はてなキーワード: 真逆なとは
目と鼻と顎など顔のパーツが不自然なまでに人工的な顔の女性が、舞妓さんのような化粧をしていた。
首からデコルテにかけては健康的な肌色なのに、顔だけ舞妓さんのように真っ白。
フェイスラインにはシェーディングを濃いめに入れているのか、デコルテの色にも顔の色にも馴染んでいないブラウンカラーが筋のように入っている。
眉毛は地毛の部分がほとんど無く、眉頭から眉尻までスタンプを押したかのようなノッペリ感。
普通はこんなに整形バレバレの顔にしないだろとか、ファンデーションやフェイスパウダーの色は首の色に合わせるだろとか、そういう常識に対して正面突破を試みている人。
身だしなみを一切気にしない人と、身だしなみを過剰に気にしすぎた人。
海外の匿名じゃないSNSで、匿名質問したんだが、ある海外ユーザーと軽くレスバに発展したんだわ。
そいつ実名顔出しのアカウントで職業っぽいのまでプロフにのってたんだが、俺が「こいつよくこんな実名で乱暴なレスバできるな」なんて思ってたら、そいつから「お前が匿名なのも頷けるわw」みたいな煽られ方をした。
これが俺はとても新鮮に感じた。
つまり「顔を出さないやつは、コソコソ何かよくないことをしている卑怯者だ」という価値観が前提にあるっぽいのよね。
「匿名」ってそんな最序盤に煽られることなんだって、カルチャーショックをうけたよ。
俺ら日本人にとって、ネットでの「匿名」は基本で、当たり前のことだ。
有名人に罵詈雑言を投げでもしない限り、皆匿名だから匿名であることを煽ったりしないやん。
匿名であることはリスク回避にちょうどいいし、自分を解放できる手段でもある。
昨日のクソレスや、このクソ日記は、明日にも匿名の波に消える。
それとともにリセットできて、また気軽に書き込めるわけやん。
誹謗中傷とかはアウトだししないけど、それ以外にも匿名だからこそできることはたくさんあるし、俺は匿名のほうが後腐れのないスマートな利用法だと思ってる。
でも海外だと真逆なんだなぁ、という片鱗を今回のことで感じた。
前々から、海外はなんでネットで、あんな実名とか顔出すのかって不思議に思ってたんだが、ベースとして「匿名は卑怯者」という考えがあり、それを避ける優先順位が高めにあるならいろいろ合点がいく。
という前提で話をしている事が多いですね。
吉本興業などに様々な口実で金を出しているんですね。
東京スカイツリーでも約400億円なのに高すぎると
できるのですが、日本人には金を出さず、留学生とか難民とか言えば
海外には金をばらまく。
反日政権はありません。ほんの少し前までは
今は似たようなものです。
持ち上げる者がツイッター(X)などでは目につくけれど
百田も安倍崇拝者、その次は河野太郎などと発言している人物です。
というのはおかしな事ですよ。駄目な点を全てそのまま受け継ぐのだから。
対立は茶番で、ネットで持ち上げられてるのは全員工作員くらいに
思っておかないと危ないです。
山本太郎は移民推進派なので、実際は移民優遇の自民党と変わりません。
「参政党は駄目と分かったから百田保守党」と3パターンくらいで絶賛するのだ
と思われます。
志位さんの事はよく言わず、小池と交代すべきなどと言う事が多いです。
ところが、池田大作は母親が池(チ)姓で父親は成(ソン)姓だ、
ソン・テヂャクだという話があるんですね。(リチャード・コシミズ説。2008年頃には
統一教会と創価学会とオウム真理教のつながりの危険性などを指摘。)
小池百合子とか、小池晃もそういう人物ではないかと思われます。
晃という字も、日本人より在日の方が多く使ってるように見受けます。
そういう風でないと持ち上げられないように見受けます。
バズってる所に乗っかればよいと思ってると危ないかと。
まず、保守政党のバラ撒く情報はデマだと思ってないと危ういです。
工作員は、まるで革新政党がパチンコ推進してるみたいに言いますが
推進してるのは保守政党ですよ。共産党などは批判しているのです。
加担してないのが共産党なのです。
隠れ社民です。それで「野党共闘」の中心になっているわけです。
「オール与党」と「野党共闘」するようになる方がおかしいわけです。
そういった話を知らない初心者の方は、
変質する前のリチャード・コシミズさんの動画を
食い入るように見ておいた方がよいと思います。
コシミズさんも日韓併合賛成派なので
そうは言いませんけれど。
なかなか見かけません。皆無です。
日本国憲法はファシズムを抑止し日本人の人権を守る憲法なので。
北朝鮮と同じ事ですよ。
朝鮮民主主義人民共和国です。
中国の人は、中国政府は共産主義の政党じゃないと批判したりもします。
たまに産経などもうっかりそのまま報道してくれる事もあります。
「共産主義は悪」を盲信すると危ないのです。
本当の共産主義を実現してるのは
それはまぁ日本人にはどちらでもよい事で
当たり前の事をやってくれればそれで十分なのです。
小池晃などの一部をのぞけば、一番野心とか私欲のないのは
やらせてみてファシストが集まって来たら支持者が離れるだけです。
戻そうと必死なわけですから、共産党などたいした危険はありません。
長期的に見ると自民党と同じなのです。
そこが問題なのです。
皇室がどうのこうの言う方は
目が覚めるかなと思います。
幻想を見ていたいとかでなく
まとま
・フリーレンは老人が若者とイチャイチャする話って言われてるけど、そもそもフリーレンって「老人」ではないよね。
・ということについて1人であーだこーだ考えたけど全然考えがまとまらない。
・こういうのについて書かれている本やブログあったら教えてくれ。
「葬送のフリーレンは「老人が若者にドヤ顔したり介護してもらう漫画である」という意味不明の言説が最近ネットで流行っており、人間性に問題のある人達が「この釣り餌は使えるぞい」と日夜この話題で己の醜い承認欲求を満たすために構ってちゃんを繰り返しています。それ自体の是非は今はどうでもいいので放置します。
私が疑問に思ったのは、「そもそもフリーレンは老人なのか?」ということです。
『老人』の定義は様々でしょうが、私は今回老人を『その種族としての寿命を使い切りつつある(いつ老衰が来てもおかしくない)状態』を意味する言葉として用いたいと思います。
たとえば「10歳の犬」は「種族としての寿命が使い切りつつあると言えるので『老犬』である」と定義されますよね?それと同じ考えです。「老エルフ」のような表現を使うとあとあと面倒になるので、老いた人型種族はまとめて「老人」として扱わせていただきます。
これは作中に登場するゼーリエ というエルフとフリーレンの会話からの推察です。
ゼーリエ はフリーレンと同じエルフ種であり、フリーレンの師匠であるフランメの師匠に当たります。このことから雑に考察すると恐らくゼーリエはフリーレンよりも年上だと思うのですが、人間と関わり始めた時期の違いだけであり実際にはフリーレンが年上である可能性は否めません。ただし、作中の言動を見るにゼーリエがフリーレンと比較して極端に若いということはないと思われます。
そしてこのゼーリエ がフリーレンとの会話中に口にした死生観を見るに、まだまだ彼女達の寿命も尽きそうにありません。
「私達はそれを百年後にやっても二百年後にやってもいい、千年ほったらかしにしたところで何の支障もない。私達の時間は永遠に近いのだから。」
もしもこの二人のエルフが千年、二千年後に死ぬ可能性があるのだとすれば、このような会話をすることは難しいでしょう。
また、彼女たちが100万年の寿命を持ち、これまでに90万年生きてきたとしても、このような会話をすることはないと思われます。
自分たちの永遠に近い時間もいつか尽きるこをまだまだ先だと感じていることが言葉の節々から読み取れます。
そのことから「エルフの基準においてまだ老人ではない」と考えることが出来ます。
フリーレンは「老人」ではないわけです。
でも読者はついつい自分たちの基準を当てはめてフリーレンを「おばあちゃん」のように扱ってしまう。
これはまさしくフリーレンが人間に対して行ってしまった錯誤の真逆なのです。
物語の冒頭、「たった50年先の再開の約束」を果たした「まだ100歳にも満たない若者」と思っていた相手はすっかり老いてしまい、その生命を使い切ってこの世界から旅立ったとき、フリーレンは自分の過ちに気づきます。そして、その後何度となくぶつかる時間感覚の違いが、この作品のテーマの一つとなっているわけです。
私も全く同じだったのです。
フリーレンの寿命はまだまだ先であることを知りながら、彼女をどこかで「おばあちゃん」として扱っていた。
どこの馬の骨とも知らない斜め読みのレス乞食が投じた的はずれな一石が、意外な所で私のフリーレン観の過ちを暴いてしまったのです。
そこから派生して考えていくうちに完全に分からなくなりました。
年齢的には3桁4桁だけど外見年齢相応の精神性の長命種キャラクターもいれば、外見年齢と全く中身が一致していない長命種のキャラクターもいます。
そもそも種族として若者か老人かということは人生経験の有無から独立しているとも考えられます。
およその寿命が10日である生き物が10日生きたら、その精神性は老境に相応しいものとなるのでしょうか?
精神年齢は役割によって決定するという考え方も出来ますし、死が迫ることで価値観が変化していくという見方も出来ます。
私達が一般に使う精神年齢はおおよそ「人生において失敗や成功を繰り返した結果、少々のことに動じなくなる程度」のように扱われている側面が強く見受けられます。
そうなると長命種の種族的な寿命から考えたライフステージとは無関係に、実年齢の高さがそのまま精神年齢となるのでしょうか?
これは大いに疑問です。
そもそもキャラクターに与えられた役割によって決まるという身も蓋もない答はあるにはあります。
江戸前エルフのヨルデが600歳超えの年齢に関わらず全体として言動が幼いのは、そういう設定のキャラクターであるからだと結論づけて考察を止めることは可能でしょう。
でも本当にそれでいいのでしょうか?
分からない。
もう分からない。
10歳の老犬を擬人化した時、その精神年齢は人間の60歳に相当するものであるべきなのか、人間の10歳にそうとうするものであるべきなのか、その答を延々と探し求めるようなものです。
「答えなんてない」で終わりにすべきだという方向に直感は動いています。
でも試しに人に聞いてたり、本を開いてみれば別の答えが返ってくるかも知れない。
聞くべき相手も開くべき本も分かりません。
誰か助けてくれ~~~~。°(´ฅωฅ`)°。
無性にファイト・クラブを観たくなった。やっぱり面白かった。プライムでもサブリミナルチンポは無修正だった。
エクソシストもそうだけど、あれってサブリミナルというにはハッキリ写しすぎじゃねって思う。ちょっと再生ボタン連打すれば捕まえられるし。なんか写りこんだ?というのも認識出来ないレベルで挟み込んで無意識に刷り込むみたいな話じゃなかったっけ。ファイトクラブの方はまあ作中でも言及されてるし、演出に気付いてもらわないと困るのかもしれんけど。
電話がタイラー・ダーデンと繋がるツールになってたり、廃屋のキッチンで二人が同じ画面に収まらないシーン(タイラーが部屋から出た瞬間にエドワード・ノートンが入ってるとこ。逆かも)を見て、ジョジョのドッピオを鮮烈に思い出した。元ネタはこれなのかもしれないなって思った。メメントとかもまんま取り入れてたし。
前観た時は深く考えず、単にストレス由来かなんかの二重人格なんだなあくらいに思ってた。今回はドッピオとディアボロの関係を踏まえると非常に腹落ちした。エドワード・ノートンのこうありたい自分という願望がもう一人の人格として形を持ったんだなって。
気弱な優男風のエドワード・ノートンに対して、同じ身体を持つはずのブラッド・ピットが容姿といいファッションといい真逆なマチスモを体現してるのも腑に落ちる。ドッピオも体型が本当に変わってたし。
ブランド品での気晴らしに埋没する妥協と、夢をごまかす学生に銃を突きつけて本気で取り組めと脅すような破壊願望。理想的な自己実現(?)や欲求への誠実さと、社会性(敢えて良心とは言いたくない)の二項対立。「愛」は前者のようでも後者のようでもある。
前もネットの受け売りの視点で消費社会がよォ……みたいな見方はしていたけど、もっと肌感覚レベルで一人の人間の葛藤の物語なんだなって思えた。結局爆破はするけど……