はてなキーワード: 事柄とは
すがるように泣き叫んでいる彼女をなだめる力は、私には残っていない。目を開けているのもやっとで、少しでも気を緩めたらもう二度と彼女を見ることが出来ないような気がした。
「嫌だ、嫌だよ」
わぁぁん、わぁぁんと幼い子どものように泣く彼女の姿が痛々しい。どうにかしてあげたい、笑って欲しいという思いが胸に募った。
当然だ。
私は彼女の母親で、彼女は私の子どもなのだから。彼女が笑えば幸せで、彼女が辛いのなら私も辛い。一緒にいれば楽しいことは倍に、苦しいことは半分になる。
世界で一番大好きなひと。
「ずっと一緒って言ったじゃん!」
そんな約束をした覚えはない。もう大人だというのに、子どものようなことを言う彼女に笑ってしまった。
「なに、なに。なにかして欲しいの」
私の微かな表情の変化に、彼女はすぐさま反応する。なにも言っていないのに私の望むことは大抵察することができるようになった彼女でも、今の私の願いは届かない。
笑って欲しい。
ただ、それだけ。それだけなのに。
「どうしたらいいのか、わからないよ」
私の隣で祈るように彼女が泣く。はらはら。頬に涙が伝い床に落ちる。涙で湖が出来てしまいそうだ。そんなことを言ったら彼女は笑ってくれるだろうか。
私だって、できることならずっと一緒にいたい。彼女がこれから経験するであろう辛いことも楽しいことも、あらゆる全てのことを。彼女の隣で見ていたい。
けれど私は先に行くもので、彼女はあとに残るもの。それは変えようがない事柄であり、どうしようもない現実なのだ。
ごめん。ごめんね。
謝りたいのに、それすらできない。
今の自分にできること。
私は最後の力を振り絞り、口を開く。
「にゃぁ」
彼女の顔に花が咲いた。
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「いや、いや、いや。こんなことある?」
仕事帰り、自販機で飲み物を買おうと立ち止まると子猫がひょっこりと姿を現した。
「あの子が亡くなってまだ半年も経ってないよ。いや、でも目の前に子猫はいるし。いや、うん。いや~~」
信じられない現状にどうしたらいいのかわからず、言葉が勝手にこぼれおちる。こちらが声を上げても子猫は、逃げるどころかじっとこちらを見つめていた。
カチリ。
近づいても逃げない子猫を抱きかかえ走り出す。
「もう、笑うしかない」
人目も気にせず、女は笑った。
命は巡る。
私たぶんここで256回ぐらい書いてるかも知れない事柄があるんだけど、
仕事で事務所で使っているボールポイントペンがなくなっちゃったのよね。
いや値段的には100円とかそのぐらいの値段で
買い直せばすぐにいい話なんだけど執着しているわけでは無いけれどなんか失った物を探したくなるのよね。
そこら辺に落ちているのかなー?って思って
昨日の私を振り返ってみたの。
うーん、
そう言えば三食そぼろご飯みたいなお弁当久しく食べていないけれど、
あの黄色い玉子ゾーンとそぼろの部分のゾーンと緑のゾーンが色鮮やかなトリコロールを文字通り鮮やかなお弁当なのよね。
もうそれだけでご馳走!って感じ。
でね、
そのふと食べていたそぼろご飯のお弁当の3色カラーのトリコロールを見ていたら
ハッとして私のつ買っていた3色ボールポイントペンがなくなったことに気付いたの。
そんなに執着しているわけではないけれど
身近に愛用しているものがなくなったら寂しいじゃない?
失って初めて分かることってあると思うの。
それよそれ。
そんで私はもう1回昨日の私のゴーストデータと戦うべく同じコースを走ってみたの。
でもやっぱり私のお気に入りの3色ボールポイントペンはなかったのよね。
ちなみに
その3色そぼろお弁当を食べるときに箸が無かったからってボールポイントペンを箸代わりにしたわけでは無いから安心してね。
そこまで節操ないことはしないわ。
うーん、
って諦めかけた途端、
私が昨日電話を取ったデスクの机の机上の上のペン立てにご丁寧にも刺さって収納しまわれていたの。
涙。
ごめん、
涙拭くね。
そんで私はめでたく見つかったご機嫌な3色ボールポイントペンに再開出来たの!
マルコー!って
ハウス1社提供の世界アニメ劇場の母をたずねて三千里は見たことないけれど
たぶんそのノリだと思うわ。
今回私はその母の立場的な。
いやーでも見つかってよかったわ。
使ったらしまう!って週間を強化している習慣だったのに。
ついつい電話を取ってメモしてそのまま置いてしまっていたんだわ。
もっと私もボールポイントペンに対して大切な思いをこのインクに乗せて、
そんな感じでメモ取っていきたいと思うわ。
二本立てでお送りしたわ。
うふふ。
よくよく考えたらサンドイッチって飲み物と一緒に食べる前提だから若干塩気があんのかしら?
今日は珍しく牛乳で一緒にいただいた朝食は美味しすぎて超ショック!
なんてね。
そんな美味しくいただいたところよ。
また残り減ったら買い足しておかなくちゃね。
シュワシュワの爽快な感じが夏のレモンの香りをまたいっそうもり立ててくれるわね。
水分補給はしっかりね。
すいすいすいようび~
今日も頑張りましょう!
https://anond.hatelabo.jp/20240721230541
ジジェクは道を誤った / メラニー・ゼルMelanie Zelle [スワースモア大学の学内新聞『スワースモア・フェニックス』の編集者] ※削除済
ttps://web.archive.org/web/20230303073524/https://swarthmorephoenix.com/2023/03/02/zizek-has-lost-the-plot/
私が哲学に興味を持つようになったのはスラヴォイ・ジジェクのおかげである。
彼の著書『終焉の時代に生きる』と『パララックス・ヴュー』に偶然出会い、中学2年生の私が苦労して読み進めたこの本が、
ジジェクの文章は、彼が即興でする賛美のすべてにおいて、素晴らしく説得力があると私は感じた。
本棚に積まれた1000ページにも及ぶ矛盾の山に憤慨しながら『Less Than Nothing』を読み通したのは、高校時代に果たした偉業だった。
私は、ジジェクの長編作品の論旨を理解できるかどうかで、自分の知的価値を測るようになった(現在はほとんど理解できないが、以前はまったく理解できなかった)。
それだけに、現代の政治文化に関する最近の記事で、ジジェクを非難するのは心苦しい。
しかしある意味で、ジジェクと私の関係は、彼が何について間違っているのかだけでなく、
なぜこのような著名人が、あのように明らかな知的陥落にはまることができたのかを理解しようとする上で、
有利なポジションに私を置いていると感じている。
私の怒りの主な対象は、先週発表されたばかりのジジェクのエッセイである。
そのタイトル「Wokeness Is Here To Stay」は、たぶん私がそれほど警戒するものではなかったと思う。
ジジェクの哲学は、ヘーゲル、ラカン(そしてフロイトも)、そしてもちろんマルクスへの愛着から、オーソドックスな、ほとんど伝統主義的なものと特徴づけうる。
他方で世間一般におけるジジェクのペルソナは、意図的に培われたものだと私は主張したいが、ディオゲネス的挑発者であり、象徴破壊者であるが、自分勝手なものではない。
ジジェクのこうした面が、彼の論文や公開講演会、そして彼の知的活動への、より親しみやすい影響を及ぼしているようだ。
したがってジジェクが、クリックした人々が眉をひそめるようなタイトルを選んだことを読んでも、私は驚かなかった。
私は、ジジェクのお気に入りのトリックのひとつである、正式な哲学的分析の範囲外と考えられている文化の側面を選び出し、
喜びを感じながらそれを切り裂くことに慣れてしまっていた。
(ある講義では、カンフー・パンダについて論じており、また別の講義では、ヨーロッパ各地のトイレの特殊な構造が、
ポストイデオロギー的なポストモダニズム世界の概念に対する究極の反論となっている)。
ほとんどの場合、ジジェクの指摘は最終的に重要であり、さらに重要なのは、彼の広範な哲学のいくつかの要素について、面白おかしく、
しかし(おそらく結果的に)効果的に紹介者の役割を果たすことである;
そして一見したところ、"Wokeness Is Here To Stay は同じ公式に従っている。
トランスジェンダーの権利をめぐるスコットランドの政治的混乱から始まり、他の現代政治問題にも触れ、最終的にはフロイトとラカンへの言及で締めくくる。
表面下に潜む構造的な違いを無視しても(これについてはまた述べる)、この作品には、ジジェクのいつものトーンとは正比例しがたい苦渋が感じられる。
これは、私の最大の関心事である彼の議論の内容については言うまでもない;
ジジェクは、スコットランドにおけるトランスジェンダーの権利をめぐる、最近の政治論争をめぐる議論について、記号論的な分析を行っているわけでもなければ、
正確に他の多くのことと結びつけているわけでもない。
結局のところ、ジジェクは皮相な哲学的手法とともにただ単に政策論争に参加しているだけであり、遺憾ながら完全に間違っている。
ジジェクは、過去10年間にリベラルな知識人全体に伝染した観を呈するトランス医療をめぐるパニックに陥っている。
ジジェクのいつもの懐疑論は、ここではいつもの懸念荒らしconcern trollingの再現に留まる。 ジジェクはこう書いている:
「思春期ブロッカーは、タヴィストックでの診察に送られたほぼすべての子供に投与された。
その中には、性的指向がはっきりしないという誤診を受けた可能性のある自閉症の若者や、問題を抱えた若者も含まれていた。
言い換えれば、医学的な性別移行を望むかどうか判断できる年齢に達していない脆弱な子供たちに、人生を変えるような治療が行われていたのだ。
批評家の一人が言ったように、『性別の悩みを抱える子供には時間とサポートが必要である。あとになって後悔するかもしれない医療措置に進むよう仕向けられるべきではない』 」。
この一節は疑問を投げかける。ジジェクは、その知的能力において、思春期ブロッカーが何であるかさえ知っているのだろうか?
ジジェクの引用の使い方は、この作品の中で頻繁に行われていることから特に明らかであり、すでに示唆されていることを裏付けている。
実際、彼が引用したガーディアンの記事を読んでいれば、上で引用した段落を修正できたかもしれない。
ジジェクが引用した記事の上の行には、"異性間ホルモンは16歳からしか処方されず、専門家によれば思春期ブロッカーは不妊の原因にはならない "と書かれている。
したがって、このスロベニア人に知的怠惰の恩赦を与えることもできない。 これは純粋で単純な不誠実さであり、危険な形態である;
さらにひどいのは、ジジェクが記事の冒頭で取り上げた最初の文化的分析対象である。
『コンパクト』編集部がありがたいことに、ページをスクロールすると引用文が表示されるようになっているのだ(まだ彼の論調を十分に理解していない人のために)。
それはこうだ: "女性だと自認する人物が、ペニスを使って2人の女性をレイプしたことを我々は知っている"
“We have a person who identifies itself as a woman using its penis to rape two women.”
ジジェクが言及しているのは、アイラ・ブライソンの事件である。
この有罪判決は、スコットランドにおいてレイプで有罪判決を受けた史上初のトランス女性となり、
トランスの人々に対する「懸念」を持つすべての人々にとってのロールシャッハ・テストとなった。
ここでジジェクは、基本的な事実認識が間違っている。ブライソンの性別移行の時系列を誤って伝えているからだ。
さらに問題なのは、読者を煽動するために、本質化するような言葉を使い、さらに誇張していることである
(「ペニスを持ったレイプ犯が、囚われの女性たちと刑務所にいる」という表現が思い浮かぶ)。
ブライソンを「彼he」、そしてさらに厄介なことに「それit」と、ジジェクが性別を間違えて表現することに固執するのは、
ジジェクがトランスのアイデンティティを尊重することを、裁量に任された、善行次第のものだと考えていることを示唆している。
ジジェクはこの論文で、控えめに言ってもトランスフォビックtransphobicだ。
しかしそれ以上に、ジジェクは退屈で、独創性がなく、不誠実で、怠惰である。
彼はトランスの人々について、『ガーディアン』紙や『ニューヨーク・タイムズ』紙の同様の記事からは得られないようなことを何も書いていない;
この時点でようやくジジェクが哲学について語るかもしれないと思うのも無理はないが、残念ながらそれは間違いである。
記事の次の部分はさらに長く、さらに面白くない。『コンパクト』誌に掲載された別の記事の宣伝である。
(中略)
で、どういうこと? なぜジジェクはこんなことを書くようになったのか?
その答えは、対立的でありたいという彼の誤った願望にある。
彼は、この作品の中で他者が陥っていると彼が非難する事柄に陥っている。すなわち、自分を悩ませる他者を、自分自身の中で勝手に思い描く罪を犯しているのだ。
The answer lies in his misplaced desire to be oppositional. Ironically, he is guilty of the thing he accuses others of falling prey to within the piece, that of envisioning for himself an Other that haunts him.
[ジジェク]「要するに、ここにあるのは、政治的に正しい突き上げと、金銭的利益の残酷な計算との最悪のコンビネーションなのだ。 」
思春期ブロッカーの使用は、[ジジェクによると]"目覚めた資本主義 "のもうひとつの事例であるとされる。
ここでジジェクは、ジャニス・レイモンドの1979年の『トランスセクシュアルの帝国』に端を発する、トランスジェンダーの人々が選択する様々な処置や療法は、
製薬企業にとって重要な経済的利益をもたらすものであるという、一見したところ長年にわたる議論に訴えかけている。
そうすることで、救命医療へのアクセスを容易にするべきだと主張する人々を、自分たちの身体をめぐる現実の物質的な対立のために戦うのではなく、
資本の側、つまり極悪非道な個人の側にいる人々として捉え直すことができる。
バトラーやフーコーを読んだことのある人物が、このように書くことができるのは、こうした運動が誰のためになるのかという、権力についての混乱がジジェクを盲目にさせているのだ:
[ジジェク] 「性的混乱に「異常」なことは何もない。「性的成熟」と呼ばれるものは、長く複雑で、ほとんど無意識のプロセスである。
それは激しい緊張と逆転に満ちている。自分の心の奥底にある「本当の自分」を発見するプロセスではない」。
作品全体と同様、これはジジェク特有の哲学的プロセスといううわべに包まれたいつもの本質主義と、トランスフォビアtransphobiaである。
この最終的な帰結は、英米でトランスジェンダーの物質的な生活にすでにダメージを与えているヒステリーhysteriaの波に、ジジェクがお墨付きのスタンプを押したということだ。
ジジェクは、社会の変化に懐疑的なジャーナリストや知識人の瘴気miasmaの中に紛れ込んでしまったかのようだ。
これはポストモダンの懐疑主義に非常に批判的な人物から出た究極の皮肉である。
過去の思想家からの豊かな引用を悪しき議論の隠れ蓑に変え、気まぐれさを苦味に変えてしまう。
私たちにとって悲しい日であり、多くの意味でジジェクにとっても悲しい日である。
ジジェクは豊富な理論的な著作の中で最高のパフォーマンスを発揮し、ここでは最悪のパフォーマンスを発揮している。
このエッセイを読むと、あなたは感じ取るだろう。少なくとも少しは彼がそれを自覚していることを。
[終]
これはもう右左政治的な立場を超えて、辞退はやりすぎという声が大きいようです。
めずらしいことです。
しかし、なんだか論点が未成年の飲酒喫煙だったから、ということで、そのくらい、といっている人が多いようですが、
7月21日の朝日新聞GLOBEにちょうど取り上げられているように、今や飲酒は喫煙と同様結構厳しく見られているところもあります。
また、過去にはNTCではほかの生活上の問題もみられたと聞きますので、そこは厳しくしないと収拾がつかなくなっちゃうのでしょう。
体育系でありがちな、先輩はやっていい、とか先輩から強要されたとか、まあそういうことを防ぐ意味もあるでしょう。
事柄は明らかになってませんが、もし、もしですがほかのひとにも強要してたら皆さんどう言うのでしょうね(体操チームでは彼女が一番の年配らしいですよ)
なんというか右系のひとまでがなんだか出したいみたいなのはなんともですね。また、どちらかというと禁煙をいいそうな左のひとたちもこどもだと違うのか、、、
微妙に違う。
被告人は、2ちゃんねるを多くの虚偽情報も含まれる種々雑多な事柄が大量に書き込まれるインターネット上の掲示板と認識している上、本件各書き込みは、2ちゃんねるのスレッドを伸ばすことにあったのであるから、被告人は、本件各書き込みによって警察業務を妨害するおそれがあることを知らなかった
弁護人がこの主張をしたとき、裁判官が被告人の法廷での実物をみたとき、ドンペンだったから、 知らなかった、という主張に対して勝てず、最初は無罪にするつもりだったが、そこの書記官と付き添
一件記録によると、令和元年6月頃に、請求人が電車で越谷まで来て再審請求理由書を出したので、令和元年10月1日付で再審請求を棄却しているとしている。
その裁判に対する即時抗告は、東京高裁第3刑事部または第6刑事部がしていると思うが、令和元年10月29日に棄却されている。それ以後も度々同じような再審請求をしているが、
令和4年2月14日の棄却決定を最後に、全部棄却している。ところで、事件の第一審判決の概要は、被告人は、2ちゃんねるを多くの虚偽情報も含まれる種種雑多な事柄が大量に
書き込まれるインターネット上の掲示板と認識している上、本件の各書き込みは、2ちゃんねるのスレッドを伸ばすことにあったのであるから、被告人は、本件各書き込みによって、警察業務を妨害する
おそれがあることを知らなかったという弁護人の主張であり、裁判で、この主張が展開された当時、検察官においては、しまった、そこは弱い、という反応があり、弁護士の方では、当初から、それは通る、
という見解があり、前橋地検検事においても、平成27年4月、検事辞任後に就職した弁護士事務所から、後日の電話で、え?あんた無罪になったんじゃなかったの?といった返答があった。
また、確定判決に関しても、同検事は、それウソだし、興味ないから、もう電話してこないでくださいね、といって電話を切ったのが、平成27年5月頃の状況である。
インターネット中毒を解消するにはどうするかと色々考えてノートにも対策法をまとめていたのだが、なぜか反動でFacebookに登録してしまった
自分の自由が毀損された時、反動で取り戻そうとするのを「心理的リアクタンス」と言うらしい、チコちゃんが言っていた
それはそうと、やることを増やすから疲れるのだとすると、論文を書く気もブログを書く気もないのに数学をやるのは、意味のないことに思えてきた
数学とは社会に成果を残してこそやる意味があるのではないか、部屋で孤独に「真実」を発見したとして、それがなんだというのか
この考えがベースにあると、何かを学ぶときには、実際にそれを日常で実践して効果が存在する事柄か、または学んだことを応用して社会に成果を残すしか学ぶ価値が存在しないように思うのである
別の考え方もある。つまり、純粋に楽しめればそれはやる意味があるということである
ただ、登山家さえ、成果を社会に提出することで満足感を得ている。誰にも共有せずにエベレストに登っても、苦しいだけだろう
では漫画はどうか。私が子供の頃は、漫画の内容を誰かと共有しなくとも楽しめていた。いや、子供の頃はSNSなんてなかったから、楽しいと思うものは自分だけで楽しんでいた気がする
「社会から反応がなければ虚しい」という状態は、もしかしたら異常なのではないか、あるいは社会を意識するのは大人になった証拠か
【起きた事象】
最近行われたライブの「アイマス最高!」のコールを巡ってXが若干学級会の様相を呈した
【否定派に多い人】
以前からバンナムの行い※1によりアイマス最高コール文化に疑問を持っていたPが多いが、アイマスブランドで唯一ゲームが全てサ終を迎えたことでその不満は爆発。
それにより「SideMは好きだけどバンナムは好きじゃない」という思いを持っているPが多い
(勿論サ終前からのユーザーが全員同じ気持ちではないだろうが)
※1
・アニメが765・デレは2クールだったにも関わらず1クール。そのため半分のユニットしか出番がなく、アニメに出たユニットと未登場ユニットで曲数格差も発生した。
・4thライブ時期のCDリリース頻度の低下(おそらく3D音ゲーとの兼ね合いが原因)
・音ゲー1(エムステ)の不出来(過度な低難易度仕様)からのサービス終了
・後継の音ゲー2(サイスタ)から3Dモデル削除(後にMVという形で後から追加はされたが、全ユニット実装の前にサービス終了)
・各ブランドから何人か集めた家庭用ゲームでSideMキャラがハブられた
その上最初は公式側からきちんとした説明がなく、声優が生放送番組でツッコミを入れる事態が発生した
【肯定派に多い人】
・他マス兼任P
SideMはサブの場合もあるし、他マスもSideMもガチ推しな場合もある
他マスPなのでSideMもひっくるめてアイマスが好きなためコールをしている
SideMゲームプレイ済の人もいればそこまで詳しくなく、中にはサ終のことやそれにより界隈が荒れたことすら知らないでライブに参加する人もいる
・サ終後にSideMを知ったP
YouTubeの歌ってみたやtiktok(特にS.E.Mというユニットの曲が最近バズった)曲を知り、そこからSideMのライブに来るようになったP
ゲームに触れてない層であるため、いざこざがあったことを深く知らない
ここまで記載した事柄に関して、あくまで肯定派/否定派に多いPの属性というだけあって必ずしもその限りではないことに留意してほしい
【問題】
多分否定派が毎度ライブで「アイマス最高!」を聞いて複雑な心境になるくらい
元々ファンの文化なので、無くなったところで公式にとってもそこまで大きな問題にはならないと思われる
SideM関連でPが揉めてることがXで話題になるというネガキャンはあるが
Pにできるのは精々これくらいなのではないだろうか
Xの意見では肯定派だけでなく否定派も「個人の自由ではあるよね…」という形が多い
結局風化して終わると思う
【筆者について】
推しがいたためゲームは全てプレイし、6th〜7thあたりまてライブに参加してたP
少し前なら界隈のことを知っているので、野次馬根性もありつつ書いてみた
Pの派閥はXを参考にした
バージョン1、主体性をもって週4でヒレステーキを出してくる妻
https://anond.hatelabo.jp/20240715162127
これだと対称性がイマイチな気がしたので、「主体性をもって週4ヒレステーキを却下する妻」バージョンを作ってみたお
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夫が食べたいと言うからだ
近所の肉屋で買ってきたちょっと良い肉でとても美味しいけど、段々嫌になってきた
決して飽きたというわけではない。しかし何かしらの違和感を感じるのだ。
今の日本の社会通念に照らし合わせても、何か普通ではないと感じる。
いや、社会通念とか「普通」とか、そんな定義が難しいもののことはどうでも良い。
ただ私がこれまで生きてきた中で培った価値観にそぐわないのだ。
私がこれまで日本で生きてきた中では、食事はバランスが大事との情報が大半であり、私はそれを内面化してきた。
また昨今では、科学的に証明された食事として地中海式が推奨されていて、そこでは赤身肉の摂取は少量が好ましいとされている。
ただこれも絶対的なものではない。昔のイヌイットは野菜を食べず、ほとんど生肉だけの食生活を送っていたらしい。なのでどのような食事が最適かは環境や条件に依存するものであり、絶対的なものではない。先の地中海式にしたって、アジア人に当てはめた場合は若干異なる可能性もある。この先地球の気候変動が更に進み、テクノロジーも今と異なり、私たちはまったく異なった住環境に生きているかもしれない。そうなった場合、地中海式ではない〇〇式が最適とされる世界になっているかもしれない。
そうなのだ。すべては相対的で、突き詰めれば突き詰めるほど、普通も絶対もないのだ。
またこの地中海式云々に関しても、健康に焦点をあてた場合の話であって、味やその他の事柄に価値を置いた場合、話は異なってくる。夫においては味やそのときの気分が優先されるのであろうし、腸内環境が昔のイヌイットと同じという可能性も排除できない。
一方私においては、味も健康も総合し「週4でヘレステーキは何かがおかしい」という感覚値が出力されているように思う。
ともあれ私は、私が感じる違和感、あるいは感覚値において、「週4でヘレステーキはありえない」と結論づけ、それを握りしめて夫と交渉にあたるしかないのである。
しかし夫の決めた献立に私が口を挟むと「もういい、もういい」という感じでまともに取り合ってくれずに怒る。
「もういい」の中身はまったくもって不明だ。「もういい」に具体性は1ミリもない。
私は先のように、「週4ヘレステーキ」への違和感という感覚的なものを、最大限言語化する努力をした。食事という夫婦の共同作業にあたって、夫側も同じ努力をするべきではなかろうか。
しかしここにおいても個人の自由がある。何に価値をおき、何を優先し、何を選択するかは自由である。「もういい、もういい」と言語化を放棄し感情的になる自由を(共に生活する身としては不快は拭えないが)、私は彼から奪わずにいようと思う。
そのかわり私にもふわふわした言葉で、匿名掲示板に週4ヘレステーキへの違和感の理由を明確に言語化することなく垂れ流す自由くらいはあるであろうし、それを読んだ誰かが不快になる自由もあるであろう。
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オッカムの剃刀(オッカムのかみそり、英: Occam's razor、Ockham's razor)とは、「ある事柄を説明するためには、必要以上に多くを仮定するべきでない」とする ...
https://archive.md/m3u6E#selection-495.0-495.47
The Problem With Saying ‘Sex Assigned at Birth’
「割り当てられた性」が採用される理由のひとつは、敬意に満ちた婉曲表現が提供され、特にノンバイナリーやトランスジェンダーの人々にとっては、厳しい生物学的現実のように感じられるものを和らげることができるからである。誰かが「出生時に女性に割り当てられた」と言うことは、その人が生物学的に女性であることを伝える、間接的でより丁寧な方法であると考えられている。この用語は、トランスやノンバイナリーの人々との連帯を示すと同時に、伝統的な性の理解は時代遅れであるというラディカルな考えを伝えるためにも機能する。
「出生時に割り当てられた性別」の表現は、善意によるものかもしれないが、進歩ではない。私たちは礼儀正しさや連帯感の表現に反対しているわけではないが、「出生時に割り当てられた性」は人々を混乱させ、生物学的事実について疑念を抱かせる可能性がある。また、私たちの伝統的な性に対する理解を正す必要があるから、このような表現が求められるのでもない。
そうではないのだ。セックスは、私たちの種にとって重大な結果をもたらす基本的な生物学的特徴であるため、それに関する誤解を助長することには問題がある。
性差は健康、安全、社会政策にとって重要であり、文化と複雑な相互作用をする。女性は男性に比べ、薬物による有害な副作用を経験する確率が2倍近く高いが、この問題は女性の薬物投与量を減らすことで改善できるかもしれない。一方、男性はCovid-19やがんで死亡する確率が高く、殺人や性的暴行の大部分を犯す。"割り当てられた性 "が死亡数を増加させるわけではない。重要な事柄に関する用語はできるだけ明確にすべきである。
影響力のある組織や個人が「出生時に割り当てられた性」を推進するとき、彼らは、「セックス」、「男性」、「女性」のような、社会で誰にとっても馴染み深く、性の意味合いを議論するのに必要な言葉を使うことで、市民が辱められるような文化を奨励している。これは通常の検閲のようなもので、特定の意見を公的に支持することを抑制するものではない。もっと巧妙で、そもそもその意見を議論するのに必要な語彙そのものを抑圧しているのだ。
より急進的な「割り当てられた性」の支持者は、生物学的事実としての性という考え方そのものが疑わしいと異議を唱えるだろう。フランスの哲学者ミシェル・フーコーや、最近ではアメリカの哲学者ジュディス・バトラーに関連するこの見解によれば、性とは何らかの文化的生産物であり、赤ん坊に男か女かのレッテルを貼った結果である。したがって、「性別」よりも「出生時に割り当てられた性別」の方が好まれるべきであると主張する。
この立場は、人間が自然の摂理から免除されていることを暗黙の前提としている。残念なことに、私たちは動物である。有性生物は少なくとも10億年前には地球上に存在していたし、人類が進化しなかったとしても、オスとメスは存在していただろう。セックスは、分娩室での言語的儀式やその他の文化的慣習の結果というわけではない。
一部の学者によって蒔かれた混乱にもかかわらず、私たちは性別の二元論が人間の発明ではないことを確信できる。
「出生時に割り当てられた性別」の問題は、確立された生物学的事実から会話を遠ざけ、政治的アジェンダを吹き込むことである。私たちは、医学的、社会的、法的な問題に関して、意見を明確に述べ、最善の方針を打ち出すのに役立つ共有言語を必要としている。その共有言語こそが、たとえ強い意見の相違が残っていたとしても、相互理解と民主的な審議の出発点なのである。
コンテンツによって許される範囲が違いすぎて分からなくなってきた。
今日Xで「関ヶ原の戦いに関して人に話したらネタバレをするなと怒られた」というポストを見かけて笑ってしまった。どうすればいいんだ。
分からなすぎて、ネタバレを嫌う民はもうそのコンテンツに触れるまで自衛してほしいと思うようになった。
・漫画
時に更新されたらみんなすぐ感想を呟いて展開がトレンドに載ったりする。〇〇死亡とか
じゃあ漫画はそんなに厳しくないんだろう。
・ゲーム
1番わからない。
発売日から1〜2週間経った頃に感想を呟いたらフォロワーからネタバレだとリプライされたことがある
上とは別ゲーだが、ポケモンのDLCなんかは解禁から翌日には新ポケモンや新要素、キャラ名などがトレンドになっていた。
なんなら俺も先にトレンドで知った口だが、これがきっかけでネタバレってあんまり考えないでいいのでは…と思うようになった。
・映画
ゲームや漫画と違って上映時間という縛りがあるし、触れられるタイミングにも差異があるから上映直後は話さないか、ふせったーを使用する必要があるのはわかる。でも公式側がツイートでよく「皆さんが配慮しすぎて全然感想ツイートが見つけられない」というのも見かける。もしかしたらコナン映画の犯人以外は呟いてもいいのかもしれない。
・ライブ
ツアーの場合セトリや演出がネタバレになるという意見を見かけてから迂闊に呟けなくなった。
これに関してはそれ以来ふせったーを使っている。
・人に作品を薦める時
薦めるということはあらすじをある程度説明する必要があるが、それはネタバレと紙一重だ。
詳しく説明できないけど衝撃的な展開がある!と説明したとそれは「衝撃的な展開がある」ということ自体のネタバレになってしまう。
例えばまどマギで3話で衝撃的な展開がある!と説明されたらその人は身構えてしまうだろう。
しかし真に衝撃の体験を受けるならば、何も警戒しない状態で3話を見る必要がある。
これはリアタイしていた人なら分かるはずだ。
まどマギ3話に関してはもう10年以上経ってるからいいだろうということにする。
かといってその辺りも説明しないで薦めようとすると、キャラがなんとなく魅力があるとか、とにかく面白いから見てなどふんわりした感じになってしまう。
果たしてそれでコンテンツに触れてみたいと人は思うのだろうか。
加減が難しい。
ちなみに俺はネットで見かけてしまった分はもう自業自得だと思うようにしてる。
対面の時は流石に結末系を言う時は「ネタバレ大丈夫?」と聞くようにしている。
https://archive.md/m3u6E#selection-495.0-495.47
The Problem With Saying ‘Sex Assigned at Birth’
「割り当てられた性」が採用される理由のひとつは、敬意に満ちた婉曲表現が提供され、特にノンバイナリーやトランスジェンダーの人々にとっては、厳しい生物学的現実のように感じられるものを和らげることができるからである。誰かが「出生時に女性に割り当てられた」と言うことは、その人が生物学的に女性であることを伝える、間接的でより丁寧な方法であると考えられている。この用語は、トランスやノンバイナリーの人々との連帯を示すと同時に、伝統的な性の理解は時代遅れであるというラディカルな考えを伝えるためにも機能する。
「出生時に割り当てられた性別」の表現は、善意によるものかもしれないが、進歩ではない。私たちは礼儀正しさや連帯感の表現に反対しているわけではないが、「出生時に割り当てられた性」は人々を混乱させ、生物学的事実について疑念を抱かせる可能性がある。また、私たちの伝統的な性に対する理解を正す必要があるから、このような表現が求められるのでもない。
そうではないのだ。セックスは、私たちの種にとって重大な結果をもたらす基本的な生物学的特徴であるため、それに関する誤解を助長することには問題がある。
性差は健康、安全、社会政策にとって重要であり、文化と複雑な相互作用をする。女性は男性に比べ、薬物による有害な副作用を経験する確率が2倍近く高いが、この問題は女性の薬物投与量を減らすことで改善できるかもしれない。一方、男性はCovid-19やがんで死亡する確率が高く、殺人や性的暴行の大部分を犯す。"割り当てられた性 "が死亡数を増加させるわけではない。重要な事柄に関する用語はできるだけ明確にすべきである。
影響力のある組織や個人が「出生時に割り当てられた性」を推進するとき、彼らは、「セックス」、「男性」、「女性」のような、社会で誰にとっても馴染み深く、性の意味合いを議論するのに必要な言葉を使うことで、市民が辱められるような文化を奨励している。これは通常の検閲のようなもので、特定の意見を公的に支持することを抑制するものではない。もっと巧妙で、そもそもその意見を議論するのに必要な語彙そのものを抑圧しているのだ。
より急進的な「割り当てられた性」の支持者は、生物学的事実としての性という考え方そのものが疑わしいと異議を唱えるだろう。フランスの哲学者ミシェル・フーコーや、最近ではアメリカの哲学者ジュディス・バトラーに関連するこの見解によれば、性とは何らかの文化的生産物であり、赤ん坊に男か女かのレッテルを貼った結果である。したがって、「性別」よりも「出生時に割り当てられた性別」の方が好まれるべきであると主張する。
この立場は、人間が自然の摂理から免除されていることを暗黙の前提としている。残念なことに、私たちは動物である。有性生物は少なくとも10億年前には地球上に存在していたし、人類が進化しなかったとしても、オスとメスは存在していただろう。セックスは、分娩室での言語的儀式やその他の文化的慣習の結果というわけではない。
一部の学者によって蒔かれた混乱にもかかわらず、私たちは性別の二元論が人間の発明ではないことを確信できる。
「出生時に割り当てられた性別」の問題は、確立された生物学的事実から会話を遠ざけ、政治的アジェンダを吹き込むことである。私たちは、医学的、社会的、法的な問題に関して、意見を明確に述べ、最善の方針を打ち出すのに役立つ共有言語を必要としている。その共有言語こそが、たとえ強い意見の相違が残っていたとしても、相互理解と民主的な審議の出発点なのである。
甘い甘くないの話ではない
蓮舫に帰責できない事柄を蓮舫に紐つけて報道しろってことだろ?知能が低すぎる
ぺろっと剥がせるだけのシールごときに目くじら立てるのが裏金となると途端に甘くなるやつマジで気持ち悪い
基準は「やらなければ死ぬ前に後悔しそうなこと(ああ、もう死ぬんだ…あれやっておきたかったなぁ…と思いそうなこと)」。
方法はこんな感じ。
・リストにしようと決める。
・思いつくたびにスマホ等にリストアップしていく(デジタルなら項目の入れ替えが簡単なので、これは紙よりデジタルが良い)。
・願望には粒度がある(大それたものもあれば些細なものもある)が、何を一つとカウントするかは主観で良い。
・数時間かけると一気に50個くらい思いつくが、その後はぽつぽつと思い浮かぶ程度。
・2週間くらいでこれ以上思いつかないな、となった。
・だいたい100個ちょっと。
・すると、現時点での自分がおおよそ何に価値を見出していて、何をしたい人間なのかがわかる。
・リストができたら、その中から[インパクトが大きい×賞味期限が近い]ものを選んで、優先的に実行に移していく。
私の場合は、「○○を買う」のような事柄はしたいことには含まれていなかった。
死を前にして、「あれ買っておけばよかった…」などと思うはずもない。少なくとも私はそう。
「○○に行って△△をしたい」、「○○をつくりたい」、「○○を極めたい」などが多い。
「(ごく親しく感じている人間)と~をしたい」も少ないながらあった。
「○○をして△△に貢献したい(喜んでもらいたい)」などと殊勝なものも多少はあり、
犯罪ではないが、実現しても誰にも言わず秘密にして、記憶だけを墓場まで持って行きたいような願望もある。
リストはこなし切れないかもしれないし(例えば、極めたい系の願望は果てしがない)、こなし切れるかもしれない。あるいは、項目を入れ替えたくなるかもしれない。
百合子は島嶼部に真っ先に演説に行ったり初日に間に合うようにポスター送ったのが流石だわ
よく言うじゃん「彼氏が私には優しくても、店員に失礼だとドン引きする」みたいなの
「田舎のカッペ弱者」を切り捨てないというのは都心に住んでる者からも好印象
実際に任期中の百合子が本当に田舎にも優しかったかは異論もあるだろうが、「優しいフリ」ぐらいはできる
他のやつはフリすらできないで最初から島なんかにポスター張りに行くつもりがなかったり、輸送の遅れを計算に入れられなかった
暇空とかは、奈良の田舎から上京して今は港区に住んで、都会人ぶりたくて仕方ない
「多摩格差はどうでもいい」と言い切るし、都内にも鄙びたところがあるという実感に欠けるので
「映画館が無料になる電子クーポン作れば票を稼げる」と勘違いして公約にしちゃう
島に映画館なんかねえんだわ、交通費かかるんだわ、恩恵受けられない事柄に税金そそぎこむ宣言されても票取れないんだわ
「弱者女性支援なんて俺と無関係なことに税金使われるのは嫌だ」で弱者男性の人気集めた奴なのに元が奈良カッペだから東京の地理関係疎そう