はてなキーワード: 感傷とは
1,はじめに
これは最近、あまりにもふとした事で推しがもうすぐ引退するという事実がフラッシュバックしてしまい、情緒不安定の極みになっているため、自分の中で消化するために書いている文章です。
そのため乱文の傾向があり、暗い感情や汚い感情も書いてあるため、自己責任で読み進めてください。
2,なにが起こっているのか
事実のみを書くのならば
『デビューから推してたが最近はそんなに見てなかった推しの配信者がもうすぐ引退する』
これだけです。別に炎上したとかそういう事も一切なく、本人の意向で引退するだけ。
これだけの事が、想像の百倍くらい心に突き刺さっている。
3,自分の浅ましさについて
ものすごく正直な事を言います。最近推しを全然見ていませんでした。
本当に見てなかった。Twitterはフォローしているので、つぶやきを眺めて『おっ、今日も元気だな』ってなってるだけだった。
死ぬほどスパチャしたわけでもない。死ぬほどグッズ買い漁ったわけでもない。デビュー時から推してたと言っても、その程度の人間です。
ある意味その程度の人間だからこそ『辞めないで』なんて口が裂けても言えないんです。言う権利がない。
だって私は推しになにかを還元したか?推しからあれだけのエネルギーを貰って、それをなにかしらの形で返したのか?全然です。
そしてそんな人間にも関わらず、いざ引退ってなると一丁前にショックを受けるのです。口が裂けても言えないけれど、引退してほしくないんです。
推しができるという事は、その浅ましさを嫌というほどに突き付けられるという事だと、私は今更ながら知ったのです。
引退するという事は、自分の中で推しが死ぬという事です。その気配を、本能的に忌避していたのかもしれません。だから私は配信者の炎上や引退にまつわる話題は心底嫌いでした。絶対に見たくなくて、今も自分のyoutubeにはそれ系のチャンネルがいくつもブロックに放り込んであります。
引退したって推しの人生は続くんです。私が今持っているクソみたいな感傷は、推しには一切関係がない。
死ぬほど浅瀬に生きているライトなファンでしかない私ですが、心底推しの幸せを願っています。だからこそ、こんな文章を出す事自体が推しを傷つけるようで本当に嫌です。
推しに死ぬなんていう表現を使うのだって、推しにとってははた迷惑なはずです。それでも使ってしまうのは、私の認識下においては間違いなく死ぬから。
推しが推しとしてあったかもしれない未来の可能性が全て潰える。そのことに勝手にショックを受けているだけの、ダメなファンなのです。
5,最悪の感情
推しが引退を発表してから、あまりyoutubeを見なくなりました。もちろん推しが引退に向けて、最後のスパートとばかりに精力的に配信しているのに、それを見てないんです。
多分、自分の中で、それを見る事で推しが死ぬ事が決定づけられるからなんだと思います。
死ぬ覚悟を決めた推しを見れないんです。だけど、なんで推しがそんな覚悟を決めたのか見たい。
そんな感情で、お手軽な切り抜きに向かおうとする自分がいます。それがもう本当に最悪の気分になります。最低のファンである事を自覚させられるからです。ゴシップ記事なんて死ぬほど嫌いなのに、今の私はそういうものに飛びついてしまいそうです。
それが最悪すぎて、youtubeが見れなくなりました。多分、私はこのまま推しが死んで、全てが無に帰すまで、見れないと思います。
見ないという選択を、私はしてしまうと思います。これ以上、死の気配に近づきたくないから。
見ないという選択は、推しに対する情報が無であるという事です。そうすると私のような最悪の人間はどうするのか。
ああだったのかな、こうだったのかな、こうだったのかもしれないな、だったら引退も仕方ないよな。
そんなやり方で自分を納得させようとするんです。本当に最悪です。推しをなんだと思ってるんだ。お前に推しのなにが分かるんだ?
本当に最低の押し付けです。見知らぬ人間である推しに、自分の理想を押し付けてるのです。本当に、心底、唾棄すべき行為です。
だから私は、このままだと自分を許せなくなりそうで、この文章を書いています。
6,消化
じゃあ結局、どうすればいいのか?結局のところ答えは出ています。
正しく推しを見つめて、死ではなくその先に行く推しを知って、それを見送るしかないんです。
二度目ですが、私は本当に推しの人生の幸せを願っています。推しが推しとして幸せを掴めなかったのなら、その先で幸せになってくれた方が1億倍マシです。
先ほどは、きっとこのまま私は推しの死を見れないと言いました。
だけど同時に、ちゃんと見送らなければいけないと思っています。
私は結局、最後まで自分の事しか考えていない最低のファンです。
それでも、幸せになってほしいと願う事を許してください。
7,最後に
ここまで長々とお付き合いいただいた方、本当にありがとうございました。
どこに落ち着くのかは自分でも分からないまま書き始めた文章でしたが、結局は私の自己満足による決意表明になってしまいました。
NFTでのインフルエンサーが、金儲け以外に"イイコト"言ってたので、ファボ&リツイート&フォローしたら、
フォロバされた
そこまでは、まだ良い
こういった、地道な行動がフォロワーを増やしてゆくのだなぁ、と勉強にもなった
インフルエンサーは地道な努力の元に、成り立っているのだなぁ、と
半年ぐらい経って、久々に個人の気持ちのトハクをツィートしたら
NFTインフルエンサーがファボ&リツイートしてくれたんよ(ほんの数分で)
あぁ、たった一人にでも俺の気持ち伝わったんだなぁ
俺のツィートなんて、小野まとぺさんのふぁぼったーですら、50ファボいかなかったのに
要約
小説を読むのは好きだ。私は小説を読む時、主人公に感情移入して読んでいる。そして、本を読み終わった後も本の中の主人公の思考から抜け出せない。そのため読了後、本の中の憧れの世界と、自分のどうしようもない生活との落差に驚かされて憂鬱になってしまう。皆さんはこの落差と、思うようにならないことも多い現実に、どう向き合っているのだろう?
要約終わり
小説を読むのが、苦手というか、嫌いになった。
小学生の頃は、学校図書館にある本とか地域の図書館の本をかなり読んだ。
中学生の頃は、学校図書館の本だけでは飽き足らず、友達からラノベを中心に本を借りて読んだ。
高校の頃は、「国語の勉強」と言い訳して読書と受験勉強を1対1ぐらいでしていた。
登場人物の気持ちに思いっきり感情移入して話を読み進めるのにはワクワクする。
とっても綺麗な情景描写を見つけたときは、まるで自分が本当に綺麗な景色を見てるみたいでとっても感動する。
悲しい話だったら心が締め付けられるし、いい話だったら心がぽかぽかする。
ハッピーエンドで本が終わった時には、感動して涙が出そうになる。
でも、小説を読み終わった後が嫌いだ。
頭の中は小説の世界でいっぱいで、私は主人公になったみたいに心が揺れ動いている。
でも現実はそうじゃない。
友達と遊ぼうにも、あまりにも突然すぎて誰も乗ってくれないと思う。
頭がぐらぐらする。
本の中と現実が違いすぎて、その落差に頭がついていけない。
本の中では、楽しいことと、辛いことがバランスよく混ぜ合わされて出てくる。
主人公の行動が、周りに影響を及ぼしている。
高校生が主人公の小説なら、雨の日の通学が面倒な様子とか、あんまり書かれていない。
友達と何を話していいか分からずに悶々とする様子とか、あんまり書かれていない。
自分のいないところで友達が楽しそうに遊んでる様子とか、あんまり書かれていない。
現実はそうじゃない。
楽しいことも辛いこともある。
でもそれと同じぐらい、面倒なこともあるし、どうしようもないこともある。
本と違って現実は決して都合のいいところで終わらない。
いつまでも終わりが見えない道が続いてく。
本を読み終えると、まず現実との以外に驚く。
そして、もっとこうしていたらと自分の今までの生活を責めてしまう。
後悔というよりは、諦めだ。
どうしようもない。分かってる。
でも現実は本の中と違って退屈だし、私は本の中の主人公と違い、空虚な人間だ。
小学生の男女の幼馴染が、お互いの家庭環境の悩みを共有しつつ成長していく話だ。
男の子は近所に引っ越してきたみなしごとの関わり方に悩み、女の子はお母さんの再婚相手とそのことどう関わっていけばよいか悩んでいる。
物語が進むにつれだんだんとお互いに秘密を共有しだし、仲が深まってきた中で、突然に女の子の引っ越しが決まり、卒業式を迎える。
「きれいな景色を見ていると、いろんなこと、もう、どうでも良くなっちゃうね。」
本当にそうだと思う。きれいな景色を見たり、きれいな本を読んでいると、いろんなことがどうでも良くなってしまう。
「そうだといい。でも、きっとそうではない。どうにもならないことって、ある。けっこうたくさんある。」
この本を読みながら、私は小学校の頃を思い出した。
でも、私は幼馴染になるほど人と関わる努力をしていなかった。
本の中と違って、現実はどうにもならない。
どう受け入れていけばいいのだろう。どう向き合っていけばいいのだろう。
私は本の中から、その答えを読み取れなかった。
君たちって、自分と同じだけの損害を与えてほしいって考えてない?
最近の論調を見てると、この部分が道徳教育の敗北だと思ってるんだが。
例えば俺が刺されて殺されたとする。
だって、それは他の誰かを新しい加害者にしてしまうことだから。
例えば自分の兄弟や親が、加害者見つけ出して刺殺したって聞いて喜べるか?
自分のせいで大切な人を人殺しにしてしまったって悲しむのが普通だろ?
つまりこれは、復讐したい人間による暴力の正当化でしかないだって。
君たちの気持ち悪いところってそこなんだよ。
被害者のこと考えろって言いながら、ほとんど誰も寄り添ってない。
自分が罰を与えられる機会を得たとか勘違いして私刑を執行しようとする。
ネットリンチ見ても全部そう。
はっきり言うけど、それはただの暴力だろ。
もし俺が被害者なら、復讐なんて一切望まないから、もう二度と同じことが起こらないようにどうしたらいいかを考えて行動してほしいって願うよ。
論理的に考えたって、1人の加害者をこの世界から消すよりも、実行できない仕組みづくりをしたほうが助かる命が増えるのはわかりきったことだろ。
それなのに、誰かを殴ることを正当化したいから、わざわざ関係なことにまで首を突っ込んで、誰かを殴って気持ちよくなってる。
そろそろこういう偽善ポルノが悪だということを皆で自覚すべきときが来てるんだって。
医者減って困ったの誰だよ。
そういうところで失われている命を見ないふりするか、また他の誰かのせいにしてるんだろ?
例えばロシアの件だって、ウクライナが正しい!ロシアが悪だ!って叫ぶことは簡単。
それでロシアが逆上してウクライナで大量虐殺したらどうやって責任とる?
ロシアはひどい!って自分だけ傷ついてせいぜい感傷に浸るくらいだろ?
お前ら未だにハムラビ法典じゃん。
むしろ目だろうと歯だろうと命まで奪ってしまえくらいにまで退行してません?
はっきりさせよう。
「可哀想な人がいる!ゆるさん!」
これは暴力。
「可哀想な人がいる!同じ過ちを繰り返さないために自分ができることは何だ?」
これこそが救いでしょ。
わかりきってるけど、通じないよな。
かすり傷ぐらいで大げさに騒いで、相手からむしり取って大勝利!っていうクソみたいな勝ちグセ覚えてしまったんだもんな。
俺が死ぬほどいじめられてるときに、俺の話なんて耳も貸さないで殴り返してたクソ教師と同じなんだよ。
お前の視界から消えたから解決って思ってるの、お前だけだからな。
それでどうやって問題解決するつもりか、もう一度よく考えて下さい。
某男性映画評論家のことは、積極的に活動を追いかけてたわけじゃないけど、結構好きだった。
映画の内容や対戦相手にキレ散らかす様が、完全に大麻やってるやつの「それ」だったから。本物だな、と思った。強さとか弱さじゃない。大麻と本気で向き合ってるな、と。
暴言の質が映画秘宝特有(これも映画秘宝差別になってしまうんだろうか?)の「オタクが引く」タイプのものだったことを考えると、本当の意味で「サブ○ルお○様」を体現していたと言えなくもない。
そんな氏のことをなんとなく受け入れてしまっていた映画秘宝界隈にも反省すべき点はあったのかもしれない。
もっと早めに「人前に出るプロとしてそういうことを言ったらアカン」と注意すべきだった。もっとも及び聞くところによると同僚の映画ライターが手を焼くレベルで気が強かったという彼が素直に注意を聞き入れていたかどうかは怪しいが。もしくは既にそのような注意は裏でなされていたのかもしれない。
あるいはそんな氏の姿を見て、どこかで痛快さを覚えていたB級映画ファンも多かったのかもしれない。
かつて映画秘宝は、社会からはみ出した人たちを受け入れる場所だった。
そこに集まる人達は大体において当然のようにトガリ散らかしていた。悪言暴言当たり前。多少の蛮行も「面白いものが正義」という風潮によって一定程度肯定されていた。ちなみに自分はそういう文化を横から眺めてニヤニヤしているだけの暗いオタクだったがそれはそれとして。
そしてそんな時代は過ぎ去ってしまった。「Twitter」の波が洗い流してしまった。なにもTwitterが悪いわけじゃない。あらゆるアンダーグラウンドなカルチャーが同じような道を辿ってきたわけで。
氏は、そんな過ぎ去った時代の残り香を感じさせてくれる存在だったのかもしれない、と捉えるのはあまりに感傷が過ぎるだろうか?いや、それはさすがに感傷すぎるな。大げさだ。
単に「俺らも昔はやんちゃだったしなぁ」という負い目があったがゆえに氏の放言が温存されていた、というのが個人的な想像。
今のところ今回の件についてなにかしらの発言をしているのは、同じ女性の映画ライターや、元々大学業界で活動していた女性学者が主だ。
「あんたたち、単に元々あの人のことがキライだっただけちゃうの? 女ってこわ」と思わないでもないが、思わぬところでミソジニーがガチだったことが証明されてしまう形になった。というのは単なるゴシップ。
映画雑誌や本に締め切りがありそれを守れないことを考えれば今回の映画評論家引退は致し方ないものだと思う。
一方で、Twitter中毒たったひとつで一人の人間の生計の途が突然全て奪われてしまうことにはついては残酷だと感じずにはいられない。
例えばどこかの公式アカウントの中の人として個人のTwitterアカウントを取り上げて一定期間働き、折を見て個人アカウントを復帰、という形になればTwitter中毒治療できるんじゃないかなあ、などと妄想している。不祥事をした芸人が突然介護施設で働き出す、みたいなノリで。
某女性プロゲーマーのことは、積極的に活動を追いかけてたわけじゃないけど、結構好きだった。
対戦相手やキャラクターにキレ散らかす様が、完全に格ゲーやってるやつの「それ」だったから。本物だな、と思った。強さとか弱さじゃない。格ゲーと本気で向き合ってるな、と。
暴言の質が女性特有(これも女性差別になってしまうんだろうか?)の「男が引く」タイプのものだったことを考えると、本当の意味で「ゲー○ングお○様」を体現していたと言えなくもない。
そんな氏のことをなんとなく受け入れてしまっていた格闘ゲーム界にも反省すべき点はあったのかもしれない。
もっと早めに「人前に出るプロとしてそういうことを言ったらアカン」と注意すべきだった。もっとも及び聞くところによると先輩プロゲーマーが手を焼くレベルで気が強かったという彼女が素直に注意を聞き入れていたかどうかは怪しいが。もしくは既にそのような注意は裏でなされていたのかもしれない。
あるいはそんな氏の姿を見て、どこかで痛快さを覚えていた格闘ゲーマーも多かったのかもしれない。
かつてゲームセンターは、社会からはみ出した人たちを受け入れる場所だった。
そこに集まる人達は大体において当然のようにトガリ散らかしていた。悪言暴言当たり前。多少の蛮行も「強者が正義」という風潮によって一定程度肯定されていた。ちなみに自分はそういう文化を横から眺めてニヤニヤしているだけの暗いオタクだったがそれはそれとして。
そしてそんな時代は過ぎ去ってしまった。「eスポーツ」の波が洗い流してしまった。なにもeスポーツが悪いわけじゃない。あらゆるアンダーグラウンドなカルチャーが同じような道を辿ってきたわけで。
氏は、そんな過ぎ去った時代の残り香を感じさせてくれる存在だったのかもしれない、と捉えるのはあまりに感傷が過ぎるだろうか?いや、それはさすがに感傷すぎるな。大げさだ。
単に「俺らも昔はやんちゃだったしなぁ」という負い目があったがゆえに氏の放言が温存されていた、というのが個人的な想像。
今のところ今回の件についてなにかしらの発言をしているのは、同じ女性のプロ格闘ゲーマーや、元々格闘ゲーム界隈で活動していた女性プロゲーマーが主だ。
「あんたたち、単に元々あの人のことがキライだっただけちゃうの? 女ってこわ」と思わないでもないが、思わぬところで獣道がガチだったことが証明されてしまう形になった。というのは単なるゴシップ。
スポンサーやチームが営利団体であることを考えれば今回の処分は致し方ないものだと思う。
一方で、たったひとつの発言で一人の人間の生計の途が突然全て奪われてしまうことにはついては残酷だと感じずにはいられない。
例えばどこかのゲーミングチームの裏方として顔を出さずに一定期間働き、折を見て復帰、という形になれば丸く収まるんじゃないかなあ、などと妄想している。不祥事をした芸人が突然介護施設で働き出す、みたいなノリで。
実際に建築はされなかった奇妙な建物を絵や写真、図案を大目に載せて紹介する図鑑みたいな本だった
その中で第三インターナショナル記念塔を知った
世界各地の共産主義革命のための象徴としてウラジミール・タトリンが設計したキテレツな見た目の塔だ
70度くらいの角度で空へと伸びる1本しかない橋げたに、上空に行くにつれ円周を小さくなるように螺旋を纏わせたような恰好をしている
東京タワーの様に支柱はむき出しなので、一言で言うとタケノコの骨格標本とか、循環しないジェットコースターみたいに感じた
そして何より、なんか見たことある感じ、いわゆるデジャビュを覚えた
アクション仮面VSハイレグ魔王で野原一家が出かけた海岸にこんなものがあったようなと思い、先ほどNETFLIXで確認したがそのような建物は存在しなかった
ハイレグ魔王を模した塔は劇中登場するが、それはハイレグ魔王の像を巨大化したような見た目で、第三インターナショナル記念塔とは全く似ていない
念のため、ヘンダーランドと暗黒タマタマもシーンをスクロールして似た建物がないか確認したがそんな建物は見つからなかった
おそらく、クレヨンしんちゃんの映画には悪の組織が潜む巨大建造物が登場しがちで、ヘンダーランドのババ抜きでの攻防やオトナ帝国のタワーのらせん階段を駆け上るシーンのように、建物の形状や構造が印象として強く残る場面もある
そんな映画を幼少期に見ていたため、キテレツな巨大建造物にクレヨンしんちゃん感を覚えているのだろう
数年前、海に浮かぶジェットコースターの廃墟(カジノ・ピア)の写真を初めて見たときも、ハイレグ魔王の海岸シーンを思い浮かべたことを覚えている
野原一家が渋滞を抜け出し、道なき道を走り、視界が開けた瞬間に誰もいない砂浜とその上に立つアクション仮面の巨大な塔、そしてパッチワークのように重なり揺れる怪しげなサーカステント
そこで野原一家は時空を超えるというアトラクションに乗り込むことになる
先ほど見たら、それはARアトラクションのような球形の全面スクリーンに囲まれた乗り物で、錆びた骨型のジェットコースターでも何でもなかった
Aを見たときも、Bを見たときも同じCのような感傷を覚える、Dという自分
浅はかで歪曲していて、透き通っているとは言い難い濁った自分というレンズの自覚
人間は誰しも同じものを見ても違う感想を得るものなのだよと語るとき、多様性を頭に浮かべるために無言で無視する自分の視点
共感性によりかかって、ありふれた価値観の見せあいっこのなれ合いでいいねを稼ぐクソ文化を蔑視しながら、誰かが描く共感性のスケールの中にしか納まらない自分への自覚
何を見ても、自分の体験を通してしか語れない人間のナルシズムのグロテスクさを自分の中に見たときのおぞましさ
どうせ色眼鏡をかけるなら、間抜けなデザインで、あきれさせるような色をしていて、達観した拡張性を持ち合わせた一点物がいいわという欲張りな自己愛
第三インターナショナル記念塔を見て思ったことを考えながらもんもんとして、最終的にオラは野原しんのすけになりたかったのだろうかと思った
あえてアカウント名を上げるほどでもない。
もし死んだりしたら「やったぜ」と思うし、じっさいに訃報が伝えられて「ああくたばったかw」程度の感傷に浸ったはてなブロガーもいる。
鬱転でしばらく音信不通だったのが更新再開したりすると「チッ」ともなる。そのままくたばればよかったのに、と。
こういう「死んで欲しいな」「殺したいな」「会ったら殴りつけたいな」「殴るのも汚いからクルマかなんかで地面にアタマ押し付けて殺したいな」という感情は持つけれども、それはネットで発散するものではないと思っている。発散できるものでもないと思っている。
誰が見てるかわからないのにやる? 当事者には見えないように用心するかもしれないけど。
あと「つぶやく」だけで解消される? いいね、とかついても多寡が知れてない?
私には「『死んで欲しい』と吐き出す」のはあまり大事なんじゃなくて、「まさに『死んで欲しい』」と祈念するその気持ちのほうが強いのだと思う。
会ったこともない相手にここまで憎しみを募らせるのも変わっているかもしれない(会わないから想像の中でイラツキ属性が増幅されてますます憎らしくなってるのはあると思う)。
呉座の憎悪はそれなりに感じられるが、その憎悪はあのような鍵垢で呟くことで、解消されたのだろうか。
(それでは解消されなかったからこそ、対象にバレて窘められてあんなにヒートアップしたのでは、とも思うが、まったくの想像であり根拠はない。)
(ただスッキリしてれば「(・д・)チッサーセン」くらいのフリをして矛を収めることは出来たんじゃないかと思ってる。)
そういう憎悪を抱くというのは分かる。醜い嫉妬だと思うが、私がそういう感情を抱かないわけではない(しょっちゅう囚われているともいう)。
ただ・・・それを「ネッツでやる」というのはどうしても解せない。
コロナでオフラインで愚痴り合う、吐き出すというのが難しかったのだろうか?
呉座が「そういう人間だった」ことにはあまり驚きはなくて人間そんなもんだろと思ってる。
「そういう人間であること」すらも許されないっぽい雰囲気には違和感がある。
呉座の失敗はそれが見えるところでやったことであり、その嫉妬と憎悪を抱いたことではないと思っている。
ヘラヘラ笑いながら腹の底で「死ねよ〇〇」というのでは抑えきれなかったのか。
何人か死んで欲しいブクマカが居て、そいつのブコメを非表示にもせず、目にするたびに「死ねよ〇〇」と思いながら日々を過ごしているだけに、呉座がわからない。
なぜあれほど素直だったのか。バカだったのか。
なぜ、増田で、壺でやらなかったのか。
私の疑問はそこに尽きる。
読んだの結構前なので、割と忘れてる。
キャラ名とか覚えられないので、特徴で書いてるけど許して。
連載時に母と妹がハマっていたので、自分も読んでいた。こういう陰のある話は好きなので、普通に楽しく読んでた。設定とかストーリーは面白いなと思ったけど、キャラはあんまり好きにならなかった。特に透についてはマジで好きでも嫌いでもなく印象という印象が無くて、逆に怖い。(ユキやキョウもあんまり印象にない)
透の友人のヤンキーと電波とか牛くんのほうが思い入れがあるレベル。
別にフルバに限らないけど、少女漫画は行動とか心情とかに自分の考えと距離感があってそれが引っかかる事が多い。
父がハマっていたので自分も読んでた。これは普通にほかの男性にもおススメしやすいと思う。基本的にスポコンだし、シュールギャグ的な感じもあって飽きなかった。
色んなアニメや漫画でパロディにされてる作品でもあるので、そういう意味でも読んでて面白い。特に月影先生ライクなキャラはそこそこ見かけるし。
ガラスの仮面に限らず、ある程度(少年、青年漫画含む)古いスポコン漫画は価値観がイカれてんな~って感じる。
最終話まわりとメガネの女が絡む所以外は面白かった。お弁当を通じた社会性みたいなのはテーマとして読んでて感心したし、主人公のメガネと無口の女の子が一緒に暮らしていく中で距離が近づいていくのは良かった。それが良かったからこそ最終話周りはクソなんですけど。
悪かった所で言えば、メガネ女と、主人公ノメガネに対する周りの態度に作者の影がチラチラ見えた感じがして気持ち悪かった。
良かった所は凄い良かったし、悪かった所は本当に悪いアンバランスな漫画。
これは割と最近にアプリで読んで面白かったから単行本買って読んだ。
ものすごく特別な事が起きてるわけじゃないんだけど、小さなことの繰り返しで四人が家族になって行ってるのは凄い良いな~と思いながら読んでた。
物語が大きく動く前に終わってしまって惜しかったとも思う。ただ、最悪な展開にならずに終わってくれてよかったと思う気持ちもちょっとある。(高杉さん家と若干被ってる感じがしたのでそのせい)
強くて優しい男は男も好き。主人公のゴリラは好きだったけど、ヒロインの女の子は別に好きでも嫌いでも無かった。イケメンは作中で一番好き。
基本的にギャグ調で進んでいって感傷的になりすぎることが無いので読みやすかった。
良い意味で中高生向けっぽい感じがした。(そういう意味では最終話あたりでセックスしたっぽい描写があったのは驚いた。少女漫画だとその辺の敷居が低いっぽいのは感じてるのでメイン層には問題ないのかも)
ぱっと思いついたのはこのくらい。
少女漫画あんまり読まないのもな~と思って一時期ちょっと読んでたけど、結局読まなくなったし、積極的に読む気もないな。
少女漫画特有のフォーマットやコードが正直、あんまり合わないなと思った。そのコードが入ってるんだろうなぁと思うと今後もあんまり手に取る気にならない。
ぶっちゃけ少女漫画って少年漫画の対じゃないんだよね。感覚的にはなろう漫画とかジャンプ漫画って感じ。なろう漫画やジャンプ漫画は特有のコードやフォーマットがあるので、それがあるのが少女漫画って感じがする。