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三浦瑠麗氏、誤送金4630万円の男性「逃げ切り」可能性指摘 ひろゆき氏は30億円
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三浦瑠麗氏
国際政治学者の三浦瑠麗氏が17日、フジテレビ系「めざまし8」に出演し、山口県阿武町が新型コロナウイルス対策の臨時特別給付金4630万円を誤って振り込み、男性(24)が返還を拒否している問題について、「逃げ切れちゃうんじゃないかな」と見解を示した。
男性の代理人弁護士は16日に会見し、男性が振込金を使ってしまい、返還が困難な状況だと明かした。若狭勝弁護士は「まったく弁償しない」場合について例示。「いろんな罪は考えられるんですけど、結論的には実刑で執行猶予が付かない形で、3年前後刑務所に行く可能性はけっこうある」とした。さらに、阿武町が民事で返還訴訟を起こしており、勝訴した場合には「ずっと返さなきゃいけないという義務はある」と説明した。
若狭氏は「刑務所に行く可能性はけっこうある」と発言に含みを持たせており、三浦氏は「刑事で問うのも難しいところがあるんじゃないかなという風な気がしてるんですね」と指摘。続けて「民事裁判で不当利得返還請求しか通らなかった場合に、彼(男性)が逃げ続けた場合、10年で時効になるわけです」と分析した。
ここで三浦氏は、実業家のひろゆき氏を引き合いに出した。「賠償とかを裁判所に命じられて、結果的に利子も含めて30億円を、ひろゆきさんは払ってないと言われてて。本人も認めてるんです」と説明。「その人たちが普通に地上波(のテレビ)に出てたり、ネットニュースに出たりしてるんです」と問題なく日常生活を送っていることを伝えた。
さらに「民間ではこのぐらいのことって、けっこう起きてるんじゃないかな」と阿武町の金額が決して珍しいものではないと説明。「阿武町だから、自治体だから善意で人を見ちゃうけど、(男性は)ひろゆきさんほどの知名度もない方だし、逃げ切れちゃうんじゃないかなっていう気もする」とコメントした。
ひろゆき氏は自身が立ち上げたネット掲示板「2ちゃんねる」で、誹謗(ひぼう)中傷の書き込みを放置したとして、管理者責任を問われた多くの裁判を起こされていた。「削除と損害賠償」を請求され、敗訴することが多かった。実際に30億円を請求されたわけではなく「1日5%」というような高額な利子が付いた場合もあるため、請求額のトータルは高額だったという。
ただ、ひろゆき氏は請求を無視して「踏み倒した」わけではない。原告側は削除目的で民事裁判を起こし、便宜上賠償も求めた形が多かった。実際に賠償を請求されることがほとんどなかったため“逃げ切った”形になっているという。
ビジネスの風評被害の実害だけでなく、実際に〇人が出たり人生狂わされたりが何万人レベルで出てるからなあ2chは
それらをカネに変えて逃げ切ったと思って謳歌できるのもあと20年ってところか
怖い怖い
心からぞっとする
世の中には努力ができない人というのがいる。
億万長者を夢見て何をしているのかといえば毎週競馬場にいるみたいな人だ。
宝くじは間違いなく買っているがそれだけで億万長者になろうとしている人だ。
そもそも億万長者なんていうのはそうそうなれるものじゃないという考えがなぜかなく、なぜか自分はいつか宝くじに当たって億万長者になれば幸せになれると思っていたりするからたちが悪い。お金がいつかどこからともなくどさっと降ってくるという感じだろうか。
億万長者になるというのはかなえばいいですね程度に横においておいて、日々仕事をしたり資格を取ったり勉強したり投資したりコツコツと長期計画で動いている人たちもいる。努力ができない人というのは、なぜかこのコツコツやる人たちが馬鹿に見えて仕方がないようだ。
コツコツやっている人たちが総資産1千万超えました!やったー!とか喜んでいる裏で残高10円の通帳を眺めて安酒かっくらいながら「あーやだやだあんなセコセコやるやつになんかなりたくないわwwwww金以上に価値があるものをあいつらわかってねーわwwwww」とか言っていたりする。なぜか勝手に勝った気分に浸っているのも彼らの特徴だ。
わたしとしては億万長者なんて言う身の丈に合わない夢はわきにおいておいて、勉強したり資格とったりして少しでも実入りのいい仕事に就いたほうがいいのではないだろうかと思うのだが、彼らは「いやいや何言ってんの、宝くじあたりゃ一生分の金手に入るのよ?その程度も手に入らない努力に何の価値があるわけ?」などと言ったりする。
だが彼等もまた人間であり、宝くじなど当たらないことは薄々気づいている。気づいているがこういうことを言うのだ。その理由というのが私には何ともわからなかった。
彼らはいつか宝くじに当たると思って生きているのではなく、努力してこなかった自分を肯定するためにこうなっているのだ、と。
努力してこなかったことが余りにもコンプレックスなので努力している人のまぶしさに耐えられない、といってもいいだろう。
そして彼らが大好きなのは一発逆転の瞬間だ。
どうしようもなかった不良がチャンピオンになる
こういう話が好きで好きでしょうがない、、、のではなく、そういう話の一発逆転の瞬間以外はどうでもいいと思っている可能性が高い。
イチローが安打を量産するのは大好きだけど日々真摯に野球と向かい合って鍛錬しているところには全く興味がない。
ビルゲイツがWindowsで大儲けした話は大好きだがそこに至るまでの彼の壮絶な努力には興味がない。
偏差値40代の子どもが難関校に合格した話は大好きだがそこに至るまでの泥臭い地道な受験勉強には興味がない。
だが、後者がなければ前者はないのだがどうしてもこの積み上げるというところが目に入らないか、不快なノイズとしか感じていないようだ。
そうやってどんどんドツボにはまって貧乏になりながら努力して中流の日常を謳歌している人たちに勝ち誇れる彼らは一体何なのだろうか、逆裸の王様とでも言えばいいだろうか。
Youtubeでミスチルの名もなき詩のカバーが候補に出てきたので聴いてたんだけど、これ自分が中学生の時の歌なんだよな。
ついこの間までこれをリアルタイムで聴いてた中学生で、高校生で無為に時間を過ごし、大学生活という人生の夏休みを謳歌し、社会人になって四苦八苦して、結婚して子供が生まれて…
気が付けば40過ぎのオッサンになってた。でも感覚はあの頃のままで大人に切り替わった感じがしないんだよな。親父の40代の頃の成熟度に追いついてる感じがしない。
外から見れば「普通」の中年男性なんだけど、普通になるために必死に頑張っている感覚が拭えない。
人身御供のような今のクソったれな仕事からどう逃れるか、自分のスキルは経験年数相応の水準に達しているか、自分の年収は東京で4人家族を養う水準に達しているのか…って書いてみたら仕事と金の事でしか悩んでなかったわ。
健康面とか家族に関する悩みが無い分幸せなのかもしれない。意識して良いとこ見るの大事だわ。他人に対しては当然ながら自分に対しても、忘れがちだけど。
なんとなくテレビをつけてたら連続ドラマの総集編みたいなミニ番組が始まった。
高校の英語教師が誘拐されて、タイムリミットまでに生徒4人が犯人と先生の居場所を見つけられないと殺されてしまう…みたいな話。
警察頼れよとか行動ガバガバだよとかモブたち鈍感すぎるよとか、まあそのあたりはお約束として、びっくりするシーンがあった。
次第に先生の過去とかも明らかになって、誘拐された先生にムカつくことあったなーみたいなことを各々の生徒が回想する。
一人、帰国子女の子が英語の点数が悪くて、先生が私のこと嫌って意地悪したんだ…とか考え出して「死ねばいい」と叫んだ。
私は「どういうことなの?!」と叫んだ。
そのあと主人公が「俺の周りで誰も死なせたくない」って叫んでなんかなかよくなってみんなで仲良くラーメン一緒に食べて青春ってなって犯人から「もうすぐタイムリミットだぞ」的な動画が送られてきて…最終話をお楽しみに!みたいな感じで番組は終わった。
もう死ねばいい発言以降ずっと「どういうことなの?!」の気持ちだった。
テストの点が低くて教師に死んでほしくなるってどういうこと?(しかも今まさに死にそうな状況にあるので軽口にならない)
誰も死なせたくないって今そういうふんわりしたいいこというシチュエーション?
反省とかないの?なんで急に仲良くなったの?
時間制限ある中のんびりラーメン食べて青春謳歌してる心の余裕はどこから?
総集編だから端折られたところに色々あったかもしれないけど、とりあえずその番組はジェットコースターみたいな展開でとてもびっくりした。
子供のころから毒親に育てられていじめも受けてきた俺から見える世界というのはやはり壁の向こうの世界であり、人々が日常を謳歌する世界は俺の世界とは違うなと思うことがある。
俺の生きづらさというのは俺の心に構築された回路がそうさせているのはわかっている。
たとえば普通の人なら怒るところで俺の心は停止するようになっている。だが、怒るというのは心における一種の防御機構、うーん言い方がわからないが、その感情を出さないということは心に多大なストレスをかける。
本当は怒っているのに怒っていないふりをする漫画なんかでギシギシという効果音、表情に乗った隠し切れない怒り、という感じの表現を見ることがあるが、あれがそれを如実に表している。
しかし俺くらいのレベルになると本当に問題ない顔を自動的にしているらしい。だが、目までは操作できない(脳に直結しているからだろうか)らしく「目だけは怒っていた」といわれることがある。
その結果目がどんどんと細くなっていく、できれば漫画の(ー_ー)みたいな顔になりたいと思うようになるが、それは自分の感情を読み取られることに対するすさまじいレベルの忌避感があるからだろう。
ではなんで感情を読まれることが嫌なのか、それは、俺の両親にとっては「感情=批判の対象」だからだ。
喜べば、調子に乗んるなといわれて伸びてもいない鼻をおられる。嫌がらせを受けたり、手に入れたものを取り上げられたりする。俺は喜んではいけないらしい
怒ればそれ以上の暴力が肉体的・精神的に加えられる。俺は怒ってはいけないらしい
悲しめばそんなのはお前の問題だ、何なら怒れ、ぶんなぐれ、と矛盾したことを言われる。俺は感情に整合性が有ってはいけないらしいし悲しいなんて言う感情は持ってはいけないらしい
楽しんでいると老いお前楽しそうだなよこせよと取り上げられる。俺が楽しむものは取り上げられるらしい。
こうやって行くうちに、あぁ感情を出しちゃいけないんだな、となっていく。
両親のことを少しだけ言うならば、俺をねじ部せるためならば矛盾していようが嘘だろうが平気で使うし、何なら殺してもいいとすら思っている。何度も言われたことがあるし、訂正もしていないから俺はそう信じている。
これは小学校に入るころには大体完成している。
「あいつにならやっても平気」という認識を持たれた時点で地獄が始まる。
それでも嫌で仕方なくなるが親はすでに紹介したので解決などしない。
「お前が悪い、お前が解決しろ」としか言われないが、感情を出す回路などというのはすでにほぼ死んでいるので、急に動き出して深刻な暴力事件を起こすか、そのまま死んでいくかのどちらかだ。
学校に行けないー>家から出られないー>部屋から出られないー>布団から出られない
こうなるのは本当に早かったと思う。
この時両親が私にやったことは「思春期だから仕方ない」で放置だった。
更に表情は死に、ブクブクに太り、奇妙な価値観を醸成していく。幸いに犯罪を犯すような価値観ではなかったが危なかったと思う。
なぜここまで言えるかというと、生きづらいからだ。
俺の感情が死に、布団から出られなくなった十数年間という時間はもう戻らない。おそらくこの間に人々は楽しく生きる術なるものを見つけたのかもしれない。
布団から出られるようになったころは社会人になる少し手前だった。社会人になってからも何度も布団から出られなくなっている。
社会人になれば人々は「それなりに完成された人間」や「学び変わる素養を得た人間」を前提にしてみな生き始める。当然だめな人も中にはいるが、金がないなら生きていけない。とにかく働くしかない。
だが培われなかった社会性は足かせとして今も俺の足に食い込んでいる。
あぁもうだめなんだな俺の人生は、と思うようになった。
病院に行くか?行って何を言われる?そもそも誰も信用できないように作り上げられた俺の人格は、病院に行けば周囲の人々は「あ、こいつダメな奴か」と俺を見捨てると思っている。
twitter連載が最初なのかな?あんな内容を定期的に発表し続けて同人誌で大儲けしてアニメ化して商業誌連載して、自由すぎるだろこの国は。
経済新聞の一面に出したらキモいと言われた?ぶっちゃけキモいってずっと言われてるよね。アニメ化した時とかすごかった記憶ある。それでもつっぱねてる。自由かよ。
「日経新聞はアンステレオタイプアライアンス違反してるから説明しろ」これ作品の問題じゃないんだわ。日経の問題。お前表明したスタンスとやってること違うじゃねーかって。たわわは依然自由だろ。これまでもこれからもキモいって言われつつ発表し続ければいい。自由なんだから。
twitter連載が最初なのかな?あんな内容を定期的に発表し続けて同人誌で大儲けしてアニメ化して商業誌連載して、自由すぎるだろこの国は。
経済新聞の一面に出したらキモいと言われた?ぶっちゃけキモいってずっと言われてるよね。アニメ化した時とかすごかった記憶ある。それでもつっぱねてる。自由かよ。
「日経新聞はアンステレオタイプアライアンス違反してるから説明しろ」これ作品の問題じゃないんだわ。日経の問題。お前表明したスタンスとやってること違うじゃねーかって。たわわは依然自由だろ。
年末年始位しか休みがほぼ無いブラック企業だったけど人間関係は良好で、仕事もやり甲斐があったし体調も問題無かった。
ある日ネットで、ニートが楽しそうに日々謳歌しているという内容の記事を見た。
毎日好きな時間に起きて、好きな物を食べ、好きな事をして、好きなだけ寝る、という何ら生産性の無い内容だった。
アホくさと思いつつ、社会経験が豊富な自分ならこのニートより楽しい事を、あんな事やこんな事する妄想をしていた。
妄想で終わらせておけば良かったのに次の日に退職届を提出していた。
その時はまだ、専門性の高い仕事だったから1年位遊んで暮らしてまた働けばいいやと軽く思っていた。
辞めてからの1、2ヶ月は、バイクでツーリングしたり、飲食店巡りをしたり、新しい趣味を探したりして充実していたが今思うと無理矢理ニート期間を楽しもうとしていたのかも知れない。
夕方に目が覚め、ウーバーイーツで倍ダブチを食べて、夜明けに眠るのがルーティンだった。
冬以外は裸で過ごし、頭の痒みが我慢できなくなったらシャワーをあびた。
まだ余裕と思っていた。
1年が過ぎた。この頃はなろう小説を読み漁り、田舎でスローライフ妄想するのがたのしかった。
主食は相変わらず倍ダブチだった。
体重が100㎏を超え、貯金が百万を切り、そろそろ働くかと思いはしたが、コロナが流行りだしたため就活は先延ばしした。
まだ余裕と思っていた。
1年半が過ぎた。この頃から昔の出来事がフラッシュバックするようになったが基本的には楽しかった事で、たまに黒歴史を思い出す程度だった。
貯金が70万を切ったが、コロナが猛威を振るっていたため就活は先延ばしした。
自堕落な生活だったが、焦燥感や自己嫌悪とは無縁だった。まだ余裕と思っていた。
2年が過ぎた。
この頃から死んだ母の記憶がフラッシュバックするようになった。
公園で一緒にシーソーをし、ゴーカートで競争し、街灯のない雪が積もった道を手を繋ぎながら歩く光景をよく見た。
役所に保険の減免手続きをするさい、人と目が合わせられず、舌が回らず、思考が纏まらなくなったことに気付いた。
貯金が50万を切ったが、自分みたいな人間は誰も採用しないだろうと思い就活は先延ばしした。
焦燥感や自己嫌悪まみれでも自堕落な生活は辞められなかった。まだ何とかなると思っていた。
2年半が過ぎた。
小学生の頃周囲に実は嫌われていたとか、
あの時職場で小声で話していた同僚は自分の陰口を叩いていたとか思うようになった。
父から数年ぶりに連絡があった。定年退職する報告とその会社のお局と再婚する報告だった。
前妻の物が気に触るらしく、自分に母の遺品やアルバムを送ってきた。
体重が120㎏になり100m程歩くだけで息が切れるようになった。
このままではまずいとママチャリを買ってサイクリングしようとしたが購入初日にパンクしやる気がなくなった。
貯金が30万を切ったが、面接会場に行くことさえできないと思い就活は諦めた。
焦燥感や自己嫌悪まみれでも自堕落な生活は辞められなかった。もうどうにもならないと思っていた。
3年が過ぎた。
重い腰を上げて家の大掃除をした。
メルカリやジモティー、不用品回収を利用し、10年過ごした家にはアイロンテーブルと毛布一枚と貴重品を入れる金庫と日記以外何もなくなった。
換気扇にはいつも雀が巻き込まれるし冷蔵庫のしたには誰かの気配を感じるようになった。LEDは勝手に調光するし養命酒がいつも空になっている。
思考がおかしくなっているのを自覚しているのにもしかした本当の出来事と思っている自分もいる。
3年前とは別人で笑ってしまった。
最初は万年筆をつかい内容もその日した事や感じたことを綺麗な字で、漢字で書いていたのに
途中からは、クリップペンシルやホワイトボードマーカーでその日見た夢や妄想を汚いひらがなカタカナで書きなぐっていた。
日々、脳が縮小していく。
人の目が見れず、人の目が気になる。
自分がこんな醜悪な生き物に成り下がるとは思ってもいなかった。
・プライドを捨てるな、恥を捨てるな
・歯を磨け、毎日磨け
・酒を飲むな、タバコは控えろ
・タクシーをすぐ使うな
後は思いつかん。
どうしてこんなことになったんだろう。ここ数年で何度も思ったことだ。
これは奇妙な巡り合わせで出会った私にそっくりの友人が大学卒業時に書いた文章の書き出しである。この鏡合わせの彼が書いた文章を何度も自分事のように反芻してきた私は今年大学院を出る。修了という立場に際して、私も少し自分語りをしてみようと思う。他人の自分語りなど興味の無いという方もたくさんいるだろうから、そういう方はこの時点で引き返してほしい。思うままに書き殴っているので読みづらいし長いと思うが、それに我慢できる人だけ読んでもらえればと思う。
・生い立ち
私はごく普通の環境で育ったと思っている。地方在住で金持ちでも貧乏でもない家で、両親は優しくて、友達もいた。小中学生のころの自分は一言でいうと優等生気質だった。学校の勉強はそこまで苦にしなかったし、危ないこともしなかった。先生の言うことには従っていたし、学級委員を務めたりするタイプの人間だった。強いて言えば両親が少し頑固だったくらいだ。
小学校では初めに陸上クラブに入った。運動は苦手かつ嫌いだったし、何よりブラスバンドのようなクラブがありそちらに入りたかった。父が無理にでも私を陸上クラブに入れたのは運動の楽しさを知ってほしかったのだと思っている。運動神経のいい父にしてみれば運動は娯楽だったのかもしれないが、運動神経が壊滅的な私にとっては純粋な身体能力を問われる陸上は苦しかった。そのため5年生からはブラスバンドをやらせてくれと懇願した。タダで許してくれるはずもないので中学では運動部に入ると交換条件を付けた。5年生から始めたトランペットは本当に楽しくて練習した。6年生の途中からは1stトランペットを担うこともできた。
中学では周りの部員が吹奏楽部に行くのを横目に約束通り運動部に入った。誤解のないように言っておくと別に部活動自体は楽しかった。ただ音楽室から聞こえてくる音を聞くたびに自分もこの中にいたらどうだったろうと思うことは度々あった。中学では同学年内でいじめもあって、被害者ではなかったものの学年中を巻き込みつつも教師が黙殺しているそれに優等生気取りの私は心を痛めたものだった。その頃の私はもっぱら公正世界仮説(当時この言葉は知らなかったが)の敬虔な信者であり、親や先生にほめられている優等生の自分はいつか報われるし、逆にいじめなんぞ加担している人間はその人間性からどこかで破綻すると思っていた。
高校は少し離れた進学校に入った。近隣の学校に行く人が多かったが、いじめの件もあり彼らと距離を置きたい気持ちも大きかった。流石にレベルの高い授業でもあったが、モラルや教養を持った人が多く非常に楽しい生活を送った。高校の部活は軽音部と兼任しようかなと考えていたが、他方の顧問が専任を希望するような言い方をしたので諦めた。別に悪い人ではないと思うが、他人に機嫌を取らせるタイプの人間だった。高校では成績をぐんぐん落とした。周囲のレベルの高さもそうだが、私には2点の欠陥が見え始めていた。1つは努力。中学生まであまり勉学に苦労しなかった私は勉強に労力をかける癖がなかったし。加えて苦手な運動は一向にできなかったし、好きな人にアプローチしても付き合えなかったし、理論武装して親に頼み込んだことも結局許されなかったり、努力してできた経験と言えば自転車の補助輪を外すときくらいのものであったように思う。努力の数と成功体験の数なんて鶏と卵かもしれないが、努力をした経験もおそらく人よりは少なく、努力が実った経験はもっと少ない人間だったように思う。もう1つは先天的能力の限界である。これまでの自分は「丁寧に教えてもらえば理解ができる」という能力を有していたと思っている。中学生までの自分が苦労しなかったのもこれが原因だと思っている。しかし高校3年生になると少しそれに陰りが見えているのを人知れず自覚していた。周囲の人間には見えていないようで、親や先生は褒めてくれるし、同級生からも勉強ができるという認識をされていた。
3年生になると嫌でも受験を考えなければならなくなる。私はどこに行って何をするのだろう。勉強は好きではない。高校では文芸部の本に部外から投稿してすごく評判が良かったし、文化祭の劇の脚本や演出を担当して最優秀賞を取れた。そのあたりの活動は楽しかったしクリエイティブなことがしたいかな、あと音楽。それとなく親に専門学校の打診してみたけど、4年制大学に行けといわれた。「いい大学に行けばいい企業に行けるからね」と言われてきていたし、親心としてはそんなもんだよねと理解した。自分としてもレールを外れることに恐怖はあったし、レールに従うことで周りと同じように大学に行って、就職して、結婚して子供を作って、今の家族のような生活が送れるならそれでいいと思っていたのでじゃあ普通に大学に行くねとなった。
問題になるのは何がやりたいかである。私がやりたいことって何だったんだろう。結局見つからなかった。そこで親がアドバイスをくれた。
「まだやりたいことが見つかっていないなら、ここに行けばいいんじゃない?」
親が指し示した大学は、入学時に専攻を決めなくてよいという特殊な制度をもつ大学だった。みなさん名前ぐらいはご存じの都内の大学である。幸か不幸か、私にはそこを目指せるだけの能力はあった。
1浪しなんとか2年目で合格して大学1年目。はじめに学んだ格言がある。
「大学では勉強、サークル、恋愛、バイトのうち2つしかできない」
勉強は好きではないので、サークルとバイトをやるんだろう、恋愛もあるのかななどと入学後の私は胸を躍らせていた。憧れのバンドサークルにも入った。周りは経験者なので食らいつこうと頑張った。大学から帰って仮眠を取り深夜の安いパック料金で明け方までスタジオで個人練、シャワーを浴びて大学へ。その生活をしていたら資金がショートした。親にバイト禁止されていたため練習や交流のためのお金が足りず、実力もつかず人脈もできずにフェードアウトした。
大学の授業はひどく不親切であった。大学のレベルも相まって何をやっているのか理解できなかった。高校の時に疑問を持っていた内容が解決されるかと期待していたが、それらは大体1,2回目の講義で解決してしまうものか、もしくは深くがっつり専攻しないと理解できないようなもののどちらかで、学ぶモチベーションにはつながらなかった。教える側も教科書も「説明してはいる」「書いてはある」という感じで、高校までのようにわかりやすくとはいかなかったから、「丁寧に教えてもらえば理解できる」タイプの私では太刀打ちできなかった。つまらないし時間の無駄に思えて次第に講義も休みがちになった。
それでも、とりあえず大学を出れば何とかなると思っていた。ここで耐えている自分はきっと報われると思っていた。好きなものが大学で見つかればいいし、そうでなかったら高校までの勉強ができるから教師になればいい。これが1年目の私であった。
・崩壊
初めてショックを受けたのは成人式のことだった。新成人代表として何人かの陽キャ集団が壇上にあがった。式の前後に彼らと会ったがある人はバツが悪そうに私から目をそらし、ある人は肩を組んで話しかけてきた。どちらもいい気はしなかった。彼らはいじめの関係者である。なんで彼らの方が人生を謳歌しているんだろうか。その時にふと思った。「結局彼らは世渡りがうまかったんだ」と。くだらない正義なんて捨ててその場で空気を読んで得なほうに回るっていうのが正解で、黙殺していた奴らもそうだったんだ、なんて自分は愚かだったのかと。そう考えてみると社会に明確な悪役はいなくて、したがって明確な正義も存在しない。正義と道徳に立脚した自尊心のなんと脆いことかと思い知らされた。
そして、もう一つ。親や教師というのもまた所詮人間だとこの年になって気づいた。この中の何人かが数年のうちに教師になって、親になる。はっきり言って話の通じない人だっているが、そんな人も年さえ取ればいつかは親や教師になりうる。だから、黙殺した教師も、話の出来ない親もおかしくはない。じゃあ私が優等生してきた、私が正しさの根拠としてきたものは何だったんだろう。優等生であることを数字で示してくれるものは成績くらいしかない。世渡りが下手で運動などの技能も持たず、それでも私が公正世界仮説を信じてこれたのは、案外「勉強ができること」に依存していたのかもしれない。勉強しかできないやつだけど勉強ができるから何とかなる、そんな風に自分の無能さを騙して生きていたのかもしれない。
さらに拠り所の勉学さえ崩れ落ちた。留年が確定したのだ。受験でも足を引っ張った物理がとことん苦手で何も理解できなかった。2年目は学費の負担を減らすべくバイトをさせてもらった。サークル活動は事実上全部やめ、バイトと勉強の日々が始まった。バイト先は学生が割と多かったため、みんなと仲良くなれた半面、繁忙期が重なった。私は試験前はむしろシフトが増加し、結果的に致命的な必修単位だけ落としてしまった。2留である。親に電話して事情を説明した。単位くらい取れとストレートに怒られるかと思った。代わってあげる優しさを評価しつつもやりすぎだと注意されるかもとも思った。
人にやさしく優等生してきた自分の生き方への批判と自分が仲良くしている人たちへの非難のダブルパンチで頭に血が上った。怒りで何も言葉が出ずに何秒か無言の後電話を切って、壁を殴った。
数日すると気分が落ち込んできた。親はそれを「単位を落としたから」と解釈したようであるが、全く違う。私は他の人が当たり前のようにサークルやバイト、恋愛を掛け持ちして進級している中で、バイトしながら進級できなかった。私は当たり前のことすら満足にできない無能であると、薄々感じていた自分の無能が隠せなくなってしまったのである。
3年目は再びバイトを禁止した。クラスでの試験対策の仕事もやり、その科目の勉強をしなければいけない状況を作った。サークルとしては冒頭の彼の紹介で新しいサークルに入った。サークルでできた友人とは本当に仲が良く、勉強を助けてもらったり、サークル関係なしに遊んだり大学での生活の基盤になった。助けてもらえる人も増え、自分で学習するようになり、この年の上半期では単位の取得ができた。しかし、私が感じていたことは決してポジティブなことではなかった。私がこの年の経験でわかったことは「お前はやればできるが、環境のサポートがあって自分で勉強してもちゃんとできるのは2単位」ということである。私は2年で70単位以上取得する想定のカリキュラムを、半年で2単位しか取れない脳みそでやっている。無能すぎてもはや卒業が無理なのではないかと思った。
公正世界仮説、評価軸としてきた大人たちへの信頼、自身の実力への評価の3つが音を立てて崩れて、この時私は確かに一度死んでしまった。このことに気づく前の自分に戻れなくなってしまった。中学のいじめがらみで「死にたいけど死ぬ勇気もない」って言ったときに「死ぬのなんて勇気って言わねえ」って怒鳴りつけてくれた友人がいた。
・専攻決定
4年目にして2年生。この年は諸々の事情でクラスから孤立した。喧嘩別れのようなものである。私としても仲良くする気はなかったので1人でどこまでできるかやってみようと思った。結果は惨敗だった。単位取得こそぎりぎりできたものの私はこの大学では人に寄生しないとやっていけないと気づかされた。
そして、4年前に選択を先延ばしにしたツケの返済期限が来ていた。専攻の決定である。結局4年間でやりたいことは見つからなかった。勉強は面白くないし、勉強以外の何かを思い切って始める余裕もなかった。教員になろうかとも思ったが、それもかなわないと思った。教職は卒業単位には含まれないため、追加でいくつも講義を取る必要がある。通常のカリキュラムすらまともにできない私にそれは無理だろう。ちなみに私と同じく成績の芳しくなかった冒頭の彼は教職を志して単位を取得しに行ったが、弊学では満足に教職まで取り切れなかった。教職を目指した世界線の私もきっとこんなものだろうと思ってしまった。
理系科目はわからなかったので、唯一興味がわいた心理学を専攻しようと思った。しかし、成績が足りなくて進むことが絶望的だった。ここで初めて間違いに気が付いた。この大学のシステムは何をやりたいか不明瞭な人間を救済するシステムではなく、やりたいことや才能が複数ある人間に選択肢を与えるシステムなのだと。私などがこの大学には来てはいけなかったんだと激しく後悔した。
このシステムでは通常、成績が足りなければ次の年に再挑戦することができる。しかし、私は4年目であったがために在学年限が迫っており、この年で専攻を決定しなければならなかった。そのため、当時人気の低かった化学を選んだ。化学は苦手で高校化学すらわからないが「とりあえず大学を出れば何とかなる」のであれば、と苦渋の選択をした。
5年目、3年生。1限からの授業と週3回の実験があり、9時-18時のような生活になる。実験には予習とレポートがあるため、実際の拘束時間はこれより長い。何とか4月を乗り切ったところで、レポートを1つ残してしまった。GWに入ってレポートをやらなければと思って毎日机に向かおうとした。いや、向かったこともあった。だが、ペンを持っても何も書けない。そのまま時間が過ぎてごはん時になり席を外してご飯を食べる。そんな日が続いてGWの最終日、床にへたり込んで泣いた。書かなきゃいけないと思いつつも1文字も書けなかった。
3年生の必修は実験だけだったので、他の単位を犠牲にしてでも取ろうと考えた。1時間だけ講義を休んで...その1時間を何も書けずに終えた。これを繰り返してほぼ全ての講義を欠席した。次第にいろいろおかしくなっていった。頭痛もちでもないのに頭が痛みだした。文字が読めなくなり、教科書はおろかネットニュースくらいの簡単な文章でも字が滑るようになった。1日にできることがゴミ出しと洗濯くらいになり、起きて寝る以外に食事、入浴、ソシャゲの周回くらいしかしてない生活になった。
溜まりに溜まったレポートは夏休み前に呼び出しを食らったことで、無理やり夏休みを使って消化した。歯を食いしばりながら全部消化したことは覚えているが、歯を食いしばればできたことがなぜここまでできなかったのかこの時は疑問だった。
4年生になり、大学院へ進学することになったが、大学院の手続きと入試勉強、足りなかった単位の試験勉強などでタスクが溜まった瞬間、この症状は再発した。友人の勧めを受けて学生相談所に通うことになった。
学生相談所のカウンセラーはいい人だった。いろいろお話をして気持ちは和らいだ。専門的なこととしてはWAISの検査を受けた。結果は処理速度だけが異様にへこんでいる格好になった。別に数値は低くないので大丈夫と言われたが、「問題の有無は環境によって決まりませんか?能力の高い人が集まる環境ではそれなりの能力が要求されますよね?」という質問には満足のいく回答は得られなかった。
親にも何度か愚痴を言ったことがある。そのたびに「あなたは世間一般には優秀だから大丈夫」と返されるのである。何が大丈夫なんだろうか。”今の環境”が辛いと言っているのに”世間一般”という別の集団を持ち出して何の救いになるんだろうか。これ自体も言ってみたことがあるが「なんでそんなこと言うの」と言わんばかりの困惑した顔をするだけだったのでやめた。別に親以外でも同様のことを言う人はいる。世間一般の評価が邪魔をして、まともに助けを求めることすらままならない。内部の人間から見て無能で、外部の人間から見て有能な私は、共感を得られる対象がとても限られていて苦しかった。大学ブランドという呪いにかけられて苦しかった。
やりたいことをやれていればよかったのだろうか。サークルで作曲を体験させてもらう機会があった。でも続かなかった。結局忙しいとかいろいろ言ってインプットから逃げている自分がいる。クリエイターにはなれなかっただろうなと思った。好きなことも頑張れない自分に「自分が勉学を頑張れなかったのは勉強が嫌いだからじゃない、努力が嫌いなんだ」という事実を突きつけられてまた悲しくなった。あれほどに信じてきた公正世界仮説は「お前が苦しいのはお前が間違ってきたからだ」と自分に牙をむき始めていた。
・進学と私
大学院へ進学することにした私だが、実は私は望んでいなかった。学部生時代に夜遅くまで研究に勤しむ先輩たちを見ていて「私にこれは無理だ」と実感していたからである。研究への熱意はおろか、化学への意欲も知識もないのである。ただでさえ病む人が多く出る大学院という環境にこんな人間が行くのは自殺行為に他ならない。そのため、私は就職を強く希望した。しかし、親にそれを伝えると「今のお前に就職はできない」と言われた。就活を終えた今だから言えるが、これは正しかったように思う。議論は「就職はできないから進学しろ」「院でやっていけないから就職させろ」の平行線で、就職も進学もろくにできない無能をぼこぼこにリンチするだけで生産性はなく、結局「とりあえず進学はするがいつでも辞めてよい」という落としどころになった。
私は院試に落ちるのが最適解だと思った。学力もないので真面目に受けても受からないだろう。院試を受けたけど落ちましたというのが親にも研究室にも一番角が立たない。しかし、筆記試験が思ったより点数が低かったのか通ってしまった。面接をすっぽかすことも考えたが、会場に研究室の先生方がいるかもしれないことを考えると気が引けた。面接では辞退の意思を伝えるつもりだった。面接官と私だけの秘密である。私は院試を受けて落ちたのだと周りに言えばよい。
自由と民主主義を謳歌しているはずの日本人にもどこか権威主義をあがめる気持ちがあって、
ユーラシア大陸東側のロシア、中国といった権威主義大国に巻かれたいという気持ちがあるんだと思うよ。
元々忖度大好きだし、今ですら大日本帝国に自らのアイデンティティーを重ねる人も少なくないようだし。
まあ、日米同盟の保護下にあって、台湾とならんで西側諸国の一員として自由の恩恵を大いに被っているわけだから、
鞍替えなんてのは自分の立場を貶めることがあったとしても高めることはないわけだが。
ウクライナと同じように自由という理念のために西側の防波堤となって戦えるか、といわれると
米国や NATO のウクライナに対する支援が限定的なのを見ていると、
ウクライナとは違って、日本には日米同盟があり自衛隊に加え在日米軍もいる。
一方で中国はロシアよりははるかに強いだろうから、米国の関与に生殺与奪をゆだねている不安定な状態であることには変わりない。
ということで、有事のときにあわよくば平和裏に西側から東側に鞍替えできないか、ということを日本人は無意識に考えているのだと思う。