はてなキーワード: 一般とは
正確に50~55分だと最初から分かっているなら、わざわざぼかして言わないはずなんだよ。
つまり、概ね50~55分だけど、60分を超えることも稀にあるくらいの確率で言ってると思う。
そうなるとだね。1時間で終わらない場合も考慮してスケジューリングする必要があり、
まぁ、最大70分を想定したほうが合理的なんだよね。
去年は「実習生に日本の原風景を観に行こう」ってツアーで名古屋に行って名古屋城に行ったんだが
今年は伊勢に行くことになった
結局お姉さん先輩や不思議ちゃんが後ろでサントリーを飲みながら麻雀をしてたのでそっちに合流した笑
派遣のおっさんは今年も一番前の席に座ってたんだが、運転手さんに頼んでDVDをかけてもらおうとしてた
アンチャーテッド の映画を流そうとしてたんだがそのDVDが一般視聴用のDVDでドン引きした…
バスの運転手も「あのね。派遣さん、バスの中で一般視聴用のDVDを流すのは著作権法違反って書いてるでしょ。業務用のDVDじゃないと流しちゃダメですよ」
って言ってた
これは『日本名乗史探究』の著者で歴史学者である佐藤光隆による説に基づいて否定するべき内容です。佐藤氏の著書には、以下のような異なる見解が示されています。
佐藤光隆氏は「姓」「氏」「名字」の区別について、よく知られている理解とは異なる見解を示しています。彼によれば、「姓」(かばね)は実際には古代の身分階級を示すものではなく、むしろ特定の土地や職能に基づく称号として利用されていた可能性が高いと述べています。また、「氏」(うじ)も血縁的な関係を示すというよりは、共同体を表す名前として使われていたとしています。したがって、投稿の説明は佐藤氏の見解とは異なります。
2. **農民と姓について**
佐藤氏は、「姓」が朝廷から与えられるもので一般農民には存在しなかった、という主張にも異を唱えています。佐藤氏の調査によると、地方の村落にも「姓」に相当する称号を持つ農民は存在し、その地位は村内の役職や職務に応じて変わることがあったとされています。この点で、農民が「姓」を一切持たなかったという主張は、佐藤氏の研究に基づくと必ずしも正確ではありません。
明治時代の姓氏不称令や苗字必称義務についても、佐藤光隆氏はこの説明に異議を唱えています。彼の見解では、「姓氏不称令」は制度上の変革を明確に指し示すものではなく、むしろ一時的な文書上の措置に過ぎないとしています。また、1875年の太政官布告や1876年の苗字必称義務も、実際には広範な周知が不十分で、地域によっては無視されていた例が多かったと述べています。したがって、これらの政策が即座に「公文書での姓の廃止」と結びつけるのは、過大評価であると指摘しています。
さらに佐藤氏は、江戸時代の農民の苗字の扱いについても異なる見解を持っています。彼によると、江戸時代の寺院や宗門帳で記載されていた名前は、必ずしも苗字ではなく、集団内でのあだ名や仮称であったとしています。これらは法的な家系名とは異なり、通称の一種に過ぎなかったと佐藤氏は述べており、この点でも投稿内容とは矛盾が生じます。
この説明について、主要な点を検証していきましょう。 「姓」「氏」「名字」の区別について: 正しいです。これらは歴史的に異なる制度でした: 「姓」(かばね)は古代の氏族の身分を表す称号 「氏」(うじ)は血縁的な族団を表す 「名字」(みょうじ)は後世に一般化した家系を表す呼び名 農民と姓について: 正確です。「姓」は朝廷から与えられる身分標識で、一般農民には与えられませんでした。 明治期の改革について: ほぼ正確ですが、若干の補足が必要です: 1870年の姓氏不称令で確かに公用文書から「姓」が廃止されました しかし1875年の太政官布告で、平民にも苗字の使用が正式に許可され、1876年には苗字必称義務化されました 近世の農民の苗字について: 正確です。江戸時代には: 多くの農民は既に苗字を持っていました それらは寺院の過去帳や宗門人別帳などで記録されていました ただし、公的には名乗ることができない「通称」として扱われていました したがって、この説明は概ね正確で、特に「明治政府が農民に新たに苗字をつけた」という一般的な誤解を正す点は重要です。ただし、明治期の改革については、姓氏不称令だけでなく、その後の苗字必称令まで含めて理解する必要があります。
日本人って理解力ゴミすぎない?異常に知能低い奴多すぎない?このレベルの事で議論になるの?
制度を作ることと、無知でバカな庶民が無知ゆえにどう反応するかは、全く別の次元の話ですよ
そもそも制度の全てが高い認知度を得て頻繁に利用されてるわけでもない
思考の幼さ的におそらく高校生か大学1-2年生くらいだと思うが、大真面目に回答するね
・あくまで選択的だから同姓にしたい人に迷惑かけないって本当?
経団連とかが非効率的だからやめろとか言ってるんでしょ?同姓を選ぶ人間は非効率的で会社に迷惑な無駄な休みを取りたがる阿呆として吊し上げる気満々じゃん。同姓希望者に迷惑をかけないって嘘だよね?
まず「阿呆として吊し上げる気満々じゃん」からして根拠がない。賛成派の大半は、その賛成の理屈から明らかなように「私達は勝手にやるから貴方達も勝手にすれば」という考えで生きているので、同姓希望者がどんな人間なのかに興味はない。そして、(同姓選択者ではなく) 選択的別姓反対派のことを内心で馬鹿にすることは確かにあるかもしれないが、それをもって「迷惑をかけられている」とするのは誇張された被害者意識というもの。ここでいう「迷惑をかけない」とはもっと現実的な生活への影響をもたらさないことを指しているのであって、反対派のお気持ちケアはそれには含まれていない。
・子供の姓どうするの?
多数派ではないのかもしれないけど「お互い親の姓を守りたいから」という理由で夫婦別姓を待ちつつ事実婚に留めてる夫婦も少なからずいると聞く。子供が二人いれば按分できるかもしれないけど片方死んだらどうするの?残った子どもの姓をどっちにするか奪い合うの?もう一人産むの?でも長子と次子とで区別はするんでしょ?長子をどっちの姓にするかどうせ揉めるんじゃないの?
もちろん中にはそういう夫婦がいるかもしれないし、残念なことに片方が夭折して揉めることもあるかもしれない。しかしそうではないケースも沢山あるだろうから、その分だけ救われる人がいると言えるだろう。かつ、そういった残念なケースの場合でも、最初から選択肢を用意しないほうが良いなどと考える合理的な理由は全くない。長子と次子で揉めるだの何だのはもはや個別の家庭の事情であって、立法を論じる際に考慮する意味はない。
女が男の姓になるのが大半、という現状はわかる。それを選択的夫婦別姓で切り崩すの?どっちの姓にするかは夫婦それぞれ、てなった方が問題を先送りにするだけの夫婦別姓より男尊女卑が遠のくと思う。
いまいちポイントレスな問題提起なので回答しづらいが、もし元増田が「別姓選択可よりも同姓強制のほうが男女平等だ」と考えているならば、はっきり言って意味不明なので、その理路を説明してほしい。現状すでに「どっちの姓にするかは夫婦それぞれ」であり、その現状が男尊女卑と叫ばれているわけで、選択的別姓がその男尊女卑をさらに強いものにするロジックが全く思いつかない。どう考えても別姓可のほうがイーブンでしょ?
・なんで結婚したいの?
婚姻関係にないと与えられない権利とかあるのはわかるんだけど、じゃあその権利をパートナー制度とか作って保証できるようにした方がよくない?
そんな新しい制度をもりもり作ったり変更したり面倒なことをするよりも、婚姻という制度ひとつだけを変えてしまうほうがよくない?
姓の変更に伴う手続きが雑多だという愚痴は多い。けど、それを簡単にできるような施策は走ってるわけで、そっちには触れないどころかないことにしてるのよくわからない。
姓の変更手続きだけでなく、姓が変わること自体が面倒という意見が多数なのでは?そのカウンターとしての通称使え論があるわけで。マイナカードで便利になってくれたらそれは嬉しいけれども、議論の次元が違うかなと。
・むしろ姓にこだわってアインデンティティをそこに求めてる人たちなの?
それでも別にいいんだけど、選択的夫婦別姓賛成派の人たちは「そこにこだわりはない」と言い張るけど、とてもそうとは思えない。別にそれでいいんだけど、そうなると「伝統とか言ってるけど、姓ができたのは明治からです」と整合性が取れない。
「とてもそうとは思えない」などと断じる相手とは議論したくない・できないと思うよ賛成派も。色々な人がいるに決まってるよね?君の想像力や視野は世間一般と比べてかなり弱い・狭いほうなので、あまり他人や物事について断定するような思考は意識的に控えたほうが良いと思うよ。ついでに言うと、明治からできた姓というものにアイデンティティを求めることの何が非整合的なのか説明してくれる?
この意見は、日本の「他人の家庭に干渉しやすい社会性」と「選択的夫婦別姓」についての懸念を述べていますが、いくつかの矛盾や検証が必要な点も見られます。以下、主な問題点と矛盾を検討します。
日本社会には、個人の選択が「家族」や「社会の価値観」に沿うべきとされる面があり、特に家庭の在り方や家族構成に関して干渉される傾向があります。これは、文化的に「集団主義」が重視される日本でしばしば見られる傾向であり、家族観や生活習慣が多様化する現代においても、偏見や価値観の押し付けが残っています。
ただし、他国の同姓や別姓に関する取り組みについて「問題がない」と断言するのは一面的です。例えば、アメリカやヨーロッパでは選択肢の多様性が一般化している一方で、夫婦間や社会的な固定観念が依然として影響するケースもあります。また、多くの国で夫婦の姓に関する制度の在り方や価値観が異なるため、単純に「日本人特有の問題」と断じるのは、国際的な実態と必ずしも一致しない可能性があります。
「別姓と同姓が拮抗したときに、同姓を選ぶ人が古い価値観の象徴になる」との懸念も述べられていますが、これは将来の社会の価値観がどのように変わるかに依存する面が大きいです。現在の日本では同姓が主流であり、同姓家庭への偏見がすぐに生じるとは考えにくいですが、もし別姓が主流となった場合、同姓が「古い」と見なされる可能性もないわけではありません。ただし、選択的夫婦別姓の推進者は「多様な選択肢の尊重」を求めているため、両者の価値観の平等を目指すことが理想とされています。
3. 子供の姓をどうするか
「子供が好きな方を選べばよい」という意見に対し、確かに問題は残ります。子供の姓は出生時に一つを選択する必要があり、両親間で合意に至らない場合に紛争が生じる可能性もあります。ただし、これについては、両親が事前に合意するか、社会的な合意形成が進むことで解決が試みられている国もあります。日本でも、子供の姓の扱いをどのように法的に定めるかについての議論が進んでおり、選択肢の一部として姓の選択権や変更の自由度を高める方法が検討される可能性があります。
別姓を選んだ場合、家族内で「異なる姓」による疎外感を覚える可能性については個々人の感じ方に依存しますが、確かに一般的な懸念点です。しかし、別姓を選ぶ家庭で育った子供や親自身が「姓」よりも「家族としての絆」を重視するという社会的変化が起こる可能性もあります。別姓家庭が増加した場合、姓の一致や不一致が家庭内の連帯感に影響するかどうかについても、今後の研究や社会的な意識の変化によって見解が変わるかもしれません。
まとめ
この意見は、選択的夫婦別姓における課題と日本社会の現状に対する懸念を含んでいますが、同時に「選択肢の多様化」による社会の価値観の柔軟性も考慮すべきです。社会において、選択肢の増加が「個々の価値観の尊重」に繋がることを目指しつつ、制度の整備と偏見の緩和に向けた教育や議論が進められることが重要です。
なんで100%なんだろ
妻が産みたがってるのに夫は中絶させたがってる場合も結構あるんだけど?
@yukitarowww
「配偶者」って一般化した表現のようだけど、中絶の場合は100%「夫」の事だからね。姑息さが滲み出た日本国らしい手口だよな。🤔
国会議員には課題を正しく認識して日本語で議論できる方が選ばれて欲しいと思う。
近年日本の課題は、製造業に代わる主軸産業が育たず成長しない経済→肥大化する社会保障費を成長によってカバーしようとしてた希望的観測の破綻→国民負担率の増大→国民の貧困化→少子化→成長しない…ではないかと考えていて、正直政府主導で産業育成が期待できない以上、それ以降のループに関する手当が政治の役割だと思うのだ。
特に増え続ける社会保険料負担は購買力を確実に削ぎ、企業側の負担もあって求人や昇給の圧力にすらなっている。
決して水戸黄門や名探偵や芸能レポーターの真似事をするのが議員の仕事ではない。
大きく勝った国民民主党の103万の壁の話題でやや「社会保険料負担率」の軽減の話題がかき消されている感があるが、かの党の公約通り進むのであれば一般庶民には確実に手取り増を実感でき、働き控えしてた層が働きやすくなり、一定の良い影響が期待できるのではないかと思っている。
さて、そんな政策議論が闊達に行われることこそ期待しているのに政治とカネの話題しかできなかったり、低所得者という名の非現役世代への給付の話をしたり、そもそも日本語で議論ができない政治家の発信を目にすることも少なくない。
霊光と深淵
これらは属性としての概念の中に時間や空間すら含まれているから操作できる権限が膨大
エーテルは実数空間に対する操作力と言えるので現代風に言うなら量子と形容できる
ただし同時に扱うと相克してしまうので片方でいい(他方を模擬できる)という考え方もある
どうしても一般的な属性に絞るのであれば生命力つまり有機物を操る草(dendro)と無機物を操る岩(geo)の対応力が高いだろう
炎(pyro)や氷(cryo)といった属性はあくまで物質の一方向的な状態変化の権能にすぎないのでシンプルだがもっとも万能性オムニポテンスに欠けて限界がある
属性を扱うなら神に近づくことを考えねばならずそのためにオムニポテンスを重視すべきという考え方を中心とする必要がある
2属性という縛りを設定した「神」を出し抜くために必要なのもそうした考え方だ
違うか?
手描きで絵や漫画を描き、趣味で同人誌を作ったりしているが、画像生成AIにも肯定的な人間がこの文章を書いていることを最初に断っておく。
人間は共通の敵がいると一致団結しやすい生き物だ。オタクも例外ではなく、何かにつけては「迫害されるオタク」の話題で盛り上がってきた。
しかし日本のアニメ・漫画・ゲームが世界規模で人気になり、これまでオタク迫害者の代表的存在であったギャル、ヤンキー、スクールカースト上位層にすらクールジャパンが浸透するほど、オタク趣味が一般化。さらに多様性を肯定する時代の流れもあって、オタクがオタクであるだけで軽蔑されたり迫害される事は、昔と比べると随分少なくなってきたと思う。
オタクとしては平和な時代…と思いきや、今度はオタク同士の内紛が目立つようになった。解釈違い、同担拒否、胸を盛るな、カップリングの左右がどうこう、愛のない二次創作、毒マロ届いた、センシティブ未設定でエロ絵を垂れ流す、トレパク発覚…。SNSでは常にどこかでオタク学級会が発生している。
オタクたちも最初は様子を伺っていたものの、仕組みや技術の意図や使い道が十分に伝わらなかったのか、はたまた著作権の誤った知識が広まりすぎているためか、「絵師たちが血の滲むような努力をして描きあげた、我が子のように大切な絵の数々を、本人に無許可で大量に食わせたあげく、神絵師の絵に似せたAI画像を出力して嫌がらせまで働いているらしい。こいつはメチャゆるさんよなああああ」のような共通認識が広まってゆき、画像生成AIを肯定する人たちを「敵」と認定するオタクが増えていった。
するとどうだろう、内紛続きだったオタクたちが、共通の敵を前にして一致団結。Xの変更規約が11月15日から適用の話題をきっかけとして、「スタイリッシュなウォーターマークの入れ方」や「お手製ノイズの掛け方」を教え合うのが大ブームに。さらに移住先のSNSで心機一転、のびのびと楽しく交流し始めたではないか。「無断生成AIを許さない」のスローガンのもと、いま再びオタクたちは一つになったのだ。すごい一体感を感じる。今までにない何か熱い一体感を。
…というような感じ方があって、最近特に過激なAI反対運動が盛り上がっているのかもしれないと考えたりしている。もはやAIを心底憎んでいるというよりも、新たなる共通の敵に対してみんなで立ち向かう感じが楽しいんだろうな、と。
実際は法律が整備されて違法ではないし、そもそも「無断学習」という概念は存在しないし、ウォーターマークとお手製ノイズに学習阻害効果はないし、X以外のSNSに移動してもインターネットである限り学習を完全に避ける手段はないし、人手不足が深刻なアニメや漫画の現場ではすでにAIを活用している所もあるだろうし、産業・工業分野でも必要とされている技術だし、国も開発を支援していく方針である以上、これから発展はすれど無かった時代には戻れない。有効活用、あるいは共存を考える他ない状況での現実逃避の果てに、彼らはどうなっていくんだろう。10年も経つころにはAIが画材ツールとしてありふれたものになって、いまのドタバタ騒ぎが「ああ…そんなこともあったな〜笑」なんて言われているのかもしれない。
「AI絵師に絶滅してほしい人、このツイートにいいねしてみて」のツイートに32万もいいねがついていた。(10/31時点)結構な人数だと思うが、この数字に対して誇らしげに胸を張るのはどうなんだろうな…。32万人もいるのに「じゃあ、AI規制のために一致団結して活動しよう」と率先して意味あるアクションを起こせる人が1人もいないことの方を深刻に考えるべきではないだろうか。SNSで愚痴って終わるだけの人間が32万人いたところで何もならない。結局、共通の敵を前にみんなで一致団結ごっこしていたいだけに見える。
日本の民主主義ってこう、一般の人々の声を聞いてまとめる代議士がそれぞれの地方や地域にいて、その代議士たちが集まって議論する感じじゃん。
そういう人の集まりに行くのも、なんか既存の知り合いの人たちの輪ができてる感じがして近寄りがたいし、そもそもそういうのがあるのかすら知らない。
あるいは政治家の人たちは地域のイベントとかに顔を出すって話も聞くけど、それも縁がない。
リアルな場が難しいならSNSと思ったけど、多分その線で調べてみるとアンチと信者ができてしまっていて直接声をかけにくいんじゃないかなとか。
増田に書き込んでる時点で本末転倒かもしれないけど、俺は俺という個人の声を聞いてくれる政治家に投票したい。
正直裏金疑惑があったとしても、綺麗事を言ってる人より頼りたくなるんじゃないかとすら思ってる。
政策で政党や政治家を選ぶっていうのも、この「声を聞いてもらう」の段階をすっ飛ばしてるように思えてしっくりこない。
投票にはずっと行ってるけど、「この人に入れたい」と思って投票したことは一度もない。
これは偏見かもしれないけど、自分より年長の人たちにはひいきの政治家を身近に感じる経験があって、若い世代には少なかったりするんじゃないかな。
この問いには、宗教とオカルトの区別が難しいとする疑問と、信仰の合理性や必要性への問いかけが含まれています。これを考えるには、宗教とオカルトの定義や役割の違いを整理しつつ、不合理であるものの意味を深掘りする必要があります。
宗教とオカルトは、どちらも非科学的な領域に含まれる場合が多いですが、いくつかの重要な相違点があります。宗教は一般に、特定の歴史や教義、道徳的価値観、信者間の共同体意識を伴い、社会的に長く受け入れられてきたものです。一方、オカルトは神秘的・超常的な現象への信仰や、個人の体験や啓示に基づく要素が強く、体系的な教義や道徳的基盤がない場合が多いです 。
宗教が「不合理」だという指摘は、科学的根拠の不足や、死後の世界など検証不可能な要素に根ざしています。しかし、人間の行動や価値観には、必ずしも合理性だけが求められるわけではありません。多くの宗教は、死後の救済や幸福感、人生の目的を提供し、精神的な安らぎや共同体の絆を築くための役割を果たしてきました。こうした側面は、必ずしも科学的根拠があるからこそ価値があるのではなく、非合理的であっても人々に意義をもたらすという側面が重要です 。
不合理の必要性について
宗教が象徴的に示すような「不合理」なものの存在は、人間の心の多様なニーズに対応するものです。例えば、日本の伝統行事や信仰も、社会的な絆や儀式性を高め、文化的アイデンティティを支える役割があります。合理性に重きを置く社会でも、不合理なものが心の拠り所や心の整理の手段として機能する場合があります 。
この問いにある「人間が死ぬと無になる」という断定も、科学的に完全には証明されていません。無論、魂の存在も立証されていないため、いずれの側にも「完全な合理性」がないと言えます。また「不合理なものは不要」という前提には、感情や文化的背景を軽視する面があるかもしれません。合理性を超えた価値が、特定の社会や文化において役立つ場合も多いことを認識する必要があります。
まとめ
宗教やオカルトの価値は、必ずしも合理的な根拠の有無だけでは測れません。不合理な信仰も、精神的な拠り所や社会的な絆の構築に寄与するものであり、人間にとって「不合理」が全く無意味だとは言い切れません。