はてなキーワード: 連続とは
「許せません!黒人が白人に酷い目に合わされています!コレを見て『うぉぉぉぉぉ人種差別超き・も・ち・よ・さ・そーーーーーーーーーー』と考えてしまう人がいたらどうするんですか?これは社会に対する立派な犯罪でしょう。あくまで映像であるといっても演技の中で実際に黒人が白人にハラスメントを受けているんですよ?画面の中の出来事は撮影現場で現実に起きているんです!ビンタをする演技だから大丈夫だって言うんですか?じゃあ私が今から貴方にビンタをするフリを1000000回連続でしますがまばたきをしないでくださいね。事故で1000発ぐらいは当たるかも知れませんが我慢して下さいね。映画の撮影ってのは時には監督の思いつきでビンタの演技をするときにほとんど本物に近いビンタをするのではないですか?それと同じですが貴方は耐えられないのですか?それなら私の言うことが正しいということです。だって映画の中で黒人が白人から迫害を受けるというのはつまりはそういうことなんですよ。もしも全てが安全に行われたとしても、完成した映像を見た時黒人がどう思うか考えてください?かつての自分たちの同胞がそうやって扱われていたことについて悲しくなるのではありませんか?自分のお爺さんの写真にツバを吐きかけられたら嫌な気持ちになるでしょう?人によっては逆に嬉しい気持ちになるかも知れませんが、それは自分の祖先が侮辱されるポーズを受けたことに対して今ココにいる私達が反応することを否定しませんしむしろその逆ではないですか?映画の中の黒人の過酷な姿に苦しむ人が沢山いるでしょう。たとえそれが歴史を語っているだけだと言われてもそれは確かに人を傷つけるのです。歴史的事実をただ映像化しているだけなんて言葉は言い訳にもなりません。こんな歴史は教科書の中にだけ事務的に記述すれば良いものであって、わざわざ俳優やカメラマンやまして脚本家や監督を用意してまでやるようなことではないと思いませんか?これを見て差別の残酷さを知ってもらおうなんてのは詭弁にもなりませんよ。結局映画なんてのは娯楽作品なんですよどこまでも。娯楽化しているんですよ差別の歴史を。許せません!映像の中であればインモラルな行為に及んでも良いという発想は絶対に許せません!」
放置してたら狂人が起こすようなトラブルを次々に生み出すので、狂人扱いされると言うか、それこそが狂人そのものです
ルパンのモノマネがうますぎたらその人はルパンになるわけで、狂人たろうと狂人としての振る舞いをしているのだったら、それは狂人です
もしプーチンが自分のことを正当な行いをやっているつもりで、狂った選択の連続をしていたのだとしたら、それもまた狂人です。
その人がどのように思考しようが、言動が全てです。プーチンが本当に狂っていなければ、戦争は起きませんでした。
彼は国のトップで頭いいから深遠な思考をしていて、我々凡人にはわからない深い考えがあるんだ〜。っていう、浅すぎる考え方よー
まあ、あなたがそうだとは言わないけど、偉い人が言ってるんだから間違いない。みたいな論拠はやめておけよ
プーチンの言動を養護するなら、プーチンには我々にはわからない考えがあるんだ!とかいうアホ理論じゃなくて
ちゃんとプーチンの思考をせいりして、それが正当であることを示さなければだれも納得しないし、プーチンは狂人
てか、プーチン狂人とまでは言わんけど、まともな政治判断はできてないし、その政治決断のせいで無用な血を流してる時点で、全然養護できないからな。
最初の100万円さえ貯まれば、あとはお金が貯まるとよく言われている。自分は、かなり昔に「そんなことあるのか?」と思っていた。
100万円を貯めるのに結構な時間がかかるのなら、そのあと200万円を貯めるのは同じぐらい時間かかるのではないか?と思っていた。
重要な観点がある。最初の100万円を貯める前というのは「人生でまだ1度も100万円を貯めたことがない」という状態でもある。貯め方・ノウハウがわからないし、その感覚もわかりにくい。
ここでは、いま100万円ない人、100万円たまったばかりの人に対して、その感覚を伝えていこうと思う。
100万円もあると、ほとんどのものは買えてしまう。ちょっといい外食も全然行けるし、世界一周旅行もギリギリできるかどうかの値段だ。それこそゲームソフトで考えれば月3本を10年連続で買えてしまう。
生活に必要なもので大きな買い物というと、ドラム式洗濯機などで、高いものだと30万円ぐらいのものがある。また、高性能のPCが40万円ぐらいになっていたりする。または中古車などだろうか。一括で買えてしまうのだ。
「手元に100万円ある」という状態は、こうしたものや生活必需品が「今すぐは必要ない」という状態でもある。生活がある程度安定しているのだ。「買えるけど買わない」という状態である。
100万円に到達する前はそうではないことが多い。たとえば引っ越しの際にいろいろとお金がかかったり、よくわからないが「生活に必要だと思われるもの」の出費によってどこかに消えていく。
100万円以前のときは、要は生活に関する出費が多いのである。そのためいろいろと増減してしまう。増えたと思ったら減り、一向に増える気配がない。「このままのペースだと、全然たまらなさそう」だと思ってしまう。
実際、仮に月3万円を貯蓄に回しても、100万円貯まるのは3年後だ。ということは1000万円貯まるなどというのは遠い未来すぎて想像もつかないように見える。
しかし実際はそうではない。100万円貯まった状態で生活レベルを上げなければ支出が自然と減るのである。また、年数が経っていることで昇給したりもして、貯まるペースは加速している。
100万円貯めるのは大変である。大変だったからこそ「大変な思いをして貯めたものを、むざむざしょうもないことに使いたくない。良いことに使いたい」という心理も働く。
100万円があると、転職にも目を向けやすくなる。数ヶ月無職になっても一応どうにかなるという心の安定剤となる。人生における自分の選択肢が増える。
貯蓄が100万円という数字はただの数字ではなく、そこまで困窮していないことの証でもある。「100万円あったらほしいもの」が現実化しているのだ。
生活が安定し、こうした気持ちが相まって、お金が貯まりやすくなる。それに、1度攻略してしまったのだ。成功体験もある。100万円を貯めた人というのは、どういう方法であれ「100万円の貯め方を知っていて、経験して、達成した」という人である。
だから次の100万円は容易になる。今度はなにせ生活が既に安定した状態からスタートしている。生活にゆとりがあるのだ。
すると不思議なことが起こる。たとえば、最初の100万円は3年かかったのに、次の100万、つまり合計200万円は、出費が減って、今度は1年ちょっとで貯まってしまうとか、そういう感じだ。
こうなるとおもしろい。
貯蓄が100万円なかったころは「1000万円なんて30年後だよ」と思っていたのが、2年後に「長くてあと8年」というふうになっている。考え方が全然違ってくる。こうしてどんどん貯まっていくのだ。笑いが止まらないほど貯まっていく。
貯めるとか投資するとか、結局将来の自分の利益のために、今の自分がお金を使うということでもある。死んでしまえば元も子もないが、なかなか現代日本でそうかんたんに死ぬことはない。
人によっては現在の自分を「どのぐらい犠牲にしてもいいのか」で割合も変わってくるだろう。だから月々の「貯めるという行動」の金額は人の価値観によって異なってくると思う。ゼロ以下なら刹那的・現在至上的である。
お金を貯めるという先を見た使い方を、「先見の明がある」と言ってもいいかもしれない。
渋谷の繁華街近郊に住んでるけど、最近は平日でも深夜まで路上飲みしてる人がたくさんいて外から大声が聞こえるし、土日は家から駅まで普通に歩いたら7,8分の距離が人が多すぎて15分くらいかかる。週末のクラブは人気がある箱だと、人が多すぎて満員電車みたいに動きが取れないくらい混んでる。大型商業施設では以前は建物入口の他に各ショップの店頭にも置かれていた消毒用アルコールがないお店も増えたし、連休中に開催されていた肉フェスはCOCOAアプリをインストールするよう促されるだけで画面の確認もされず、スタッフによる検温や消毒もなかった。政策判断をする層と一般の人たちの間でのコロナへの警戒感や恐怖心、危機感みたいな部分の差が以前とは比にならないくらいに広がって、一部とはもはや埋められないの感覚の開きがあると思う。今のまま二類相当とし続けるのは無理がある。
漫画の良さには読むときの認知コストの低さ・連続的な時間拘束が不要という
だから釣りバカ日誌みたいな毒にも薬にもならない内容はむしろ漫画でやるべきだし媒体選択として正解
家族でファミレスに行ったとき、全員の注文を言ったつもりだったが、漏れがあった(短期記憶の喪失)
何故かわからないがICカードを切符入れるところに頑張って入れようとしていた(やばい)
しかもすぐにはなぜ入らないかがわからず、どうせ新幹線に乗るので新幹線の切符を買って入場した
1日1回やりとりしてるLINE相手に、2回連続で同じようなこと言ってた
うつ病の初期症状ですか?
連絡したら自称首吊り士の白石みたいなのが待ち構えてるんじゃないの?
ただ、携帯やネットがない昔はそれっきりで行方不明になったまま時効になってると思うよ
座間の事件だって行方不明になった女性の親族が頑張らなければ明るみに出なかっただろうし、
美人局と同じで
3連休前日の夜、「エブレフェールの内壁」から先に進んで、ゲーム中最強ボスと噂の「ミケラの刃マレニア」と戦ってみた。
強いとは聞いていたけど、いやはや、ほんと強い。何度もやられて途中に休憩を挟みつつ(心折れつつ)1時間半くらいは戦い続けてたと思う。
ほぼ同じ行動の繰り返しで1時間半も連続して失敗し続けるとか、人生の中でもそうあることでない。
まったくもって勝てる気がしない中、運良くHPを削った時に「黒き刃ティシー」の攻撃が重なって、自ら最後の一撃を決めることもなくようやく撃破(なんだか虚しい)。
エルデの王は「ティシー師匠」に他ならないと実感させられた一戦だった。
ちなみに、この時点で自キャラはLV155。けっこう高いと思うのだけど、まったく余裕なんぞなかった。
翌日3連休初日には、途中まで進んでた「崩れゆくファルム・アズラ」の攻略へ。
ここでも「ティシー師匠」に御出陣願って「神肌のふたり」を撃破、その先でいかにも落下死しような場所で「ここから先、下が有効」とかメッセージ出てるので先に進んでまたメッセージを読もうとしたら、いきなり自キャラが地面に寝始めて「????」となる。
派手なムービーが始まって、「崩れゆくファルム・アズラ」再生?とか思ってたら、そうではなく裏ボスらしい「竜王プラキドサクス」戦に突入。
「マレニア」に比べたら動きは遅そうだし、なんとかなるかな?と思ってたら、瞬間移動とか長距離ビームとか、まぁ、ろくでもない。
何度か戦って、近接装備ではまったく勝てる気しないので、ここは放置して先に進むことに。
いかにもラスボス部屋の雰囲気を漂わせる建物の前で「ツリーガード」を撃破、「獣の司祭」戦へ。
「獣の司祭」は近接でも無理なく戦える雰囲気だったけど、第二形態の「黒き剣のマリケス」はヤバかった。
心折れて攻略サイトを見ると「冒涜の爪」でマリケスの動きが止まるとあったので早速試すも、「マリケスの剣が光る攻撃に合わせてアイテム使う」とか、余裕のない自分にはまったくの無理ゲーで、戦闘中の操作が増えた結果、余計にYOU DIEDすることに。
ここを放置したら、もうLV上げに戻るか心折れて放置するかの2択だったので、「冒涜の爪」なんぞ使わず、気合を入れ直して1時間ほど戦い続けて、なんとか撃破。
灰都となったローデイルで放浪して、円卓にいた頃からいかにも怪しかった「百智卿ギデオン」に遭遇、人型のキャラ相手なら特大剣の獅子斬りはとても有効で、さほど苦労せずに撃破。
続けて「最初の王ゴッドフレイ」戦となったのだけど、変身後の「戦士、ホーラ・ルー」は個人的には「マレニア」並みの強さだった。
格ゲーみたいな走ってきての掴み攻撃とか、けっこうな広さの範囲攻撃に苦労させられて、もはや近接戦闘は無理なのかと思い始める。
この戦闘で初めて範囲攻撃をジャンプで避けるのを覚えたけど、ジャンプで攻撃避けるって、まるでマリオみたいだなと思った。
長距離攻撃とか試して何度も徒労に終わりながら、ここでも1時間以上は戦っただろうか、最後は「マレニア」に続いて、またもや「ティシー師匠」がフィニッシュ。
続けて「黄金律ラダゴン」戦から「もののけ姫」に出てくる「デイダラボッチ」みたいな「エルデの獣」を撃破。
苦手な巨大ボスなので近接攻撃が当たりずらかったけど、その前のボスに比べるとラスボスにしては比較的あっさりと勝てた。
ワープした先で深く考えもせず「青い召喚サイン」で「ラニ」を召喚したら「星の世紀」でエンディング。
正直「星の世紀」がどうゆう話なのかあまり理解できていないし、どうも大団円とは言えない内容だったけど、エルデの王になるよりマシなエンディングだったのかなと思った。
ちなみに、エンディング前に訪れた場所には祝福があったのだけど、連続するボス戦で頭が回ってなかったのか解放せずにラニを召喚したので再訪できなくなってしまった。
なんだかすごく気になるので、これからエンディングの人は気をつけてほしい。
エンディング後は攻略サイトを参考に各地の取りこぼしアイテムを回収したり(取りこぼし大量にあって驚いた)、ルーン稼ぎで色々な武器を強化。
連休最終日の昨日、最後の締めにと「竜王プラキドサクス」に再挑戦するも、相変わらず近接ではまったく勝てそうな気がしない。
攻略サイトで「使者たちの長笛」の「降り注ぐシャボン」が有効との情報があったので、急遽信仰を上げて即席のなんちゃって「筋バサ」で再戦してなんとか撃破。
この時点ですでにLVは170。
たとえLV200でも楽に勝てそうな気はまったくしない。
「降り注ぐシャボン」は動きの緩慢な大型ボスにはほんと有効で、放置していた古竜もかなり楽に勝つことが出来た。
中盤くらいからずっと愛用してきたグレートソード(個人的にはベルセルクのガッツ「ドラゴン殺し」)で終われなかったのは残念だけど、これはもう仕方ないというか、近接攻撃のみでは勝てる気がしない。
その後、伝説のアイテムを一通り回収、Steamの実績も別エンディングを含む3つを除いて達成。
エルデンリングをやり始めたのが3月下旬、この日記を始めたのが4/4(anond:20220404161530)、以降ほぼ毎日プレイしていたと思うけど、ここまで集中してやったゲームは久々だった。
理不尽なボス戦、頻発する落下死、どう見ても落下死するしかない透明な床(オフラインだとクリア不能では?)、ダッシュボタン押しながらジャンプのボタンと同時押しでないと発生しない長距離ジャンプ(格ゲー的なコントローラーの持ち方推奨)、進行しずらいNPCイベント等々、不満というか心折れそうになったことは数えきれないけど、それでもやっぱりエルデンリングはたいへんよく出来たゲームでした。
個人的には、ダークソウル以上にデモンズの思い出補正に応えてくれたのが嬉しかった。
今は2週目やるかどうか悩み中。
これだけ苦労して撃破した後半ボスが強くなって戻ってくるとか悪夢でしかないけど、再戦して負けると、またやってしまうのだろうな。
今後の目標
・褪せ人卒業
・新卒・若手女性社員へ 辛いと思ったらすぐに転職してください
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約10年前の話になる。
200人の同期と3か月間の集合研修を終えた私は、
期待と緊張で胸いっぱいで現場に配属された。
配属先には20代の若手社員もいなければ、女性社員もいないと聞いていた。
早く先輩方の役に立てるようになるだろうか。
不安はあれどとにかく笑顔で明るくを心がけ、配属初日に挨拶回りを行った。
その時に、背筋がぞわぞわとする嫌な違和感を感じた。
初対面である。初対面で彼氏がいるかといったプライベートなことを聞くだろうか。
なお相手は40代の男性社員であり、年齢的に距離感が近いということもない。
また、成人している社会人が「女の子」と呼ばれることにも違和感があった。
しかし、この違和感はその後挨拶した社員(30半ば~60代男性)ほぼ全員に対して感じることになった。
「"女の子"に電話を取ってもらった方が嬉しいから、電話番お願いね。」
「"女の子"だけど大変じゃない?」
私の名前は「女の子」ではなく増田である。と何度思っただろうか。
また、やたらと「女の子だから○○?」と聞かれるが質問の意図が理解できなかった。
いわゆる女の子らしい、おしとやかだとか愛嬌があるような振る舞いなど
また、異性にちやほやされたこともなかった。
そんな私が、新入社員や新人や一人の人間ではなく「女の子」として見られ、
「女の子」としての役割や振る舞いと求められているように感じた。
正直、辛かった。
その後3年間、私は「女の子」として職場の男性に奉仕することになる。
1日あたり30~50件ほどの電話の取次ぎ、
世間話の相手(妻の愚痴や「女の子には分からないだろうけど」「女は楽でいいよな」といった男尊女卑の話が多い)、
と返され何も教えてもらえないため、聞き方に気を付けなければならない。
他部署の30代半ばの女性社員が幣部の男性社員に話しかけるときは
座っている相手の横に跪き、猫なで声で、相手を持ち上げてから要件を話していた。
「○○さ~ん!この前は本当に助かりましたぁ。さすが○○さん!
ところでお願いがあってぇ。この件なんですけど・・・
○○さんお願いしますぅ!」
私もそのようにしなければならないのだろうか。
猫なで声はできなかったが、
床に跪くところと相手を持ち上げるところを真似して
質問するようにしたら会話してもらえるようになった。
「足を出せ。スカートを履け。」
「男なんてころがせばいいんだ。スカートを履け。」
指導は何年も続いた。
役職者のお酌をずっとしていた。
飲み会の帰りには、入り口に立たされ役職者の60代の男性と握手させられた。
辛い思いをしているとよく言われた。
「可愛がってもらってるんだよ」
「可愛がってもらっているうちが華だよ」
「女の子は楽でいいよね」
女のくせに働かせてもらえているだけ有難いんだ。
女だから体を触ってもらったり男性関係を聞かれたり可愛く媚びることを求められるのは
可愛がられているからなんだ。
当時、「女でも頑張って働かなくちゃ」という趣旨のメッセージをSNSに投稿すると、
「あのババアが!」とオフィスで本人にも聞こえる声量で怒鳴ったことがあったり、
「しゃべり方がむかつくんだよ!」と怒鳴り泣かせており、
入社初日にまず会社のエレベーターに乗った時に驚いたことは今も覚えている。
転職先では、男性がエレベーターの入り口付近に立ち開閉ボタンを押していたのだ。
今までは、女性がへこへこしながらボタンの前に急いで行き(先に男性がいたらすみませんと言って交代する)、
私は本当に驚いた。
猫なで声で話す女性がいない。
媚びなくても業務を教えてもらえる。会話してもらえる。(※当たり前だが社会人としての気遣いは必要だ)
女性のプライベートを聞いたり、昨晩行った風俗についてオフィスで話す男性がいない。
お茶くみ係がない。
雑用は新人が行う。(翌年かその翌年に新しい新人に交代される)(女性固定ではない)
飲み会で若い女性がお酌係やオーダーの取りまとめや皿の片づけをしておらず、
「女の子」と話しかけられず、「増田さん」と言ってもらえる。一人の社員として扱ってもらえる。
転職して数年がたつが、素晴らしい会社とご縁があり本当に感謝している。
仕事は大変になった。覚えることはなくならないし、責任が増えていく。
「女の子」の指導をされたこと、職場の男性に奉仕していたことは、
ただ搾取されたにすぎなかった。
上記の会社は現在も東京都内にあり、怒鳴った男性含め現役です。
辛いと感じたらすぐに環境を変えた方がいいと若い女性社会人に訴えたいと思い、筆を執りました。
アリの下顎歯(mandibular teeth)を原子レベルで配置を観察すると "亜鉛(Zn)" で切れ味を最大化していることがわかったそうな。
サソリの鋏角、爪、尾部の針、クモの牙などでも同様で、先端部に亜鉛(Zn)が均一に配置されていることが判明した模様。
人の歯と同じ生体材料で作られた場合に比べて、60%以下の切断力で十分であると推定されるそうな。
『へぇ〜・・・すごいなぁ🤔』とは思う、『美しいなぁ・・・』とも思う。
ただ、蟻や虫に対して思い入れがないし、ナノ畑の人間でも素材開発畑の人間でもないので、
『うぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉ』とは別にならない。
何かをキッカケにまた思いだすことはあるかもしれないが、とりあえずバナナを食べて牛乳飲んだら忘れる程度の興味レベルだ。
それに対して、ワイくんの部屋にずらりと並べ飾られている、ポスター、フィギュア、円盤、関連本、薄い本たち。
これらはすべて美少女Aちゃんなのだが、今のワイくんは、美少女Aちゃんの何が良くて熱心に集めたのかまったく思い出すことが出来ずにいる。
原因は不明だが、寝て起きたら、美少女Aちゃんに関する記憶だけがワイくんの中から綺麗さっぱりと消えていた。
今のワイくんにわかるのは、寝て起きる前までは、熱烈な美少女Aちゃん信者だったと言うことだけである。
少なくとも蟻の下顎歯の強靭さよりは強い関心と興味を持っていたはずだ。
ところで、ワイくんはお引っ越しプロジェクトの真っ最中である。
ずっと貰っていたお仕事が無くなってしまったので、しばらく実家に置いてもらおうという心積もりで、お部屋のお片付けをしていた。
なので、この美少女Aちゃんグッズをどうするべきか?は早急に解決しなければならない問題だ。
ちなみに美少女Aちゃんグッズを売ったら幾らになるのか、過去のオークション・フリマアプリ・中古ショップの履歴を確認したところ、二束三文のようだ。
その上、美少女Aちゃんは人気が無かったのか、現在は売りに出している人は誰もおらず、万が一記憶が戻って美少女Aちゃんを買い戻したくなった場合は、
かなりの出費と労力が掛かりそうだ。
じゃあ、トランクルーム・レンタル倉庫でも借りて、とりあえずはそこに美少女Aちゃんグッズを置いておくか・・・?とも一瞬考えたが、
収入減で少しでも出費を減らしたいから実家のご厄介になろうとしているのに、新たな固定出費を増やしたら本末転倒である。
なによりも、今現在のワイくんは、美少女Aちゃんに対して蟻の下顎歯の強靭さくらいの興味しか持てないでいる。そこに無いお金を今払いたいか?と言えば正直NOである。
美少女Aちゃんグッズは寝て起きる前と何一つ変わっていない、変わっていたとしても人間には認識不可能なレベルの経年変化しかないのに、
ワイくんが美少女Aちゃんの記憶をきれいさっぱり失ってしまったが故にいっきに無価値になってしまったのである。
目を閉じ、開けば、部屋中に美少女Aちゃんグッズはまだあるし、触ることもできる。
だがワイくんが価値を置いていたのは物ではなく "記憶(想い)" だったのだ。
"記憶(想い)"に重きを置いてるのに、居住スペースを物理で圧迫するのは、理不尽の極みなのでは?とますます美少女Aちゃんグッズ不用の気持ちが強くなったが
どうしても、えいや!と投げ捨てる決心はつかない。
実在する物ではなく、自己の認識にしか存在しない "記憶(想い)" に重きを置いていた事実に、薄ぼんやりぼんやりとした罪悪感と恐怖を覚えるのだ。
あるSFでは自己("I")を記憶(想い)の連続と定義している。
精神科か脳神経科か物忘れ外来か・・・ワイくんはこのあと何科にご厄介になるべきなのかは知らねど、とりあえず記憶障害を起こしており、
実在する物として今ここにワイくんは"有る"が、ワイくんは昨日までのワイくんでは無くなってしまったのだろうか?
もちろん、不動産管理会社には退去連絡をしてあるのでワイくんはとっととお部屋のお片付けをして期日通りに部屋を明け渡さねばならないし、
"I (アイ)"がなんであろうと、腹が減ったら苦痛を覚えるのが生命現象の仕様なので、今のワイくんがなんであるかは?とてもプライオリティーが低い問題ではある。
だが、今からお世話になる実家の両親が重きを置いてるのは、今ここに物理で有るワイくんだろうか?それとも記憶(想い)のワイくんだろうか?
まぁその答えが例え出たとしても、部屋のものがスッキリ梱包されたり、ほかほかのご飯が自動的に出てくるわけでは無いので、それもどうでもいいと言えばどうでもいい。
しかし、それでも引っかかるのだ。
架空の美少女Aちゃんのだったから良いものの、これが犬猫小鳥トカゲなどの生きているペットや人間だったら?
実在する物ではなく、自己の認識にしか存在しない "記憶(想い)" に重きを置くことは果たして許されることなのだろうか?
またワイくんたちは、人・動物・物に対して愛を誓うが、
その愛は、実在する物に対して誓われたものなのだろうか?それとも自己の認識にしか存在しない "記憶(想い)"に対して誓われたものなのだろうか?
かの有名な『ロミオとジュリエット』の中で夜ごとに形を変える月に愛を誓うなんて不実!みたいなシーンがあるが、
実在する物も、自己の認識にしか存在しない "記憶(想い)"も、万物はすべて変わるし、
そもそも"I (アイ)"自体が不確かなものなのだが、誓いとは、想いとはいったいなんなんだろうか?
ワイくんたちは、なんだかよくわかないものを大層ありがたがって生きているのだろうか?
これも、『うるせーーーー!!!!!!!!!生命現象の秩序維持になんら影響しねーーーーだろ!!!!!』といえばそれまでだが、
いったいワイくんたちは何だったらわかる・ありがたがる価値があるのだろうか?
「石の卵」という本を見た子供が、内部に宝石の入った石を探したいと騒ぐので、家族で川原に行くことになった。
ところが、川辺のキャンプ場の駐車場に車を停めて川原を目指して歩いたところ、川原へ通じる小道の全てが封鎖され、「立ち入り禁止」の立札が立てられていた。
車へ戻り、堤防沿いや川にかかる橋を通過してみたりして気づいたが、連休中でしかもいい天気なのに、川原には川遊びをする人々どころか釣り人さえ一人としていない。いつの間にか、川原全体が立ち入り禁止区域になっていたようだ。
そんな訳で石拾いは諦め、翌日、市営のちょっと大きな公園に行った。お目当ては、公園の中心にある池だ。そこではザリガニ釣りと鯉に餌やりをすることが出来るのだ。
公園に着くと、まずは散歩がてらぐるりと一回り。ここに来たのは数年ぶりだが、昔とほとんど変わっていない。芝生や樹木は手入れがなされてさっぱりとした様子。遊具では沢山の子供達が遊んでいる。噴水は十分おきに水を吹き上げる。そこに水着姿の幼児達が水浴びに興じている。
変わった点はというと、芝生の半分くらいは沢山のポップアップテントに占拠されていて、子供達が走り回る場所ではなくなっていたことくらいか。
だが、ふと気がついたが、うちの子供達は既にこういう公園で遊ぶような年齢ではなくなりつつあるのかもしれない。テントの合間をぬうように走り回る子供達より、我が子らはだいぶ大きい。うちの上の子は小学五年生だ。下の子は二年生で小柄な方だが、それでもこの場所では少し浮いているかもしれない。
池に行ってみると、昔のように畔には燕子花が葉を伸ばし、浅瀬は蓮の葉に覆われている。そして、池の中央にかかる橋から池に餌を投げ込んでいる人々がいた。どうやら今も池の鯉用の餌が売られているようだ。
そこで、子供達を連れて公園の入り口まで戻り、管理事務所に入った。昔は事務所の窓口で鯉の餌が売られていたはずだ。ところが、今は販売システムが変わっていた。事務所の裏口で「鯉・カモの餌」と「ザリガニ釣りキット」がそれぞれカプセルに入れられた状態で販売されているのだ。1個100円なり。
昔、子供達がまだ幼児だった頃は、どんなにせがまれても鯉の餌やりやザリガニ釣りはさせなかった。池の深さはそれなりにあるのに、周囲に柵などが全く設置されていないからだ。子供達が池に落ちるのを畏れた。だが、今では子供達も大きくなったことだし、これからはこちらがここへ遊びに来ようと誘っても子供達の方が億劫がるかもしれない。もしかしたら、これが最初で最後の機会になるかもしれないと思った。
子供達は大喜びだ。上の子は鯉とカモの餌がいいと言い、下の子はザリガニ釣りキットを選んだ。鯉とカモの餌は思ったより多く入っていた。ザリガニ釣りキットは、タコ糸の先に小さな鉛の玉とスルメの切れっぱしをくくりつけたものだった。それを園内で適当な木の枝を拾って結び着けて使うのだ。
上の子に私がつき、下の子には夫がついた。私と上の子は池に餌を投げ込み易い、開けた場所に移動し、夫と下の子はザリガニがいそうな、浅瀬で草の陰になっている場所へと移動した。
池の中を泳ぐ魚影は、昔に比べてだいぶ少ないように見えた。だが、一匹一匹がとても大きい。昔見たのよりも全長が倍くらいありそうな錦鯉が、泥水の中を悠々と泳いで行く。上の子はただの黒い鯉よりも錦鯉に餌を食べて欲しいらしく、餌を一粒ずつ、腕を振りかぶって遠投するが、まったくのなしのつぶて。どうやら、鯉達は全く腹を空かせていないらしい。風上の方から、ふやけた餌粒がいくつも漂ってくる。
黙々と餌を投げ続ける上の子の横で、私はしゃがみ込み、時々水底に光る小魚の影や水面を漂う餌粒の合間をすいすいと泳ぐアメンボを眺めた。
「あーあ、全然食べてくれない」
と、上の子が嘆いた時だった。燕子花の葉陰から、カルガモが二羽、クワックワッと鳴きながら泳ぎ出て来、水面に浮かぶ餌粒を食べ始めた。ただ水の流れ任せにたゆたっていく餌粒を、カモはまるで生きている虫を捕まえるかのように、律儀に大げさに嘴を左右に振って、食んだ。そして、クワックワックワッと、まるで我々のことを「餌くれる人」と理解しているかのように見上げて鳴くのだ。時々田んぼの近くを散歩中に見かける彼らとは、ずいぶん態度が違う。用水路に浮かんでいる時の彼らは、人の気配がするやいなや、バタバタと飛び立ち、逃げてゆくというのに。人を見分けているというより、場所を見分けているのだろうという気がする。
間近で見るカルガモは、思ったよりも目が顔の中心よりも上にあって、しかも目付きが鋭い。剣呑な目の真ん中の瞳孔は、鳩のそれと同様に虚ろだ。確か、渡辺崋山だったか……、江戸時代の終わりごろに、師匠の絵を手習いにするのではなく、自然の花鳥風月を直接手本にして描く絵師がいたけれども、彼らの観察眼はかなり自然に忠実だったのだなあと、しみじみ思う。今目の前にいるカルガモは、私の子供時代にワイドショーで持て囃されていた、雛を沢山連れて道路を横断するカルガモの親よりも、江戸時代の写実画によく似ている。
上の子は、鯉を狙って餌を投げつけている間に投球のコントロールがよくなり、高確率でカモの真正面に餌を投げ込んだ。ところが、そういう時に限って、カモ達の食い付きは悪い。上の子の贔屓は、二羽のうちの後方にいる方で、これは前方に出て盛んにクワックワッ鳴いて餌を強請る奴よりも小柄で控えめに見えた。上の子は手前のカモに一粒投げたら、後ろのカモに二粒連続で投げた。だが、後ろのカモがきょとんとしている隙に手前のカモが自分に投げられた餌そっちのけで後ろのカモの分を横取りしてしまう。
上の子が文句言い言い餌を投げる。ぼんやりと浮かぶだけの後ろのカモと、その周りを忙しなく動き回って餌を独占する、手前のカモ。後ろのカモがこちらに真っ直ぐ顔を向けたままほぼ動かないので、真正面から見たカモの顔つきの不気味さがよく見える。ウサギなんかと同じで、目が顔の左右に着いているので、真向かいに向き合っても視線が合うことはない。カモのような鳥が真正面から絵に描かれることが少ないのは、我々人間の顔とは違う顔をしているからであり……はっきりいって、正面から見ると別に可愛くないからでもあるんだろうな。
と、考えていてふと気づいた。単に視野の問題なのだ。私は上の子に餌を一粒貰い、後ろのカモの左脇を狙って投げた。すると、すかさず手前のカモも反応したが、後ろカモは横取りされる前に餌を食べた。やっぱり、目の前に落ちた餌は、見えないので気付き難いようだ。後ろのカモに与えようとして投げた餌はちょうど、手前のカモの視界をよぎって飛んでゆく。
そのことを上の子に伝えたところ、上の子は二匹のカモに代わる代わるに餌を食べさせることに成功した。
カモ達の食欲は底なしに見えたが、少しすると食べ飽きた様子で、餌を拾うのを止めてただ水を嘴で掬って飲んだ。水を飲むときは首を真上に長々と伸ばして、軽く嘴を左右に振りながら嚥下する。
ふと、後方のカモがブルッと尻を振った。茶色い水中にあってもオレンジ色の鮮やかな、しんなりとした脚の周りを白いもやが漂っていく。
「すごい、うんちしたー!」
なるほど、カモは水面に浮かんだままで排泄をするのか。野鳥の排泄なんて、カラスが電線から飛び立ちざまに排泄をしてゆくところくらいしか見る機会がないので、いいものを見た気がする。Eテレの動物番組でも、なかなか映さないのではないか。せいぜい、ツバメの雛が親の顔に尻を向けて、ゼリー状に固まった糞を排泄して、親に糞を巣の外に捨てて貰う場面くらい。
そういえば、冬に下の子を連れて散歩をしていたら、田んぼの真ん中でアオサギが糞をしているのを見かけた。まるで水道の蛇口のように、長々と糞を噴き出し続けていた。食ったらすぐ全部排泄する。それが空を飛ぶ鳥の習性だ。
餌を全て投げ終わったので、夫と下の子の所へ行ってみると、下の子はザリガニが全然釣れないと愚図っていた。下の子はすぐに癇癪を起こすが、案外粘り強い性格なので、取れないが食い付きはするからと、釣り上げるまで諦めないと言った。だが、夫の方が気短なので、早く帰ろうと言い出した。
夫は、釣り場選びから釣糸の垂れ方まで下の子に口出しをしただけでもう疲れたらしい。池の周りには、夫と同じように子供以上にマジになってしまった父親達と、うんざりして別のことをやり始めた幼児があちこちにいる。
どうしてもザリガニが釣れないので、鯉とカモの餌をもう一つ買って下の子に与えた。カモは目が左右に着いているため、真横はよく見えるが真正面はよく見えないようだ、と教えると、下の子はカモの体側にぶつけるように餌を投げた。カモは即座に反応してくるくる回りながら餌を取った。下の子がそうして黙々と餌を投げてると、やはりザリガニ取りに飽きたらしい幼児が我々の横にとことこ歩いて来て、ハルジオンの花をカモに向かってぽいぽい投げた。数メートル先の池畔では、その子の父親が虫捕り網を手に持って、
と怒鳴っていた。
帰宅後、釣果が何もなかったので、日記が書けないと下の子が愚図った。でもカモに餌をやったじゃないかと宥めすかせ、日記を仕上げさせた。絵は下の子が自分で描いたが、文章はほとんど私が書いたようなものだ。カモは横から餌を投げられるとよく食べる、と。カモの様子ばかりで「楽しかったです」や「面白かったです」などの自分自身の気持ちが一言も書かれていない絵日記。そういうタイプの絵日記を、学校の宿題として提出するなんて、子供時代には思いもしなかったなあ。