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はてなキーワード: 郷愁とは

2019-10-04

還暦越えてんのにこれ

自分が生まれてもいない時代郷愁を感じ

自分が参加したわけでもない戦争を誇り

自分が会ったこともない民族憎悪している

2019-09-24

マリオサンシャインエンディング今見たらヤバい

ピーチを攫ったのは家族が欲しいかなんや・・・

 

みたいなクッパ不器用な()愛を郷愁込めて

ある種肯定的に描いてると言うか

 

こういうの見て育った20代後半ゆとり世代

軒並みウヨってアンチフェミオタク世代なの

ある意味順当としか言いようがないよな

2019-08-30

昔々、ハリウッド

 

 『ワンスアポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』が目前に迫っているというのにまだまったく心の準備ができていない。大波が押し寄せてくるのを確かに認めながら、砂浜で引き波に足を取られたまま呆然と立ち尽くしてしまっているような、そんな状態だ。

 

 『Once upon a Time in...Hollywood』というタイトルをはじめて聞いたときマジで引退しようとしてるの…!?と思った。現時点では「10作品撮ったら引退する」と言っていたり(今回が9作目)、「今度のが大ヒットしたらこれでおしまい」と言っていたりまだ判然としないのだが、そういうゴシップ的な憶測はさておき、このタイトルが持つインパクトはあまりにも大きい。セルジオレオーネ意味合いもさることながら、それ以前にこの響きだ。

 『昔々、ハリウッドで』。響きとしてあまりにも最終回すぎるのだ。仮に『クエンティン・タランティーノ』というドラマがあって、その主人公クエンティン・タランティーノ監督した作品が、ドラマ1話ごとのタイトルになっていたらと考えてみてほしい。第1話「掃き溜めの犬ども (Reservoir Dogs) 」、第2話「三文小説 (Pulp Fiction) 」、第3話「ジャッキー・ブラウン (Jackie Brown) 」、第4話「ビルを殺れ (Kill Bill) 」、……と進んでいって、第9話「昔々、ハリウッドで」である。どう見ても第9話で最終回じゃないか。こんなに引退作にふさわしいタイトルってなかなかないと思う。

 

 なんてことをメモしていたら、タランティーノ子供が生まれるとのニュースが飛び込んできた。引退について語るのを話半分に聞きながら、だがこれで子供でも出来たりしたら本当に映画撮らなくなるかもな……とか考えていたのだが、うーん、思ったより早かったなあ。つまりこのところとみに饒舌になっていた引退話は、子供が生まれるという予測のもとに展開されていたわけだ。それにしてもさ。田中裕二子供が生まれたり、タランティーノ子供が生まれたり、そんな日が来るなんておれは考えたことなかったよ。

 といっておいて何だが、タランティーノの言う「引退」について想像するとき、たしかに寂しくはあるけれども、意外と悲観的な気持ちにはならないというのが今の正直な気持ちだ。

 というのは、ひとつには、映画監督以外のフィールドでの仕事が見られる可能性に期待しているからだ。これは本人も言っていることだが、本を書いたりしたいらしい。タランティーノが書いた批評本なんて出たらぜひ読んでみたい。もしかしたら小説を書くかもしれない。それこそパルプフィクションを。あるいは脚本を書くかもしれない。脚本タランティーノ × 監督デヴィッド・ロバート・ミッチェルなんて映画がつくられたら……など夢想するのも楽しい

 書く仕事ばかりとも限らない。いまのところ引退を語るうえでタランティーノが前提としているのは「劇場公開用映画」の監督業であって、フィルムに対する彼の偏愛と執着も、その前提があればこそ要請されてきたものだったと思う。その最前線から(いったん)身を引いたときある意味でそれは「引退」だが、またある意味でそれは「解放」ともいえるのではないか。何が言いたいかというと、Netflixなどでタランティーノドラマシリーズ制作する可能性はかなり高いのではないかということだ。この期に及んでタランティーノ劇場長編映画デジタルで撮る可能性はほとんど考えられないが、これがドラマシリーズだったら話は別だ。

 タランティーノがつくるNetflixドラマがあったら、それはどんなものになるだろうか。そのヒントになるような発言最近あった。自身監督作に登場したキャラクターのなかで、タランティーノが今でも折に触れて思いを馳せる人物がいるという。彼が挙げたのはザ・ブライド、ビル、ハンス・ランダアルド・レインの4人。タランティーノはそれぞれの人物にまつわる、いわばスピンオフ的なサイドストリーについての妄想を語っていた。

 ①ザ・ブライドが10年後、15年後、どうしているか。娘はどんな人物に成長したか。これは長いあいだ噂されてきた『キル・ビル Vol.3』がもし実現した場合ストーリーになるだろう。

 ②ビルはいかにして巨悪となったかエステバン・ビハイオ、服部半蔵、そしてパイ・メイという3人の「ゴッドファーザー」との関係を通して、ビルという悪魔人物オリジンを描く物語

 ③ハンス・ランダナンタケット島でどんな生活を送っているのか。ナチスきっての「名探偵」だったランダが、戦後20年くらい経ったナンタケットで起こる殺人事件解決してゆく物語

 ④アルド・レインは戦後どうなったか教科書に載るレベルの「英雄」としてアメリカに帰ったはずのアルドが、ナチスにおけるフレデリック・ツォラーのように映画に主演する…という話。

 なにこれ超おもしろそうじゃん!!!!! 全部見たい。見たすぎる。小説でもいい。読みたすぎる。ここで思い出したのだが、そういえばタランティーノこそ、地味に自分作品世界相互につなげてきた人だった。別の映画に登場するキャラクターたちが生きる一つの世界について語るとき、若き日の彼はたしかサリンジャーを引き合いに出していたように記憶するが、これって今風の言い方をすれば「タランティーノバース」だ。もちろんタランティーノ世界MCUのようになってほしいなんて気持ちは毛頭ないけれど、ジャンゴのサイドストリーはすでにコミック化されていることだし、劇場映画としてはおそらくもう実現しないであろうヴィック&ヴィンセントヴェガ兄弟の話だって、何かしらのかたちで語られる可能性は全然あるわけだ……ということを、妄想できることがうれしい。それにしても「私立探偵ランダ in ナンタケット」は見たすぎるだろ。

 で、仮に、タランティーノがこの次に撮る映画が本当に彼の「引退作」になるとするならば、その一本はやっぱり『キル・ビル Vol.3』であってほしいと、私はそう願わずにいられないのだ。 

 

 話を元に戻そう。『ワンスアポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』の公開が迫っているのに心の準備がなにもできていないという話だ。この映画タイトルからしてこの有り様なものから映画監督クエンティン・タランティーノいかにも「集大成」という感じがしてしまうのだけれども、しかし実際はそうでもなくて、むしろ今までになく「タランティーノっぽくない」映画になっていたりするんではなかろうかと期待している。それはひとえにこの作品が、タランティーノ本人にとってきわめてパーソナルなものとなっているような印象を受けるからだ。

 『ワンスアポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』について、現時点で、私は予告編以外の情報をすべて遮断している。サントラにも触れてすらいない。だから実際どんな映画になっているのかはまったくわからないのだけれど、タイトルをはじめポスター予告編を通して強く喚起されたのは、「郷愁」の念だ。それは1969年、大きな変革を遂げようとしていたハリウッドとその時代精神タランティーノは "zeitgeist" という単語を本当によく使う)に対する郷愁であり、タランティーノ自身の幼少期へと向けられた郷愁でもある。しかしながらこの郷愁こそ、これまでのタランティーノ映画からほとんど感じてこなかったものであり、ゆえに今作はどうにも「タランティーノっぽくない」ような気がしてしまうのだ。

 タランティーノは、過去映画音楽からさまざまな要素をためらいなく取り入れることで自分映画をつくってきた人だ。その特徴はたしかタランティーノについて語るうえで欠かせないものだろう。でも彼の作品に宿る魅力を考えるうえでもっと重要なのは、そうした引用(あるいは盗用)のひとつひとつが、観客に郷愁を呼び起こすための装置には決してならないという点だ。観客を過去へといざなうことで「懐かしさ」に浸らせるのではなく、かつてとてもエキサイティングものとして消費された文化の「エキサイティング感覚自体をそのまま現在再現してしまえる才能。それがタランティーノのすごいところだと思うし、その意味で、郷愁、というのはむしろタランティーノ映画から最も遠いところにあった感情ではないかと思う。ところが今回の『ワンスアポン・ア・タイム・イン・ハリウッドから郷愁が強く香ってくる。そのダイレクトさがとても気になるのだ。それはとりもなおさず今作の特異な舞台設定によるものだと思うけれど、開映が迫っているためちょっともう書く時間がない。超中途半端

2019-07-23

anond:20190723183322

それはゼロ年代エロゲリアルタイムに接した人達けが思う感想なので、

からない人には分からない郷愁なんだよ。

すごく懐かしいエロゲみたいだってみんな言ってるわけで、なつかしさの元になる原体験が無い人には何が懐かしいのか分からないだろう。

2019-06-30

出生フォビアなのに出生してきてしまった

しかしながら、私は生まれる前から出生フォビアだったわけがない、なぜなら生まれる前はそのような価値判断をする"私"は存在しなかったのだから。ではなぜ、生まれてきたくせにその事実否定するような出生フォビアになってしまったのか?端的に自己矛盾であり欺瞞的な態度ではないのか?

いや、これは反逆なのだ、と。"私"が永遠にまれなかったかもしれない反実仮想的な、"私"の出生とともに永遠に失われてしまった"訪れなかった未来"、"有り得たもう一つの未来"に対する決して満たされることのない郷愁未来に向かって私が渇望するこの夢は、出生によって存在を開始された"私"を通じて願望されるという形式を取る限り、永遠に奪われ続ける。常に未来否定することでしか過去を受け入れることが出来ないこのあり方にあって、私の"出生"は開始された時点から醒めることのない微睡だったのかもしれない。

眠気、倦怠、微睡。引き伸ばされた時間未来への郷愁を繰り返すのっぺりとした灰色の大地だ、未来とは何と気怠いことか!

2019-06-20

異世界転生とかいう究極の反日文学

どんなリベラルでも極左でも、結局どこか日本依存している感が見え隠れしてて、そういう浅ましさが支持率に繋がらない。

だがそれとは別になろう系のいわゆる異世界生モノの潔いまでの日本への郷愁の念のなさといったら!

読者はもう心の底から日本の将来なんてどうでもいいのだろう。一昔前の異世界に行って、そこで修行し(何らかの成長を遂げる)再び戻ってくるとかではなく、完璧に欠片も未練が感じられない。

これはもう、右翼の敗北ですよ。国粋主義完膚なきまでに叩きのめされた瞬間です。

七度生まれ変わり国に報いると言った大楠公なんて血の涙を流しますよ。

三島由紀夫ある意味自決して正解ですよ。本屋の棚に異世界生モノを見る前に逝けたんだから

戦争若者が命を賭して守った未来に、あの読者はもう誰も見向きもしていないのです。

2019-05-24

古き良きインターネッツ電子掲示板によくあったスパムが流れまくってて郷愁すら感じている

あの日はもう戻らないんだなあ

融和派グラーバク

2019-05-17

おまえらスパゲッティ過小評価している

たとえば子供の頃。

給食献立にはもちろんスパゲッティがあっただろう。

子どもたちも大喜びの大人メニューだ。

ソフト麺」というのも多くの人の郷愁をそそるものらしい(私の地元にはなかったが)。

あるいは弁当に入っている小分けのスパゲッティに喜んだこともあったはずだ。

主役としても脇役としても存在感を発揮するニクい存在、それがスパゲッティなのだ

自宅でもスパゲッティは大活躍

レトルトソースを絡めるだけでもいいし、

イチから作ってもお手軽だ。

スパゲッティは米よりも保存しやすいし茹でるのも楽。

一人暮らしにも実家暮らしにもフィットする最良の友と言える。

いわゆる「中食」としてもスパゲッティは主役を張る。

コンビニには所狭しとスパゲッティが並んでいる。

同じ麺でもうどんそばよりも種類は多い。

大盛りミートソースペペロンチーノでがっつり。

野菜がたくさん入った和風パスタであっさり。

暑くなれば冷製パスタ、冬にはスープパスタ

弁当や丼よりも、融通の利くスパゲッティをこそ愛する者は多いのではないか

さらスパゲッティ外食でも強い。

ジョリーパスタ洋麺屋五右衛門鎌倉パスタ壁の穴ポポラマーマピエトロマンマパスタ

サイゼリヤカプリチョーザのようなイタリアンファミレスも忘れちゃいけない。

といってチェーン店けがスパゲッティじゃない。

リストランテ

トラットリア

イタリアンバル

違いはよくわからないけど、

カジュアルにもフォーマルにも愛されているのがスパゲッティだ。

まりスパゲッティ凄さというのは、間口の広さなのだ。

懐かしの給食おふくろの味一人暮らしコンビニ

オシャレにランチ、気軽に飲み会デートで使える高級店まで、

スパゲッティはそのすべてのシーンに寄り添っている。

牛丼は確かに身近な存在だが、「牛丼を食べた」というとそれは「吉野家松屋すき家に行った」とほぼ同義だ。

おにぎりを食べる機会は多いかも知れないが、それもコンビニおにぎりか、昼の手作り弁当が大半ではないか

寿司は、外食中食で強みを見せるが、「家庭の味」にはなかなかならない。

しかスパゲッティは違う。

家で、外で、コンビニで、専門店で、一人で、家族で、

人生のさまざまな場面でスパゲッティは現れる。

それこそが「文化的な豊穣さ」と言えるものではないだろうか。

ラーメンも同じく「文化」だろう。

戦国時代とも称される無数に存在する専門店から

カジュアルチェーン店

ご家庭で食べられる袋麺、

おなじみのカップ麺まで。

スパゲッティと比べると高価格帯は弱いかもしれないが、

それでも単なる「庶民の味」を超えて、日本に広がりを見せていると言える。

カレーだってそうだ。

給食で食べた甘口カレー

いつも食べてるレトルトカレーに、

ココイチゴーゴーカレーのお馴染みの味、

専門店カツカレー

インネパ店の本格カレー

アジアンカフェで食べるココナッツカレー

流行りのスパイスカレーに、

ホテルで食べる欧風カレー

日本人に愛され、そして「文化」にまでなっている国民食は、

ラーメンカレー、そしてスパゲッティ以外にない。

私はそう確信し、断言するのである

http://b.hatena.ne.jp/entry/4668800443334601858/comment/toksato

2019-05-03

日本海北上している。

今年のGW10連休ですね。

みんな旅行とか行ったのかな。

移動時間がひたすら多い電車の旅をしました。

積ん読してた本が2、3冊消費されたところでたまらなくなってエッセイ紛いのものが出来上がったので、どこに書くにも場所がないのでこちらに。

増田初心者なので不手際あっても許してね。


秋田行きの特急列車に乗っている。

新潟駅発の特急いなほ5号である

運良く窓際の席を取れたが、ゴールデンウィークしかも異例の10連休である故か通路には立っている人が端から端まで広がっている。自由席からなのだろうが。

当日に特急券を購入するという考えが甘かったと悟ったのははるばる新潟駅に到着したその時である。慌てて自由席チケットを購入し、1時間も前からホームに並んで電車が到着するのを今か今かと待っていた甲斐があり、無事に窓際で座り込んで駅弁を食べる贅沢をする権利を得た。

窓の外には平野の田園風景が広がっている。その遥か向こうにそびえる奥羽山脈の頂には、5月にもなろうかというのに相変わらず雪が降り積もり白く輝いていた。

奥羽山脈は手前の山に阻まれ隠れ、そしてまた姿を見せる。手前の山には仄かに淡い白さが点在している。どうやらあれは山桜のようだ。

そう、窓際の席とは山側なのだった。

初夏の日本海の底知れぬ青黒い美しさはえもいわれぬ郷愁が湧くが、遠く高くそびえる山脈の頂上の銀色もまたノスタルジーである

列車が北に向かえば線路は海に近くなっていき、奥羽山脈は遠く離れて行く。その遥か向こうに見える頂に銀色が輝いていればいるほど、胸の奥が詰まってたまらない心持ちにさせられるのだ。あの山の上から下に降りてくればきっと緑が増えるのだろうが、初夏になろうとしている時季に尚白く輝く凛とした佇まいが胸を打つ。これを横目に眺めながら移動するとはなんとも美しい初夏の電車の旅である

新潟らしく広く大きな田んぼの中ではトラクターが動いている。ちらほらと水が張られた田んぼも見られ、秋になればここ一帯は美しい金色の広がる風景が見られるに違いない。

さて、新潟平野自然の豊かさ美しさは想像するに難くない。今回は駅弁をただただ食べている1人の女の話である

そもそもの旅の出発点は京都なのだが、本日の始まり富山からだった。富山発、始発の電車に揺られて向かったのは直江津である。つまり日本海側を延々と北上していくのが今回の旅の目的なのだ。というか、それだけである日本海側を北上して秋田に向かうのを目的とした旅だった。どこに書くにも宛がないし、需要もなにもあったものでないからこうしてつらつら散文を書き連ねている。

富山駅を出たのは朝5時台の電車でだった。

富山駅前に24時間経営または早朝から開いているお寿司屋さんなんかがあればおそらく私はそこに直行しお寿司を朝からとはいえお腹いっぱいいただいていたと思う。しか富山駅前には何もない。朝5時から、もしくは6時から…更に粘って7時なんかにも開いている店、更にいうならば寿司屋なんて存在しない。7時台から開くのはチェーン店モーニングをやっている喫茶店か何かだけである。そして元気に営業していたのは24時間営業吉野家のみであった。

その時点で私は富山で味わう海の幸の幻想を頭の中から叩き出した。白えびの軍艦唐揚げ、新鮮な蛍烏賊踊り食いや辛子味噌和え、ずわいがにや幻魚、その他内陸では食べられないお魚などなどである。食べたかった。

しかしそうも言っていられない。猶予はあまり無いのだ。今日中に秋田のその先まで着かなくてはならない。家族と合流する予定がある。そのためにただ日本海を傍目に北上しているのだ。

あいの風とやま鉄道に揺られて泊駅に着けば、1時間近くの待機時間の後に直江津行きが発車する。その頃には7時も回っており、ワンマン運行の1両のみの車内には案外人がいた。

さて直江津に着くまでに私がしていたことといえば、ただ海を眺めることだった。

日本海は海が近い。個人的感覚だがみんなそう思うのだろうか。太平洋側の事はあまり詳しく無いが、日本海の海は近く深くあるような気がする。その黒く光る朝の海の美しさと言ったら!まるで海の表面にも溢れそうに青魚の群れが泳いでいるかのように、白く立った波が時々日光を浴びて生き物のように揺れている。青さの深い、銀と灰色と藍と黒が混ざったような深い深い海色は、海から随分と離れた所に行ってしまった私の目にも優しく映った。遠く沖には白い漁船が横切って行った。すわ喘ぎそうになる郷愁を感じる。胸の奥に響いて打ち震えるかのような懐かしさと海への憧れが込み上がっては目の奥がじいんと熱くなった。

電車の揺れが心地よくてどうやら眠っていたらしい。これは最近しばらく満足に寝られていないせいだろう。気がついたら直江津駅に着いていて、次の電車が出るまであと1時間の間があった。

直江津駅には立ち売り駅弁がある。

大正時代の立ち売り衣装に身を包んだおじさまがいるということをきちんと事前に調べておいた。スマホでなんでも調べられるとは便利な世の中になったものだ。

到着するのが9時前でなくお昼時だったなら今度こそ寿司を食べに行っていたが、時間がないのでそうも言っていられない。

電車旅の楽しみは駅弁である

電車好きの皆々様が声高らかに宣言するように、私ももれなくそうだと頷くことにしている。車窓から見える景色楽しいものだが、そこにご当地駅弁が加われば怖いもの無しであるし何よりお腹いっぱいになって幸せになる。

朝ご飯代わりに駅弁を購入する事を楽しみに直江津駅に降り立った。

改札口に向かうと、出る直前の部分にこじんまりとしたささやかな売り場がある。まあ何がどうなっているかは気になった人が各自で調べればいいので詳しくは書かない。

しばらく待ってもおじさまが来ないのでどうしようとウンウン首をひねっていたら、親切な黄色ジャンパーの方が声をかけてくれる。同じ会社の人のようで連絡を取ってくれた。すぐに戻ってくるそうだ。どうやら弁当が残り少なくなってきたから補充をしに行っていたらしい。

いただいたのは鱈づくし弁当であるしかし、戻ってきた駅弁売りのおじさまが持ってきた物の中にさらに目を惹く物が存在した。上越名物(?)スルメ天ぷらだった。本当にこれが名物なのかもわからないがとにかく美味しそうなので購入してしまった。繰り返すようだが朝9時前である。少しというか結構重たいラインナップなんじゃないか?との一抹の不安と、大人になった事によって気になったものをパッと買える喜びで押し挟まれながらわくわくと胸を躍らせた。

味や中身の紹介は調べればいくらでも出てくるので割愛するが、鱈づくしの弁当は珍しいものだし鱈子も入っていて味も良い。スイスイ食べれてしまう。しかスルメ天ぷら、これが1番の食わせ者だった。とにかく美味しい。お酒飲みたい。これを文字通り酒の肴にすればいくらでも日本酒が進むこと間違いない。移動距離が長いため朝の脳内では流石に自重してしまったのだが、どうせ移動中に転寝するならお酒を嗜むのを選択するのが大人の行動だったと今になって反省している。今度こそは間違わず躊躇わずに酒を購入する事をここに誓います

流れる景色を眺めながら食べる駅弁の味わいの乙な事と言ったら!と満足ながらもやっぱり少し重たかった。行儀が悪いのは重々承知で半分残し、今度はお昼ご飯にするためにとっておいた。

そして今、新潟発のいなほ5号に揺られている。

今が秋ならば目の前一面に稲穂の海が広がっているだろう。田園風景の美しさとは未来が楽しみなことにもあるかもしれない。

点在する民家の遥か向こうに山々がそびえている。その更に向こうに相変わらず悠然と存在する白い山脈の頂きを眺めながら駅弁の蓋を開けるこの瞬間の静かな興奮である

わず口元も緩んでしまう。

駅弁とは随分と贅沢なものだ。

美しい景色を眺めながら、その土地食べ物いただき、更に移動までさせてくれる。電車の旅でなければ味わえない幸福感覚に1人で酔いしれながら最後まで食べきったが、終わってしまうのも少し物哀しい。

ここが機内食やなんかと違う所なのである駅弁は去り際に満足感と一緒に微かな残り香を置いていく。決して美味しい匂いが残るわけではない。なんだか少し物足りないような、それでいて胸がいっぱいになるような、この土地に少し近づけたような、微かな証を残していく。

反対の窓の向こうには日本海が近づいてきていた。人と人の隙間からちらちらと光る海が見える。

また美しい旅は続く。少し眠ったら山形に入り、そうしたら鳥海山も見ることが出来るだろう。

長い文章を読んでいただいてありがとうございました。

2019-04-12

イントロ泥棒CMが気になる

ちゃんと「ah 渚のシンドバッド~♪」まで歌ってよ!

ちゃんと「ププッピドゥ♪」まで歌ってよ!

そこまで入れるとダサい?いや郷愁狙ってるんじゃないの!?

あと歌部分取っ払ってるけど「でっきるーかな、でっきーるーかな?」なの…か…?

ついでに「スリル」がバラエティ番組で「ハチャメチャ大混乱!!!なシーンBGM」として半端に使われてるのも嫌い。このイントロ泥棒

2019-04-06

いまのFalloutへの文句

けものフレンズ2が大いに荒れているそうだ。まー見てないけど。

から振り返って1のおはなし。あと、これけもフレに云々言うのではなくFO3/4への文句なのでご注意。

1のエンディングみゆはんの「ぼくのフレンド」。

歌詞はとりあえず置いといて映像を見る。

遊園地モチーフになっているように、世界観方面不安を煽っていく。

実際作中でも露骨ポストアポカリプス的な要素が散見されて、実際人類は滅んだとまで作中で言われているわけで。

でも、それでも前向きに話が終わっているから、逆にFalloutへの不満が思い出されてしまった。

ちょっと話は変わるが、「ポストアポカリプス」的なフェチめいたものはわりと歴史的サブカルチャーの中にあり続けた。

たとえば「ヨコハマ買い出し紀行」。最近だと「少女終末旅行」とか。

海外でいえば「マッドマックス」。ただこれはだいぶカルチャーの部分なのでゲームを見てみると、その中には「Fallout」という傑作が燦然と輝いている。

冷戦真っただ中で明日いきなり核兵器が頭の上に落っこちてくるっていうのがまああり得ない話ではなかった時代に生まれ作品が、そうした懸念が晴れた後の世代に影響を与えてできた作品と言えるのかもしれない。

Fallout」はどちらかといえば「1984」とか「すばらしい新世界」の方向かもしれないが、ジョーク的なレトロフューチャー世界に準じているし、そういうロマンが詰まっている。

ことにこれらの作品に顕著なのが、「破壊のあとに生きる人間」というテーマだ。

Fallout」の1、2を製作した製作会社の作品には特にこれが現れている。「war never changes」という言葉は「第三次世界大戦は石で殺し合う」という意味もあるのだが、大事なのは世界が終わっても人びとは生きるために殺し合う」という明確なテーマを指すものだった。

わたしが初めて「Fallout」に触れたのは3だった。もともと「Oblivion」が大好きだったのでこれにも結構ハマったわけだが、もっとハマったのは「New Vegas」だった。そしてあとになってやった「4」は救いようのない駄作だと感じた。

なにが不満かと言えば、結局は「古い世界への郷愁」をわざわざ誘うような展開ばかりだったからだ。そのうえローカライズは「人は過ちを繰り返す」と訳した。

3のマップデザインを見てほしい。廃墟ばっかじゃん。戦争から何百年とか経ってるのに、ビル建物あんまり風化してない。

何が言いたいかといえば、「人が住んでない」ようにしか見えないのだ。

レイダーにはまともな拠点とかないし、ウェイストランド人の居留地なんていうのも生活感がまったくと言っていいほどない。

4はもっとひどい。風景が「せいぜい戦後20年とかじゃない?」という程度なのだおかしいだろ!

その上4ではロールプレイの幅があまりにも狭すぎる。

オンラインのヤツはやっていないのだが、正直こんなゲームを出していくのならBETHESDAには二度とFalloutシリーズを作らないでほしい。

まあ、それは無理があるのでわたしはNVのスタッフが作ってる「The Outer Worlds」を楽しみにしておくということで、愚痴おしまい

https://www.youtube.com/watch?v=O4UEOhcbb20

2019-03-18

ピエール瀧感謝する。

1995年青山正明雑誌『危ない1号』を創刊、特集は「ドラッグ」。96年に鶴見済が『人格改造マニュアル』を出版人格なんて簡単に変えられる、たとえばクスリを使えばといった内容。

で、鶴見済覚醒剤でパクられて『檻の中のダンス』を出版する。レイヴカルチャーに感化された鶴見社会に閉じ込められた身体ダンスで開放せよと説く。レイヴにはドラッグは欠かせない。特にアシッドエクスタシーはこの頃、日本でもアンダーグラウンドではたくさん流通していた。

96年には『RAINBOW2000』という大型レイヴ富士山の三合目で開催されて18,000人が集まった。フジロック前夜だ。石野卓球アンダーワールド、CJボーランドケン・イシイ細野晴臣アンダーグラウンドから一気にオーバーグラウンドへとテクノが浮上した。NHKでも特番放送されたこフェス日本におけるテクノムーブメントピークだったような気がする。

当時、電気グルーヴ武道館コンサートをするぐらいには成功していた。その一方でクラブカルチャーにもどっぷり浸かっていて、新宿リキッドルームイエローマニアックラブなんかで卓球や瀧がぶっとんでる姿を見かけた。瀧は20代からコークをやってたらしいが、六本木アマンドあたりを歩いているイラン人に声をかければ簡単に手に入るブツひとつだった。スピードよりもクールドラッグジャンキーの間ではそんな共通認識だった。

1995年前後東京クラブシーンはよく言えば熱のある、まあ、テクノに狂ったやつらが大勢いた。この空気感言葉で伝えるのは難しい。ひとつ言えるのは決して退廃した雰囲気ではなく、広義のテクノ音楽未来を感じ、皆、高揚感に溢れていた。当時のことを体験している、そして今もクラブに通うおじさん、おばさんたちは、この界隈の人たちがドラッグが大好きなことを知っている。テクノドラッグは相性がいい、というか、クラブミュージックドラッグありきのカルチャーだという側面がある。本人たちも当事者だったりするので黙して語らずだが。

瀧がパクられて、あの頃の郷愁を糧に生きていたやつらは、まあ俺のことだが、色々と終わったんだなと現実直視することになった。ドラッグ被害者のいない犯罪だというが、いま自分がパクられたとしたら妻や子供がどれだけ肩身の狭い思いをして、世間の冷たい目に晒されるかと想像すると辛すぎる。

90年代サブカルは終わったんだ。Shangri-La幻想だった。ロマン優光新刊を買おうと思っていたが今回の件で読む気も失せた。その金で息子に何か買ってあげようと思う。

2019-02-02

おこづかいで超久しぶりにCDを買う!!amazarashiの『さよならごっこ』を買う!!!

CD買うのいつぶりだろう。記憶曖昧なんだけど、ポルノグラフィティの『瞳の奥をのぞかせて』以来なんじゃないかなぁたぶん。

もともと特別音楽を聴きまくり青春を送った方ではないので、大層なことは言えない。ただどういうところが好きというのを表明するのみである

アニメどろろ』のEDテーマの『さよならごっこ』がめっちゃ好きである。どういうとこが好きかというと、まず歌詞がいい。

メロディーというかリズムというかがラップ的な何かっぽいような、今時って感じの曲なのに、なんかしっとりと心地よく韻を踏んでて、昔の歌謡曲のようなわびさびなのである日本語の美しさを大いに引き出しているというか、とにかくグッド。泣ける。

”望みなんてあったでしょうか、この行き先には”

なんて問いかけて来るところが昭和歌謡曲みたいでムーディー。

これは、大木凡人とかが七五調で長々としゃべくった後に「それではお聴き下さい、amazarashiで『さよならごっこ

』……」と情感たっぷりに紹介してしまうやつだ。この感情郷愁ってやつだろうか。

私自身は昭和の終わりくらいの生まれなので、そんなに昭和歌謡曲とか知ってはいないんだけど、なんか!なんかあんな感じの雰囲気あるよな!と、『さよならごっこ』を聴いて三度目くらいの時に私は急に思って、ガタッと立ち上がったのである

でも古臭いという感じはしなくて、とにかく歌詞がささくれたメンタルに優しく染み入るのである

歌詞の内容はというと、どろろから見た百鬼丸を歌ったものらしいのだが、本当にアニメどろろ』のどろろだって感じがして、二次創作の最強の奴だと、震え上がってしまう。神だ!ここに神がいた!この歌詞書いた人天才を軽く超えている!!

そして、どろろ目線という極めて狭い範囲表現した詞でありながら、現在を生きる人々のというか私達のというか私の気分にぴったりと寄り添ってくれるところが、すごい。

そうなんだよ。私達に希望なんかないし、未来なんか夢見ない方がいいんだよ。でも!夢見てしまうんだよね!そういう時もあるんだよね!でも私達既にオワコンなんだけどね!

という、気分。悲しい本当に悲しい。それを傷を舐め合うでもなく優しく歌ってくれるのだ。偽りなしに。

でもってまた曲もいいのである。前述のようになんかラップ的な何か?よくわからないけど、新しげなリズムでありながら、なんかこれ知ってる、胸がきゅんとなるというかシュンとなるというか、思わず黄昏泣きしたくなるやつ。

その答えはうちの子供達が出してくれた。子供らは『さよならごっこ』を歌いながら、手を繋ぎあって、繋ぎ合った手をリズムに合わせて振りながら、同時に両足の重心を爪先から踵へ傾ける、という動作をしていた。幼稚園の発表会で歌を歌う時によくやる動作だ。

さよならごっこはなれたもんさ、でも手を振ったら泣いちゃった」

と歌いながら、子供達の足はみし、みし、と一定テンポで畳を軋ませる。そのテンポはあれにすごく似てる!あれだ、親や祖父母などが幼い子供を寝かしつける時にやりがちな、布団の上からポンポン。まさしくあのリズム感ではないか

そんなん泣くに決まってるわ。

私子供の頃に戻って、ばあちゃん子守唄に『さよならごっこ』を歌ってもらいながら布団ポンポンされたいわ。そして、「ばあちゃんもいつか死んじゃうんでしょ?そんなのいやだー」とかメソメソしながらいつの間にか眠りにつきたいわ。

とかそんな事を思ったので、CDを買う。Amazonで予約した。

私ゃてっきり、今の世では普通皆歌はLISMO的な何かでダウンロードして聴いているものとばかり思っていたので、CDというものがまだ絶滅していないと知って、驚いてしまった。

最初はやっぱりLISMO的ななにかでダウンロードしてスマホで一人で聴きまくって楽しもうと思っていたが、すごくいい歌だし子供達も気に入っているので、子供達が好きな時に勝手に出して聴けるようにCDを買うことにした。

CDラジカセも、買わないといけないんだけれども。CDラジカセがまだ絶滅していないのは、この間近所のホムセンで見たので知っている。

ちょっとした出費だけど、子供達は『さよならごっこ』の他にも、私が隠し持ってた坂本真綾CDの数々を聴きたがっているので、丁度いい。

CDラジカセも買うぞ。

2018-12-20

タイムマシンみたいな

グーグルマップストリートビュー過去に遡れる機能があると知ってびっくりした。うちの地域だけかもしれないけど、場所によって撮影された年代にばらつきが違って、もう今はないスーパーとかが写ってたりして大変面白かったのに写真更新の度に今の景色に戻っていくから、昔のストリートビューが見れるような機能つけないのかなってずっと思ってたら既にあって本当にびっくりした。情弱

正直これから発展するものも勿論楽しみだけれど昔の街並みってそこだけに存在する時間空気があって、それが僕にもう一度味わいたいっていう気分にさせる。その景色を例え見た事がなくとも郷愁みたいなものを感じるし、そうなるとまた昔の景色愛着が湧くから、このまま変えないで欲しかったなとも思う。

だけれども今の変化が無ければ過去を振り返る事で哀愁を感じる事も無かったろうし、なんだったら昔からずっと同じ光景場所も僕の街にはたくさんあるのにそこに愛着は湧かないわけでして。

結局何を愛でているのかわからないけど。

ただ、好き。非常に好き。

かにわかって欲しい。

2018-12-11

anond:20181211212525

ええなー

そういうの羨ましい

自分場合小学生の頃に住んでいたところがニュータウンだったからもう当時の人たちはみんないない

自身ももうそこに住んでいない

ニュータウン小学校は割と俺と似た郷愁を抱いている奴が多いんじゃなかろうか

2018-11-25

北海道米の話

あれって「思うところはあるけれど安易結論を出すつもりがない話」に、個人的体験を交えて複雑な心境をそのまま綴ったってだけの文章でしょ?

なんであんなに批判されるの?

母親への反抗についても、「米がまずいことすら理解できないくらいに子供のころ」の話で、それも親を泣かせてすぐやめたってはっきりと書いてあるじゃん

そもそもおもちゃを買ってもらえなくて親にひどいことを言っちゃったなあ」みたいなエピソードなんだけど、普通はそういう内容を書いてる時点で、後悔とか郷愁とかを含んでることが前提でしょ。

これすらわからないとか読解力があまりにも低過ぎない?

大学生の頃には親から口舌の徒呼ばわりされる」ようなメンドクサイ人が「あきたこまちも買えないような家庭」で育って、でもまずい米に対しては何か言うことをやめたという話から、書いてる人の心情が何も読み取れないわけ?

これがおもちゃの話なら理解できる人も多かったと思うけど、母親の作る料理の話になった途端に脊髄反射でああいコメント群になること自体に、無自覚な「米信仰」とか「母親信仰」が表れてる気がする。

あの連ツイは「信仰政策世論の中身を疑うことなく、よりそれに適合的な技術を追求する知性は危険なのではないか」ということを、子供時代の思い出とか家族エピソードを絡めて、あいまいに個人的な考えを語ってるだけだよ。

図らずもブックマーカーたちの保守的信仰が露呈させられる形になったけど。

2018-11-20

この時間から仕事をするあなたへ

深夜1:00。いまの時間から仕事をもう一度始める人に送る。

いろいろなことがある。いろいろな事情がある。

そうは言っても何も始まらないことも知っている。

さて、がんばりますか。もうひと踏ん張り。

別になんてことはない、きっともっと大変な人だっていることでしょう。

もっとうまくやっている人のことも知っている、でもそのことで、自分自分否定する理由にする必要もないでしょう。

からそんなこと気にせず、"ともあれ"、と気をそらして、さて自分の持ち場でひと仕事しよう。

###

私の場合は、子供がいる。

子供かわいい。唯一無二のたまたま私の元へやってきた天使だ。

疑問を持つ必要もなく、ただただ大切にしようと、私はバカひとつ覚えのように思う。それだけが、親に与えられた贅沢だからだ。

そんな私の子供も、――当たり前だけれど、人として尊重するべき一個の他人で、イヤイヤ期で何をするにも嫌がって、親の器量を試してきたところで、「そんなところを掘っても何も出ないぞ」と思いながら、なだめたりすかしたりおこったり気をそらしたりしながら、千変万化する表情に一喜一憂して、でもまあそんなものかなと、今の時間になると思う。

なんだかんだで、少し気を抜くと今の時間になってしまう。というか、なってしまった。

###

最近ニュースを見ていると、どうも日本老衰の進むおじいちゃんおばあちゃんになってしまっているだなと思うことが多い。しかもどちらかというと良識ある優しい老人ではなく、頑固で考え方を変えない老人だ。

人口減少と少子化/交通インフラ建造物劣化/法人意思決定の硬直化/すぐに血が上るメディアetc...、私達が細胞だったとしたら、私達が赤血球のように体中を巡る流れ一つだとしたら。

日本旅行に来る中国人は、日本の何を面白がっているかって、"郷愁を感じに来ている"、という話をきいた。いい意味でも悪い意味でも"変わっていないこと"を眺めに来てきんじゃないかな。日本製品が売れるとしたら"枯れているから"じゃないかな。

そんなことは、まあ、単なる個人の印象で、正直どうでもいいんだけど、この老人の中で、じゃあ、自分の持ち場は一体何なのかと、仕事や家庭を終えて、もうひと踏ん張りするときに思うのです。

簡単に言うと、「この仕事意味あるかな」なんだけど、それだけじゃなくて、、、

老衰の中での踏ん張り、あるいは覚悟

プロジェクトをなんとか軟着陸させる感じ、

・なんだろう、もうダメなことを、なんとか無事に終えられるように

仕事意味以上に、社会の中での貢献度の低さ・・・なのかな、これは。

90年代ぐらいの閉塞感は、今になって思えばまだ良かったんだな、平和だったんだな、それにムキになったりしていたんだな。

2010年代絶望感は、緩やかに真綿で首を締められるように、致命的に追い詰めてきているような気がする。

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そういう話がしたいんじゃなかった。

要は、そういうたぐいの絶望感が、深夜になると襲ってくる。

(きっと私個人問題をなにかに例えて話したかっただけだと思う)

そう思うと、もしかしたら、いろいろな種類の絶望感を持って社会の中で、この時間に働いているんだろう。

どうですか?元気でやってますか。

当たり前のことを言えば、結局避けられない問題については、どんな状況でも一つ一つ前に進めていくしかない。(そうだそうだ)

いろいろなことがある。いろいろな事情がある。

だけれど、さて、がんばりましょう。

もうひと踏ん張り。

愚痴です失礼。支離滅裂失礼。ありがとう

2018-10-08

昔あるジャンルのあるCP個人サイトをやっていた頃のお話

=====

タイトルの通り昔あるジャンルのあるCPサイトをやっていた。

当時はツイッターなどもなく個人サイト全盛期。

キレのあるギャグとぶっ飛んだ発想で大好きな神サイトがあった。

サイトからももちろんリンクさせてもらっていて、

そのCP自体ジャンルの中でも王道というところからはそれていたので

界隈の狭さなどもあり拍手感想を言い合うというようないわゆる

サイト管理人同士の交流”みたいな感じで仲良くしてもらっていた。


それで、神がある時オンリーイベントで本を出すことになった。

自分はそのジャンルではオフ活動はしていなかったんだけど

人様のご本は買ったりしていた。

その時のイベントには行けなかったので神の本は通販で買うことに。


今のように誰にでも書店に当たり前におろせる時代ではなかったので

もちろんサイトのメルフォから申し込むタイプ個人通販

神は人気であらせられるので自家通販ともなれば申込みが殺到して大変だろうな…

○○です~と名乗ってお返事や反応のお手間を取らせてはいけないな、と

自分なりに気を使い、サイト名やHNなどは名乗らずに個人的に

こっそりと購入し存分に楽しませて頂いた。


その後、ある時神が再びイベントに出ることになった。

イベントといっても旬ジャンルでもなく、今のように

プチオンリーなどがばんばん開かれる時代でもなかった。

個人主催オンリーで、かつ、●●会館みたいな会場の部屋を他のジャンル

オンリーと仕切りで区切って共同開催!みたいな規模のイベントだった。

その作品原作の連載が終わってしまたこともあり、もうこういうオンリーイベント

開かれるのも最後かもしれないな…と思い切って遊びに行くことにした。


その時神のスペースにも行き、僭越ながら初めて直接ご挨拶させて頂いた。

挨拶をし、「新刊ください!!」と意気込んでいる私に神は

あっちょっとまっててください!」と奥から何かを持ってきてくださる。


神の手にあったのは私が以前通販で名乗らずにこっそりと購入した一冊目のご本。

その本は通販完売済みなので今回のイベントでは新刊販売のみだったにも関わらず


「どうしても○○さんに読んでほしくて…勝手に取っておいたんです。貰ってください」


と手渡され、あまり感謝めまいを起こしつつ

感謝気持ちを伝えるとともにこっそりと購入したこと

このまま御本人には言わずにおこうと心に誓った。

じゃあ一生黙ってろよって感じかもしれないけれども、

たまに思い出して心が暖かくなる出来事なのでいつかどこかには残しておきたかった。

貴重なご本を2冊所持してしまうことになり、

自分通販で買った際にその時は名乗らずともきちんと後日なりに

感想をお伝えしてればこういうことにはならなかったのかもしれないけど、

でも自分に読んで欲しい!って思ってもらえていることがとても嬉しかった。


その後自分サイトを閉じてしま特に個人的に繋がっていたわけでもないので

そのまま神とも疎遠になり、そのままだ。

今でもオタクをしているのか、オタクだとして何のジャンルにハマっているのか、

ハマっているとして同人活動はしているのか、SNSなどはやっているのか、何も知らない。

でも今でもたまに今どうしているのかなあ元気かなあ元気ならいいなあって思い出す。

ジャンルの切れ目が縁の切れ目と言ってしまえばそれまでだけど、

でも昔はそういうのがほとんだったように思う。

特に仲違いしたとか何かあったわけでなくても好意的でもいつの間にか

活動場所などが変わって疎遠になるパターンが多かった。

でもそういった疎遠には上記のような…たまに思い出す郷愁のような感じで悪い印象はない。


今はSNSとかがあってジャンルとかが変わっても付き合いがなくなっても

見守ったり生存確認はできたりする。

それっていいことかもしれないけど逆にずっと付き合い続けると疲れたり、

ちょっとした発言ひとつで幻滅したり、場合によっては縁を切ることになったりもするときもある。

つの間にか疎遠になってもずっと心の中でいい印象のまま変わらずいられることって

ある意味いいことなのかもしれない。


ちなみに今でもその同じ本を2冊とも大切に取ってある。

たまに見返す宝物である

2018-09-20

[]プーと大人になった僕

プーと大人になった僕』を見てきたので感想。いつものごとくネタバレ気にしてないのでそういうの嫌な人は回避推奨。あらすじ解説とかもやる気ないので見た人向け。

総評

これは100点っすな。点数の基準は「上映時間映画料金を払ったコストに対して満足であるなら100点」なので、この100点は大傑作という意味ではない(300点とかありえる)んだけど、ごちそうさまでした、わしゃぁあ満足です。という意味で良作だというのはたしか。損しません。

まあ、家族向けとかカップル向けかと言えば、実はそんなことはなくて、一人で見に行けよおい、しか社会人がいけよ、っていうのはあるので万民向けとはいい難いんすけどね。この映画は、だって学生にはわからなさすぎでしょ。

ざっくりいうと「おとなになって社会人となり企業戦士として毎日ブラック労働をしているクリストファー・ロビン仕事家族の間で板挟み。人生迷子なっちゃったプーさんといっしょに正しい人生を探そう」みたいなあらすじ&テーマであって、それは予想通りだったし、そして予想を満たして十分以上な脚本完成度です。テーマ物語性(増田はここを中心として映画を見ちゃうタイプです。趣味合わない人は申し訳ない)でいえば、非常に満足でした。

がー。そのてんに関してはー。満足だったのでー、逆に満足であったがゆえにー。脇へうっちゃっておいてー。この映画のー。感想についてはー。別の部分をー。述べたいとー。おもいまーす。

ショタクリストファー・ロビンクリストファー・ロビンすぎてやばい

映画冒頭部分では、まだ「100エーカーの森」でくまのぷーさんと遊んでいた頃のクリストファー・ロビンショタ)が登場するんですが、もうね、これがね、非常にこうファビュラスっていうか尊いわけですよ。華奢な白人少年が四分丈の(日本で言う半ズボンよりは少し長いけど膝上の)ズボンから、少し筋張ったくらいの細っい脚をね。伸ばしてね。みどり豊かな森の中をバスケットを持って歩く姿がね。素晴らしいわけです。

わかりますか。美少年なんでございます

シーンはクリストファー・ロビンが寄宿学校へ向かうその直前。楽しく美しく永遠だと思われていた「森でのプーさんとの日々」が終わるちょうどその時。作中では「お別れをいう日(Day to say goodbye)」と描かれるその日なわけですよ。

クリストファー・ロビン楽しい田舎暮らしから、厳しく抑圧的な寄宿学校へ入らなきゃいけない。それは大人への第一歩で、もう今までのように日々をただ日々として楽しく過ごせる時間は終わってしまった。それをクリストファー・ロビン本人もわかってるんですよ。もう自分はゆったり時間を過ごせない、これから時間に追われて毎日何かをしなきゃいけない、大人になるからもう仕方ないんだって諦観してるんですよ。

その「子供としての最後の日」。100エーカーの森で、プーさんピグレットティーガーたち森の仲間でパーティーをして楽しく過ごしたその後、森を見下ろす高台丸太ベンチに座ったクリストファー・ロビンプーさんの二人は、こてんと肩を寄せ合い夕日に向かってずっと座ってるんですよ。

そこで「ぼくのことをわすれちゃうの?」と鼻にかかった声で尋ねるプーにたいして、ショタ大事なのでもう一度いう)美少年クリストファー・ロビンが、優しくて、それでいて困ったような表情で「プーのおばかさん」って言うんですよ。

ほんと。

尊い

わかるか人民どもこの尊さが? 「おばかさん」ですよ。もうね、水銀灯の牙城にいちどの跳躍で飛び込む偉大なシーンですよ。もちろん画面は映画でありフルカラーなわけですけれど、この夕暮れは追憶郷愁の甘さを伴ってセピアにさえ見えるわけですよ。つまり何がいいたいかって言うとクリストファー・ロビン尊い

イケオジクリストファー・ロビンクリストファー・ロビンすぎてやばい

あっという間に幼少期、少年期、青年期を過ごしたクリストファー・ロビン。寄宿学校で父の訃報に接して、社会に出て、将来妻になるべき女性イヴリン出会い求愛して結婚し、子供を作り、出兵(たぶん第二次世界大戦)して、なんとかロンドンに帰ってきて、就職して仕事に打ち込む中年になってるんですよ。

大企業カバン製造部門責任者となったクリストファー・ロビンは、会社上層部からこの部門効率化(予算削減)を求められていて、その要求は−20%。リストラ待ったなしの状況で、大事な部下を切り捨てるかどうかの瀬戸際の日々を送り、その結果として休日家族との時間も奪われているわけですよ。妻からは「もう何年も笑顔を見ていない」と言われ大事な娘のマデリから失望されて、でも、家族を守るために部門を守るために、家族旅行への参加をキャンセルしてまで働かなきゃならんわけです。

予定されてた旅行イヴリンとマデリンの妻子を送り出して、週末も缶詰仕事しなきゃと追い詰められたロンドンのアパルトメントのクリストファー・ロビンのもとになぜかプーさんが現れて助けを求める、というのがこの映画の第二の開幕です。

懐かしい友プー出会ったクリストファー・ロビンは彼の頼み(行方不明になってしまった仲間たちを探してほしい)を叶えるために(どっちかっていうと大都会ロンドンにおいては厄介なお荷物プーさんを森に帰すために)、郊外の美しい故郷に戻ろうとします。そこでプーさんクリストファー・ロビンは一緒に旅をするわけですけれど、相変わらずふわふわ夢みたいなことを言う(まあぬいぐるみなので当たり前だけど)プーさん脳天気っぷりに、時間黄金よりも貴重になってしまったブラックカンパニーソルジャーマシーンクリストファー・ロビンはいらつくわけですよ。プーさんベタベタはちみつで汚してしまった廊下掃除している間にも、刻一刻とリストラタイム期限が迫ってるわけで。「なにもしないをすればいい」とか「ゆっくりすればいい」とかいプーさん言動癪に障るのは、まあ、仕方ないです。

送り届けた「100エーカーの森」で、とうとうクリストファー・ロビンは切れちゃうわけっすね。

「ぼくはもう昔のぼくとは違う」とプーに突きつけてしまう。その時の表情がね、もうね、良い。

良いよね。

良い。

失意のぷーさんは「従業員を捨てなきゃならない(リストラ)」というクリストファー・ロビンに「もしかしてぼくも捨てたの?」と聞いちゃうわけです。

それに対してクリストファー・ロビンは「捨てたんだよ」と答える。

この時の表情も、良いのです。

「ソレ」をいっちゃったら相手が傷つく以上に自分も傷ついちゃうのを自覚していて、それでも言ってしまったクリストファー・ロビンの、ナイーヴな表情が尊いわけです。おっさんのくせに。イケオジつぇえな。

この時クリストファー・ロビンは「いいやプー特別友達から捨てるわけないじゃないか」と適当に言うこともできたわけです。でも、それは事実じゃないわけですよ。現実として30年以上プーさんを忘れていたわけだし、放置していたし、それは客観的にって捨てたと言われても当然なわけですよ。そういう現実を糊塗して「捨てるわけない」とクリストファー・ロビンは言えなかった。特別友達からこそ、そこで嘘はつけず、自分相手も傷つけるのなんてわかっていたけれど、「捨てたんだよ」と答えるしかなかったわけですよ。

40代になったクリストファー・ロビンはもうおっさんなわけですけれど、ロンドン紳士然としたイケオジなんですね。その彼がいろんな現実言葉を飲み込んで、意地っ張りにも露悪的な「捨てたんだ」って告げるそれが、もうね。

ほんと。

尊い

わかるか人民どもこの尊さが? 「捨てたんだ」ですよ。そんでもってさらに終盤になってね、途方に暮れて懺悔をするようにつぶやく「ぼく迷子なっちゃった」ですよ。いつも迷子になったプーさんを探しては連れ帰る、森の英雄だったショタロビンが、社会人になって人生迷子なっちゃったわけです。大事大事で何よりも大事な娘を守るために頑張ってるはずなのに当の娘にがっかりさせて心配させて、もう何が正しいんだかよくわからなくなっちゃったわけですよ。大人になったクリストファー・ロビンにこそぬいぐるみプー必要なわけです。

まり何がいいたいかって言うとクリストファー・ロビン尊い

結論

クリストファー・ロビン尊い

2018-09-02

anond:20180902000954

然し君、それはノスタルギーですよ。わかつていますか。

郷愁は罪悪ですよ、よござんすか。

これからビリビリ動画だな

再生数100000000回とからいからな

ビリビリ動画日本人コミュあんじゃね?しらんけど

2018-08-29

坂井泉水が死んでも「平成が終わる」なんていう奴はいなかったのに、

何故さくらももこが死んだら「平成が終わる」と人は言うのか。

1984年プロ漫画家デビュー1974年郷愁を描いた「ちびまる子ちゃん」は1986年りぼんで連載開始。

ZARD始動1991年。「蒲池幸子時代タレントデビューでも1989年

坂井泉水の方が「平成を生きた女」と呼ぶに相応しいのに。

anond:20180828120344

2018-08-20

日本に帰りたいけれど帰りたくない

数年海外にいる。

日本に帰るか、ここに残るか、他の国に行くかそろそろ決めなきゃいけない。

わたしは全く海外に興味がないタイプで、海外にいるのもなんとなく流れ着いた感じが強い。

ずっとずっと日本に帰りたかった。

こちらで友達ができても、言語が上達しても、なぜかずっと日本に帰りたいと思っていた。

ホームシックとはまた別のなにか。郷愁なのか、何かに対する未練なのか。

こちらにきて最初にお世話になった日本コミュニティが妙にドロドロしていたのもあり、それから日本人とあまり接触を持たなかった。

今年に入って、同じ年代学生と知り合う機会があって、なんというか……

会話内容の80%が恋愛下ネタ

他に興味あることないの!?って驚いたけれど、みんなそんな感じだった。

しかマーチとかならまだしも、早稲田慶應とかのそこそこのレベル大学の人。

海外留学とかするくらいだから、いわゆる”意識高い系”なんだろうけれど、そんな人たちでこれなのか、と驚いた。

日本に帰りたいという気持ち霧散霧消した……とまでは言わないけれど、帰っても日本になじめないんじゃないかと思って、帰れる気がしない。

しか日本に帰ることをモチベーションの1つにしてきたから、今途方に暮れてる。

2018-06-09

神様は死んだ 悪魔は去った

太古より巣食いし

狂える地虫の嬌声も

今は、はるか

郷愁の彼方へ消え去り

盛衰の於母影を

ただ君の切々たる胸中に

残すのみ

神も悪魔も降り立たぬ荒野に我々はい

2018-05-25

パソコン音楽クラブDREAM WALK」リリースに寄せて

これはnoteには書かない。

高まった感情の羅列をわざわざアーカイブする必要もないし、したいとも思わない。

それに、彼らの歩みの横にあえて痕跡を遺すような事はしたくない。

この文章はただの感情の発露であるが故の乱文で、昨日の夢がいつの間にか思い出せないのと同じように、このエントリー明日には憶えていないことを望んでいる。

『DREAMWALK』にはきっとそれが正しい。

2年ほど前、確かtomadという男性Twitterに貼っていたSoundCloudリンクきっかけだったと思う。

イルカ調教師の語りからはじまる音源を聴いたのははじめてだった、でもそのユニット名をふざけているとは感じなかった。

しろ、「めちゃくちゃクールだ」と思った。

音楽に関しては好きな物は好きくらいのマインドしかない、なので感覚的に語る事しかできない。

けど、その時聴いた彼らの曲は郷愁というほど大それていないが、家に帰りたくなるようなそんな音楽だった。

功夫少女白書」に「NEXCO東日本」、それに「HELLO!」次々に聴いていってどんどん夢中になり、毎回なぜか懐かしい気持ちになる。

もちろん「使っている機材が昔の物だから」という要素も多分にあるはずだけど、子供だった頃に見聞きしてきた古さの感覚が近いのかな、とそんなことを考えたのを憶えている。

そのうち、SNS上で交流が生まれると彼らの創作の一端に交えてもらえる機会もあった。(これは非常に嬉しかった)

今じゃ、毎週来ているのでは?と思うくらい、東京でのイベントに出演しているけど、2年ほど前はあまりこっちで観られるチャンスもなく、DMを送るタイミングで「東京での演奏会も楽しみにしています」と送ったりもしていた。

今考えるとちょっと恥ずかしいが。

多くの人が感じているのと同じように、彼らには独特の空気があると思う。

僕はその彩度が低く、ゆるやかに見えるのにどこか硬質感のある空気に(楽曲イメージもあるのかもしれないが)廃墟や寂れたモール気概みたいなものを感じることが多い。

ハードオフ中古シンセサイザーの音が、コンクリートの色をした1990年代を連れてくる、そんな感じがする。

そんな彼らが出すはじめてのアルバムにはきっと都市面影と、そこに並び建つ団地に巣食う狂気性みたいなものが、持ち前の器用さによって丁寧に仕込まれ、織り込まれているんだと思う。

そしてまた僕は、何度も何度も彼らのアルバム再生しながらなぜか懐かしい気持ちになる。

パソコン音楽クラブ、やっぱりそのユニット名も曲も二人の事も、僕にはいつまでもめちゃくちゃクールだ。

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