はてなキーワード: チャンネルとは
夫が今さらリロ氏にはまって、レシピ本を買って急に料理を始めたんだけど、正直やめてほしい。
まず、生まれてこの方ほとんど料理してこなかった人間には「献立」という概念がない。
インスタントラーメン焼きだの絶望的に頭が悪いジャーマンポテトだの、1品だけ作ってドヤ顔してる。
絶望的じゃなくていいから、普通の料理を3品くらい作ってほしい。
それから、リロ氏のレシピって味が濃すぎて全然家庭向けじゃないと思う。
男が一人で酒飲みながら食べるにはいいのかもしれないけど、スパイスの使い方がとにかく濃くて、全体的にしょっぱすぎる。
「週末は自分が夕食を作る」と言い出したときには嬉しかったけど、味の濃い1品しか作らないから、結局私が追加でサラダを出したりしてて意味がない。
そして食べ終わった後のぐちゃぐちゃなキッチン…コンロ周りもパン粉まみれで拭かないし、ゴミが散乱してる。
https://note.com/p_and_w_books/n/neee921ea91a9
https://note.com/p_and_w_books/n/nf373db52eab9
・そうですか、といったところ。
■鯨井氏のジャッジ
・まえがきでは個人的な狂気を重要視するというようなことを言っている。要するに、ユニークでぶっ飛んだものを読みたいということ。そういう欲求をカッコつきとはいえ「狂気」という言葉に託したのはよくなかったとおもう。「おまえら創作者はみんな創作に情熱を燃やしてそれに狂ってるはずだろ!なあ!」というのはいかにも一昔前のフィクションに出てくる「天才」像で、古臭くて偏狭ではないか。
・それでいて、最後に他者への回路としての「コミュニケーション希求力」を評価基準に置くのがよくわからない。いや、わかりはする。閉じているように見えつつもその暗闇のなかで他者を求めもがくのが人間の普遍的なあり方であり、そうした情熱を持っているように見える作品に惹かれてしまう。その気持ちはわかるが、この文章内にかぎればあんまり文脈的につながってないのでは、と感じる。
・「コミュニケーション」を謳うのなら作者の側から歩み寄りばかりでなく、評者からの歩み寄りもすべきだった。というか、それが評論行為であるように思う。最終的に「これは自分の感情です」というような文言で閉じたのはよくなかったというか、開かれた場のコンテストでは落とされてもしょうがない。
・固有名詞問題。固有名詞の持つ読者との「共犯性」を指摘し、作品内で用いられている下北沢」「フィッシュマンズ」「クリムト展」といったワードの「共犯性」が東京中心主義につながっているのではないか、といったようなことを言っている。
・固有名詞の「共犯性」についてはそのとおりだが、基本的にはその固有名詞を使うことでどういった層と共犯関係になれるかという戦略の問題でしかないとおもう。それが気に食わなさにつながるんならそうですね、あなたは不快なんですね、としか言いようがない。
・「「下北沢」「フィッシュマンズ」「クリムト展」を使って真にその意図が伝わるのは、それを知る都会の人びと、「カルチャー」の民のみである。」→これはそうは思わない。下北沢はぼざろなどを例に出すまでもなく東京以外のひとびとにもある一定のイメージを形成しているし、フィッシュマンズやクリムトに至っては別に東京固有でもなんでもない。
たしかに並べられると東京中心的な貴族性⋯⋯というかヴィレヴァン的なサブカルクソ野郎っぽさが鼻につくところはある。
しかし、それが「カルチャー」を愛する人びと特有の一段上から世を眺める視点、優越性」に直結するかは微妙なところで、それこそ共犯者に選ばれなかった疎外感といえばそれまで。そして、そこから地方差別へとつなげるのはちょっと無理筋だと思う。
・関西弁を含めたトータルのパッケージに差別性を覚えたという感じだとおもう。作者の意図しないチャンネル(固有名詞)でヘイトが溜まっていったところで関西弁の歌が出てきて「怒り」が爆発したというところか。
・全体的には論点の設定の仕方があまり開かれていない。差別性を感じるというのであればもう少し広くわかりすい議論を行うか、あるいは関西人であるという当事者性を突き詰めるべきだったと思う。現状の文章としては後者よりなのだが、あまりに「関西人である自分」が自明のものとして最初から展開されているので、読者には「で、関西人であるあなたがなぜそこまで怒ってるんですか?」がわかりにくい。
・いろんなところで中途半端な評だと思う。
・「『見下し』ではなく関西弁の語りのある種の味わい(「特権性」という雑な表現をしてなぜか自分を「関西」に対して下位に置こうとしていたが)に対する憧憬なので『見下し』じゃないんだよ」という言い分はそうなのだろうが、それをただしくオリエンタリズムと呼ぶのだよな。
・中盤の「ここまで説明をしたうえで、「本気で思っていたらこんな書き方はできないだろう」と思われるでしょうか。」に至るまでの説得のロジックがよくわかんない。
冒頭で「なるべく感情的にならないように書く」と宣言しているのに「ここまで説明〜」までは、基本的に「自分はこうおもってこう書きました(あんたや読者の気持ちなど知らん)」と自分の感情や行為しか書いてない。
本当は全部関西弁にしたかったけど、自分の技術じゃ無理→すげえわかる。
(なんか「一首だけにしといてやった」が非関西人としての譲歩だった、とも読める。マジでこれは意味がわからない。)
・「関西の人の反応を探るために歌会に出した」パート。実際に当事者から方言に関して否定的な反応が返ってきた、と自分で言ってる。
それを「連作という文脈で解消できるのではないか」と考えたらしい。なんで読者がああいう作品の連続性を確認しにくい場で連作であることを前提に読まなきゃいけないのか意味がわからない(鯨井さんはジャッジだからそこらへんい対してはある程度の義務はあるとは思う)というのはまあ置いといこう。
で、「連作という文脈」がなんなのかというと、「作品の主体(視点人物)が東北人の上京者」であること。
「主体も東京出身の人間ではないということを明示することで「標準語/方言」の権力構造をとっぱらえないかと画策しました」
というのがほんとうにわからない。視点人物が東北出身だと関西弁に対するオリエンタリズムが解消されるの? 標準語と方言の権力関係が無効化されるの?? なんで???
むしろ、この作品の場合は主体が標準語の権力性に乗っかって(実際、歌の大半が標準語で書かれている)、方言を搾取してますって構造に見えませんか???
さらに問題なのは「今回の文化盗用かどうか、わたしには判別できませんでした。」とか言っているところで、いやわかってないって自覚あるなら「連作で解消できてるとおもう!」とか言うなよ。
「関西弁をマイノリティといってしまっていいのか〜」のあたりはなにがいいたいのか不明瞭だけど、つまり「東北弁は関西弁に比べてよりマイノリティ性が高いから、俺には関西弁をいじる権利がある」って言いたいの? なにそれ?
・そのあとの文章はぐだぐだしてるけれど要約すれば「憧れだから差別じゃないんです」というようなこと。サイードを読め。平凡社ライブラリにある。
・「そこに「無意識的な共犯性」「優越性」があると断罪できる根拠がどこにあるのかよくわからない」はクリティカルな反駁だとおもう。そこらへんは前述のとおり。このへんの反論内容もいちいち書き出さないがリーズナブルだと思う。
玉木の言っていた「石丸が勝手に来て登壇した」はウソだったわけだけど、石丸の「ちょっと寄っただけ」もそんなわけなくて、まあ色んな意味で二人とも平常運転じゃないかな。
てか、大量にあった石丸応援チャンネルが偶然では到底片付かないレベルで片っ端から一斉に玉木応援チャンネルにリニューアルしてるんで、どうやら同じ業者だってのはちょっと前から言われてたんだよね。
石丸は盟友として顔出したのに、支持者の反発を見た玉木は石丸オワコンと気付いてその場でガバガバのウソついて切り捨てて、石丸はブチ切れ、という感じ。そこまで含めていつもの玉木だわw
自民党は「経済政策得意ですし、党内で複数の選択肢があります」「外交も様々なチャンネルを用いながら、親米対中を基本姿勢としてバランスとります」みたいにマトモぶってるけど、それに付属する「マトモじゃない要素」が多すぎ
やけに頑なに選択的夫婦別姓を拒んだり(変なやつらと繋がってるからだろう?)、差別発言でクギを刺される議員を持て囃してきたり、安倍さんの威光を傘に着て不穏・不規則な発言をする輩議員を抱えていたり、パワハラ議員と言われる人たちが大勢いたり、裏金をせっせとこしらえて選挙のバランスを崩したり、そんな組織的なチート要素を改善するつもりが無さそうだったり…
そういうマトモじゃない要素を切り離さないと、離れていく票は戻って来ないだろ
濃厚総選挙 最高裁判所裁判官国民審査トッピングです
受付時 投票所入場券に手垢が付いていたのを見て
これでもかって位ドロドロの投票箱の中には
虫が入っており 怒りのあまり
記入台を全部倒してしまいました~!
すっかり投票立会人側も立場を弁え 誠意の比例区投票券を貰った所で
さすがのSHIMINも 投票所を出って行ってしまいました~!
さっきyoutubeのおすすめに出てきて何これと思ったんだけどヤベーことになってんのな
↓チャンネルの動画一覧ページ。サムネだけでもなかなか見応えがある
新着動画が半日足らずで何万回も再生されてるところからして相当熱心なファンがついてるようだし、そのうちネガティブな意味で話題になることがありそう
チノ「うるさいですね……」スポンッ
ワイ「あ、あぁ~ッ!」ジュワッ(ファイナルが飛ぶ音)
チノ「はい、今日のアマチュア無線業務は終わり。お疲れさまでした」
ワイ「うぅ……あ、ありがとうございました……」
数週間前、念願のアマチュア無線のリグを購入したのだが、『よくわからないうちにオフバンドに送信してしまうのでは』という懸念の声があり、結果、チノちゃんが定期的にワイのリグのメンテナンスをしてくれるようになった。しかしチノちゃんはなんだかワイのことがキライみたいで、いつもいつも送信中にアンテナを引っこ抜いて、おサイフがイタイイタイなのだった。
ワイ「トホホ……チノちゃん可愛いのに送信中にアンテナ引っこ抜いておサイフイタイイタイなんだから……あーあ、どうにかしてチノちゃんのリグのメンテをやさしくて気持ちいものにしてもらえないかな~、ん?」
チノ「よいしょ……よいしょ……」
ワイ(ち、チノちゃんが、自分の部屋でワイのアンテナのSWRを調整している!?)
チノ「ふぅ……こんなものですかね……。今後はもっとSWRをあげないと……」
ワイ「チ、チノちゃーん!ごめんよーッ! チノちゃんは毎日ワイのためにアンテナを調整してくれてたのにワイはそんなことも知らずに……ッ!ハフッ!ハフッ!同軸ケーブルが焦げたにおい!」
チノ「べ、別に、アンテナを調整するなんて普通です……。それが私のお仕事なんですから……。それに、ワイさんのCQに答えてくれる人がまだ少しいますから…」
ワイ「す、少しでも反応してくれる人が居て嬉しいよ!チノちゃんのその気持ちだけでワイは十分無線を楽しめてるよ!あっ、そ、そうだ!チノちゃん! 6mの呼出周波数を聴いて!」
チノ「こ、こうですか?」
ワイ「そう!それじゃあ今から電波出すからね!チノちゃんが調整してくれたアンテナで50Wでぴゅっぴゅっするからね!ちゃんと受け止めてね!」
チノ「えっ、えっ?」
ワイ「ウオーッ!チノ!!こちらはJL1…!!」 ジュワッ(ファイナルが飛ぶ音)
チノ「ひゃあッ!」
ワイ「くっ、ふぅ……!す、すっごい煙出てきたーッ!なんで!?なんで!?」
チノ「それはね……わたしがSWRを極限まで高くしたからですよ!電波が飛ばないように!」
ワイ「え、それって……はわわ……あ、あの……もうちょっとだけ、詳しく教えてもらってもいいですか?」
チノ「もちろん!」
その後、ワイは一晩中チノちゃんの無線講義を聞いて次の日の朝は起き上がれないほど疲弊していた。
その日以来、アマチュア無線をするときチノちゃんが呼出チャンネルでワイを名指しして「今日はオフバンドに送信するなよ」と言ってくるようになったので終わり
ヤンサンだけは、当時欠かさず購読していた俺が書かないと、という義務感から書いた。
異論は受け付ける。順不同。
この作品を世に遺せたことだけでも、ヤングサンデーという雑誌が存在した価値がある。世界規模で暴力と正義を等価値に描いた、怪作にして超名作。マクロな視点のテーマ性や劇的なストーリー展開と、市井の人々のエゴをディテールたっぷりに描いたミクロな視点の描き込みの両立が天才的。「宮本から君へ」はモーニング連載だが、この作者で一作だけ選ぶならこれだと思う。
「のぞき屋」の頃から片鱗が見えてはいたが、変態的なキャラクター造形と淡々とした描写が素晴らしい。そして前作からの画力の進化にも驚く。海外でも評価が高い。この作風はスピリッツ連載の次の怪作「ホムンクルス」へと繋がっていく。
ヤンサンは、山田玲司を育てた雑誌でもある。個人的には『アガペイズ』の方が圧倒的に好きだが(最高傑作だと思う)、知名度や重要作品としてはこっち。オタクがモテ男に変身していくHowToマンガの側面もありつつ、純愛を志向することでバブル期の軽薄な恋愛観へのアンチテーゼになっているメタ的な作品。ちなみに作者はヤンサン廃刊後、「山田玲司のヤングサンデー」という人気のYouTubeチャンネルを運営していて(後から出版社公認に)、マンガ評論がかなり面白い。
共著の「サルまん」を除けば、これが相原コージの最高傑作だと思う。白土三平的な王道忍者マンガと、「勝手にシロクマ」「コージ苑」的な不条理ギャグと、「サルまん」的な実験的アプローチとを高度に融合して、両立どころか鼎立させた奇跡的な作品。
遊人は、青年誌エロマンガにおいて未到達だった性表現の境地を切り拓いたので、漫画史的にも取り上げる必要がある。散漫なストーリーはともかく、今見ても女の子の絵が抜群に上手いし、性的描写のお下劣さが限界突破している。新宿の風俗店にイラストが無許可で使われ続けてて可哀想。
最初はベスト10作品にしようかとも思ったが、逆に絞るのが難しかった。
冬物語、シーソーゲーム、SOMEDAYなど。ヤンサンの看板作家だとは思うが、これといった新規性は感じられない。
どれも安定した名作揃いで、ほぼ外さないのが凄いのだが、逆に言うとヤンサン時代には、まだ突出した作品がない。
他誌で『ブラックジャックによろしく」があるからなー。名作だが、ドラマ化されるまでは割と知られていなかった。
アオイホノオ、おやすみプンプン、Dr.コトー診療所、クロサギ、イキガミ、土竜の唄などの名作・人気作が、廃刊と同時に他誌へと移転している。本当に、こんな良い作品が集まってた雑誌を廃刊にするとか、何考えてんだよ……。
よくある不条理ギャグと思わせつつ、後半からの哲学的なヤバい展開。しりあがり寿の弥次喜多に通じるところがある。
長尾謙一郎の作風は、ヤンサン以降の「ギャラクシー銀座」などで完成されたので入れなかった。
ちなみに作者は、最新作ではギャグを完全封印して、爽やかな青春空手マンガ「三日月のドラゴン」を書いていて、これもめっちゃ面白い。
前身の「少年ビッグコミック」からの移籍だし、代表作は他誌で『あずみ』があるからなー。
ここは、かなり迷ったが、入れなかった。作者で入るとしたら、「へうげもの」「望郷太郎」かな。しかし、とんでもない傑作SFになる可能性を秘めていた度胸星を未完結で打ち切った当時の編集部の罪は重い。
喜国雅彦は独特すぎて扱いづらい……。「月光の囁き」はシリアス路線で作家史的には価値があるが、基本的にギャグ漫画。どうなんだろう。
忘却のサチコでブレイクした阿部潤、帝一の國などで知られる古屋兎丸、さそうあきらなども、漫画家としての初期は、この雑誌で育てられたという印象が強い。
相手も自分に合わせない、自分も相手に合わせない相手が現れるって考えなのか
現実的に考えて高望みとかそういうレベルじゃない気がするけど、両親を見てお互いが我慢(というより価値観のすり合わせ)をしてるところを見たこともないんだろうか?
あまり片付けたく無いですし、ゴリゴリのセクハラになっちゃいますが……
実に当たり前の事なのですが、人を見た目で蔑んではいけません。これは、匿名記事でも基本的にはそうです
匿名記事でも相手を見た目で dis れるという事は、貴女は本当にそのようにお思いになったと言うことです。つまりは、貴女は人を見た目で蔑める性格をなさっているという事になります
基本的には何事もマイナス評価を見る性格をされているんだろうなと感じられます
結婚をお望みであり、なかなかうまく行っていない場合は「さよなら婚活チャンネル」あたりをオススメします
微妙なゲームをやらされたのは大変だったのでしょう。しかしながら、それで談笑が進むテーブルがあったのも事実ですよね? あくまでもゲームは会話のきっかけだったのでは無いですか? しかし、男性陣とは盛り上がらなかった。残念です
他にもいっぱい指摘したいことはありますが、あまり傷つけるのもよく無いですし、割愛します。とはいえ、コレだけは、言わせてください。
相手の男性を『Sレア』(それ以外をそれ相応の呼び名で)評価するのは
セクハラです
でも、一生をなげうつ覚悟で必死に我が子を介護してるお母さん、お父さん、立派だよ。
最近は介護に取り組む親のドキュメンタリー番組をよく放送してるし、
YouTubeでも障害者の日常を分かりやすく紹介しているチャンネルが増えた。
自慢じゃないけどTikTokのフォロワー200人いるし一番再生されてる動画は20万超えてる
ぐらい…うむむ
どうしてっ
どうしてTikTokとYouTubeで同じ動画を上げてるのにこんなに再生数に違いが出るの!?
助けてパパ〜ヤ
たすけて〜
深夜のダラダラした文章に、思った以上の反響があり、恐縮です。キャンセルカルチャー運動に辟易していましたので、考察と言いつつ、n=1の、偏見まみれのくさすような内容になっており、申し訳ございません。
コメントを通して、西洋史観や海外勢の動きなど己の勉強不足を感じ、大変参考になりました。ほか、新たに以下の視点を得ました。
(現行法上合法とされている無断学習(?)をダメとし、無断の二次創作をヨシとする矛盾性など)
彼らの職業は、対脚本家と演者という関係からみて、クリエイターではなくプレイヤーよりかなという偏見があったため、言及していません。
そもそも、声は、創作というより身体的特徴なので、人権の一つとして適切に保護されることには、なんら議論の余地はないのでは。
自他ともに達人と認める域に達した方が、「ワシは猟師じゃ」と自称するのは、偉そうだけど実際に偉いし、じゅうぶん身の丈にあっているのでいいんじゃないでしょうか。
最近、日本の「絵師」と呼ばれる者達の界隈で、生成AIに対する反発が拡がっている。
それは年々過激さを増し、最早、「お気持ち」や「感情的な反発」ただそれのみで、法的にも倫理的にも問題のないコンテンツを焼き払うまでにいたった。
もちろん、全ての絵師がそうだとは思わないし、思いたくはない。
このような状況下では肯定的意見など出せようもないだろう。魔女狩りの憂き目にあってしまう。
さて、リーガルマインド(法的思考能力)は、法学部で法律科目をみっちり学んでやっと習得できるようなものなので、これを持たない相手に議論をふっかけても、いつの間にか例えになっていない例え話にすり替わるのがオチだ。
だから、反AIを説得したり、論破したりするつもりは、私にはない。
生成AIに過剰に反発をしているのは、「絵師」やそれをとりまく「アニメコンテンツ」(以下、「絵師界隈」という。)に限られている。
他の分野でも生成AIの進化・深化はめざましいが、変な炎上なども起こらず、粛々と最新ツールとして活用されている。
実際、私がメインで活動している音楽分野(以下、「音楽界隈」という。)でも、生成AIは、比較的自然に受け入れられている。
音楽界隈にいると、少数の作曲家(以下、「クリエイター」という。)、多数の演奏家(以下、「プレイヤー」という。)、無数の聴衆(以下、「リスナー」という。)が互いにインスパイアし合う「「創作の循環」、古から続く巨大なうねりを、あらゆる局面で感じる。
生成AIの学習云々の問題は、この循環の一要素として、肯定的に受け入れられている。
しかし、絵師界隈には、循環の要となるプレイヤーがほぼ存在しないため、「「創作の循環」を知覚しづらい。
西洋芸術は、音楽や絵画の分野を問わず、才能は神から与えられたもので、作品は神に捧げるもの、という共通認識のもと、発展してきた。
信仰が薄れてきた現代においても、なお、フェアユースの思想として残っている。
対して、日本には、そのような一神教の概念はないものの、少なくとも音楽界隈にあっては、神に奉納する神楽なる存在がある。
更に、音楽理論そのものが、西洋をルーツとするので、「与えられた「捧げる」意識を醸成する機会が多い。
一方で、日本の絵師界隈は、ガラパゴス状態で進化しているため、「自分がゼロから努力して勝ち取ったもの」「作品は自己表現」という認知になりやすいのではないか。
今、音楽を本業として、いわゆる音楽でメシをくっているクリエイターは、厳しく長い音楽不況を乗り越えた存在であるので、生成AIごときには脅かされない実力がある。
そうでないクリエイターは、純粋に趣味として作品を作って発表して楽しんでいるので、生成AIも、面白いツールが出たな、としか捉えない。
一方、イラストを本業として、それでメシをくっている絵師界隈は、クリエイターの淘汰が進んでおらず、生成AIごときに簡単に脅かされてしまう。
リアルに生活がかかっているのなら、反発も過激になってしまうだろう。
参入障壁の低さと、00年代からの需要の急速な拡大が、本来実力に見合わない人間をプロとさせてしまったのかもしれない。
さながら、チューリップ・バブルだ。
以下、それぞれ、補足。
音楽界隈では、古くからクリエイター、プレイヤー、リスナーが繋がり、互いに影響を与え合う「巨大な循環」が存在している。
例えば、クラシックのプレイヤーが過去の偉大なクリエイターの作品を演奏し続けたり、ジャズやヒップホップにおいて、サンプリングやリミックスを通じて新しい音楽を生み出すのは、既存の作品や表現を再利用する文化が根付いているからである。
「表現の蓄積に敬意を払いながら、新しい創造を探求する」というプロセスを自然に受け入れられる土壌が存在している。
これは、DTMの世界も同じで、音源やサンプルが膨大に共有され、再利用されている現状からすると、AIによる生成もただ新しい音源や手法を追加しただけという感覚が強い。
技術的な進化が日常的に行われており、特定の著名なプレイヤーの演奏をサンプリングして音源化することも一般的である。
これにより、生成AIも単なる新しいツールとして、既存の「循環」の中に自然に組み込まれている。
また、音楽界隈において、多くの場合、クリエイターはプレイヤーを兼ねており、リスナーもまた、プレイヤーを兼ねている。
音楽愛好家ならば、誰だって、一度は何かしらの楽器を触って、誰かの作った曲を演奏しようとした経験があるのではないか?
クリエイター、プレイヤー、リスナーは、多くのケースで同じ立場で、創作の循環に積極的に関与している。
AIがその中に入ることは、「革命」ではなく、単なる「進化」だ。
私自身、音楽を通じてこの循環を何度も経験してきたため、AIを恐れることなく、むしろ新しい創作の可能性として受け入れている。
音楽分野では、クリエイター、プレイヤー、リスナーが互いに影響を与え合い、生成AIもその延長線上にあるのだ。
一方で、音楽界隈における「プレイヤー」に相当する役割が、絵師界隈には存在しないか、または極めて少ない。
クリエイターとリスナーの立場を結びつけ、要として機能する「プレイヤー」という存在が希薄であるために、絵師界隈では「創作の循環」を感じる機会が乏しい。
その結果、生成AIは「自分の領域を侵害する存在」として映ることが多い。
絵師界隈において、絵師は、自分の作品について、「自分がゼロから作り上げたものであり、完全な自己表現の成果」として捉える傾向が強く、他人の作品に手を加えたり、既存の表現を再利用することに対しては、現行法上問題がなくとも、極めて強い抵抗を感じやすい。
絵画や音楽を問わず、西洋における芸術の歴史を振り返ると、才能は「神から与えられたもの」として見られており、芸術家はその才能を用いて作品を神に捧げるものだった。
パトロンは、神のために芸術家を支援して、芸術家は神のために技術の研鑽を重ねた。
結果として、優れた作品がたくさん残り、ありがたくも現代にまで継承されてきた。
芸術史への脱線は避けたいので、軽く触れるにとどめるが、少なくとも、西洋の芸術、特に歴史的な音楽や絵画の中では、才能は「神からの贈り物」として見られてきたため、それを使って作品を作ることは神聖な使命の一部であった。
元来、芸術作品やそれを生み出す才能は、個人の所有物ではなく、社会や神に捧げるものとされてきた。
この背景が、西洋でフェアユースの概念が広く受け入れられている一因のように思う。
才能や作品は神のものとして共有されるものというコンテクストのもと、生成AIによる「学習」や「再利用」も一部では容認されやすいのだろう。
任天堂とパルワールドの訴訟問題における、日本と欧米の反応の顕著な違いに、この当たりの感覚の違いが明確に出ているように感じる。
この点、日本の絵師界隈にとって、才能は「自分の努力によって勝ち取ったもの」であり、作品は完全に自分の所有物という感覚が強いのでは。
その態度を傲慢とみるか、当然の権利とみるかはさておき、だからこそ、生成AIが個人の努力や創造性を「奪うもの」として見られやすく、反発が生まれやすいと考えられる。
このまま日本の絵師界隈の生成AIに対する過剰な反発、炎上騒動が続くと、日本では、生成AIはアンタッチャブルとなり、なんらの議論も進歩も遂げなくなるだろう。
最終的に、生成AI技術は、外国の「GAFA」などの巨大企業によって独占され、資本主義の論理に飲み込まれる可能性が高いと感じる。
外国の大企業が規約や契約に巧妙に生成AI技術云々を盛り込み、最終的には技術やデータを独占し、クリエイターがそれに従わざるを得なくなる未来。
絵師界隈の過激な活動により、日本企業にとって生成AI技術そのものはアンタッチャブルとなったので、日本企業は呆然と、日本人の優れた才能が外国資本に奪われていくのを眺めるしかできない。
もちろん、これは資本主義の一環であり、技術の進化の中で繰り返されてきた「ひとつの循環」として受け入れるしかないのかもしれない。
私自身はそのような未来を諦観し、これもまた創作における流れの一部だと考えている。
技術は常に進化し、その中でクリエイティブな表現の方法もまた変わっていくものだ。
しかし、絵師界隈は、そういう未来をどう考えているのだろうか?
AIは決してクリエイターの創造性を奪うものではなく、創作の循環、巨大なうねりの一部として受け入れられるべき可能性を秘めている。
これからのクリエイティブな世界で、AIと共に新しい表現の形を探求していきたいので、絵師界隈には邪魔しないでいただきたい。
「生成AIを使っているヤツを、絵師を呼ぶな」問題にも触れておきたい。
望む絵を出力することは、絵師界隈の人が想像しているような、そう簡単な技術ではない。
命令文の模索や、好みのモデルの階層マージ云々、どれをとっても、相当な知識が必要だ。
現に、クラウドワークスでは既に、「生成AIでイラストを出力してほしい」旨の依頼がわんさかある。
「Novel AI」や「Dall-E 3」、「Grok-2」など、企業が最適化して、提供している出力サービスを使っている者は、今のところ「消費者」かな。
企業が最適化したサービスを使ってキャッキャしているだけの人は、ごく普通の・・・・・・一般の消費者、それ以上でも以下でもないのでは。
消費者がイラスト生成AIの恩恵にあずかれるようになっただけ。
「絵師」という言葉は、2000年代の2チャンネルの「同人板」で、敬称として、使われ始めたと記憶している。
「表紙を絵師に書いてもらって~」とか、「好みの絵師が~」とか。
敬称なので、自分で自分のことを「絵師」と名乗る者は、当時はいなかった。
ニコニコ動画が出てきて、ネットが低年齢化して、「動画師」や「MIX師」という、変な亜種が登場したあたりからだろうか。
その中でも1軍メンバーがやってるのと2軍がやってるのがあったんだけど、2軍がやってるチャンネルが打ち切られた
それみて正直に話してくれてありがたいって思ったけど、それ以上に思ったのが、
めっちゃおふざけみたいな感じでやってるのにやっぱシビアなのね、まあわかるけど、
みたいな現実に引き戻すような余計なことしやがって感だった
1軍はそれにまったく触れずに更新しまくってるのも恐怖を感じた
おふざけメインなら最後までその虚像をつらぬいてほしかったというのが本音だ
んでついさっきだけど、そこにむかし所属してた?やつ、ここ数年ぜんぜんみねーなって思ってぐぐったら、
まあコンプラとかそういう意味ではあってる対処ではあるんだけど、
真面目な部分みせつけられると冷めてしまう部分があったのも事実
いや正直コンプラ違反的なやつを放置するのはよくねーし対応としてはまっとうなんだけどね
かすみ食ってんじゃないからしょうがないのもわかるんだけどさ・・・
youtubeがほとんどになっちゃってそれ以外のもともとやってた本業みたいなところがおろそかになってるように見えるのも個人的には残念
あーあ