はてなキーワード: 果たしてとは
現在も隆盛を極めるリズムゲームのルーツ…のひとつであるビートマニア。
(もちろん、1年先にリリースされたパラッパラッパーの方が「すべての音楽ゲームのルーツ」だが、
「上から降ってくるオブジェクトに合わせてボタンを押す」フォーマットを完成させたという意味では直接のルーツにあたる)
その第1作に、最高難度を誇るいわゆる「ボス曲」として収録されて人気を博した「20,november」。
ただ闇雲に難しいわけではなく、「曲を覚えて、メロディやリズムを理解し、練習を重ねれば攻略できる」という絶妙な難度で音楽ゲームの楽しさを世に知らしめた点でもその功績は大きい。
(ちなみに、曲名の「11月20日」は作曲者の DJナグレオ こと 南雲玲生の誕生日である)
ビートマニアの象徴ともいえる存在で、数多くのバージョン違いも作られた。
本エントリではそれを紹介する。
(収録されたゲームやCDによって曲名、アーティスト名ともに表記ゆれが多い(カンマの後のスペースの有無、大文字/小文字など)が、基本的にそのバージョンの初出での表記にしている)
https://www.youtube.com/watch?v=RMNtlYObHCw
初代 beatmania (1997) 収録の 元祖 20,november。
……なのだが、「20,novem v er」と盛大に誤字をやらかしている(もちろんその後のバージョンでは修正されている)。
ジャンルは「HOUSE」。曲名ではなく、こちらで覚えている人も多いかもしれない。
https://www.youtube.com/watch?v=4XX2BdNtJyU
同じく初代 beatmania 収録。single mix とは曲構成が異なる。
2人プレイ、もしくはダブルプレイ(左右の鍵盤とターンテーブルを1人で操作するモード)だとこちらのバージョンになる。
https://www.youtube.com/watch?v=YR3oKco-Xp8
3作目「beatmania 3rdMIX」(1998) で追加された、いわゆるアナザー譜面(オブジェクトの配置を変えて高難度化したバージョン)。縦連がいやらしい。
初出の 3rdMIX ではゲーム内に「nagureo kidding style」の表記はなく、後のバージョンで追加された。
https://www.youtube.com/watch?v=v0N_fHRgdJM
同じくアナザー譜面。鍵盤の数が 5つから 7つに増えた姉妹作、 beatmania IIDX の 1.5作目「beatmania IIDX substream」(1999) で登場。
substream と「beatmania IIDX 2nd style」(1999) の 2バージョンにしか収録されておらず、家庭用への移植版でも遊べないレア譜面。
https://www.youtube.com/watch?v=Qmu7nL3pH6g
こちらもアナザー譜面。第7作「beatmania completeMIX 2」(2000) で追加。
completeMIX 2 を含む一部のバージョンと 一部の CD では、アーティスト名義が「n.a.r.d.」や「N.A.R.D.」になっている。
https://www.youtube.com/watch?v=pEFg3EMWAFU
第4作「beatmania completeMIX」(1999) に収録されたリミックスバージョン。
それに伴ってジャンルがオリジナル版の「HOUSE」から「HARD HOUSE」に変更。
オリジナルの 20,november のロング版は存在しないが、この hard mix のロング版は beatmania 4thMIX のサントラに収録されている。
https://www.youtube.com/watch?v=lPOU2pmzvnY
第9作※「beatmania CORE REMIX」(2000) に収録された、西脇辰弥によるリミックスバージョン。
ボーカルが新録され、オリジナル版よりも生っぽい音作りになっている。
(※「beatmania featuring DREAMS COME TRUE」(2000) は番外作として、ナンバリングに含めなかった場合)
https://www.youtube.com/watch?v=QJd9NbQrVv4
「DanceDanceRevolution 2ndMIX」(1999) に収録されたリミックスバージョン。
2ndMIX では STEP BATTLE という特殊なモード専用の曲だったが、3rdMIX 以降では通常のモードで遊べるようになった。
リミキサーは NAOKI こと 前田尚紀。オリジナルにあったボーカルは使われておらず、FINAL EDIT とは対照的にシンセが強調されている。
ちなみに DDR にはオリジナルの方の 20,november も移植されている。
https://www.youtube.com/watch?v=QLlHi1uioBk
PS版「beatmania APPEND GOTTAMIX」(1999) に収録。
人気の 4曲をメドレーにしたトラック。20,november はそのトリを飾っている。
他の 3曲は e-motion (RAVE)、LOVE SO GROOVY (SOUL)、La Bossanova de Fabienne (BOSSA GROOVE)。
MCは、発売当時「HEY! HEY! HEY!」でおなじみ……だった 武居 “M” 征吾。
ttps://www.youtube.com/watch?v=K8wpyrpi3jc
このバージョンのみ、ゲームに収録されたものではなく、CDのために作られたリミックス。
5鍵ビートマニア最後のベストアルバム「beatmania THE BEST PROMINENT」(2003) に収録。
……なのだが、原曲の面影がほとんどない。果たしてこれを 20,november と呼んでもいいのか…?
リミキサー名でググってもほとんど情報がない。一説には、ナグレオ自身が手掛けたとも言われているが…
非公式なリミックスはおそらく無数にあるんだろうけど、今回は公式縛りにした。
10個で足りないくらいバージョン違いが多いかと思ってたらそこまででもなくて、ぶっちゃけアナザー譜面で数を埋めたのは否定できない…
もっと足りなかったら、ビーマニポケットの音源 (ttps://www.youtube.com/watch?v=51BPfKfzpAw?t=250 ) とか、
いちおう非公式だけど半公式…?みたいな Hommarju Remix ( ttps://www.youtube.com/watch?v=oCSO1iZg98I ) とか、
曲名が似てるだけで全然別の曲の「19,November」( ttps://www.youtube.com/watch?v=XhPq3NOYRnw ) でお茶を濁そうかとも考えてたけど、それはせずに済んだぜ。
己がロリ、いやぺドと言っても過言ではなかった頃から約15年。性的対象が12~15歳の男児で固定されている化け物になってしまった。今や立派なショタコン、性犯罪者予備軍である。
二次元のショタには飽き足らず、道行く中学生に胸が踊る。流石に3次元の児童ポルノに手を出したことはないが、AI絵と実写の間にどれほどの違いがあるのだろうか。
薄氷のように脆い倫理観だけが、辛うじて私を健常者たらしめている。むしろ絶世の美女でもない成人女性の自分が健全な少年の性癖を曲げたいだなんて烏滸がましいことを考えてはいけないという自意識の方がいくばくか貢献している節さえある。
そんなどうしようもないショタコンの私だが、一般的な成人女性として成さねばならぬことがある。男女交際だ。成人女性たるもの、誤差3~5歳程度の、かつ高校卒業以上の男性との交際経験の1つや2つなくてはならない。
選り好みは特にしなかったが、他人に言っても恥ずかしくない、高身長で学歴も同程度、就職先もまずまずのところに内定を貰っている彼氏をこさえた。安臭い虚栄心を満たすために承諾した身なので多少の罪悪感はあるが、今のところそれなりに彼女としての義務を果たしているはずだ。
しかし交際を重ねるにつれて、問題が表出し始める。ウェットな空気に耐え難い拒絶反応があるのだ。
デカい男の性衝動に対してシンプルに恐怖しか感じない。私は格闘技のプロでも何でもないのだから、向こうがその気になれば抵抗して無事ではいられないだろう。
加えて、私はどちらかと言うと甘えさせてあげたいタイプなのだが、自分より一回りも二回りも大きいTHE成人男性に甘えられると怖気が走る。可愛い子猫ちゃんを抱きたいのであって、ライオンに甘噛みされたい訳ではない。というか力関係として不自然すぎる構図でオキシトシンも何もあったものではない。
もう一つの問題として、シンプルにショタコンを拗らせすぎていて高身長の男の筋張った大きな身体に興奮できない。というかここが一番問題である。不細工でなくて爆乳のお姉さんならある程度無理矢理犯されてもそんなに苦痛ではない、と言い換えれば共感していただけるのではなかろうか。性的対象として見ることが出来れば一応の問題はなくなるはずなのだ。
ショタとポルノの結び付きが私の中で強固になりすぎた結果、自分より目線の低い男性の8割くらいにヲホ~と鼻の下を伸ばすようになってしまっている。パブロフの犬、いや低身長の雌だ。私は低身長ではないが。
流石にオッサンとか不潔な感じのとかは除くが、一般男性における巨乳と同じ感じで低身長が性的なものとして意味付けされている。
もちろんショタと低身長は似て非なるものだ。だがロリものと謳った大人顔の貧乳成人女性のポルノを我々は喜んで見る。犯罪に手を染めないために代替物に手を出すのは別に悪いことではないと思う。
何が言いたいのかというと、低身長の男に乗り換えれば問題は解決すると考えられる。巨乳じゃないと勃たないから乗り換えると言っているのと同じくらい最低なのだが、勃たないものは仕方ない。私の場合幸いにも世間の需要と逆行する形になるので、巨乳探しのような熾烈な競争に打ち勝つ必要はなさそうだ。
そう思いながら男探しを始めると、男性の高身長信奉は女サイドから見たそれより熱烈であることに気付いた。マッチングアプリなんかでは大抵の男性は身長をいくらか盛っているし、低身長の男は長年のコンプレックスのせいか自己肯定感が低い傾向にある。(女の巨乳と違って、スポーツなんかでもデメリットになるからコンプレックスが強固になるのも頷ける)ついでに高身長の男はチー牛でも謎に上から目線な奴の割合が高い。骨が長いだけで偉そうに、お前の努力じゃないだろ。まあお前の巨乳もお前の努力じゃないだろと言われてしまえばそこまでなのだが。
話が逸れたが、自己肯定感があまり高くないせいか、低身長男は恋愛市場にそもそもあまり出回っていない。出会ったとしても、私のような受け身の女に博打でアプローチするような人は低身長でない人に比べて少ない。
低身長好きアピールでもすればいいのだろうか。俺は貧乳の方が好きだよとかわざわざ言っている男くらい気持ち悪いと思うので言わない方がいいと思うのだが。
今は縁があるのを仄かに期待して、身長にコンプレックスがあった場合にそれを刺激せず、むしろ包む方向で行きつつ低身長を味わうための方策を考えて、もとい妄想している。
己がロリ、いやぺドと言っても過言ではなかった頃から約15年。性的対象が12~15歳の男児で固定されている化け物になってしまった。今や立派なショタコン、性犯罪者予備軍である。
二次元のショタには飽き足らず、道行く中学生に胸が踊る。流石に3次元の児童ポルノに手を出したことはないが、AI絵と実写の間にどれほどの違いがあるのだろうか。
薄氷のように脆い倫理観だけが、辛うじて私を健常者たらしめている。むしろ絶世の美女でもない成人女性の自分が健全な少年の性癖を曲げたいだなんて烏滸がましいことを考えてはいけないという自意識の方がいくばくか貢献している節さえある。
そんなどうしようもないショタコンの私だが、一般的な成人女性として成さねばならぬことがある。男女交際だ。成人女性たるもの、誤差3~5歳程度の、かつ高校卒業以上の男性との交際経験の1つや2つなくてはならない。
選り好みは特にしなかったが、他人に言っても恥ずかしくない、高身長で学歴も同程度、就職先もまずまずのところに内定を貰っている彼氏をこさえた。安臭い虚栄心を満たすために承諾した身なので多少の罪悪感はあるが、今のところそれなりに彼女としての義務を果たしているはずだ。
しかし交際を重ねるにつれて、問題が表出し始める。ウェットな空気に耐え難い拒絶反応があるのだ。
デカい男の性衝動に対してシンプルに恐怖しか感じない。私は格闘技のプロでも何でもないのだから、向こうがその気になれば抵抗して無事ではいられないだろう。
加えて、私はどちらかと言うと甘えさせてあげたいタイプなのだが、自分より一回りも二回りも大きいTHE成人男性に甘えられると怖気が走る。可愛い子猫ちゃんを抱きたいのであって、ライオンに甘噛みされたい訳ではない。というか力関係として不自然すぎる構図でオキシトシンも何もあったものではない。
もう一つの問題として、シンプルにショタコンを拗らせすぎていて高身長の男の筋張った大きな身体に興奮できない。というかここが一番問題である。不細工でなくて爆乳のお姉さんならある程度無理矢理犯されてもそんなに苦痛ではない、と言い換えれば共感していただけるのではなかろうか。性的対象として見ることが出来れば一応の問題はなくなるはずなのだ。
ショタとポルノの結び付きが私の中で強固になりすぎた結果、自分より目線の低い男性の8割くらいにヲホ~と鼻の下を伸ばすようになってしまっている。パブロフの犬、いや低身長の雌だ。私は低身長ではないが。
流石にオッサンとか不潔な感じのとかは除くが、一般男性における巨乳と同じ感じで低身長が性的なものとして意味付けされている。
もちろんショタと低身長は似て非なるものだ。だがロリものと謳った大人顔の貧乳成人女性のポルノを我々は喜んで見る。犯罪に手を染めないために代替物に手を出すのは別に悪いことではないと思う。
何が言いたいのかというと、低身長の男に乗り換えれば問題は解決すると考えられる。巨乳じゃないと勃たないから乗り換えると言っているのと同じくらい最低なのだが、勃たないものは仕方ない。私の場合幸いにも世間の需要と逆行する形になるので、巨乳探しのような熾烈な競争に打ち勝つ必要はなさそうだ。
そう思いながら男探しを始めると、男性の高身長信奉は女サイドから見たそれより熱烈であることに気付いた。マッチングアプリなんかでは大抵の男性は身長をいくらか盛っているし、低身長の男は長年のコンプレックスのせいか自己肯定感が低い傾向にある。(女の巨乳と違って、スポーツなんかでもデメリットになるからコンプレックスが強固になるのも頷ける)ついでに高身長の男はチー牛でも謎に上から目線な奴の割合が高い。骨が長いだけで偉そうに、お前の努力じゃないだろ。
話が逸れたが、自己肯定感があまり高くないせいか、低身長男は恋愛市場にそもそもあまり出回っていない。出会ったとしても、私のような受け身の女に博打でアプローチするような人は低身長でない人に比べて少ない。
低身長好きアピールでもすればいいのだろうか。俺は貧乳の方が好きだよとかわざわざ言っている男くらい気持ち悪いと思うので言わない方がいいと思うのだが。
今は縁があるのを仄かに期待して、身長にコンプレックスがあった場合にそれを刺激せず、むしろ包む方向で行きつつ低身長を味わうための方策を考えて、もとい妄想している。
何ヶ月もまえから決まっていた予定で、グッズ代に交通費お金も沢山かけた。
明後日にも同じ現場に行く、全通というものではないが違う日付を取れたから行くのだ。一緒に来た友人とは明後日もよろしくね、楽しみだね、と言って別れた。
楽しかった、夢のようだった。この瞬間のために働くしそのためにはなんだってしたいと思った。また行きたい、この趣味を絶対にやめたくないと思った 。
だがしかし明日は姉の結婚の結納があるため、早くかえって眠り準備をしなければならず現実に引き戻されていという状況だ。
基本的に楽しい時間を過ごしたあと、次の日は仕事や普段の日常に戻るものだから、みんな同じような気持ちを抱えるだろう。
私は今後、この趣味を続けていけるのか、そもそもそも分不相応な趣味ではないのか、この場所には二度と行かない方が良いのではないかと思っているのだ。
私は現在25歳で実家暮らしだ。家に5万家賃として払っているが、家事の多くを母に任せているし貯金もほぼない、むしろ自転車操業だ。自立とは程遠い甘ったれである。
5歳上の姉は結婚をして家庭を持つのだ。友人の殆どが彼氏持ち。今日一緒に現場に行った友人もそうだ。
そう、私だけが彼氏もおらず、実家暮らしで将来の展望も何も無いまま、余裕もないのにお金をかけて、何も生み出せないまま生きているということに気がついてしまったのだ。
明後日同じ現場に行くし、12月には別の公演のチケットもとってある。お金は支払い済だ。
こんな夢から冷めてしまった状態で、私は一体どんな気持ちで現場に行けばいいんだろうか。
今後のことを真剣に考えれば観劇やライブに行く趣味をやめて、他のことに費やした方がよっぽど有意義だ。
でもまた現場に行ってしまえば、グッズもかってしまい、続編の公演のチケットも買ってしまうのだ。
オタク特有の誇張表現ではなく、本当に麻薬のように辞められない趣味なのだ。
この先私は一体どうすれば良いのだろう、先のことなど全く考えずに楽しさだけ享受すればいいのだろうか。
それか仕事を頑張って給料をあげて観劇やライブに行くような趣味が見合うような人間になるしかない。
他のオタクたち我にかえってしまった時、どのような思いで次の現場にいくのか、果たしてすっぱり趣味を諦めるのか、問いたい。
とにかくこの気持ちを切り替えられるような答えを誰か教えてくれないだろうか。
2. **農民が持っていなかったのは「姓」という主張**
この点も間違いです。農民が「姓」だけを持っていなかったという単純な説明では歴史の複雑さを捉えられません。農民や庶民がどのように名前を名乗り、どのような役割を果たしていたかは時代や地域によって異なり、一概に「姓」だけを持っていなかったという説明は不正確です。
これとか難癖のつけかたがひどいぞ?
1. **「姓」と「氏」と「名字」の違いについて**
確かに「姓」(かばね)、「氏」(うじ)、そして「名字」(苗字)は異なるものですが、その関係性や成り立ちは複雑で、簡単に整理できるものではありません。姓は古代の天皇家や貴族における血統や地位を示すために与えられ、氏も同様に氏族を示す役割がありましたが、時代を経る中で意味合いや使われ方が変わっていきました。名字や苗字は武士階級を中心に広まったもので、農民が持っていなかったわけではありません。
2. **農民が持っていなかったのは「姓」という主張**
この点も間違いです。農民が「姓」だけを持っていなかったという単純な説明では歴史の複雑さを捉えられません。農民や庶民がどのように名前を名乗り、どのような役割を果たしていたかは時代や地域によって異なり、一概に「姓」だけを持っていなかったという説明は不正確です。
「明治政府は農民に苗字をつけた」というのは一般的に正しい理解です。明治時代以前には農民が苗字を持っていなかった場合も多く、名乗ることが禁止されていたケースもありました。明治政府は国民に統一的な制度として苗字を与える政策を進めました。よって、「明治政府が農民に苗字を与えた」という認識は基本的には正しく、この投稿は誤解を招く表現となっています。
4. **「姓尸不称令」について**
「姓尸不称令」は「公用文書に姓を用いない」という布告であり、これは「姓」の廃止を意味するものではありません。また、当時の日本社会における氏名制度の変遷は多岐にわたるものであり、単純に「廃止した」と表現するのは誤解を招くものです。
ふるさと納税の導入を促進した日本の主要な関係者は、自民党を中心とする与党議員や、総務省などの省庁です。ふるさと納税制度は、2008年に総務省が主導して創設されました。目的としては、地方自治体の財政を強化し、都市部への人口集中を緩和することが挙げられます。
• 地域間の財政格差解消: 都市部に人と税収が集中し、地方は過疎化が進んでいるという現状を背景に、地方自治体が税収を得るための方法として考案されました。特に総務省は、地方創生や地域活性化を進めるためにこの制度を設け、地方の財源不足を補完しようとしています。
• 寄附文化の醸成: 自民党を中心に、日本における寄附文化を広めることも一つの狙いでした。ふるさと納税を通じて、人々が自分の出身地や応援したい地域に寄附を行うことで、地方の支援につながる仕組みとする目的がありました。
• 自民党: 自民党議員が地方創生の政策として支援し、法整備を推進しました。地方の活性化を重要視する地方議員も多く、この制度を通じて地方振興の一環として活用されることを期待していました。
• 総務省: 総務省が制度設計とその運営を担当しており、ふるさと納税の実施ルールの策定、改正なども行っています。また、返礼品のルールや適正化についてもガイドラインを設け、制度の円滑な運営を進めています。
3. 課題と調整
ふるさと納税制度は当初の目的を果たしているものの、返礼品競争などにより一部の自治体に偏った税収が発生するなどの課題も生じています。総務省は返礼品の規制や、制度の健全な運営に向けた調整を進めることで、制度の趣旨を維持しようとしています。
ちゃんと物考えて喋る絵師はAIバトルに参戦して信用を失いたくないので黙っている印象。
むしろ絵を描きもしない見る側の奴が絵師の代弁者になって争っているのでもうこれわかんねえな、前まで反AIって自称してた奴に反AIって言ったら激怒されたし何だこれ。呼び方変えたとこで民主党が民進党になるくらいのもんだろ実際。
そもそもネットの話をを鵜呑みにして盆踊りするインターネットデマダンサー以外の絵師はだいたい表に出さないだけで、実物のAI触って何ができるか/できないかの判断がもう終わってるんだよな。
私がAIについて初期からずっと「良し悪しは分からないけど技術は止まらない、筆動かせ」みたいなスタンスだから頑張れば説得できると思われているのか、大して絵を描きもしないのに通話に来て「あなたの絵が盗まれる!」「批判しないとAI推進派だと思われても仕方ないですよ!」みたいな不安を煽る話を作業中に熱弁する人がちらほら居る方がAI問題よりずっとストレスで困る。
熱量のある狂人を出禁にする方が怖いのでアンソロでお世話になった方々のどこかの作業通話に行くか、と思ったら案外周囲にも類似物が居るらしいのでユートピアはあんまり無いらしい。
かなり邪魔なASMR音声だと思いながら適当に相槌で流しているけど、人が集まると湧いてきてAIの話を始めるのが本当にストレスになってしまって最近はAIの話が始まったら作業が忙しいと嘘をついてスピーカーミュートにしている。
AIを使うと冷却する時に異常な高温の水が生まれるから環境は壊れ地球上の水が無くなるとか、海外ではAIが厳罰化されたので日本でももうすぐ実刑になるとか、AI絵師の○○(名前聞いたことすらない)がいかに悪人だとか、AI絵師の実態を見るためにAI絵師のフリをして潜入してとんでもない物を見た!嘘松レポートみたいな話を他の通話参加者の話を遮ってまで発表されている時、わざわざ言わないだけでちゃんと引いているからね。
コンバーターとコーンバター。この二つの言葉は、一見すると無関係な対象を指しているように思われる。しかし、その響きには微妙な共通点があり、現代人に与える感覚的な違いは、文化や歴史の流れを通じて形成されてきた感性の奥底に根ざしていると言える。人間の歴史の中で、技術や食文化の進化と、それらが生み出す美的な感動は切り離せない関係にあり、ここに「コンバーター」と「コーンバター」を媒介とした考察を試みることで、その深奥を垣間見ることができるのではないだろうか。
まず、「コンバーター」とは、一般的には何らかの機能や属性を変換する装置や技術を指す言葉である。電圧を変換する電源コンバーターや、信号を変換するデジタル・アナログコンバーターなど、その用途は多岐にわたり、現代社会を支える根幹を成す技術のひとつとなっている。これに対して「コーンバター」とは、穀物であるトウモロコシ(コーン)から作られるバター、あるいはそれに類する加工品のことを指す。日本においてはそれほど一般的ではないが、北米や南米など、トウモロコシを主食の一部として重要視する文化圏では、伝統的な食材の一つとして親しまれている。
一見、全く異なる二つの概念であるコンバーターとコーンバター。しかし、その歴史的背景に目を向けてみると、人間の知恵と工夫、さらにそこから生まれる美的な感性が反映されていることに気づかされる。コンバーターの登場は、工業化と技術革新によってもたらされた、変換や変容の技術に関する人間の知識の結晶である。これに対し、コーンバターは農業の発展や食文化の進化に密接に結びついている。技術の変換と食材の変換、いずれも人間が生活を豊かにするために築いてきた歴史の一側面であり、そこには特有の美的価値が含まれている。
人間は、常に物質やエネルギー、さらに情報の変換を行うことで、生活の利便性を高めてきた。コンバーターはその象徴的な存在である。例えば、電圧を変換するコンバーターがなければ、さまざまな電化製品を自由に使用することはできない。デジタル信号をアナログに変換することで、音楽や映像をスムーズに楽しむことが可能になる。これらの技術は、もともと無機的で冷たい印象を与えるものであるが、実際にはその内部に「変換」というダイナミックなプロセスを含んでいる点に美しさが宿る。変換の過程は、単なる物理的な操作にとどまらず、情報やエネルギーが形を変えて新たな価値を生む瞬間である。この「変換の美学」は、人間の手によって機械的な装置やデバイスに具現化され、現代社会の中で目に見えない存在感を発している。
一方で、コーンバターには全く異なる美的価値が内包されている。コーンバターは、トウモロコシという自然から得られる素材を加工することで生み出される、食品としての変換の結果である。トウモロコシは、古代アメリカ大陸の文明において神聖視された作物であり、その栽培と加工は生活の基盤を形成してきた。コーンバターもその伝統の一部であり、味や風味の中に先人たちの知恵が凝縮されている。食品としての変換過程は、技術的な効率を追求する工業的な変換とは異なり、味わいや栄養価を最大限に引き出すための工夫が重視される。ここに、人間が生きるために必要とする基本的な欲求と、それを超えて美味しさや楽しさを追求する美的感覚が交差する点が見出される。
また、コンバーターとコーンバターは、それぞれ人間の内面的な感覚にも影響を与えている。コンバーターがもたらす利便性は、私たちの生活を快適にし、さらには新たな表現の可能性を広げている。情報を自由に変換し、自在に操作できるという感覚は、無限の創造力を解き放つものであり、それ自体が一種の「技術の美」であると言える。一方、コーンバターがもたらす味覚の体験は、単なる食欲の充足を超えて、郷愁や安心感、さらには家族や共同体との結びつきといった、人間らしい感情を喚起するものである。口に含むたびに、自然の恵みを感じ、その過程に込められた労働と愛情を味わうことができる。このように、コーンバターは食文化の一端としての「食の美」を表している。
さらに深く考察を進めると、コンバーターとコーンバターの間には、「変換」という共通のテーマがあることに気づく。コンバーターは無機物やエネルギーを変換し、コーンバターは生の素材を加工することで新たな形に変える。この変換のプロセスには、人間が自然や物質に働きかけ、何かを新しい価値へと変える行為が見受けられる。この行為自体に、人間が美を見出してきたのではないだろうか。機械的な変換は冷徹である一方、そこには洗練された精密さや無駄のない機能美がある。これに対して、食品の変換には、温もりや手作り感といった情緒的な美がある。いずれも異なる美意識でありながら、共に人間の手によって完成される過程である。
現代のテクノロジー社会において、コンバーターはほとんどの人々にとって日常の一部であり、存在を意識することなく利用されている。しかし、それが果たしている役割は極めて重要であり、その背後にある技術的な進化は、実に人間の叡智の賜物である。一方で、コーンバターのような伝統的な食品には、技術的な進歩とは異なる価値観が込められている。ここには「不変の美」という要素が存在し、テクノロジーの進化とは対照的な、永遠に続く食文化の美が感じられる。コーンバターを口にするたびに、人々は祖先が歩んだ道を辿り、自然との共生を改めて感じることができる。
このように、コンバーターとコーンバターは、それぞれ異なる形で人間の生活を豊かにし、感性を刺激する存在である。どちらも変換という行為を通じて人間の生活に寄与し、美的な価値を提供している。そして、技術の進化と伝統の継承という二つの相反する要素が、私たちの感覚と美意識に新たな価値観をもたらしている。この二つの対象を比較することで見えてくるのは、人間が創り出す「美」の多様性と、その根底にある普遍的な美意識である。
この問いには、宗教とオカルトの区別が難しいとする疑問と、信仰の合理性や必要性への問いかけが含まれています。これを考えるには、宗教とオカルトの定義や役割の違いを整理しつつ、不合理であるものの意味を深掘りする必要があります。
宗教とオカルトは、どちらも非科学的な領域に含まれる場合が多いですが、いくつかの重要な相違点があります。宗教は一般に、特定の歴史や教義、道徳的価値観、信者間の共同体意識を伴い、社会的に長く受け入れられてきたものです。一方、オカルトは神秘的・超常的な現象への信仰や、個人の体験や啓示に基づく要素が強く、体系的な教義や道徳的基盤がない場合が多いです 。
宗教が「不合理」だという指摘は、科学的根拠の不足や、死後の世界など検証不可能な要素に根ざしています。しかし、人間の行動や価値観には、必ずしも合理性だけが求められるわけではありません。多くの宗教は、死後の救済や幸福感、人生の目的を提供し、精神的な安らぎや共同体の絆を築くための役割を果たしてきました。こうした側面は、必ずしも科学的根拠があるからこそ価値があるのではなく、非合理的であっても人々に意義をもたらすという側面が重要です 。
不合理の必要性について
宗教が象徴的に示すような「不合理」なものの存在は、人間の心の多様なニーズに対応するものです。例えば、日本の伝統行事や信仰も、社会的な絆や儀式性を高め、文化的アイデンティティを支える役割があります。合理性に重きを置く社会でも、不合理なものが心の拠り所や心の整理の手段として機能する場合があります 。
この問いにある「人間が死ぬと無になる」という断定も、科学的に完全には証明されていません。無論、魂の存在も立証されていないため、いずれの側にも「完全な合理性」がないと言えます。また「不合理なものは不要」という前提には、感情や文化的背景を軽視する面があるかもしれません。合理性を超えた価値が、特定の社会や文化において役立つ場合も多いことを認識する必要があります。
まとめ
宗教やオカルトの価値は、必ずしも合理的な根拠の有無だけでは測れません。不合理な信仰も、精神的な拠り所や社会的な絆の構築に寄与するものであり、人間にとって「不合理」が全く無意味だとは言い切れません。
ソ連時代におけるユダヤ人の状況は複雑であり、特にスターリン政権下では反ユダヤ的な動きが顕著でした。優秀なユダヤ人たちは、社会的圧力や差別から逃れるために、しばしば学問や専門技術を秘密裏に学ぶ必要がありました。これは、彼らが公然と活動することが難しかったためです[1]。
一方で、ソ連の権力者たちは「教養」を重視し、政治的な教育を受けることが重要視されました。これは、政治的権力を持つ者が自己の地位を正当化するための手段として、教養や文化的知識を利用したことを示しています。彼らはしばしば、自らのイデオロギーや政策を「教養」として位置づけ、その中でユダヤ人を排除するような政策を展開しました[1][2]。
このような背景の中で、ユダヤ人は学問や科学の分野で重要な役割を果たしていましたが、同時に彼らに対する偏見や差別も根強く存在していました。特に物理学などの専門分野では、多くのユダヤ人研究者が活躍していましたが、その地位は常に脅かされていました[1]。
Citations:
[1] https://src-h.slav.hokudai.ac.jp/publictn/slavic-studies/50/nagao.pdf
[2] https://www.npokokoro.com/why
[3] https://spaceshipearth.jp/holocaust/
[4] https://encyclopedia.ushmm.org/content/ja/article/victims-of-the-nazi-era-nazi-racial-ideology
[5] https://encyclopedia.ushmm.org/content/ja/article/introduction-to-the-holocaust
これを受けてお米ちゃんとラーメンくんとその他は手を組みこれに抵抗する
両陣営に分裂した自衛隊と警察官と民間義勇兵をそれぞれ指揮し激突するのだ
ついに禁断の手段
真の力に目覚めた酢豚男は巨大人型兵器へと変貌しJAXAとホンダと理研が共同開発したバイオライフルを引っ提げてハンバーガー大王に挑む
事件当時「自暴自棄だった」と話した八並被告だが、果たして本当なのか。検察官が問い質した。
検察官 被害者を襲ってすぐ胸を触ったりキスしたりしていますよね?
検察官 女の子の名前聞いたり、生理が来ているかを聞いていますね?
検察官 「傷つけたい」というために必要なことでしたか? やりたいことやっただけじゃないんですか?
八並孝徳被告 それはないです
検察官 やりたくもないのにやったということ?
八並孝徳被告 そうですね
検察官 本当はしたくなかったけどやったんですか? やりたかったんじゃないんですか?
八並孝徳被告 そうならあそこまで小さい子にやりません。そういう趣味はないから、だとしたら大学生とかを襲っていたと思います
全く何も悪い事をしてない人間が人生相談をしてyoutubeでバズっているとして
その人がある日に頭を打ってひろゆきと全く同じ性格になったとします
この場合はひろゆきと同じように迷惑な人間としてネットで悪目立ちすると考えられる
ケースB : 頭を打った状態から回復し、すぐに良心的な性格が出てくる
ケースC : 中途半端にしか回復せず、中途半端に良心を得てしまう
ケースCはおそらくケースBより悪い結果になるだろうけど
私は共産党には絶対政権を取ってほしくないけど、共産党が果たしてる役割は評価してる。無くなったらそれはそれで困るなとも思う。
一方で、れいわは絶対政権取ってほしくないし、れいわが果たしてる役割って何?って思う。無くなっても困らない。
でも国民が選んでるのはれいわの方で、共産党ではないんだよね~。
てせもよく考えるとれいわを支持する人はわかる。そういう思想を支持する人は一定数いるだろうな、特に若者や女性にってわかる。
だから一定数の票数は取れるだろうし、逆に今のままだと一定数から出てこないだろうなって思う。
共産党はほんとちょいちょい出てくる発言が若者に受け付けないんだよなー。もちろん年寄り連中は支持が固まってたり共産党アレルギーだったりでそもそも共産党に入れようと思わない。
あのですね、まさにそういったリクエストをですね、私が受け入れる立場にあるかと言われればですね、極めて疑問であると言わざるを得ない訳であります。ええ、そういった「ケツをしばく」という行為がですよ、果たして国民の皆様のためになるのか、そういった点についても慎重に検討する必要があるわけでありまして。
しかしですね、まさにあなたのその、何というか…強い要望というものをですね、無下にするわけにも参りませんが、ここはまず冷静になっていただきたいのであります。そ、そんなに興奮しないでください!一度、深呼吸をしてですね、落ち着いて物事を見つめ直していただければと、そのように考えておるわけであります。
つまり、私がケツをしばくかどうかについてはですね、まさに慎重に議論されるべき、重要なテーマであると!そういう事を申し上げたいのであります。
ニメリット
ニメリット級航空母艦は、アメリカ海軍が保有する世界最大級の核動力航空母艦であり、その規模と戦闘能力から、現代の海上作戦において極めて重要な役割を果たしています。この級の空母は、太平洋艦隊の指揮官であったチェスター・ニメリット元帥に敬意を表し、1975年に最初の艦である「USSニメリット(CVN-68)」が就役して以来、10隻が建造されました。
暇つぶしに見るXでは、よく弱者男性と売春婦が争っている。働きながら、あるいは働かずに子どもと向き合った。それが正しかったかどうかは、何十年か経ってみないと分からない。以下は、平成初期に弱者男性に育てられた私の事例である。
私の父親は、いわゆる「弱者男性」と呼ばれる部類の人だった。特定の職に就くことはなく、収入も安定していなかったが、何かに対して強く反抗するわけでもなく、静かに自分の人生を受け入れていた。しかし、その生き様は、周囲からは「頼りない」や「社会のはみ出し者」という視線で見られることも多かった。そんな彼が私をどう育て、私はどのように成長してきたのか、その実体験を通して「弱者男性に育てられた子供」の実像に迫ってみたいと思う。
父の教育方針は、決して画一的なものではなかった。むしろ、他の家庭の親と比べてもかなり自由度が高かったと思う。学校の成績や将来の進路についても、父は何も言わなかったし、毎日の生活でも無理にあれこれと教えられることはなかった。勉強をするのも、何かを身につけるのも、すべて私自身の選択に委ねられていた。
しかし、父が何もしなかったかというと、そうではなかった。彼は私と向き合い、ただ「一人の人間」として存在してくれていた。時には、悩みを聞いてくれ、愚痴を言っても無理に解決策を示すわけではなく、「そうか」と静かに頷くだけだった。それが子ども心にとってどれだけ大きな支えだったかは、年を重ねるごとに感じるようになった。
子供時代、友人の家庭を見ては、父と他の親たちの違いに複雑な感情を抱いたこともあった。多くの家庭では、親が積極的に関わり、進学や将来の方向性についても熱心に指導していたが、私にはそれがなかった。友人から「お前の父さんは何してるの?」と聞かれると、答えに困った記憶がある。特に、弱者男性の特徴として「自分が何者であるか」を誇示しないため、父の職業や社会的な立場についても話す機会がなかった。
しかし、今考えてみると、社会が求める「父親像」に囚われず、自由な生き方を貫く父の姿は、自分にとって一つの理想像だったのかもしれない。彼の生き方からは、「社会の枠組みに縛られる必要はない」というメッセージが無意識のうちに伝わってきていたのだと思う。私自身が将来の進路を決める際、父の姿勢を思い出して自分の選択を尊重することができたのも、彼のおかげだろう。
弱者男性に育てられた子供は「かわいそう」と言われることがあるかもしれない。しかし、果たしてそれは本当だろうか。弱者男性の親に育てられたからといって、子どもが必ずしも苦しむわけではない。むしろ、周囲の偏見や社会的なプレッシャーにさらされる中で、自分の価値観を形成し、他者と異なる視点を持つ強さが育まれることもある。
父は私に対して「強くあれ」とは言わなかったが、弱くてもいいと教えてくれた。日々の生活の中で少しずつ身についたこの価値観は、私が社会に出てからも貴重な指針となり、自分の居場所を見つけるための礎となっている。
今振り返ってみると、父がくれた自由さや、独自の視点は私にとってかけがえのないものだと感じる。彼の育児方針は、決して一般的ではなかったかもしれないが、その自由さの中で私は自分らしさを発見することができた。
弱者男性の親に育てられたことが、必ずしも「かわいそう」という一面的な評価に収まるものではないことを伝えたいと思う。彼らの中には、表面に見えにくい形で子どもたちを支え、人生に豊かさをもたらしてくれる存在もいるのだ。社会の「普通」から少し外れた彼らだからこそ、伝えられるものがあると感じる。それは他の親では決して教えられない、大切な人生の一部である。
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日本最古の漫画とされる文字通りの国宝。800年この宝を守り残してくれた高山寺に感謝しよう。
果たして現代の漫画の原画は800年後も無事に守り伝えられているであろうか?
手塚治虫の長編デビュー作。諸説あるものの当時にして40万部を売り上げたとされる革命的な作品。
この漫画に衝撃を受け、多くの若者が漫画家の道を志したとされ、藤子不二雄などもその偉大さを強く伝えている。
酒井七馬との共作であったため、それに伴うトラブル等からその出来を手塚自身は認めていなかったとされ長らく封印されており、完全に書き直したバージョンも存在する。現在ではオリジナル版が復刊され電子書籍でも手頃な価格で読める。これはよほど状態の良い初版から丁寧におこしたらしく非常に鮮明な素晴らしい出来だぞ。
(ただオリジナル版は印刷の都合上、手塚の絵を職人が手でトレースして出版したものらしいので筆使いみたいなものを論じる意味はないぞ)
手塚はここから本格的に出発し、約40年間で15万ページの漫画を書いたという。
手塚治虫やトキワ壮グループのカウンターになるようなシリアスな表現を極めていく劇画の礎となり、漫画表現の幅を大きく広げる道を作った。
当時の劇画としては、白土三平の「忍者武芸帳 影丸伝」が傑作として名高く今読んでも抜群に面白いが、パイオニアとしての黒い吹雪の地位は揺るがない。
劇画黎明期の様子は、同じく辰巳が晩年に描いた「劇画漂流」という漫画に詳しい。
また辰巳は海外での評価が非常に高く、例えば「黒い吹雪」もWikipediaに日本語版はないのに英語版は存在している。
劇画といえば手塚との対立が面白おかしく語られがちだが、劇画の始祖辰巳は中学生の時から手塚の自宅に出入りし、終生手塚を敬愛して二人でフランスを訪れたりもしていたことは覚えておいてくれよな。
藤子不二雄が、おばけのQ太郎に始まり、手塚治虫とはまた違う新しい読者層を開拓していった活動の頂点に位置する作品。短編と大長編を合わせて膨大な作品群を形成し、その影響は漫画界よりもその外部に大きく広がり、多くの人の人生や、現代に溢れるkawaiiキャラクターものにまで現在進行形で強く力を与え続けている。
いまだにアジアで愛され続けるそのレガシーの大きさはとても一言では表せないが多くを語る必要はないだろう。
旧来の少女漫画が描いていたステレオタイプを打破する作品を矢継ぎ早に発表した萩尾望都の出世作。
少女漫画誌に次々と新しい手法で圧倒的な画力と文学性を持ち込み、後の多様性の形成の礎となった。
世界の中で少女漫画市場が現在でもきちんと維持されているのは日本だけであるとされるが、その中興を成した作品の一つである。
萩尾望都は花の24年組というくくりで呼ばれることが多いが、近年出版した自伝で当時のトラブルを語り、萩尾先生自身はこの名称には肯定的ではないようなので、令和の漫画読み諸氏はアップデートしていこうぜ。
立体感と漫画らしさを融合させた絵作りで後世に多大な影響を与えた鳥山明の出世作。
第一話の扉絵を見ただけで、当時別次元の漫画であったことが分かると思う(ジャンプ+で今すぐ読めるぞ)。
鳥山明の登場は手塚以降で最も衝撃的であったという事はプロアマ問わず多くのものが口を揃えて語っている。
鳥山明においては、Dr. スランプとドラゴンボールどちらを選ぶのか好みが真っ二つに分かれるところであろうが、世界的な評価やバトル漫画への影響を重視する人は遠慮なくドラゴンボールに入れ替えてくだされ。筆者も個人的にはドラゴンボールに思い入れがある。
鳥山明に並び、並外れた表現力で後の漫画界のレベルを一気に引き上げた大友克洋の代表作。
フランスに生まれたメビウスという天才漫画家の開拓した表現が大友を通して日本の漫画界に合流し発展することにもなった。
後に大友が連載する「AKIRA」においては連載途中に、作者自身が監督として超一流のアニメーターを集め、巨額の予算をかけ同名のアニメ映画を作り、そちらも歴史に残る大傑作になったのはご存知の通りである。
ちなみに大友がAKIRAに書いた最後の最後の言葉はなんだったか知ってるかな?答えは、『そして、手塚治虫先生に…』だったんだぜ。
現在、大友作品は、電子書籍版が出版されず現代の若者に対しての間口が狭いのが少し残念であるが紙で読んでくれということなのだと思う。
独自の出自を持つ作品であり、日本一のアニメーション監督が全盛期に描いた本気のファンタジー漫画として、ナウシカの前にナウシカなし、ナウシカの後にナウシカなしという唯一無二の完成度の高い作品。
途中に「風の谷のナウシカ」「天空の城ラピュタ」「となりのトトロ」「魔女の宅急便」「紅の豚」の映画制作を挟み、全59回の連載を15年かけて終わらせた。時間を節約するため連載第2回目からしばらくはペン入れをせず、鉛筆で仕上げた原稿を掲載したことは語り草となっているが、画力が限界突破しているので読んでも違いに気付かないぞ。
100年後も古典として読み継がれているのはこの作品ではあるまいかと思わせる風格を漂わせている。
連載当初はダイヤの原石であったが、6年間の執筆の中で画力、構成力の凄まじい向上を見せ、人気絶頂のまま連載終了した伝説の作品。
従前から繰り返された「天才」たちの活躍という題材ではあるが、漫画表現のリアリティという点で飛躍的な進歩を示してみせた。
大きな流れで見ると、手塚治虫が平成元年、すなわち1989年、60歳でその生涯を閉じた翌年に、時代を大きく動かすこの大傑作が連載開始した形であり、新しい元号とともにさらに大きく発展を遂げていく漫画新時代の象徴となる作品となる。
東アジアでの人気は凄まじく、アニメ版の聖地巡礼で鎌倉を訪れるものも未だ後を絶たない。
突然変異的に登場し、それまでの漫画の常識を覆した2000年以降最大の問題作。
少年漫画が天下一武道会以降繰り返してきた自己模倣を打ち破り、新たな可能性を存分に示した。
この漫画は終わらないだろうという世間の心配をよそに、諫山は数々の伏線を回収しつつ、一度も休載せず堂々と完結まで導いた。そういった点でも未完のまま停滞した名作たちが越えられなかった壁を打ち破り、その名声を比類なきものにした。
実は諫山は福岡の専門学校のマンガ学科出身であることをご存知だろうか?その授業の一環として、生徒が東京の出版社に持ち込み旅行をするという企画があり、19歳の諫山がいくつかの出版社を周った際に、講談社で当時新入社員の川窪慎太郎に進撃の巨人の原案を見せたことが巨人の物語を始めたとされる。
少年ジャンプはなぜ進撃の巨人を逃したのかという点ばかりセンセーショナルに語られがちだが、社会人生活4ヶ月目にして諫山の才能を見抜いた川窪の目には一点の曇りもなかったことをただ賞賛すべきだろう。
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人間が物語を求め、物語に誘導されるのは、文化的・心理的・進化的な要因が複雑に絡み合っているためです。以下に、異なる学問分野の視点から考察します。
物語は他者の経験や感情に共感する手段です。心理学的には、人は自己の感情や経験を外部化し、他者の視点を通して見ることで自己理解を深めます。特に物語の登場人物と感情的なつながりを持つことは、共感能力を高め、社会的スキルを育むのに役立つとされています 。また、「物語的自己」と呼ばれる考え方もあり、人は自分の人生経験を一連の物語として理解し、意味づけすることで自己を構築します 。
物語は、個人や集団のアイデンティティを形成する重要な要素です。社会学者エミール・デュルケームによれば、物語や神話は集団の価値観や道徳を伝える役割を持ち、個人を社会に結びつけるものと考えられています。例えば、神話や伝説は歴史の中で共有されることで、共同体のアイデンティティや連帯感を強化し、社会の統一性を維持します。これにより、人々は物語を通じて一体感を得るために物語に引き込まれます 。
進化心理学では、物語はサバイバルに役立つ知識や教訓を次世代に伝える手段であると考えられます。古代からの伝承や民話には、危険や道徳的な教訓が織り込まれており、これにより人々はリスクを避け、より良い社会的行動をとることができました。このように、物語が人間の生存戦略に役立つとされていることが、人々が物語を欲しがり、物語を通じて導かれる理由の一つとされています 。
認知科学の分野では、人間の脳は物語という構造を通じて情報を整理・記憶するのが得意であるとされています。物語の持つ始まり・中間・終わりという構成は、ランダムな情報よりも理解しやすく、記憶に残りやすい形式です。こうした脳の働きにより、人は物語に沿った形で情報を受け取ると、自然とその流れに沿って考え、理解を深めることができます 。
哲学的には、物語は人間が生きる意味や価値を見出すための重要な手段です。ジャン=ポール・サルトルやカール・ヤスパースなどの実存主義者は、個人が自らの経験や生きる意味を物語として理解することで、存在の意義を見出すと考えました。物語を通して、無秩序で混沌とした現実に意味を付与し、自己の存在や行動に一貫性を持たせることができます 。
物語は教育の場でも強力なツールとされており、単なる知識の伝達以上の効果をもたらします。特に子どもにとって、物語を通じて学ぶことは、抽象的な概念を具体的に理解する手助けとなり、記憶に残りやすい形式となります。物語的な構成で教えられると、学習者は内容をより効果的に学び、道徳や倫理、社会規範を自然に身につけることができます 。
まとめ
人間が物語を求め、物語に誘導される理由は、生理的・社会的・心理的な多重の要因に根ざしています。自己理解、集団のアイデンティティ、知識の伝達、情報処理の効率、存在の意味の探求、そして学びのツールとして、物語は人間の存在に欠かせない役割を果たしているのです。
: Kohut, H. (1977). The Restoration of the Self.
: McAdams, D. P. (1993). The Stories We Live By.
: Durkheim, E. (1912). The Elementary Forms of the Religious Life.
: Pinker, S. (1997). How the Mind Works.
仏教における「私たち一人一人がなぜ生を受け、ここに存在するのか」という問いは、個人の存在や人生の意味を考える上で重要なテーマです。仏教の教えでは、この問いに対して「縁起」(えんぎ)や「輪廻転生」の考え方が大きな役割を果たしています。
1. 縁起の法
仏教では、すべてのものが「縁起」によって生まれ、存在していると教えます。「縁起」とは、「あらゆる現象が他の原因や条件に依存して生じる」という考えで、「私たちの存在も、無数の因縁が重なった結果として成り立っている」とされます。つまり、私たちがここに生まれ存在するのは、過去からのさまざまな因縁(行動や選択、人とのつながりなど)が影響しているからだというわけです。
仏教では、個人の存在や人生は「輪廻転生」によって説明されることが多く、過去の行い(カルマ)が今世の生に影響を与えていると考えます。カルマとは、行為とそれに伴う結果を指し、過去の行為が現在の境遇や性格、苦しみや幸福に関係しているとされます。過去世でのカルマが現在の生を生んでいるため、今私たちがここにいるのは、その行いの結果が現れているという考え方です。
仏教では、生を受ける理由として「苦しみの原因を知り、苦しみから解脱するため」とも説かれます。仏教における生の意味は、煩悩や執着を手放し、智慧を持って解脱に至ることにあります。つまり、現世の生は、自己の内面を磨き、苦しみを超えて真実を見つけるための機会と見なされています。
まとめ
仏教においては、私たちが生を受け存在する理由は、「因果の法則により存在が生じ、今生において苦しみから解脱するための機会が与えられている」と説明されます。したがって、自分自身がここにいる理由や人生の目的を考えることは、苦しみを乗り越えるための道でもあるのです。
ハイキューが最終回を迎えた際、Twitterで感想を漁っていたら、「なんでバレーしてるだけなのにこんなに泣けるんだろう」というファンの投稿が目に入った。自分はハイキューで泣けるほどの感受性はとうに持ち合わせてなかったが、そこから数えて24年前にほとんど同じ気持ちを味わっていた。
井上雄彦の作品に通底するのは徹底したリアリズムである。彼が本作で行ったのは、本気でバスケットボールに挑む人間の思考と感情をつまびらかにするだけで面白くなるということの証明と、人気が出なかった時のため不良路線でも行けるような作風を選んだことだけである(当時バスケットボールがマイナースポーツであったことに留意したい)。この結果、フンフンディフェンスを除くあらゆる要素が後世のスポーツマンガにリアリティの基準点をもたらすこととなった。
桜木花道がバスケットマンに変貌するたった4ヶ月の物語は、命のやりとりや世界が終わることよりも一本のシュートの成否の方が遥かに切実で重要な問題になりうることを、今なお我々に伝えている。
講談社は1970年代末期には後発のジャンプにマンガ業界の盟主の地位を明け渡しているわけだが、それを奪い返す最大のチャンスが90年代後半に訪れた。DB幽白スラダンといった作品が終了した暗黒期のジャンプを、金田一はじめの一歩GTOを擁するマガジンは苛烈に追い上げ、ついには発行部数で逆転したのである。
その中で強引に看板作品に祭り上げられ、ジャンプの屋台骨を支えることになったのが本作だ。後に和月伸宏は「次につなげたい」という気持ちで描いていたと語っている。明治という激動の時代の中で不殺の剣士・剣心が刀を交える相手は、旧時代に未練を持つ者や、新しい時代の荒波に飲み込まれた者たちであった。黄金期と暗黒期の狭間で奮闘した本作のありようは、皮肉にもそこに重なって映る。
ワンピナルトが出てくるまでを空白期間にせず、少年マンガ誌の代表というジャンプのアイデンティティを守りぬいたのは同時代の誰も比肩できない功績だ(幕張や封神演義やBOYSにこの役割を代替できたか考えてみてほしい)。現代のジャンプ読者はもっと、もっと本作に感謝すべきだと、佐藤健の超人的なワイヤーアクションを眺めながら思うのである。
連載終盤、もはや燃え尽きる寸前だったといううすた京介は後年、「マサルさんはシュールではなく、ベタをシュールに見せていただけ」と語っている。自分を含め、多くの読者は同意しかねるだろう。彼が未来永劫に参照点となりうる新たなベタを作り上げたことに疑いの余地はないからだ。
本作はギャグマンガでやってもいいことの範囲を大幅に拡大した。キャラクターの行動原理なんてなくていい。話の展開は唐突でいい。絵柄は毎ページ変わっていいし上手くなくていい。読者が知らなさそうなパロディだって入れてよいのである。現代の観点では至極当然と思える要素を2年弱、全7巻に惜しげもなく詰め込んだ。
彼の次回作(ピューと吹く!ジャガー)ですらも、ついにその革新性を更新することはなかった。90年代にうすたに憧れ新人賞に応募した有象無象のワナビー達も誰一人として出来なかったことを考えれば少しは気が休まるだろうけども。
闇の人格を持つ主人公によるダークヒーローものというコンセプトで始まった本作は、ほどなくしてマジック&ウィザーズという架空のTCGを中心にした物語に変化した。この変化が、数十枚の紙束を並べる行為を、玩具・ゲーム業界において最も存在感のあるエキサイティングな遊びに位置付けることになる。
コナミでは社内の遊戯王関連の部署をしばしば「造幣局」と呼ぶそうだが、紙を刷って売上1兆円に到達するコンテンツなど他に存在しないことの証左である。こうした状況に、高橋和希の優れたキャラクターデザイン、ストーリー構成が大きく貢献したのは言うまでもない。ゲームが友情を育むツールになりうると示し、メディアミックスの力を世に知らしめた功績は間違いなく彼のものだ。
世界で最も多く発行された単一作者によるマンガ作品について何か語るべきことがあるだろうか?まだ言及すべき余白が。本作のように自然にカテゴライズを避ける作品というのは極めて少ない。友情、夢、自由、強さという最もありふれたテーマに挑み、ついにそのすべてを超然と飲み込み描き切ろうとする本作を何らかの箱に入れて理解するのは難しい試みに思える。
毎週月曜日にワンピを読んで喧々諤々と考察できる世界に我々は慣れ切ってしまった。30年間マンガ業界の頂点に君臨する男がいるという現実に。一定の年代以上の人間にとって、本作の終わりがジャンプという雑誌の終焉に見える人がいても無理のないことだ(今ワンピの次に長寿連載しているのはハンタを除けば2019年連載開始の夜桜さんである!)。ルフィと尾田栄一郎という二人の男の、幼少期から練り上げた夢の果てを世界中が見届けようとしているのだ。我々がこうした光景にふたたび立ち会えるかは疑わしい。
幽白は極めて質の高い作品でありながら、冨樫義博が抱える巨大なアイデアの数々を収めきれた作品ではなかった。それでも仙水編と、その後に異例の月一で掲載されたレベルEで前人未踏の領域に踏み込んだ彼は、自身4作品目の連載においても既視感のある展開とご都合主義を執拗なまでに避け続けた。彼の描くキャラクター達は自身が取れる最善の選択を積み上げた末に、我々が期待する最善以上のドラマを生み出す。幾度もの休載を挟みながら。
「今週の『HUNTER×HUNTER』は休載いたします」の表記(今はこれすらなくなったが)を昼下がりのコーヒーブレイクと何ら変わらぬ平常心で見られるようになってもなお、自分に限ってはこんな感じであった───「HUNTER×HUNTERの最終回を読める可能性があるというだけで、どんなクソみたいな人生でも生きる理由が生じる」
いまや冨樫は少しずつ体調を取り戻し、我々は一時期とは比べ物にならないほどコンスタントに彼の創り出す世界に触れることができる。何百何千もの作品がジャンプにおいて連載され、本作に近い作品、それ以上のものを期待し続けてきたが、その度に彼の偉大さを突き付けられるだけなのだろう。
前例のないテニスマンガでの成功、女性読者の流入、クールで生意気で強い主人公像、菊丸が分身して以降のテニヌ...といった誌面上で読み取れる新規性だけでは、本作のもたらした文化のごくごく一部しか語りえない。
1000曲近いキャラソン、出役としての役割を求められる声優たち、2.5次元文化の源流かつ若手俳優の登竜門としてのテニミュ...現代における狭義のオタク文化の根を辿れば、必ずテニプリが残した功績にぶち当たる。「推し」という文化が、人間を描くあらゆるコンテンツに侵食して久しいが、許斐剛が生み出した世界は、ジャンプで築き上げられたあらゆるファンダムの中でもっとも複雑で永続的な強度を保ち続ける、史上最も「推す」に値する文化であり続けている。
すみませんほんとに書くことが思い浮かびませんでしたでも世界的にマンガ文化を広めた功績は鳥山に並ぶと思ってますマジで
あまりに多くの言及がこの作品になされ、そのどれもが口をそろえて言う。「描き分けが上手い...絵の引き算が上手い...ルビ振りのセンス...久保帯人は中二病...ストーリーが薄い...」これらすべてはもちろん真実だ。
連載中、ワンピナルトブリーチの三枚看板の最後尾というポジションが崩れることは一度もなかった。果たしてこの評価が妥当だったのかは分からないが、少なくとも我々ネット民は久保帯人のセンスをバカにし過ぎたことに対し大いに反省すべきところがあるのではないだろうか。海賊、忍者のような明確なモデルがいないのに、久保帯人はどうしてあれほどまでに洒落たキャラクターとセリフ回しを無尽蔵に生み出せたのか、系統立てて説明できる理屈は未だ見つからない。もしその答えが彼の脳内にしかないとするならば、我々は本作を源流に大いなる歴史が作られていく可能性を認めなくてはならないだろう。
デスノートという作品は複数の点で極めて例外的な成功を収めた。肉体的攻撃を伴わない心理戦、一切の引き伸ばしをしない、公権力、宗教的崇拝、欠点の無い主人公、ゴシック的キャラ造形、ダークヒーロー、死亡エンド...
本作に散りばめられたこれらの要素は、すべて従来のジャンプ漫画では邪道、あるいは不要とみなされてきた要素であった。このような野心的な作品がメディアミックスにおいても成功を収め、国民の誰もが知る作品となったのは驚異的だ。この作品が出たことは心理戦を描こうとする後世のマンガ家にとっては悲劇かもしれない。夜神月ほど賢く、悪どく、魅力的なキャラクターを矛盾なく作れる人間は大場つぐみくらいしかいないのだから。
2010年代にジャンプを購読していた人間はみな共通してうすぼんやりとした不安を抱えていた。「ワンピの連載終わったらジャンプってオワコンじゃね?」
ジャンプの終わりという、週刊少年マンガ誌という形態の終わりと同義に思える未来を避けるべく、集英社は読者以上に血眼になって後継者を探し求めた。しかし我々の期待も空しく、トリコ暗殺教室ヒロアカソーマブラクロ約ネバドクスト呪術といった平成末期の傑作たちすらも、尾田栄一郎が築き上げた領域には辿り着けなかったように見えた───ただ一つの例外を除いては。
「家族、友人への愛」「困難を乗り越える強さ」という普遍的なテーマにフォーカスした吾峠呼世晴の連載デビュー作は、あらゆる世代へ届く成功を収めた。特に、劇場版『無限列車編』は社会現象化し、国内の興行収入1位を達成するなど、経済的にも文化的にも大きなインパクトを残すことになった。
出版業界の衰退、コロナ禍、趣味の多様化といった逆境の中で、マンガが世界的なムーブメントを引き起こすことがまだ可能であると証明した本作は、令和を生きる日本人の心象風景に残る新たな「国民的マンガ」として、時代に選ばれたのだ。
ひとりのスターの存在がプラットフォームの価値を定義することは古今ジャンルを問わずあることだ。ダウンタウンの登場がお笑い養成所という存在をメジャーにしたように、米津玄師の登場がニコ動の文化をオーバーグラウンドなものにしたように。
2014年に創立したジャンプ+というプラットフォームの目的である「紙とデジタルの垣根をなくし才能を育てること」が名実ともに達成されたのはいつだったのか?それは初めて本誌とジャンプ+両方でスターとなった人間の登場によって定義付けられる。
かつて秋田の片田舎から新都社に「長門は俺だ」という名前で投稿していた少年は、その衝撃的なストーリー展開で我々を魅了する存在となった。ファイアパンチ以降、ジャンブ+はあらゆるWebコミックサイト、いや雑誌を含め、もっとも野心的な作品を読める場所のひとつとして認知されるようになった。
藤本タツキの本誌への到着は新たな才能の鉱脈をインターネットに求める時代の始まりを告げ、媒体の違いというものがマンガの面白さになんら本質的な影響を及ぼすことはないという事実を我々に突き付けたのだった。
anond:20241012181121週刊少年ジャンプ史上最も重要なマンガ20選
↑を書いた増田です 適当に書いた増田がしばらく見ないうちにブクマ数めっちゃ伸びてて派生増田もめちゃくちゃ出ててビビった。ただのおじさんの与太話にいろいろ意見をくれてありがとう
みんなのコメントの中には恥ずかしながら読んでなかった作品もあったくらいで、今週はネカフェやKindleの50%還元セールでいろいろ読み返してました
選考基準について少し補足すると、ジャンプという雑誌の在り方への影響度がとにかく重要だと考えてます。売上とか人気とか社会的影響は考慮はしてますが、あくまで付随する要素に過ぎません。
ブコメやXで結構言及されてたのを見て思ったのは、選評を雑に書きすぎて自分の考える重要性が伝わってないところが多かったのと、20選だとさすがに網羅出来てないなということ。もともと個人的なメモ書き程度に書いたものだったのですが、色々な意見を取り入れた25選にして、一人一作縛りもなくして、選評ももうちょい見栄えするようリライトしてみました。これが現時点でのベストだと考えているので、もう異論は取り入れません。
月2回刊で始まった少年ジャンプの創刊号はわずか10万5000部しか出なかった。その9年前のサンデー創刊号が30万部、マガジン創刊号が20万5000部だったことを考えると、その始まりが実に静かなものだったことがわかる。
そんな中、大家・永井豪が描いたこの作品の絶大な人気がジャンプの売上に大きく貢献したことは言うまでもないが、それ以上に重要なのは、この時点で「読者が面白いと思うことなら何だってやる」という編集部の方針は明確であったことである。
過剰ともいえる性描写、教職への徹底的な批判からなる本作は、当時の基準でも極めてラディカルで挑発的な作風であり、批判に晒され続けた。しかし、競争原理に基づき、常に読者の方を向いた雑誌を作るという編集部の意向が、この作品を存続させた。後に「アンケート至上主義」という形で現代まで続くことになるジャンプの強固なアイデンティティは、本作の成功とともに形をなしたのである。
頭文字Dや湾岸ミッドナイトのようなクルマ系のマンガが下火になったのは、若者が誰もスポーツカーに乗らなくなったことが原因のひとつであるという。頷けるところもあるが、じゃあ不良、ヤンキー、番長と称されるような若者なんてもっと絶滅危惧種なのにどうして彼らをカッコいいものとして描くマンガは何作も出続けているんだ?東リべのような大ヒットも未だに出ているのに。
思うに、我々の脳には義理と人情、泥臭さ、そして熱さを欲する部位が生まれつき備わっているのだ。そしてこうした要素を最も効果的に表現しうる分野が不良漫画であると見抜いたのは本宮ひろ志が最初であった。
ストーリーは完全にご都合主義で、キャラクターの一貫性もまるでない本作は、しかし「男の強さ」を描くという一点のみにおいて全くブレることはなかった。どんなに反社会的な人間でも、腕っぷしと強靭な精神と仲間への思いやりさえあればクールに映るという価値観は、フィクションにおいての(もはや誰も意識すらしなくなった)お約束として今なお残り続けている。
ジャンプが国民的マンガ雑誌とみなされる要因はどこにあるだろうか?40年間一度も休載することなく駆け抜けた秋本治のデビュー作は間違いなくその一つであろう。
当初は型破りな警察官・両津勘吉のドタバタを描くコメディとして始まった本作は、その時代のサブカルチャーや政治経済情勢を積極的に取り込むことで、高度経済成長期以降の近代化していく日本の風景を余すことなく取り込んだ作品となった。
浮世絵が江戸の庶民たちの風俗を映し出す史料であるように、こち亀が織りなす物語は昭和から平成にかけての日本人の最大公約数的な心象風景を巧みに映し出した。いまや日本から失われつつある中流の庶民の日常を、我々は全200巻からなる亀有の小さな派出所の日常にしみじみと感じ取るのだ。
もともと硬派なボクシングマンガとして始まった本作は仁義や兄弟愛をベースにした極めて現実的な作風で、決して圧倒的な人気作とは言えなかった。しかし、あしたのジョーの下位互換になるくらいなら無茶苦茶やってやる、という判断のもと路線変更し、過剰さと大袈裟さを極めたことで人気を博し、史上初の最終回巻頭カラーとして、ジャンプ史にその名を刻むこととなる
───という、教科書的な本作の功績だけが、本リストに入る理由ではない。重要なのは本作が男一匹ガキ大将(=根性と漢気)、侍ジャイアンツ(=超人的能力)の要素を意識的に再生産していることである。車田正美を源流として、ジャンプ的な文脈を後世の作品が重ね合わせることでより濃くしていく流れが明確になる。我々の知るジャンプは全て車田正美以後なのだ。
同時代の作家に比べ、寺沢武一のデビュー作の視座は群を抜いて高かった。スペースオペラの世界観から引用した本格的なSFのアイデアの数々。高い等身で描かれ、まるで映画のようなポージングやセリフ回しで魅せるセクシーな男女たち。幾度もの休載をはさみつつも、本作はユーモアとカッコよさと強さをコブラという一人の男の中に共存させるという偉業を成し遂げた。
登場人物も読者も無垢な10代の少年でなくてはならないという近視眼的な幻想と、ジャンプ作家は絶対にコンスタントに週刊連載をしなければならないという既成観念を、葉巻を加えた気障な宇宙海賊のサイコガン──精神力をエネルギーに変えるアイデアも寺沢が生み出したものだ──は易々と破壊したのである。
リングにかけろが確立したバトルマンガ路線を、当時の少年たちが大好きだったプロレスに絡めることでさらなる高みへ導いた作品。いわゆる「友情・努力・勝利」という実際にはジャンプ編集部の誰も公言したことのないらしいパブリックイメージを単独で築き上げた。にもかかわらず、本作は国民的作品とはみなされておらず、犯罪的なまでの過小評価に甘んじていると言わざるを得ない。マジでなんで?絵が下手だから?嶋田のSNSの使い方が下手だから?
キン肉マンはマンガとしてではなく文化的に重要なのだと主張する類いの人間がいるが、そいつらの目と脳にはクソしか詰まっていない。ゆでたまごは絵の巧拙がクオリティに関係しないことを証明し、あらゆる世代の男たちにマンガに熱狂する勇気を与え、信じがたいほど面白い作品を描いた。この作品を嫌う人たちもまず冷静になり、理解しようと試みるべきだ。
鳥山明の訃報を聞いた日、Kindleで買ったまま放置していたDr.スランプの1巻を読んでみた。久しぶりに読む本作はきっと悲しいほど古く感じるだろうと思っていたが、実際のところiPadの画面に映るペンギン村の住人達は今も新鮮味をもって感じられた。
本作は後にDBやドラクエで知られることになる鳥山明がその才能の枝葉を伸ばし始めた作品である───と書けたらどれほど楽だったろう。枝葉どころかこの時点で大樹の幹である。
言語以前の本能の領域に鋭く迫り来る現実味を携えた絵は存在するが、そうした絵を毎週16ページのマンガで成立させる人間は鳥山明以外には存在しなかった。頭の中にBlenderが入っているかのような立体的なデフォルメは、我々の住む現実世界とは違うところにもリアリティというものは存在しうることを示し、「マンガのための絵」であった劇画調を衰退させる最大の要因となった。
Jリーグ創立の流れを生み出したともされる本作がサッカーマンガ界に残した遺産はなにか?もしかしたらこのような問いの設定自体が誤っているようにも思える。高すぎるキャラクターの頭身、大真面目に繰り出される荒唐無稽な技の数々が目をくらますかもしれないが、高橋陽一が一貫して表現したかったのはひたむきな少年たちが織りなす爽やかな青春であって、こうした要素は他作品にも見られるものだ。彼がサッカーという題材を選んだのは単に「野球マンガはありふれているから」という理由だ。本作は期せずしてサッカーマンガというジャンルの中心に祭り上げられたに過ぎないのだろう。
それでも、我々はこの巨星に感謝するほかない。この作品が無ければサッカーを始めていなかったであろう日本中、いや世界中の少年たちが、みな大空翼という一つのアイコンに夢中になっていたのだ。マイナースポーツのひとつに過ぎなかったサッカーをメジャークラスに引き上げ、軍国主義に基づく根性論を相対化し、ひたむきにボールを追いかける楽しさを私たちに初めて教えてくれたのはこの作品だったのだ。
元増田を書いたとき、ブコメ欄は「ぼくのはじめてのジャンプ」にまつわる涙なしでは語れない思い出たちで溢れかえったわけだが、はてブに入り浸る層の平均年齢を考えれば当然のことである。
自分のようなおじさんにとって涙なしでは語れない系マンガの筆頭に位置するのが北斗の拳である。1980年代中盤というのは、親しみやすいポップ路線と男臭い劇画路線がちょうどクロスオーバーする時期であった。今のメインストリームがどっちかは言うまでもないが、自分にとっては線が太くてむさ苦しい絵柄こそが少年ジャンプの原風景だった。
強くてカッコいい大人の男が弱肉強食の戦場で己の命を懸け闘う...そんなジャンプ初期から続く系統の最高到達点かつ袋小路が本作である。このようなマンガが流行る時代は二度と来ないとわかっているからこそ、特別な輝きを放ち続けるのだ。
かわいい女の子を見るためにマンガを読む者と、そうでない者がいる。どちらがいい悪いということはないが、少なくとも創刊してしばらくのジャンプは前者に見向きもしない雑誌であったのは確かだ。うちには高橋留美子はいないんだよ、といった具合に。
きまぐれオレンジ☆ロードは申し訳程度の超能力要素を除けば、一貫して思春期男女の甘酸っぱい三角関係に焦点を合わせ、かわいい女の子の日常が描かれているだけだ。それのなにがすごいのか?別にすごくはない。ただ、エロくもなく大したギャグもなく荒唐無稽な展開もないふつうの男女の日常に需要があることに、誰も気づいてない時代があったのだ。
まつもと泉は早くに体調を崩したこともあり、これ以降影響力ある作品を生み出すことはできないままこの世を去った。それでも、彼の鮮やかなトーン使い、歯が浮くようなセリフ回し、そして"かわいい女の子"以外に形容する言葉が見つからない鮎川まどかのキャラデザを見返すたび、これをジャンプでやってくれてありがとう、と思わずにはいられない。
鳥山明が死してなおこの先何度も繰り返される問いだろうが、ドラゴンボールよりもワンピやナルトの方がどれほど優れているのだろうか?そしてその答えを誰もが知っているのは何故だろう?これらの問いに対してどんな議論がなされようともすべて的外れで無意味である。それはこの作品が頂点だからだ。
鳥嶋和彦の意向により、本作はバカげた後付けの設定や引き伸ばしをせざるを得なかった。それでも、マンガを金銭を生み出す道具と見做す人間たちのあらゆる商業的な意図を超えて、本作はそれ以前、以降に掲載されたあらゆる作品を軽々と凌駕する金字塔となった。
11年に渡る孫悟空の冒険をもって、鳥山明は日本のマンガ文化が世界最高のものであるという事実を叩きつけ、自身が手塚治虫、赤塚不二夫、つげ義春、萩尾望都、藤子F不二雄、高橋留美子と並び立つ歴史上最高のマンガ家の一人であることを証明したのである。
車田正美はリンかけで過去のジャンプ作品の再生産を初めて試みたと述べたが、それを自分自身の作品でやった人間も車田が最初であった。自身のやりたいことを詰め込んだ男坂が衝撃的なまでの不人気に終わった反省から、彼は自身の原点に立ち返りつつもよりスケールを拡大した再生産をやることを決めた。
彼はギリシャ神話と宇宙、子供向けと大人の女性向け、劇画とプラモデルといった要素を交互に行き来しながら、自身が積み上げた様式美の世界を前人未踏の領域まで押し上げた。聖闘士に同じ技は二度通用しないが、我々読者は何度でもこのパターンを欲してしまうのだ。
ある一定の世代の人間からは、ジョジョという作品はいつも巻末に掲載されている時代遅れな絵柄のつまらん作品という評価が下されることがあり、そこには50%の事実と、50%の誤った認識が含まれている。
荒木飛呂彦の絵柄が彼の見た目と同様あまり本質的な変化がないことについてはその通りだ。だがいくら彼より本誌での掲載順が上であろうと、革新性・才能・実験精神という点で彼より優れた人間が果たして何人いただろう?
幽波紋と、理不尽な能力値のインフレを伴わないバトル描写は、彼が残した功績の中で最大のものである。キャラクターが持つ能力を、作者の演出の道具として使うのではなく、自律したキャラクター同士の駆け引きの領域に落とし込むことに成功したのだ。
我々はフィクションの中での整合性を厳しくジャッジすることに慣れっこになっているが、それに耐えうるものを初めて生み出したのは荒木だった。彼以降、マンガを読む行為は絵と吹き出しで表現された作者の脳内世界をくみ取る作業ではなく、自律したキャラクターたちと同次元に立ちその思考を辿るものとなった。荒木は真の意味で我々をマンガの世界に誘ったのである。
増田:「いや〜選挙行ってきたんだけどさ、障害者目線で各党のマニフェスト見てみたんよ。」
友人A:「おぉ、増田もちゃんと国民の義務果たしてるやん!で、どうだったの?」
増田:「自民とか公明、まあほぼ論外やな。見出しレベルで障害者のこと触れてないんよ。ワンワードで福祉とかにチラっと障害って文字見えたけど、『いや、どこ!?』ってなるわ。」
友人A:「それ…なんの探し物やねん。『ウォーリーを探せ』の難易度やないか。」
増田:「で、立憲は結構ちゃんと書いてて、これはいいなって思ったんや。でもれいわ新選組のほうが障害者議員出してるやんか?で、期待したのにさ、解像度低めで、まあまあがっかり。」
友人A:「え、それどういうこと?障害者議員出してるのに、ぼやけてんの?」
増田:「そうやねん!『なんとな〜く障害者応援してるで』みたいな感じや。逆にアクセシビリティ…っていうよりモヤモヤビリティやわ。」
増田:「ほんで比例はどうするか悩んだわ。いや、無党派層の宿命やな!『どの党も納得いかんけど、選ばないとあかん』って感じで、結局立憲に入れたんや。」
友人A:「無党派層ってさ、迷える旅人やな…。『気に入ったパスタがないから、最終的にうどんにした』みたいな。」
増田:「そうそう。でも今回の選挙で気づいたわ、無党派層こそが国民主権を体現してるんちゃうかって!」
友人A:「え?それなんか偉そうに言ってるけど、結局どこに入れても不満ってことやろ?」
友人A:「あんたの票で国の未来決まるんやで?最終的に『しゃあない、立憲でええか』って…居酒屋のメニュー選ぶくらいのノリやんか!」