はてなキーワード: シチュエーションとは
それは、悪口を誰かに言わせる方が以下の理由で何倍も楽しめるからだ。
そもそも、みんな本心では悪口を言いたがっているのだから、誰かに他人の悪口を言わせるのはさほど難しいことではない。
共感されるだろうエピソードで水を向ければ、相手は簡単にその口を開くだろう。まるで貝のように。
特に、悪口の鉱脈みたいなものに突き当たって、水道をひねったかのように、相手の悪口が止まらないときの喜びと言ったら!
効用が高いと述べたが、そうやって相手の悪口を導けたときには、
①相手をそんな異質な状態に持っていくことができた自分の会話能力の高さに惚れ惚れし、
②相手が秘めていたニーズを明らかにし、それを満足させた自分の有用感に安住できて、
③悪口をこっそり打ち明けるくらい、相手の信頼を勝ち得ていることにコミュニケーション上の疎外感が解消され、
④逆に、悪口を言ったことを本人にばらす可能性をちらつかせることで、相手の弱みが握れて今後の人間関係が優位に運べるわけだし、
⑤第一、悪口を言うことで生じる罪悪感というか発言責任みたいなものを相手に押し付けることができ、
⑥それでいて、自分で悪口を言うのとストレス解消感は変わらない。
むしろ、相手の悪口の方が自分のそれより表現が巧みで「なるほど!」と膝を叩きたくなることまである。
そんなわけで、そのシチュエーションを思い出しただけでニヤニヤが止まらないほど、他人の悪口のシャワーを浴びていると高揚感で楽しくなってくる。
そうそう純粋に、⑦他人が本気になって怒ってる姿って楽しいなー、みたいな感情もあるよね。
ただ、それに合わせて自分も悪口を言ってしまっては元の木阿弥(同じように発言責任を負ってしまう)なので、
あからさまに誉め殺しの口調で「そんなことないですよ~○○さんだって俗人にはわからない深い御意図をお持ちなんですよ」
なんて言って他人の批判根性を刺激しつつも、自分は悪口を言っていないと予防線を張り、
この素晴らしい時間がなるべく長く続くよう会話に策を凝らして、自分の感じる快楽のために頑張り続ける。
それでも決して相手に同意はしない。あくまでも善意の振る舞いで相手を煽ることで、言い逃れもできるようにする。
そして、その罪はお前だけが被れ!ってほくそ笑みながら、同僚の感情豊かな「おこ」を見て、楽しいティータイムを今日も過ごした。
…というのはまあ、全て机上の空論で実際に試したことはないんだけども。
楽しいのは頭でわかってるし、その手はずもバッチリなのに、なんか実行に踏み切れない。
この機械ボタン押し続けな動かんな。せや!こうやったら押しっぱなしにできるで。生活の知恵や→こうして重大事故が起きる - Togetter
フールプルーフ機構を回避した結果、重大な事故が起き、更にはその回避方法によってそれが悪化するというシチュエーションについて話す場であるという前提のもとに、フールプルーフ機構の設計自体に問題がないかを設計者は考えるべきではないかという問題定義をさせて頂きます。
まず前提として、フールプルーフ・フェイルセーフを搭載しようとする判断自体は極めて正しいと思っております。
使用者に対して「完全に説明書を読み込み常に無限大の集中力を発揮すること」を求める設計は双方完全合意の極めて特別な場合以外は推奨されない設計であり、もし作る側が使用者に対してこのようなことを何の相談もなしに安易に求めるのならばそれはモノづくりとしては不誠実であると言っていいでしょう。
これは大前提ではあるのですが、かといって「フールプルーフ機構の実装において使用者に対して配慮がない」という状態もまた不誠実であると考えております。
とにかくなんでも禁止にしているだけのシステムは得てして使い手の不便を招き、多くの場合それは作る側の都合と保身のみをこの社会に提供するものでしょう。
たとえば、セキュリティソフトが何でもかんでもを危険と判定し挙句の果てには自分のやっていることさえ危険であるとして自分にまで危険判定を出せば、それはホワイトリストの設計を放棄した手抜きソフトであることは説明するまでもなく理解していただけると存じます。
たとえば貴方が職場のシステムでなんでもかんでも禁止にすれば、社員達は自分の仕事を進めるためにも我先にと抜け穴を見つけ出してはその情報を共有するでしょう。
そういった「フールプルーフと使用者の敵対関係」とも言える状態を防ぐことこそが、フールプルーフ設計におけるキモなのです。
もしもそれを怠れば例に挙げたように、フールプルーフの存在はユーザー側から拒絶され、最終的にはその存在が「設計者の意図しない形で回避されるように」なってしまうのです。
フールプルーフは設計において「意図的に解除する手段」を搭載するものと思われますが、これらはそれを実行するリスクを把握できるレベルの人間だけを対象にされて作られますし、それを実施した時に潜むリスクについてもまっとうな設計者であれば説明書などでキチンと網羅するでしょう。
しかし、設計者側の都合ばかりを押し付けたフールプルーフにおいては、元々搭載された方法以外のやり方で解除は実施され、その場合のリスクは作った側さえ予想できない自体を招く恐れがあります。
確かに「使い方を誤った使い手が悪いのだ」で一点張りをすればそのような事態の責任は回避できるかも知れませんが、それは「なんでも禁止判定を出すだけのセキュリティソフト」を売りつけるような不誠実な態度に繋がりうることを理解して欲しいです。
フールプルーフという名前が持つ「作っている側は賢く、使っている側は愚かなのだ」という見下したような態度に騙され、お互いの関係性を見誤ってはいけません。
設計者はユーザーに対して最低限の尊重を常に捨ててはならず、それを設計に反映させることが、技術者倫理における絶対的な大前提ではないでしょうか?
当方25年ぐらいオタクやってて書いたり出したりもしてる経験からいくと
https://twitter.com/between_A_and_A/status/1528212999345180673
>「ジャンル分けは見つけやすくするためであり、住む場所を分けるためではない」が男性向けの認識ですね。だから「公式タグ+ジャンルタグ」が基本になってます。嫌なら各自ミュートしろの精神
基本認識はこれであってるんだけど多分これだけだと理解ができない状況を見たことのある女性がいるかもしれないので解説しておく。
これは太古の昔からそうなんだけど
男性向けは言葉が汚い。「死ね」は「おはよう」とかそういうスタンスだと思ってくれればいい(今はそうでもないけど)
だから「百合に挟まる奴は死ね」は強い言葉に見えるかもしれないがこれはポケモンの鳴き声みたいなもので
誰かを漠然と叩いてるみたいな人は"少ない" いないとは言わない。
基本的に男性は何かを名指ししない、漠然としたジャンルに対しての暴言はかなり広い範囲で許容される部分があるので
この男性向けのスナック感覚の暴力性を理解できない女性にとっては攻撃してるように見えるのだと思う。
あと男性は傾向として空中リプと鳴き声の区別がつきづらい部分があるので
女性から見ると空中リプで誰かを牽制してる!みたいな姿がただ遠吠えしてるだけみたいなことはザラにある。
これは先天的なものか後天的に獲得するものなのかは分からないが
男性は地雷踏んでも女性のリバやら解釈違いみたいなのを踏んだ時より
遥かにダメージが少ない、または大ダメージを食らってもすぐ回復する。
ダメージ食らったらうわっみたいなダメージボイスぐらいは皆出るじゃん?
それが「百合に挟まる奴は死ね」とかそういう言葉を出力する理由な訳だ。
女性向けで主流の「視界に入るのも嫌」という気持ちはあるにはあるけど
ちょっと視界に入ってしまうのは仕方ない 地雷を踏むのは仕方ない
適当にtwitterとかで吐き出してさあ次行ってみよう!みたいなスタンス。
純愛にNTR混ぜるな死ね、みたいな言動を見たことある人が多いと思う。
これに関しては前作が純愛だったのに次回作がゴリゴリのNTRになる
または不意打ちNTR(ページの7割が純愛に割かれて後編怒涛のNTR展開が発生する)の場合に多く
これはジャンルを叩いているというよりもパッケージにりんご書いてあるのにレモン味だったじゃねえかという文句であって
棲み分けとかそういう概念での攻撃じゃないのは理解してほしい部分だったりする。
そしてタグは本当に成分表でしかなく、見て欲しいと思ってつけてるものなので
キャラの受け攻めの表記が違ってたとしてもそのタグをつけてる人が多ければそっちに付ける
そしてそれを気にする人も少ない。
百合はカップリングと受け攻めが重要な部分から言っても女性向けの影響を多分に受けてるので
そこそこ小競り合いが発生するんだと思う。
それこそ男性向け界隈とは住む世界が違ってるという感想にならざるをえない
喧嘩しているように「見える」という部分は多分にある。
こういう思想の全ての根っこにあるのが「キャラそのものへの信奉」である
シチュエーションがどう、とか関係性がどう、とかそういうのではなくそのキャラだけを見てる
もっと簡単に言うと「多少アレでも○○(キャラ名)がエロければorかわいければor絵がうまければOK」の人が圧倒的にマジョリティなのだ。
男性向けはこういう適当な空気感で、pixivとかで漁るのもとにかくタグから辿って全てクリックして
地雷踏みながらえっちな絵を自分のHDDにおさめていくものなので
適性がないやつはどうしたんだろうかという話になると多分死んだんじゃないのとしか言いようがない。
そしてそういう奴の声は本当に少数派なので届かない。
たまに聞こえる声は断末魔かダメージボイスかの区別がつかない。
というか根本的なものの考えとして男性向けと言われる領域の住人は創作物で他人が死のうが傷つこうがどうでもいい。
むしろ存分に傷をつけてやろう爪痕を残してやろうと思ってるフシすらある。
だからタグの棲み分け等お気持ち表明しても殆ど誰も乗っかってこないのだ。
また何か思いついたら追記するかもしれない
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/honeshabri.hatenablog.com/entry/request_to_hatebu
「はてブに返信機能を追加してほしい」という要望に対し、ブコメは反対の論調だ。
その理由が「idコールが原因で殺人事件が起きたから」というが、まるでわかっていない。
敵意や怒りが増幅するシチュエーションは何か?
それは好き勝手にいい加減なことを書いておきながら、反論は受け付けない奴を見た時だ。
例えばデマのコメントに対して、それを打ち消す返信ができれば、怒りはひとまず収まる。
しかし相手が一切の反論を受け付けず、デマが野放しになるならば、次に何を考えるか?
よし、そいつを直接追おう。
そっちがそういう態度を取るんなら、こっちも遠慮する気はない。
実際、朝日新聞社の論座がeスポーツに関していい加減かつ侮辱的な記事を掲載した時、
ただコメントは受け付けていたから、記事への批判を書いてひとまず溜飲を下げた。
しかし論座は批判が殺到したためか、途中からコメント欄を閉鎖しやがった。
だから電話で抗議をしに行った。電凸で済ませただけ穏便だと思え。
相手が逃げの姿勢を見せるなら、次に考えるのは「直接攻撃しに行ってやろう」だ。
それでいて何かを平気でバカにしてる奴。
そんな奴には殺意を覚える。
ずっと野球人生を歩んできていて今は指導者だ。
近年の日本ではちょくちょく女子野球が注目されるけれども男子野球並みの人気を獲得しているのか?と言われれば決してそうではないと万人が認めるところだろう。
日本は野球という競技人気は高いが、なぜ男子野球と比較して女子野球の盛り上がりに欠けるか?という疑問へ寄せる回答の1つとして「日本は野球という競技人気は高いから」だと言える。
つまり競技人口やファン人口が多く野球嗜好人の目が肥えているのだ。
野球嗜好人の目が肥えているからこそ男子野球と比較して「女子野球は遅い」という評価を下してしまう。
投球スピードにしても、スイングスピードにしても、走塁スピードにしても、守備(フィールディング)スピードにしても女子野球は遅いと言わざる得ない。
目の肥えた野球嗜好人が女子野球を観戦していて届くと思ったプレイが全く届かない。女子野球はそういうプレイが本当に散見するのだ。
それは観戦者が男であれ女であれ野球趣味が濃ければ濃いほど女子野球の遅さは気分を盛り下げてしまうだろう。
野球という競技の性質上、サッカーやバレーボールのように全選手が常に動き回るということもなく様々なシチュエーションでただただ遅い野球を観戦し続けるのは正直キツイ。
女子野球のトップレベルのパフォーマンスがどれくらいなのかしっているだろうか?
平均して高校男子硬式野球地方大会予選1回戦2回戦レベルだ。中学男子軟式野球全国大会(中体連)レベルと置き換えても良い。
野球のトップレベルのパフォーマンスを観に行っているのに見せられるのは少年野球パフォーマンスなんだ。
実はこのパフォーマンスの低さをどうにかするという試みは既にある。
野球という競技のフィールドやルールを縮小化する、つまりはソフトボールだ。
ソフトボールで女子が注目されたのは男も女もみんな解ってたのだと思う。野球という競技は女子にとって広すぎることを。
それでも野球をやりたいんだという女子は居るだろう、野球人生を歩みたいんだという女子は絶対に居るはずだ。
その想いを汚すヤツが居るなら俺は「ごちゃごちゃうるせぇ下手くそ!野球でケリつけようぜ!」とやるくらいには賛同したい。
しかしそれが女子野球の経済的独立を果たすのとは別問題だ。
女子野球が遅くてパフォーマンス低く、野球を観戦しようという目が肥えた野球嗜好人を満足させにくいという事実は否定できない。
女子野球はどうにかして野球嗜好人を満足させられる女子野球ならではを発見しなくてはならない。
そうしなければ女子野球は決して女子野球選手の夢を叶えられないだろう。
悔しいが今のままではそうなのだ。
レトロな感じのイラストや漫画を描く絵師がいる。当初は割とほのぼのとした感じだったが、いつからか路線変更して安直なエロ、おねショタ路線に走ってしまいがっがりしてしまった。
もっと日常的なイラストや漫画を描いて欲しいのにと思った瞬間、これは自分の身勝手な理想であり、それを絵師に押し付け勝手に裏切られたと感じているにすぎない。
この気持ちが極端になるとアンチやヤバいファンになるんだろうなと反省。
反省した後その人のイラストを見るとやっぱり好きだなと思うが、やはりどうしても安直なシチュエーション優先の漫画を上げ続けるよりもちゃんと漫画を描いた方が良いのでは?と思ってしまう。
しかし!これも一方的な考えで、自分の中で「単行本を出す」がゴールと思っている部分があり、今は出版社を通さなくても自分で電子書籍を販売したり、同人誌即売会で売ったり、ファンボックスでお金を集めたりと、
色々な形がある。
その絵師が好きなのであれば、絵師の全てを愛して応援するのがファン……なのかもしれない。
誰にも見せるでもなく、自分のためだけに描いていて、それでも最初は気恥ずかしさがあった。
でもいったんやり始めるとこれがなんとも言い難く良い。
自分の絵で抜けるかどうか、つまり自給自足が成り立つかどうかについてだが、これはもう余裕で成り立つ。
多少絵や表現力が足らなくても、脳内の想像力で補完できるのも大きい。
悪い意味で同人レベルの俺レベルの絵で成り立つのだから、エロ漫画かなんて余裕だし、フル勃起で描いていると思う。
手前味噌だがだんだん画力も向上してきて、かなり表現力が上がった。
より良い絵を描くために液タブやクリスタも買った。
こういう話をすると「うpしろ」という声がどうしても増えるが、うpはしたくない。
自分の考えてることや変態さを知られたくない。世に公開するなんて恥ずかしすぎる。
でも最近は見せてみたいという気持ちもあり、いつか世に出すべきか葛藤している。これは俺のクリエイター魂的なのが理由だと思う。
それに言っといてなんだが、世の猛者どもに比べると俺の変態性なんて実際は大したことないレベルだろう、と思う。
ああ。見せたいような、見せたくないような。
永遠に悩んでいる。
自作エロ漫画の良さは、やはり俺の性癖に極めて忠実なセルフオーダーメイドの作品ができることだ。
おかげで俺のエロ漫画は特定のシチュエーションを脳死のように繰り返している。
だがこれでいいんだ。好みの絵でこればっかりで最高だよ。
ほんと最高だよ。
夜にちょっとしこるか…と開始すると、そのまま終わる頃には深夜ということがざらにあり、生活リズムを崩すことが多い。
普段のオナニーが右手にペン、左手に珍棒というスタイルで描きながら興奮したシーンでしごいて、達しないうちに台詞をタイプするため両手でカタカタして、またしごいてという繰り返し。
おかげで数時間、その体制で達しないまま描き続けしごきつつづけるみたいなスタイルが続いている。
1つのIDEで開発をしクロスプラットフォーム対応することが流行っている昨今、自動でガベコレに頼っていてリソース管理経験に乏しい開発者はマジで底辺にしか漂流できないので覚えたほうが良いぞ。
ずっと自分の顔が嫌いだった。
左右でバランスの悪い眼、大きい鼻、しゃくれた顎、高くて目立つ頬骨。どれも嫌いだった。
ずっと美しいものが好きだった。《聖テレジアの法悦》のような、ミケランジェロの《ピエタ》のような均等の取れた顔立ちが好ましかった。だからこそ自分のアンバランスな顔がずっとコンプレックスだった。母親は顔の美しい人だったが、父親はそうではなかった。親類や近所の人に「お父さん似ね」って言われることが辛かった。
とはいえそう思っていることを口にすると雰囲気が悪くなってしまうから、自分のコンプレックスについてなにも言わなかったのだけども、どうしても態度に出てしまっていたのかもしれない。友人が「君の顔がすきだよ」と言ってきたことがあった。
憐れんでだろうか?めんどくせぇなと思ってのことだったのだろうか?わからない。
もうだいぶ昔のことだからどういうシチュエーションでそう言われたのかも忘れてしまったけども、彼女はたしかにそう言ったし、飛び上がるように嬉しかった。
就職して稼いだ金で買ったお化粧品を色々試したり、肉が落ちて顔立ちが少し変わったこともあり、たしかにバランスは悪いがなかなか悪くない顔だねと思えるようになってきた。
バランスの悪い眼はミステリアスだし、大きい鼻としゃくれた顎と思っていたがその実Eラインに唇が収まる顔立ちで、高い頬骨は頬がギュンと上がっているように見えて、なんだい、わたし、案外いい女じゃないか!なんて、鏡に映った自分の顔を好ましく感じられるようになったのだった。
そう思えるようになったのは、家族でも恋人でもない友人がわたしの顔を好きだよと言ったことがきっかけだったのは間違いない。彼女がわたしの生活をどれほど明るくしてくれたかわからない。
もうちょっと眼が大きかったらなあ、とか、蒙古襞がなかったらなあ、とか、そういったことを思わないと言ったら嘘にはなる。だけども、もしそうだったらもっと良かったのにな、と思うことであって、そうでないから自分の顔は悪いのだという気持ちにはならない。
遠くに住んでいることもありコロナのせいで随分と顔を合わせることがなかったが、これから久しぶりに友人と会う。彼女が好きと言ってくれた顔でめいいっぱいおめかしするぞ!と年甲斐もなくなんだかはしゃいだ気持ちになっている。
強調して現在現行リアルタイムのロシア軍の予測保有戦力を考慮したもの。
北海道西部は日本海が広がり、現在のロシア海軍が保有する全揚陸艦を用いても電撃的に北海道の一部地域を制圧掌握できる戦力を揚陸するのは並大抵のことではなく、海上自衛隊の保有艦艇の約半数および航空自衛隊の航空機の約半数で完封、1/3で撤退を余儀なくされる可能性が非常に高い。
これは北海道西側に北海道侵攻のための橋頭堡となる離島が存在しないためで、自衛隊は自在に補給線が確保できるのにロシア軍は長距離の補給線を維持し続けなければならない非対称戦となることが濃厚であるため。
加えて、自衛隊は北海道を侵攻するロシア軍を独力で追い返せる戦力を保有しつつも米軍と連携することで一層の消耗抑制へ努めることが予測され、ロシア軍はほとんど消耗しない軍隊と対峙する必要のある北海道西部ルートを選ぶ理由が無いと思われる。
ロシア軍が北海道西部から侵攻するには北海道西部全土へ文字通りの昼夜問わず常時絶え間のない高火力ミサイルによる爆撃を敢行し続ける必要があり、現在のロシア軍にはそのような戦力は存在しないため、北海道西部沿岸への高火力ミサイルによる爆撃はハラスメント以上の効力を発揮しないと予測される。
ロシア軍の戦術ドクトリンを考慮すると、縦深攻撃を仕掛けた後に複数のルートから多面侵攻を仕掛ける可能性が高い。
縦深攻撃のターゲットは自衛隊北部方面隊の根拠地、つまり北海道の自衛隊駐屯地であり、自衛隊北部方面隊の即応迎撃能力を奪いつつも北海道北部および東部からのロシア軍陸戦力揚陸するための時間を確保することが狙いだ。
北海道北部および東部の侵攻ルートとは、すなわち樺太および北方領土国後島からの侵攻であり、前項で挙げた補給線のための橋頭堡の確保にこれら離島が上手く機能すると思われる。
しかしながらそれは北海道秋季までの話だ。
北海道北部および東部は冬季に流氷で覆われることが知られており、電撃的な侵攻により北海道北部および東部を制圧し掌握下へ置いたとしても冬季となれば流氷により補給線が物理的に寸断されてしまう。
ロシア軍がこの様な状況を回避するためには北海道全土を電撃的に制圧し掌握下へ置く必要があるが、それは北海道の自然環境が許さない可能性が高い。
北海道の中央には山脈が広がり、東西南北への進軍を阻害する地形となっており、多大な時間を要することが予測されるためだ。
北海道中央山脈により時間を浪費し続ければ冬季が到来し流氷により補給線が寸断され、更に時間をかければ春季が到来し北海道の大地は泥濘となる。
しかも北海道東部には湿地帯である釧路湿原が存在し、国立公園のために開発が進んでおらず侵攻の足止めとなる。
当然ながら自衛隊北部方面隊は中央山脈へ拠点を構築し、本州より補給を受け続けながらロシア軍の補給線へハラスメントを行いつつ冬季春季を待つ遅滞作戦を取る。
積極果敢に反撃せずとも自然環境がロシア軍を追い詰めるため自衛隊は消耗抑制へ努めれば良いのだ。
自衛隊がロシア軍と正面からぶつかり独力でロシア全軍を撃破できるか?と問われれば不可能であると言わざる得ない。
しかし、自衛隊が北海道という地の利を活かし消耗を抑制しながら遅滞戦術を取ればロシア軍は多大な犠牲を強いられ、しかもその犠牲に対して得られる成果が無残にも非常に乏しいものとなる可能性が高い。
その上で日米同盟がしっかりと機能するのであれば現在のロシア軍が北海道侵攻を成功させる可能性はより著しく低くなる。日米同盟が機能しなくとも成功の可能性は低いのだ。
ロシア軍による初手と予測される北海道の自衛隊駐屯地への縦深攻撃を防ぐにしても、自衛隊北部方面隊の即応迎撃行動を取るにしても、自衛隊北部方面隊への本州からの補給線構築にしても、最大の懸念は日本国内政治である。
日本政府がしっかりと日米同盟で米国と信頼を築けていれば、今般のウクライナのようにロシア軍による縦深攻撃の情報を得られるかも知れないし、情報を得られれば自衛隊北部方面隊戦力を現在よりも分散するなどして掃討されることを防ぐ動きも出来る。
自衛隊は命令がなければ動けないので即応迎撃行動にも命令が必要であるし、補給線構築にも命令が必要であるため、日本政府がしっかりと侵略へ対して日本国内政治へリーダーシップを取る必要がある。
当然ながら仮想敵国へ対して平和外交を推進する必要もあるし、平和外交のため抑止力としての戦力整備が必要だろう。
日本国憲法へ記されている通り日本国は平和を希求していくべきなのだ。戦争をするために生まれ落ちた者なぞ誰も居ない。
だからこそ考えよう。
平和を維持するためにはどうしたら良いのか、最悪のシチュエーションとして他国が攻めてきた際にどうしたら国民を家族を大切な人々を守ることが出来るのかを。
なんとなくテレビをつけてたら連続ドラマの総集編みたいなミニ番組が始まった。
高校の英語教師が誘拐されて、タイムリミットまでに生徒4人が犯人と先生の居場所を見つけられないと殺されてしまう…みたいな話。
警察頼れよとか行動ガバガバだよとかモブたち鈍感すぎるよとか、まあそのあたりはお約束として、びっくりするシーンがあった。
次第に先生の過去とかも明らかになって、誘拐された先生にムカつくことあったなーみたいなことを各々の生徒が回想する。
一人、帰国子女の子が英語の点数が悪くて、先生が私のこと嫌って意地悪したんだ…とか考え出して「死ねばいい」と叫んだ。
私は「どういうことなの?!」と叫んだ。
そのあと主人公が「俺の周りで誰も死なせたくない」って叫んでなんかなかよくなってみんなで仲良くラーメン一緒に食べて青春ってなって犯人から「もうすぐタイムリミットだぞ」的な動画が送られてきて…最終話をお楽しみに!みたいな感じで番組は終わった。
もう死ねばいい発言以降ずっと「どういうことなの?!」の気持ちだった。
テストの点が低くて教師に死んでほしくなるってどういうこと?(しかも今まさに死にそうな状況にあるので軽口にならない)
誰も死なせたくないって今そういうふんわりしたいいこというシチュエーション?
反省とかないの?なんで急に仲良くなったの?
時間制限ある中のんびりラーメン食べて青春謳歌してる心の余裕はどこから?
総集編だから端折られたところに色々あったかもしれないけど、とりあえずその番組はジェットコースターみたいな展開でとてもびっくりした。
※末尾に追記2(5/7 19:26)、追記3(5/8 01:45)を付与。
※園子音氏に関する一部表現を修正。週刊誌報道を認めての謝罪ではないと判断したため。こちらで係争中と見られる件の善悪についての判断をするのは不適切と判断し、関連する記述は削除した。(5/8)
何故、フェミニストの中では「たわわ」がNGで、園子温は"無罪"(論じる必要がない対象)なのか?何故、オタクがバッシング対象で、ホストは共感の対象なのか?フェミニストの性質の中にその答えが眠っている。
「フェミニストの活動家達には、何故こんなに一貫性が無いのか???」
こんな事を一度でも思った事のある方は、少なく無いのでは無いか。
何故、フェミニストは、実際の被害者が居ない「たわわ」にお熱になるのに、被害者と称する女性からの訴えが週刊誌に載った園子温にはさほど関心を示さないのだろうか。
何故、フェミニストは、「海、似合って無いね」動画における反応のようにインドア派の男性(というかオタク)への蔑視を隠しもしない一方で、実際に女性を搾取するホストに対しては、さほど怒りの声を上げず丁重に扱ってしまうのだろうか。
何故、成人指定でも無いお色気漫画のゾーニングを強く求める一方で、BLに対するゾーニングに抵抗し自由を求めてしまうフェミニストが出て来てしまうのだろうか。
フェミニスト諸兄は、胸に手を当てながら読んで頂き、自分に当てはまる点について、「アップデート」する事は出来ないか、じっくりと考えてみてほしい。
フェミニストは、「〜だから、ダメ」というタイプの論理を多用する。
フェミニストが火をつける炎上は、基本、この論理のタイプで起きる。
一方、フェミニストは「〜だから、良い」というタイプの論理を使用する事については慎重だ。
この論理を使用する場合、フェミニストでなくても言える以上の結論となる事は、あまりない。「性的表象」のような妙なフェミニスト用語を使うケースは滅多に見ない。誰もが「そりゃそうだ」と思えるレベルの、ある意味無意味な内容の時に、好んでこの論理を使う事になる。
これはどういう事を意味するのか。
フェミニズムは「何が良いのか」「何がダメなのか」という事の境界線をきっちり引くことに、正面から向き合っていない、ということだ。
そして、境界線がないが故に、個々の事象に対する良し悪しの判断が、個々のフェミニストに内在する、明確な境界線のない嫌悪の反応(つまりは「お気持ち」)に委ねられてしまう事になる。
「一人一派」と言う表現は、その現状を言い換えているだけに過ぎない。
次の論戦を見てみよう。
https://togetter.com/li/1873195
この議論で最も重要な指摘はCDB氏による以下のコメントである。
小宮先生は『まずUN WOMENの主張を理解せよ』と仰いました。なので、『UNWは広告表象を問題にしており、表現を修正すれば掲載可能である』と主張していると解釈されるのか、それともUNWは作品そのものが広告掲載に不適切であると主張している』と解釈されたのか、小宮先生の解釈を伺っています。
「たわわ」の広告表象が問題であるのか、作品が問題であるのか、という質問である。小宮氏はこれに直接回答する事を避けている。
小宮氏を少し擁護すると、これは小宮氏でなくとも回答が困難な問いであろう。何故なら、UN WOMAN側がどちらの解釈が適切なのかを提示していないからだ。そもそもフェミニズムが、この場合にどう判断するかという線引きに十分に向き合ってこなかったのだから、小宮氏にはどちらとも言えないのである。
UN WOMANのコメントがなければ解釈が出来ない、という構造は興味深い。つまり、結論が先にあって、その理論付けは後から行う、と言う実態を示唆しているからである。
多くのフェミニストの主張では、個々の事象に対して、それを許すか許さないか、についての個人の無意識的なバイアスに基づく判断が先にある。そこから理屈が逆算される形で構築されるのである。
最近、「当事者性がある人が批判するべき」「当事者性がなくても批判できるべき」と、シチュエーションによって主張が安定しない論者が話題になった。
理由は簡単で、その場その場で結論から後付けで理屈を構築しているからである。
シチュエーションによって、議論の構造と前提が異なるため、その場で自分に都合の良い形(言い換えると「お気持ち」)で論理を組む事になる。結果として、ダブルスタンダードな主張が散見される事になる。
良し悪しに関する客観的な物差しの不在はまた、男性に向ける物差しを自分に適用しないように巧妙にサボる事も可能にする。
「海、似合ってないね」という例の動画を見れば、これがジェンダー的にかなり多くの要求を男性に課している事は間違いない(性別を逆にして、スタイルの悪い女性に「海、似合ってないね」と言ったら大炎上するのは、火を見るよりも明らか)。しかし、何人かのフェミニストはこの動画を絶賛した。
それは、彼女らが自身の中にジェンダーについての規範をインストールしてこなかった事を強く示唆している。言い換えると、相手に求める厳しさを自分に適用していない、という事である。
「たわわ」や「宇崎ちゃん」に怒りながら、BLの不健全図書扱いに怒るフェミニストもまた、非常にわかりやすい例である。男女間で別の基準を適用することの狡さを、本人の中で言い訳をしながら共存させてしまっているのである。
フェミニストは、ダブルスタンダードと言われても意に解さない。
自分が悪者になりうるような基準を、そもそも自分の中に持たない(もしくは言い訳、という形でパッチを当てる)事で、「自分がおかしいのではないか」と懐疑心を持たなくても済む、という構造があるからである。
なので、フェミニストが自分が責められた時によく使うロジックは、「それには当たらない(だから自分は悪くない)」である。常に自分は(何やかやと言い訳をして)安全地帯にいることになっているのだ。
私見だが、
この文章を読んだフェミニストは恐らく「これは、きちんと書けていない。だから自分の話では無い」と矮小化するか、「この論理は破綻している。だから認める必要はない」と全てを排除するか、の大きく2つの類型に向かうのではないか、と予想している。
フェミニストの一部に非常に性格の悪い人間が居る。多分本人は気づいていないだろうが、周囲からは丸わかりである。これはフェミニズムが他責型の人間にとって居心地が良い構造にあることと無縁ではないだろう。
フェミニストは行動を起こした結果がどうなろうと、その事にはあまり関心を持たないし、結果に責任を取ろうともしない。ましてや「これはやり過ぎたのでは?」と思う事もない。
大量の人間を集めて、一人の人間を徹底的に糾弾するほど、社会的に強いメッセージを発している。にも関わらず、問題が起きても、誰も責任者が出てこない。これはあまりに情けない話で、呆れている。何故フェミニストはこんなにも無責任な人間の集まりなのだろうか?
オープンレターでもう一つ興味深いのは、「教授」などの肩書きをとても重要視している事だ。単なる署名であれば肩書きは不要であるはず。肩書きをつける事で権威を付けて相手を攻撃しようと言う意図を読み取る事ができる。
たわわの件でも「UN WOMAN」が日経新聞に抗議するというアクションが取られている。
演繹的な議論を嫌う性質と、結論ありきの権威主義は相性が良いといえば言い過ぎだろうか?
この文を読んで、「アカデミックなバックグラウンドを持つ人物かどうか確認出来ないからダメ」と考えるならば、それはつまり権威主義の病が膏肓に入っていると言えるだろう。
フェミニストは自分を省みないので、まともにこれを読まない人間がきっと多数だろうが、フェミニストでなければ首肯する点が多いのではないか。
また、上記の逆になるように行動するようなフェミニストは健全であるとも言える。皮肉ではなく、そのようなフェミニストであれば全力で応援したい。
他者にばかりアップデートを求めるフェミニストに自らのアップデートが出来るとは到底思えないが、実現すれば結果としてもっとジェンダー的にフェアな状況が生まれるように思える。
若い世代でフェミニズム離れが進むのは、こういうフェミニスト・フェミニズムの(卑怯な)特性に嫌気が差している部分も大きいと考えるからだ。
面白いなー。園子温への対応の話以外にも一貫性の無さを取り上げているのだけど、園子温の件を否定できれば俺無罪!!という感じのブコメが多くて興味深い。通底するテーマは批判するかしないかに関する基準の無さ、一貫性のなさだよ。園子温に対する考え方をちょろっと批判した、という程度では揺らがない部分。
BL無罪の人なんて、フェミニストの矛盾を体現するようなアクションだったけど、そこには全く目を向けない。まー、フェミニストは、自分に問題があるかもしれない、という論理は受け入れ無いということが良くわかる。
lacucaracha:
有罪だから語るべきものがない、って不思議な論理だね。UN WOMANが、園子温(や榊秀雄)のような現在進行形の問題よりも先に、たわわのように複雑な議論が必要な事象を糾弾したのは何故?
cinefuk:
「女性差別的な文化を脱するために」と、特定の人間を貶めるためにフェミニストが結集し、オープンレターを叩きつけ、失職に追い込んだのと比べると、今回は弱々しいですね。名指しでないオープンレターぐらいはあってもよかった。
(女性原作者のオープンレターをフェミニストの手柄にするような下衆しぐさはしませんよね?)
「たわわ」との違いは、園を免罪しようとする擁護が出なかったからでは。炎上案件は、フェミの批判より反フェミが盛り上げてる印象
たわわには反論すべき論理もあるけど、それ故に炎上の責任を負わされる、という構造があるのであれば、それは容認していいの?
ウクライナが抵抗したから戦争が激しくなった、みたいな論理ですよ、それ。
todomadrid:
園子温を支持しているフェミニストなんて存在するの?そしてそもそも、広告のバッシングは広告主や媒体、もしくは痴漢をバッシングしているのであって、オタクをバッシングしてるわけじゃないので勘違いでは。
何で「園子温を支持している」にすり替えてるんだよ。こういうフェミニズムの卑怯さの構造を説明したんだからしっかり読め。
フェミニストのオタクバッシングは結構見苦しいものがあるので、これも話をすり替えないように。だから、たわわと園子温事案の熱量の差は何だよ?という話をしている。
kohgethu:
誰が性的加害やらかした映画監督どもを無罪と言ってるんだ?奴らは粛々と社会的制裁を受けてるし騒がなくても罰せられている真っ最中なので騒ぐ必要が全く無い。もしも当人が足掻いたならたわわレベルに炎上するよ。
https://www.jprime.jp/articles/-/23703
Domino-R:
一昔前に、一部の女性が自分はフェミニストをやめたと、怒りながらに距離を置くのを見ていたが、理由が分からなかったんだな。
フェミニストとの議論を通じて気付いたのは、フェミニストの立論が場当たり的で、論理がなく、端的に不誠実だという事。何故か自己中心的で、話のすり替えに余念がないクズが多くて、腹が立つ事がやたら多いんだよ。
フェミニストは、ツイフェミに限らず、例えば立憲民主の中で、まともな議論を尽くさずに議員を辞職させたりしている。害悪が大きくなるばかりじゃん。その構造がクリアでなかったので、まず見える化をしようとして書いた。
今回まとめた特徴に合致しないフェミニスト、ほんと見つからないね。居たら連れてきてよ。1人でも居ます?
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