はてなキーワード: 別世界とは
先週末、紅葉を見に行って来ました。
ここは、テレビで紅葉の様子を放映していたので行って来ました。
美術館なので、入館料が1400円掛かりましたが、ネットで購入すると割引があり、1100円で入館できます。
入り口からモミジの紅葉が始まり、奥に入ると日本庭園が広がり別世界の様子に驚きました。
日本庭園には、緑の苔と赤いモミジの紅葉のコントラストが最高でした。
手入れもしっかりされていて、見ごたえ十分でした。
外国人観光客も来られてましたけど、あちらこちらで歓声が上がってました。
もし、行かれる方はホームページで紅葉の状態を調べて出かけられることをお勧めします。
その他、お勧め出来る場所はパワースポットで有名な、神奈川県足利市にある大雄山最乗寺((天狗山)もお勧めです。
今週末は天気も良さそうなので、秩父方面のドライブを楽しみたいと思います。
是非、皆さんも週末ドライブを楽しんで下さい。
くれぐれも安全運転で!
細川徳生
適度に仕事をして、一人で生きるのに十分な収入を得られるし、家族仲はそれなりによく、定期的に友人と遊ぶ。毎日楽しく過ごしている。自分は恵まれているのかもと思いつつ、運が良かっただけだったのかとも感じる。文才には恵まれなかったしね。
暇があれば平均年収を調べたりして、自分はもらってる側の人間なんだな、と思ったりする。が、同時に自分より有能な人間は腐るほどいるだろうにそんなはずはないだろうとも思う。みんな、私の年収を知ったら(その見合わなさに)驚くんだろうな、と思うと絶対に言えないな。
欲しいものは大体買えるけど、入手の難易度が高すぎるもの(転売に出されがちな人気商品とか)に対しては手に入れるためのエネルギーを出せなくなった。
結婚に関しては同世代の知人で既婚者がいないからか、焦るよりもなにより別世界のように感じる。今が100点満点にすると90点くらいの生活をしているから、下手に環境を変えたくないなというのがある。
みんな、よく我慢してるなと思う。なにで苦しむかは自分で決めたいから、許せないことがあったら環境を変えたり、辞めたりして今に辿り着いた。もう概ね満足だから、現状維持ができるようにとか、今後の備えとかとして頑張ろうと思う。親兄弟だっていつまでもいるわけじゃないしね。
「何不自由ない生活」が全員に行き渡るはずがなく、椅子取りゲームのようなものだと、ずっと思っている。だからたまたま座れた私が次に腰を上げたときのことを常に考えてしまう。
今、いろいろな悪条件で頑張っている有能な人たちが皆、その環境を見限って別のいい場所を探すようになったら、私の安寧な生活はきっと誰かの手に渡るのだと思う。
第一章スバル編(ヒナ編)は非常に面白い名作だったし、(現在公式サイトで第一章全話無料公開中https://comic-zenon.com/episode/10834108156770278846)
第二章コスモ編(琴乃編)は個人的にメインのコスモと琴乃にかなり不快感があったものの、琴乃と対立する思想を持つサブキャラのアルタ・ゆっこ・はるみの活躍が面白く、サブキャラ達の影響を受けて変化していく琴乃とコスモを最終的には応援できて、第一章とはまた違った面白さを楽しめた作品だった。(ちなみに、コスモと琴乃の読者人気は高いように見える。)
そして第三章ギンガ編だが…有料先読みをしている読者の評価は、賛否両論激しく分かれているようだ。
第三章のテーマや結末を概ね好評価している層には、自分の推しに炎上された経験だとか同担害悪厨に迷惑した経験などを持つ人々が多いのか、読者自身のオタ活経験を想起しながら作品を咀嚼している傾向がみられる気がする。
逆に、自分自身のオタ活を振り返られない人々や、自分とは別世界で繰り広げられている娯楽夢物語として作品を楽しみたかった人々には、第三章は酷評される傾向がある気がする。
このように評価が別れる要因となったのは、おそらく、第三章で『ほんとうのさいわい』を手にしていると読み取れる存在が、作品内で活躍する描写のなかった『すべての善良なモブオタク』だったからだろうなと思う。
物語世界における『正しさ』『勝者』『強者』に該当する概念は、読者が作品を読み解き咀嚼していく際の軸となる非常に重要なものであり、特に近年の日本のエンタメ消費層の思考は『自分は間違っていない』と感じられる事物に好意を寄せたり執着する傾向が強いようにみえる。『強キャラ』『真相を理解している正しいキャラ』などが好かれるのだ。
それなのに、第三章では『作中に描かれてこなかったモブオタクこそがこの物語の勝者』なのだと、物語終盤になって打ち出されてしまった。顔出しキャラクター全員がどんどん不幸になっていく姿を単行本5、6冊分ほど散々描き続けてきた後に、突然別の『正解』を後出しされたようなものだから…そりゃあ『自分は間違っていない』と感じれる事物に執着する性格の読者ほどキレるだろう。
とはいえ、作品内で実像を受肉して活躍することがなかっただけで『モブオタク』の存在はあったし、『チャンネル登録者数100万人以上の配信者のファン』が数人の顔出しキャラクターだけな訳がない・未登場のファンにだって心や人生が存在しているということは、意識せずとも想定できる常識だとも思う。
この『善良なモブオタク』の概念を解像度高く持てるか持てないかの違いが、作品に対する評価を大きく違えさせ、同じ漫画を読んでいるとは思えないほど両者の第三章に対する論点・着眼点を違えさせたのだろう。
(そういうこと以前に、登場人物がずーっとひたすら苦しみ不幸になり続ける様子を見続けなければいけないことが、単純にしんどくて連載を追い続けられなかったという人も散見した。まぁこの点は、好きなキャラが不幸になったり痛めつけられたりする描写に興奮できる人々には大好評だったようではあるが。)
斯く言う私の第三章ギンガ編への評価だが…
描かれたテーマもメッセージも良かったし面白かったものの、『面白いマンガ』にはまとまりきれなかった実に惜しい作品だと思う。
例えるなら、盛り付け方やサーブが杜撰でモヤモヤするけども味や栄養は最高に良質なコース料理、という感じだ。
同じテーマ・エピソード・結論・メッセージのまま、読者がもっと面白く感じられる構成編集は可能だったと思う。
そう惜しんでしまうくらい、最終回の85話は物語を畳むには弱過ぎたし、これまでに回収されなかった伏線と前振り無く唐突に後付けされたような描写があり過ぎた。
「正直、物語は変えないまま再構築して最初から描き直された第三章を読みたい」という感情を抑えられないくらい、不完全燃焼だ。面白い内容だっただけに、面白いマンガではなかったことが本当に悔しい。
しかも、作品や作者を侮辱しながら酷評する反転アンチがネット上で暴れているせいで、SNSでは私のこの素直な感想を言い辛いのもストレスだ。少しでも作品に対して惜しむ発言をすると、反転アンチ共は自分達に都合の良いように発言の主旨を捻じ曲げて、作品と作者を侮辱する材料にしてくる。不快極まりない。
なので、私が感じた第三章ギンガ編の惜しい部分をこの増田にまとめていく。
そういう主旨なので、私は第三章の内容を面白く思っているが、面白かった話はここにおそらく書かない。
回収されていない伏線と、意味がわからない描写についてが主になると思う。
マンガの描写に対して「わからない」「わかりにくい」と評することは、「自分の読解力の無さを作品に責任転嫁しているだけではないか?」と妥当性が問われる部分であるが、今回は私の主観で書く。
別作品のネタバレ含む例を挙げて恐縮だが、『ちいかわ』島編を普通に読んでいけば「人魚を食べると永遠のいのちが手に入るという噂がある」「人魚を食べると尻に何かができる」「人魚の鱗が落ちていた家の住人の尻に電池ソケットがあった」という、開示されてきた情報を繋ぎ合わせて、「ちいかわの世界では人魚を食べるとロボ化して永遠のいのちを得られるのでは」と、3つ目の情報が出た時点で誰でも想定できると思っていた。
https://x.com/mo2p_seira/status/1717191097229996544
漫画の内容を読者に正しく理解してもらうためには、犯人の過去回想という事実として「ちいかわの世界では人魚を食べるとロボ化して永遠のいのちを得られる」のだと描写する必要があるんだなと、ショックだった。
第三章ギンガ編は完結とのことだが、『ガチ恋粘着獣』自体は短編エピソードの掲載でまだまだ続いてくれるそうなので、新規エピソードも勿論楽しみではあるが、第三章で回収されなかった伏線の回収や、読者に伝わっていない難解表現部分の補完などもあると良いなと期待している。
第一章スバル編(ヒナ編)の名作という評価は、後半ラスト4話の盛り上がりと決着の素晴らしさに依るところが大きいと思うので、第三章ギンガ編も補完次第で評価は向上すると思うのだ。
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都心に住んでた時は決してオシャレさんではない自分が、それとなくオシャレなものに触れる機会が多かった
オシャレなカフェも買い物で疲れたから足休めに入って、そこから出かけた時は度々立ち寄るようになった
クリスマス時期にはグリューワインなのかサングリアなのか、そんな感じのホットワイン系カクテルがメニューにあった
人生ではじめて飲んで何コレおいしい、自分で作ろう、とワインとオレンジジュースとシナモンで真似事したりした
周囲には何も無い、家と畑とスーパーくらい
今日は久しぶりに用事で出かけて、ターミナル駅の成城石井でグリューワインが売ってるのを見かけた
スパイスももうブレンドされててレンチンするだけで飲めるらしい
あの時飲んだアレと同じものなのかな、とさんざん眺めつつも買わずに帰ってきた
けどちょっと今も気になってる
今度見かけたら買ってみようかな
貞操観念について最近考える事があって、昔会った事がある人の事を思い出した。
数十年前、某巨大掲示板でよく話をしていたグループのひとりが近所に住んでいることが分かり、ご飯でもという事になった。
別に下心も何もなく、暇だったのだった。
ご飯食べてカラオケ行って、じゃあまたねーと帰って来たのだが。
上目遣いでやけに距離が近いなーとは思っていた。
痩せててロン毛で細面で、か細い声をしてなよなよしたバンドマン風の男の子だった。
いや、実際バンドのボーカルをやっていたんだったか。詳細は忘れた。
キャーキャー言われたり手を出したり世話になったりしてフラフラ暮らしている事を
悪びれもせず話してて、こちらも「ふーん」と聞いていた。
何度か会ううちに「そっちがそうしたいなら別にやっても良いんだよ...?」的な波風に気づいたが
全く興味が無いどころか、なんとはなしに可哀想な気持ちになっていた。
それは悪意ではなく、多分彼なりの友情の示し方であり、おもてなしであり、他に差し出すものがないようにも感じられた。
中学生みたいな自己憐憫と自己嫌悪と自己顕示欲とナルシシズム。
セックスまみれで怠惰で、消毒液と安いコロンみたいな匂いがするラブホテルみたい。
女の子ではたまに見かけるけど、男の子でもこういう人はいるんだなあ。
彼にとってはそういう風にしか生きられない時期だったのかもしれない。
なんでこんなことを思い出したのか分からない。
たまたま最近世界中のあちこちに何人も女性をキープしているような、テストステロン過多な白人の50代男性数人と話す機会があったからかもしれない。
彼らにとってはセックスは食事した後にバーに行って友達と一杯飲むのと大して変わらないノリなのであった。
ただの日本の会社員である自分とはあまりにも別世界過ぎて話が全くかみ合わず話している分には面白い。
[No.1]魔々勇々/週刊少年ジャンプ新連載試し読み - 林快彦 | 少年ジャンプ+
本誌で読んで「絵はプロレベルですが……」になった。
2日経って+に来たので皆はどう思っているんだろうとコメント見たら皆褒めてる。
もう一度読んだけどやっぱり俺の感想は「絵や話の繋がりは上手なんだけど、物語そのものが良くわからないよ……」だった。
1話の物語はただシンプルに「勇者とは守るために戦うものである」のみが語られている。
なぜ魔王に引き取られたのか、勇者とはなぜ生まれるのか、魔王に引き取られたはずなのに東軍寮に住んでいたということは魔王も東軍寮で暮らしていたということか、そもそもこの東軍寮とは魔王と人類どちらの軍なのか、といった部分は「そのうち語られる謎」として2話以降に先送りにされているのだから。
だが、私はこのテーマが全くピンと来ない。
何故ならこの物語で作られている「紋章によってある日勝手に決まる勇者と魔王」という設定とそれは全く噛み合ってないからだ。
御仕着せの役割が人格を育てるというなら、平和な時代に生まれた勇者であるコルレオになぜそれが育ったのか?
「1話はあくまで1話であって読み切りではない。作品の起承転結の小さなプロトタイプではない」という意見の元に打ち切り会議の最初のラインとされる10話まで様子を見るべきという意見なら分かる。
私が不思議なのはこの1話の段階でここまで手放しに褒められていることだ。
いわゆる「ウルトラマン型」の物語と言えるが、そこには「勇者とはなにか」というRPG世界観への問題定義が混じりその解読に多くの時間が割かれてしまった。
「勇者」とは何者であるかというテーマについて名作であるダイの大冒険が出した「勇者とは勇気あるもの」という回答は、あの世界において勇者が他者によって名付けられるから成立するものだ。
コルレオが暮らす世界でもエヴァンが暮らす世界でも勇者はあくまで「魔王と一対の特殊な力を持つもの」でしかない。
そこに勇気の必然性はなく、むしろ「もう1人の魔王」以外の何者でさえないと言ってもいいだろう。
なぜ「勇ある者と呼ばれるのか」についての語りは魔王勇者テンプレートの上に載っかった上でそれを再定義するという軒に住み着き家主の権利に問題を投げかける「ぬらりひょん」じみた妖怪ムーブだ。
それが礼儀として正しいか間違っているかではなく、「漫画として成立させられているのか疑問がある」ということが今は問題である。
漠然と存在する「勇者と魔王の役割」という物語はすでに多くの作家によって分解と再構築が繰り返され、作品ごとに多用な価値観の元で扱われている。
神が遊ぶゲームのコマであったり、才能の証明であったり、家督であったり、職業でしかなかったり、そこに来て改めて「僕の作品における勇者とは実は」をいきなり1話でぶっ込まれても、そもそもひっくり返すべき元々の勇者像がまだ読者にはわからないのだから「そうですか」で終わってしまう。
「勇者は勇気があるから皆が勇者と呼んでくれる」という発言は、右手に宿る紋章とそこから生まれる力が否定する。
「右手に紋章が現れたものが勇者と呼ばれる」というシステムが既にあまりにも前から先にあり、そこについて紐解くには時間が経ちすぎているのだ。
「旦那とは仏教から来た言葉であり、キリスト教徒がそれを用いるのは自身の信仰の否定である」なんて話をいきなり21世紀にされたら困惑するようなものだ。
「俺は勇者になったっとして何がしたかったんだろう……」というテーマで突き進めば私もこの展開に納得は出来た。
だがこの物語は「勇者という言葉は何を意味しているんだろうか?」で進んでしまった。
そんなことを言われても我々読者はそもそも「この漫画で勇者を何と定義してるのかなんて知りませんよ。作者が勝手に決めるんですから」としか言えない。
だから私はノレなかった。
それだけの話といえばそれだけの話だ。
男子校出身、26歳までホモソどっぷりで生きてきた。自分が非モテなのは分かってたし、わざわざ恋愛に挑戦して傷つくくらいならと思って、男コミュニティでそれなりに楽しくやってきた。
でも、やっぱり彼女が欲しいとかそういうことがしたいって気持ちには嘘をつけなかった。周りが彼氏彼女の愚痴を言っているのが羨ましかった。だから、今更感も漂うけど一念発起して、モテるための努力をするようになった。服装、眉毛、髪型、スキンケアとか外見を人並みに気遣うようにして、周りからも変わったねって褒められた。コミュ力は最低限あると自負していたけど、非モテ特有の会話になっていたことに気付き、直すようにした。マッチングアプリも課金していろいろ試した。それでもそう簡単に彼女はできない。顔は下の中クラスで写りのいいプロフ写真なんて撮れないから、マッチに辿り着くのも至難の業なのだ。
そしてモテるための努力をするようになって、家の外を歩くのが辛くなった。今までは恋愛を自分とは別世界と割り切って生きてきたから、周りに迷惑をかけず自分が楽しめているならそれで良いと思っていたし、実際不満もなかった。でも今は違う。人並みに彼女が欲しいと思うようになって、周囲の幸せそうなカップルが眩しくて直視できなくなった。こんなカッコよかったら性格悪くても取っ替え引っ替えなんだろうな、とか、自分と同じレベルの顔のこの人はどうやってこの彼女ゲットしたんだろう、とか性格悪いことも考えるようになった。そしてこんなこと考えてる奴に彼女なんてできるわけない、と自己嫌悪で更に負のループに陥る。男性も女性も顔を見るのが辛いから、会話以外で人と目を合わせないようになった。他の人は自分には一生手に入らない幸せを得て、自分は手遅れの歳になるまで何もできないのだと思うと、どんな楽しい1日でも帰り道には憂鬱になる。こんなことなら最初から恋愛を諦めたままでよかったのに、と思うこともある。
自分と同じようにもがいている童貞は、もっと前を向いて進んでいるんだろうか。ただでさえ拗らせてミソジニーにならないよう必死に自制しているのに、このままだと人間嫌いが加速して、誰にも振り向かれない性格の悪い童貞で終わってしまうのではないかと思うと、毎日不安で仕方ない。
25歳どころか物心がついたときには子供を持つつもりがなかった。
たまにめんどくさい親戚とか古い昭和脳の職場の人に下記のような言葉を投げかけられたが、子供が産めなくなる年齢の40歳近くになった今、こんな言葉を鵜呑みにしなくてよかったなと心から思う。
親戚「産めなくなったらほしくなるわよ」(30歳になる頃)
→ならんかったわ
職場の人「まだ若いもんねー、きっと周りの友達が産んでるの見たら欲しくなるわよ」(結婚したての26-27歳頃)
→ならんかったわ
特に後半。
友達が産んでるのと私が産むのに何か因果関係があるんか??と言う謎。
周りが持ってるたまごっち、私も欲しい!!!!みたいな感覚なんだろうか。
周りが持ってるミルキーペン、かわいい!!!私も欲しい!!!!みたいな感覚なんだろうか。
友達の子供を見ると可愛いなぁとは思うけど、自分がそれを育てるかというと話は別。
特に「友達の子供が可愛くて賢いのは友達の遺伝子が優れていてなおかつしっかり育児をしてるからであって、私にそれらは一切ない」と思うので、別世界の話と切り分けてしまう。
遺伝子も腐ってるし、家事も最低限しかしないし、教育とかもうじぶんの受験勉強で疲れたのにまた他人(子供)の分までやりなおすとかマジ勘弁。
となる。
というわけで若い頃に投げかけられた言葉は全然自分に刺さらなかったなという感想。
あ、最近は「子供いないと老後どうすんの?」という言葉も言われたな。
これに関しては「私みたいなクズが育てた子供が親の面倒なんて見てくれるわけないじゃないですかー、今の私自身が親の面倒一切見てないのにー」でオワオワリ。
世の中不穏な話が多いが、私は夫が大好きだ。
夫が間抜けな顔で、厳しい顔で、むにゃむにゃした顔で、とにかく無防備な姿で寝てるのがかわいい。
YouTube見て「ふふ」と笑ったり、突っ込んだりする姿も愛おしい。
私の趣味で家に置いてるぬいぐるみたちを枕にして抱きしめてるのなんて、本当にわたしの口元を緩ませる。
「わたしは掃除が苦手やからお願いね」と言ったら、毎週末風呂トイレ掃除と掃除機クイックルワイパーをかけてくれる。
頼んでなかったけど、「皿は洗う」というので任せてたら毎回必ずやってくれる。
夫の気遣いと優しさと、一緒に家庭運営をしようと思って行動してくれるところが本当に大好きだ。
「ご飯何がいい?」って聞いたら「何でもいい」と言いやがるが、マジで何出しても満足そうに食べてくれる。
「味はどう?」って聞くと「うんうん(いい顔)」だから作り甲斐もある。
「何作るか全く浮かばないからデリバリーでいいかな」といえば、何の文句もないし、なんだったら「しんどいときはデリバリーでも惣菜でもインスタントでも使えー」と言う。
求められないからこそ、私は出来る限り頑張れる。
「コンビニ行くからついてきてー」「スーパー行くからついてきてー」なんて些細なことにも付き合ってくれる。
私が願うことを夫は否定しない。
夫は懐に入れた人間に対してはどこまでも優しい。
優しいと言うのは少し語弊があるな。
優しいと言うよりは、労力を厭わない。
大事にすると決めた人間のためなら、面倒なことでもあっさり承諾するし協力する。
この辺は夫の実家を見ているとわかる。
義実家の人たちはそう言う人だから、夫はそう言う性質を受け継いだんだと思う。
夫に愛されてるとか愛されてないとか、まあそれは私の感じ方。
実際はどの程度愛されてるかは分からない。
だけど夫は私を大事にする人と決めて、夫ができることをしてくれてる。
そんな夫を私はめちゃくちゃ愛してるし、私の出来る全てで夫の助け守り大切にしようと思う。
【追記】
似たような方がたくさんいてほっこりしたり、たまに辛辣だけどある意味真理って言葉をくれる人もいて、書いてみて良かったなと思ってます。
(夫の寝顔を肴に延々呑んで、興がのった結果書いたのにこんなに見られるとは…)
「夜更かししすぎるな夫が心配しそう」と言ってくれた人ありがとう。
ど深夜に書いたのまで気にしてくれて、あなた優しいですね。
私は大した人間でもないのに、そんな風に言ってくれてありがとう
こんな得体のしれん人間にそんなこと言える人の方が優しいし思いやれる人なんやで
子なしだからこんなゆるふわだけど、知り合ってからは20年以上で結婚するまで紆余曲折あるから新婚ラブラブフィーバーでもないんだ、ごめん。
※なんか不倫してたみたいに見えるな笑違うよ笑
子は授かり物だからか何ともいえんけど、出来たら出来たでまたお互いにできることとか話し合ったり、都度調整しますね。
そこまで気にかけてくれた人ありがとう。
聞きたかないだろうけど、私は夫が家事手伝ってくれるからとか関係なく無茶苦茶好きでその上家事までしてくれてさいく〜↑↑とか酔っ払いテン上げみたいなノリで書きました。ごめんなさい。
私には出来すぎた夫なので、これからも感謝と思いやりを持ってやっていきます。
「私も!」「俺も!」とコメントしてくれた皆さんはこれからも幸せでありますように。
「どうやってこういう世界に入るの?」とコメントされたり、それに準ずることを書いてくれた皆さんに…
ごめんなさい、何書いても説教くさくなるし、押し付けがましいな
ただ言えるのは、「その世界は意外と近くにあるし、入るとかじゃなくて手を伸ばせば案外あっさりと届いたりしますよ」かな
少なくとも私が夫と夫婦になる過程であったのは、別世界への扉を開くというよりは手を伸ばして掴んでそれを離さなかったというだけかな。
あー説教くさい、ごめんなさい
とにかく、読んでくれたり反応してくれた全ての人にありがとうございます。
夫には「ありがとう!」「いつもありがとうね」「神かな?」「天使ですね!」「好きです」「大好きです!」「結婚しよ…してる!」「残業するなら会社にクレーム入れるか、いや株主になって総会で言うか?」などと過剰な愛情表現してます。
意義のある死はありますしそれを目指すべきですよね
みたいな話ではないと。(それは「意義」が肯定されているだけなので)
彼は死んでいるからそれだけで素晴らしいなあ!とか
彼は生きているから不幸なんだ、とか
ならば、無いね。「死を肯定」する考えは、世界に存在しないと断言できる。
天国で生きられるから良いことですよね、これは別世界での生の肯定だし
俺という殺人鬼は人類の救済なのだ、これは殺すという生き様の肯定だ
生きていても苦しいだけでいいことなんてない、これは生の否定だね
死は無だからだ。
無を指さして、これは素晴らしいですということはできない。無の周辺にとりまく何かを指さして褒めることはできるかもしれんが、それは死自体ではない。死の周辺にある生の肯定にすぎない。