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はてなキーワード: 賞賛とは

2024-11-20

弱者男性定義貧困に寄せようとする奴はバカ

貧困対策なんて生活保護基準の引き上げと適正な運用に尽きる話であって、社会から見落とされてるだなんだといった話とは全くリンクしない。

弱者男性問題の核心は社会関係上の不承認だ。

なんの取り柄もないおっさんはあたかもなんの取り柄もない人間のように扱われる。税金を納めても誰も褒めてくれない。

何の対価も何の条件も無しに、生きているだけで社会的に賞賛されることこそが弱者男性の救済であって、金の問題じゃない。

2024-11-19

今日学んだこと】pretty

私の理解では、日本語では「かなり」は後に続く形容詞を強める。不思議なことに、英語の 「pretty」はそうではない。

#英語勉強

これ、けっこう重要ポイントですよね。

例えば、She's pretty beautiful. は She's beautiful. という手放しの賞賛とは異なり、なんだか他の美人比較されているような、値踏みされているような感じ。

You're pretty smart. も「これまでバカと思ってたけど、見直したよ」と言われている気分。

https://x.com/ParrotMystery/status/1858686048207073318

2024-11-18

早く「成長するAI」作ってオタクを黙らせようぜ

オタクなんてバカしかいないかAI美少女イケメンのガワを着せて「AIが絵を学んでいくストーリー」を作って見せれば手のひら返し賞賛しだすよ。

AIVtuberにやらせてもいい。というかもうどっかでやってそう。

まあそれが生成AIとやってる事同じって理解できるオタクもいないかも。バカから

2024-11-17

anond:20241117233508

自己愛パーソナリティ障害みたいな子ずっと常駐してるから

 

特別であるという空想

患者は大きな業績という空想(圧倒的な知能または美しさについて賞賛されること、名声や影響力をもつこと、または晴らしい恋愛を経験すること)にとらわれています。自分が、普通の人とではなく、自分と同様に特別で才能のある人とのみ関わるべきであると考えています患者はこのような並はずれた人々との付き合いを、自尊心を支え、高めるために利用します。

 

賞賛を受ける必要性

自己愛パーソナリティ障害患者は過度の賞賛を受ける必要があるため、者の自心は他者からよく思われることに依存しています。このため、患者自尊心は通常は非常に壊れやすものです。患者はしばしば者が自分のことをどのうに考えていかを注視しており、自分がどれだけうまくやっているか吟味しています

自己愛パーソナリティ障害患者は、他者による批判、また恥辱感や敗北感を味わう失敗に敏感であり、これらを気にしています。怒りや軽蔑をもって反応したり、荒々しく反撃したりすることがあります。または、自尊心を守るために、引きこもったり、表向きはその状況を受け入れたりすることもあります患者は失敗する可能性のある状況を避けることがあります

 

 

診断

自己愛パーソナリティ障害の診断を下すには、以下の5つ以上に示されるように、自分価値についての過大評価賞賛への欲求共感性のなさが持続的に認められる必要があります

 

  • 分の重要性や才能について、誇大な、根拠のない感覚を抱いている(誇大性)。
  • 方もない業績、影響力、権力、知能、美しさ、または素晴らしい恋という空想にとらわれている。
  • 分が特別かつ独特であり、最も優れた人々とのみ付き合うべきであると信じている。
  • 件に賞賛されたいという欲求をもっている。
  • 特権意識をもっている。
  • 標を達成するために他者を利用する。
  • 性に欠けている。
  • 者を嫉妬しており、また他者が自分を嫉妬していると信じている。
  • 慢かつ横柄である。

 

https://www.msdmanuals.com/ja-jp/%E3%83%9B%E3%83%BC%E3%83%A0/10-%E5%BF%83%E3%81%AE%E5%81%A5%E5%BA%B7%E5%95%8F%E9%A1%8C/%E3%83%91%E3%83%BC%E3%82%BD%E3%83%8A%E3%83%AA%E3%83%86%E3%82%A3%E9%9A%9C%E5%AE%B3/%E8%87%AA%E5%B7%B1%E6%84%9B%E6%80%A7%E3%83%91%E3%83%BC%E3%82%BD%E3%83%8A%E3%83%AA%E3%83%86%E3%82%A3%E9%9A%9C%E5%AE%B3-npd

そして『自己愛性』のパーソナリティ傾向です。「私は特別、私はすごい」という思いが前面に出るパーソナリティ傾向のことですが、

こうした万能的な自己像が損なわれることを恐れて、対人関係回避する、試される場を回避するといった受身的な形で表れる

自己愛性の高さもありますひきこもりの背景要因となる自己愛性とはこの傷つきやす受身的・回避的な自己資性パーソナリティ傾向だと思われます

これは、甘やかして育てら れた人、傷つくことなく育てられた人のパーソナリティ傾向と誤解されがちですが、

実際 には健全自己愛の展開を阻まれたり踏みにじられたりした経験を通じて、

特に思春期青 年期のある局面で均衡を欠くほど高い自己愛性を顕わにするという形成過程を持つの普通です。

から自己愛パーソナリティ障害の人は、自分特別であるということにこだわりながら、傷つくことを非常に恐れているのです。

なお、ひきこもる中でこうした自己愛性が二次的に高まっていく心理過程もありうると思われます

 

思春期ひきこもりをもたらす精神科疾患の実態把握と精神医学治療・ 援助システムの構築に関する研究 | 内閣府

https://www8.cao.go.jp/youth/suisin/pdf/shien/k_1/k1.pdf

握手会後しばらく手洗わないって人

こう言うのオタク仲間では賞賛されたりあるいは常識だったりするのかもしれない。

けどさ、普通に恋愛して普通にセックスした相手がいるとして、好きだからちんぽ洗わないとかないよな?

片や好きだからわず、片や好きでも洗う。不思議だ。

握手会後しばらく手洗わないって人

こう言うのオタク仲間では賞賛されたりあるいは常識だったりするのかもしれない。

けどさ、普通に恋愛して普通にセックスした相手がいるとして、好きだからちんぽ洗わないとかないよな?

片や好きだからわず、片や好きでも洗う。不思議だ。

2024-11-15

AI絵師(笑)

 これは先日からワーワーなってるAI問題とは関係ないやつです。

 絵を描けない自分から見たAI絵師(笑)の無様さを書き留めてるだけで、読めたもんじゃないです。

 AI絵師とはなんだろう。

 AI絵師とは、バズるイラストを描ける絵師活動を、指を咥えて嫉妬している人間のことだ。

 絵師バズる絵を描くまでに、何年何十年と努力し、練習し、勉強していたこから目を背けて、その努力結晶AI学習(と言う名の無断転載、無断複製)させてどうにか自分の手柄にしてバズりたい。それを目的としている。

 絵師はずるい、そんなに絵が上手くて、バズって、称賛されて、自分のようなAIテキストを打ち込んでキメラ画像を生み出すしか出来ない人間と雲泥の差がある。ずるいずるいずるい。

 反して絵師という生き物は、実は自分特別だという認識が低いらしい。

 「自分は年々可視化され増え続ける絵を描く人間の中の一人」でしかなく、その中で藻掻いて、オリジナリティを追求し、自分理想を追い求め続けていると言われた。

 私にはちょっと信じがたくて、若干「そうは言いつつ絵描けることに優越ちょっとはあるっしょ?」と思ったりもした。というかそれぐらい思ってても全然良い。

 AI絵師はそんなことを考えたことすらない。勝手に「絵師自分たちが特別だと思って傲慢AI絵師たちを見下している」という妄想に取り憑かれ、逆恨みをしている。だから「絵柄の私物化」なんて発想が出てくる。

 そもそもあのイラストレーターさんとあのイラストレーターさんって絵柄近いよね、なんてケースはいくらでもあるのに、絵師が長年積み上げてきた絵柄を「私物化」しているなんて発想がどこから出てくるのかわからない。

 絵柄が欲しいなら自分で作っていけば良いだけだ。

 このイラスト漫画飽和時代で、全員がなんの影響も受けることなく絵柄を生み出してるわけがない。そんなことにも気付けない。

 AI絵師は、自分たちが受けるべきであった称賛、利益を「絵師たちに盗まれている」と思い込んでいる。絵師たちは自分たちAI絵師差し置いて私腹を肥やし、自分たちの取り分をうばっている。らしい。なんのこっちゃ。

 だからAI絵師たちの絵を学習させて盗んでも良いと思っているのかもしれない。

 AIイラストを生成する行為をきちんと「実は駄目なこと」だと認識できていればの話だが。(中には相当数のガチのキチ◯イもいると思う。)

 AI絵師は「バズるってほどじゃないけど一定フォロワーファンがいる絵師」のことが目に入ってない。

 AI絵師になれば何故か一足飛びで「バズれる」と思い込んでいる。

 黙々と今日から棒人間を描くことから始めて、練習して、同好の士ちょっとずつ仲良くなり、数いいねから始めるとかそういう発想がない。いきなり神絵師になってバズりたい。

 そんなんだから馬鹿にされるんだよ。ていうか馬鹿なんだよ。

 AIイラスト一般的になるとしても、「AI絵師」はただの「AIテキストを打ち込んでる無能」にしかなれないことがわかっていない。

 可能性があるとすれば「ドラゴンカーセックス」みたいな、それとそれ合わせる?みたいなセンスくらいなら賞賛されるかもしれないが、生成されたイラストについてAI絵師賞賛されることはない。

 これらについて社会的に利用がどうのこうのとか屁理屈抜かしてるが、現時点でAI画像のもの話題になることはあれど、生成したAI絵師個人については認識されていないか、悪評しか聞こえてこない。それが答えだ。

 AI絵師がこれから何をしようとも、AI絵師自体賞賛されることは未来永劫ない。

2024-11-14

エーミール少年の日の思い出を語る

 正しい人でありなさい。

 それが、僕に課せられた唯一にして最大の教条だった。

 幼い頃から、僕は常に「先生の家の子であることを意識させられてきた。両親は僕を品行方正な模範少年に仕立て上げることに腐心していたし、周りの人(大人子どももだ)は皆、僕の素行や成績の優秀さを褒めそやした。

 今思えば、僕は他人眼差しに見張られ、他人の期待に縛られて暮らしていた。だが、当時の僕は、それに不満や苦痛を感じることは(少なくとも意識の上では)全くなかった。むしろ、どんな時も「正しい人」として振る舞うことに、ある種の誇りすら感じていたように思う。

 友達をえり好みするのは「正しくない」ことだ、という両親の教えに従って、僕は誰にでも人当たり良く接していた。その甲斐もあってか、ほとんどの級友は僕に好意的だった。先生たちも僕を気に入っていたようで、贔屓と言われるような特別扱いを受けることも少なくなかったが、誰も文句を言わなかった。僕は何の迷いもなく、己に与えられた特権享受していた。それが自分の「正しさ」に支払われた報酬だと受け止めていたからだ。

 そんな僕が、一人だけ「友達」と呼べない少年がいた。隣の小さな家に住んでいた彼は、見た目も成績もパッとせず、不器用どんくさい、いわゆる劣等生だった。当時の僕にとって「優れていること」と「正しいこと」はほとんど同じ意味だったから、僕は「正しくない」彼のことをうっすらと見下していた(そしてそれを「正当な評価」だと信じていた!)。

 だが、もし彼がただの冴えない少年だったら、僕は彼とも親しくしようとしただろう。僕に「誰かを嫌う」という悪徳を犯させた(当時は本気でそう思っていたのだ)のは、彼の蝶に対する異常な情熱だった。

 あの頃の僕たちにとって、蝶の収集最大級の関心事だった。少年たちは蝶を捕まえては標本を作り、互いに自慢し合っていた。

 はじめのうち、僕はあまり熱心な収集家ではなかった。捕らえた蝶を完璧な標本に仕上げる作業は楽しかったけれど、蝶を捕まえること自体にはさして魅力を感じていなかったのだ。

 だが、彼は違った。彼は「蝶狂い」としか言いようがないほど、生活のすべてを蝶捕りに捧げていた。「蝶を探していた」という理由遅刻して先生に怒られるのは日常茶飯事で、彼の母親が夜に戸口の前で息子が戻ってくるのを待っているのを見たのも一度や二度ではなかった。

 それほど蝶に入れあげているにもかかわらず、彼は自分の標本を他人に見せようとしなかった。標本を級友たちとの「社交」の手段と捉えていた僕は、そんな彼に不気味さすら感じていた。こいつは一体何のために蝶を集めているんだ? 遅刻の罰として教室の前に立たされている彼の、何を考えているかからない顔を見るたび、僕は疑問に思わずはいられなかった。

 ある日、僕は虫取り網を片手に近所の森に出かけた。新しい標本を作るために蝶を仕入れに行ったのだ。あらかじめ目星をつけていた場所で狙い通りの蝶を捕まえ、さっそく家で標本にしようと帰りかけた時、近くでガサガサと物音がした。音の方を見ると、一人の少年が森の奥へ向かっていた。彼だ。彼は僕に気づくこともなく、上の方を見ながら歩みを進めていく。僕はほんの少し迷ったあと、彼の後を追いはじめた。誰かのあとをつけるなんて全く「正しくない」ことだと思いながらも、なぜかそうせずにはいられなかったのだ。

 十分以上歩いただろうか。少し開けた川べりで、彼はようやく足を止めた。僕は木の陰に隠れて、彼の様子をうかがった。彼は静かに網を構え、宙の一点を凝視している。彼の視線を追った先には、一匹のコムラサキがいた。生きたコムラサキを見るのは、これが初めてだった。

 彼はじっと、コムラサキの隙を狙っている。爛々とぎらついた瞳には、きっと蝶の姿しか映っていない。こんなにも獰猛空気を纏った人間を、僕は見たことがなかった。

 不意に、彼が動いた。突き出された虫取り網がひらりと宙を舞い、すぐに地面に伏せられる。彼はかがみこんで網の中を確認した。僕からは蝶の姿は見えなかったが、狩りの結果はすぐに分かった。彼が、長い安堵の息とともに、うっとりと微笑んだからだ。

 彼が立ち上がる前に、僕は踵を返した。早足はいつの間にか駆け足になり、何度も転びかけながら、それでも走り続けた。「逃げなければ」という言葉が、身体の中に繰り返し響いた。何が怖いのか、そもそも全身に満ちたこ感情が恐怖なのか、何もわからないまま、僕は家まで走り通した。捕まえた蝶がいなくなっていたことに気づいたのは、自分の部屋に戻ってからだった。

 それから二ヶ月ほど経った頃、紙箱を手にした彼が僕の家を訪ねてきた。彼が何か言う前から、僕には箱の中身が分かっていた。彼はあの日コムラサキを見せに来たのだ。僕は彼に気づかれないよう息を整えてから、紙箱の蓋を開けた。

 箱の中のコムラサキは、お世辞にも良い状態とは言えなかった。展翅には粗が多く、足も欠けている。褒められたものじゃないな、と思いながら顔を上げると、彼は得意げな笑みを浮かべていた。驚嘆と賞賛を欲しがっている顔だ。それに気づいた途端、胸の中にどす黒い感情が湧き上がった。

 せっかくのコムラサキがこんな不完全な標本になってしまたことへの落胆、その粗雑さに全く無頓着で恥じる素振りもないことへの呆れ、そして何よりこんなやつに一時でもおそれめいた感情を抱いてしまった自分への怒り。そういったものが渾然一体となった感情だったと、今にして思う。だが、子どもだった僕は、それらを「不快もの」として一括りにすることしかできなかった。そして、その不快感を、標本への批判という形で吐き出したのだ。

 僕は、彼のコムラサキ欠点を、ことさら辛辣な言い方で並べ立てた。彼の顔はみるみるうちに曇っていき、最後にはすっかり不機嫌な表情になった。

 紙箱をひったくって部屋を出ていった彼の後ろ姿を見て、僕はかすかな罪悪感を覚えた。人を傷つけるのは、明らかに「正しくない」ことだ。

 違う。僕は彼を傷つけたわけじゃない。僕はただ事実を述べただけなのに、彼が勝手に傷ついたのだ。直すべきことを指摘するのは「正しい」ことだから、僕は何も恥じる必要はない――

 僕は自分にそう言い聞かせた。都合の良い言い訳だと、心のどこかでは分かっていたけれど、気づかないふりをした。僕はただ、「正しい人」でいたかったのだ。

 彼のコムラサキの標本を見てから、僕は本格的に蝶の収集に取り組み始めた。少数の個体完璧に仕上げることで満足していたのが、より多くの種類の蝶を捕まえたいと思うようになったのだ。

 勉強友達付き合いに割く時間限界まで減らし、僕は蝶の採集に出かけた。珍しい蝶も、そうでもない蝶も、とにかく片っ端から捕まえた。両親は泥だらけの服で帰ってくる僕を見て顔をしかめ、級友たちは僕と遊べないことに不満げだった。採集自体も、楽しさより苦痛のほうが大きかったが、やめようとは思わなかった。

 僕の目的は、彼よりも優れた収集家になることだった。彼が捕まえるよりも多くの種類の蝶を、彼が作るよりも美しい標本にする。それは僕にとって、ほとんど初めての私的欲望だった。誰に求められたわけでもないのに、「正しい」ことでもないのに、せずにはいられない。自分でも理由のわからないまま、僕は取り憑かれたように標本作りを続けた。

 時折、蝶を探しに行った先で、彼の姿を見かけることがあった。彼はいつでも心底楽しそうに野山を駆け回っていて、その姿を見るたびに嫌な気持ちになった。僕が彼に声をかけることはなかったが、彼が僕に気づくこともなかった。彼はいつも蝶しか見ていなかった。その事実もまた僕を苛立たせていたのだが、あの頃はそんなことは思いもよらなかった。

 季節がいくつか過ぎる頃、僕は蛹の採集にも手を出していた。森に分け入って成虫を捕まえるよりも、自分の部屋でじっくりと蛹や繭を羽化させる方が性に合っていると気づいたのだ。時には予想外の成虫が出てくることもあったが、それもまた楽しみの一つだった。

 そんななか、とんでもないことが起こった。偶然手に入れた繭からクジャクママユが羽化したのだ。クジャクママユといえば、僕たちの間では秘宝のような扱いの、まさに幻の存在だった。ゆったり広げられた翅に浮かぶ特徴的な斑点を確認した時には、全身の震えが止まらなかった。

 何も考えられない興奮状態の後に、真っ先に頭に浮かんだのは彼の顔だった。彼が教室の片隅で、級友のクジャクママユの話に目を輝かせていたのを見たことがある。あの様子だと、きっと彼はまだクジャクママユを見たことがない、ましてや持っているはずがない。

 千載一遇の好機だと、僕は思った。このクジャクママユを完璧な標本にして、彼に見せるのだ。何が「正しい」標本なのか、誰が「正しい」収集家なのか、彼に見せつけてやるのだ。この思いつきは、僕をひどく高揚させた。

 僕はこれまでにないほど慎重かつ丁寧に、クジャクママユの展翅に取り組んだ。その出来栄えは、今までのどんな蝶よりも素晴らしいと自負できるものだった。もうしばらくすれば、非の打ち所がない美しい標本が仕上がるはずだ。僕はすっかり舞い上がっていた。

 常に地に足をつけていることこそ「正しい」。そう知っていながら、浮かれきった僕は級友にクジャクママユのことを話してしまった。噂はあっという間に広まり大勢少年たちがクジャクママユを見せてくれと押しかけてきた。

 僕は彼らの頼みを「完璧状態で見せたいから」と全て断った。それも嘘ではなかったが、一番の理由でもなかった。最初に見せる相手は彼だと、最初から決めていた。

 僕は実のところ、彼がどうしてもと乞うならば、未完成状態でも見せてやってもいいとさえ思っていた。にもかかわらず、彼は何も言ってこなかった。コムラサキの一件以来、彼が僕を避けているのは分かっていたが、彼の僕への嫌悪感クジャクママユへの興味を凌駕していると考えると、妙に胸がモヤモヤした。

 その日は、何ということのない平凡な一日になるはずだった。少なくとも、蝶の採集を終えて帰宅し、自室に入るまではそうだった。だが、そこで僕を待っていたのは、変わり果てた姿のクジャクママユだった。

 翅がもげていた。触角も片方取れていた。展翅板の上には、粉々になった翅の残骸が散らばっていた。

 どうして。何で。誰が。どうすれば。

 絶望的な言葉の断片が、次々と頭の中に浮かんではぼろぼろと崩れていく。早く直さなければ、と震える手で修復道具に手を伸ばす。今までの経験は「これは無理だ」と告げていたけれど、その声さえ聞こえなかった。

 日が落ちかけた頃、僕はとうとうクジャクママユの修復を諦めた。僕は絶望的な気持ちのまま寝台に倒れこみ、腕で目を覆った。このまま何も考えずに眠ってしまたかった。そして朝になって、すべてが夢だったと気づきたかった。

 そんな幼稚な空想を打ち砕くように、女中さんが僕の部屋の戸を叩いた。彼が来ていると言うのだ。僕はのろのろと起き上がり、玄関に向かった。

 僕の酷い顔を見て驚いたのだろうか、彼は何も言わずこちらを見ていた。僕は半ば操り人形のような心地で、クジャクママユが台無しになったことを告げた。すると彼は、それを見せてくれと言った。僕は頷き、彼と共に重い足取りで階段を上っていった。

 僕はクジャクママユの残骸を彼に示した。ろうそくの明かりでも、彼の顔に全く血の気がないのがわかった。彼はしばらくクジャクママユを凝視していたが、ゆっくりと僕の方を向いて、言った。「ぼくが、やったんだ」と。

 僕は耳を疑った。意味がわからなかった。彼が、これを?

 僕が凍りついていることに気づかず、彼は堰を切ったように喋り始めた。どうしてもクジャクママユが見たくて、僕がいない間に部屋に入ったこと。見ているうちに魔が差して、クジャクママユを盗んだこと。返そうとした時には、クジャクママユがつぶれてしまっていたこと。

 彼の話を聞くにつれ、僕は胸がどんどん冷たくなっていくのを感じた。同時に頭に浮かんだのは「彼は裏切ったのだ」という言葉だった。何を裏切ったのかはわからない、ただ彼が裏切り者だという考えだけが、強く強く繰り返された。

「そうか、そうか、つまり君はそんな奴なんだな」

 そう告げた声は、自分でも驚くほど平板だった。こんなに誰かを軽蔑するのも、こんなに誰かに失望するのも、初めてだった。

 彼は必死に許しを乞うてきたが、僕はありったけの皮肉を添えて彼の謝罪を切り捨てた。彼は一瞬、殺さんばかりの形相で僕を睨みつけた。そんな表情を誰かから向けられたのは初めてだったので、僕はほんの少したじろいだ。だが、彼はそれに気づくことなく、何も言わないまま、僕の部屋から出ていった。

 僕はろうそくを吹き消し、再び寝台に横たわった。毛布に繭のようにくるまると、両目から涙があふれだした。

 僕はどうして泣いているんだろう。当然、大事クジャクママユを失ったからだ。でも、本当にそれだけだろうか。僕は、何を失ったんだろう――嗚咽の合間にそんなことを考えながら、僕の意識ゆっくりと沈んでいった。

 次の日、僕は級友たちに、不手際クジャクママユが駄目になってしまったと話した。彼らは、ぜひとも見たかったのにと嘆き、僕らしからぬ失態に戸惑った様子だった。だがそれも一時のことで、しばらくすると彼らの興味は別のものへ移っていった。

 そして、その日以来、彼を野山で見かけることはなくなった。遅刻することもなくなり、真面目に授業を受けるようになった。ほどなくして、彼が蝶の収集を一切やめて、標本もすべて捨ててしまったらしいという噂が聞こえてきた。級友たちが、あいつとうとう正気に返ったのかとか逆におかしくなってしまったのだとか好き勝手を言っているのを聞き流しながら、僕は教室の隅でぼんやり座っている彼を盗み見た。

 彼は罪を犯した、言い逃れできないほど「正しくない」人間だ。彼の罪を糾弾し、正当な罰を与えることこそが「正しい」行いだ。そう考えながら、僕はそうしなかった。彼をかばうためでも、ましてや許すためでもない。僕はただ、逃げたかったのだ。

 あの夜、僕はまぎれもない被害者で、彼は明らかな加害者だった。誰もが、僕が彼を非難するのは「正しい」ことだと思うだろう。けれども僕はあの時、「正しい」ことをしようと思ったわけではなかった。正しいとか正しくないとかい基準から外れた場所あるむきだしの感情――「彼に裏切られた」という気持ちにまかせて、僕は彼を言葉で刺したのだ。

 思えば、彼に関わる時の僕は、いつも「正しい人」から遠ざかっていた。標本箱の中の蝶のように完璧優等生はいられなくなり、破れた翅で不格好に飛び回る、身も心も薄汚れた自分になってしまうのだ。そして、その先にはいつも彼がいた。僕よりはるかに劣っているはずの彼は、森の中では僕よりはるかに美しく羽ばたいていた。にもかかわらず、彼は自ら泥の中に墜ちていった。それらすべてが許せなくて、耐え難くて、そう感じる自分自身を認めたくなかった。だから、僕は彼との関わりを絶ち、自分が「正しい人」でいられる場所へと逃げ出したのだった。

 結局、僕は逃げ切れなかった。「正しい」ままで生きることな不可能だということを悟り自分の中の「正しくない」ものを受け入れて飼いならすことを覚えた。世間ではそれを「大人になる」と呼ぶのかもしれない。

 彼とは、学校卒業してから顔を合わせていない。今では蝶への興味もすっかりなくなって、作りためた標本はほとんど全て人に譲ってしまった。

 それでも、一つだけ手元に残したものがある。翅のもげたクジャクママユだ。痛々しくて不完全で、なのになぜかひきつけられる。そんなクジャクママユこそ、僕にとっての少年の日の思い出なのだ

2024-11-13

anond:20241113220039

谷原がやたら賞賛されてるけど誰だってあんな状況で隣にいた人が倒れそうになったら支えたりはするだろ。なんでも神化するのやめやがれ

anond:20241113111549

ヤクバハイルって大昔からいなかったっけ?

いまは「暇空を賞賛して一緒にcolaboや堀口英利を叩くことで成り上がった時事系YouTuber」っていう他者認識なんだ

大手アノンヤクバハイル」、反暇空に反転

ヤクバハイルは暇空界隈にはよくいる、暇空を賞賛して一緒にcolaboや堀口英利を叩くことで成り上がった時事系YouTuber

暇空騒動本質とは「馬鹿を釣れる叩きネタ捏造してPV稼いで儲ける迷惑系時事系YouTuber問題」といえよう

暇空のおかげで収益化を達成し儲けていたヤクバハイルだが、誹謗中傷の果てに堀口には開示され、チャンネルは先月に別件でBANされ、散々な状態

そして本日には反暇空に反転したことを表明した

ヤクバハイル

@yakuba_hairu

暇空茜を応援しているという理由で私のチャンネル登録していた方は解除してください。

https://youtube.com/@yakubagame2

今後の更新予定。#暇空茜 #反AI

来週11月24日までに復活時のリスナーからリクエストに応えて過去の〝暇空茜事件簿〟を再投稿しますが、私が作ってきた暇空さんの都知事選応援動画は非公開とし、彼の新しい事件動画は作りません。

理由としてはクロスミレさんと同じで暇空さんの“暴言”ともとれる反AI発言に対する処置です。

都知事選で私は応援動画作成し、都内取引会社関係者にも【ひまそらあかね】さんの活躍宣伝してまわり都内にいる私の友人たちにも投票をお願いしてきました。

結果は11もの得票であり、都知事にはなれずとも彼の大幅な知名度向上とチャンネル登録者の増加に尽力してきたつもりです。

しかしここにきてAI絵を駆使して彼を応援してきた発信者全てを切り捨てるかのごとき暴言”にはもう付いていけません。

お世話になりました。

https://archive.md/RsbEB

暇空は強固な反AI派であり、ヤクバハイルはそれに反感を持って反暇空に転向したという

AI表明は前からだったのになんで今更なんだろう

チャンネルBANされて作り直すにあたって、暇空ネタオワコンなのに法的にはリスキーから逃げただけではないか

収益化できていた頃ならリスクがあっても儲けのためにやれたが、暇空バブルが弾けた後の作り直しはフォロワー100人も集まら収益化への道は険しそうだ

2024-11-11

れい信者

国民民主党野田投票しないのはめちゃくちゃ叩いてたくせに、れい新選組野田投票しないのは賞賛するんだな

ダブルスタンダードが過ぎるだろ

2024-11-09

弱者男性だが、弱者男性をこれから名乗る者に言っておきたい事がある

弱者男性だが、って頭につけるのはもっと広まって欲しい

広まることで弱者男性存在感と影響力は増す

しか弱者男性を名乗ると多くの場合どこからともなくリベラルフェミニストが現れて罵詈雑言を浴びせてくる事もあるだろう

そういう時に同じく罵詈雑言を浴びせてはならない

自殺しろとか当たり前に言われると思うけど、罵倒で返してはいけない無視して逃げよう

でも逃げる前にきっちり罵詈雑言浴びせられた事は呟いておこうな可視化していこう

打ち倒される弱者男性を見てリベラルフェミニスト勝鬨を上げ、連中の仲間はそれを賞賛するだろうが、それ以外の人間から見たらどうなるかな?

弱者男性が増えれば増えるほど連中からすると大変面白くない事態になるし無視出来ないか罵詈雑言が更に増える

から増田罵詈雑言浴びせてくる奴は弱者男性アシストをしてるとも言える

今やメディアにも弱者男性という名前が登場し始めているからな

戦争ラブな男とはHしない会 会員証

https://x.com/sebastian_otya/status/1854995148343853495

 

まあ会の目的はともかく

それを持った自分たち写真を躊躇なく載せられるのがすごいなぁと思う

 

仮に「○○な女とはHしない会 会員証」を持ったおっさん地鶏写真載せてたら世間はどう思うか

少しでも考えたのだろうか

考えたうえで「私たちなら賞賛される」と思ったのだろうか

障害児を持つ親の皆様へ

映画ルックバックを見ました。

直接関係は無いけど、なんか昔書いた日記の事を思い出しました。

読み直してみて、これが誰かの何かの助けになればと思い共有します。

誤字脱字含め当時のままです。

子供名前があったのでそこは消しました。

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2011.4.20

障害について。

障害者は生きる価値がないなんてことは絶対にない。

それは絶対に正しいと思う。

というかそれが正しくないなら、逆に正しいってことになんの意味があるのかと問いたいくらいだ。

最近障害について真剣に考える時間が増えた。

○○と○○が生まれた時、今後どうなるか分からなかった、今もそうだ。

子供だけの話ではなく、自分がいつ障害を負うことになるのかも分からないのだからこれを考えておくことは重要だ。

人生の豊かさや幸福というのは、その人自身が決めるというのは真理だと思う。

なので、障害人生に寄り添っても、その上での人生の豊かさと幸福を追求すればよいだけだと考える。

ただ、そのためには、それを含め幸福だと思える物の考え方に沿った人生にしなくてはならない。

なので、その考え方を決めることは重要だ。人生を決めるというのと同義な程に。

から障害者は生きる価値があるという正しさを自分の中で納得しなければならない。

障害者にも生きる価値がある、のではない、障害者は生きる価値がある、のである

私は生きる価値がある、と言いたいということだ。私にも生きる価値がある、ではない。

その考えを血肉にしなくてはならない。

様々なことを考える時に、その考えの元となる軸として機能させる程に自分が納得していなければならない。

その考えを自分の考えとして相手を説得できる程でなくてはならない。もちろん相手を説得することが重要なのではない。

相手を説得することができる程、自分の血肉になっていることが重要なのだ

自分の中で納得できない考えを元にして、自分の行動に結びつけることはできない。

自己矛盾を抱えたままでは強い意志が持てない、堂々と人生を生きていけない。

なので生きる価値について考える必要があるのだ。

まずは、ここから始めたい。

障害者は社会の役に立っていない。医療費介護治安の面で社会負担となっているのではないか?」

まり

社会負担から生きている価値がない」

ということである

まず、治安の面だが、これは社会負担ではないと言い切れる。

障害者→治安という結びつきは、多分知的障害等のコミュニケーションがとれないことを想定していると考え、話を進める。

知的障害者は、

コミュニケーションがとれない

→何を考えているかからない

→何をするか分からない

→怖い

このような経緯で治安の面の負担という議論が上がってくるのだろう。

しかし、実際治安の面で言えば、知的障害者よりも健常者の方がはるか犯罪率が高いのが事実である

ソースは忘れてしまったが、調べれば裏付けがとれるはずだ。

しかし、そうは言っても、やはり怖いものは怖いという人がいるかもしれない。

それに関しては、それでもいい、としか言えない。

怖いなら近寄らなければよい、そっと離れればよい。

街にいる健常者で危険そうな人にはそのように対応するだろう、それと同じでよい。

自分の身を守るという行為非難されるべきではないからだ。

というより、こうした議論に上げるまでもなく、そうした対応に関しては相手障害者かどうかが重要なのではないはずである

医療費介護の面で社会負担となっているということに関して、これは費用対効果ということになると思う。

障害者に対して、かかる費用とその効果だけを考えれば、それだけを考え社会負担だと判断するのなら、多分、そうだろう。

その事実に対しては否定はできない。

ただ、その見方では視野が狭過ぎるだろう。

人通りの少ない道の電灯は費用対効果がないと言っているようなものだ。

その電灯の明るさがもたらすものに目を向けていない。

人通りが少ないからこそ本当に必要な場面があるのだ。そこに電灯がついているという安心感が何をもたらすかということなのだ。

たばこなどにかかる医療費だって社会負担ではないか。それと同じなのだから障害者の医療費だけ問題にするのはおかしい。

このように、同じような他の悪者を上げて、その問題と比べると・・・といった議論の進め方をする人がいるが、こういった進め方は自分はあまり好きではない。

この方法では、本質に近づく議論にならないからだ。

例えば、たばこ議論に上げた場合なら、

たばこを吸う人は税金を納めているのだからプラマイゼロ位だろう

―いや、肺ガンになったらかかる医療費の方が大きいから少しはマイナスだろう

障害者でも、税金納めて自立している人もいる

―じゃあ自立してない障害者は社会負担ということか

―健常者で社会負担しかならない人もいっぱいいるじゃないか

押し付け合い、悪さ探しでは、生きる価値の答えからは遠ざかるばかりだと思う。

障害者は医療費介護の面で社会負担となっているので生きる価値がない。」

まりこれは、価値判断する側から見て、いらないのでいなくて構わないということである

本当にそうだろうか。

障害者がいないことが社会にとってプラスになるのだろうか。そうではないと思う。

もしも、障害者がいないことが当然という社会ならば、自分が健常者であってもそういった社会で生きること自体不安であると思う。

自分だって事故病気でいつ障害者になるか分からない。そうなったら自分は生きる価値がないんだ。

自分の子供が障害を持って生まれてくるかもしれない。そうしたら社会は誰も助けてくれない。

このような不安社会全ての人々が抱えている状態は、はたして幸福なのだろうか。

こうした不安を緩和するという点だけでも、障害者は生きる価値があり、安心して暮らせるようにすること自体社会にとって大きなメリットがあると言える。費用対効果は正確には表せないが、医療費とか、そういった細かいレベルではない。

ただ、障害者が幸福に暮らせることは社会にとってもメリットなのだ。だからあなたには生きる価値がある。

これでは、社会の人々から障害者が攻撃を受けることを防ぐ効果はあるかもしれないが、

障害者本人が―だから僕には生きる価値がある―と自己肯定するところまでには至らないだろう。

それではまだ、障害者には生きる価値があるということの本質には至ってないように思える。

生きる価値があることの社会的なコンセンサスを得ることも大事なのだが、それは本質ではない。

極端に言えば、どんなにおかしな考えだろうが、本人が自分には生きる価値があると納得できる方が大事なのだ

そういった個人的ものの答えを求めようとしているのだから、答えも個人的ものになるのかもしれない。

―例え両腕が無くなろうと、自分には生きる価値がある―

自分が強く思えるような納得できるような考えを見つけること。

―僕は歩くことができないけど、僕には生きる意味があるの?―

と言った子供の問いに、意味があると心の底から答えられること。

それが大事なのだと思う。それこそがこの問いの辿り着くべき姿なのだと思う。

逆に言えば、一般論では難しいのだ。

この手の問いに一般論で正解が出たことなんていまだかつてないのだから

費用対効果の部分で考えたこと―視野を広げて考えれば、障害者が幸せに暮らすこと自体社会的な大きなメリットがある―について、それではまだ、心に響く答えではなかった。なので、コストという面でもう少し掘り下げてみる。

コストという面から障害者を見ることは、コストという面から健常者、もっと広く言えば人間を見ることにつながると思うからだ。両者の答えが異なるならば、異なった考えが必要だし、同じならコストという面から障害者と健常者を分けて考えること自体無意味であるということかもしれないと考えるからだ。

障害者はコストがかかる。では健常者はどうなのか。

多くの健常者はコストより社会への還元の方がまさるだろう。

ただ、何を持って社会の役に立つ還元だと判断するかにもよるが。

環境破壊を伴う経済活動は、短期的には社会賞賛をもって迎えられるかもしれないが、長期的には何もしないよりもデメリットが大きいといった場合もある。

しかし、ここでは、世間一般視野レベルにおいて好ましいと思われるレベルと考えれば良いだろう。簡単に言えば社会的な成功(スケールは問わず単なる賃金等小さなものも含まれる)ということで良いだろう。

その基準判断するならば、やはり、障害者はコストの方が勝るだろう。

個別で見ていけば、社会的に成功する障害者も、社会的な害悪しかならない健常者も存在する。

だが、障害者、健常者という全体のくくりで見ると、障害者というグループに分けた場合にそのブループはコストが勝ると言うことができてしまうだろう。

コストに関して、障害者、健常者と分けて考える必要はあるのだろうか。どうであれ、コストが勝る人がいるということだけである

なので、障害者、健常者といった区別自体無意味だ。

と、言ってしまいたいが、生きる価値という部分を産むべきか否かといった側面から考えた場合には残念ながら簡単には言い切れない。

一生体を起こすことはできない、一生自分自分認識することができない、といったように、ほぼコストが勝るであろうということが、生まれる前から分かってしまうという事がありえるからだ。

ただ、これについても、ドーキンス博士のように例外もいる。彼は生まれる前ならコストが勝ると判断されても仕方がない状態であったと思われる。だが、彼が社会に与えた功績は非常に大きい。

これの意味するところは、コストが勝るなどと正確に判断はできない、ということだが、この判断と同様のケースにおいて、数が増えれば平均コストが勝ることになるだろう。

平均という概念にはその平均を算出するためのくくりが必要である、そのくくりとして障害者、健常者といった分け方がなされることになる。

平均コストで話を進めるなら、もうこの議論手詰まりだ。

あと残っている議論障害者と健常者の線引きをどうするかといったことだけだ。

この議論では生きる価値には辿りつかない。なのでこの方向で進めるのはもうやめることにする。

コストという面から人間を考えてみる。

もうこれは、誰にとってのコストかということに尽きる。

人間人間以外にとってほぼコストしか過ぎない。

他の生物にとって人間特に価値がない、地球にとっては逆に諸悪の根源かもしれない、宇宙にとっては人間などなんの意味もないだろう。まとめれば、人間は等しく生きる価値がないということだろう。

それでも、大部分の人々はそれぞれ自分には生きる価値があると思っている。

意識していないと言う人がいるかもしれないが、それは、自分には生きる価値がないわけではないと思っているということだ。

なぜ、大部分の人々はそう思えるのか。

それは、必要とされているという気持ちがあるからだ。

いや、もしかしてこれは、必要とされている度合いから、かけている迷惑を引いてプラスになるからということなのかもしれない。

あれ、よく分からなくなってきた。

この考え方で生きる価値があるという答えに辿り着けるのだろうか。

いったん、ここでやめる。

下記にネットに載っていた、何か訴えかけられた気がした文章をのせておく。



同じように重い障害を持って生まれてきて、

の子が死んで、この子がまだ生きていることの理由やその不思議

いったい誰に説明できるというのだろう。

そんな、人智はるかに超えたところにある命に、質もへったくれもあるものか。

「生きるに値する命」だとか「命の質」だとか「ロングフル」だとか、

そんなのは、みんな人智の小賢しい理屈に過ぎない。

まれてきて、そこにある命が

生きて、そこにあることは、それだけが、それだけで、是だよ。

本当は障害のあるなしとは無関係

誰がいつ死ぬかなんて、誰にも分からない。

から

の子もこの子も、生きてこの世にある間は

生きてこの世にある命を、誰はばかることなく、ただ生きて、あれ──

それを、せめて大らかに懐に抱ける人の世であれ──と

2024-11-08

ここのリベラル批判フェミ批判って大体白饅頭さんと言ってることと同じだけど

ブックマークでは極左以外はみんな共感してるしはてなーもっと饅頭さんのこと評価すべきなんじゃないの?

なぜか右派でさえ微妙評価が分かれてるとこあるじゃん饅頭

sekiryoくんやtechnocutzeroくんとかもっと賞賛すべし

子育て賞賛おじさんたち

子供を持つ喜びは何者にも変え難い無上の喜びである!」

「そうだそうだ!」

子供を持とうとしない連中はこの喜びを理解していない(愚か者である)のだ!」

「その通りだ!」「俺もそう思う!」「いい事言うな〜!」

子供を持ち、この喜びを理解している俺たちが連中を導いていかなければならない!」

「なんて素晴らしい!」「俺たちこそがやらなければならない!」「みんなで頑張っていこう!」

って感じで同じ属性のおじさんしかいないエコーチェンバーの中で褒め合ってるだけで、現実課題に取り組もうとする様子が1ミリも見えないんだよなあ。

2024-11-07

anond:20241107123225

容疑者xの献身とか愛する人のためなら殺人もやることを美しい悲劇って世の中は賞賛したのにいざオタクがやると身勝手動機がーとか袋叩きなのが違和感

anond:20241101194737

これって結局、資本主義賞賛する能力主義から来ているのかもしれない。

自分能力あるかないか(それと同義の金や地位)にものすごく気を取られリソースを割いて生きてきた自覚がある。

器用でない、うまく生きられない人間能力がない、努力する能力すらないと、さげすむ世の中になっている。嫌だ。

スタートが違うのだからそういう人たちも救ってあげましょう、というのも違う。

うまいやつ下手なやつがいるのは当たり前だし、狩りが下手な獣がなかなか餌にありつけなくて痩せていくことも現実にある。でもそれは存在としての価値、生きたことの意味には何も関係ない。

生きるのが下手くそな(能力がないとされる)人間バカでも恥でもない。誠実さ、直向きさがあればそれだけが生きるに十分に値する。値しすぎるほどだ。生きることへの必死さに優劣はない。その当たり前のこと、当たり前の敬意がなくなっている。

勝利でも成果でもうまさでも適応でも器用さでも美しさでも、そんなのは生きることの価値なんかじゃない。くそみたいなもんだ。

2024-11-06

子供が産まれない

「出生数、初の70万人割れの公算」とのことだ。

少子化の原因となっている独身男性を50年以上もやり続けている身として、さすがに子供がこんなに産まれないと色々まずいだろと思い、その原因を自分事として考えてみた。

まず私が何故独身だったかというと特に明確な理由は無いと思う。

結婚願望は全くなかった。

友人の結婚式に出ると自分結婚したくなると聞かされたこともあるが20代後半から結婚式の帰り道で一緒に馬鹿やれる友人がまた一人減っていき祭りが終わるような寂しさすら感じたほどだ。

うちは両親が離婚しているため円満夫婦生活というものリアルイメージを持ってないことも原因なのかもしれない。

からといってアンチ結婚というほど頑ななものは無く、要はその時付き合ってた女性とそういう雰囲気になれば普通に結婚を考えだし、同じようなレールに乗ってたのかもしれない。

振り返るにそういうifが想像できる相手が1人しかいないことが問題なように思える。

暇がありすぎるくらいにあった大学時代と違って社会人生活は私には慌ただしすぎた。

平日はほぼ毎日サービス残業で安月給のやり繰りに苦労させられ、彼女と遊ぶ費用を捻出することすら困難だった。

しろそんなハードモードの中で勤務中に目の前ですっ転んだ女性を助け、電話番号を聞き交際まで至った己のガッツ賞賛したくなるくらいだ。

その彼女と別れて上京し、そこでお付き合いした方とは転勤による遠距離恋愛の末に別れた。(この方が前述の1人)

それ以後、非婚主義者バツイチ→年の差ありという交際遍歴で結婚意識しない相手とばかり交際してきたせいでこの有様だ。

私のケースは標準的ではないのかもしれないが、やっぱ労働時間が長すぎたり、お金が無さすぎたりすると

結婚という思考のものが発生しなくなるのではないだろうか。

もうちょっと若者時間お金を与えてもいいんじゃないかと思うし、9時から18時までわーっと働いて、そっから遊べ~みたいな雰囲気になってもいいんじゃないかとすら思うのだ。

さすがに今のご時世で見合い復権することはないだろうから、ある種自主性に任せて結婚に仕向けないといけないんだけど

そういう場所・機会がもっとないと難しいんだろうな。

私も一人でできる趣味を多数持っているが、一人でできる趣味が多数持てるこの時代こそが問題なのかもしれない。

趣味について語り合いたいという感情すらSNSで解消されてしまう。。。色々考えてみても結婚しない人は今後も増えていくんだろうなと改めて実感したのでした。

2024-11-03

anond:20241102205833

thesecret3 残酷だが、できない子の心情に配慮するよりは、できる子の能力を最大限賞賛したほうが社会のためにはなりそう。運動音痴スポーツ選手にならなければいいだけだが、1番の子はそれしか生きる道はない。

2024/11/03

ならねーよ

2024-11-01

親に他責してたら余計に苦しかたから辞めた。

新卒挫折して休職中、全部自分のせいにしたら頭がおかしくなりそうだったから、毎日8時間他責をしていた。

小さい頃に虐待を受けて、義務教育不登校で、なんとか資格をとって社会に出ても、求められる仕事はできなかった。

人一倍早く出勤した、残業した、家でも勉強をした、でもその場でパニックになり水の泡。

最初は親切にしてくれていた同僚からも、あの人は障害者じゃないかと噂をされた。

噂が広まってから問題なく出来ていた業務も疑いの目で見られ始め、見張られていると感じて緊張でさらミスが増えた。

人のミスなすりつけられた事もあった。

こんな育ちで障害かもしれない自分が何を言っても信用がないだろうと自分が一番分かっていたので、何も言えずただ謝り、次からはこうこうして気をつけます…!と反省までした。

大人なのに、ありがとうとごめんなさいくらしか出来る事がない。

努力しても要領の悪さと一度抱かれた不信感は埋められず、周りに迷惑をかけてしまった。

一年半で辞めた。

仕事を辞めてから、鬱と発達障害の診断を受けた。

障害の事を調べる内に、自分虐待して出て行った母親発達障害だったんじゃないかと疑った。(あらゆる特徴が一致していた為)

その時に、堰き止めていた思いが一気に崩れた。

小学生の時からずっと言い聞かせていた。

だって1人の人間で、子どもの物じゃない。

母親自身も両親に虐待を受けていたから、繰り返してしまっても仕方ない。

人より出来る事が少ないのも全部自分のせいだ。

親の事は関係ない、自分がとにかく頑張れば、普通人生になるはずだーーーと思って

信じて生きてきたのに。


今まで困ってきた事は全部親のせいだったのか。

まれた時から頭が変だったんだ、だから頑張っても上手くいかなかったんだ…今からどうやっても、障害だったら治らないじゃん…

普通の人になるのって無理なんだwww

絶望



産むな!!!

学もない貧乏が、被虐待児が、障害者が、責任とれない奴が、産むなよ。

中出しセックスして、結婚出産自分が何者かになるための道具にして。

子ども障害なすりつけて、虐待連鎖自己肯定感までめちゃくちゃにして。

まともに1人育てられないのに兄弟がいないと将来可哀想〜!って偽善兄弟ポンポン産んで結局逃げて。

自分人生を彩るために産んだり、病気障害可能性を深く考えずに産む人間が全員、気持ち悪くなった。

出産エゴしか思えなくなった。

だんだん自分の事を飛び越えて、虐待ヤングケアラー問題遺伝する病気障害兄弟児の苦悩、いじめ貧困戦争性犯罪がある世界に産む人間達、ニュースSNS話題を見るたびに心がぐちゃぐちゃに掻き乱されて全て許せなくなった。


どんどん自他の境界がなくなって、もう人間自体が居なきゃいいとすら思った。もっと少子化になって滅亡したらいい。優生保護法が続いていれば自分は生まれずに済んだのかもしれない。安楽死制度が出来て辛い人がどんどんいなくなったらいい。

死のうとしても直前で怖くて死ねなくて、失敗して余計に苦しむのも怖かった。

こっちは産んでくれと頼んでない、親が勝手に産んだのに、自分本能的な死の恐怖に打ち勝たないと死ねない。

産みたい人が産む自由尊重され賞賛され、自殺非難される、楽に死ぬ手段もない。

怒りの行き場がなくSNS毒親を叩き、レスバに時間をついやした、同じ思想の人からいいねをされて一瞬スッキリした。

自分の主張は正しいと思って、スッキリしたはずなのに、それを繰り返すたびにさら自分存在気持ち悪くなって自分以外も全員気持ち悪くなって、苦しくて苦しくてたまらなかった。

それでも街中で知らない人とちょっと話したりお礼を言い合ったり、そんな事が不思議とうれしかった。 

バイトして仕事覚えようと悩んでいる方がまだましだし、たまに感謝されたら普通にうれしかった。

(まぁスキルなしの障害者でも出来る仕事ってなったら毎日ゲロとかマナーおかし人糞掃除するしかなくて、よく変な人にも話しかけられてキツくてやめてしまったけど。そんな仕事に同性の若者1人もいないし、たしかにもし健常者だったらこ仕事しないわ!ガハハ!ってまた落ち込んだ)


脱線したけど、結局あんなに社会が許せなかったのに実際に顔が見える人と会った時には、今生きてるみんなが幸せだったらいいなと思ってしまった。

親子を見ても文句を言いたくはならず、障害者ホームレスの様な社会貢献度が低そうな人を見ても、この人も死にたいだろうなーと勝手に決めつけたり、その人を産んだ人を責め立てようとは思えなかった、もし目の前で死のうとしてる人がいたら普通心配になるとも思う。

結局は他人が許せないんじゃなくて、自分自分存在を許せなくて苦しかった。

人に傷つけられても、相手がそうした背景を思うと文句を言えない、その人なりにそうした理由があったと思うと責められない。

からしばらくして親に会った時も、何も怒れなかったよ。

絶対さないし、心を傷つけてやる!と思っていたのに、泣いて謝られてたら不思議笑って許してしまった。

母親が受けた虐待を話されても、ただひたすら酷いね、辛かったねと聴いていた。

こっちの方が泣きたかったけど。

でも自分自身存在を許したいから、形だけでも親を許す事にした。許さずに傷付ける事を言っても、またスッキリするのは一瞬だろう。

自分が追い詰められて苦しかったのに人を追い詰めるなんて、もっと自分が嫌いになりそうだった。

思えば親にも社会にも認められなかったけど、優しい人だとか真面目だとか褒められた事だけはあった。それがあったからこそ、人に優しく真面目に頑張れば大丈夫!と根拠のない希望を持てていたんだと思う。  

自分の中で唯一認められた長所を捨ててまで親や他人を責めても、考え方を変えさせるなんて出来やしない。誰に理解されたって苦しさは消えないし、自分が生まれなかった世界線になんて行けない。

どうせ死ぬ勇気もないなら、せめて人に好かれる行動だけとってた方がお得だと決めた。

たとえ社会に不必要でも、そのマイナスを優しいとか良い人だとかで0.1でも誤魔化せるならそうするしかない。捻くれ障害者なのに最低限のマナー愛嬌まで捨てたら最悪のまま終わりだ。

自分の為に生きれなくても、現実にいる目の前の人に喜ばれる事があるならやっていこう。

弱者立場や優しさを都合良く搾取されるかもしれないけど、単に褒められたら気持ちがいいから、人生気持ち悪くならないで済むわ。

シンプルに目の前の人にありがたがられたいよねー!生きる意味あるじゃんって一瞬錯覚できるから偽善最高ー!

 

他責を辞めようという内容では無いです。

自分を守る手段他責なら構わない思います

自分も苦しかった時はそうしないと生きれなかった。今も気にしない様にした気でいても、具合が悪い時は心の中で他責に逆戻りしているから。人はそう簡単に変わらない。

※産み育てる事に様々な懸念責任が伴うという意見を訴える事は意味ある事なので、正しく反出生を訴えている方の非難ではありません。

自分ライン超えをして自他がめちゃくちゃになりそうだったから考えるのを辞めただけ。

2024-10-30

俺は以前は共産党支持者だったが、日本共産党議席を減らすのは当然

俺は最近まで熱心な共産党支持者だった。共産主義理想を信じていたし、マルクス・エンゲルス式の共産主義理想先進国最初に実現できるのは日本共産党だと思っていた。

それが揺らいだ切っ掛けはロシアウクライナ侵略である

多くの馬鹿ウヨネトウヨ勘違いしているが、現在ロシア連邦共和国は全く共産主義でも社会主義でもない。与党プーチン率いる「統一ロシア」であり、ロシア共産党野党であるプーチン政権ロシアはむしろ右派権威主義体制であり、全く共産主義関係はない。

から、多くの低脳ウヨ勘違いして期待しそうな「へいわをあいするきょうさんしゅぎのはずのロシアがせんそうをはじめた!うわーんそんなはずない!」とかいう話ではないよ。問題はそこではないんだわ。

ロシアウクライナとの国境軍隊を集結し始めた頃、これはあくまでもウクライナに対する「圧力」であり、実際に軍事的侵攻はしないだろうと多くの人々は考えていた。もちろん、シリアなど中東開発途上国軍事的関与をすることは以前からあった。アメリカもそういう事は以前からやっていた。

しかウクライナといえば東欧の、つまりヨーロッパの一国である

そんな国を実際にロシア侵略しちゃったんだわ。そして一時は首都キーウの目前まで迫り、キーウ近郊のブチャで一般市民に対する虐殺を行なっている。

しかウクライナはその後、西側諸国から武器弾薬、燃料、戦車軍用機、各種ミサイルの大量支援を受けてロシア軍を押し返した。

ここで痛感したことは、21世紀現在でも想定外の被侵略はあり得るということであり、日本においても一定国防力は必要だという事である

ところが共産党防衛費を「軍事費」と呼んで(もっと防衛費は実際に軍事費から軍事費」と呼んだところでその本質は変わらないから、これは「軍事」という言葉を嫌がる層に対しての意図的戦略なのだろう)「大軍拡反対!大軍拡反対!」と選挙カー街頭演説で呼びかけ続けた。

そんなことで一般の人々の支持を得られるはずが無い。

この点は社民党も同じだ。欧州社民党必要軍事力は認めているのに、日本社民党は今だに日本共産党と同様に「大軍拡反対!」みたいな主張をしている。

もちろん俺も本当の「大軍拡」には反対だ。しかロシア日本隣国であり、プーチンウクライナ侵攻に埒があかずとち狂ったら北海道侵攻とか可能ゼロじゃないだろう。可能性が低くても万が一に備えるのは地震対策でも同じことだ。

朝鮮民主主義人民共和国ミサイル日本海に落としたり太平洋に落としたりしている。朝鮮民主主義人民共和国の標的は米帝であるが、同時に朝鮮民主主義人民共和国はその気になれば何時でも日本東京大阪名古屋や、日本沿岸原発ミサイルを落とせるということだ。

イージスアショアを秋田山口に置くのは実は米帝を守るためであったことは既に喝破されているが、我が国朝鮮民主主義人民共和国から守るためには日本海にイージス艦を複数、交代しながら常駐させておくのが有効である

そのためには一定防衛費必要である

そういう現実理解せずに昔ながらの無防備平和主義立脚して「大軍拡反対!大軍拡反対!」と叫んでいる政党に票が集まらないのは当然だよな

次に共産党に幻滅した原因は松竹さんの除名問題である

ちょっとうろ覚えだが、松竹さんの著書によれば日本共産党党員は全国でおよそ20万人いるが、中央委員会は約200名であり、そこを牛耳っている中央幹部会は20名程度である

有名な共産党議員党首田村さんのほか、小池さんとかがいる訳だが、結局は20名程度の党幹部が決めた方針政策20万人近い党員たちが「赤旗」を通じて学習し、忖度して礼賛するのが日本共産党であり、慣例に反して「党首選挙を行うべき」と主張した松竹さんは袋叩きにあって除名された。

この経緯から推察されるのは、日本共産党ソ連共産党中国共産党と同じ全体主義スターリニズムの傾向が濃厚に残っているということである

そういうところを国民ちゃんと見ているんだよ。

マルクス・エンゲルス式の共産主義社会が実現できなそうであることも現代では知れ渡っている。

共産党宣言」で書かれたような、「個人自由な発展が、そのまま社会の発展となるような、完全に自由個人の集まりであるような社会」が実現するならもちろん素晴らしいが、マルクス・エンゲルス式の方法ではそれは実現できないことがもはや明らかとなっている。

エンゲルス生産手段社会化によって共産主義社会が実現したなら国家自然死滅し、人々は法律がなくとも自然調和労働に勤しみ犯罪もなくなるであろうと説いた。

しか釈迦紀元前に、人間煩悩に塗れた存在であることを指摘している。他人より楽をしたい、他人より上の立場になって威張りたい、他人から承認され賞賛されたい、という欲求修行によって悟りを開かなければ消えないだろう。

凡夫たる人民修行もせずに煩悩を消し去ることは不可能であり、「生産手段社会化」によって資本主義が消え去ったとしても、犯罪不正が無くなることはあり得ず、法律と、それを執行する国家が消えることはあり得ないことは現代人間にとっては自明である

マックス・ヴェーバーは「生産手段社会化」自体が極めて困難であることを指摘しているし、それが単なる「共産主義国家による国有化」であれば結果的国家により権力が集中するであろうし、そうでない場合でも、生産管理する団体官僚権力が集中し、資本主義よりもより強大な官僚権力による支配が起きるであろうことを既に20世紀初頭に予見していた。

そして現実に、マルクス・エンゲルス式の共産主義を目指した国家は大半は全体主義国家へと変容していった。

日本共産党はいまだにマルクス、エンゲンルス、レーニンに基づいた理想共産主義国家を目指しているが、それが不可能なことは明白である。そんな政党投票しようとする人が減っていくのは当然である

2024-10-28

anond:20241028024546

「えらい」も「うまい」も格ゲーの上手さの一種なんだけど

うまい」は、「難易度の高いプレイを行う」場合賞賛言葉なのに対して、

「えらい」は、「瞬間的な判断の中で最善のプレイを行う」ことに対して使われる傾向があると思う。

例えば、ちゃんとその状況において最大のダメージが出るコンボを瞬間的に選択して行う、とか、

相手の難しい行動の選択肢に対してちゃんと備えて対応する、みたいな。

例えるなら超ウルトラ難しいコンボトレーニングモードで決めるのは「うまい」だけど、「えらい」ではない。

判断の難しいリーサルを見切って倒し切る、みたいな時は、「うまい」より「えらい」…かな。

2024-10-27

日本漫画史上最も重要漫画10

週刊少年ジャンプ史上最も重要マンガ20anond:20241012181121

週刊ビッグコミックスピリッツ史上最も重要マンガ5選 anond:20241014232424

週刊ヤングマガジン史上、最重要漫画10anond:20241016182953

月刊アフタヌーン史上、最重要漫画10anond:20241017235116

月刊コロコロコミック史上、最も重要漫画10anond:20241018225514

漫画アクション史上、最も重要漫画10anond:20241020163403

週刊少年サンデー史上、最も重要マンガ10anond:20241021181149

モーニング史上最も重要マンガ10anond:20241023001913

ビッグコミックスペリオール史上最も重要マンガ5選 anond:20241024031536

ヤングサンデー史上最も重要マンガ5選 anond:20241024163903

鳥獣戯画12世紀13世紀

日本最古の漫画とされる文字通りの国宝800年この宝を守り残してくれた高山寺感謝しよう。

果たして現代漫画原画800年後も無事に守り伝えられているであろうか?

手塚治虫酒井七馬新宝島1947年

手塚治虫長編デビュー作。諸説あるものの当時にして40万部を売り上げたとされる革命的な作品

この漫画に衝撃を受け、多くの若者漫画家の道を志したとされ、藤子不二雄などもその偉大さを強く伝えている。

後に繋がる進化連鎖大元の要となる最重要作品

酒井七馬との共作であったため、それに伴うトラブルからその出来を手塚自身は認めていなかったとされ長らく封印されており、完全に書き直したバージョン存在する。現在ではオリジナル版が復刊され電子書籍でも手頃な価格で読める。これはよほど状態の良い初版から丁寧におこしたらしく非常に鮮明な素晴らしい出来だぞ。

(ただオリジナル版は印刷の都合上、手塚の絵を職人が手でトレースして出版したものらしいので筆使いみたいなものを論じる意味はないぞ)

手塚はここから本格的に出発し、約40年間で15万ページの漫画を書いたという。

辰巳ヨシヒロ「黒い吹雪1956年

最初長編劇画とされる作品

手塚治虫トキワ壮グループカウンターになるようなシリアス表現を極めていく劇画の礎となり、漫画表現の幅を大きく広げる道を作った。

当時の劇画としては、白土三平の「忍者武芸帳 影丸伝」が傑作として名高く今読んでも抜群に面白いが、パイオニアとしての黒い吹雪地位は揺るがない。

劇画黎明期の様子は、同じく辰巳晩年に描いた「劇画漂流」という漫画に詳しい。

また辰巳海外での評価が非常に高く、例えば「黒い吹雪」もWikipedia日本語版はないのに英語版存在している。

劇画といえば手塚との対立面白おかしく語られがちだが、劇画の始祖辰巳中学生の時から手塚の自宅に出入りし、終生手塚敬愛して二人でフランスを訪れたりもしていたことは覚えておいてくれよな。

藤子・F・不二雄ドラえもん1969年

藤子不二雄が、おばけのQ太郎に始まり手塚治虫とはまた違う新しい読者層を開拓していった活動の頂点に位置する作品短編大長編を合わせて膨大な作品群を形成し、その影響は漫画界よりもその外部に大きく広がり、多くの人の人生や、現代に溢れるkawaiiキャラクターものにまで現在進行形で強く力を与え続けている。

いまだにアジアで愛され続けるそのレガシーの大きさはとても一言では表せないが多くを語る必要はないだろう。

萩尾望都ポーの一族1972年

旧来の少女漫画が描いていたステレオタイプを打破する作品を矢継ぎ早に発表した萩尾望都出世作

少女漫画誌に次々と新しい手法で圧倒的な画力文学性を持ち込み、後の多様性形成の礎となった。

世界の中で少女漫画市場現在でもきちんと維持されているのは日本だけであるとされるが、その中興を成した作品の一つである

萩尾望都は花の24年組というくくりで呼ばれることが多いが、近年出版した自伝で当時のトラブルを語り、萩尾先生自身はこの名称には肯定的ではないようなので、令和の漫画読み諸氏はアップデートしていこうぜ。

鳥山明「Dr. スランプ1980年

体感漫画らしさを融合させた絵作りで後世に多大な影響を与えた鳥山明出世作

第一話の扉絵を見ただけで、当時別次元漫画であったことが分かると思う(ジャンプ+で今すぐ読めるぞ)。

鳥山明の登場は手塚以降で最も衝撃的であったという事はプロアマわず多くのものが口を揃えて語っている。

鳥山明においては、Dr. スランプドラゴンボールどちらを選ぶのか好みが真っ二つに分かれるところであろうが、世界的な評価やバトル漫画への影響を重視する人は遠慮なくドラゴンボールに入れ替えてくだされ。筆者も個人的にはドラゴンボール思い入れがある。

大友克洋童夢1980年

鳥山明に並び、並外れた表現力で後の漫画界のレベルを一気に引き上げた大友克洋代表作。

漫画における超能力描写を完全に塗り替えた事はつとに名高い。

フランスに生まれメビウスという天才漫画家の開拓した表現大友を通して日本漫画界に合流し発展することにもなった。

後に大友が連載する「AKIRA」においては連載途中に、作者自身監督として超一流のアニメーターを集め、巨額の予算をかけ同名のアニメ映画を作り、そちらも歴史に残る大傑作になったのはご存知の通りである

童夢ではなくAKIRAを選びたい場合は遠慮なく(以下略

ちなみに大友AKIRAに書いた最後最後の言葉はなんだったか知ってるかな?答えは、『そして、手塚治虫先生に…』だったんだぜ。

現在大友作品は、電子書籍版が出版されず現代若者に対しての間口が狭いのが少し残念であるが紙で読んでくれということなのだと思う。

宮崎駿風の谷のナウシカ1982年

独自出自を持つ作品であり、日本一のアニメーション監督が全盛期に描いた本気のファンタジー漫画として、ナウシカの前にナウシカなし、ナウシカの後にナウシカなしという唯一無二の完成度の高い作品

途中に「風の谷のナウシカ」「天空の城ラピュタ」「となりのトトロ」「魔女の宅急便」「紅の豚」の映画制作を挟み、全59回の連載を15年かけて終わらせた。時間節約するため連載第2回目からしばらくはペン入れをせず、鉛筆で仕上げた原稿掲載したことは語り草となっているが、画力限界突破しているので読んでも違いに気付かないぞ。

100年後も古典として読み継がれているのはこの作品ではあるまいかと思わせる風格を漂わせている。

井上雄彦「SLUM DUNK1990年

連載当初はダイヤの原石であったが、6年間の執筆の中で画力構成力の凄まじい向上を見せ、人気絶頂のまま連載終了した伝説作品

従前から繰り返された「天才」たちの活躍という題材ではあるが、漫画表現リアリティという点で飛躍的な進歩を示してみせた。

大きな流れで見ると、手塚治虫平成元年、すなわち1989年、60歳でその生涯を閉じた翌年に、時代を大きく動かすこの大傑作が連載開始した形であり、新しい元号とともにさらに大きく発展を遂げていく漫画新時代象徴となる作品となる。

東アジアでの人気は凄まじく、アニメ版聖地巡礼鎌倉を訪れるものも未だ後を絶たない。

諫山創進撃の巨人2009年

突然変異的に登場し、それまでの漫画常識を覆した2000年以降最大の問題作

少年漫画天下一武道会以降繰り返してきた自己模倣を打ち破り、新たな可能性を存分に示した。

この漫画は終わらないだろうという世間心配をよそに、諫山は数々の伏線を回収しつつ、一度も休載せず堂々と完結まで導いた。そういった点でも未完のまま停滞した名作たちが越えられなかった壁を打ち破り、その名声を比類なきものにした。

実は諫山は福岡専門学校マンガ学科出身であることをご存知だろうか?その授業の一環として、生徒が東京出版社に持ち込み旅行をするという企画があり、19歳の諫山がいくつかの出版社を周った際に、講談社で当時新入社員の川窪慎太郎進撃の巨人原案を見せたことが巨人物語を始めたとされる。

少年ジャンプはなぜ進撃の巨人を逃したのかという点ばかりセンセーショナルに語られがちだが、社会人生活4ヶ月目にして諫山の才能を見抜いた川窪の目には一点の曇りもなかったことをただ賞賛すべきだろう。

おまけ anond:20241027152458

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