はてなキーワード: 果たしてとは
中国出身でアメリカの大学院卒でアメリカでソフトウエア開発していたのに
日本でアプリのテクニカルサポート(もちろん日本語堪能)してるとかオーバースペック過ぎん?
他にも非英語圏出身でもちろん院卒、クワドリンガルで同じく日本でアプリのテクニカルサポート(もちろん日本語堪能)とか
もう日本人のサポートに日本人を雇う必要性って無さそうじゃね?🤔
ちょっとオーバースペック過ぎるような気もするけど選べるなら出来るだけスゴそうな人を雇っておきたいのがまぁ人情ってやつよな
しかも語学の習得能力が半端じゃないしな。何がどうして数年であんなペラペラになるのやら
ワイも中学校・高校で英語6年間習ったし、受験用に英検受けて面接対応したし、会社で英語使ってるはずなんやけど、
努力でなんとなるが学習コストがクソ高い語学方面ではトライリンガルどころかクワドリンガルすら見かける、
まぁ向いてなくてもなんとかなる業界ではあるのだが果たしていつまで飯が食えたものか
楽しくはあるんだけどな
PUA系のナンパ術、女性がずっと気持ちよく過ごせたり、相手の男性にいい印象を持ち続けるようなテクなのかな。
ナンパで引っ掛ける訳じゃなく、他の出会い方をした女性に応用しても、交際の途中で上っ面だけなのがバレる手法に見える。
https://www.bloomberg.co.jp/news/articles/2022-06-20/RDR3XKT0G1KW01
新型コロナウイルス感染症の致死率に関する直近の統計で、日本が首位に立った。世界の裕福な国々の中で日本の致死率が最も低い理由について専門家が指摘するのは、マスク着用の継続やワクチン接種率の高さ、長寿大国といった基本的な事実だ。
今も世界のさまざまな地域で感染症拡大は起きている。だが、日本では人混みや換気の悪い場所を避けるなど、基本的な感染対策を人々がしっかりと守ってきた。その上で、政府のワクチン接種プログラムが着実に実施され、致死率を抑える結果につながった。
国立国際医療研究センターの医師で東京都の医療アドバイザーを務める大曲貴夫氏は、「個人単位での感染防止対策の遵守は、日本の感染対策において重要な役割を果たしている」と話す。政府や自治体はソーシャルディスタンスなどを呼び掛けたものの、人々の自主性にも任せたことが奏功したという。
30年前は、19時~20時にもなればもう真っ暗、目ぼしい食事処すらない、文字通りハードな街だったんだよな。
でも神保町古書店街あたりの寂れっぷりと比べれば、風俗街になったとしても、人が集まる進化をきっちり果たしているぶんマシなのかな、とも思う。
自分が弱者なのにポリコレに冷ややかな目を向けがちで、むしろ自己責任思想に接近しがちな人たちがいる。
そういう人は強者ではないのに弱肉強食を指向するのはおかしいと言われがちだけれど、自己責任に寄っていく感覚もわからなくもない。そこには絶望があるんだと思う。
ポリコレという名前を付けなくても、時代が変わるにつれて価値観は変化するし、概ね道徳観は向上していると思う。
でも、ここ数十年の変化の方向が軒並み自分の生きやすさに繋がらない状況が続いてるなら、「ああ、少なくとも私が生きている時代の道徳の救済対象からは私は外れてるんだな」って絶望するのはわかるよ。
救われないから絶望するなんて甘いこと言ってないで自分で声を上げろって言いたくなる人もいるだろうけど、まあちょっと声をあげても民間レベルでは叩かれるし、トランプみたいな大統領を誕生させるという「快挙」を果たしてもそれが世界の潮流を変えなかったという失敗経験は絶望を強めるに足る。
「日本は自民党が一強だし世界でも保守派が強くなってるのに、世界の潮流がポリコレ寄りとはおかしい」と言いたくなる人もいるだろう。
去年カズオ・イシグロがリベラルに苦言を述べた記事が話題になった時も、彼の「リベラル側の人が理解しないといけないのは、ストーリーを語ることはリベラル側の専売特許ではなく、誰もが語る権利があり、私たちはお互いに耳を傾けなければいけないということです」という発言に、非リベラルの方が政治的権力が強いじゃないかとの反論があった。
それについては、ジョセフ・ヒースがインタビューで紹介している考え方を踏まえれば、カズオ・イシグロの指摘も理解しやすい。
「文化政治を追求するのを選ぶ際に,左派の方が実はすぐれた戦略を採用していたとバノンの方は考えていた,という点です.『我々はホワイトハウスを占拠したが,かたやリベラルはハリウッドを占拠するのに専心している』と彼は発言しています.つまり,右派は国家を支配しているけれど,左派は文化産出の道具を支配しているというわけです」という部分だ。
ポリコレ的な思想が、ハリウッドやSNSのキャンセルカルチャーやSDGsを主導したことで、ある種の人間には「これから私たちの待遇はよくなりそう」と希望を与えたが、その希望の分配から取りこぼされた(にもかかわらず他人の希望実現のための協力は要請される)人間はポリコレに絶望したくなるのだ。
取りこぼされている人でも、最初の頃は素朴な正義感によって「今は私には直接益がないけど、でもマクロでは良いことだろうからポリコレ支持しよう」と考えることはあるだろう。
でも色々な物語や現代文化が自分を省みない方向に変化していく傾向が続き、私生活では自分が老いていく、そんな生活の中で絶望に接近する人が増えてしまう。
だから、これまでポリコレ思想が後回しにしてきたり、なんなら反省ばかりを促してきた「弱者とされない弱者」層にも、燦燦とした希望を与えなければいけない。
そのための物語をポリコレやリベラルの名の下に作らなければいけない。
最近だと同性婚禁止は合憲であるという地裁判決が出たが、それでも今後十年でパートナーシップ制度は広がっていくだろうし、改憲が行われれば同性婚が保証される目は十分にあるという希望は力強いままだ。
それと同種の希望を、弱者男性とか喪女とかインセルとかロリコンショタコンとかトー横キッズとか地方のおっさんおばさんとかプアホワイトとか反社反グレとかマイルドヤンキーとかにも見せなければ、彼ら彼女らの絶望と弱者強食自己責任への接近を防ぐことはできないだろう。
雑踏で凶器を振り回す物語、暗黒啓蒙の物語、面白パフォーマンスの政治家立候補者に投票して世間を困らせる物語、戦争が起きて皆が大騒ぎの物語、自殺の物語、それらよりも魅力的かつ彼ら彼女らが主役になれる物語が必要なのだ。
大阪地裁の同性婚の判決で、司法がこう言ってしまうってことは、仮に最高裁でも同じこと言われた場合、安倍夫妻みたいな結果的に子供いない夫婦や明らかに生殖が不可能な高齢になってからの結婚は目的を果たしてない(果たせない)ので離婚する(させられる)ことになるんだよな…?
でないと辻褄が合わないというか。生殖の目的果たせないから同性婚がだめなら、生殖の目的果たしてない異性婚夫婦も目的果たしてねえぞ!って脅してることになる気がして。
かくいう自分たちもDINKSで、はなから子なしのつもりで生殖をまったく目的にしてない夫婦だから判決見て「えぇ…?」という感じで。
不妊治療の限界の年齢のあたりで子どもいない、または妊娠してない場合は強制的に離婚か、これまでの配偶者控除とかもろもろを返還するとかになるの?
それか不妊治療してればOKみたいになる?それやると子ども産むつもりないのに税制対策で一回だけ産婦人科行って不妊治療したことにする夫婦も出そうだし、それを暗に援助する産婦人科も出そうだ。
と思ったんだけど、ゆくゆくは国の税収増やすために子ども産まなけりゃ夫婦であっても税制優遇しないぞって方向にもってくつもりだったりするのか…?
AEDで男性が女性を救助しようとしたら痴漢とかで訴えられるのかという話だが、訴訟にまで発展したケースというのはどうやらないらしい。
https://inoti-aed.com/aed-low1/
そんな無理筋な訴訟は起こしても勝てないというのが弁護士の見解のようだ。
そもそもことの発端になったらしいツイートは嘘だったと謝罪したようだ。
https://www.j-cast.com/2017/12/22317403.html?p=all
https://www.excite.co.jp/news/article/Sirabee_20161114321/
ここで逮捕にまで至ったケースがあるのかというとどうも無いみたいなことはわかる
https://togetter.com/li/1118204
果たして男性が女性にAEDを使用して通報されたことがあるのかの裏取りなんか個人にはしようもないが、人命救助にかこつけて痴漢したと警察呼ばれたやつがこいつです、まではいつでも可能だ。
果たして救命をしてる人を痴漢で通報する人がいるのか、もしそうならその通報した人は一体何者なのかという問題があるが、実際にAED 通報で検索しても情報が少ないが、裏取りしたニュースかはしらんが記事はあった。
つまり
AEDを使って痴漢やセクハラで逮捕や告訴に至ったケースはどうやらない、ということと、通報はあるのかないのかはっきりしない、ということまではなんとなくわかった。
実際に、心肺停止で倒れた女性に男性がAED使用してるんです!痴漢だから逮捕してください!と言われてほんとに逮捕する警官がいるとは思えないが、そこも警官次第な可能性はあるかなと思う。
そこから取り調べをして、AEDを使ってるさなか尻を撫で回したとか、胸をもみしだいたとかやってりゃさすがにアウトだが心配してる人たちはそんなことはしないだろう。危険だし。
要はFUDの一つだ。
だか、このFUDが真実味を持っているのはなんでか、っつー話だ。
まず、痴漢で告訴されたら人生詰みが確定している、事の真偽はともかくとして、というのは、それでもボクはやってない、の中で克明に事実として描かれており、痴漢周りのおかしな判決は山ほどあるので、そもそも男性たちの中では痴漢で告訴されたら終わり、というのが事実としてある。
次にツイッターにまん延している男がにくくて仕方がない怒りと恨みを常に撒き散らしている女性たちだ。
ツイートをしてる向こうにいるのが男なのか女なのか、一人で複数アカウント使ってるのか、本気なのか嘘なのか、男女の分断がしたいだけのゲリラなのかとかはこちらでは知りようもないのでやばい女がいるようだ、としか判断しようがない。
まぁ実際男ならそんなリスク顧みないで助けろよとかそんなのはあったようだ。何で私は感謝しかしませんという宣言をしないで攻撃してくんのかは理解できないが。
そして例のデマツイートだ。このツイート自体は謝罪を伴った悪質な嘘だったが最後の決め手でしかない。
最後に、いくら弁護士が止めようが訴訟を提起すること自体は止めようがないので、訴えることそれ自体は可能だ、という事実がある。
つまり男性としても事の真偽は別として、今AEDを使おうとしてるこの女性は当たりか外れか、外れだったら徹底的に戦わざるを得なくなるがそれでもいいのかという不安を植え付けることには成功している。
じゃぁ私がAED使うのかと言ったら使うし、告訴してきたら損害賠償請求するだろう。だけど知らない女性の胸をはだけさせるのはやはり抵抗があるなあ。
モテない男をあえて選んだつもりはないがいわゆる世間一般で言うモテない男、弱者男性?に当てはまるような人何人かと付き合ってきた女だけど、結論としては弱者男性やモテなさそうな男性は避けた方がいい。
結婚は余程性格があって相性が良くない限りは苦労する。というのが結論かな。
他責傾向ゼロで経験がないとはいえ本人に向上心や改善の意思があり人格障害や精神疾患がない場合は良いパートナーになれる可能性もあるかもだけど、普通の人が小中学校で人間関係や学業や人生に向き合って努力をしてる間、遊戯王などに人生を費やしてきた人たちなので。人生のスタートラインが普通より10〜20年ほど遅れていることになります。あなたと付き合い始めた段階から小中学校で行われるような人生に向き合う作業を開始するわけです、そこは女の人の許容範囲次第かな
確かに、優しくて浮気しなくて誠実で、とても大事にしてくれるし、マメに連絡もくれるし、本当は良い人たちだったよ。
でも優しいのは優しくしてくれる彼女に対してだけだし、良く言えば中学生がお母さんにカーネーション買ってくるような感じ、ピュアで優しい男の子。悪く言えば成人しても人間関係がお母さんにカーネーションを買ってくる感覚で完結しており、それで成人として相手と対等に責任を果たしてるつもりの人。
基本的に根本的な人間関係の経験値が少なすぎるから精神年齢が中学生。対等に大人と付き合ったつもりなのに、中学生のお母さんになったような気分にさせられる。
何でもかんでも中学生だと思って全部1から教えないといけないし、物事も安心して任せられない。中学生並みの精神性。褒めないと拗ねたりして、中学生なら可愛いけれど実際にはTwitterの中学生相手にムキになってる中学生と同じようなことを言っている成人のいい歳したおじさん。
普通の男性ってさ、優しくて浮気しなくて誠実で、とても大事にしてくれるし、マメに連絡もくれる、素直で良い人で、責任感があって向上心があり社会に素直に貢献する博愛精神のある対等な成人なんだよね。
となりました。
「時は幕末。京の都では、新選組の活躍によって幕府の権威が揺るがされつつあった頃である。
その年、一人の女が京の街に舞い降りた。名は、真野亜希子。後に『黒魔女』と呼ばれ恐れられることになる人物である。彼女はある日、京都所司代に仕える父に連れられて、江戸へ向った。目的は一つ。幕府の中枢にいる松平慶永に、ある提案をするためである。その内容は、将軍・徳川家茂を天皇家の養子にし、『徳川将軍継嗣法』を作るというものだった。真野亜希子はこの難題に対して果敢に立ち向かい、見事その役目を果たした。しかし彼女の行動には大きな謎があった。実はこの案は、彼女自身のアイディアではなく――」
美和子はそこまで読んで画面をスクロールさせた。すると本文が表示された。
「真野亜希子は、当時会津藩藩邸に住んでいた斎藤弥九郎から聞かされた話を参考にしたと言われている。そしてその話は、彼女の父親が会津藩士であったという事実を示唆している。果たして本当に真野亜希子はただの民間人だったのだろうか。あるいは、彼女が密かに『バテレン降魔術』を学び、それによって得た力で徳川政権転覆を企てたというのは考えすぎなのだろうか。
いずれにせよ、彼女は会津戦争の後、姿を消し、二度と姿を現すことはなかった。しかし真野家の家族構成は現在も不明のままであり、彼女が残した日記などの遺品も発見されていない。また、彼女に関して、いくつかの伝説が残っているが、それらの全てが真実かどうかは、今のところ証明されていない。だが、仮に全て事実だとしたら……
黒魔女は今もなお、この国のどこかで息を潜めているかもしれない……」
…なかなかの力作じゃない。さすがは元文学少女ね。
東電は、平成20(2008)年2月ごろに有識者の意見を求めたところ、「福島県沖海溝沿いで大地震が発生することは否定できないので、波源として考慮すべきであると考える」との意見が出されたことを受けて、遅くとも平成20(2008)年5月下旬から6月上旬ごろまでに、地震本部の長期評価に基づき、福島第一原発2号機付近でO.P.+9.3m、福島第一原発5号機付近でO.P.+10.2m、敷地南部でO.P.+15.7mといった想定波高の数値を得た。しかし、武藤副本部長ほかは、津波到来の緊急性は低いと考えた[74]。
この文章より東京電力は2008年頃には第一原発に15.7mクラスの津波が到来する事がわかっていた事がわかった。
さて、今回の考察では、この報告を受け入れたとして東電が堤防のかさ上げ工事をした場合3.11に間に合ったのかどうかを検討したい。
東京電力ホールディングスは、廃炉作業中の福島第1原子力発電所に最大で海抜16mの高さの防潮堤を新設する。日本海溝で巨大地震が発生した場合、建設中や設置済みの防潮堤を越える津波が来襲する恐れがあるためだ。2021年度に着工し、23年度の完成を予定している。
出典元 日経コンストラクション 福島第1原発に最大16mの防潮堤、完成目前の堤防越える津波予測で 2020.09.24
この記事より少なくとも2年程度の工期と1年程度の準備期間が必要な事が読み取れる。
さて、本題だ。
そこから設計+予算取得+施工計画を1年かかるとして2009年4月から工事を開始したと想定する。
最低でも2009年4月頃に工事開始していれば少なくとも1Fの津波被害は防げていた可能性が高い。
しかし、公開資料では実際に堤防にどのぐらいの工期がかかるかが、わからなかった為24ヶ月の設定したがもっと短いかもしれない。
ラッツ&スターは純粋に黒人憧れってああいうスタイルわけで、たとえばイチローに、オオタニに、トラウトに、ジャッジにあこがれて真似をする野球少年となんらかわらない純粋な憧れだったはずなのに今の文脈ではそれはゆるされず汚らしい差別的な行動ということになるわけである。
ここから先のよのなか、たぶんというか間違いなく正しく世界になって、いままで虐げられてきた人たちが完全ではないにしろすこしだけでもマシになるんだろうけど、そのうら、と言うかサイドでひねり潰されるなにかがあるんだろうなとは思う。
日本はグレートリセットすることで大きく繁栄するのかもしれない。明治維新、敗戦がその役目を果たしてきた。
今の日本も停滞している。グレートリセットが必要な時期かもしれない。
55年体制の崩壊のような甘っちょろいものではリセットにもならない。東日本大震災やコロナですら政治体制は維持されたため、単に日本の衰退をアシストするだけだった。
こういうこと書くと左派革命みたいなことを期待していると思われるだろうが、別に自衛隊が安倍元総理を担いでクーデターでも起こしたらリセットできるだろう。安倍氏を担げは、かつての五・一五事件や二・二六事件のような失敗にはならないだろうと思う。
三島由紀夫のような思想的リーダーが現れればさらに成功の現実味が湧く。
なんて、戯言を言いたいくらい自暴自棄になっている。実際、そんなことになったらマジで嫌だ。絶望する自信がある。今でもツライのに更なるドン底があったのかと絶望する。
よく見たらシュードウリジンがどうのって書いてあったので補足します。
シュードウリジンが自然免疫を抑制するとさまざまなメディアに触れられていますが、抑制、ではなく回避の方が言い方として直感的かと思います。この方もそう言った勘違いをしているのではないかと
私たちの体の免疫システムは優秀で、異物を即座に排除しようとします。工場で作られたmRNAは異物と認識され、その効果を発揮する(転写され、タンパク質が作られる)前に排除されてしまいます。このため、これは異物じゃないよーというマーカーをつけてあげる必要があります。このマーカーがシュードウリジンなのです。
どうやって発見したのか知りませんが、どうやらこれを付ける(正確にはウリジンとの置換)と自然免疫に捕捉されず、なおかつ正常にタンパク質に翻訳されるらしいのです。
というわけで、正常に目標のスパイクタンパク質を体内で産生させることに成功しました。するとこのスパイクタンパク質に対して先ほどの自然免疫が働き、炎症反応が起きます。これが筋肉痛、発熱などです。そうすると色々あって(ここはわかりやすい記事が大量にあるのでググってください)獲得免疫であるB細胞が特異的抗体を産生するようになります。ひと段落するとこの特異的B細胞は数を減らしますが、0にはならずに休眠し、また同じ抗原を認識した際にはすぐに増殖し、抗体をばーーーっと産生します。これが"二度罹りなし"で、一般的には免疫記憶と呼ばれます。
ここまで読まれて、じゃあスパイクタンパク質が変異したら意味がないのでは?と思われる方もいらっしゃると思いますが、
・抗体は特異的といえど多少のアミノ酸配列の違いならくっつけること
・そもそもスパイクタンパク質は細胞に侵入する時(≒感染が成立する時)に重要な役割を果たしているためここが大きく変異するとそもそも感染性を持たないこと
しかしやはりアミノ酸配列が違うと効率は落ちるので、オミクロンに対しては100%の効果は発揮できていないようです。
長文失礼しました。厚労省のほぼデータ改ざんには思うところもありますが、ワクチンの作用機序としてはこのような感じです。なにか質問があったら返信をつけておいてください。専門ではないですがキーワードを提示することぐらいならできると思います。
以降は私見ですが、やはり普通の人がインターネットで医療情報を入手すべきではないと考えます。冒頭のような勘違いを招いたり、民間療法に引っ張られるケースがあまりにも多いと肌で感じています。ここで言ってもどうしようもないけどね
子供を産んだ方が得で有る、というインセンティブが働くような政策を政府が行った結果
子供を産む女性が増えたとして、その子供を産むという行動は果たして女性個人の「自由意志」によるものであると言えるんだろうか。
「東京2020オリンピック SIDE:A」を観に行きました。個人的には良い体験だったと思うのでシェアをしたいと思います。皆さんも観に行くと良いのではないかと思います。ただ、すごく良いかというと、少しモヤっとするところもあったので、それについてもここに書きたいと思います。
わたし自身について書きますが、映画を劇場に観に行くのは年間5本か6本ぐらいで、平均と比べるとやや多いのかもしれませんが、映画が趣味とかそういう人間ではありません。河瀬直美については、代表作の名前や作風や人となりと噂については知っていますが、実際に作品を見たことはありませんでした。ドキュメンタリーを劇場で観るのは多分初めてです。こんな私がわざわざ好き好んでこの映画を見ようと思ったのは、いろいろなところで書かれている、この映画の評判について興味深いと感じたからです。私は基本的に暇なので、ネタ探しのためにゲテモノ喰いくらいの気持ちでした。
「シン・ゴジラ」の中で、ヘリからの俯瞰の視点でゴジラと白煙を吹く街を、ニュース映像のように描いた場面を観た時、この映画は震災を経た2015年の我々日本人にしか感じることのできない気持ちを「いま」与える映画だと思い、震えるような感動を覚えました。「東京2020オリンピック SIDE:A」はそのような映画だと思います。
オリンピックが始まる1年ほど前から、オリンピックに対する気持ちは冷めきり、オリンピックなんてどうでもいいだろ、とわたしは思っていました。世の中にはオリンピックや競技の勝ち負けよりも大事なことがある。この映画では、そのことが選手自身の口から何度も発せられます。藤井風の唄うエンディングのテーマ曲の歌詞にもそのような意味が込められているように思います。世の中にはオリンピックより大事なことがあり、選手個人にも競技より大事なことがあります。その中でもあえてオリンピックに挑み、それぞれの立場で高みを目指す美しさや厳しさがそれぞれのエピソードによく描かれていると思います。そして、オリンピックをそのような、やや冷ややかな目で見ている、2022年現在の私たちの気持ちに寄り添った映画として私には感じられました。
Yahooのオリンピック期間中のアンケートでは「日本にいくつ金メダルを期待しますか」という質問に対して、もっとも多かった回答は「メダルの数は気にしない」だったと記憶しています。そして、この映画はオリンピックをそのような目で眺める私たちの気持ちをよく代弁しているように思うのは先に書いた通りです。しかし、そう考えた時に、私たちはなぜオリンピックというものを見てしまうのか、なぜそこに感動をなお感じるのか、というところに対する疑問に、作者(河瀬直美)はあまり答えてないように私には思えました。この映画のいくつかのエピソードの中では、目標に向かって努力をし、力を出し切って勝利する瞬間のカタルシスを描いているのですが、そのようなある種古臭いスポーツの良さを正面から肯定はしない姿勢を繰り返し見せられてきたので、わたし自身、「なぜスポーツを私は見るのか。スポーツ観戦で得られる感動とはなんなのか」ということを、映画の後半ずっと考え込んでしまいました。
振り返ると、時代の雰囲気として、国別対抗戦としてのオリンピックで無邪気に騒ぐことができたのはシドニーやアテネぐらいまでで、東京オリンピック前のコロナ禍が仮になかったとしても、私たちのオリンピックの向き合い方は以前と同じではなかったと思います。とはいえ、我々は(或いは少なくともわたしは)オリンピックが好きで、それを見て分かりやすく「感動」するのであり、作者自身にもその目線はあるように思うのですが、その「感動」ってなんなのか、が置いてきぼりなのです。すみません、あまり上手く書けていないのですが、モヤモヤするところ、というのはこういうところです。このモヤモヤ感自体が時代の雰囲気で実は河瀬直美はそこも含めて描きたかったのか、とかそんなこともボンヤリ考えたりもします。
他のところでも書かれていますが、この映画が、IOCの公式として製作され、公開がされているということが驚きではあります。とはいえ、私個人の鑑賞後の感想として、いろいろな価値観を内包しつつも前に進むオリンピックという存在は、以前のようなシンプルに善な存在ではないが、全体として好ましいものだと感じたので、あからさまな問題作とかそういうものでもないと思います。オープニングとエンディングには木下グループのクレジットがかなり大きくでていて、この、やや微妙な位置付けの映画のスポンサーとして彼らの力が大きかったんだろうなあ、と思ったんですが、そうしたサポートを引き出すのに、一部で言われるような河瀬直美のステージ外での政治力みたいなものがあったのかななどという思いを馳せたりしました。
繰り返しになりますが、オリンピックとそれを取り巻く時代の雰囲気をよく反映している興味深い映画なので、もし誰かに行くべきかと聞かれたら観ることをお勧めすると思います。この映画を仮に50年後の人たちが見ても、いま私たちが見るときの独特の想いは得られないと思うので、そういう意味において旬の映画なのではと思います。
映画の意味や位置付けのようなものではなく、映画自体についてあまり書いてないと思いましたので追記をします。
全体を通じて、映画の中での音のあり方が印象的でした。例えば私たちはリアルタイムでは、開会式の聖火点灯をテレビ中継の中での厳かな興奮として見ていたと思うのですが、映画の中では静寂の中で大坂なおみが階段をトコトコと駆け上がる音が強調されていたように思います。このシーンは、無観客開催という非常事態性やメディアを通じたイベントとその向こうにある現実とのギャップの象徴として感じられました。また、緊迫した試合のシーンでは、選手のフッと吐く息の音を際立たせていたり(どうやって録音したんだろうって思いました)、試合中の映像の背後に練習中の音声を重ね合わせたりといった、細かい工夫をしているのも場面を盛り上げるために効果的な役割を果たしていたと思います。
映像としての美しさという点では、冒頭の雪を被った桜の花の光景は、シンプルに美しいと思いました。また、競技会としての東京オリンピックの思い出の映像、という意味でカタルシスに欠けるかというとそういうわけでもなく、たとえばソフトボール決勝に関しては、試合展開がほぼわかる形で比較的素直に描かれていたりもします。上映時間はやや長く感じたのも事実ですが、退屈というわけではありませんでした(鑑賞前は実はかなり退屈なのではないかと覚悟をしていました)。普通に映画やドキュメンタリーを普段から見ている人なら、相応の楽しみ方ができる映画だと思います。しかし、繰り返しになりますが、スポーツをいわゆる感動ポルノ的に消費するような映画ではなく、観終わった後に、ちょうど今の私のように、意味を考え込むようなそういう映画でした。
「そういや、閣僚会議で政治家が居並ぶ姿や、経営者が集うパーティーも男性ばかりだな」
そんなことを思っていた時、東京オリンピック・パラリンピック大会組織委員会の当時の男性会長が、女性が多い会議は時間がかかると述べたニュースがふと頭をよぎりました。「私どもの委員会の女性は、わきまえておられる」という発言も物議を醸しました。
「こわもて男性だらけの会議に出席するだけでも緊張するだろうに、『わきまえておられる』なんて言われたら、女性はさぞかし発言しづらいはず......」
それに対し、行きつけのスーパーで買い物をしている主婦のみなさんは、私を煙たがる様子などありません。店員さんたちは、私に何かを「わきまえる」よう求めることもなく、「いらっしゃいませっ」と毎日笑顔で迎え入れてくれます。
それどころか、ある日レジで会計を終えると、店員さんから声をかけられました。
「『いつも』ありがとうございます」
えっ、「いつも」来てるの知ってました? まあ、確かに目立ちますよね、私。こっぱずかしいけど、うれしいです。女性だらけの空間に、当初あれだけ感じていた心細さなどどこへやら。一気に吹き飛んでいってしまいました。
もちろん、店員さんは私が男性だから声をかけたわけではなく、何度も来店しているお客にはそう言ってるのでしょう。つまり、他のお客さんと同じように、私に対しても声をかけてくれたわけです。自分の存在を受け入れてもらっている感じがしました。
それに対し、会議で「わきまえる」ことを女性に求めてしまうお歴々の男性たるや......。しばらくのあいだ、平日昼間のスーパーで買い物してみてはいかがでしょう? 自分だけが異質な存在である空間が、如何に心細いものか肌でわかると思いますよ。
女性たちは会議室の中で、その何倍ものプレッシャーを感じてきたはずです。そして、改めて考えてみてください。果たして、本当に「わきまえる」べきは誰なのかを。(川上敬太郎)