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2021-05-04

初心会興亡記 -かの大帝国は如何にして一夜で滅んだか-

ちょっとゲーム歴史をかじったことがある人なら聞いたことがあるだろう言葉初心会』。

とにかくこの言葉へのイメージは最悪だ。「真っ黒組織」「ゲームヤクザ」「歴史の闇」「悪の秘密結社」etcetc。

そんな初心会だが、はたしてどれだけの人が正確に初心会とはなんなのか、どのような悪どいことをしてきたのか、そして最後はどういうふうに消えていったかを語ることができるだろうか? おそらく、ほとんどいないのではないだろうか。

この初心会について、私が調べたことをゲーム流通歴史を絡めてまとめて書き出すぞ。これで君も初心会マスターだ! ちょっと長いけど勘弁な!


まずは初心会のものについての解説だ。

もともとの任天堂花札屋であり、そこからトランプおもちゃを売り出したことは知っているかな? 創業明治時代だ。

1960年代前半の任天堂問屋を通じてテリトリー別に小売店団体で集め、トランプかるたの特売セールの景品といった形で温泉招待旅行などを行ったりしていた。そうした中、「ダイヤ会」という親睦会が問屋内で自然発生する。このときあくまローカルな親睦団体という形でしかなかった。

1973年2月光線銃といったヒット商品が出始めたのをきっかけに、このダイヤ会を全国規模のきちんとした親睦会の形にしようとして生まれたのが初心会だ。ファミコンが生まれるずっと前だ。そしてファミコンはこの初心会に参加している問屋(59社加盟、その中でゲームに力を注いでいたのは30社ほどだったそうだ)を通じてのみ、流通させようとした。これには理由がある。

ファミコンゲームROMカセットだ。ROMカセットCDと違って作るのが大変だ。発売日の三ヶ月前にはどれくらいつくるか数字を決めなきゃならない。一本つくるのに1000円以上かかる。もちろん任天堂は自前の工場を持っているわけではないから、他社の工場お金を払って作ってもらうわけだな。(ドラゴンクエストシリーズ京セラがつくっていたらしい)

つくってもらったゲームソフトを売る。売れればいい。残ったらどうするか? ROMカセットはとにかく廃棄しづらい。体積があるから倉庫在庫としては大変だ。処分するにも金がかかる。そのため在庫なしの売り切りスタイルであることが求められた。第一、このとき任天堂に「日本全国どこでどれほど、どのファミコンゲームが売れるか」という予測を立てる能力はまったくなかった。

それゆえ当時の任天堂社長山内初心会の力を借りることにした。ファミコンゲームソフトは全量初心会への返品なし買い切り制在庫は持たず、追加の注文が重なってきたら再販というスタイルだ。ファミコン専売権を与えるかわりに返品は勘弁してくれということだ。初心会は全国にその配下二次問屋があるので、彼らを通じて全国の小売店ファミコンを売りだした。ちなみに当初の初心会参加問屋意見としては「こんなもの絶対に売れない」だったそうだ。

ややこしいのがこの後、ファミコンの登場に衝撃を受けたハドソンナムコサードパーティとして参加することだ。当時の任天堂サードパーティが現れることを予測していなかった。というか、まさか他社がファミコンソフトを作れるとは思っていなかった。そのためサードパーティ参加用の契約書をあわてて作る羽目になったという。(このときアメリカにてアタリサードパーティであるアクティビジョン販売差し止めで訴えていたが、後に和解し、サードパーティ合法化された経緯があるため、そもそもサードパーティを認めない、という選択肢はなかったものと思われる)

このときナムコ簡単だった。ナムコは自前でROMカセットを作ることができたからだ。アーケードの雄はハードウェアを扱う力に長けていた。ナムコに対しては自社生産を認め、1本100円のロイヤリティを収めてくれれば問題ないという契約を交わした。

ハドソン問題だった。ハドソン能力こそずば抜けていたが、なにぶん会社の規模が小さかった。とても自前でROMカセットは作ることができず、任天堂に頼ることになった。

任天堂からしたらさら想定外事態だ。どうやればスマートサードパーティ用のソフト流通させることができるのか。任天堂リスクを負うことなく、かつゲーム市場が適正に伸びていくための方法模索する必要があった。

最終的な仕様は、まずサードパーティは一括して任天堂製造委託費を払う。その中からロイヤリティを差っ引き、任天堂工場ROM発注する。作る数は任天堂サードパーティ初心会の3つで相談して決める。初心会サードパーティ任天堂委託したROMを全数買取、支払いする。これで決まった。

もちろんこれが全てではない。年末クリスマス商戦を狙って多数のソフトメーカーソフトを投入してくるので、思ったような数が生産できないので任天堂が拒絶する場合もある。初心会の見込み以上に売れると意気込んだサードパーティが、自前で在庫を抱えてリピートを狙う場合もあった。ROMカセットは作るのにとにかく時間がかかるからリピート発注が来てもそのとき在庫がなければ応えられるのは早くて三ヶ月後だ(半導体在庫事情によっては半年待たされることもあったらしい)。そうなればすでに需要中古で落ち着いてしまう。そういう理由初心会の注文数よりも多くつくるメーカーもあった。そのままリピート注文が来ず在庫になった? その場合は大特価二次出荷するしかない。君はかつてゲーム屋でファミコングラディウスが新品980円で売られているところを見たことはないか? あれはつまり、そういうことだ。

この中で任天堂非難する流れがあった。サードパーティソフトを出すにあたり、任天堂はなんのリスクもなくロイヤリティ徴収していると。しかしこれはそもそもファミコンという当たるかどうかわからないプラットフォームを立て、リスクを負った会社が得るリターンとしてはむしろ当然ではないだろうか。不満があるならセガのように自社プラットフォームを出せばいい。ナムコも自社プラットフォーム計画していたらしいが、結局世に出ることはなかった。



ファミコン時代流通はこういうことで決まった。このあたりの動きでは初心会があまり悪の組織っぽくなくて意外かもしれない。こんな証言がある。スクウェア創設者鈴木尚2003年岡山大学にてインタビューを受けたとき発言である


初心会っていう問屋集団が、ある時期は全くファイナンス役割果たしてくれてたわけですよ。あまりに量が大きくなると「すみませんお金ないんですよぉ」って言うと手形をくれるわけです。その手形担保銀行からお金を借りるわけです。実質的には、ある日突然ファミコンブーム終焉しない限りは、返ってくるだろうという。

この時期はスクウェアファミコンに参入したての頃を指す。任天堂ROM製造委託費を前払いで求めてくるので、どこかが銀行の代行をしなければならない。そこで初心会が(正確にはその中の一つの問屋だろうが)その役割果たしていたということだ。

スクウェアはこの後ファイナルファンタジーで有数のRPGメーカーとして名を馳せることになるが、実は完全覚醒するまでにはもう少し時間がかかった。初代ファイナルファンタジーの初回出荷数は40万本で、これが最終的には80万本まで伸びる。次回作ファイナルファンタジー2にて70万本超えの実績を得たが、実はこれ、途中でかなり問屋内で在庫が残って大変だったという。しかファイナルファンタジー3では初のミリオン超え(最終的には140万本)を果たす。それに伴い過去作も売れるようになって、リピードがかかったというわけだ。このあたり初心会はうまくスクウェアバックアップに動いているように見える。


そう見えるのは、それはスクウェアが一流メーカー入りを果たしたからだった。ファミコン末期の他のメーカーはどうだったか? 1990年8月晴海にて「ファミリーコンピュータゲームボーイ展示会」「スーパーファミコン発表会」が行われた。年末発売のソフト中心に初心会小売店に対して各ゲームメーカー披露する展示会だ。この展示会自体1988年からやっている。

しか1990年ではついに「受注ゼロ」のソフトが出始めたのだ。しかも一つや2つではなく、この展示会で並んだソフト(約100タイトル)のうち、3割が受注ゼロだった。この時点でファミコン市場は売れるソフトと、そうではないソフトの差が尋常ではなく離れていた。

この場合メーカーには2つの道がある。一つは発売中止。もう一つは「任天堂には最低限の発注を行い、初心会には最大限の営業活動を続ける」というもの。もちろん初心会に対して売る気を見せるために大規模な広告活動をやれば発注はくるかもしれないが、その分当然損益分岐点はどんどん高くなる。もっと有効なのは卸値自体を下げてしまうことかもしれない。

そうしてギリギリの攻防が続けられなんとか出荷したゲームはどうなるだろうか? 端的にいうと、人気ソフトの添え物として扱われた。初心会問屋二次問屋小売店へ向けて1本の人気ソフトに対してこういった不人気ゲームや、在庫売れ残りゲーム抱合せで売りつけた。このときのレートによって「1対3」「1対4」などという言葉が生まれた。(場合によっては1対8なんてのもあったらしい)

さらにはバッタ屋ルートなるもの存在した。問屋の不良在庫を捨て値で買取独自ルート小売店に売る。このとき小売店ゲーム屋とは限らない。スーパーディスカウントストアリサイクルショップと様々だ。なかには「お楽しみ袋問屋」なるものもでてきて、中身が見えないファミコンソフトの詰め合わせが一山いくら世界だったそうだ。こういった不人気ソフトワゴンセールをとてもよく賑わしてくれた。

ちなみに抱合せ販売違法なので、公正取引委員会による排除勧告初心会問屋に入ったことがある。ドラゴンクエスト4の頃だ。そのためかわりに「新作ドラゴンクエストの受注を行います。なおドラゴンクエストの他にあの大人ソフト郡(大人気とは言っていない)のリピート販売を行いますので、ぜひ同時注文してくださいね」なんて手法が取られた。




これらの状況を任天堂は当然良く思っていなかった。もともと任天堂アタリショックを目の当たりにして、「クズソフトの氾濫は市場を殺す」と認識していた。そのため、サードパーティには本数制限をかけた。が、サードパーティ自体が増えれば意味がなかった。子供向けのおもちゃであるために表現規制を敷いたが、クオリティチェックはまだこの時行われていなかった。どんどん増えるソフト初心会流通在庫市場を殺す材料になりえた。どこもが不良在庫を減らそうとやっきになって価格ディスカウントしてしまえば、プレイヤー適正価格ゲームソフトを買おう、という意欲が損なわれる恐れがある。


そこで任天堂はこの状況を打破すべくスーパーマリオクラブという組織を立ち上げる。一般モニタープレイヤー2000人超を使い、彼らに発売前のゲームを二時間実際にプレイしてもらい、どこがどう面白いのか、つまらなかったのかを評価をする。評価は項目ごとに点数付けされ、集計されたデータ問屋小売店に送られる。このデータ雑誌ファミリーコンピュータマガジンなどにも送られ掲載されていたので、知っている人は多いんじゃないかな。そしてこのスーパーマリオクラブソフト売上の予測も立てるようになった。意外なことにこの素人集団予測が的中した。後年はマリオクラブ参加者自身が慣れてきてしまい、その予測が外れるようになってしまったが。余談だがマリオクラブはこの後正式任天堂品質管理部門となった。さらにその後分社化が行われ、マリオクラブ株式会社となった。

任天堂としてはスーパーファミコンを機に一度市場リセットしようと試みた。品質管理に売上予測、あまりに多くなりすぎた流通在庫。今ではピンとこない話だが、当時のゲームメーカーは「いったいどれほどのゲームが実際にプレイヤーの手に渡っているのか、どれほど流通在庫が眠っているのか」を把握する方法ほとんどなかった。商売相手小売店プレイヤーではなく、あくま初心会からこんなことになったわけだ。

当時の任天堂社長山内はこう語っている。「どれほどのソフトが売れるか、我々にはわかりようがない。流通プロに任せるしかない」。これは初心会オンリー流通自己弁護した言葉と思われた。しかしこの言葉には「流通プロでもわからないのなら、任せる意味がない」ということを含んでいる。この言葉の本当の意味はこの後判明する。


そうして新たなスタートをきったスーパーファミコン市場だったが、これは結論からいうと、なんら変わらなかった。むしろますますカオスになっていった。このあたりからいよいよ初心会初心会らしい悪行が目立ち出す。厳密にいうとこの美味しい市場に目をつけた業者が、なんとか流通に入り込もうとし、初心会の中の一部(ここはもしかしたら一部ではないかもしれない)が彼らと手を組んだ結果なのだが。

スーパーファミコン本体がほしい場合アクトレイザーとの抱合せで(違法? 知りません)。しかスーパーファミコン自体の掛け率は98%。場合によっては小売超え。別売りケーブルスーパーファミコンAVケーブル別売りだった)を売るほうが利益がでる状況だ。

・80万本の出荷実績があるサッカーゲームの第二弾が登場したとき初心会とある問屋一社が初回出荷数50万のうち25万を買い占めた。この25万は発売日に大量には卸さず、自前で在庫として抱え、市場在庫が枯渇して小売店二次問屋が注文してくるのに対し、他のクズソフトとの抱き合わせ違法? 知らない子ですね)で売りさばいた。

とある問屋メーカーに対して「うちは来週から社員旅行にでかけるんで、申し訳ないのですけど一週間早くソフトを卸してくれませんか?」と要望があった。それに応じて一週間早くソフトを送ると、なんとそのまま発売日よりも一週間早く小売店ソフトが並んでいた。社員旅行なんてそもそも嘘だった。

メーカーに対してゲームソフトを大量に仕入れることを約束する見返りとして、その担当者個人の口座にリベートを送るように要求した。

問屋勝手に掛け率を決めて発注書をメーカーに送りつけた

(続く)

https://anond.hatelabo.jp/20210504185958

2021-04-29

日本暴動起きない理由って

暴動東大安田講堂事件成田闘争とか中核派暴動イメージが悪すぎて、そういう団体が起こすもの、と植え付けられたのか、

国電暴動上尾事件新宿駅暴動)、西成暴動みたいに過去産物と思われてるのか、

1960年代後半〜1980年代若者がオラついてて、今の若者大人しすぎるから

2021-04-16

[]KISS法則

KISS原則 (英: KISS principle) とは、「Keep it simple stupid.」(シンプル愚鈍にする)、もしくは「Keep it simple, stupid.」(シンプルにしておけ!この間抜け)、もしくは「Keep it short and simple.」(簡潔に単純にしておけ)という内容の、1960年代米国海軍において言われた、経験的な原理原則[1]の略語。その意味するところは、設計の単純性(簡潔性)は成功への鍵だということと、不必要な複雑性は避けるべきだ、ということである

2021-03-28

「東アジア反日武装戦線」の初心と過ち

韓国発の映画『狼をさがして』は何を描いているか

太田昌国 評論家編集者

 韓国発のドキュメンタリー映画『狼をさがして』が間もなく日本で公開される。金美禮(キム・ミレ)監督2020年作品で、原題は『東アジア反日武装戦線』という。映画が描くのは、1974年から75年にかけての出来事――「東アジア反日武装戦線」(以後、「反日」と略す)を名乗る人びとが「連続企業爆破」を行ったこと――とその背景である

歴史像と世界像が一新されてゆく時代のただ中で

 描かれる時代は、アジア太平洋戦争日本帝国敗戦してから30年近く経った時期に当たる。活動を担ったのは、敗戦から3~5年経った頃に生を享けた、当時は20代半ばの若者たちだった。いわゆる「団塊の世代」に属する。その彼ら/かの女らは、敗戦以前に日本がなした植民地支配および侵略戦争責任を問うた。同時に、戦後過程はすでに30年近い長さに及んでいるにもかかわらず、日本がその過去清算することもないままに、改めて他民族に対する加害国と化している現実に警告を発した。手段として使ったのは爆弾だった。

 その標的はまず、戦前絶対無謬の存在として日本帝国を率い、戦後は「平和」の象徴となった昭和天皇に向けられた。だが、「お召列車」の爆破計画が実現できなくなった後は、戦前戦後を貫いて繁栄する大企業に的を絞った。

 戦後日本象徴する言葉は、長いこと、「平和民主主義」だった。それは新憲法を貫く精神でもあると多くの人びとが考えていた。

 天皇戦争責任が問われることも裁かれることもなく始まった戦後は、「一億総無責任体制」となった。この体制の下では、日清戦争以降、断続的にではあっても半世紀もの間(1894年1945年アジア太平洋地域戦争を続けた近代日本実像を覆い隠し、この戦争全体像を、最後わずか3年半の「日米戦争」に凝縮して象徴させることが可能だった。広島長崎の「悲劇」を前面に押し出し米軍占領下の沖縄辺境ゆえに無視して、日本全体があたか戦争の「被害国」であるかのようにふるまった。「反戦平和勢力」の大勢も、そのことに疑いを持たなかった。

 1960年安保闘争の時にも、1965年日韓条約反対闘争の時にも、戦前日本帝国がなした対外政策と関連づけて現在分析する言動ほとんど見当たらなかった。すなわち、日本社会総体として、近代日本が持つ「植民地帝国」としての過去をすっぽり忘れ果てていたと言える。

 1960年代後半、この社会思想状況はゆっくりとではあっても変化し始める。日本は、高度経済成長過程で目に見える形での貧困は消え失せ、急速に豊かになった。この経済成長最初の基盤となったのは、1950~53年の朝鮮戦争による「特需景気」だとする捉え方が常識となりつつあった。

 時代はあたか米国ベトナム侵略戦争の渦中で、沖縄を軸に多数の米軍基地があり、インドシナ半島輸送される米軍物資調達地でもある日本は、再度の「特需景気」に沸いていた。近くに住むアジア民衆が苦しんでいる戦争によって自分たちの国が総体として豊かになっていく――この際立った対照性が、とりわけ若い人びとの胸に突き刺さるようになった。

 加えて、米国でのベトナム反戦運動は、黒人先住民族インディアン)の権利回復の動きと連動していた。植民地主義支配人類史に残した禍根――それが世界じゅうで噴出する民族問題の原因だとする意識が、高まっていった。

 「東アジア反日武装戦線」に所属した若い人びとは、それまでの歴史像と世界像が一新されゆくこのような時代のただ中にいた。彼ら/かの女らは、日本近代史と現在が孕む問題群に、「民族植民地問題」の観点から気づいたという意味では先駆的な人びとだった。

「重大な過ち」の根拠を探り続けた歩み

 「反日」はこうして獲得した新たな認識を、すぐ実践に移そうとした。当時刊行された「反日」の冊子『腹腹時計から鮮明に読み取れるのは、次の立場だ。「そこにある悪を撃て! 悪に加担している自らの加害性を撃て! やるかやらないか、それだけが問題だ」。政治性も展望も欠いた、自他に対する倫理的な突き付けが、行動の指針だった。「反日」が行った、1974年8月30日東京丸の内三菱重工ビル爆破は、8名の死者と385名の重軽傷者を生み出す惨事となった。

 「反日」にはひとを殺傷する意図はなかった。事前に電話をかけて、直ちに現場を離れるよう警告した。だがそれは間に合わなかった。しかも、なぜか「反日」は三菱爆破の結果を正当化し、死者は「無関係一般市民」ではなく「植民地人民の血で肥え太る植民者だ」と断言した声明文を公表した。映画の前半部で、この声明文がナレーション流れる

 多くの人びとはそこで「引く」だろう。半世紀前の当時もそうだった。それゆえに、彼ら/かの女らは、日本では「テロリスト」や「血も涙もない爆弾魔」の一言で片づけられてきた。

 その責任の一端が、「反日」そのもの言動にあったことは否定し得ないだろう。だが、実はそこにどのような内面の思いが秘められていたのかということは、路傍の小石のように無視されてきた。そんな渦中にあって、獄中の彼ら/彼女らは初心を語ると同時に、自らが犯してしまった重大な過ちの根拠を探り続けた。獄外には、その試行錯誤を〈批判的に〉支え続ける多様な人びとの存在があった。映画『狼をさがして』は、これらの獄中・獄外の人びとの歩みを74分間の時間幅の中に刻みつけている。

過去を振り返ることをしない社会は、前へ進むことができない

 画面には登場しない「主人公」のひとりは、「反日」狼部隊大道将司である。彼は2017年5月、長らく患っていた多発性骨髄腫で獄死したが、死刑が確定してのち、彼はふとした契機で俳句に親しむようになった。生前4冊の句集にまとめられたその作品は、人間関係自然とのふれあいも極端に狭められた3畳間ほどの独房にあっても、人間はどれほどの想像力をもって、ひとが生きる広大な世界を、時間的にも空間的にも謳うことができるものかを証していて、胸を打つ。それは、ひとを殺めたという「加害の記憶悔悟」を謳う句において、とりわけ際立つ。

 映画でも紹介される「危めたる吾が背に掛かる痛みかな」もそうだが、他にも「死者たちに如何にして詫ぶ赤とんぼ」「春雷に死者たちの声重なれり」「死は罪の償ひなるや金亀子」「ゆく秋の死者に請はれぬ許しかな」「いなびかりせんなき悔いのまた溢る」「加害せる吾花冷えなかにあり」「秋風の立ち悔恨の溢れけり」などの秀句がある。

 「反日」のメンバーの初心と、結果としての重大な過ちを冷静に振り返るこの映画制作したのは、韓国映画監督キム・ミレとその協力者たちである。ふとした機会に「反日」の思想と行動を知ったキム・ミレ監督がこの映画制作したのは、「人間に対する愛情、その人間を信じること」からだったという(「『狼をさがして』――金美禮監督に訊く」、東アジア反日武装戦線に対する死刑・重刑攻撃とたたか支援連絡会議=編『支援ニュース』420号、2021年3月6日)。社会正義のために、加害国=日本搾取され殺された東アジア民衆の恨みと怒りを胸に行動した結果、数多くの人びとを死傷させてしまった、つまり自らが加害者になったという事実に向き合ってきた「反日メンバーに対する思いを、かの女はそう語る。

 だが、その裏面には、次の思いもある。彼らは「長い期間にわたって、自らのために犠牲になった人々の死に向き合って生きねばなりませんでした。苦痛だったかもしれませんが、幸いにも『加害事実』に向き合う時間を持つことができたのです。8名の死と負傷者たち。それがこの作品制作過程の間じゅう私の背にのしかかってきました。しかし、彼らと出会うことができて本当に良かったと思います。この作品は、私に多くのことを質問するようにしてくれたからです。どう生きれば良いのか、今も考えています。」(キム・ミレ「プロダクション・ノ-ト」、『狼をさがして』劇場パンフレット所収)。

 74~75年当時の「東アジア反日武装戦線」のメンバーからすれば、韓国の人びととの共同作業は「見果てぬ夢」だった。日本自分たち戦後の「平和民主主義」を謳歌している彼方で、韓国および北の共和国の人びとは、日本植民地支配を一因とする南北分断と内戦、その後の独裁政権の下で呻吟していたからだ。

 そんな時代が40年近く続いた後で、少なくとも韓国では大きな体制変革が起こった。表現言論の自由を獲得した韓国新世代のなかから、こんな映画をつくる人びとが現われた。キム・ミレ監督は、この映画日韓関係の構図の中で見られたり語られたりすることを望まないと語る。過去を振り返ることをしない社会は、前へ進むことができない。日本韓国も、どの国でも同じことだ、と(前出『支援ニュース』および2021年3月18日付「東京新聞」)。

脈打つフェミニズム視線

 最後に、もうひとつ、肝心なことに触れたい。この映画を際立たせているのは、女性存在だと思われる。

 刑期を終えたふたりの女性が、生き生きとしたその素顔を見せながら、獄の外から窓辺に寄ってきた猫との交友を楽し気に回想したり、かつて自分たち闘争に大きく欠けていたものを率直に語ったりする。前者の年老いて元気な母親は、娘が獄に囚われてから、娘と自分たちを気遣う若い友だちがたくさんできたと笑顔で語る。二人は自宅の庭を眺めながら、「アリラン」を歌ったりもする。

 キム・ミレ監督らが撮影する現場に付き添う姿が随所に見える女性も、長年「反日」の救援活動を担ってきた。撮影すべき風景、会うべきひとについて、的確な助言がなされただろう。

 死刑囚の獄中書簡集を読んで、あん事件引き起こしたひとが自分と変わらぬ、どこにでもいるふつう青年だと知って、縁組をして義妹となったひとの語り口もごく自然だ。女たちの運動を経てきたと語るかの女の言葉を聞いていると、獄中の死刑である義兄とは、媚びへつらいのない、上下関係でもない、水平的なものだったろうと想像できる。

 そして、もちろん、韓国人のキム・ミレ監督女性だ。弱い立場にある労働者現実を描いてきたかの女は、男性の姿ばかりが目立ち、男性優位の価値観が貫いている韓国労働運動の在り方に疑問を持ち、スーパーで働く非正規女性労働者が大量解雇に抗議してストライキでたたかう姿を『外泊』(2009年)で描いた。日本でも自主上映されたこ作品に脈打っていたフェミニズム視線が、『狼をさがして』でも息づいていることを、観る私たちは感じ取るだろう。

2021-03-05

anond:20210305104242

戦前世代団塊世代氷河期世代、鬼滅世代のすべてにわたって、一夫一妻制度はむしろ日本社会デメリットしかなかった。

なぜなら、子供を4-5人産んでたのはそのすべてが田舎者で、スラム住まい1960年代には多かった。

そのスラム育ちが成人して結婚し、どこの田舎地方にも子供がいるという時代1980年代

4時で終電北海道のいくつかの地方自治体も、かつては1時間に1本は電車が出ていた可能性がある。

そのデメリットのせいで、田舎には人がいないし、地方シャッター通りだ。

じゃあどうすればいいのかというと、ドイツのように事実婚選択するのがいいんじゃないかと思っている。

事実婚選択するという考えは昭和時代に全くなく、男はとにかくピンク映画風俗通いだった。金のない奴がオールナイトピンク映画通いだったらしい。

風俗に通えて一人前の男だった。

ところが40年たつと、コロナのおかげで風俗がつぶれだしてきている。

2021-02-28

ひのえうまは出産を控える女性が多かったんでしょ。

それは迷信に従ってたわけでしょ。

1960年代日本人はそれくらい頭が悪かったんだよ。

から地方田舎差別が起きる。

2021-02-26

音楽は誰のものか?

1960年代音楽東京人のものであった。LPといっても、地方人ですらその存在ほとんど知られていない。アストル・ピアソラすら、ほとんど日本では認知されていなかった。もちろんB・A・ツィンマーマンなんて、弾くピアニストは当時の日本には誰もいなかったとまで言われている。

1990年代に入って、音楽はようやく地方のものになった。CDのせいだ。CDになってさえいれば、どんなマイナー音楽家の話でもできるようになった。ただし、楽譜の取次には苦労を要した。

2020年代に入って、日本国中のどこでもスマホYoutubeアドレスを打ち込んで、どんな音楽でも聴ける時代になった。

2020年代は、やっと、田舎者音楽を手にしたのである。誰もが同じ情報を手にするまで、日本は60年の歳月が流れている。

まり、これから流行する音楽は、田舎臭ければ臭いだけ売れるという方程式が成立する可能性が高い。

うっせえわも、それに近い。

2021-02-23

『えんとつ町のプぺル(1984年公開版)』

久々の休日、ふと思い立ってTSUTAYA映画を借りることにした

作品は、リマスター前の『えんとつ町のプペル』。最近リメイク版が公開されたらしいが、そちらはまだ見ていない。

ただ、ネット上の口コミを見る限り、今後も見ることはないだろう。

私にとってのプペルは、1984年地元映画館で見た、あのプペルで完成されているからだ。


えんとつ町のプペル』はその表題の通り、1960年代公害大気汚染テーマに描いた風刺作品だ。

主人公風太(ふうた・通称プー」)は三重県に住む高校生

中学までは野球部エースとして活躍していたが、練習試合中に激しい喘息症状を発症

四日市ぜんそく罹患者となり、甲子園への夢を絶たれることとなる。

無気力となり、私生活や授業でもぼんやりしがちな風太心配し、同級生も励ましてくれるが、効果はなし。

立ち並ぶ煙突からたなびく煙、紫雲の空。その下で生活しているため、激しい痛みや発作は時折風太を襲う。

そういった現状が、風太気持ちさら空虚にしていくのであった。


そんな彼に声をかけたのが、同級の久志山(くしやま)であった。

特に接点のない彼に乗せられるまま、流れで電話級アマチュア無線技士の講習に参加する。

「遠くに住む人と交流し、話せる。こんな楽しい趣味はない」と力説する久志山にお古の機材を押し付けられ、

家族や近隣の男性の(半ばおせっかいな)協力に巻き込まれる形で、

いまいち興味の湧かないアマチュア無線を渋々行う羽目になる。

一度目にCQ発信をするも、返信はなし。二度目は混線か、ノイズが返ってくる。

まあどうせそんなもんだ、と畳に身体を投げ出し、諦めかける風太

そこにか細い声が聞こえる。「……CQ,CQ、聞こえますか」

周波数の向こう側から声をかけたのは、富士市に住む照子(てるこ・通称『ペル』)だった。


偶然に近い出会いをもとに、彼らの交流は始まっていく。

四日市富士。二つの街に住む、元・野球少年と元・水泳少女

通信がつながるのは週に1度あれば良い方だったが、これをきっかけに風太無線にのめりこむことになる。

ひょんなことから、互いに公害による喘息持ちということが分かる風太と照子。

そして、挫折の末にアマチュア無線にたどり着いたことも。

境遇の近い立場ということもあり、交信中は話が弾む二人。

次第に性格野球を辞める前に戻り、久志山をはじめ学校の級友たちとも明るく話す風太

そう立ち直る彼のもとに一通の手紙が届く。

宛名は照子に教えた住所。しかし差出人は、照子の母・きみのものだった。

発作がひどく呼吸困難となり、照子が市の中央病院にしばらく入院すると知った風太

焦燥感を胸に一人、風太はヘドロと大気汚染の街・富士へと向かう――


そんなストーリーが、1984年のプペルだった。公害をもとにしたボーイ・ミーツ・ガール

『えんとつの煙の下で、僕らはつながっている』という捻りのないキャッチコピーが示す通り、

今となっては、いや当時からもありきたりな青春作品の一つ。

しかし、その背景舞台には工業至上主義への強い批判風刺が隠されている、という意味では真新しかったのかもしれない。

平凡な作品ながら、私の胸に残り続けていた作品、それがプペルなのだ

……散々探した末、邦画コーナーの隅にプペルはあった。いつの間にかDVD版になっていた。

ビデオのまま廃盤となっていた可能性もあるので、正直運が良かったと思う。


私も、この作品も、世間も。色々変わってしまったものはある。

しかし、あの頃にはいつでも帰れる。

不織布の借用袋を手に、私は心なしか明るい気持ちで、TSUTAYAを去ったのであった。

実存主義

いまこそ実存主義を再起用するべきだと思うんだよな.(哲学に詳しくないため間違いがあったら遠慮なく指摘してもらえると助かります.)

時代遅れな考え方かもしれないし,そもそも哲学は実際の社会に影響を与えないと言われている感じもある.

だけども閉塞感や虚無感に耐え切れず社会自身が「昔はよかった」と回帰するような社会は決して防がなくてはならないだろうから,その際には特効薬候補になると感じる.

かにサルトルは乗り越えられた」なんて言われて,構造主義へと重心が移り,実存主義はそれこそ歴史の中に閉ざされてしまったわけだ.

構造主義がより正しく思えるのは,フィールドワークを基にした裏付けが取れていること,思想根底にある偏りを見透かすことができたことだと思う.

この点については,自身西洋とは異なる文化背景にある日本で過ごしてきたからこそ納得感がある気がする.

しか時代背景が大きな要因の一つになったと思えて仕方がない.

サルトルがもてはやされ始めたのは戦後の混乱期(平穏が訪れるまでの過渡期)だった.

少年期に戦争経験して,これまでの規範とは異なった生活,のらりくらりと暮らしていた若者が『実存主義者』だとオトナ達に揶揄された時代である

そんな中でサルトルは「実存主義ヒューマニズムである」という講演をきっかけとして有名になった.(もっともそれ以前のサルトル実存主義自称したがらなかったようだが)

他方,レヴィ=ストロースが「野生の思考」を携えて登場したのは1960年代である

このときにはWW2から既に十数年経過し,ドイツが明確に西ドイツ東ドイツに分断され,朝鮮半島も同じく南北に分割されていた.

このときにはもう冷戦構造が成立しており,生きる目的規範と言われるようなもの国家もしくは共同体によって掲示されているようなものであった.

それはざっくりと表現すれば,西側諸国では「東側らしくない振舞いをせよ」,東側諸国では「西側らしくない振舞いをせよ」といった具合に.

そんなような状況下になっていったわけだから構造主義がより理解されやすく,より勢力をましていったのだと私自身は思う.

別に実存主義に分類される哲学者や思想家はサルトルだけではなく,他の著名な人物にはニーチェヤスパースハイデガーなどがいる.

キルケゴールも忘れてはいけないだろう.場合によってはパスカル実存主義に分類するそうだ.

この実存主義と呼ばれる思想に一貫しているのは過渡期をきっかけとした点にあると言える.

例えば,目の前の状況に対して挫折するだとか,死へと進み続けることを自覚するだとか,大戦によってこれまでの規範が形骸に近くなってしまっていたりだとか.

そういった既存規範(あるいは構造世界観)に綻びが生じた状況において,次の新たな規範が構築されるまでの過渡の段階で実存主義的な発想が生じてくると考えられる.

あいにく今現在私たちの状況を鑑みるに,私たちの考え方の根底は再び綻びを見せてきている.

新型コロナウイルスもその一つだろうし,資本主義を盾にした新自由主義挙動もその一つだろう.

この繁栄を盲信することのできない過渡期に生まれたことを悔いても仕方がない.

人間自分自身時代を選ぶことはできないわけで,その中でうまくやっていくしかないわけである

強いてこの生を受け入れるのであれば,この生を選び取ったと言えるような生き方体現するべきではないだろうか.

それこそまさにアンガジェするという言葉の通りに.

2021-02-09

インド農民デモとグレタさんとシク教徒のカリスタン運動

もう2ヶ月以上続くインド農民デモ。今までは最低価格保証がされていたが新法では価格保証が明記されず自由化生活が苦しくなるとして政府に抗議。地方から首都に出向いて道路占拠したりしている。

インド農産物取引自由化などを促す「農業新法」が成立したことに対し、約13億人の人口の半数以上を占めるといわれる農民の抗議が広がっている。

 

インド農民、全土でスト 農産物取引自由化に猛反発:朝日新聞デジタル

https://www.asahi.com/articles/ASNDB34JZND8UHBI01Z.html

 

スウェーデン環境活動家のグレタ・トゥーンベリさんも農民支持をTwitterで表明。

ところがデモに関して農民支援レクチャーを受けたと見られる資料誤爆ツイートして「グレタの背後に怪しいやつがいる」とインド与党支持者や反グレタの間で反発広がり一騒動インド警察も「背後」を調査したという。

その「背後」でデモ支援資料作成してたというのがカナダの親カリスタン運動団体だとか。

'Preliminary enquiry has revealed that the toolkit in question appears to have been created by a pro-Khalistani Organisation 'Poetic Justice Foundation',

Furious Indians burn posters of the eco-campaigner after she wades into farmer protests dispute | Daily Mail Online

https://www.dailymail.co.uk/news/article-9224033/Greta-Thunberg-sparks-police-probe-India-tweet-sharing-toolkit-support-farmer-protests.html

 

カリスタン運動とはシク教徒によるインドから分離独立運動のこと。シク教とは信者数が世界で5番目に多い宗教で、歴史的経緯からインドパンジャブ州に多く住む。

それでカリスタン運動農民デモはどう結びつくのか。

パンジャブ州は 1947年の印パ分離独立の際に,パキスタンから難民であった多くのシク住民が移り住んだ。インド政府は同州をパキスタンとの戦略上の観点から農業州として固定化する方針を打出し,工業投資は控えてきた。 1960年代から米や麦の生産は向上したもののこの政府一方的方針に対してシク教徒の不満は次第に増大し,富裕なジャート系シク教徒の反政府運動へと発展,80年代には暴力行為が横行した。一方,このころ一部の海外移住シク教徒の間でもカリスタン運動が提起され,これがパンジャブ州での動きに相乗作用した。

 

シク分離主義運動とは - コトバンク

https://kotobank.jp/word/%E3%82%B7%E3%82%AF%E5%88%86%E9%9B%A2%E4%B8%BB%E7%BE%A9%E9%81%8B%E5%8B%95-169690

 

シク教徒=パンジャブ州=農業州=農民デモ、という結びつき

今回のデモパンジャブ州の農民首都ニューデリートラクターで抗議に訪れている。

インド政府ヒンドゥー教与党支持者は単なる農民デモとしてだけでなくカリスタン運動にも警戒しグレタさんに対しても「テロリスト支援だ」と批判している。

1月26日に警察との衝突で農民側に死者が出た。デモ参加者に少数派シーク教徒が含まれいたこから政府やヒンズー至上主義与党インド人民党(BJP)は、デモシーク教徒の分離独立運動に結び付いていると主張し、世論批判をかわそうとした。

 

農民デモ、各国著名人支持 インド政府弾圧強化で:時事ドットコム

https://www.jiji.com/jc/article?k=2021020700249&g=int

2021-02-08

anond:20210207180726

ルーマニア独身税の例はちょっと違うと思う。

チャクシェスク1960年代後半に、国力増強のために政令770というのを出した。

知ってる人も多い、中絶避妊を超厳格に制限することで人口増を図るやつ。

その結果、国営孤児院で育つチャクシェスク・チルドレンが爆増した。

で、「未婚者による妊娠」を防止する、つまり胎児に必ず法的な両親が

存在する状態にするために、1986年から独身税が導入された。

ルーマニア革命に伴って廃止

ちなみに独身税扶養控除や児童手当は実質的に同じこと(再分配)で、

全体の住民税率を上げつつ、出産育児教育に関わる社会保障制度を充実させていけば、

独身税と同じ効果はあるよ。

でも、税だと「一部の人からよけいに取る」、控除や補助だと「一部の人によけいに配る」

という建て付けになるから、前者のほうが社会的に受け入れられにくいんだろうね。

anond:20210207180726

ルーマニア独身税の例はちょっと違うと思う。

チャクシェスク1960年代後半に、国力増強のために政令770というのを出した。

知ってる人も多い、中絶避妊を超厳格に制限することで人口増を図るやつ。

その結果、国営孤児院で育つチャクシェスク・チルドレンが爆増した。

で、未婚者による妊娠中絶を防止する、つまり胎児に必ず法的扶養者が存在する

状態にするために、1986年から独身税が導入された。

ルーマニア革命に伴って廃止

2021-01-18

結局、歴史を振り返っても教訓にはできないんだよね

1960年代 学生運動

1990年代 オウム真理教ほか世紀末カルト

2020年代 オンラインカルト

どの世代もこんなの引っ掛かるの馬鹿しか見えないのに

正しいと思ってのめりこむのがいる不思議

 

まあのめりこむのは自由、金や時間をつぎ込むのも自由

ただ過激にになって暴れだすのも一緒かもしれない

2021-01-15

anond:20210114164029

>>はてブ左翼が多い理由ってなんなの?>>

民主主義は人数で決まるので、1960年代まれ子供の数が少なく、得票率に結び付きにくい。

なので、必然的左翼になってしまう人が多いと思われる。

1学年200万世代の1974年まれになると、さほど左翼ではなくなるが、これは得票率で2035年ごろには最終的に優位に立つからである

2020-12-31

なぜ日本人は教材格差講義格差をつけるか。

一番最初に教材格差なるもの提唱されたのは星野華水の「チャート式幾何学」で間違いがないらしい。日本人幾何が下手(今もそうだが)だったので、数研出版が一肌脱いで作ったのがあの本だったと聞いている。ブラーマグプタの定理は、どこの田舎のおばあちゃんでも覚えていた時代だ。その定理は、2017年大阪教育大の入試問題だったらしい。

教材で格差をつけて、地方田舎に蹴りを入れようという発想はすでに戦前にあったのだが、当時から地方田舎の連中の言葉遣いサルゴリラのもので、近づきたくなかったってことなんだろうか。振り返ってみれば、公立動物園とか言うのも90年以上前から教材格差問題にて指摘されているわけである

講義格差なるものが生まれたのは、伊藤和夫1977年に発売された「英文解釈教室」くらいからかと思っている。もちろん、それまでにも名教師なるもの存在したのだが、全国区に広まった講師なるものはまだ1960年代には存在していなかった。予備校講師タレント扱いされるようになったのは1980年代の話である1980年代でも、地方田舎大学受験風習はなかった。低学歴のほうが幅を利かしていた。

こうして、教材格差講義格差をつけて、日本人ミルフィーユ状にスライスしていけば、受験業界は儲かると思っていたのだろうか。いま中国人UTMとGTMのすべてを割って、ネット上へアップロードし、それを全員で読んでいる。数学に限らずほかの分野でも同じことがなされている。日本人格差文化戦術中国人の完全平等戦略に、あっさりと敗れたのである

負けた民族の遠吠えは悲しい。いつになったら、日本人未成年への教材格差講義格差をやめるのだろうか。いつになったら、日本人ファミレスイオンもない街に、平等未成年への教材を届けることができるのだろうか。

2020-12-23

anond:20201223113032

セントラル・リーグ - Wikipedia

1950年代ロビンス/ホエールズ

1954年から1959年まで6年連続最下位

秋山登

1956年入団。その年に25勝で新人賞を受賞。

以降、1964年まで二桁勝利を続ける活躍通算193勝。

ホエールズ一筋で1967年引退

1960年代スワローズ/アトムズ

1960年から1971年までの12年間で最下位6回。

金田正一

わずとしれた400勝投手スワローズ通算では353勝。

1951年から1964年まで絶対的エースとして君臨した。

佐藤

1964年から1967年まで4年連続二桁勝利スワローズ通算48勝。

石戸四六

1966年から1969年まで4年連続二桁勝利スワローズ一筋で通算70勝。

1970年代前半のカープ

V9を謳歌する巨人とは対照的に、1967年から1974年までの8年間で5回の最下位

外木場義郎

1965年広島カープ入団して、プロ勝利ノーヒットノーラン

1968年に21勝を挙げてエースとなると、1976年まで8回の二桁勝利を挙げる。

カープ一筋で通算131勝。キャリアで3回のノーヒットノーランを達成した。

安仁屋宗八

1968年23勝を挙げると3年連続で二桁勝利

木場とのダブルエースとしてカープ通算90勝。

1980年代スワローズ

1979年から1986年までの8年間で5回の最下位

尾花髙夫

1982年12勝を挙げると、そこから6回の二桁勝利を挙げた。スワローズ一筋で通算112勝。

梶間健一

尾花と並ぶエースとして5回の二桁勝利スワローズ一筋で通算85勝。

1990年代タイガース

1987年から2001年まで15年で10回の最下位

マット・キーオ

87年から3年連続二桁勝利。実働4年でNPB通算45勝。

湯舟敏郎

92・93・97年に二桁勝利タイガース通算59勝。

藪恵壹

1996年から3年連続二桁勝利タイガース通算84勝。

川尻哲郎

3度の二桁勝利タイガース通算56勝。

2000年代ベイスターズ

2002年から2015年までの14年間で10度の最下位

三浦大輔

1997年10勝して以降、ベイスターズ一筋で7度の二桁勝利通算184勝。

2010年代スワローズ

2013年から8年間で5度の最下位

石川雅規

2002年新人王を獲得して以降、通算11回の二桁勝利

スワローズ通算173勝で現役。

小川泰弘

2013年入団して16勝を挙げ、最多勝新人王を獲得。

スワローズ通算75勝で現役。

疲れたからパ・リーグは任せるわ。

2020-12-18

anond:20201218180904

かつては地方田舎を切り離して、都市だけの情報宣伝してたんだよ。

1980年代末までそれで何もかもうまくいったんだよね。

ところがね、1990年代から勉強をさぼった1960年代まれが目の色変えて受験ビジネスをやるようになった。

そのために、受験のことしか知らず稼げない地方人や田舎者が大量に東京流出した。

その結果が東大のレヴェルダウンだよ。

東大出てるのに、また留学できる金もあるのに、なぜかアメリカはいかないという人種まで出てきた。

それはどうやら世間一般で言う「発達障害」らしいのだが、そういう人はかつて田舎地方から一歩も出てこなかった。

かつては「親が酒煙草パチンコ風俗にハマったら高卒決定」だったのに、そうとも言えない社会になってきている。

>>何か話題になるたびにうちは貧乏だ、と言う人が結構割合でいる>>

親が酒煙草パチンコ風俗にはまると、昭和時代問答無用でアウト。

はまってなければたいがいはセーフ。ちゃん奨学金国立大学に行ける。

東北北海道田舎の人々の学力が高いのは「パチンコ風俗が近くに何もない」から。何もないので、高卒一家でも貯蓄はたまり、月3万の奨学金国立大学に進学でき、8年で完済できる。

そうでもない地方の人々でも、親に問題がなければセーフ。地方公立に進学する。それが日本の常識だった。

それが狂いつつある。

anond:20201218125241

実は、多いかもしれないと思っている。

男は受験勉強放棄してぼーっとしてます、なーんてのは漫画家になっても成功はしない。

受験勉強の代わりに漫画を選んだのが1960年代でしょ。あれとは違うよ。

2020-12-11

anond:20201210121639

9月記事著作アメリカの根幹にある「実力主義批判新聞記事用にしたものらしい。

要約

バイデンアイビーリーグ出身ではないことは、近年労働者階級からの支持されるのに苦心していた共和党が勝つ要因になるかもしれない。そして彼の経歴は、現代リベラリズム規定する meritocratic political project を再考するよう促すだろう。現代アメリカ実力主義学歴重視と強く結びついていて、アメリカ成功するためには学歴を得るしかない。そのため、実力主義という考えは、「高学歴でなく、経済的成功していない人は、自業自得である。」という考えと表裏一体である高学歴人物教育水準の低い人に偏見を持つことは、研究調査でもあきらかにされており、加えて当人たちはその偏見を当然のものとしている。

議会構成比に話が飛ぶ。アメリカ人の2/3が大学卒でない一方、議会の成員のほとんどが学部卒以上であり、ブルーカラー経験した人物ほとんどいない。数少ない大学卒が議員となり、多くの非大学卒たちを統治しているのが現状であるテクノクラートによる統治だけでいいか直ちに疑問が生じるだろうし、個人のcivic virtueはエリート大学に入る能力との相関はほとんどないことが歴史上示されている。

結論部は省略する。だから自分の書いたことだけななめ読みしてあーだこーだいうのは不毛だと思う。

At the heart of this project are two ideas: First, in a global, technological age, higher education is the key to upward mobility, material success and social esteem. Second, if everyone has an equal chance to rise, those who land on top deserve the rewards their talents bring.

But the politicians espousing it have missed the insult implicit in the meritocratic society they are offering: If you did not go to college, and if you are not flourishing in the new economy, your failure must be your own fault.

サンデルの主張と他人研究の紹介部分が区別できていない人がいるけれど、翻訳部分自体ほとんど研究紹介と歴史的事実だから、これ自体サンデル発言として取り出すことは難しい。

自身の主張を知りたいなら、(必要ならDeepLなど機械翻訳使って)元記事を読むべき。結論部分だけなら、 'Some might argue that' 以下から読むと短くていいのではないか


英語で気になった部分

勉強になるので、なにかあれば教えてください。

By 2016, many working people... : このbyは「~まで」のby?それ以降ぱたりと、見下される感覚に悩まされることがなくなったわけではないだろうから調査がいつまで行われたのかと関連しているのか?

At a time when racism and sexism are out of favor (discredited though not eliminated) : (これらの差別は)信憑性がないと示されたが、しか排除されるまでには至っていない

credentialism is the last acceptable prejudice. :この時代において、学歴偏重主義は最も容認できない偏見である

By the 2000s, citizens without a college degree were... :このbyも。そして21世紀か、2000年代。 1970s~2000sまでが締め出されていた時期で、とすると後ろの「この五年間改善傾向にない」と矛盾するような。

Although the well-educated have always been disproportionately represented in Congress, :高学歴層はつねに実際の人口比よりも多く選出されてきたが。

as recently as the early 1960s, about one-fourth of our elected representatives lacked a college degree. : 1960年代までは。

Over the past half-decade, : 過去5年。このover自分意味がとれない。ここ5年間かけて(over)、race, ethnicity and gender比率は適正へ向けて改善傾向にあるが、学歴階級については多様性が失われたということでいいのか?なぜ5年なのか文脈がわからない。トランプ政権対応?50年と読んだほうが前後はつながりそうにみえる。

2020-12-10

サンデル教授エリート人種性差別非難するが、低学歴者への否定的な態度は恥ずかしいと思っていない」

Disdain for the Less Educated Is the Last Acceptable Prejudice

https://www.nytimes.com/2020/09/02/opinion/education-prejudice.html

より一部訳

重要なことは殆どアメリカ人3分の2近く)が4年制大学学位を持っていないということである。彼らの悩みの原因は不十分な教育にあると労働者に言うことによって、エリート (meritocrats) は成功と失敗とを道徳化し、知らず知らずのうちに学歴偏重主義を広めている―大学学位を持っていない人々に対する陰湿偏見を。

学歴偏重主義者 (credentialist) の偏見は、エリートによる傲りの症状である2016年までに、多くの労働者高学歴エリートたちが自分たちを見下しているという苛立ちを感じていた。この訴えには根拠がないわけではない。調査研究は、多くの労働者階級有権者直感裏付けている;人種差別性差別が好ましいとされない(排除されはしなくとも信用はされない)時代にあって、学歴偏重主義最後まで残る偏見である

アメリカ合衆国ヨーロッパでは、他の嫌われがちな集団 (disfavored groups) に対する偏見よりも、教育水準の低い人々に対する軽蔑は、より顕著であるか、あるいは少なくともあっさり認められている。アメリカイギリスオランダベルギーにて実施された一連の調査のなかで、 Toon Kuppens 率いる社会心理学者のチームは、大学教育を受けた回答者は、他の嫌われがちな集団に対する偏見よりも、教育水準の低い人々に対して、より偏見があることを発見した。この研究者たちは、典型的被差別者とされるさまざまな人々に対する態度を調査した。ヨーロッパでは、このリストにはイスラーム教徒貧困者、肥満視覚障害者低学歴の人々が含まれていた;アメリカでは、このリストにはアフリカ系アメリカ人労働者階級が含まれていた。これらすべての集団のなかで、低学歴者はとりわけ嫌われていた。この研究では、大学教育を受けたエリートたちによる教育水準の低い人々に対する軽蔑的な見解を明らかにしただけではなく、エリートたちがその軽蔑を恥ずかしいと思っていない (unembarrassed) ことも発見した。彼らは人種差別性差別については非難するかもしれないが、しか教育水準の低い人々に対する否定的な態度については弁解しないのだ。

2000年代になると、大学学位を持たない市民は見下されるだけではなくなった;アメリカ西ヨーロッパでは、彼らはほとんど公選職に居場所を失うようにもなった。アメリカ議会では、下院議員の95%と上院議員100%大学卒業している。資格を持つ少数の人々が、資格を持たない多数の人々を統治するのだ。

これまでも常にそうだったわけではない。十分な教育を受けた人々は常に議会で不釣り合いに代表されてきたが、最近では1960年代初頭には選出された議員の4分の1が大学学位を持っていなかった。過去半世紀の間に、議会人種民族性別に関しては多様化したが、学歴階級に関してはそうではなかった。

学歴分断の一つの結果として、公選職に就く労働者階級が極めて少数であることがある。アメリカでは、労働力人口の約半数が、肉体労働サービス業事務職定義された労働者階級仕事従事している。しかし、選挙前にそのような仕事従事していた下院議員は2%にも満たなかった。

2020-12-09

バカでもチョンでも」は本当に朝鮮人意味しないのか?

バカでもチョンでも」という慣用表現における「チョン」とは「朝鮮人」を指す差別用語である――

という言説に対し、

バカでもチョンでも」における「チョン」朝鮮人のことではない――

とする反論がなされて、いまではそれが定着している。

頭が悪い人に対する「ちょん」という蔑称江戸時代から存在しているので、朝鮮人に対する蔑称とは別物だ、というのがその主張である

まず、その頭が悪いという意味での「ちょん」の語源はどう語られているのか、と調べてもはっきりしない。

拍子木の「ちょん」という音に由来する説と、「ゝ(ちょん)」という踊り字に由来する説とが一応あるが、それがどうやって「頭が悪い」という意味になったか説明曖昧である

公益役職などにおける役務を帳票に記す際、筆頭名主は役職名と姓名を記したのに対して、筆頭以下の同役に対しては「以下同役」の意味で「ゝ(ちょん)」と略記したうえで姓名を記したことに由来し、「取るに足らない者・物」を意味した。

などとWikipediaに書かれていて多少の納得感があるが、これは定説にはなっていないようである

一方で「ちょん」の最古の用例として挙げられるのが、仮名垣魯文の『西洋道中膝栗毛である

ちょん

[名]

4 俗に、頭の悪いこと。また、おろかなこと。

「ばかだの、―だの、野呂間だのと」〈魯文・西洋道中膝栗毛

しかし、「ちょん」の用例が、明治三年の『西洋道中膝栗毛』よりも遡らないのであれば、そもそも江戸時代からあったとする話は怪しいのではないか

西洋道中膝栗毛での実際の表記は「馬鹿だの豚尾だの野呂間だの」で、「豚尾」に「ちょん」という読み仮名がついており、これは明らかに当て字である

拍子木」とも「ゝ」とも関係はなさそうである

豚の尻尾中途半端に短いので「半端者」という連想なのか。

仮名垣魯文造語ではないのかという疑念も浮かぶ

あるいは「豚尾」と言えば中国の辮髪を意味する。

日清戦争明治二十八年)の頃には、中国人の蔑称として「豚尾」「豚尾漢」などが使われていたらしい。

明治三年の時点で「豚尾」と「中国人」が結びついていたかは定かではないが、仮に「チョンは朝鮮人ではなく中国人の蔑称だった」なんてことになるとややこしさが極まってくる。

あるいは、「バカでもチョンでも」という表現は、明治大正の頃でさえ広まっていなかったのではないか、という疑問もある。

調べてみても『西洋道中膝栗毛』の他に同時代の用例は出てこない。

Google Booksなどで検索してみても、どうも広く使われるようになったのは昭和に入ってからだという感じがする。

一方で、朝鮮人「チョン」という蔑称で呼ばれるようになった時期はいつごろだろうか。

こちらの時期もはっきりとしないが、戦前に遡ることは確実である

となると「バカでもチョンでも」が広まった時期と「朝鮮人=チョン」が広まった時期とが接近してくることになる。

朝鮮人のことを「朝公(あさこう)」と呼んでいたのが「チョン公」となり「チョン」となった、というのが一応の定説である

が、頭が悪いという意味の「ちょん」と掛けて朝鮮人のことを「チョン」と言うようになったという説もある。

そうであれば無関係どころかがっつり関係している気がするが…。

1960年代自動露出コンパクトカメラが発売されて「バカチョンカメラ」と呼ばれるようになった(ただしこれはVacation Cameraの日本語読みという説もある)。

一種流行語のように気軽に「バカチョン」と言われるようになったのはこれ以降である

それから1975年には三笠宮崇仁親王が言った「バカチョンカメラ」が差別用語とみなされて抗議を受けたという。

以降、散発的に抗議が起こり、「バカでもチョンでも」は差別用語である、とする認識1980年代形成されていった。

バカでもチョンでもは朝鮮人のことではない」といったカウンターが盛んに言われるようになったのは1990年代からか。

以上から、「バカでもチョンでも」のチョンはやはり朝鮮人のことであった…などと強弁するつもりは、もちろんない。

ここで言いたいのは「『ちょん』という蔑称江戸時代から存在していて朝鮮人に対する蔑称とは別物だ」という主張は怪しいぞということだ。

  1. 頭が悪いという意味の「ちょん」の由来はなにか
  2. 頭が悪いという意味の「ちょん」はいつごろから広まったのか
  3. 朝鮮人蔑称である「チョン」の由来はなにか
  4. 朝鮮人蔑称である「チョン」はいつごろから広まったのか

これらを明らかにしないかぎり「バカでもチョンでもは朝鮮人意味しない」とは断言できないだろう。

日本現代音楽も、様変わりしてきた。

2020年日本日本音楽大学教員勢も国際コンクール組が主流となり、学生たちの人権は大いに向上したと思われる。しかし、目に見えないところで、少しづ知的水準劣化は進んでいる。

まだNHK-AM第1でアルフレド・デ・アンジェリスのタンゴ放送されていた当時、日本は極貧国家だった。小平邦彦さんは「日本大学生の質が劣化した」と喝破していた。けれども、彼の世代大学に行けるのが7%で、喝破当時14%なのだから当たり前である小平さんはそんな統計データにも気が付かなかったのだが、自分が正しく自分以外はすべて間違いだと錯覚している日本人は珍しくない。今でも日本田舎地方は、自分が正しい人たちでいっぱいだ。

その極貧国家高卒で国際コンクールグランプリの取得に成功した人物が、武満徹さんであった。彼がグランプリを取得したことで、現代音楽学歴関係ないと錯覚する人物が多く出たのだが、そのおかげで注目してくれるスポンサーが大量に見つかったのだから結果的には好都合であった。ミルトン・バビットさんはピッチクラスセット理論を開発していたが、そんなことに気が付く日本人は今とは比べ物にならないほど少なく、日本人の娯楽は酒と風俗パチンコたばこしかなかった。「低学歴何が悪い!」が、通ったのであるピッチクラスセット理論といっても、ここにいる増田の何人に通じるだろうか?

そんな日本新幹線授業や新数学のおかげで教育熱が盛り上がり、教育ママゴンなる単語が出現した日本ではピアノブームが起きたが、相変わらず日本勢は国際コンクールで敗北の日々であった。園田高弘さんは1980年ルービンシュタイン国際ピアノコンクール審査員席で、怒られたらしい。日本勢は何をやっているのかと。もう少しましに弾けと。それはそのはずで、ピアノやらせている親はお金のある中卒か高卒なので、教養の質はいきなり向上できないのである。金は持っていても、無教養だよねえ日本人ってという言葉が40年前のヨーロッパではよく飛んだ。

その当時の日本ではピアノブームはあっても作曲ブームなんてものは全く存在しなかったので、作曲専攻は大いに肩身が狭かったと思われる。当時作曲科の受験和声法、対位法フーガソナタを18歳で全部完クリしなければならず、そのためのレッスン費用バカ高くなる。この間世間を騒がせた道央増田には想像もできない世界であるが、それでも片道5時間でレッスンを受けた人物大勢いたのである。片道5時間程の悲劇ではない普通の家から作曲家としてダッラピッコラ国際作曲賞に輝いたのが西村朗さんであり、片道5時間レッスンを拒否して自称独学の作曲家になったのが、ルトスワフスキ国際作曲賞の江村哲二さんである。独学といっても、彼は各種国際マスタークラスに参加しているので、厳密には違う。

ルトスワフスキ国際作曲賞の江村さんの受賞作とダッラピッコラ国際作曲賞の西村さんの受賞作を、お聴きの増田はいるだろうか?おそらくいないはずだ。日本知的水準劣化はもうこの時に始まっていた。劣化が始まると、始めた人物が急に偉そうな態度をとるようになり、それが多数決になった瞬間に文化崩壊する。

現代音楽の様変わりが始まったのは日本に関する限り1990年代で間違いがないが、二極化が進行していた。東京藝術大学を出ても調性音楽しか書けない連中から高校大学飛ばしヨーロッパ在住10年組になってまで国際コンクールタイトル奪取を心掛ける者とに、分化が始まっていた。なぜこのような分化が始まったのかはわかっていないが、1980年代のフリードリヒ・ホンメルさん時代ダルムシュタット講習会がもうジェイムズ・ディロンさんやクリス・デンクさんやリチャード・バーレットさんやカイヤサーリアホさんやアレッサンドロ・メルキオーレさんを擁するレヴェルであったため、日本人の知的水準では理解できないところにまで遠くなってしまったのが大きかったのではないだろうか。

長髪のディロンおじさんがクラーニヒシュタイナー音楽賞を獲った曲ってなんだったっけ?Parjanya-Vataだよね。これを弾けるアジア人チェリスト2020年現在、まだ存在していない。もう40年前のチェロ独奏曲だが、もう日本人では弾けないだろう。40年前の音楽すら消化できないのが、日本チェロ業界である

2000年代に入ると、日本現代音楽報道ほとんどしなくなり、藤倉大さんや望月京さんのようなヨーロッパ在住10年組の応援だけはNHKTBSでやる、いびつ国家になった。武満徹さんがもしも生きていたら、このような偏向報道に異を唱えたであろうが、もう遅かった。日本はいくら知的水準劣化しようが、自分の頭だけが大事で、他はもうどうでもよいのだ。私は「それは仕方がない」という立場に立つことはできない。日本人が今のロシア人のように、すべての領域で国際コンクールを制覇する程の教育底力があるのであれば私は折れるが、今の日本人はガチ勝負して来いといわれると一発で刎ねられるのだ。

そのガチ勝負典型例が今年のブゾーニ国際の予備審査ロシアのNew Classics国際の譜面審査ではないだろうか。私の想定の範囲内だったが、日本人は全員落ちた。これに危機感を持てないようでは、どこの分野でも日本人は早晩通用しなくなるだろう。そして、2030年代は、落ちる人も通る人も、すべてが中国勢にとってかわるのである

落ちてもいいという増田もいるだろう。しかし、落ちてもいいが多数派になったとき日本知的水準1960年代に逆戻りし、だれが何をやってもうまくいかないという未来が待っているはずである。まだ日本ヨーロッパ在住10年組でかろうじて最先端についていけているが、10年後はこれができなくなるはずである。今の日本大学生はMusik-Konzepteも読まないし、Perspectives of New Musicも読めない。鬼滅の刃は読めるらしいが、いったん劣化した知性は、元に戻ることがないのである道央増田のような人材放置し続けた結果が、日本の今の現代音楽である東京が腐ると地方も腐り、田舎も腐る。

2020-12-08

anond:20201031120336

主観を避けて、客観的分析してみたいと思う。

この増田道央出身1990年代まれであれば、おそらく1985年から1996年までの東大入試のことは何も知らないに違いない。

東大といっても、1960年代1990年代2020年代では全く以て意味が違う。ネット上に大量にアップロードされているので、時間があれば1985年から1996年入試までの東大理系数学問題を読んでみるとよいだろう。後期のいくつかは、完答を想定していないのではないかと思わせるものもあった。

かつての東大生ならedition text+kritikのMusik-Konzepteを読めたのである。これは嘘ではない。実際に読んでいた東大生が私の知人で、名前は伏せさせていただくが、その方は還暦を過ぎた。今の東大生はどうだろう?櫻坂46を聴くのが関の山ではないだろうか?

いま、Musik-Konzepteの近刊はなんだろうか?各自検索してみればよいだろう。そこで取り上げられている存命作曲家ほとんどを、もう日本人は消化できない。日本は没落したのだ。

東大日本最高の最高学府で、なおかつ日本最高のエリートを揃えることができたのは1990年までだ。それ以降は下る一方でしかない。下っていけば、道央増田ですら乗り越えられるハードルになるのは当たり前である。あと30年たつと、東大でも吹奏楽合唱トライするのが限度で、フルオーケストラは書けなくなる可能性が極めて高い。新実徳英さんや柴田南雄さんは、かつて、書けた東大生であった。

東大がどこまで下るのかは東大生の間でもわかっていないが、日本新生児が60万くらいになるまでは下るだけの存在である。上ることはない。

これは田舎だと普通にある話だが、楽器のレッスンの片道数時間は当たり前であるピアノのレッスンに片道5時間なんてことをやっていた私のような存在も、もう過去のものになりつつあるし誰も信用はしないだろう。途中下車で降りて、駄菓子屋さんによってお菓子を買うなんてことをやっていた。その土地にはコンビニがまだなかったのである

2週間の滞在のためのビザを取るのに片道4時間30分もやったことがある。特殊ビザなので、渡航地域限定されてしまうが、各自で察していただきたい。

何をするにも片道数時間経験を持つ学生は、有能な人が多い。最近は、片道数時間教員もいる。その方は、退官されたが優秀な方であった。道央増田も、文面を読む限り優秀な方であることは間違いがない。専門書をバイトして買う、というのが引っ掛かったので、いろいろと調べてみたが、ハーツホーン、松村マックレーン、ジェイコブソンあたりなのかもしれない。(ゲルファントではないだろう)

この道央増田の怒りを鎮めるには、東大よりレヴェルの高い大学を作るしか方法がないのだが、日本にそのような財力は、ない。いずれ理III以外の東大生の学力は、2040年代には全ての地方大学医学部学生能力を下回るだろう。2020年代末期の理III以外の偏差値は、おそらくは単科医科大のすべてを下回っている。

今の学生は与えられたことはきっちりやってくるものの、それ以外が全くないので、国際競争に耐えられるかどうかは疑問である1990年までの東大は、賛否両論はあれど、何とか耐えられたのである

(追記 20.12.2020)

今、人口統計を調べてみたら、この道央増田出身地より、私の出身地の人口のほうが少なかった。これは調べるまで分からなかった。ただし、交通網は私の出身地のほうが勝っているため、バス電車目的地に着くことは当然ながら容易である

道央増田出身地近辺を調べてみると、私の出身地近辺も同様の問題が発生していた。

まず「潰れる本屋である。私のところは4軒もつぶれて、2軒の新規が入ってきたが、品揃えは元に戻らない。大学生を想定する書籍は今もなお少なく、元通りにならなくなってしまったジャンルもあった。

その次は「教育水準の低下」だ。大学進学率が上がっているのに下がることなどあるのだろうか?田舎ではこれは頻繁に起きている。私の中学校の進学率は、全盛期の1/10である。ここまで減ることは想定していなかった。

(追記 21.12.2020)

教材格差講義格差がなければ、田舎地方児童はどこまで飛びあがるのだろうかという問題は、実は1990年代から提起されている。1990年の時点では「どうやっても田舎者や地方人が勝利することなどない」という主張で世論は一貫していたが、この問題危惧する教育者はもういた(一部の東大生が杉浦の解析入門を読めなくなったため)。2035年には、この問題が表面化しているに違いない。

(追記 22.12.2020)

私は愚痴るだけの人間ではないので、解決策を挙げておく。国内の全ての公立学校に、偏差値クラスの併設を義務付けることではないだろうか?昭和時代なら一笑に付されたのだろうが、今はYoutube配信された映像Raspberry Pi 400で視聴することが日本国内ではどこでも可能である。これなら、通学2時間に耐える必要はない。

(追記 03.01.2021)

北海道の某道央バス会社はちゃんと行きと帰りでしっかりと2つバス停を用意してくれている。これは素晴らしい。私の故郷はもうそれもできなくなってしまい、片側に1つあるだけだった。

2020-12-03

anond:20201203213020

1960年代はまだ風呂入らん奴多かったぞ

女の人も頭バリバリかいて痒い痒いいうてた

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