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2018-09-24

anond:20171012235300

20代は、給料よくて30代でも使える能力を学べる仕事ができるのが勝ち組

30代は、二人分以上の給料稼げて、部下やバイトを沢山使えるようになるのが勝ち組

40代は、全く別の新しい仕事会社役員以上で働けるのが勝ち組

50代は、日本に居なくも生活できるのが勝ち組

60代は、正直、死んだもん勝ち、そうでないなら、世俗を気にしない僧侶か、世俗を全て切れる貴族以上になれば勝ち組

70代は、身体脳みそもまともな奴が勝ち組で、病気に悩むようなら死んだ方がマシ

80代は、勝ち組はいない 勝った奴は全員死んでるか、冷凍保存されてる

2018-09-09

反「中世学者コスプレ」論

 東洋経済記事世界レベルで「大学崩壊している」根本原因』(https://toyokeizai.net/articles/-/235823)を読んで、大学先生方のあまり時代錯誤ぶりに唖然とした。東洋経済サイトにもコメント投稿したのだが、この討論参加者の一人である藤本夕衣氏の『反「大学改革」論』をもじって、反「中世学者コスプレ」論と銘打ってさらに詳しく批判をしてみたい。この討論の結論部と同様に筆者も基礎科学人文学にも税金を投入すべきだと思うが、一方でこれらは実用性の期待が低いことを考慮して、あるべき規模を考えるべきだとも思う。

大学危機の構図

 件の討論では、まず、日本に限らず欧米でも新自由主義によって大学特に人文学)が危機さらされていることを概観し、その原因を中世から大学史に求める。端的に言うと、大学に残る中世的要素(真理探究称揚世俗価値との隔絶)と近代合理主義的な社会的要請(実利や実用性の要求)とが齟齬をきたしているのが、危機の真因であるという。大略、以下のように要約できる(1-5ページ目)。

 大学中世ヨーロッパの神学に端を発したため、世俗価値(例えば、国家の発展や実用性)とは隔絶していた。大学理念ベース神学から近代啓蒙思想に変化した後も、しばらくは神学的な気質を引き継いで「大学人間の理性に基づく真理の探究の場である」という、世俗価値から隔絶した立場を維持した。

 ところが時代が下ると、大学での基礎科学研究経済力や国力に直結することが意識され始めた。加えて、大学理念から「神への奉仕」が消えたことにより、大学自治根拠が「国家の介入を拒否し、自由研究活動を展開したほうが、国や社会に大きなメリットをもたらせる」というものに変質した。このような考え方は世俗価値自体評価していることを意味し、大学それから隔絶するのを弱めた。

 近年の大学改革も同じ構図である。今なお大学が維持する神学気質の「真理探究」という理念近代合理主義から派生した新自由主義によって攻撃され、世俗的な価値である実利(産業競争力向上に資する研究グローバル人材の育成)を大学に求める力が強くなってきている。

中世学者コスプレ

 ここまでは中々興味深い議論だと感じた。しかし、最後の6ページ目で驚くべき主張が展開されている。中野氏は「大学とは天才を飼っておく場所」だと言う。他の三氏もこの意見同意している。少し長いが引用しよう。

中野:僕は研究機関としての大学は、効率性を求めるべき場ではないと思っているんです。(中略)そういう人たち(引用者注:本当に学問が好きで学問に優れた人間)は権威主義も何も一切関係なくて、「とにかく研究させてくれ。研究費だけ出して、あとは放っておいてくれ」と、それだけ思っている。たぶんそういう人たちが世の中には必要なんです。好き放題にやれと言われて、100年後に認められるような成果を出す人間というのが、この世に0.003%ぐらいはいて、われわれ凡人は「そういう人間必要なんだ」と寛容に認めなくてはいけない。」

 本当に学問が好きで学問に優れた人間は、権威主義には関心がないが、なぜか研究費は出して欲しいらしい。しかし、「研究費もいらないから放っておいてくれ。自ら集めた寄付や自費で自由研究させてくれ」という経済的覚悟研究するのが、ここで議論されている天才ではないのか。

 産業振興等とは独立した真理探究という、世俗から超越した価値を解きながら、研究費を求めるという世俗要請を行うことに、中野氏や賛同した御三方矛盾を感じないのだろうか。真理探究の重みに比べれば一国の産業振興など軽いと考えているのであれば、一人の研究者の経済状況など取るに足らないものだろう。ご本人達が「本当に学問が好きで学問に優れた人間」ならば、世俗的な国家から隔絶して税金に頼らず自費で研究をすればよい。あるいは、ご本人たちは運悪くそのような天才ではないが、「われわれ凡人は「そういう人間必要なんだ」と寛容に認めなくてはいけない」と言うならば、そのような天才のために寄付をし、富裕層パトロン探しに奔走してはどうか。中世学者の大部分は税金に頼らずに研究をしていたのだ。

 それを実践すれば大学危機など問題にもならないだろう。何せ今、問題視されているのでは高等教育研究における税金の使い方であって、税金に頼らない学術研究は誰も問題にしていないかである

 しかし、おそらく彼らはそのような中世的な学者になりきることはないだろう。それにも関わらず中世学者称揚するようなことを言う彼らを、私は中世学者コスプレと呼ぶことにしたい。

反「中世学者コスプレ」論

 一方で、基礎科学人文学研究にも税金が投入されるべきだと私は考えている。ただ、その根拠中世学者コスプレに求めるのではなく、実用性という世俗価値に求めるべきだと思う。冒頭の「大学危機の構図」で触れたように、時代が下るにつれて大学側が世俗価値に寄せてきているのだから、これをさらに進めるのは自然なことだろう。

 私は以下の考えに基づいて、あらゆる学問への税金投入を正当化したい。

 まず、あらゆる学問には実用性の可能性を見出せることに注目しよう。例えば、法学医学工学はもちろん、歴史学文学哲学にも実用性の可能性が見いだせる。歴史学は、歴史小説創作において舞台装置を与え、歴史ドラマ制作時に時代考証の基盤を提供する。同様に文学哲学も、小説ドラマ創作においてインスピレーション作家提供するだろう。マイナー外国語も、遠い将来に日本がその地域貿易を行う必要性が生じるときに、実用性を発揮することを期待できる。

 したがって、あらゆる学問研究には税金投入が正当化できる。実用性が期待できるもの税金を投入するのは合理的なことだからだ。

 しかし、ある学問知識実用に転換する難易度(以下、実用転換難易度と呼ぶ)は、それぞれの学問によって大きく異なる。例えば医学であれば、医師はその教科書知識を直接的に利用することで患者を救うことができるだろう。医学知識治療という実用に転換する難易度は極めて低い。他方、歴史学場合医師よりもはるかに少ない歴史小説家や大河ドラマ制作者でなければその知識実用に供する場面が存在せず、しかもその知識の利用方法医学場合ほどには一定しない。したがって、歴史学知識創作という実用に転換する難易度は極めて高いといえる。

 したがって、実用転換難易度に応じてその学問への税金投入額が決まるべきである。その難易度が低い学問医学工学)ほど税金投入を多くし、その難易度が高い学問歴史学文学)への税金投入は少なくすべきである基礎科学は両者の真ん中ぐらい)。

 これはもう少し具体的に言うと、実用転換難易度が高い大部分の人文系学問旧帝国大学などのトップエリート校に限定して税金を投入すべきである、ということに帰結する。少数のトップエリート校の教授学生には税金を投入して手厚く保護しつつ、残念ながらそこに至らない方々は完全に私費大学運営するなり、大学の外で別の仕事をしながら研究を進めてもらうなりする他ない。中野氏も、本当に学問が好きで学問に優れた人間はごく少数だという趣旨のことを述べているのだからトップエリート校のみを保護すれば問題ないだろう。

 大学理念存在意義に実用性を真正から据えれば、以上のような結論になる。

 もちろんこれは単なる思いつきであるしかし、中世学者コスプレオタ芸よりは説得力があると考えるのだが、いかがだろうか。

2018-08-20

そもそも結婚が法的制度として整備されてる理念理解してないんでは?

欧米だと「同性婚合法化」云々、みたいな議論があるけどあれもベースとしては結婚=神に誓うもの、それを世俗法が認めるかどうかとはまた別、みたいな考え方があるじゃん

日本人はその辺ほとんど全部すっ飛ばしてるから、「仲睦まじい男女は役所婚姻届を出すものと決まってる、みんなそうしてる」くらいにフワフワした理解しかできないんじゃないの?

2018-08-03

anond:20180803183418

何度でもいうが隠者になるべきだ。

何者にもなれなかった者がハードワークと高度なコミュ力要求される忍者になるなど困難を極める。

世俗を離れ興味のあることにひたすら打ち込める隠者こそが救いなのである

2018-07-03

世俗的な価値観基準の「成功」を追い求めるやつなんて

天才じゃなくて凡才だわな^^;

そこでイスラム教ですよ

庶民ブルジョア化して子どもを産み育てないだって

それではここでイスラム教の中で、より厳格で、世俗的ではない宗派出生率を見てみようか。

2018-06-26

anond:20180626174257

一般的無敵の人という単語から連想される枠組みからは外れているが、実際には高学歴無敵の人予備軍、及び実質的無敵の人はかなり多い。というか、知り合い見てると高学歴人間ほど多い。自分なんかより遥かに学歴の高い人が特にそういう傾向にある。

少なくとも自分の知る高学歴無敵の人予備軍全員に共通しているのは、アカデミアや学問に病的な関心があって、かつそれで食っていけなかったか、食っていけそうにないという点だ。

ましてやイスラム文明なんか専攻してたくらいだから、まともに働くことに耐えきれなくなって、世俗の事なんて全てどうでもよくなっていて、彼の脳内ではもう無価値だったという意味では失うものは何もなかった、無敵の人予備軍だったということなのではないだろうか。

 

仮にそうだとしたら、そういう人間殺人を犯す前に最後にした事がはてな村なんて場所での大暴れというのは、凄く悲しい話に思えるが、まぁ知り合いも酒に逃げたりしているので似たようなものかもしれない。

2018-06-07

anond:20180607082522

「今文学作品として評価され教科書に載っている○○も、当時は世俗的、扇情的として文壇から黙殺され当局から取り締まりを受け…

2018-05-31

anond:20180531093447

アフリカ裸族とかそんな感じだぜ。そこは居住空間すらも丸見えの世俗から隔離された集落だったけど、隠すという発想がないから誰も恥ずかしがってない、当たり前って感じ。むかし世界まる見えTV見たわ

2018-05-29

過去駄文

私はどのような人間になりたいのだろう。

学問にばかり興味があり、それにのみ没頭するのは何だかまらないように感じる。

世俗のことに囚われてばかりも薄っぺらいから嫌だ。

自分のことを、何かの啓発本に載っているような「目的をもち人生の充足を感じる人間」に落とし込むのは嫌な気がした。

それは、いわゆる青臭さであり、第何次かのイヤイヤ期であるのかもしれない。

何回イヤイヤ期を経れば私は幼子から大人へと進化するのだろう。

いきなりその飛躍を求めるのは、あまりにも不自然だろうか。

万物に秀でたいのか。

かに劣等感を持ちたくないのか。

そのためには、全てにおいて人より上でなければならないのか。

あれでは勝てないけど、自分にはこれがあるからいい、とは思えないのか。

自分は嫌に幼い。

そのくせ妙に大人ぶる。

賢そうに振る舞おうとする。

それが無様だ。

しかし、周りに賢いだの秀でているだの思われるのが常であるような気になっている。

実際今まではそうだった。

しかし今や自分は○大生だ。

周りの方が圧倒的にレベルが高い。

生半可、半分もないだろうと思うほどの気持ちと、かけらもない努力の量で、学者になりたいなどとほざく。

そのことへの罪悪感。

切迫感。

そしてそれから逃れるように現実逃避

自分には、この道しかないように思われるのに。

学者になりたいという人間は、皆勉強が好きで、得意で、積極的に動けて、自分はこれが得意というある程度の自負があり、しかし自負が誇大にならぬよう、常に自分がその分野ではどこに立っているのかを弁えている。

本当か?

と、思っているからこのざまだ。

自分選択肢は、まだ残っている。

義務だの破棄だのしいるから、ないように思ってがんじがらめだ。

自分の速度でいいから、進まなくてはいけない。

背伸びした速度では、何も身に付かず結局遠回りだ。

一冊でいい。一章でいい。

本を読み進めるべきだ。

音楽聴いてもいい、途中で休憩して遊んでもいい。

結局自分に課しているのは自分で、責めているのも自分で、脅しているのも自分しかない。

誰もお前に正しいことは教えてくれない。

適切なもの提示してくれない。

トライアンドエラーしか、それは分かり得ない。

これもまた、やる気になるおまじない程度で、自分の期待を裏切るのかもしれない。

それでも進まなくては。

進むことであり、伸ばすことはついてくることだ。

自分は成長しない人間かもしれない。

才能などないかもしれない。

可能性などハナから無かったのかもしれない。

それを神様が選んだだの、自分特別人間だだの言うのは、いい加減やめてしまえ。

結果だ。お前の考える物語は、見てきた物語は、後付けの、それの説明しかないんだ。

そんなものがはじめからあるのではない。

そう思うしかない。

2018-05-11

anond:20180511035020

主張はわかるけど、さすがに、昔の旧帝大文学部哲学科みたいに「卒業しても、就職先と無縁だけど、ここでは、きちんと勉強できるぞ」

と言われて、「そうなんだ、純粋世俗出世無関係勉強のための存在なんだね」と納得できる人って、少ないだろ

まあ、仕方ないのかもしれないけど

2018-05-10

anond:20180510165609

さとり世代若者カルチャーにおいて、もはやガチャというのは、商品提供する手段ではなく、体のいいお布施認識されている。

商品の取得にこだわりを抱いたままガチャへ赴く人は、煩悩払拭できてない世俗的な人間であるとみなされる。

ただし、既にさとりを開いている人間も表面上は、ガチャ一喜一憂し、まるで平凡な人であるかように振る舞い、日常光景を崩さないように「気遣い」しているので、気をつけねばならない。

2018-05-07

グレンラガン劇場版を見た。

すっごく良かった!

「これだよ、これ」なんて言うもう感嘆するような吐息自然とあふれ出てきてもう大満足。

見終わった後の余韻も最高。

そして感慨深いこの気持ち

学校道徳の授業にはもうこれを流せよ。

何が悪で何が善であるか云々よりも、それ以上に大切なものがあるってことを教えてくれるのだから

自分探しインド行くやつはもう黙ってこれを見ろよ。

自分自分他人には決してなれないという、自らの信念を持つことを教えてくれるのだから

世俗に疲れてお寺に禅にしに行くやつはこれを体感しろよ。

この作品こそまさに、「不立文字」たる概念真摯に教えてくれる作品なのだから!!

2018-04-23

DNSブロッキングっていじめだよな

あいキモいよな、無視しようぜ無視」「へへー、仰せのままに」

って手法、とっても日本的だと思います

・・・・・・ってくらい、属人的世俗に塗れた手法に成り下がってしまった気がする。

2018-04-18

anond:20180418172216

イスラエル 出生率」でググって出てくる記事では、

https://wirelesswire.jp/2018/01/63045/

それでも出生率が増加する理由は、二つ考えられる。一つ目は、ユダヤ人は子孫繁栄してゆく家族を築くことをとても重視しており、家族仕事よりずっと大切だと考える人が多いことである

二つ目政治的理由であるイスラエル民主国家であり、現在二十数%のイスラエルアラブ人口が過半数を超えればユダヤ人国家ではなくイスラム国家となってしまう。したがって、たとえ世俗派のイスラエル人であってもユダヤ人口増加率がアラブ人口増加率を上回らない限り、ユダヤ人国家は存続できないという恐怖観念を抱えているという。

とある

後者理由はわりと納得感があるが。

2018-04-07

下方婚をしない女は途上国ではどうなっているのか

宗教が強い途上国ではコミュニティ強制力結婚

一方、世俗的な途上国では金持ち外国人結婚しようとする。

貧乏自国男を振り切りとにかく外国人区画に出入りする。

外国人結婚すればアガリ。

メキシコ人アメリカ人の主人の子どもを孕み子どもアメリカ人にしようとする。

シンガポールではそれを防ぐため主人の子を孕んだマレーシア人国外追放にしているほどだ。

そんな経済状況でフェミニズムなんぞ見る影はない。

日本の行く道だな。

2018-04-05

大相撲女人禁制

伝統を建前として既得権的な物を守るための生臭いまりだと思ってたけど

今回の件でわりとガチ信仰だったんだとむしろ見直した。

これは世俗価値観押し付けずにちゃんと守ってあげるべきだと思う。

人が死にそうな状況でまずそっちに頭がいって大慌てでお清めするとか

本気の信仰じゃないとできないじゃん。

anond:20180405111617

坊主なら世俗関係を断って何年も過ごすわけだから

そりゃ女を見ればどうにかなっちゃっても同情すべき点はあるんちゃうかな?

2018-03-25

瞑想出会えて感謝しています

買い物や町を歩く、電車等の交通機関を利用する

ありとあらゆる機会で私に対する悪口を聞きます

世俗の人たちは聞こえるか聞こえないかの音量の声でお互いに悪口を言い合っているようです

私に対してもまず悪口をいい、次に喋れと言ってきます

その時私には怒りが生じますが、無我と言い聞かせることで忍耐、つまり冷静であろうとしています

ただ未熟なので時々怒ってしまます

大体同じことを世間様に申し上げるのです

「私を嫌う世間の皆様が幸せでありますように。私に悪口を言いたければ言ってください。ただし私はお付き合いいたしません。皆様が幸せでありますように」と

昨日駅のプラットフォームであまり悪口を言われたので大声でこのことをお伝えしました

ありとあらゆる機会で悪口を言われるというのは

具体的にどういう事かと申し上げます

例えば昨日の行動において記憶に残っている範囲では

数年ぶりに行った眼医者で処方された目薬を受け取るために薬局に立ち寄った際

そこでの薬剤師笑顔で応対してくれながら「出たなこのボンクラめ」「これだけ言うのにまだ黙っているか」とおっしゃってました

数年前の私はおそらく無自覚にこの方を不愉快にしていたのでしょう

買い物に行くため原付運転時、信号待ちで左端で待機した時、道路中央で先に待っていた中型バイクに並ぶ形になった際

信号バイクが発進時に「殺すぞ、クソ」とおっしゃっていました

から来た私が並んだのがこの方は気に入らなかったのかもしれません

あとこれは女性の方、若い方に多いですが電車に乗り込むと「気持ち悪い」「消えろ」とおっしゃっていました

これまで何年もの彼らの攻撃を少しずつまとめてみると

悪を為さず善行を積むという生き方は私には生意気だと世間の方は非難したいようです

我々は世間の厳しさの中(悪口を言い合い苦しめ苦しめられる世界)で必死に生きているのに

お前は大した社会貢献もせずに楽に生きようとしていると

ずるいというのが世間の方々の言わんとしていることのようです

何の不安苦痛もなく出かけ行動できるのが当たり前だと思っていました

ですがそれは恵まれ子どもが甘受できる特権のようなもので実際は今体感しているのが現実の姿なのかもしれません

私はとても恵まれていたのでその特権子どもを過ぎた年齢になっても与えられていた、言い方を変えれば甘やかされ、守られていたと考えられます

大人と呼べる年になっても制約なく、つまり悪口を言われることなく行動できる人間は、世間に染まり悪口を言い言われる輪に参加しているタイプか、悪口を言わせないだけの貢献をしているタイプ暴力を盾に自身を守っているタイプなんでしょう

1番目と3番目は耐えられません

そして2番目は私がそうあろうと精進したところで彼らは認めません

私の結末がどうなるかは分かりませんが、現実的に考えて現状のまま生きながらえるか私が世間に屈して悪口に身を落とすか、絶望して自殺するかのどれかなんだと思います

別に私は潔白だとか世間は醜いだとか間違っているとかそんなこと主張するつもりは全くないです

きっと何千年もそうやって社会はまわってきたんでしょうから

ただ欲を言うと気に入らないならさっさと殺してくれればいいのにと思います

結末の選択肢の中に現状のまま生きながらえるというものが入れれるようになったのは瞑想仏教の教えのおかげです

以前の私なら悪口に対し恐怖しパニックになって震えて自室に籠もることしかできなかったでしょうから

仕事一生懸命し、家事をきちんとし、他者の世話もそれなりにできるようになったのは慈悲の瞑想ヴィパッサナー瞑想のおかげです

2018-03-17

ここ最近良く思うのは、やっぱり金がほしい

自分は生きる事から解放される自由まではまだ求めていない世俗人。

から金を得る必要がある。

金があれば自由時間もっともっと手に入れられる。

仕事するのも自由

しないで読書鬼ごっこしてるのも自由

ああ鬼ごっこ良いなあ。

そして夕ご飯になったら家に帰って、そしたら美味しい料理が待ってるんだ。

そうやって死ぬまで暮らせる程度のお金がほしい。

それだけなんだ。

100年後や200年後、ロボット産業の発達でそうやって生きていける人が大半になるのかなあ。

うらやましいな。

[] #52-4「カカオ聖戦

ところかわって兄の俺は、相変わらず家で世俗にまみれない快適な時を過ごしていた。

しかし、そんなひと時を邪魔するインターホンが鳴り響く。

俺は重い腰をあげると、しぶしぶ玄関に向かった。

念のため、覗き穴から来訪者を窺う。

わずため息をついた。

そこから見えたのは弟だったのだ。

やれやれ、どうやら鍵を忘れて出て行ったようだな。

「弟よ、戦果は如何ほどだったかな?」

ここで深く考えずにドアを開けてしまったのは、我ながら迂闊だった。

覗き穴ごしからは気づかなかったが、肉眼で至近距離ともなると一目瞭然である

弟ではなく、弟に変装したドッペルだ。

バレンタイン……」

そう言うとドッペルは、おずおずと俺の前に箱を差し出した。

やたらと煌びやかなラッピングに対して、箱そのものデザインはひどくシンプルである

言葉が少なすぎて確信は持てないが、バレンタインと言っていたのでそういうことなのだろう。

俺はこの箱の中身、ひいては“意味”を考えていた。

気がかりなのは、いつも以上に挙動不審のドッペルだ。

手元にある少ない情報から可能な限り推察する。

答えはすぐに導き出された。

これは弟のチョコばらまき作戦の一つで、俺も候補に入れたってわけだ。

だが、弟の思惑を俺は知っているので、普通に渡しても受け取ってくれるはずがない。

そこでドッペルを介した。

俺は見分けがつくので、ドッペルだと気づいてチョコを何の疑いもなく受け取る。

これが罠なのだ

弟に変装したドッペルは、後に俺にはチョコを渡していないとしらばっくれる。

そうなると、俺の受け取ったチョコは弟から貰ったという扱いにされてしまう。

そして、俺は弟に高いものを買わされる、と。

随分と回りくどい真似をしてきやがる。

だが、所詮ガキの浅知恵だ。

この作戦には致命的な欠点がある。

「ドッペル、これを受け取る前に確認しておきたいことがある」

「な、なに?」

「いま、お前は弟の姿に変装しているが、弟ではない。ドッペル、お前が俺にくれるんだよな?」

なんてことはない、事実確認だ。

ただつき返すだけでは弟への報復にはならない。

モノは貰う、だがお返しはしない。

しなくていいように、弟があげたなどという可能性を完全に無くす。

「う、うん」

「よし。念のため、包みにお前の筆跡で書いてもらえないか? 『マスダの兄ちゃんへ、ドッペルより』って」

言ったとおりのことを包みに書いてもらい、俺は粛々と受け取った。

その箱の中身がチョコではなく、ケーキだとも知らないで……。


…………

ところ変わって弟のほうでは、タオナケとの熾烈なチョコ押し付け合いが始まっていた。

私、女だけどチョコが欲しくないわけ?」

「欲しいよ。ホワイトデーに何も返さなくていいならな! そういうタオナケこそ、俺から貰っておけばいいじゃないか

私、女だけどお断りよ! ホワイトデーによこしなさい!」

戦いは拮抗していた。

タオナケには超能力があるが、「念じると5回に1回、無機物破壊できる」というもので使い勝手が悪い。

下手に弟のモノを壊せば、お返しどころではなくなる可能性がある。

弟はドッペルを身代わりに有耶無耶にするとは言っていたものの、あくまでそれは最終手段だ。

それにチョコ押し付け合いごときで、仲間にそんなことはしたくない程度の情はある。

そもそも互いがチョコを欲していない時点で、この勝負不毛しかなかったのだが。

そのことをミミセンが指摘するまで、二人の戦いは続いた。

(#52-5へ続く)

2018-01-31

いただきます」教の功罪

職場でお昼ご飯を食べようと思って、コンビニ弁当を前に、

無意識に「いただきます」ってつぶやきながら合掌していたのだけれど、

だんだんこのルーティーンが不思議ものに思えてきた。

「合掌」は宗教的動作として、(特に外国人から見たら)なかなか強烈なヴィジュアルだと思う。

もっとも私は無宗教で、別に特定の神に対して祈りを捧げていたわけではない。

弁当調理した工場の人や、食材生産に携わった農家や、食べられるために死んだ生き物に祈ったのだろうか。

幼稚園小学校では、だいたいそんなニュアンス動作として教え込まれたような気もする。

「お残し」という戒律破りをすると、

どんな悪党でも、心のどこかで多少は彼らに対する罪悪感にさいなまれるわけで、

やはり強固な宗教的モラルとして、私たちの心に定着している。

もちろん宗教的であることと世俗的な合理性矛盾しない。

現に「いただきます」教は、いまでも食品ロス問題への効用があるはずだ。

しかしこの「いただきます」教には、少なからデメリット存在するように思う。

たとえば、

①「いただきます」教の原理主義教諭による、なかば拷問的な完食の強要

食品生産者への盲目的な礼讃により、消費者が「買わない」「食べない」という意思表示を示すことの困難(昨今のウナギ問題など)。

公教育の場で「合掌」を強要することの宗教的中立性の問題

などなど、色々思い浮かんでくる。

私たちはいま一度「いただきます」教の功罪を考えるべきかもしれない。

2018-01-29

もう5chで調べることもないなと気付いた

世俗的な趣味も無くなったし

自分を(5chにいるような集団より)信頼できるようになった

というか素人集団が下す判断いかに信用出来ないか判った

そろそろ本体ブロックして良さそう

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