はてなキーワード: 階段とは
階段びくびく6丁目!とか叫んで答え合わせしてほしいよね
昨日、天神地下街から地上へ上がる階段で、透明なフィルムのゴミが落ちているのを見かけた
通り過ぎようかと思ったけど、前方から親子連れが階段を降りて来るのを見て、この階段は急だし、体重軽い人なら滑るかもなと思い、拾った
親指と人差し指でちょんと端っこを挟んで見たら、ローソンの悪魔のおにぎりの包みだった
地上に出ると、やたらピカチュウのサンバイザー型のお面をつけている人や外国の方を見かけた
あとで調べたら、ポケモンGOのリアルイベントが福岡市でやっていたらしい
しばらくゴミ箱を探しつつ歩いていたけど、全然見当たらなく、カバンの中に入れるのも嫌で、
ゴミは出先で拾わないのが正解なのかもしれないと思った
困っていたところ、カトリックの教会に付属した本屋さんがあったので、ゴマのお菓子を持って、店員さんに「これください」と伝えた後、
「ゴミを拾ったのですが、捨てるところがなくてもしよければ捨ててもらうことって可能ですか?」と聞いて、ゴミを出した
少し間を置いて、「アハァ(困惑)、イイデスヨ」と言われて、アジア系の外国の方だったのかとアクセントで気づいた
どうやら丁寧に伝えようと難しい言葉遣いをして困らせてしまったらしい
さすがに教会関係者なら断らないだろうし、買い物も同時にすれば引け目も感じずに済むという打算だったが、差し引き若干の引け目が残った
やはりカバンには汚れ物を入れる用の小型のビニール袋を入れて持ち歩くべきかもしれない
あまり教えたくないけど
地方民は「いつでもトイレが有る」「トイレは基本的人権」と勘違いしてる人が多い(私もそうだった)
世界的に見れば公衆トイレがこれだけ充実してる環境は珍しいんだ
東京はトイレの数はそこそこあるけど、それ以上に人が多すぎて大抵混んでいる
そこに踏み入れるときは最悪を想定するべき
例えばショッピングでも、東京の場合には「その建物にトイレがない」みたいなこともある、常に注意を払う
川であれ、山であれ人目があるのでどうしようもない
個室は大体埋まっている
・残り時間を大体予想する
・埋まっていたときのため、次のあて、その次のあてを常に考えておく
・余裕を持ってトイレに行く
・ノックを恐れない(私は意識が高いので並び始めるときにノックをする)
積極的に寄り道して、常に3分以内にたどり着ける場所を探しておく
駅にトイレは確実にある、最近はどこの駅のトイレも綺麗だしまず候補に上がる
ただし大抵ほんのり混んている(激混みではない)
ある程度余裕があるなら駅でいいと思う
改札内にあって躊躇うことがあると思うが、漏らすよりましと思って入場しよう、そして堂々と「トイレ使いました」と駅員に言おう
駅によっては片方のホームにしかない場合があるから注意だ、階段をダッシュして漏らしそうになることが多々ある
特に過疎ってるところ
入口からトイレまでの距離は長いのがネックだが、その分大抵空いている
まずはフロアガイドでトイレの数と位置を把握しよう、だめだったとき別のフロアに行けるかは重要なポイント
そして男性なら「最も男が行かなそうなフロア」、女性なら「最も女が行かなそうなフロア」を見つけよう
遠いトイレをあてにしてもいいが、個室数が少ないリスクもあるのでそこはバランスを取って戦略を立てる
ここらへんも穴場
それほど混んでない事が多い
あとデパートよりは入口から近いので、サッと確認しだめなら次へ行く
迷宮過ぎて迷うことが多い
迷うというのは最もやってはいけないこと、簡単に尻が限界を迎える
例えば私はいまだに池袋駅や新宿駅や上野駅の最適なトイレマップを脳内に描けていない(反省、今度覚えよう)
圧倒的に混んでいる
元々トイレ数は少ない上に、迷う上に、混んでいる
LUMINEなんかでトイレを探してはいけない、諦めて他に行くべき
そういう場所でショッピングをするときは常に危機感を持って行動する、最低限場所と混雑具合は頭に入れておこう
間違っても「2階にいけばあるだろう」とかいうだろう運転をしてはいけない
初動の遅れが最悪の事故につながる
知らない土地でトイレなしコンビニを3軒連続で引いたら詰みかねない
一個のビルの幅が数十メートルというエリア、例えば京橋とかああいうところ
あそこらへん通る時、私はまるで崖の上を進むような恐怖を感じる
が、基本ないものとして考えたほうがよい
ドンキにいるならいいけど、トイレを探しに慣れないドンキに入るのはタイムロスだ
解決策なし
前日絶食するべき
とりあえず目につくので入ってしまいがちだが、飲食店は人数に対してトイレの数が少ない
思いついたらまた書く
穴場があったら教えて欲しい
(そういえばパチンコ屋はあまり使ったことがない、有名だけど)
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>やらかした時の話くわしく
山なら人目がない場所なんて幾らでもあるだろうと思ったらずっと整備された道で
申し訳ございませんでした
今度はちゃんとトイレの場所を把握し、トイレから離れるときは盗塁する大谷翔平の如く次のトイレ安全圏へ向かおうと思います
上野駅で一敗
それはもう完全に漏らしまして、スーツを洗ったのは今のところあのときだけです
大きい駅はトイレの場所を把握しても、思ったより距離があるので難しいです
あの時どうすればよかったのか、今でも反省しますが答えは出ません、理論値でも漏らすときは漏らす
代々木で一敗
愚かだった私はコンビニをあてにしてしまいました、1軒だめで、2軒だめで、迷い込んだのは住宅地
その後のことは語りたくありません
こんな都心で何をやってるんだろうと星も見えぬ夜空を見上げました
家の近所で危なかったこと数十回
不安なときは駅で待機することがありますが、このクソ腹は歩き始めるともよおします
むしろケツに全力で力を入れることに慣れてきました、筋トレと同じです
商業施設で危なかった話
8階、6階、4階、全部1個しかなく埋まっていました、確か神奈川です
仕方なく待っていたら一向にでてこなく、何度ノックしても出てきませんでした
ようやく出てきたのが10分後くらい、しかし入ってみたら猛烈なうんこ臭
どうやら失敗した人が対処していたようでした、おじいちゃんでした、何度も何度も流してたのはそう言うことかと合点がいきました
これはしゃーない
グランスタで連れとご飯を食べてる時、連れが「トイレ行きたいけど混んでそう、どうしよう」と言い出しました
私は過疎ってるトイレを知っていたのでその場所を教えてセーフでした
混んでる女子トイレは20人以上並んでます、あまりにも危険すぎます
渋谷のセンター街で買い物してる時、連れがトイレ行きたいと言い出しました
ただ、まだ我慢できそうだったので、私は周辺トイレ調査へ向かいました
ZARAは当然のようにノートイレでした、IKEAに入った所、エスカレーターがおかしな様子でトイレに辿り着くのが大変そうでした
カフェは危険なのでスルーし、どうしたもんかと思ったらその先に西武百貨店がありました
私は連れの買い物を済ませた後西武百貨店に誘導しました、途中「カフェあるよ」とかいう言葉に「いけません!」と叱咤しました
(どうやらトイレ借りると言う意味ではなかったようです。私の脳はトイレに支配されていました)
西武渋谷店のハイブランドフロアは人っ子一人おらず完璧なトイレオアシスでした
トイレ利用する時
基本的に個室に入って2分半以内に出てきます(お腹がおかしくなってる時を除く)
お腹が痛い時でも、定期的にドアを開けて待機が居ないか確認し、居るようなら早めに出たりします
(お腹が心配ならトイレを出た後も5分くらいそこで待機します)
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※デバガメというのは恋愛的な意味である。性的な意味ではない。
これらを見てしまった経験を通じて、若かりし頃の自分の不器用さを思い出した。
今の自分も「成長できた」といえるにはほど遠い。若い人たちを見て、まだまだ成長できる部分がたくさんあることに気づかされた。
もうアラフォーに入ろうとしている。その前に、ちょっとだけ記念的碑に増田に投稿してみようと思った。
常連投稿者のように面白くはないかもしれないが、一生懸命書いてみる。
一般企業でアパレル事務の仕事をしている。あと数年以内にはAIに置き換わってしまうだろう。風前の灯火みたいな事務仕事だ。平成初期だったら、私もバリバリの評価を得ていたのかもしれない。令和時代だと、明らかに若い人、時代の変化に適応できる人の方がこの仕事に適性がある。
社屋3階で働いているのだけど、ある夕方~夜の時間だった。社内に人が残ってない時間帯に、私は4階にあるトイレに行こうとしていた。
そうしたら、上の階の方で男女の声が聞こえた。一瞬「!?」となって、踊り場の前で留まった。会話は始まったばかりで、男性の方は隣の部署の30才くらいの人だった。女性の方は別の階で働いている子。
一応、最初から声を拾ってみる。彼を増田君とする。まだ先月のことだ、頑張って思い出してみる。
「○○さん、お疲れ様です」
「どうしたの、今日は?」
「え……?」
「パンダじゃん!」
「パンダ……」
「服が白黒だね」
「え、そうですね」
「白は、初めて見たかも」
「……いっつも白いです♪」
「そう、ええっと、あとは」
※私が踊り場から身を乗り出すと、彼が両手でジェスチャーしてるのが見えた
「○○さん。髪、切った?」
「はい、切りました。……どうですか?」
「似合ってるね」
「ほんとですか?」
「うん、似合ってる。ねえ、ねえ。もっと仲良くなれたらご飯いこうよ」
「え、いいんですか?」
「いいよ」
「いきたいです。~~さんとご飯」
「わかりました」
意中の男性に声をかけられると、縮こまってしまって、うまく喋れなかったりする。
相手がリードしてくれて、それでどうにか話ができる。子どもの頃に聞いた曲に、「大人の階段昇る 君はまだシンデレラさ」というのがあったけど、まさにあんな感じだった。
恋愛は、全部相手がリードしてくれると思っていた。自分はただ、意中の人がいたら「お疲れ様です」と声をかける。自分からアタックするのは、それくらいでいいと思ってた。
本当に、相手が相手だと何もできない。それどころか、廊下ですれ違ったときに「お疲れ様です」と挨拶されても、顔(^^)を背けながら「お疲れ様ですっ!!」って投げやりな感じの挨拶になる。
髪を切った時も、好きな人と話してて「気付いてくれるかな……」と思うとドキドキして硬直したし「髪切った?」って言われそうな時は、事務所内なのに走って逃げだしていた。
トイレの話だけど、はてな匿名ダイアリーだと女性でも漏らしてしまうのが基本らしい。
私はこの時漏らさなかったので、3階にある修理中のトイレを飛ばして、急いで2階のトイレに入った。
こう見えても、高校まで柔道をしていた。初段しか取れなかったけど。
柔道って、野球やサッカーと違って、やってる子がとても少ない。柔道部のある学校の方が少ないくらいだ。特に女子柔道の場合は、本当に過疎である。
柔道部員がちょうど3人しかいない高校だったので、夏休みになると、同じ市内にある高校の合宿にお邪魔していた。期間は一週間。そこは工業高校で、立派な柔道場がある。
市内のいろんな中学高校の生徒が集まって練習していた。男子は泊まり込みのようだった。
そこで、珍しい組み合わせの男女がいた。ふたりとも中学生だった。凸凹な見た目だったのを覚えている。
その時は8月初旬だったかな。私が合宿に参加した初日、乱取りの時に女子の小中学生に胸を貸していたところ、物凄い声が響いた。
「ああ、もおおおっ!!!」
みたいな声だった。
見ると、小太りの体形の男の子が、その女の子を寝技で抑え込んでいた。見るからにガッチリ入っていて、逃げられそうにない。女の子は、バイオレンスな感じにグイグイって動いて、男の子のお腹をグーで殴り続けて脱出に成功した。
それから、女の子は血相を変えて、小太りの男の子を寝技で抑え込みに行っていた。女の子は黒帯で、男の子は白帯だった。それにしても寝技が上手な男の子だった。体の幹が強いのもあるし、女の子が上から乗って行っても、軟体動物みたいにスルリと躱してしまう。
決着がつかずに、乱取り終了のタイマーが鳴った。次の日も、また次の日も私は合宿に参加していた。他校の女子と練習ができる希少な機会だった。
いいかげん、筋肉痛がひどかった。女子中学生が打ち込みでも乱取りでも、私のところにばかり来るからだ。多い時だと、1日に30本近く(ほぼ90分)も乱取りをしていた。
本当に貴重な時間だった。母校では、こんなに多くの女子選手と練習することはできない。政令市にある名門校はともかく、田舎の公立高校の女子柔道の環境は非常に厳しい。
あの男の子と女の子だけど、それから毎日見ることになった。私がいる練習スペースの近くで、あのふたりが一緒に練習している(組み合っている)ことがよくあった。
男の子は、誰に対してもマジメな練習態度だった。手を抜かないし、女子選手や小学生と組み合っても配慮していた。
でも、あの女の子と乱取りをする段になると、ビビっている様子だった。彼女と乱取りになるとモードが変わる。真剣にガツガツやりあうのだけど、恐怖を感じながらやってるというか。
男の子はさておき、中学生の"女の子"の方だけど、どう見ても強い子だった。普通の中学生男子だったら普通に投げ飛ばすし、相手が高校生男子でも、白帯だったらフツーに力で圧倒していた。
男子が相手でも、引き手と釣り手を上下にブンブン振り回して、相手を払い腰で投げ飛ばすと……『進撃の巨人』の冒頭あたりで、エレンがミカサに投げ飛ばされたような感じで、相手は柔道場の壁にぶつかって倒れた。
私も彼女と乱取りしたけど、一度だけ綺麗に背負いで投げられた。柔道が強い子は、基礎的な体力からして違う。あの男の子とも乱取りしたけど、体幹が物凄くて投げれる気がしなかった。どれだけ足を引っかけても動かせる気がしない。
ただ、彼はボヤっとした柔道をする子だった。動きが明らかに鈍い。子どもにはあることだけど、スポーツやってるからには相手に勝つ!! という自覚が明らかにない……そういう子は、やっぱりボテボテとした柔道になりがちだ。
結局、3,4日だったかな。その男の子がいたのは。合宿の最終日より前にいなくなった。市外の中学からの参加で、学校から距離があるので、予めそういう日程だったんだと思う。私もそうである。
夕方だった。私が工業高校から家に帰ろうとしてると、あの"女の子"が入口の柱のところでまごまごしていた。すぐ近くには、あの小太りの中学生男子がいる。引率の先生と話している様子だった。
女の子は、彼のことをチラッと見ることがあった。視線が真下にある畳に行ったり、彼の方に行ったり、安定してない。やがて、中学生男子が話を終えると、なんと……なんと……!!
彼は女の子の方を向いて、一瞬立ち止まった。私は耳をそばだてていた。あまり内容は覚えてないけど、再現してみる。
「あ、これは、これは~~さんじゃないですか。お疲れ様です」
「お疲れさま」
「疲れんかった? 今日で終わりでよかったね。いい修行になった」
「うち、今日で終わりじゃない。まだあと2日あるんよ」
「まだあと2日も? しんどいやん。なあなあ自分、銀河学院だっけ?」
「うん」
「知っとるよ」
「ぜんぶ参加したかったな~」
「しょうがないよ」
(ごめん……この間は覚えてない)
「なあなあ。もう会えんよ多分。うちら」
「そうかな?」
「そ~よ~」
「残念かも」
「いや。駅まで歩く。あとは電車」
「うちも歩く!! 一緒に帰ろ」
眩しいな~と思って眺めていた。かくいう私は、恋愛経験が少ない女子だった。
あのふたりは、本当に一緒に帰っていた。私は親が工業高校まで迎えに来てくれる約束だった。校門付近まで行くと、あのふたりが一緒に並んで歩いていた。女の子の方は自転車で、男の子は徒歩だった。
いや、懐かしい。ほんとに懐かしいなぁ。それでいて眩しかった……
去年の冬だった。タワレコの近くに任天堂の公式ショップがある。仕事帰りに立ち寄ることがあって、昔懐かしいマリオやカービィのぬいぐるみを眺めていた。職場はこの近くだけど、存在を知りつつ入ったことはなかった。そういうお店ってあるよね。鶏白湯ラーメンの専門店とか。
お洒落なショップだった。店内レイアウトに無駄がないというか、導線を綺麗に描けている。右回りの人でも左回りの人でも、混雑しないようになっている。こういうのは気になる。
店内をウロウロしてると、私が知らないゲームのグッズ売り場に行きついた。私の隣には女性がいた。40才くらいかなと思ったけど……見た目がすごく若かった。20代後半に見える。
私は同性なので、顔のしわの感じでわかった。男性でも見抜ける人はいるのかな? いいや、私でなきゃ見逃しちゃうねと思ったところで、その女性がキーホルダーを手に取った。
キャラ名は知らないけど、イカみたいなキャラクターだった。イカが琥珀色の球形に入っていた。高級なカブトムシやクワガタが琥珀色の何かに漬かってるのを見たことがある。あんな風だった。
その女性がイカを手に取って眺めると、顔がぱあっと明るくなった。気に入ったのだろう。ずっとイカをまじまじと眺めていた。すると。
「それ、いいですよね」
向こう側にいた若人男性が、彼女に声をかけた。純朴そうな見た目の青年だった。私の勘(年齢センサー)だとおそらく20代後半である。
その子は、一瞬こわばった感じだったけど。
「えー。そうですよね、可愛いですよねぇ」
と返事をしていた。
それから、とりとめのない会話が始まった。イカが出てくるゲームの話をしていたはず。私はしばらくカゴの中のキーホルダーを手に取りつつ、ふたりの話を聞いていた。
やがて、もういいかなと思って、その場を離れてレジに向かった。私が買ったのは、手のひらサイズの1UPキノコだった。高校生の時、幕末志士の動画のファンだった頃を思い出して懐かしくなった。
その次の週も任天堂ショップが気になった。本当になんとなくだった。まだ見れてないものがある気がして。
ところで、あのイカが出てくるゲームはスプラトゥーンだった。名前は聞いたことがあった。中味はほとんど知らない。
私のはてなブログ歴は約7年だけど、あのイカはサムネイル画像でしか見たことがない。有名タイトルのはずなのに……そういうコンテンツってあるよね。野獣先輩とか。
それで、任天堂ショップに入ろうとした時に見てしまった。レジ付近を見ると、あの男女がいた。一緒に買い物をしたようだった。ショップの袋を抱えている。
なんか、ぎこちない感じだった。両方とも会話の雰囲気がぎこちない。声は聞こえないけど、雰囲気やオーラで伝わってくる。ふたりで入口付近に立って、何かをずっと話していた。緊張してるように見えた。
私はそれから店内をグルグルと廻って、スプラトゥーンのコーナーを一通りチェックして、ゲーム体験してる人達を後ろから眺めて、あとはどうしたっけ……ゼルダの伝説のピンバッジ? が恰好よかったのと、あとはどぶ森のコーナーを新発見して、子ども時代の思い出に耽った。
今年の春だった。再び、任天堂公式ショップ(※正式名称はNintendo TOKYOです)に行ってみたのは。この時を最後に行ってない。お店に入る前の歩道で、あのふたりが一緒に歩いてるのを見た。
ここまでくると、もはや必然だと感じていた。あの時とは違って、リラックスした雰囲気だった。手を繋いで、歩道の端っこの方をゆっくり歩いていた。仲睦まじいという言葉が似合っている。そんなふたりだった。
水面を一緒に泳いでいるオシドリみたいだった。オシドリは、子どもができると♂の方が♀から離れてまた嫁探しをするらしいけど、そんなことはどうでもいい。ふいに、あの昔のAAを思い出した。
_人人人人人人人人人人人人_
> わりとどうでもいい <
 ̄^^Y^Y^Y^Y^Y^ ̄
ヘ(^o^)ヘ
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今年の八月頃から、恋愛や結婚関係の増田日記がよく投稿されていた。こちらを書き始めたのは11月になってからだ。もうブームは去ってるけど、気になったことを書いてみた。
よければコメント等いただけるとうれしい。ブログの方だとコメントもらえるけど、増田だとブクマやコメントをもらえることは少ない。
暇だ。
暇なので電車に乗って日帰りできる範囲の近所をブラつくことにした。
毎日同じ電車に乗っているが、方向が違うだけで景色が違って新鮮である。
あと気のせいだと思うが、車内の広告も趣が変わっている気がする。
(そういえば、8番出口の続編がいつかでるんだっけ?)
ごく短い区間の私鉄なので、終点と言っても自宅からは結構近い。
強いて言えば、コンビニ前で一息ついていたアニメキャラ?のTシャツを着たオッサンが目立っていた。
何のキャラか知らんがまぁ、確かに可愛いね、と思いながら通り過ぎる。
特に行先も目的もないが、空腹感はあったので、飲食店を眺めながらとりあえず歩く。
JRの駅との中間地点に、よさそうな定食屋があるらしい。もし見つけたら入ろうと思い、JRの駅の方角に勘で向かう。
なんというか、寂れているとも言えないが、活気があるとも言えない街並みだな・・・と思いつつ歩く
すると前方から異様な出で立ちの女性が。なんのキャラかわからんが、コスプレだろうか。巫女?っぽい?
今まで視界に入る範囲ではそんなイベントをしている気配は全くなかったので、かなりびっくりした。
あぁ、さっきのTシャツのおっさんもそのイベント目当てだったんだな、と一人合点する。
特に面白いことも、美味しそうな店も見つからないままJRの駅前らしき交差点にたどり着いてしまった。
すると何やらアナウンスが聞こえてくる。
なるほど、コスプレイベントは駅前の商店街でやっているらしい。
せっかくなので商店街を見ていくことにする。
ニコニコしたおっさんがごついカメラを構えて、楽し気にコスプレイヤーと話していた。何のコスプレなのかはわからない。
好きなキャラがいるわけでも、写真撮影が趣味なわけでもなく、買い物もする気もないので、凝視するのも申し訳ないなと思い、
横目でコスプレイヤーの皆様を見ながら通り過ぎる。今思えば結構な不審者だな。
何故かわからないが、通路の中央に車が並べられていた。キャラクターが描かれた、派手な車たち。痛車というやつか?
車を背景にコスプレイヤーがポーズを決めていた。んーあれは、ウマ娘だろうか。やったことないからわからん。
一台、やけにクラシカルな車があって、キャラが描かれているわけでもなく、趣旨違わないか?と思ったら
ボンネットはガッツリ痛い仕様だった。車のことも分らんけど、旧車を痛くする文化もあるんだろうか。とにかく金がかかりそうだな・・・・
車やコスプレイヤーやその他諸々を眺めながら歩く。
えーっと、あれは誰だっけ、初音ミクの親戚?VTuberか何か?うわ、あの人すげぇスタイル良いな。誰か知らんけど。
最近の作品はさっぱりだけど、ジブリ作品のコスプレは流石にわかった。
サンとすれ違う。クオリティたけぇな。気付いていないだけで雫と聖司もいたのかもしれない。
黒ずくめなのは、呪術回戦かな・・・ サングラスは五条先生だろうか。
商店街の終わりが見えてきた。
脇に目をやると、屋台で何かを売っている。店員がコスプレしていた。キキとトンボだ。
パンかパイを売っていたら100%買ったんだけどな。なんで、おでんなんだよ。
いや、おそらく、パンもパイも速攻で売り切れたのであろう。誠に残念である。
商店街の出口・・・というか、多分こちらが入口なのだとは思うが、変態仮面が受付にらしき場所に居た。
これはいままでと別の意味で直視はしがたい。すごいなぁ。笑いを嚙み潰して通り過ぎる。
空腹感がどうでも良くなってしまったので、そのまま帰ることにする。
何が言いたいのかと言うと、ジブリって本当にいいもんですね、という話。
友人(バ金持ち)が「どんな豪邸でも時がたてばタダ同然になる」という事実に絶望し、
「ならば、価値が下がらないように歴史に残るような家にすればよいじゃないか!」と思いつき
将来有望な若き建築家に「ここに君の最高傑作になるような家を建ててほしい」
と言って家作りを依頼した。
予算は潤沢で土地も広く建築家は相当張り切ったらしい・・しかし、完成した物件に招待された私は愕然とした。
外観:特定防止のため詳細は伏せるが妙に波打っており階段状でところどころ円形の突起がある。
車庫:ベンツマークの門がありそれが回転する。友人はベンツを常用しておりそれを建築家が汲んだそうだが、
友人は「この家にいる限り一生ベンツにしか乗れない」と嘆いていた。
庭 :見たことのない植物が植わっていた。備え付けのヒーターで加温しないと冬には枯れるらしい。
玄関:3階まで階段が続く。玄関以外の1階や2階に行くには一度3階に行き両サイドにある螺旋階段を
リビング:3階から入り2階までの吹き抜けになっていて無数の円柱が屹立していた。それぞれの頂に椅子や
キッチン:リビングの真ん中に鎮座しており木の細かい格子で囲われており座敷牢のようだった。牢屋の中で奴
風呂:入口が段差になっており風呂場全体が浴槽になる。土地はふんだんにあったはずなのになぜか面積の
寝室:すごい傾斜になっており上から滑り降りるように入室する、強制的に一方通行で外に出るときは下側
の穴を使わなければならない。
数億を使い我が家を変態ハウスにされた友人は激怒し、建築家にどこにも公表しないことを厳命し、珍奇な
物件を取材に来るあらゆるメディアを拒絶した。この物件で歴史に残ろうと張り切っていた建築家には最も重
い罰だろう。こうして「歴史に残るような名建築」は「歴史に残すことを許されない迷物件」となった。
そして、一つだけ謎が残った。
友人曰く、建築家に悪意はなかった。前述のとおり、やる気と熱意があり、期待に応えるため必死の様子だった
らしい。むしろ、「素人が口を出して芸術性が損なわれたら困る。有名建築家ならば居住性は最優先に考える
だろう。」と言って完成まで一度も現場に来なかった友人側に責任があるだろう。それでも、こんなおかしな物件
が出来上がるのはおかしいだろう。
正しい人でありなさい。
それが、僕に課せられた唯一にして最大の教条だった。
幼い頃から、僕は常に「先生の家の子」であることを意識させられてきた。両親は僕を品行方正な模範少年に仕立て上げることに腐心していたし、周りの人(大人も子どももだ)は皆、僕の素行や成績の優秀さを褒めそやした。
今思えば、僕は他人の眼差しに見張られ、他人の期待に縛られて暮らしていた。だが、当時の僕は、それに不満や苦痛を感じることは(少なくとも意識の上では)全くなかった。むしろ、どんな時も「正しい人」として振る舞うことに、ある種の誇りすら感じていたように思う。
友達をえり好みするのは「正しくない」ことだ、という両親の教えに従って、僕は誰にでも人当たり良く接していた。その甲斐もあってか、ほとんどの級友は僕に好意的だった。先生たちも僕を気に入っていたようで、贔屓と言われるような特別扱いを受けることも少なくなかったが、誰も文句を言わなかった。僕は何の迷いもなく、己に与えられた特権を享受していた。それが自分の「正しさ」に支払われた報酬だと受け止めていたからだ。
そんな僕が、一人だけ「友達」と呼べない少年がいた。隣の小さな家に住んでいた彼は、見た目も成績もパッとせず、不器用でどんくさい、いわゆる劣等生だった。当時の僕にとって「優れていること」と「正しいこと」はほとんど同じ意味だったから、僕は「正しくない」彼のことをうっすらと見下していた(そしてそれを「正当な評価」だと信じていた!)。
だが、もし彼がただの冴えない少年だったら、僕は彼とも親しくしようとしただろう。僕に「誰かを嫌う」という悪徳を犯させた(当時は本気でそう思っていたのだ)のは、彼の蝶に対する異常な情熱だった。
あの頃の僕たちにとって、蝶の収集は最大級の関心事だった。少年たちは蝶を捕まえては標本を作り、互いに自慢し合っていた。
はじめのうち、僕はあまり熱心な収集家ではなかった。捕らえた蝶を完璧な標本に仕上げる作業は楽しかったけれど、蝶を捕まえること自体にはさして魅力を感じていなかったのだ。
だが、彼は違った。彼は「蝶狂い」としか言いようがないほど、生活のすべてを蝶捕りに捧げていた。「蝶を探していた」という理由で遅刻して先生に怒られるのは日常茶飯事で、彼の母親が夜に戸口の前で息子が戻ってくるのを待っているのを見たのも一度や二度ではなかった。
それほど蝶に入れあげているにもかかわらず、彼は自分の標本を他人に見せようとしなかった。標本を級友たちとの「社交」の手段と捉えていた僕は、そんな彼に不気味さすら感じていた。こいつは一体何のために蝶を集めているんだ? 遅刻の罰として教室の前に立たされている彼の、何を考えているかわからない顔を見るたび、僕は疑問に思わずにはいられなかった。
ある日、僕は虫取り網を片手に近所の森に出かけた。新しい標本を作るために蝶を仕入れに行ったのだ。あらかじめ目星をつけていた場所で狙い通りの蝶を捕まえ、さっそく家で標本にしようと帰りかけた時、近くでガサガサと物音がした。音の方を見ると、一人の少年が森の奥へ向かっていた。彼だ。彼は僕に気づくこともなく、上の方を見ながら歩みを進めていく。僕はほんの少し迷ったあと、彼の後を追いはじめた。誰かのあとをつけるなんて全く「正しくない」ことだと思いながらも、なぜかそうせずにはいられなかったのだ。
十分以上歩いただろうか。少し開けた川べりで、彼はようやく足を止めた。僕は木の陰に隠れて、彼の様子をうかがった。彼は静かに網を構え、宙の一点を凝視している。彼の視線を追った先には、一匹のコムラサキがいた。生きたコムラサキを見るのは、これが初めてだった。
彼はじっと、コムラサキの隙を狙っている。爛々とぎらついた瞳には、きっと蝶の姿しか映っていない。こんなにも獰猛な空気を纏った人間を、僕は見たことがなかった。
不意に、彼が動いた。突き出された虫取り網がひらりと宙を舞い、すぐに地面に伏せられる。彼はかがみこんで網の中を確認した。僕からは蝶の姿は見えなかったが、狩りの結果はすぐに分かった。彼が、長い安堵の息とともに、うっとりと微笑んだからだ。
彼が立ち上がる前に、僕は踵を返した。早足はいつの間にか駆け足になり、何度も転びかけながら、それでも走り続けた。「逃げなければ」という言葉が、身体の中に繰り返し響いた。何が怖いのか、そもそも全身に満ちたこの感情が恐怖なのか、何もわからないまま、僕は家まで走り通した。捕まえた蝶がいなくなっていたことに気づいたのは、自分の部屋に戻ってからだった。
それから二ヶ月ほど経った頃、紙箱を手にした彼が僕の家を訪ねてきた。彼が何か言う前から、僕には箱の中身が分かっていた。彼はあの日のコムラサキを見せに来たのだ。僕は彼に気づかれないよう息を整えてから、紙箱の蓋を開けた。
箱の中のコムラサキは、お世辞にも良い状態とは言えなかった。展翅には粗が多く、足も欠けている。褒められたものじゃないな、と思いながら顔を上げると、彼は得意げな笑みを浮かべていた。驚嘆と賞賛を欲しがっている顔だ。それに気づいた途端、胸の中にどす黒い感情が湧き上がった。
せっかくのコムラサキがこんな不完全な標本になってしまったことへの落胆、その粗雑さに全く無頓着で恥じる素振りもないことへの呆れ、そして何よりこんなやつに一時でもおそれめいた感情を抱いてしまった自分への怒り。そういったものが渾然一体となった感情だったと、今にして思う。だが、子どもだった僕は、それらを「不快なもの」として一括りにすることしかできなかった。そして、その不快感を、標本への批判という形で吐き出したのだ。
僕は、彼のコムラサキの欠点を、ことさら辛辣な言い方で並べ立てた。彼の顔はみるみるうちに曇っていき、最後にはすっかり不機嫌な表情になった。
紙箱をひったくって部屋を出ていった彼の後ろ姿を見て、僕はかすかな罪悪感を覚えた。人を傷つけるのは、明らかに「正しくない」ことだ。
違う。僕は彼を傷つけたわけじゃない。僕はただ事実を述べただけなのに、彼が勝手に傷ついたのだ。直すべきことを指摘するのは「正しい」ことだから、僕は何も恥じる必要はない――
僕は自分にそう言い聞かせた。都合の良い言い訳だと、心のどこかでは分かっていたけれど、気づかないふりをした。僕はただ、「正しい人」でいたかったのだ。
彼のコムラサキの標本を見てから、僕は本格的に蝶の収集に取り組み始めた。少数の個体を完璧に仕上げることで満足していたのが、より多くの種類の蝶を捕まえたいと思うようになったのだ。
勉強や友達付き合いに割く時間を限界まで減らし、僕は蝶の採集に出かけた。珍しい蝶も、そうでもない蝶も、とにかく片っ端から捕まえた。両親は泥だらけの服で帰ってくる僕を見て顔をしかめ、級友たちは僕と遊べないことに不満げだった。採集自体も、楽しさより苦痛のほうが大きかったが、やめようとは思わなかった。
僕の目的は、彼よりも優れた収集家になることだった。彼が捕まえるよりも多くの種類の蝶を、彼が作るよりも美しい標本にする。それは僕にとって、ほとんど初めての私的な欲望だった。誰に求められたわけでもないのに、「正しい」ことでもないのに、せずにはいられない。自分でも理由のわからないまま、僕は取り憑かれたように標本作りを続けた。
時折、蝶を探しに行った先で、彼の姿を見かけることがあった。彼はいつでも心底楽しそうに野山を駆け回っていて、その姿を見るたびに嫌な気持ちになった。僕が彼に声をかけることはなかったが、彼が僕に気づくこともなかった。彼はいつも蝶しか見ていなかった。その事実もまた僕を苛立たせていたのだが、あの頃はそんなことは思いもよらなかった。
季節がいくつか過ぎる頃、僕は蛹の採集にも手を出していた。森に分け入って成虫を捕まえるよりも、自分の部屋でじっくりと蛹や繭を羽化させる方が性に合っていると気づいたのだ。時には予想外の成虫が出てくることもあったが、それもまた楽しみの一つだった。
そんななか、とんでもないことが起こった。偶然手に入れた繭から、クジャクヤママユが羽化したのだ。クジャクヤママユといえば、僕たちの間では秘宝のような扱いの、まさに幻の存在だった。ゆったり広げられた翅に浮かぶ特徴的な斑点を確認した時には、全身の震えが止まらなかった。
何も考えられない興奮状態の後に、真っ先に頭に浮かんだのは彼の顔だった。彼が教室の片隅で、級友のクジャクヤママユの話に目を輝かせていたのを見たことがある。あの様子だと、きっと彼はまだクジャクヤママユを見たことがない、ましてや持っているはずがない。
千載一遇の好機だと、僕は思った。このクジャクヤママユを完璧な標本にして、彼に見せるのだ。何が「正しい」標本なのか、誰が「正しい」収集家なのか、彼に見せつけてやるのだ。この思いつきは、僕をひどく高揚させた。
僕はこれまでにないほど慎重かつ丁寧に、クジャクヤママユの展翅に取り組んだ。その出来栄えは、今までのどんな蝶よりも素晴らしいと自負できるものだった。もうしばらくすれば、非の打ち所がない美しい標本が仕上がるはずだ。僕はすっかり舞い上がっていた。
常に地に足をつけていることこそ「正しい」。そう知っていながら、浮かれきった僕は級友にクジャクヤママユのことを話してしまった。噂はあっという間に広まり、大勢の少年たちがクジャクヤママユを見せてくれと押しかけてきた。
僕は彼らの頼みを「完璧な状態で見せたいから」と全て断った。それも嘘ではなかったが、一番の理由でもなかった。最初に見せる相手は彼だと、最初から決めていた。
僕は実のところ、彼がどうしてもと乞うならば、未完成の状態でも見せてやってもいいとさえ思っていた。にもかかわらず、彼は何も言ってこなかった。コムラサキの一件以来、彼が僕を避けているのは分かっていたが、彼の僕への嫌悪感がクジャクヤママユへの興味を凌駕していると考えると、妙に胸がモヤモヤした。
その日は、何ということのない平凡な一日になるはずだった。少なくとも、蝶の採集を終えて帰宅し、自室に入るまではそうだった。だが、そこで僕を待っていたのは、変わり果てた姿のクジャクヤママユだった。
翅がもげていた。触角も片方取れていた。展翅板の上には、粉々になった翅の残骸が散らばっていた。
どうして。何で。誰が。どうすれば。
絶望的な言葉の断片が、次々と頭の中に浮かんではぼろぼろと崩れていく。早く直さなければ、と震える手で修復道具に手を伸ばす。今までの経験は「これは無理だ」と告げていたけれど、その声さえ聞こえなかった。
日が落ちかけた頃、僕はとうとうクジャクヤママユの修復を諦めた。僕は絶望的な気持ちのまま寝台に倒れこみ、腕で目を覆った。このまま何も考えずに眠ってしまいたかった。そして朝になって、すべてが夢だったと気づきたかった。
そんな幼稚な空想を打ち砕くように、女中さんが僕の部屋の戸を叩いた。彼が来ていると言うのだ。僕はのろのろと起き上がり、玄関に向かった。
僕の酷い顔を見て驚いたのだろうか、彼は何も言わずにこちらを見ていた。僕は半ば操り人形のような心地で、クジャクヤママユが台無しになったことを告げた。すると彼は、それを見せてくれと言った。僕は頷き、彼と共に重い足取りで階段を上っていった。
僕はクジャクヤママユの残骸を彼に示した。ろうそくの明かりでも、彼の顔に全く血の気がないのがわかった。彼はしばらくクジャクヤママユを凝視していたが、ゆっくりと僕の方を向いて、言った。「ぼくが、やったんだ」と。
僕が凍りついていることに気づかず、彼は堰を切ったように喋り始めた。どうしてもクジャクヤママユが見たくて、僕がいない間に部屋に入ったこと。見ているうちに魔が差して、クジャクヤママユを盗んだこと。返そうとした時には、クジャクヤママユがつぶれてしまっていたこと。
彼の話を聞くにつれ、僕は胸がどんどん冷たくなっていくのを感じた。同時に頭に浮かんだのは「彼は裏切ったのだ」という言葉だった。何を裏切ったのかはわからない、ただ彼が裏切り者だという考えだけが、強く強く繰り返された。
「そうか、そうか、つまり君はそんな奴なんだな」
そう告げた声は、自分でも驚くほど平板だった。こんなに誰かを軽蔑するのも、こんなに誰かに失望するのも、初めてだった。
彼は必死に許しを乞うてきたが、僕はありったけの皮肉を添えて彼の謝罪を切り捨てた。彼は一瞬、殺さんばかりの形相で僕を睨みつけた。そんな表情を誰かから向けられたのは初めてだったので、僕はほんの少したじろいだ。だが、彼はそれに気づくことなく、何も言わないまま、僕の部屋から出ていった。
僕はろうそくを吹き消し、再び寝台に横たわった。毛布に繭のようにくるまると、両目から涙があふれだした。
僕はどうして泣いているんだろう。当然、大事なクジャクヤママユを失ったからだ。でも、本当にそれだけだろうか。僕は、何を失ったんだろう――嗚咽の合間にそんなことを考えながら、僕の意識はゆっくりと沈んでいった。
次の日、僕は級友たちに、不手際でクジャクヤママユが駄目になってしまったと話した。彼らは、ぜひとも見たかったのにと嘆き、僕らしからぬ失態に戸惑った様子だった。だがそれも一時のことで、しばらくすると彼らの興味は別のものへ移っていった。
そして、その日以来、彼を野山で見かけることはなくなった。遅刻することもなくなり、真面目に授業を受けるようになった。ほどなくして、彼が蝶の収集を一切やめて、標本もすべて捨ててしまったらしいという噂が聞こえてきた。級友たちが、あいつとうとう正気に返ったのかとか逆におかしくなってしまったのだとか好き勝手を言っているのを聞き流しながら、僕は教室の隅でぼんやり座っている彼を盗み見た。
彼は罪を犯した、言い逃れできないほど「正しくない」人間だ。彼の罪を糾弾し、正当な罰を与えることこそが「正しい」行いだ。そう考えながら、僕はそうしなかった。彼をかばうためでも、ましてや許すためでもない。僕はただ、逃げたかったのだ。
あの夜、僕はまぎれもない被害者で、彼は明らかな加害者だった。誰もが、僕が彼を非難するのは「正しい」ことだと思うだろう。けれども僕はあの時、「正しい」ことをしようと思ったわけではなかった。正しいとか正しくないとかいう基準から外れた場所にあるむきだしの感情――「彼に裏切られた」という気持ちにまかせて、僕は彼を言葉で刺したのだ。
思えば、彼に関わる時の僕は、いつも「正しい人」から遠ざかっていた。標本箱の中の蝶のように完璧な優等生ではいられなくなり、破れた翅で不格好に飛び回る、身も心も薄汚れた自分になってしまうのだ。そして、その先にはいつも彼がいた。僕よりはるかに劣っているはずの彼は、森の中では僕よりはるかに美しく羽ばたいていた。にもかかわらず、彼は自ら泥の中に墜ちていった。それらすべてが許せなくて、耐え難くて、そう感じる自分自身を認めたくなかった。だから、僕は彼との関わりを絶ち、自分が「正しい人」でいられる場所へと逃げ出したのだった。
結局、僕は逃げ切れなかった。「正しい」ままで生きることなど不可能だということを悟り、自分の中の「正しくない」ものを受け入れて飼いならすことを覚えた。世間ではそれを「大人になる」と呼ぶのかもしれない。
彼とは、学校を卒業してから顔を合わせていない。今では蝶への興味もすっかりなくなって、作りためた標本はほとんど全て人に譲ってしまった。
それでも、一つだけ手元に残したものがある。翅のもげたクジャクヤママユだ。痛々しくて不完全で、なのになぜかひきつけられる。そんなクジャクヤママユこそ、僕にとっての少年の日の思い出なのだ。
階段ビクビク六丁目は、古事記の中で特に興味深いエピソードの一つです。この場所は、神々が地上に降り立つ際に通る神聖な階段とされています。階段は六つの段に分かれており、それぞれの段には特別な意味が込められています。
第一段: 天地創造の象徴。この段を踏むことで、神々は天地の力を借りて地上に降り立ちます。
第二段: 生命の息吹。この段を通ることで、神々は生命のエネルギーを得ます。
第三段: 知恵の光。この段を踏むことで、神々は知恵と洞察力を得ます。
第四段: 勇気の試練。この段を通ることで、神々は勇気を試されます。
第五段: 愛と調和。この段を踏むことで、神々は愛と調和の力を得ます。
第六段: 神聖なる使命。この段を通ることで、神々は地上での使命を果たす準備が整います。
「ビクビク」という表現は、神々がこの階段を降りる際に感じる緊張感や畏敬の念を表しています。六丁目は、神々が地上に降り立つ最終地点であり、ここで彼らは人間界との接触を開始します。
2016年にムサ・アル・ガルビがニューヨークに初めて来たとき、彼が最も気づいたのは「人種化されたカースト制度」の存在でした。その制度のもとでは、「使い捨ての召使い」が「あなたの家を掃除し、あなたの子供の世話をし、あなたの犬を散歩させ、調理済みの食事を配達する」のです。
この「使い捨ての召使い」は、その仕事に対して「わずかな報酬しか得られず」、ほとんどが黒人やヒスパニックで構成されており、サービスを受ける側はほぼ白人ばかりでした。しかし、誰もこのことに言及せず、「これが普通の社会のあり方だ」と考えられていました。
アル・ガルビが描写しているのは、超富裕層の集まるアッパー・イーストサイドや、億万長者たちのたまり場であるスカーズデールではありません。彼が在籍していたのはコロンビア大学であり、「人種カースト制度」で利益を得ていたのは同級生たちでした。その多くは社会正義について声高に語っていましたが、自分たちの生活を支えている社会階層の底辺の人々のニーズにはほとんど無関心でした。
4年後、同じ学生たちの多くがBlack Lives Matterの抗議に参加しました。アル・ガルビは、彼らがニューヨークのアッパー・ウェスト・サイドのブロードウェイで、同じ場所を共有している「靴も持っていないホームレスの黒人男性たち」に気づかないままデモをしているのを見ました。抗議者たちは「Black Lives Matter」と主張しながら、ホームレスの人々が使っていたベンチを占拠していて、どうやら目の前の「黒人男性たち」には関心がないようでした。
このように、社会正義を求めて活動するリベラルな学生たちの信念と、周囲にある現実の不正義への無関心を示す行動との間にある絶え間ない不一致により、アル・ガルビはその矛盾を理解するために本を書くことを決意しました。『We Have Never Been Woke』はアメリカで出版されたばかりで、間もなくイギリスでも出版される予定です。アメリカの選挙の背景を理解するための有用な出発点の一つとして、この本が挙げられます。なぜなら、選挙の物語は、アル・ガルビが感じた不一致に気づく人々と、それに気づかないか、気づこうとしない人々の分裂という観点からも見ることができるからです。
コロンビア大学の活動家たちが周囲の目に見える不正義を無視している中で、なぜ彼らは社会正義の言葉を採用したのでしょうか?言い換えれば、現実の不正義や不平等が無視される世界で、その言葉はどのような役割を果たしているのでしょうか?これらは、学生時代のアル・ガルビが悩んだ疑問であり、その本の核心をなしています。
彼の答えは、社会正義の言葉、すなわち「ウォークネス」は、実際には社会正義を目的としたものではなく、むしろ特権の階段を上り続けたいが、自分たちがエリートであるとは見られたくないエリート層を結びつけるイデオロギー的な接着剤の役割を果たしているというものです。
「ウォーク」という言葉自体は、あまり有用な言葉ではなく、分析よりも軽蔑の意味で使われることが多いものです。アル・ガルビはこの点を認識しており、侮辱として使われることを避け、定義することさえ拒んでいます。彼にとって重要なのは、この概念が実際に支持者や批判者によってどのように利用されるかです。
アル・ガルビは、「象徴的資本家」の闘争こそがウォークネスを理解する鍵だと主張しています。「象徴的資本家」とは、シンボルやレトリック、イメージやナラティブ、データや分析、アイデアや抽象概念を扱う専門家、つまり作家や学者、芸術家や弁護士、美術館のキュレーターや技術専門家を指します。この社会階層は、エリートの中で自身の地位を固め、すでにそこにいる他者を押しのけるために、社会正義の言葉を利用して地位と「文化資本」を蓄積しようとしています。彼らの闘争は、貧しい人々や弱者のためにエリートと戦っているように見せかけながら、実際にはエリートの内部での闘争なのです。
これは単なる皮肉や偽善ではないとアル・ガルビは主張しています。象徴的資本家たちは、自分たちの社会的役割についての神話を構築し、それによって不平等や不正義を助長しながらも、公正や平等を信じていると本気で思い込んでいます。この神話は多くの社会機関や権力者によって受け入れられています。その結果、社会正義の言葉は「不平等を正当化し、覆い隠す」ことに役立ち、エリート層がそのエリートとしての地位を強化し続けるのを可能にし、それはしばしば本当に脆弱で、疎外され、貧困に苦しむ人々の犠牲の上に成り立っているのです。
この議論の多くの側面は、例えば文化理論家のキャサリン・リウや哲学者のオルフェミ・タイウォによって以前から表現されてきました。リウは、プロフェッショナル・マネジャー階級が自らの自尊心を高めるため、そして「普通の労働者階級の人々に対する揺るぎない優越感」を正当化するために、「美徳を貯め込んでいる」と主張しています。また、タイウォは『Elite Capture』の中で、異なる視点からではありますが、エリートが急進的な政治を自分たちの目的のために取り込んでいると述べています。
これらの作品は現代政治の不条理を理解するのに重要です。例えば、アメリカの民主党(および多くのヨーロッパの社会民主主義政党)が次第に富裕層と高学歴者のクラブと化している理由、そして多くの労働者階級の有権者がそれらを見限るようになった理由を説明しています。また、象徴的な表現や言葉の取り締まりには熱中しつつ、現実の物質的な不平等には関心を持たない私たちの文化の執着も浮き彫りにしています。
しかし、これらの議論には、注意しなければならない落とし穴も存在します。社会正義の活動家が物質的改善のための闘争を放棄し、文化的エンパワーメントを目指すようになったのと同様に、多くの批評家もまた、新たな「文化的エリート」を主要な問題とみなし、私たちの社会における真の物質的な権力の根源を無視するようになっているのです。
今日の社会活動の質が低下した背景には、歴史的な変化があることを見失う危険もあります。アル・ガルビは、現代の「ウォーク」政治の盛り上がりは、一連の「覚醒」の最新の段階に過ぎないと主張しています。これらの「覚醒」は、1930年代に学生たちが共産党や他の急進的組織を支持したことから始まりました。
しかし、それでは変化の現実を見逃してしまいます。例えばアメリカの共産党は、1930年代のアメリカにおいて、彼らは反人種差別運動や労働者の権利擁護に重要な役割を果たし、他の急進派、社会主義者、労働組合員、黒人活動家と共に、戦後の公民権運動の基盤を築く助けとなりました。
特に、ジム・クロウ法が支配する南部のアメリカでは、彼らはシェアクロッパーや製粉工場労働者、ホームレスや失業者の組織化を支援しました。これらの活動家たちは、ブロードウェイで抗議していた人々のようにコスプレをしていたわけではありませんでした。彼らは自警団によるテロや警察の暴力に直面し、命を落とした者もいれば、多くが投獄されました。しかし、彼らは人種を超えた階級連帯の可能性を示したのです。
こうした連帯運動が崩壊したことが、社会正義運動の質の低下と労働者階級の利益の放棄を招いたのです。そのことを理解することは、「象徴的資本家」の役割を理解するのと同じくらい重要であり、変革のための運動を再構築するためには不可欠です。
ジョジョ5部の上映を見に行ったのだが、運営がクソだったので記録しておく。
◯ 11/9(土)
× 11/9(日)
しかも告知解禁と同時に約1週間前にチケット販売開始は結構ヤバいのではないか?
ちなみにこのポスト以後、修正(「正しくはこちらです」的な案内)はない。
チケットには18:45開演の表記があったが、実際は19:00開演だった。
いつまで経ってもチケットページの登壇者情報が更新されないと思っていた。(Xのポストでは告知されていたらしい。また公式サイトのNEWSは登壇者部分に誤字、さらに続きには「ニンジャバットマン」と書いてある。誰もチェックしていないようだ。)
18:45になっても何の説明もなく、18:50ごろに一度だけスタッフが「10分押しで入場する」とアナウンスした。
待機中の説明はそれだけであり、ほかのスタッフは客のことを完全に無視。スタッフ同士で喋っているだけで、客のケアは一切なかったので、待機列ではストレスを感じている人が多かった。(UDXシアターはガラス張りのため、ロビーの様子は待機列から見える。)
登壇者である岩浪氏が待機列の横を通り、「入場遅れてごめんね〜」と声をかけていたが、スタッフからはアナウンス時のみで他は何も言われなかった。
19:00過ぎにゾロゾロと客が出てきたことで、前の上映が押していたことが判明。
前の上映は「Gのレコンギスタ」であり、上映前トークショーだった。つまり映像の上映が始まった時点で、何分押すかは想定できているはずなので、客に対しては単純な案内不足である。
入場開始のアナウンスは特になく、前方が動いたのでついていく形だった。(前の方は聞こえていたかもしれない。)
入場口のスタッフがもぎりに手間取っており、スムーズに入れなかった。
シアター内は先にマスコミが入っていたが、一番前の階段にスーツの女が座っており、通行の妨げになっていた。
19:15ごろ開演。
「ジョジョの奇妙な冒険 黄金の風」とは読み上げず、上映話数タイトルから始まった。
なお「38話:ゴールド・E・レクイエム」のEを「イー」と読んでいた。
登壇者のプロフィール紹介も日本語があやしかった。「しています」「されています」が混在しており、違和感があった。台本がまともではない様子が伺い知れる。
台本なしで、岩浪氏に丸投げされていたと思われる。
トーク内容から、おそらく上映作品の枠が埋まらず、岩浪氏担当作品から何か上映することになり、かつ菅野氏が劇伴を担当した作品ということで「ジョジョ」が選ばれたようだ。
岩浪氏がX上で上映してほしい話数のアンケートを取ったのが10/23であるので、映画祭約2週間前の時点でまだ上映作品が決まっていなかったということになる。(仮に5部の上映が決まっていたとしても、上映素材は10/25のアンケート締め切りから準備したことになる。)
登壇者が「朝から出ずっぱりで疲れている」と言っていて、そのようなスケジュールを組んでいることが大変残念な気持ちになった。
上映前に予告がついていた。(映画祭に来るのは初めてなのだが、これは普通なのだろうか?タイトルを忘れたがフルCG制作っぽい女性キャラが出てくるアニメ映画と、サンドウィッチマンがやっている求人の広告だった。スポンサー?)
秋葉原国際映画祭の数秒の動画もあったが、これがフィルムのリマスターのような映像・音声だったので、「何年も使用しているのか」と思っていたら、どうやら今回が第1回のようで大変驚いた。
まともな映画館であればもう少し音響は良かったはずなので、今後立川などに期待したい。
退出しようとしたら、のんびり司会の人が歩いて出てきた。
せっかくの余韻をぶち消す司会だったので、ない方が良かった。
シアター内のスタッフの誘導がなく、結局もう退出していいのか迷った客が多かった。ポスターも退出し始めてから2枚(映画祭ポスター、作品ポスター)を並べており、おかげでロビーも混雑した。
「開催することに意義がある」、「客のことはどうでもいい」という印象が強い。待機中に一番ストレスが溜まった。開場予定時間になぜ開場しないのか、本当にわからなかった。まさかチケットが間違っているなんて思うまい。20:45終演予定を信じて新幹線など移動のチケットを持っていたら、気が気でなかっただろう。
スタッフはガラスの向こうでずっと喋っており、関係者と思われる人達だけたくさん出入りしていて、客のことは完全放置だった。私たちは客ではなく舞台装置であり、スーツを着た彼らにとっては、登壇者・作品関係者が「客」である映画祭だと思った。正直かなり印象が悪い。
「作品の音にスポットを当てた」トークを期待したが、台本もなく既出の話しがほとんどであったことも残念だった。作品タイトルを紹介しない台本を用意し、さらに話数タイトルを読み間違え、客だけでなく作品のことも馬鹿にしているように受け取れたし、告知の間違いもかなり多く、登壇者が疲れ果てるようなスケジュールを組んでいて、まともな運営でないということはハッキリした。
2週間前で上映作品が確定していないことで、この映画祭の力の弱さを感じた。「映画祭」なのにTVシリーズの上映を多数していることが答えだと思う。岩浪氏と菅野氏の共通作として「PSYCHO-PASS」のタイトルもトークショー中に出ていたが、そちらは映画も存在する。なぜ上映できなかったのか?
作品を埋めてなんとかイベントを開催したというだけにしか思えない。本当に運営がクソだった。楽しみにしていた分、残念が多すぎて、オタクとしても擁護できない。
帰り際にアンケートの声かけがあったが、気分が悪すぎて早々に退出した。帰宅後にアクセスする方法がなかったのでこちらに記載しておく。
ジョジョ5部の上映を見に行ったのだが、運営がクソだったので記録しておく。
◯ 11/9(土)
× 11/9(日)
しかも告知解禁と同時に約1週間前にチケット販売開始は結構ヤバいのではないか?
ちなみにこのポスト以後、修正(「正しくはこちらです」的な案内)はない。
チケットには18:45開演の表記があったが、実際は19:00開演だった。
いつまで経ってもチケットページの登壇者情報が更新されないと思っていた。(Xのポストでは告知されていたらしい。また公式サイトのNEWSは登壇者部分に誤字、さらに続きには「ニンジャバットマン」と書いてある。誰もチェックしていないようだ。)
18:45になっても何の説明もなく、18:50ごろに一度だけスタッフが「10分押しで入場する」とアナウンスした。
待機中の説明はそれだけであり、ほかのスタッフは客のことを完全に無視。スタッフ同士で喋っているだけで、客のケアは一切なかったので、待機列ではストレスを感じている人が多かった。(UDXシアターはガラス張りのため、ロビーの様子は待機列から見える。)
登壇者である岩浪氏が待機列の横を通り、「入場遅れてごめんね〜」と声をかけていたが、スタッフからはアナウンス時のみで他は何も言われなかった。
19:00過ぎにゾロゾロと客が出てきたことで、前の上映が押していたことが判明。
前の上映は「Gのレコンギスタ」であり、上映前トークショーだった。つまり映像の上映が始まった時点で、何分押すかは想定できているはずなので、客に対しては単純な案内不足である。
入場開始のアナウンスは特になく、前方が動いたのでついていく形だった。(前の方は聞こえていたかもしれない。)
入場口のスタッフがもぎりに手間取っており、スムーズに入れなかった。
シアター内は先にマスコミが入っていたが、一番前の階段にスーツの女が座っており、通行の妨げになっていた。
19:15ごろ開演。
「ジョジョの奇妙な冒険 黄金の風」とは読み上げず、上映話数タイトルから始まった。
なお「38話:ゴールド・E・レクイエム」のEを「イー」と読んでいた。
登壇者のプロフィール紹介も日本語があやしかった。「しています」「されています」が混在しており、違和感があった。台本がまともではない様子が伺い知れる。
台本なしで、岩浪氏に丸投げされていたと思われる。
トーク内容から、おそらく上映作品の枠が埋まらず、岩浪氏担当作品から何か上映することになり、かつ菅野氏が劇伴を担当した作品ということで「ジョジョ」が選ばれたようだ。
岩浪氏がX上で上映してほしい話数のアンケートを取ったのが10/23であるので、映画祭約2週間前の時点でまだ上映作品が決まっていなかったということになる。(仮に5部の上映が決まっていたとしても、上映素材は10/25のアンケート締め切りから準備したことになる。)
登壇者が「朝から出ずっぱりで疲れている」と言っていて、そのようなスケジュールを組んでいることが大変残念な気持ちになった。
上映前に予告がついていた。(映画祭に来るのは初めてなのだが、これは普通なのだろうか?タイトルを忘れたがフルCG制作っぽい女性キャラが出てくるアニメ映画と、サンドウィッチマンがやっている求人の広告だった。スポンサー?)
秋葉原国際映画祭の数秒の動画もあったが、これがフィルムのリマスターのような映像・音声だったので、「何年も使用しているのか」と思っていたら、どうやら今回が第1回のようで大変驚いた。
まともな映画館であればもう少し音響は良かったはずなので、今後立川などに期待したい。
退出しようとしたら、のんびり司会の人が歩いて出てきた。
せっかくの余韻をぶち消す司会だったので、ない方が良かった。
シアター内のスタッフの誘導がなく、結局もう退出していいのか迷った客が多かった。ポスターも退出し始めてから2枚(映画祭ポスター、作品ポスター)を並べており、おかげでロビーも混雑した。
「開催することに意義がある」、「客のことはどうでもいい」という印象が強い。待機中に一番ストレスが溜まった。開場予定時間になぜ開場しないのか、本当にわからなかった。まさかチケットが間違っているなんて思うまい。20:45終演予定を信じて新幹線など移動のチケットを持っていたら、気が気でなかっただろう。
スタッフはガラスの向こうでずっと喋っており、関係者と思われる人達だけたくさん出入りしていて、客のことは完全放置だった。私たちは客ではなく舞台装置であり、スーツを着た彼らにとっては、登壇者・作品関係者が「客」である映画祭だと思った。正直かなり印象が悪い。
「作品の音にスポットを当てた」トークを期待したが、台本もなく既出の話しがほとんどであったことも残念だった。作品タイトルを紹介しない台本を用意し、さらに話数タイトルを読み間違え、客だけでなく作品のことも馬鹿にしているように受け取れたし、告知の間違いもかなり多く、登壇者が疲れ果てるようなスケジュールを組んでいて、まともな運営でないということはハッキリした。
2週間前で上映作品が確定していないことで、この映画祭の力の弱さを感じた。「映画祭」なのにTVシリーズの上映を多数していることが答えだと思う。岩浪氏と菅野氏の共通作として「PSYCHO-PASS」のタイトルもトークショー中に出ていたが、そちらは映画も存在する。なぜ上映できなかったのか?
作品を埋めてなんとかイベントを開催したというだけにしか思えない。本当に運営がクソだった。楽しみにしていた分、残念が多すぎて、オタクとしても擁護できない。
帰り際にアンケートの声かけがあったが、気分が悪すぎて早々に退出した。帰宅後にアクセスする方法がなかったのでこちらに記載しておく。
弱者男性しぐさでもいいよ
まず俺からね
月の光がカーテンを越えて部屋に差し込んだとき、僕は明日が昨日になっていることに気づいた。隣の猫が笑いながらタコを食べているのを見て、なぜ僕の足が逆さまに生えているのかを思い出した。階段を降りると上に登っていく感覚が心地よく、右手を左に振ると昨日のテレビが壊れた原因が分かるような気がした。
廊下を渡るとまた部屋に戻ってくるけれど、部屋に入るとすでに僕は部屋を出ていて、明かりをつけると電気が消え、スイッチを押すたびに壁がにやりと笑う。壁の時計は12時を指したまま秒針が逆に回り続け、床の上に浮かぶ魚たちは誰もが目を閉じて歌っている。僕の耳に響く音楽はまるで、いまだかつて聞いたことのない無音の旋律。
やがて、誰かがドアをノックしたと思ったが、ドアがノックをし返したので、それが僕の心の中の壁かもしれないと悟った。そして空っぽの箱を開けると、中には詰まった無限が横たわり、そこには僕の昨日が重なっていた。
・ふーん、静岡で椎名林檎ライブやるんや ほなちょっと応募してるみるかウィンとサンドウィッチマンのノリで応募したら当たったので当日まで半信半疑半分・夢見心地半分で過ごし今日…ってワケ…
・当日の午前中、思ったより心が落ち着いてるな…と思ったけどなんかいつもより世界がキラキラしとるな…ってなった
・愛野駅のエスカレーターの時点で心臓がドキドキしとる…自分って認識してるより椎名林檎の事、好き、なんや…って思ったけど愛野駅の階段がハード過ぎるだけだわ
・ライブティシャツ買おうとしたけど生地があまりにペラ過ぎてやめた ¥4000までならわかるけどこの生地とデザインで¥6000は価値観に合わなかった
チケット代も今まで参加したライブで一番高いチケ代+手数料計¥14080+新幹線代でえれえ金額かけてるから冷静になってしまった…
東京のでっけえ箱に比べるとそもそもキャパが小さめなのでどの席もステージを見やすく良席でスナイパーの席は無かったが、
「より近い席」人を羨んでしまう心が無いと言ったら嘘になるのでこれが「上を見続け、羨み続けてしまう人間の心…」ってなった 己の恵まれた現状を認識に現状で目一杯楽しめ!と己に言い聞かせた 人生
・オープニングの映像で「生の椎名林檎がこの世に存在しあまつさえ生歌を聴くことができる」という事実に感動し、今まで椎名林檎の歌を聴き続けた己の人生にうっとりし涙したがその後は割とスンッとしてた
・エコパアリーナは椅子があるし座っての観劇やろなぁと思ったらみんな普通に立ってた…
キョロキョロして立った
・面白くは無かったけど、
私は「今」の椎名林檎じゃなくて「昔」の椎名林檎が好きだったんだな…と思った
3/5は「し、知らない曲ですね…」ってなり1/5は「聴いたことはありますがそこまで刺さらなかったのでそんなにリピはしてない曲ですね…」ってなった
・貝のベッドで歌ってくれてる段階でスンッてなって女豹のレオタードの段階で上記の気付きを得た
・19:00上映で、18:20頃に会場に入って「19:00になったら本当に椎名林檎が目の前に現れる…?!」ってソワソワハァハァしてる時間がいっちゃんおもろかった
・赤安が大爆破する前に緋色の弾丸曲の生歌…聴きたかった…という気持ち半分と生歌聴けて嬉しすぎて呼吸数爆増〜!が同時に来た
・油(聴衆)が大炎上(熱狂)したくてフツフツしているが決定的に沸く火種が投下されずフツフツした状態が継続したライブだった
アンコールの2曲(自由に道連れ・東京オリンピック映像の曲)を序盤にやってたらもっと沸いてた
「主語デカくしてんじゃねーぞ」と思ったけど椎名林檎旗の振りが明らかになんか…こう…揺蕩う川のような…各々一生懸命フリフリしてるような…スポーツとかライブで盛り上がった聴衆の動きの一体感は… やっぱ途中盛り上がってなかったんやなってなった
・まさかの「二次創作」で強めの流れ弾が来たわ…そして「二次創作はいくらクオリティが神、ましてや椎名林檎は日本で指折りのトップアーティストだが二次創作の元ネタが刺さっていなければ刺さらないのはどんなに作り手が神でもそういうものなんだな」かつ「目茶苦茶楽しそうに二次創作する椎名林檎」「二次創作は本人が楽しくて公式様にお目溢し頂ければそれでええんじゃ!」(椎名林檎ほどの神アーティストになると二次創作元から二次創作を依頼されるかもしれませんが…)といつ二次創作の「核」を再認識させて頂いた
ライブでライブの生中継(表情アップ)してくれたんだけど、椎名林檎の目を伏せて口を横に引き結ぶ笑い方、目茶苦茶魅力的な表情だな…と思った
特にアンコールの金髪ボブボクサー、目茶苦茶可愛かった1番好き YUKIみたいなビジュアルの髪型+衣装も目茶苦茶似合ってた
・やきう回
やきうがそもそもあまり…とクサクサしていたが「青春の輝き」生歌+背景の雷鳴轟く野球グラウンドが萌えに直撃(通常の晴天の野球グラウンドにしないところが流石椎名林檎のライブ背景作る神クリエイターさんの仕事やでぇ!ってなった) というか野球ジャンルの◯◯◯◯のイメソンに「青春の輝き」は妄想してると感情が溢れすぎてしまうため禁止カードとして封印していたのに椎名林檎様から最高の環境で直撃させられてしまうと…椎名林檎の声帯、直撃すると生歌一曲でもう心揺さぶられて泣いちゃうからほんまダメ
・椎名林檎の呼吸音とか口のニチャ音をきけたので「マジ実在する人間なんだ…」って思った
・おまいら、「熱狂した」ってことにしようとしてねえか?
・まさか浴室をやってくれると思わなんだ
ありがたすぎて拝んだ
緋色の弾丸の曲と浴室と青春の輝きはハンチョウほパフェ回の「甘いものにロックオンした幼児の眼」で自我をシャットダウンして視覚と聴覚をひたすら研ぎ澄ませていた 興奮しすぎて呼吸数が異常に多くなっていた
・新アルバムのコラボアーティストがライブに来るんやろうなぁ…と思ってた AIが来てた?
・トークとかするんやろなぁ…椎名林檎たそはどんなトークするのかな?ニチャア…してたけどトークはなく「歌唱100%」の密度が凄まじい時間が目の前を通り過ぎていった プ、プロの仕事すぎる
・色々ゆうとりますけど「椎名林檎のライブに行く」のは死ぬまでにやりたいことリストのかなり上位だったので行けてよかった
あとは倉橋ヨエコのライブに言ったら本当に「ライブに行きたいアーティスト」コンプリートだが倉橋ヨエコのチケとれんからコンプは難しそう
まずはそこだけ改善するのは無理なんかは。178万でも130万でもいいけど、無税の枠をそのまんま178万にいきなりするんじゃなくて、178万ぐらいまでの間を階段上ではなくスロープ状に滑らかにつなげる。
単なる比例にするか指数関数的にするかは議論があるだろうけども。で、とりあえず2年後に見直すぐらいの時限事項を付けて、しれっと無税の枠の下限を段階的に下げていく。
国民民主を批判するつもりは全くないし応援はしてるけど、あまりにも103万円で盛り上がりすぎてるので。
皆分かってんのかな?と思った。
配偶者が103万円以上の所得を得ると扶養者の配偶者控除(38万円)が無くなる。
ただ配偶者の場合、配偶者特別控除に切り替わるため実質壁ではなく階段のイメージ。
しかも150万円までは配偶者控除と同額の38万円控除。それ以降は階段式に控除額が減る。
扶養控除も同様に103万円なので、例えば大学生の子どもがアルバイトで103万円以上稼いだら、
親の扶養控除(38万円)がまるっと無くなる。配偶者のような特別控除なし。
153万円働いたら2.5万円の所得税。そりゃ税金取られるの嫌かもしれんが働かなかった時より減るなんてことは絶対にない。
それ気にするくらいなら住民税の方が高いだろ。(住民税は100万円の壁)
扶養者の会社の配偶者手当とか扶養手当の基準が103万円に沿って作られている企業があるから。
ただ都道府県労働局によれば103万円基準にしているのは20%とのこと。
https://www.mhlw.go.jp/content/11200000/001249490.pdf
仮に103万円の壁が178万円になったとしても、この20%の企業は130万円の壁にシフトするだろうし、元々130万円の壁が基準の企業は多そう。