はてなキーワード: 石垣とは
うわー
…小学校入学直前まで短期間だけ住んでた、石垣の上に張り出したような借家をおもいだしたわ
火力発電所建設拒否で電気代少額払い運動してたら停電させられて&でも建設されたので公害から逃げるために山間部へ転居したんだが話がついてた引っ越し先の大家が土壇場で嫌がってナシになり伝を辿ってなんとか廃校舎の宿直室を貸してもらえることになり、それがスゲーとしかいえないボロ屋だった
(ちなみに本来の転居予定先にはその後に電力会社の関係者が引っ越して来たらしい)(という事情は成人してから知ったが中学生時代はその社員の子息からイジメられてたわ)
玄関から入ったらいきなり土間で冷暖房も無いそこで炊事とテーブルと椅子で食事、上がってすぐは板の間で書斎とポータブルトイレ、で次がやっと畳の敷かれた居間だが蒲団を敷いて寝室にしてて、その果てがガラス戸で何故か解放できて下が崖だった…(なんだったんだありゃあ)
風呂も玄関から出て別棟の五右衛門風呂!さらに宿直室だからか便所は校舎に行く途中にあった、だからポータブルトイレ置いてた(でも臭いしあんまり貯められないから日中は校舎側を使うように親から言われてた)
建てられてた下の石垣から時々ヘビがアタマ出してるのが見えたりしてたわ、室内でムカデを見たのもその家が初めてだった、あとは隣接してた廃校舎と廃講堂には悪ガキだったので近所の同年代といっしょに入り込んで放棄された物品を漁ったりしてた、傷んだ木造でマジで危険だったからか校舎の二階への階段と講堂へ渡る廊下は壊されて歩けなかったが幼なかったので立体的によく理解できず当時ときどき騙し絵みたいな夢をよく見てた
タイトル戦の対局場へ向かう竜王名人となぜか一緒にタクシーに乗った。
途中で休憩するために駐車場みたいな所で降りた。
駐車場の隣には石垣の上に建った立派な日本家屋があり、その石垣に水晶が生えていて、それを見た竜王名人がしゃがんで「これはですね…」と笑顔で解説を始めた。
その声は吹き荒ぶ風にかき消されて私には全然聞こえなかったが、運転手のおじさんには聞こえていたみたいだった。
耳が悪くなったのかな?と思った。
「まだ時間もありますから」と今度は運転手のおじさんも上機嫌で水晶を語り出した。
竜王名人が私の近くに来て、手のひらサイズの水晶を見せてくれた。「これがいちばん綺麗ですね」と竜王名人は嬉しそうに言った。
時計を見ると8時だった。
そろそろ時間がまずいのでは?と怪しく感じた私は運転手にそろそろ出発してはどうかと言った。
私は学校に行くだけなのだ。1時間目は確か体育だ。まだギリギリ間に合うが、サボって午後から出ようかなとも思った。
「先に対局場に向かってください」なぜか私が運転手を仕切り、我々は西へと出発、いつのまにか起床。
クリミア前まで開戦のあり方の国際常識が戻らないと郷人の海外旅行に関してはえっらい支障が出る、と思って私は動いているつもりです。
それでこれ見て考え込んじゃった。
“私もしゃもじについて石垣さんが質問したことは良いと思ってる。でもしゃもじしか聞いてないって言ってる専門家はその専門のためにももうちょっと調べて!って思うよ???”
これを見ると情けもある政務もできる名将だったみたいすね
関ヶ原の戦いで領土を失った大名の内、数少ない大名として返り咲いた武将であった。さらに、それらの中でも最終的に10万石以上を領したのは長重と立花宗茂のみであり、そのことは特筆される。
長重は築城技術の高さを評価されていた。彼が築城した棚倉城、白河小峰城はいずれも城としての質が高い[9]。棚倉城は西側が急峻な崖であり、守りに適した立地条件を持っていた[10]。白河小峰城は総石垣造りの城で、これは東北地方では数少ない造りの城であった[9]。こうした築城技術は幕府側からも評価され、陸奥の入り口である要衝に長重は領地を与えられたと指摘される[9]。
死去に際して子息、家臣に「将軍の恩を第一として、幕僚と円滑に付き合い、徳川幕府への忠勤に励め、しかし、機転を利かせすぎたり、媚び諂うのはよくない」と遺言を残している。河合敦はこの遺言にも長重の堅実で実直な人柄が現れていると評している[11]。
浅井畷の戦いののち、講和のために前田氏から人質として前田利常が遣わされた。利常は前田利家の子ではあるが、他の兄弟と違い身分の低い側室の下に産まれた庶子であった。小松城に抑留されていた人質の利常に、長重が自ら梨を剥き与えた事があった[12]。利常は晩年まで梨を食べる度にこの思い出を話した、という逸話が残っている。
66歳にして16人目の子どもである市姫(いちひめ)をもうけたけど質問ある?
顔はノッブほど精悍じゃないけど家臣や女中たちからは好かれてたよ
瀬名姫はツンツンしてたけどワイに会うときは晴れ着を用意するとかかわいげがあったな
今でいうツンデレじゃな
近頃ときたら気軽に女にされたり、転生させられたりするから困る
まさに幻のようなもんよな
ノッブ殿も転生されたのか!ご壮健そうで何よりでござる。
ジョブスどのは親友でござるからiPhone50くらいまでは知っておる。
そそのかしてはおらぬが、雪斎殿が導いてくれたのじゃよ。
100歳まで生きたというのはそういうことじゃな。
駿府城公園に入ってきた謎のぶよぶよした生き物の記録があるらしいけどそれがなんだったのか知りたいです。
肉人か?
あれは今でいう宇宙人じゃ。
たまたま駿府城に教養のある細川どのが来訪してての、「あれは中国の封じゃ」とゆったもんだから気味が悪いから追い払わせたぞ。
幽才どのがおらぬかったら静岡おでんにして食ってたかもしれんのう。
実は影武者?
それは創作じゃな。わしは影武者はもちろんおったが、あまり必要ではなかった。
わしが鯛の天ぷらで病に臥せった3か月のテキパキとした引継ぎを見ても、影武者にできるレベルの実務ではないことはわかるじゃろ?
武田信玄とやりあったときにうんこもらしたはすだけど、そのときの馬の様子を聞きたい
うんち漏らし達の聖地である増田に投稿したわけど、大先輩としてどんな気持ち?
実際の所、うんこ漏らしたの?漏らしてないの?
せ、戦国武将ならだれでも味噌玉を腰に巻いてたんだからねっ!(震え声)
馬はぶひひーんってゆってたゾ
てかお前らうんち好きすぎ
まあ三河武士が「知行などいりませんから徳川家のために!」という武士の鑑じゃったからのう。
豊臣ヒッデが気前よく大名に知行を与えまくって(例:加賀百万石)自爆したからのう。
大名はせいぜい50万石以下におさえて、天領(直轄地)は500万石になった。
三河は京都に近いが、駿府のほうが江戸と京都どっちにも移動しやすかったからの。
駿府でも三河の麦飯と八丁味噌をわざわざ取り寄せて食しておったぞ。
白米好きな侍女たちは半ばあきれておったがの。
66歳にして16人目の子どもである市姫(いちひめ)をもうけたときは、
「なんじゃ、ワシもまだまだ現役じゃん!」って自信がついたぞ!
静岡おでんを食いたくなったら久能山のほうに行くときもあるが、基本はそのときの気分次第じゃな。
うむ。民政家でゆうと二宮尊徳、藩政でゆうと上杉鷹山。幕政だと吉宗じゃな。
やつらは立派に儂の考えを理解して実行していたぞ。こっちに来たときは大いにほめてつかわした。
手紙とかでおじさん構文とか使うの?
わしはそれほど筆まめではなかったのじゃ。
ノッブ殿や信玄どのは教養があったから文章がうまかったようじゃの。
どちらかというと部下に任せることが多かった。
とくにラブレター系は苦手じゃった。
じゃから側室を口説くときは経験豊富な人妻をメインに攻めたぞ。
とりあえず鯛の天ぷらでもどうぞ
天ぷらの食べ過ぎに気をつけてね
結局天ぷらは何食うたん?
そなたらの気遣い痛み入る。
大坂の陣のあとの鷹狩で、シェフに「うまい天ぷらの具はあるか」って聞いたら鯛がうまいってことで、しばらくハマってしまったのじゃ。
油がよくなかったのかもしれんな。
良い質問じゃな。関ケ原が終わってもまだまだ不安定だったのじゃ。
あのときにキッヨとクロを島津征伐に送ってたら、寝返ったかもしれんからの。
井伊直政がうまくとりなしてくれて事なきを得たぞ。
寵愛していたナッオが関ケ原の鉄砲傷で亡くなったのは悲しかったのう。
衆道は以降きっぱりやめたぞ。
八味地黄丸じゃな。けっこう今の時代でも売ってるようじゃぞ。
66歳でもバリバリ現役じゃ!
大政奉還どう思う?
時代の流れじゃの。詳しくは晴天をつくの大河ドラマで北大路さんの演技で察してくれ。
儂は基本的に軍略も政治も信玄公と同じことをやったが、ワシは20年長生きしたから、
武田家の御親類衆VS勝頼どの側近、の対立構図にならなかった。
わしが早世してたら同じことになってたかもしれんのう。信康もおらんかったしな。
日本一有名な増田、徳川家康が最も恐れたシリーズのお寺、三河本證寺に行ってまいりましたわ
番号を書いたガムテープを石に貼って元の位置がわかるようにしていましたわ
裏込め石をいっぱい用意していましたの
城郭趣味の間ではお城の櫓を思わせる鼓楼がちょっと有名ですが(お寺なのにお城印を売っていましたわ)
吽の犬が空中に足を投げ出した躍動感のある凄い姿勢をしていらっしゃいました
(Wikipediaのお写真でも確認できますわhttps://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/f/fc/Honshoji2.jpg)
本堂の各所におチチの形をした金具がついていました
お寺を擬人化するなら複乳にしなければ嘘ですわ
正門の柱の内側にもおチチの金具がついているのですけど
敷地にお車を停めるためには正門を潜らせなければならず
操作を誤ると立った乳首の金具にお車の横腹をこすって傷がついてしまう
大変スリリングなお寺ですわ
空が、晴れていました。
雲ひとつない、青い空。
今すぐにでも、窓から飛び出したい気分。
けれど、ダメなのです。
無理なのです。
それに、今は目の前の作業に集中したくて、一心不乱に手を動かしています。
昼休みからコツコツと建造してきた私のお城を完成させなければならないのです。
硬くて、壊れにくい素材です。
おじいちゃんとおばあちゃんとひいおじいちゃんとひいおばあちゃんの合計四人にねだって、普通のおうちセットを合計四つ買ってもらいました。
老人のくそつまらない話に相槌を打っておねだりをするのは子供の私にとって拷問に近い所業でしたが、ママの財布からお金を抜いて後で物干し竿に吊るされるよりはマシだと判断しました。結果土日と引き換えに普通のおうちセットが合計四つ手に入ったので良しとしましょう。
しんと静まり返った教室で私は黙々とブロックを積み上げていきます。
これくらい空気が張りつめていた方が作業が捗るというものです。
残すは外壁の建設のみ。
煉瓦造りにするか。
どちらも魅力的な提案でしたが、昨日見たドラえもんの映画を思い出したので普通の石垣を作ることにしました。
「もうちょっとだ」
朝はランドセル一杯に詰まっていたレゴブロックも今や半分以下。
この分だと帰りの会でみんなに自慢できそうです。
きっと万の言葉を用いて私を褒めそやしてくれることでしょう。
そんな空想に耽っていた時でした。
がしゃああああん。
はじめ、何が起きたのか分かりませんでした。
視界の外から勢いよく何かが振り下ろされたかと思うと、私のおうちは粉砕されていました。
「……っ」
体からすーっと血の気が引いていきます。うんていから手を滑らせて後頭部から落下した時のように、視点が定まらず世界はぐわんぐわんと回っていました。
「あ、あ……」
おそるおそる視線を上げるとまきこ先生がしかめつらでこちらを睨んでいます。
「何か言いたい事があるようだな」
重く冷たい声色に少しおしっこを漏らしそうになりましたが、私は勇気を振り絞って立ち向かいます。
「……あの、おうち!」
私の訴えに先生の表情は微動だにしません。それがどうした、と言わんばかりです。
「壊れちゃったんですけど……」
おののき、震え(主に膀胱が)、尻すぼみになりながらも私は抗議の意を表し続けます。しかし、鷹のごとき双眸は依然として私のこめかみを射抜いているようでした。
「その、保険とかってききませんよね……」
パァン、と軽快な破裂音が響きます。
揉み手をしてはにかむ私の頭に、丸めた教科書が振り下ろされました。
「……あうぅ」
「片づけとけよ」
心無い笑い声に包まれる中、私は一人お城の破片を拾い集めていました。
小さな私の手ではそう多くのブロックを拾うことはできません。また、隣の席のタカユキくんが足でブロックを散らしてきたりするので、私はなかなか片付けられずにいました。
粉砕されたおうちが頭の中で何度もフラッシュバックしています。
何も完成間近のものを壊さずとも、私がレゴブロックを机に出した時点で注意すればよいはずです。
それなのに、わざわざ私が一番悲しむタイミングでおうちを壊したのです。
ストレスが、たまっていたのかもしれません。おおかた、彼氏とうまくいってないのでしょう。適齢期を過ぎて後のない先生が性急に入籍を迫ったことで時間をかけて育んでいた関係に亀裂が入ったに違いありません。きっとそうです。
幸せの象徴であるマイホームに鬱積した気持ちをぶつけたくなるのも無理からぬ話でしょう。
だからといって、許されることではありません。
悲しみを怒りに変えて誰かにぶつければ、それはまた別の新たな悲しみを生むことになるのです。
まして、いい大人が、立場の弱い子供に、あてつけのように暴力をふるうなど、あってはならないことです。
怒りが、ふつふつと沸いてきました。
私はかがんだまま教壇の方を見やります。ころすぞって気持ちを込めて、きっ、と目を見開いて。
しかし、先生が気付くことはありません。淡々と分数の問題の解説を進めています。まるで私など、歯牙にもかけないと言わんばかりに。
「くそっ……!」
やけくそになって手元のブロックを投擲してやろうと思いました。
体が、震えていました。
先生には勝てないという本能の働きに屈する自分が情けなくて、目頭が熱くなりました。
「いつまでやってんだよブス!」
タカユキくんが冗談交じりに私の背中を蹴りました。冗談とはいえ、サッカークラブの脚力です。とても痛いです。一瞬、呼吸ができなくなります。
体の痛みと心の痛みが合わさって、一層惨めな気持ちを助長しました。
どうして。
私ばかりがどうしてこんな目に遭うのでしょう。
天を仰ぐと、どこからか声が聞こえてきます。それは聖母のような声でした。
痛みは、分かち合うもの。
天の声の励ましを受けて立ち上がった私は、タカユキくんの方へ歩いていきます。
授業中だというのに、腹を抱え机をバンバン叩いているタカユキくん。
「うわっ、なんだよこいつ」
タカユキくんはとっさに手を振り払おうとしてきますが、放しません。
私は動揺するタカユキくんの手のひらを少しずつほどいていき、そっと机の表面に添えてあげます。
「ねえ、知ってる?」
「……な、何を?」
「神様が、言ってたんだよ」
「は? 神様?」
私は隣の席にある筆箱からからプリキュアの鉛筆を取り出すとタカユキくんの指の間に挟みました。
鉛筆を挟んだタカユキくんの手の甲へ、ひと思いに体重をかけました。
「痛ってぇぇ!!!!」
タカユキくんは大声を上げて痛がっています。しかし、タカユキくんは嘘つきです。こないだもサンタさんがいないなんて嘘をついて私を虚仮にしてくれました。そんなタカユキくんのことですから、きっとこれも演技なんです。第一、私はまだ体重の半分もかけていないのに、そんなに痛いはずがありません。
レゴブロックを蹴散らすタカユキくんにも物を大切にする心があったなんて……。
でも、どうせこれも嘘です。
「これは、蹴りの分」
「はぅあっ! おいてめえこのブス! 痛いっつってんだろうが!」
「これはブスって言った分」
「じ、事実だろうがああああ!」
「これは、おうちの分」
※
タカユキくんはさめざめと涙を流し、やめてよう、やめてよう、と言うだけの生き物になりました。教室は何やらざわついているようでしたが、先生は何も注意しなかったので、きっと問題ないはずです。
痛み、十分に分かち合えたと思います。
心なしか晴れやかな気分です。
さっきまでの怒りが嘘のように体が軽いです。
これが痛みを分かち合うってことなのでしょうか。
だとすればこんなに素晴らしいことはありません。
この行いが広がれば、世の中から争いが消える日は近いでしょう。
今にして思えば、先生は私にこのことを伝えたかったんじゃないかって気がしています。
すると、今度は目が合いました。やりました。心、つながりました。
「小梅、あとで職員室な」
沖縄の話で何か気の利いたことを、思い出したいと思ったのだが。
日常生活的に、地元のスーパーで買い物するとドルと円の表記が並んで書いてあったりした。特に不便は、1人暮らしだと感じない。
やっぱり、米軍と共存しているのかっていう。ちょっと車の運転の荒い人もいるようだけど。
スーパー銭湯的な温泉から見る夕日がきれいだったな。モノレールの切符がQRコードみたいなタイプだったなぁとか。
きれいな海とマリンスポーツが出来れば、それで十分だったかなー。
海に潜ると、魚がいて。ダイビングも行ったなあ。
やっぱり沖縄海洋博から平成時代からは、だいぶ海が汚れてしまってサンゴも離島の宮古島とか石垣の方にいかないと立派なのは見れないようになったらしい。
ナースにコスプレしたお姉さん(年齢不詳)に、注射器からお酒(泡盛)そそいで貰うようなこともあったなぁ。
(そういうのが目当てだったら、別に都会のコンセプトカフェへ行けば、やってもらえるようなので、どうでもいいが。)
それで、深夜に満ち潮になって、お酒ででき上がっているのに椅子を移動しないと行けなくなったとか。なんか、海に慣れている人が多いようだったんだが、計画性は、どうなんだろうって思った。
インドネシアのスタジアムでの暴動で多数の死者が出た事件で、NHKがあたかも暴力が主原因で170人以上が死んだと取れるような報道をしているが
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/www3.nhk.or.jp/news/html/20221002/k10013845461000.html
はっきり言って間違いだと思う。素手の暴力でこんなに死者は出ない。
一方、雑踏の事故では簡単にこれだけの死者は出る。だからこれは観客席に催涙弾を打ち込んだ警察が原因と思われる。
日本の警察であればこんな事はまず起きない。だがこれは日本スゴイって話じゃない。ちょいと説明しようと思う。
警察は司法権力機関であるだけでなく、行政としても強い権力を持っている。
だから雑踏に関しても命令する権限があって、人が集まるイベントを届け出なくやったりすると怒られるわけだ。
店の外の行列を放置していれば「ちゃんと店員か警備員雇って整理しなさい」と言われるし「○○という有名人が△△に来てる」っていうデマを流して将棋倒し惹起したら逮捕される。
警備業というのは監督官庁が警察になっていて、更に警察官の天下り先でもある。また社長が警察上がりというケースも多い。
元々警備業はボディガードなどから派生して色々な形態の警備を請け負うようになったのだが、実はその前から同様の警備請負をする人士達が居た。右翼である。
右翼はボディガードだけでなく労働運動潰しなども請負い、暴力の行使や時に殺人も行っていた。更に昔の右翼はヤクザと不可分の所も多かった。
昭和30年代にTVで「ザ・ガードマン」というドラマが放送されると雨後の筍のように警備業者が起業されたのだが、ここに右翼/ヤクザ経営の企業舎弟の会社が大量に入り込んでしまったのである。
警備請負というのは暴力からの防御という仕事が多い。それは即ち対抗するための暴力だ。
一方、警察というのは国家という暴力装置の実行装置だ。暴力装置たる所以は暴力の独占であり、警察をコピーした暴力が世間にあってはならない。
また、道路工事での交通規制でも警備員は必要だが、土建業というのはヤクザの企業舎弟が大変に多い分野だった。つまりヤクザの資金源になってしまう。
という事で警備業法というのが施行され、警備業は警察を監督庁とする許認可事業で、前科がある人間の雇用禁止、警備員は法含む研修必須などが定められ、業務が完全に警察の指揮下に置かれたわけだ。
警察の天下り先って事で、利益誘導の面もあって警備業の派遣先が増える結果にもなった。「これやるなら警備員を何人以上配置せよ。その配置図を出せ」って何かにつけて言われるって訳ね。
因みに以上の経緯から警備員の装備というのは厳しく制限されているよ。例えば警察署の前で長い棒をついた私服警官が立ってる事がよくあるが、あれは実は軍隊と同じ立哨で立ち方も決まっている。持っているのは「警杖」なのだが、あれを警備員が持つことは禁止されてる。警棒の長さや形に制限がある為だ。
日本で雑踏事故が少ないのはこういう戦後の経緯の末に、人が集まる事をせんとする場合は警備員の配置と雑踏警備計画を提出させられるからだ。
雑踏警備での鉄則は「一方通行」と「ボトルネックを無くす」である。これは群衆が流体のような動きをするからだ。
一方通行にしない場合にどうなるというと、「クサビが噛み合った状態」になる。
例えば広いところの間にトンネル通路がある場合で、通路の両側から群衆が押し寄せた場合、通路の入口では「通路の半分からはみ出さない」という動機が働きにくいので通路のほぼいっぱいに広がって進行する。
だがこれは反対側でも同じなので、出口付近では人一人くらいの隙間をぬって通る事になる。
これは上から見ると三角形のクサビが噛み合っているような状態になる。効率的には最小化だ。
後ろから押されているので隊列が狭くなると群衆密度が増す。だが人は一定以下では足の歩みが出来ないので押されてやがて転んでしまう。
後ろの人間は前で起きていることが見えないので前にどんどん進行してくる→それらも更に転倒する、となって、転んだ人とのその手前の人間には数百キロ~数トンの圧力がかかり、皆死んでしまう。
これが通路を対面通行にした時に起きる雑踏事故だ。通路は一方通行が鉄則なのはこういう理由だ。
ボトルネックがあった場合は、細くなる手前で群衆圧力が上がる。
更にボトルネック手前の壁に当たった人間は通路に戻ろうとして横から割り込む→圧力が高いので弾き出される、となってそこでグルグル回って出られなくなったりする。まるで落ち葉だ。
でもそうする事でただでさえ高い群衆密度へ割り込まないとならない人が出て局地的に密度が極度に高くなる→転倒事故、あとは上記の例と同じで死亡事故まっしぐらである。
だから「狭くなる」箇所というのは作ってはいけない。狭い場所があったらそのずっと手前からパイロン等で狭い状態が継続した状態にせねばならない。
「ボトルネックを無くす」の類型に「通路をのばす」というのもある。
立体交差する駅で秋葉原駅は階段一本で山手線と総武線ホームが直接行き来出来るのに、武蔵野線南浦和駅はわざわざ遠回りして通路を歩かされる。不合理だと思った事ないだろうか?
これは秋葉原が通勤ラッシュなどを然程考慮してなかった昭和初期の建設、南浦和が痛勤ラッシュ常態後の昭和後期開業である為で雑踏事故対策なのだ。
電車の降車客は波状的なので、長い通路をダラダラ歩かせてそこで客の波を吸収してしまおうという思想だ。
秋葉原では短い階段でホームに直接客が展開してしまい、群衆密度が高い箇所がホームという危険な状態になってしまう。
地下鉄高田馬場駅の改札はホーム端の先にあるが、2004年頃の改築でホーム中ほどから改札への通路を増設した。
出口は一緒だから一見無意味な改造だ。だが長い通路で吸収して階段の手前で滞留する客がホームに溢れるのを軽減する効果があるのだ。
新潟の神社で行きと帰りの初詣客がかちあって滞留状態になった。そこでやがて参道の石垣が崩れて100人以上の死者。
だが石垣だけに問題があったのではなくて、群衆密度が上がりすぎて路肩にせり出し崩壊したものと思われる。
これは一方通行にしていなかったのが主たる原因の例。
列車が遅延し、混雑が激化して日暮里駅の板張り跨線橋の羽目板が客の圧力に負けて崩壊。転落した客13人が電車に轢かれ8人が死亡した事故。
対面クサビ状態とボトルネックの混合と思われる。跨線橋の角に押し込まれた客が流れに戻れず圧力が高くなって壁崩壊。
雑踏事故じゃなくて暴動なのだが、国労動労の順法闘争の為にダイヤが大きく乱れてカチ切れた乗客が駅員をぶん殴る、電車を悉く破壊するなどで収拾が付かなくなって機動隊が動員されて鎮圧。
翌日から他の駅多数で度たび同じ暴動が発生する国電暴動となって東京はカオス状態に。
大混雑と電車がいつ来るか知れないストレスフルな状態の上にアナウンスもせずにいた為に乗客の怒りメーターがレッドゾーン振り切ったの原因。
なのでこれ以降雑踏では拡声器を使ってうるさい程に行列に関する情報を与えろというのが鉄則となった。
数年前に宇崎ちゃん献血ポスター騒動というのがあった。セクハラっぽいポスターを公益性が高い日赤が使うな!という騒動だ。
この騒動は一枚の写真から始まったのだが、このポスターが掲出されていた場所というのは新宿西口のJRと京王の乗り換え通路である。
ここには「新宿駅西口広場イベントコーナー」というのがあり、その対面に「新宿西口献血ルーム」があって、そこに掲出されたポスターだったのだ。
この「新宿駅西口広場イベントコーナー」だが、実はここは1992年頃まで工事用バリケードなどで塞がれた単なる閉鎖区画だった。
照明もなく、ホコリが積もったままで少ない資材が置かれただけの殺伐としたところで、居心地の悪い場所だった。
実はここが封鎖されていたのは「新宿フォークゲリラ」という騒動による。
ここが広くなっているのは1966年竣工の西口立体化時に地下広場として作られたからなのだが1969年に学生中心のベトナム反戦集会、新宿フォークゲリラが開かれ、機動隊が導入されて解散させれらた。この際、広場として整備されたものを東京都は「通路」に変更するという禁じ手も使用(通路=公道の占拠は道交法違反)。
そこに起きたのが国電暴動で、新宿駅でも暴動が発生。「別に反体制学生じゃなくても暴動起こすのかよ!」と頭を抱えた警視庁と東京都は、別にギター持って屯してた連中と暴動は関係なかったが、万一を恐れて乱雑にこの区画を閉鎖してしまった。
時代が下って最早反体制なども流行らなくなり、閉鎖区画のせいで逆に荒んだ状態になっている元地下広場の有効活用として即売会や催事場としての活用をするようになった。
初めはしょぼかったが、やがて政策アピールの掲示や地産フェアなど商売がうまくなり、綺麗な内装もされて有用なイベントスペースとなってきて人の流れも出来てきた。
そこで対面に献血ルームが出来る事になったわけ。
上記のように日本の警察は雑踏事故防止に関しては極めて有能なんだが、その反面「人が集まる事」を嫌いすぎるきらいがある。
広場否定論なんだな。あんまり人が集まるのを封じてしまうと今度は現在のロシアみたいな事になってしまう恐れもある。
で、最近だと東京駅や池袋駅西口、渋谷駅(予定)みたいにロータリーを追い出して広場を作るという方に行政の方がシフトしてきている。
そういう戦後史と行政史の果てに出来たのが「新宿西口献血ルーム」でそこに掲出されたのがあの宇崎ちゃんポスターだったってわけだ。
あの騒動は色々感情的過ぎたが、でも一方でその辺知ってるとアゴラの復活でもあったって訳なんだな。
という訳で、統率されない人間が大量に集合すると雑踏事故が起きるのはデフォルト状態で、警察行政が力を入れて制御してるから日本じゃ事故があまり起きないのだ。
インドネシアのは警察に問題があり、観客席に催涙弾を撃って視界が乏しくなった客がパニックになったらどうやったって雑踏事故になる。観客席は階段状でそこに下り階段があるという構造ゆえ先が見えなくなるから普段でも危険な構造なのだ。インドネシア警察は雑踏警備の監督指導などを普段からしていないのではないか?
1964年にペルーで同じように暴徒に催涙弾を打ち込んで300人以上が死ぬ事故があったので、そういう事例研究をしていないと思われる。
「警察が私らを人間扱いしていない」との被害者のコメントが報じられているが、インドネシア警察は人間扱いと同時に流体扱いをすべきだった。
商店街の靴屋の店主が元シンガーの渋いおばちゃんで店の中が満員になってて(コロナなので時期的にちょっとなと夢の中でも思ったがまあ夢だし)満員御礼でマイクを持って歌のショーをはじめた。
俺は同じ商店街?の雑貨のセレクトショップ店長で、小さい子が「これください!」っつって商品と一緒に万札千円札を曲げたものを無造作に出してきたので、「あんま人に見せないほうがいいよ(取られるので)」ってあわあわして金額分受け取って釣り銭渡してしまわせた。
商店街は神社だか城跡だかのお膝元って感じで、結構立派な石垣に覆われた川沿いの歩道が山の方に向かって続いている。そこをウォークラリー的に大人や子供と歩いてる、歩きながらたまたま隣り合ったタメくらいのあんちゃんと話してたらさっきの子の父親だった。ウォークラリーは学校主催の行事だったらしく学校の中に入っていく、小学校っぽいんだが一貫校みたいな感じで、中は学祭のような催し物、展示があちこちで行われてる。さっきの父親と複数の子供達とわいわい言いながら見て回ってたら教員から注意された、どこかに集まるらしい。
ちなみにこの話の中には俺目線の主人公も含めて誰一人知ってる人間は出てきてない。こういうときって、「誰かの見ている夢の中に自分が混じってるんじゃないか?」という気もする。ビル街の夢はぜんっぜん見ないので、自分が生まれ育った環境の方に郷愁を持って好ましいと感じてるんだろうな。自然と共にある古都、子供と大人、家族。