って集めるとは言え配っていたら、

お皿を本業としているお店が困らないかしら?って思うの。

そう考えたらお皿って買わないわよね。

私は今のところに越してきてそこでちょっとお皿は買ったけれど、

大きなパスタ皿1枚で充分あとはパン祭のお皿が何枚かあって、

いやそれよりも食器よりもルービーをキメて飲むパイントグラス、

ハイボールをキメて飲む専用の私のお気に入り銘柄ガラスのグラスがあって、

どちらかというとそっちの方が割れちゃって買い直すことが多いのよ。

からそういうガラスグラス屋さんは困ってないと思うけれど。

あとお箸ね!

強力なパワーで洗う自動食器洗いマシーンにかけると、

だんだんボロボロになってくるので、

これは食洗機対応!と謳っているお箸でも洗うパワーの強さ故かいつか駄目になっていたんでしまうのよね。

さすがにスプーンかにふとかフォークとかパン祭の白いお皿とかは平気だけど。

でもそうなると

お皿ってそんなに頻繁に買うものでも無いからお皿屋さんの経営心配になるわよね。

お皿ってかう?

あ!お皿で思い出したんだけど、

日本にやって来てくれる海外から観光客のお客さんで

瓦割り体験アクティティできるところつくったらよくね?って思っちゃったわ。

それだと瓦屋さんも大儲けじゃない!?

凄いこと思い付いちゃったこの瞬間を抱きしめて、

やっていけば良いんだけど、

これって本当に需要あんのかしら?って思うわ。

瓦はある程度チョップで割るもの!って図式があって罪悪感が無いけれど、

お皿を割るってのは狂気じみているわよね。

から瓦割り体験が出来る観光施設で忍者の格好させて嘘忍術瓦割りの術!っていってやったらある程度人気が出るかも知れないし、

さすがに忍法皿回しの術!って言われても

それをしっかり術を身に付けたとて

忍者生活には役に立たなさそうなサバイバルでは活かせない技じゃない?

でも忍者地方スパイで潜伏するときに、

その土地方言をめちゃ勉強して地元民として振る舞えるような感じの商人を演じるスパイをするとするじゃない。

そう言う時に、

大道芸でお皿を回していれば、あ!あの人はこの街名物お皿回し達人だ!って町や村のみんなに愛されて仲良くできてその諜報活動をしやすくなるんだけど、

きっとそのスパイで潜り込んでいる同士だったら

町で皿回しをやっている町人がいたら、

あいつは絶対忍術学園で皿回しの術を習って習得して町で怪しまれずに皿回しをして地元民と仲良くしてるやつだな!って同業者には絶対に即にすぐにバレると思うから

お皿回しすぎ!ってのも困りものよね。

同業者ならあい忍者!ってすぐ分かっちゃうわよねお皿回していたら

先輩後輩とかならいいんだけど

違う忍者学園の人と居合わせたらなおのさらややこしいわよね。

何の話しだっけ?

うそパン祭お皿のシールがつまらないって話しだったわ。

あれはもう1枚あれば充分よね。

でも明日春が来たならシール集めようかしら?

そう松たか子さんばりに思ったわ。

うふふ。


今日朝ご飯

チョコパンスープを家で食べてきたわ。

結構最近節制忘れていたので、

朝は節約したいところを思い出した春先神戸に行きたいわけではないけれど、

旅には出たいわよね。

あーどっか遠くへ行きたい

もうこれただの現実逃避だけどねー。

から戻ればまた、

いやもうこれ以上は言わないわ。

毎日の人をしっかり喰らいついて暮らすのよ。

デトックスウォーター

ホッツ白湯ウォーラーね。

お湯沸いてあると思ったら電源コードが抜けていて、

あちゃぱー!って自分おでこをペシンと叩いちゃった失態だわ。

令和入ってからイチのテヘペロ案件ね。

急いで別のケトルで沸かしたわ。

そんなホッツ白湯ストレートウォーラーね。


すいすいすいようび~

今日も頑張りましょう!

先月の増田オタクグッズ断捨離記事があったけどあれ自分もやらにゃいかんなーと思いながら半年以上経ってる。

メルカリに出すのが本当にめんどくさいし、駿河屋とかは通販買取になるから送料取られそうだしでやる気を失いつつある。

あとメルカリはいいね付けといて買わんやつ、さっさと買ってほしい。値下げをいつまでも待つな。

幸い地元にオタグッズ買取してくれるブックオフとそういう店があるにはあるけど10円でも御の字で総額いくらになるやら。

2024-03-18

ようやく現実社会自民党支持者が見つかった

想像では以下の通りだった



ついに、これ以外のそれなりに教養のある自民支持者を見つけた

それも幼馴染という辛み。

彼は頭がよかった。たいてい俺よりテストの点数も高い。

たいして勉強しなくて、だ。

大学地元でいいですの、ノリで東大レベル大学に進学。(なんか名前まで出すと勘づかれる気がするので)

大学卒業後、なぜかクリエイティブの道に進みたかったのだがそれはうまくいかずにニートに。

親は超大企業役員で裕福な過程で親に家を買い与えられていた。

そのまま何年もニートなのだが、彼こそが自民党支持者だったのだ。

賢い増田にここに問いを残すことにする。

なぜ、この増田の幼馴染(サラブレッドニート)が自民党支持者になったのか。

anond:20240318183657

大企業は知らなけいけど、地方中小のうちは人手不足を解消する為の、新しい人員を雇う為に、既存社員経営陣を除く)は一律給料10%カットボーナス廃止になったで。

それでも地元企業の中では抜群に待遇が良い方だから誰もやめられない。

青森県八戸市イオンモール立地規制した中心市街地は20年後どうなったのか

anond:20240313123638

青森県八戸市(はちのへし)。

県二位の人口22万人の中核市であり、太平洋に面する港町、臨海工業地帯、外航・内陸航路工業港を有し、東北新幹線八戸駅東北縦貫自動車道八戸線三陸復興道路の北の終点がある。東北有数を都市を自負し商圏63万人を誇る。

しかし、八戸市にはイオンモールがなく、イトーヨーカドー2024年の夏に閉店する。

八戸市映画館はかつて7館あったが、現在は完全になくなった。

2000年代前半40,000平米級のイオンモール計画が立ち上がるも、中心市街地の地権者や有力者等で構成する市の商工会が大反対運動を展開。当時の市長イオンモール反対を表明するも落選対立候補官僚出身新市長が状況に応じ検討するとして当選したが、過剰な商業施設不要として事実上イオンモール立地規制条例を制定。売場面積7000平米級の中途半端イオンリテールオープンした。

八戸市民は隣町のイオンモール下田まで車で約15kmのみちのりを30,40分かけて行く羽目になる。

車がない高校生は1日に5便しかない直行バスに長い行列をつくり30,40分かけていく。

中心市街地は、イオン立地に反対したあとほどなくシャッター街になった。全く商店街シャッター街にさせない!商店街を守るんだって話はなんだったのだろうか。

かつて市民デパートとして親しまれたヨーカドーは市内に2店舗あった。1980年中心街再開発ビル(地下1階、地上7階建、屋上遊園地)にイトーヨーカドー八戸出店計画が出て、当時の市商工会議所は大反対をしたという。市民には大歓迎されて開店してから東京の有名なデパートとして八戸の目抜き通り入口の街の顔となった

しかし、2003年に閉店する際は商工会議所は引き止めだそうだ。実に身勝手である2024年夏にもう一つの郊外型の地上2階建てのヨーカドーが閉店予定である

私は学生時代、そのヨーカドーの両方でアルバイトした。八戸店では閉店まで2ヶ月間を鮮魚コーナーでアルバイトの先輩に殴られながら、ホタテホヤの殻を剥き試食販売の売り込みをしたり、閉店後のポッポたい焼き今川焼きをもらったり、最終営業日店長の涙を堪えた客への挨拶を聞きながら、八戸中心街はこれで一時代が終ったのだとしみじみ感じだ。

話を戻そう。その後、現在まで約20年近くが経ち、八戸中心市街地はどうなったのか。

中心市街地には地元百貨店最近まで2店舗あったが、コロナ瀕死経営状態にとどめを刺し2023年に1店舗閉店。

さくらの百貨店若者向けではなく、郊外CSラピア長崎屋と前述の小ぶりなイオンリテールと、スーパーセンターがいくつか。バブル期前につくられた街中のファッションビルはほぼ空きテナントだったと思う。

市は20年ぐらい前には既に中心市街地活性化対策に乗り出し、再開発計画が出ては地権者の反対で消えを繰り返し、最終的に新市長が市営の箱物をたくさん作ったものの、商業施設の立地はほぼ皆無のままである

中心街仙台に次ぐ飲み屋街として名高く、屋台村のみろく横丁周辺が酒豪の呑んべいたちで賑わう。新幹線開通後、新たなホテルマンションはいくつか建設された。

市内は、北東北を中心に展開する売上高1300億円、58店舗を展開するスーパーユニバース本社を置き市中を治めつつ、他社も含め無数にスーパードラッグストアがある。イオン系列ホームセンターサンデー、市内の何箇所かにスーパーセンターがある。ヤマダ、ケーズデンキユニクロGUしまむら、西松屋ワークマンもある。日常の買い物には困らない。

しかし、娯楽性に欠ける。買い物を楽しんだりするには物足りず、映画館もない。ヨーカドーもなくなる。イオンリテールスーパーのみ。

前置きが長くなったが、この街歴史をみるとする。

明治大正

鉄道忌諱と中心街の大火

明治時代日本鉄道東北本線を八戸町の中心部に伸ばすかどうかで議論になった。

当時は他の町と同じく蒸気機関車忌諱説があり、流行病の懸念軍部要望があり外国軍上陸の脅威を減らすべく、市街地から4kmも内陸の尻内(しりうち)という辺鄙場所に駅をつくった。あとで町民たちは鉄道は便利だと知ることになり、数年後に本線から分岐して八戸線が開通し中心市街地の800m北寄りに旧八戸駅現在本八戸駅を開設する。

そのあと100年以上が経ち、尻内駅は八戸駅に駅名が変わり、やがて新幹線駅に昇格した。しかし、あまり市街地から離れすぎた立地のため、郊外地方空港様相であるかのように、22万人都市玄関口としてはお察しくださいの状態である

大正末期に八戸大火が発生し中心商業地区が焦土と化したが、田舎町には後藤新平のような都市計画家はおらず、当時の八戸町議会は多額の予算は出せないとして狭い道は藩政時代のままとなった。

昭和

中心市街地の復興産業の発展と栄華

太平洋戦争では基幹産業日東工場爆撃が海側の地域で爆撃を受けるも、中心市街地の空襲被害ほとんどなかった。

市の北側位置する旧日本軍飛行場基地米軍接収され、3,200人の米兵により飛行場拡張基地の街と化す。その後、陸海自衛隊基地として運用される。

八戸中心市街地は、戦後しばらくして、東映東宝、テアトルなどの7つの映画館開店し、地元百貨店開店し、緑屋、ニチイ、丸光(さくら野)、長崎屋、そしてイトーヨーカドー地元資本ファッションビル開店し、中心市街地は岩手県北を含め商圏62万人ともいわれ栄華を極めた。私はその時代を生きていないのでよくわならない。

八戸昭和30年代に新産業都市指定され臨海都市建設工事が始まり八戸鉱山の石灰石産出、三菱製紙工場八戸火力発電所、非鉄金属精錬所、鉄工所、造船所が建設された。

漁業栄光を極め、八戸港の水揚げ量・金額日本一を記録し、第一・第二・第三魚市場は全国の漁船が集まったという。浜の景気は大変良く、飲み屋街や風俗街も発展した。北海道室蘭苫小牧港へのフェリー航路が開設され北への玄関口となった。中心市街地を迂回する国道45号バイパスが整備され、市道の4車線の環状道路が次々と開通し、田畑区画整理が次々と進み新興戸住宅地住宅団地郊外市街地は拡大し、市営バス路線網を拡大し小中高校増設を続けた。

一方で、青森寄りの天間林村(現七戸町)の上北鉱山は銅が枯渇のため閉山。また、八戸から60キロ北の六ヶ所村では新全国総合開発計画による巨大石化学コンビナートや製鉄所を中心とした、1万7000ha開発計画は発表されたが、二度のオイルショックで完全に頓挫した。石油備蓄基地のみがつくられ、のちの日本原燃による核燃料サイクル施設建設を待つことになる。

青森県議会は東北新幹線建設に際し、八戸経由か弘前経由か決められずに結局盛岡駅まりのまま以後八戸延伸まで20年待ちとなる。あの頃、早く決めていればとおもうと悔やまれる。

平成

大店法改正の波、産業構造転換と商業施設郊外

1991年長崎屋郊外移転。屋内遊園地つきのラピア長崎屋開店

1993年 六ヶ所村日本原燃の再処理工場建設が着工する。原燃PRセンター家族で行った帰りに、父からこの工場事故が起きれば将来は八戸に住めなくなると聞かされ幼心にショックを受ける

1994年 年末三陸はるか地震震度6)が発生、旧市庁舎、旧市民病院に大きな被害中心市街地のビルが倒壊し死者発生、道路の崩落、水道管破裂など多数被害

1995年 隣町にイオンモール下田開店現在は売場拡張し53,277平米)県南地域では最大の売り場面積を持ち当時は大観覧車があり田んぼと山がよく見えた。

1996年 中心市街地のニチイが閉店

1997年 中心市街地の市民病院郊外移転し、いよいよ中心市街地の危機地元紙で叫ばれるようになる

1999年 八戸臨海部神戸製鋼敷地イトーヨーカドー郊外CS開店ホームセンター、のちにヤマダ電機スーパー銭湯開店

2000年 人口過去最高の24万9000人になる

2002年 東北新幹線八戸駅開業。北の玄関口として栄華を極める

2003年イトーヨーカドー八戸店が閉店、跡地に地元出資チーノオープン市民映画館開店

イオンモール立地攻防

2000年前半イオンモール八戸田向店40,000平米級の建設計画が持ち上がる

当時建設中の4車線の県道八戸環状線沿い一帯の田んぼ区画整理し、中心街から八戸市病院移転した付近に立地計画

市民の多くは歓喜に沸いたと思う。わざわざ隣町のイオン下田まで行く必要がなくなるからだ。

しかし、中心市街地の商業者を中心とした商工会が猛烈に反対し、当時の市長も大反対。

地元新聞の投書には、商店街関係者と思しき女性が「イオンが来たら中心街シャッター商店街になってしまう。そんなところで祭り八戸三社大祭という由緒ある山車祭り)は見たくない!」などと書いていた記憶

かに市民病院の近くが週末渋滞して救急車が到着できなくなるから反対との投書もあった。

その後、市長は1期で落選し、新市長が当選立地規制条例を制定

2012年 郊外イオン田向ショッピングセンター開設(7000平米級)

中心市街地活性化施策

新市長は、空洞化した市街地を再建すべく、市営の箱を次々と建設

2011年 市営のポータルミュージアムはっちが開設、中心市街地にタリーズコーヒが初出店

2016年 ガーデンテラス竣工し市営の八戸ブックセンターが開設、Yahoo八戸センターが同ビル拠点開設

2018年 市営の八戸まちなか広場 マチニワ屋内広場が開設

令和期

少子高齢化人口減少時代水産業斜陽化、縮小する経済

2019年 国際大会用の屋内スピードスケートリンクが開館(中心市街地から徒歩圏の運動公園建設

2020年 元長崎屋跡地にDEVELD八日町竣工 13階建で2階以上はマンション

2021年 中心街に新八戸市美術館竣工

2022年 地元百貨店三春屋コロナ経営不信でで閉店

2023年 イトーヨーカドー八戸店跡地のはっちが閉店。解体されマンションになる予定

2023年 八戸港の水揚げ量が昭和19年レベルに激減(戦後最悪水準、金額ベースで最盛期の10%の漁獲高)

2024年夏 イトーヨーカドー八戸沼館店が閉店予定

2025年 青森銀行とみちのく銀行合併青森みちのく銀行設立予定

おわりに

東日本大震災のあと、約10年で三陸復興道路が完成し、県道環状道路は大半が開通した。

ロードサイドにはセブンイレブンも、タリーズも、コメダ珈琲も、スタバもできた。新しいスーパーホームセンターはあちこちにできた。

中心市街地は市営の箱物はたくさんできて大変モダン空間になったが、観光施設や、広場施設であり、結局、車社会の一地方都市には、かつてのイトーヨーカドーのような民間商業施設20年経ってもできなかった。地元商工会議所は郊外巨大CS進出を阻止に成功したが、経済の低迷は続き中心街商業立地の開発誘導を果たせず、三春屋とチーノは閉店し、今やさくらの百貨店が残るのみである。かつての商業ビルマンションへ建て替えが進む。

商業床がマンションになるのであれば、予定通り40,000平米のイオンモール建設しても問題はなかったと思う。

郊外イトーヨーカドー八戸沼館店は閉店後は、1991年開店の江陽のラピア長崎屋と、2012年開店イオン田向(リテール)のみになる。

GMS衰退の潮流は止められず、地方車社会市民無料駐車場のあるイオンモールを求めていた。

よく巨大郊外モール撤退したあと社会問題になるため開発抑制必要だという。都市計画教科書的には正しいことは理解している。

しかし、近隣県を含め広域自治体レベル規制誘導しない限り、一自治体規制をかけても無意味だった。

結局、一番割りを喰うのはアクセスの不便さ、往復30kmから40kmのガソリン代を消費する市民自身であり、隣町のモールに買い物客が流出して意味をなさなかった。中心市街地の地権者は新たに商業施設を建てるわけもなく、文化的施設建設補助金が投入された。

2050年までに、八戸市人口社会保障人口問題研究所推定で14万人台になるとしている(最盛期より10万人減少する)

人口減少社会は、かつての拡大した市街化区域を減らし、都市軸の再形成、まちなか居住コンパクトシティ形成、魅力ある歩いて暮らせるまちづくりをするなど、さまざまなメニューがあるものの、あまりにも中心市街地再興への道のりが長すぎる。その過渡期に過ごす市民は、これからイオンモール下田に通うことにになる。

せめて20年前に市商工会議所は、利己的な理由からイオンモール立地に反対せず、県道沿いの環状バイパスに40,000平米級のイオンモール田向店を作っていれば、あの長い行列をつくりバスを待つ市内の高校生たちはおらず、自転車イオンモールに遊びに行けただろうとつくづく思う。こうして毎年彼らは高校卒業後、八戸を離れてしまうのだろう。

anond:20240318001131

仙台市民だがそれは思う。

旨いのは旨い、けど価格釣り合うほど旨いか?って考えると、そうでもない。

大抵の名物なんてそんなもんだが地元民はそうそう食わないし。あと、大手チェーンのだと肉の量に対して膳、定食の他の付け合わせの割合が多くねえか?とも感じる。

anond:20240317114841

普段通勤に使う路線で、最近新人運転手が入って、毎朝一人一人に爽やかに挨拶している。いわゆる雰囲気イケメンだ。

しかし、地元では労働環境が壊滅的に悪いと評判のバス会社で、他の運転手は「ダァシッス(ドア閉まります)」とかしか言わない。おそらく必ず言わなければいけないであろうことすら、まともに言わないほど荒みきっている。(一応言っておくが必要があれば普通の応対はできるちゃんとした運転手さんだ)

例のイケメン若手運転手も、そう遠くない将来にはダァシッスになっていくのかと思うと悲しい。けど避けられないだろうと感じてる。

その上、バス自体がなくなるときたか^ ^!

2024-03-17

anond:20240317114841

うちの地元じゃ路線統合してもともと1周30分くらいで循環してたものが2時間くらいになってる。

かなりの不便さを許容してなんとか移動手段を存続させてる感じ。

まあ焼石に水なんだろうけど。

だって他人の脳に障害を負わせるようなヤンキーマイルドヤンキーになってPTA会長とか自治会長とかやってんだぜ?

後ろから椅子を引っ張って相手を転倒させる遊び(というか、危険行為)とか流行っただろ

あれだよ

俺もやられた

で、俺はかろうじて障害は負わなかったけど、負っちゃった奴がいた

教師は大激怒

でも、そんな彼、彼らも今ではマイルドヤンキー

他人に負わせた障害ヤンチャの一言で片づけられ、

PTA会長自治会長、地元少年サッカー空手コーチ、そんな感じのことやってるみたい

子供にどの顔見せられるんだよ、と正直憤るんだけど、世の中なんてそういうもん

俺は死んでもあのクソみたいな田舎には戻らないからな

ホームレスになろうが、なんだろうが、あのクソ田舎には戻らない

あのヤンキーたちが卒業式に近所の暴走族暴力団を連れてきて、式を滅茶苦茶にしたのを今でも忘れてないからな

やわいクッキーが好き

硬いクッキーじゃなくて、やわいクッキー

デカければデカいほど良い

地元にあるやわいクッキー取り扱ってる店が閉店することになったから途方に暮れてる

鈴木宗男みたいなロシア寄りの発言を繰り返して、与野党の支持を問わず幅広い人から批判されていても、そこらの泡沫候補よりも手堅く票を集められるから維新執行部は放置しているの、政治家価値ってのは主義主張の正しさではなく、地元に金を引っ張れるかどうかだけで判断されるのが分かってしまう。そりゃ自民党が強いわな。予算から自分の懐を傷めずに地方にばらまけるんだから。アホくさ。

河村たかしメダルを噛んだとか、謝罪文を以上で締めたとか、そんなこと報道する目的はなんだ?

メダル噛みの時点でそのあとの選挙でも再選した通り、地元民はそんなこと気にしないことははっきりしてるはず。

なのに彼のいかにも印象悪そうなことを逐一報道するのは、むしろ「こんなやつに投票する名古屋市民は愚かだから見下そうね!」っていうメッセージなんじゃなかろうか?

でもだれに投票しようが馬鹿とか言われる権利なんてないはず。こんな報道をするのって地方自治否定なんじゃなかろうか。

名古屋市民がそんな彼が好きならそれ以上突くことではないだろう?俺らの価値観で彼らを馬鹿にするのはいかに全体主義的だと思う。

というか政治家じゃなくその支持者有権者を叩くのって、試合相手ではなく審判クリンチからの「●すぞ」と脅迫して勝ちをとろうとするようなものな気がする。

食べい放題だから何してもいいだろ!の結果

俺の地元焼き肉屋食べ放題なのになぜか前菜として頼んでいない肉や揚げ物を消費してから注文しろという形式に代わった

なんでこうなったか不思議だったがあの50人前みたいな野郎のせいだったのだと今回はっきり分かった

チンチンをブラブラするとソーセージになる世界線

地元民のチンチンはブラブラしないように硬く縛られている。

それを知らずにうっかり異世界転移したやつらのチンチンは全部ソーセージ

2024-03-16

anond:20240316212626

警察呼ばれてもええように地元共産党コネ作っとくんやで

anond:20240316212732

有料老人ホームお金って親の貯金

自分給料から親2人分出すのなんて無理だ……と思って介護まだだけど戦々恐々としてる

地元に帰って介護するにも仕事無さすぎるから自分人生の方がやばくなるし……

福井県民なんですけど

今日テレビのはしゃぎ具合がすごかったので記録に残しておこう。

・長時間特番してた

福井県民放2局しかないんだけど、どっちも昼と夕方生放送特番してた。Youは何しに日本へを返せ。いや番組の要旨としては似たようなもんだから別にいか

そもそも1ヶ月以上前からニュース新幹線開業カウントダウンしてた

この機に福井駅前にマクドナルドスタバができたらしくテンションの上がった女性たちがインタビューに応じていたのが印象に残っている。

東京への片思いがエグい

開業した県内の駅に行ったリポーターが「渋谷駅前の交差点を超えるほどの人出です」みたいなこと言ってた。さすがにそれはないんじゃないかなあ。

さらに勢い余って渋谷駅前で福井県知名度調査アンケートとかやってるコーナーがあった。特に印象にないですって言われてたね。切ない……

多分バイアスのかかってない知名度確認するには、特番やってる時間帯の関東圏の番組とかを一瞬映せばよかったのかも。多分福井のこと特に取り扱ってないと思う。

他にも特番内のコーナーとして、地元ラジオパーソナリティの人が東京宣材写真を撮りに行くロケとかもあった。これも切ない。

夕方特番コメンテーターパックンだった

なんで?

日中福井県とは特に関係ない人がコメンテーターだったなあ。

CM正月みたいだった

たまに挟まれ地元CM新幹線関連のやつばっかりで「お慶び申し上げます」とか言ってた。正月か。

・その後の全国版NHKニュースでも金沢敦賀間の新幹線開業について触れられてたけど

主に北陸応援割について話しており石川の様子しか放送されておらず見事な冷や水ぶりであった。

という具合で面白かったです。なんかこう、都会をそこまでありがたがらんでもと思ったり、でも金を持ってくるのは都会もんなんだろうなあとも思ったりしました。もう今なら新幹線の靴も舐めそう。

これ敦賀より更に西側新幹線あん関係ない勢はどういう気持ちで見てたんだろうなあ。

自分にとっての幸せって何だろう

お金幸福度は比例しない…のような言説があるが、10年前に地元に帰ったことで、地域差もあるのか、年収が70万ほど下がった現在は、その当時より心身は健康でも総合的な幸福度は低いと感じる。

結局金じゃねーか。

ある程度は金がないと、財布だけでなく心まで貧しくなってしまうよ。

お母さん曰く

ちゃんはギャースカ泣きわめく赤ちゃんだし生まれた時から歯が生えてておっぱい噛みまくって血まみれになりながら授乳して大変だったって

雪国から冬はやめろといっても車道脇の雪の塊に突っ込むし凍った水たまり踏みに行って水浸しになってしょっちゅう風邪引く多動クソガキだった

ぼくは大人しくおっぱい飲んだらすやす眠る手のかからない子だったって

雪や水たまりなんかに興味なくて屋内でぬくぬくしてる方が好き

ちゃんやんちゃだけどぼくはいい子だなってみんなほめてくれた

でもみんな兄ちゃんの方が好きなんだよね

お母さんも平等なふりしてるけど兄ちゃんの方が好き

ちゃん友達の知り合いがやってる伝統工芸をしたいって高卒で家を出て住み込み修行をはじめた

成績は良かったし大学行くものだとみんな思ってたのに家出同然でみんな怒ってた

でもいつのまにか「今の若い子は楽な仕事を選ぶのに厳しくされてもめげずに地元伝統を守るとして偉い」って扱いに

たまに誰かに会うと「兄ちゃん伝統工芸の◯◯やってんだって?」と言われ〇〇やってる家の子認識されてる

「やりたいこともないのに何となく進学する子より立派かもしれん」ってお父さんが言ったの忘れないよ

その時ぼく大学生だった

嫌味じゃなくてその瞬間はぼくが大学生なのも忘れて兄ちゃんしか見えてなかったんだね

ちゃんはお父さんもお母さんも見てなくて自分のことしか考えてないのに両親は片思いみたいで可哀想

でも親ってやつはそういう子の方が好きなもんかな

ログイン ユーザー登録
ようこそ ゲスト さん