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はてなキーワード: 孤独とは

2018-01-16

孤独死発見する定期宅配サービスの人たち

いま、孤独死話題になってるけど、コレから高齢化が加速して

定期宅配サービス需要が増えたら、配達時に死亡する高齢者が見つかるから、それほど大きな問題にならないような気がする。

 

孤独死回避の為に子供と仲よくとか、近所と仲良くというのは

子供東京とか遠く離れた場所で働いていたり、思想多様化した現代ではとても難しい。

 

親戚も居ない、近所づきあい存在しない、そんな孤独な私の死体を見つけるのは、配達サービス店員なんだろう。

もうちょい後に生まれていれば

まれから死ぬまでずっと幸せだったかもな。

今はまだ楽園作りの途中。労働や死や孤独から解放されてない。

死ぬまでにはテクノロジーの力で誰も不幸にならない楽園ができてるかもしれないがそれまで俺はもつのか分からない。

2018-01-15

山椒魚世界の神であるか?

 現代文の授業で山椒魚を初めて読んだとき、この捻くれ者は、私によく似ていると思った。だが決定的に違うところがある。それは山椒魚世界の神であったが、私は神にはなれなかったという点においてだ。その違いとは些細なようであって、とても重大なことであると私は思う。それは、私が誰かの神に、世界になりたいのに、なれない不完全な出来の人間であるからだ。

まず前提として、この文章はすべて、井伏鱒二氏の短編小説である山椒魚」を借り、私が私について語るだけの、極めて主観的でくだらないものであるということを示しておく。恐らく十八の人間が書く文章なんてたかが知れていると思うが、それでも私は山椒魚にとてつもない親近感を抱いているのである。それについて少しばかり、私が今まで思ってきたことを書けたらいいと思う。

まず「山椒魚」とは一体何かということを明確にしておく必要がある。山椒魚とは前述したように、井伏鱒二氏による短編小説である山椒魚自身身体が成長しすぎてしまたことによって、住処である岩屋から出られなくなってしまう。外に出ようと幾度となく繰り返す山椒魚だが、それが叶うことはついになかった。外の世界自由に生きる生物たちに嫉妬を抑えきれない山椒魚は、ついに悪党となり、山椒魚は岩屋に入ってきた蛙を閉じ込め、自身と同じ状況に追いやることで、自身精神の安定を保とうとしたのである。蛙は屈することなく二匹は岩屋の中で激しい口論を二年にも及んで繰り広げるが、空腹で動けなくなり、死しか望めない蛙に対して、ようやく山椒魚友情を感じるのだ。山椒魚は聞く。「お前は今、何を考えているようなのだろうか?」と。それに対し蛙は、「別に今でも、お前のことを怒ってはいないんだ」と答えるのだった。

この山椒魚を初めて読んだ時の感想は、「二年も口論を繰り返していたのか」とそれに尽きる。だが数回これを読み深めていくうち、山椒魚とは、ただ友達が欲しかっただけの、普通人間なのではないかと思うに至ったのだ。山椒魚には寓意が込められており、簡単に例えを出すならば「うさぎかめ」のように、ほかの生物もの真意本質を遠回しに伝えるというものだ。私の中で山椒魚普通人間であるし、出られなくなった岩屋は肥大した自意識であり、蛙はそれらをすべてわかっていた人間なのだ。これらも前提に、本題へ入ろうと思う。

何故この文章題名を「山椒魚世界の神であるか?」にしたかは至極単純である。私にとって山椒魚は、世界の神であるからだ。もっと突き詰めて言えば、岩屋の中に閉じ込められた蛙の世界であり神であるということだ。まず先程書いたように、岩屋は肥大した自意識であると私は思っている。山椒魚はその自意識に閉じ込められた、或いはそこから出ることを拒んだ所謂可哀想人間に過ぎない。蛙はその山椒魚自意識を満たすため利用された、こちらも可哀想人間であるという認識をしている。山椒魚は蛙を利用し監禁することによって、死の間際に、世界となり神となることに成功したである

人間人間の神になるために必要なことは、その標的からすべてを奪うこと以外に存在しない。山椒魚は蛙を自分の住処に閉じ込め取り入れることによって、蛙からありとあらゆる自由を奪うことに成功している。それがなければ山椒魚は神になれなかったし、もしかしたら山椒魚は図らずも神になっただけかもしれない。だがそれだけ、人間人間の神になるということは難しいことなのだ。それが善悪のどちらに所属するかはまず置いておくとして、私はそれをやってのけた山椒魚を素直に尊敬する。山椒魚悪党となることで蛙を閉じ込めたが、この時の山椒魚の心境を鑑みるに、標的が蛙であった必要はなかったのだと思う。よくニュースで聞くような、無差別殺人犯の言う「誰でもよかった」と同じように。ただこの「山椒魚」にとって、この蛙が蛙でなかった場合、二年間口論が繰り広げられることも、最後にようやく友情が芽生えることもあり得なかったのではないだろうか。

 しかし、だからといって山椒魚が神であるということに相違はない。閉じ込められた蛙にとっては、憎むべき対象も、愛すべき対象も、結局は山椒魚しかいなかったのである。蛙は最後に「今でも別に、お前のことを怒ってはないんだ」と言った。それはおそらく、蛙自身も、山椒魚を神とすることで救われた一人の人間だったからだと思う。山椒魚が蛙を閉じ込めたとき、蛙は、閉じ込められた岩屋の中で堂々と「俺は平気だ」と宣言する。それは山椒魚を見くびってのことだったのか、それとも逆に、山椒魚ならば…という、敬愛の証だったのかもしれない。ただ私が思うのは、おそらく蛙も、もしかしたら山椒魚と同じような立場になっていた可能性があるということだ。メタフィクションのような話になってしまうが、蛙は山椒魚よりも体が小さいので、少なくとも岩屋から出られなくなってしまうということは考えにくい。なので、自由に飛び回ることのできる外の世界―要するに「山椒魚」の世界観で「社会」で、同じ立場になっていたかもわからないのだ。山椒魚肥大した自意識から出られなったが、それはあくまでも人間の内側で起こっている出来事に過ぎない。自身の激しいナルシズムが引き起こす極端な自己評価他者評価ギャップに悩み、それを見栄で隠そうとしたために発生した、ある種一時的反抗期のような、よくよく考えてみれば、我々も通ったことのあるような道でしかないのだ。だが蛙は人間の内側でそれを発生させてはいない。人間人間が大量に入り混じる、失敗の許されない、いわば監獄のような世界でそういった問題に悩まされていたとしたら、それはきっと山椒魚よりも可哀想で哀れな姿になっていたに違いない。山椒魚は蛙を閉じ込めることで、自身と同じ状況の人間作成し、その結果精神の安定を保とうとしたが、それは蛙も同じだったかもしれないということだ。蛙は山椒魚に「わざと閉じ込められる」ことによって、可哀想人間に捕らえられ逃げられない自分を作り出し、自分社会に対する折り合いのつかない問題から逃げ出そうとしたと考えれば、最後の「今でも別に、お前のことを怒ってはいないんだ」というセリフにも納得がいく。

この文章を書くにあたって、自分の「山椒魚」に対して抱いた如何ともし難い薄気味悪さというのは、蛙によってもたらされた山椒魚への許しが生み出したものだと気付いた。小説である一言言ってしまえば確かに終わりなのだけれども、例えば自分が身勝手理由他人監禁され、しかもそこで死を迎えなければならないとなった場合最期相手を許すことが出来るものだろうか。それが愛する人家族ならいざ知らず、どこの誰ともわからない人間にいきなり監禁された時点で、普通に考えて怒りなんて言葉では済まない。それこそ二年間によって繰り広げられた喧嘩でさえ、この最期によればおつりがくるほどだと思う。最初こそ「二年間も口論していたのか」なんて暢気な感想を抱いたけれど、少し考えてみたら、最期の蛙の言葉は、私にとっては最早呪いだ。もしも私が山椒魚だったとして、自分が閉じ込めた相手が死の間際に自分を許す旨の発言をしたら、嬉しさも喜びも何も感じることは出来ない。むしろ、「この人は今まで何を考えて自分の思い通りになってくれたのだろう」という不信感すら残ってしまうだろう。自分という一人の人間を殺したという事実から逃げるなよという、怨念のようなものさえ感じさせる。それを考えると、山椒魚が蛙を閉じ込めたというよりも、蛙のほうが、山椒魚を好きに操っていたようにしか考えられないのだ。蛙は山椒魚のことを、自分と似た人間だと思い、自身社会に出たことで削られてしまった自尊心自意識回復するために、「わざと山椒魚と一緒にいた」ようにしか思えない。物理的にそこから出られなかったとしても、こころだけでも自由になることは出来たはずなのだ山椒魚と違って自由に泳ぎ回ることが出来ていた人間ならば。だがそうではなかった。ということは、蛙は自由に泳ぎ回っているように見えて、その実、社会という檻から逃げられず、自分肯定するために必死だった、ただの哀れな、普通人間しかなかったのだ。

最後にもう一度、これは私が井伏鱒二氏によって描かれた短編小説山椒魚」を借りて書き殴っただけの、主観的陳腐文章であることを明記しておきたい。ここに書かれていることはすべて、私が勝手に作り上げた妄想であって、おそらく山椒魚には、これよりももっとポジティブメッセージ寓意)が込められていることだろうと思う。しかし私にとって「山椒魚」は、どうにもポジティブものとは受け取れなかった。可哀想人間が寄り添って、互いの削れた部分を埋めるために、互いの世界になろうとする。そんな常人には理解出来ない、孤独で閉鎖的でどこまでも自分本位人間本質を描いているように見えたのだ。

私は山椒魚に似ている。けれど私は誰かの世界にはなれなかった。私にとっての「蛙」がこれから現れることはあるのだろうか。山椒魚が蛙を操っていたのか、蛙が山椒魚を操っていたのか。本当のことは、誰も知らない

              

                                                                                                    了

孤独死したくなければ誰でもいいから籍を入れろ」を読んだ。

バカがと思った。言いたいことはいくつもあるがとりあえず二つに絞る。

1、なんで煽りインチキ宗教並みなのか。

さっさとやれや。さもないと悲惨なことになる…という煽りは正直インチキ宗教の勧誘と同じだ。

私は友人に誘われそういうところのセミナーを一時間ばかり聞いていたことがあるがそれをしないことがどうして悲惨かばかり滔々と語っていた(8割くらい)。似ている。

もし加入すればこんないいことがあります(聞いてると詐欺しか思えないが)を少し主張する分インチキ宗教のほうが幾分ましかもしれない。

結婚しないと老後がーだの孤独がーだの煽るのばかりだ。

オウム真理教終末論ぽいのを説いて事件引き起こし結構問題になったが、冷たく例えるとそれ。いうなれば結婚真理教

あの手のインチキ宗教勧誘は1000人煽って一人でもバカが引っかかれば成功なんだけども結婚煽りもそれでいいのかね。

結婚教の連中はそれでもいいのかもしれないが。

2、こいつ孤独の恐ろしさをあまりにも知らなすぎる。

誰でもいいからとか本当に正気かこいつと思う。ちょっとでも孤独の恐ろしさ知っていたら出てこない発言だ。

私には偽装派遣で一人誰も知らない連中ばかりのIT派遣にたたき出されて死が頭にこびりつくレベル孤独に1年苛まれ経験がある。

私に限らないならもっとひどい例もある。時折起きる小中学生いじめ自殺や去年自殺の原因が発覚して大問題になったTENNさんの事例だ。

端的に表するとはなから一人の苦痛が0から1とするなら周りから全く受け入れてもらえない私が経験した悪夢が50から精々100くらいだと思う。

それでも耐え抜けたから。あと一年は無理だったと思うけど。

そこにいじめが入り時々発生する自殺学生悲劇はきっと桁が上がって1000くらいだろう。彼らには逃げる選択肢ほとんどないからな。

信じるものに裏切られて自分でその責任を抱え込み死を思い込むしかなかったTENNさんの孤独もそれこそ1000か2000の苦痛だったと思う。

孤独とは最悪そのレベルまで行きつくものだ。ハナッから一人なんて孤独のうちに入らないんだよ。

仮にそれが少しでもわかっていてそれでも一人が仮に嫌だというのなら「ちゃんといい人を探して選ぼう」とは言えるかもしれん。多分そういう人ならいるだろうし少なくとも理解はできる。

でも「誰でもいいから選べ」なんてクソバカなセリフは口が裂けても言えないはずだ。それが一番危険なことだからだ。

こんな甘ちゃんに孤独は怖いんだぞと語られるのがものすごくあり得ない。

アラサー女の性欲

アラサー女は妊娠タイムリミットが迫ってるから性欲が増すとか、まことしやかに言われているけど「嘘乙」という感じ。

ピークは19~23歳あたりで、あとはひたすら減退の一途なんだけど。

加齢で性行動が活発になる女性が居るとしたら、原因は承認欲求だと思う。

承認欲求が生まれつき強いタイプ女性が、小さい女の子若い女性→おばさんとなっていく過程で、

だんだん可愛がってもらえなくなり寂しさに病んで、体をエサに承認を得ようとしているのであって、

孤独耐性が強く生まれ女性にとってはピンと来ないと思う。

孤独耐性が強いというより、一人の時間を楽しめて、楽しみを他人邪魔されることを嫌う性質女性と言ったほうが正しい?)

減退については結構ポジティブにとらえてる。まず、面食いじゃなくなった。太った男性や小汚い男性とかへの嫌悪感が薄れた。

性欲が強いと目の前の異性を「クラスメイト」や「仕事上の取引相手」であっても、無意識性的魅力でジャッジしてしまう。

減退したことで、人としてどうか、職業人としてどうか、という部分をちゃんと理解しようと思えるようになった。

人によって態度を変えること、好き嫌い支配されて感情的差別することがすごく減ったと思う。

昔の自分の振る舞いを振り返って、本当にクソだったなと思うくらい、変わった。当時の私と関わった人には申し訳ない。

価値観って自分で選んでるつもりだったけど、その人の生まれつきや年齢による欲求量によって決まってるんじゃないかと思える。

狙って減退させたわけじゃなく、加齢によって自然に減退したけど、人間関係がめちゃくちゃ上手くいくようになったよ。

感染症が治ったみたいなすっきり感。

anond:20180115155547

おまえさ、金が無くてひいひい言ってる奴の前で実習で孤独だと困るってお花畑にもほどがあるぞ

anond:20180115155410

本人のメンタルキツイよねってことじゃないの?

医学部はけっこうタテヨコの繋がり大事にしてるとこあるし、班別の実習とかグループワークとか孤独だと困ることもあるだろう

孤独の何が辛いって失敗を笑いに昇華できない事だわ

ひたすら惨め

2018-01-14

他人と関わるのはつらいが孤独もつらい

どうすればいいというのか

何のために作るのか

最近ちょこちょことゲームを作っている。

企業や上手い人の作品よりも格段に出来が悪いのだけど、そんなことは気にしない。これから上手くなればいいだけのことだ。時間はまだある。

自分は昔から、絵を描いたり、何かを作るのが好きだった。

楽しいし、褒められるのは嬉しい。

それだけでも十分な気がするが、どうも最近自分がそのためだけに作り続けているわけではない気がする。

なぜ作るのか。

何を表現したいのか。

考えて考えてようやくわかってきた。

それは多分、自分が人の作品に救われてきたからだ。

コミュニケーションがド下手故に昔から孤独なことが多かったが、その度にゲームアニメ漫画映画音楽など、誰かの手で生み出された作品に救われてきた。

それは今でも全く変わらないんだけどね。孤独つらいよ孤独

物語を通じて冒険戦闘恋愛もしたし、友情の尊さや、選択することの重さも知った。

孤独だったら絶対に味わうことの出来ない経験自分にくれたんだ。

幻想世界に浸ることは現実逃避と言われるかもしれないけど、幻想世界存在たことで救われた命があるんだ。

それって、マジで凄くないか

今度は自分が何かを作ることで、誰かを救う側になりたい。

大袈裟かもしれないが、それが自分の使命な気がする。

がんばるぞおおおお!!

恋愛弱者男性一心

1.世の女性自分に興味がない

2.故に、自分からアプローチするのは非効率的だし、昨今の社会情勢からリスクしかない

……と長年思っていたのだが、どうやらそうではないらしい。

10女性がいれば、2~3人はこちらが思っているよりも良い反応を示してくれる。

そもそも女性のいない環境でずっと過ごしてきたから、ただそう思い込んでいただけなのかもしれない。

1の前提は崩れつつある。

問題は2の方だ。

まず誘い方が分からない。

そもそも相手に対して用事を思いつかない。

いっそ女性からアプローチがある方が、どれだけ心理的負担を背負わず自然にいられることか。

あるいは誘って良いよというシグナルでも発せられるのだろうか。

孤独には慣れているので、この先一人でいる分には構わない。

仕事も程々に楽しく金もあり、業界的にもこの先困ることはない。

しかし将来、人生がつまらなく今できる選択をしなかったことを後悔するときがきっと来そう。

未来を変えたい意思はあるがその術がない。

おまえら孤独歴が長いから心の中に別人格の誰かを作って

会話とか楽しんでると思うんだけど

どんな人を作り上げてるのか俺に紹介して

「ウザがらせる自由」に対して:『あなたは、豚として生まれたの?』

(追記)ウザがらされない→ウザがらせられない ですね。日本語不自由になってました。恥ずかしい。

後、importuner と Un porc, tu nais がどちらもアンポルチュネで発音同じことに言われて気づきました。これも恥ずかしい。

そして、さらに恥ずかしいことに、最後段落抜けてました。大急ぎで追加しました。

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ちょっとフランス語翻訳してみたくなったので、最近増田の流れで、一つ記事を訳してみました。

Leïla Slimani (レイラスリマニ)というモロッコ出身フランス人女性作家の Liberation のサイトに昨日掲載された«Un porc, tu nais ?» (「あなたは、豚として生まれたの?」)という記事です。

なんで、これを訳したかというと、先の「ウザがらせる自由」が、何やらフランス代表するもの英米からmetooブームに対する、大陸から批判みたいな取られ方をしている向きがあったからです。全然そんなことありません。twitter を見る限り、あの記事叩かれまくっています

現在も、テレビ討論番組で、Brigitte Lahaie という元ポルノ女優(あの記事署名者の一人です)が「レイプ最中だって、楽しめるわ」と発言した件で、絶賛大炎上中です。(この発言が、あの記事の後半部につながっているのは明らかでしょう)。

フランスでは #metoo に加えて #balancetonporc というタグ使用されていて、意味は「あなた豚野郎を叩き出せ!」です。ものすごく攻撃的ですね。Le Monde 誌の記事はそんな流れの中でのカウンターとして出されたもので、まぁ、要するに両者ヒートアップしてるってことです。

あなたは、豚として生まれたの?」は明確に「ウザがらせる自由」に対する反論として書かれています。いくつかの言い回しが、あの記事から来ているので、増田での訳語にその辺はあわせました。この記事文脈では「ウザがらせる」は生ぬるい気もしますが。

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(追記)ブコメで指摘がありましたが、あちらの翻訳は「ウザがられる自由」でしたね。完全に見間違いをしていました。

でも、これはしょうがないところがあって、原語 importuner は他動詞能動形以外のなにものでもないので、まさか受動形で訳しているなんて思わなかったのです。

「ウザがらせる」が正しいです。

不器用勘違いから来る過失のニュアンス」は日本語訳からまれものであって、原文にはそうした解釈余地はありません。

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小説家による平明に書かれた文章なので、致命的な誤訳はないと思いますが、気づいた点があれば、じゃんじゃん指摘しちゃって下さい。

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あなたは、豚として生まれたの?』

通りを歩く。夕方地下鉄に乗る。ミニスカート、胸の広く開いたシャツハイヒールをはく。ステージの真ん中で一人で踊る。派手めの化粧をする。ほろ酔いタクシーに乗る。半裸で草むらで伸びをする。ヒッチハイクする。深夜バスに乗る。一人旅をする。テラスで一人グラスを飲む。ひと気のない道を走る。ベンチで待つ。男を誘い、意見を交わし、歩き続ける。イル=ド=フランスの人込みに紛れる。夜勤する。公共の場子どもに乳をあげる。賃上げ要求する。

こうした、日常的で平凡な生活において、私はウザがらせられない権利を、そんなことにかかずらわされない権利要求します。 私は、私の態度、私の服装、私の歩き方、私のお尻の形、私の胸の大きさについて、とやかく言われない自由要求します。私は、私の平穏孤独権利を、恐れることなく前に進んでいく権利要求します。私はただ、内的な自由だけを求めているのではありません。私は、外での、広々とした場所での、私もまたその片隅を占めている世界においての自由を求めているのです。

私はちっぽけな壊れやすい品物ではありません。私は守られることを求めているのではなくて、安全尊重についての私の権利を認めるよう求めているのです。そして男性たちは、皆が皆、豚であるわけではありません。そんなことは全くありません。この数週間、どれほどの男性たちが、彼らの能力でもって、今起こっていることを理解し、私を魅了し、驚かせ、大喜びさせたことでしょう。どれほどの男性たちが、もう加担することをやめ、世界を変え、これらの行為から、彼ら自身をもまた解放しようとする意志を示してくれることで、私を驚嘆させたことでしょう。

というのも、例のいわゆるウザがらせる自由は、その奥底に、男性性についての極めて決定論的な見方を隠しているからです。すなわち、「あなたは豚として生まれたのだ」と。

私の周りの男性たちは、私を侮辱するものたちに対して、怒り、抗議してくれます。朝8時に、私のコート射精した誰かに。私の出世に何が必要理解させようとした上司に。研修の対価にフェラチオを求めた教師に。「キスしないか?」と尋ね、「淫売」扱いして去った通行人に。

私の知っている男性たちは、この男らしさについての反動的見方に、うんざりしています。私の息子は、そう私は希望するのですが、きっと一人の自由な男になるでしょう。その自由とは、ウザがらせる自由ではありません。制御できない衝動にとりつかれた捕食者としてではなく自分定義する自由です。私たちを魅了した男たちが持っているようなたくさんの素晴らしい仕方で、魅了することのできる一人の男に、息子はなるでしょう。

私は一人の犠牲者ではありません。しかし何百万もの女性たちはそうです。これは事実なのであって、道徳的判断やそうした女性たちを(犠牲者として)本質化するものではありません。

そして、世界中の何千もの街の通りを、うつむいて歩いている全ての被害者たち、付け回され、ストーカーされ、レイプされ、侮辱され、公共の場場違いものとして扱われている彼女たち、その恐怖が、私の中で瞬きますうずくまり、恥じている彼女たちの、辱められたという理由で通りに投げ出され除け者になった彼女たち、彼女たちの体がウザがらせる行為を招くからという理由で、黒く長いベールに隠させられている女性たちの叫びが、私の中で響いています

カイロニューデリーリマ、モースル、キンシャサカサブランカの通りで、歩いている女性たちは、失踪誘拐そして(下心ありの)慇懃さを心配しているのではないでしょうか?彼女たちに、誘惑し、選び、ウザがらせる権利などあるでしょうか。

私は、いつか、娘が夜中に通りを、ミニスカートと胸の開いたシャツを着て歩き、一人で世界旅行をし、真夜中に何も恐れることなく、そんなことを考えることもなく、地下鉄に乗れることを望みます。その時、彼女が生きるその世界は、清教徒世界ではないでしょう。私は確信しています、それはより正しい世界、そこでは愛と歓びに満ち、魅了し合う場だけが、より美しくより豊かである世界になるだろうと。それはまだ想像すらできないものだけれど。

http://www.liberation.fr/france/2018/01/12/un-porc-tu-nais_1621913

2018-01-13

偶数は丸くて奇数三角

3はひねくれてて、7はまっすぐだけど融通がきかない。

9はこわい、8は中途半端

素数孤独

負の数は卑怯

孤独が俺をおかしくする

孤独さの苦しみが俺の行動をおかしくする

だって、前に俺からこっぴどく振った彼女LINEしようとしてる

寂しいではなく、侘しい

メンヘラは恐らく孤独に怯えている人達

でも自分はそうではない。自分矮小さに卑屈になる。生まれ身分の低さ、能力の低さ。

士農工商で言うところの農民という階級歴史上何人もその階級とやらを乗り越える為に努力してきた。

だけど結局農民貴族結婚する事も叶わず夢物語を描くばかり。

憎いとは言わない。そこに立ってみたいとは思わないが、歴然とした差を見せ付けられる。

まれながらの貴族は、自らを農民に貶めたりはしないだろう。農民は、貴族生活の子細を描く事は恒久に叶わないのだろう。

途轍もなく侘しい気持ちになる。法隆寺の鐘が鳴るような、伽藍堂の心に響く侘しさ。

2018-01-11

三橋貴明先生から動画メッセージについて

 先日、三橋貴明先生が、奥様への暴力の疑いで逮捕され、騒ぎになりました。

 私は4年ほど前から三橋先生ブログ記事を読むようになり、今では「月刊三橋」の会員にもなっています

 会員向けに、三橋先生が今回の事情説明したメッセージ動画配信されました。

 会員専用なので全ては紹介しませんが、ぜひ皆さんに真実を知ってほしいと思い、要点だけかいつまんでご紹介します。

 

・・・・・

 19歳の妻とは、2年前に妻が18歳(アルバイト)だったときに、新宿南口酔っぱらいに絡まれていたのを私が助け、非常に気が合ったので付き合うようになって結婚し、昨年子供が生まれた。

 妻は歳が若いので、子育てプレッシャーに耐えられず、ストレスでよくおかしくなる。それで頻繁に夫婦喧嘩になってしまっている。

 今回も、子育てをめぐる些細なことから、取っ組み合いの喧嘩になった。

 私が一方的暴力をふるったのではなく、妻に攻撃されたせいで、私もアザだらけになった。

 喧嘩しているうちに赤ちゃんを寝かせる時間帯になったので、「私が寝かせるからあなたは部屋から出ていって」と言ったところ、妻が「あなたにこの子は渡せない。だっての子暴力をふるうから」と言い出した。ブログで「きつい一言を言われた」と書いたのは、これのこと。

 こんなトンデモないことを言われたら、さすがの私も、「私が暴力なんてふるうわけないじゃないか」と逆上してしまった。そこで、「なんてことを言うんだこの女は」と思い、妻の左頬を平手打ちした。

 そうしたら、妻が110番通報をして警察がきて逮捕された。

 過去にも2回、妻に110番されているが、それも今回と同じで、子育てをめぐるトラブルから、お互いにつかみ合い、殴り合いになった。

 私は頑強なのであまりダメージを受けないが、彼女ダメージを受けて、彼女はわれを失うとヒステリックになり、すぐ警察電話してしまう。

 妻のきつい一言が原因ではあるが、どんな言い訳をしても、妻に暴力をふるってしまたことは許されることではないと思っており、反省している。

 実は、ここでは言えないような彼女問題があり、警察はそれも把握しているので、大事にはならなかった。二度とこのようなトラブルを起こさないという誓約書を書いて、釈放された。

 留置所独房孤独で大変寒く、その時支えになったのが、心に浮かんだ娘と妻の笑顔だった。自分にとって本当に大切なものが何なのか、改めて気付かされた。

 現在警察との約束で妻とはすぐには一緒に暮らせないのだが、これから幸せな家庭を築いていきたい。(目に涙を浮かべながら)

・・・・・

 

 ご本人自身もお認めになっているように、奥さんに平手打ちするというのは、確かによくないことだと思います。でも、テレビ講演会で拝見する限り、三橋先生はとても穏やかな方ですし、今回のメッセージで述べられているように致し方ない事情があったのでしょう。

 我が家でも夫婦喧嘩はそれなりにしますし、人ごととは思えません。奥さんを批判するわけではありませんが、夫婦喧嘩にはどこかお互い様のところが必ずあるものですから、お二人でよくお考えになって、しっかりした家庭を築いてほしいと思います

 

 私は陰謀論者ではないですが、三橋先生のようなちゃんとした方が、こんな些細なことで逮捕されるということに、何か不自然ものを感じずにはいられません。

 今回のニュースで初めて三橋先生にご関心を持たれた方も多いと思います

 そういう方はぜひ、月刊三橋に入会して三橋先生メッセージをご自身確認し、真実を知ってください。

 https://academy.38news.jp

 このような事件があったとしても、日本経済を救い、豊かにするのは三橋先生のような主張に違いないと信じております

幸せについて本気出して考えてみた

幸せについて本気出して考えてみた

幸せ」とそれに関係する「怒り」「哀しみ」について書いてます

本気で考えたから長くなったし、読みにくいと思う。

生きる目的は「幸せであること」で、その先はない。

生活が豊かになっても、富を得ても、幸せでなければ意味はない。

「人より生活が豊かである」ことに幸せを感じる人もいるだろうが、 「あらゆる人より」は世界に1人しかいないので、「誰かより」と人と比べることになるだろう。

どんな環境であっても、自分幸せだと思う人もいれば、常に自分は不幸だと思っている人もいる。

自分が何のために行動しているのかを、もっと掘り下げて自問しなければ、自分自分理解できない。

自分理解できない自分」を他人理解してもえることはほとんどないが、稀にあり、その出会い幸せであるので感謝する。

自分が何のために働いているのか」「何のために怒っているのか」「何のために勉強をするのか」「何のためにそこに住んでいるのか」

「何のために」を達成する手段は、それ1つしかないのか。

幸せのカタチは結局人それぞれ。

何が自分幸せなのかは、自分で見つけるしかない。

幸せになる方法は、あらゆる選択肢の中から自分の「好き」を選ぶこと。

付き合う人や孤独であること、仕事仕事でない生きる方法、住む国や場所、食べるもの、着る服、宗教無宗教など、すべてを「自分の」幸せと照らし合わせて選んぶ。

自分幸せと、人の選択を照らしあわせて、自分に合わせようとする人のことを「傲慢」と呼ぶ。

傲慢は誰も幸せにしない。傲慢であることに幸せを感じる人もいると思うが、私はそういう人とは付き合わない。

「正しいこと」や「正義」はない。それはただの1つの方法

幸せを実現する手段を教えることはいいことだが、その選択自体は、他人にとやかく言われることじゃないし、他人に口出しするものでもない。

みんな幸せのカタチが違うし、選ぶ手段が違う。

「人それぞれ」という言葉不安を覚える人は、宗教学問を選ぶと、自分以外の場所に確かな指標や信じるものが出来ていいと思う。

それを信じている間は、幸せのカタチを変えられないというデメリットも分かっていたほうがいい。

宗教だって学問だって、信じられなければ変えればいいと思うけど。

人の好みに共感できなくても、理解はできるから、「同じ幸せ」を感じられなくても、「一緒に幸せ」になることはできる。
人が幸せになる、人を幸せにすることに幸せを感じる人は、そういう仕事活動をすればいいし、しているだけ。

その手段相手に対して間違っていることがあるかもしれないが、それを「偽善者」の罵る人は、想像力が足りない。

お金はただの手段目的あくま幸せ

お金があること自体幸せを感じる人は、自分をまだあまりわかっていない。

お金あっていいな」とは思うけど「お金あればアレができるのに」はみんな違う。

自分が何を幸せに感じるか」を知って、それを人に伝えれば、コミュニケーションはうまくいく。

「そのために何をしている、何をする」が近い人とは過ごしやすいし、「その手段もあるのか」「こういう手段もありますよ」がお互いを幸せにする可能性を広げる。

わたしはこっちがいいんです」と言われても、それはその人の幸せのカタチなのだから、落ち込む必要も怒る必要もない。

目的を1つに絞る」という考え方自体は、たぶん禅の考え方。

こういう考えが自分に合ってるというだけで、それこそ個人個人もっと合う考え方があると思う。

数多の国・宗教文化があり、法律戒律は違えども、すべての目的は「幸せになること」で、根っこの部分は本当によく似ている。

人の行動原理は大きく分類すれば「幸せ」「怒り」「哀しみ」「恐怖」

幸せのカタチはみんな違うけど、皆自分生活をより良くしたくて、または今の良い生活を維持したくて、行動している。

怒りは分析すれば、ある程度抑えられる。

怒りを感じる事自体は悪いことではなく、あたりまえの本能なのだけれど、それで幸せが遠のくのであれば、感じすぎないほうがいい。

怒りの成分は大きく分けると「自分幸せへの危害」と「嫉妬」くらいだろうか。

嫉妬について

嫉妬とは「相手幸福により、相対的自分が不幸になること」に対する怒りであり、あんまり自分幸せがなんなのか分かってない時にあふれだす。

嫉妬は人と比べて幸せを感じる人が持つ感情

自分幸せ手段である何かを持っている人に対して湧く感情なので、消し去ることはできない。

「今嫉妬してるってことは、自分もああなりたいんだなぁ」と言い聞かせて、「羨ましい」と言葉にすることで、少しは解放されるかも。

「それを持っていることでなぜ幸せなんだろう」と掘り下げることで、「元から嫉妬するようなことでもない」と気づけるかも。

自分幸せへの危害による怒りについて

直接自分幸せに害があるときは、怒って当然。

「怒り」は「幸せ」を守っている。

ただ、必要以上の怒りは、怒っている本人を含めて誰も幸せにしない。

「何に怒っているのか」を自分理解して、それ以外のことにぶつけてはいけない。

怒りの多くは、その原因を取り除けば解決できる。

「その手段しか幸せになれない」と思っているから怒るのであって、他の方法を探すことで、かなりの怒りから開放される。

他人に対して怒りが湧くときも、お互いが「相手幸せになりたくて、その行動をとっているんだ」と思えば、多少軽減できるし、「じゃあどちらも幸せになるように新しい手段を探そう」と原因の解決に迎える。

あらゆることに対しても怒りが湧くときは「眠い」か「疲れている」か「お腹が空いている」。怒っても解決しないので、うまいもの食って休もう。

「怒り」から遠ざかることで、「怒り」から遠い存在である幸せ」に近づくことができるのではないだろうか。

「哀しみ」の解決方法は、模索中。多分見つからない。

哀しみを感じる事自体も悪いことではなく、あたりまえに持ってる本能だけど、それで幸せが遠のくようであれば、感じすぎないほうがいい。

幸せも怒りもわりとすぐに忘れてしまうけれど、哀しみはなかなか慣れない。

怒りと違って、死や離別など、原因を解決できないことがほとんど。向き合って鎮めるか、逃げるしかない。

哀しみから逃げる第一候補は、宗教

仏壇に手を合わたり、十字を切ることで、寂しさから解放される人もいるだろう。一種ルーティーン。

大事な人やモノを失うと寂しい。いつもの幸せな日々が終わってしまうから幸せときにいつもやっていたルーティーンによって「大切なものの1つを失ったが、今も幸せである」と思い出す。

それは幸せなのかと言えば、そうではないと思う。哀しみをごまかしているだけではあるが、他にいい方法がない。

哀しみと向き合うのは、辛すぎる。

そもそも向き合うつもりがなくても直面してくるような感情

どうあがいても哀しいものは哀しい。

今ふと、「哀しみを忘れるのは非情だ」という風潮にちょっとだけ疑問を感じた。

ずっと哀しんでいないといけない雰囲気がある。

それって誰が得するかと考えると、やっぱり宗教なのかなと。

仏教で言えば、初七日四十九日一周忌とかね。

余計に哀しむ必要はない。普通に過ごせば、みんな充分哀しんでると思う。

「哀しく感じていた感情を忘れる哀しさ」があるのも、また真実

哀しく感じなくなったからと言って、愛していた事実がなくなるわけじゃない。それだけを愛情のモノサシにしなくても良いのでは?

はいろんな人に愛されていると思っているから、私が死んだときにはそう考えて欲しい。

恐怖とは

「恐怖」とはなにかを考えると、「幸せを害される」ことに起因する感情

自らの死、病気老い孤独蔑視など、人生においては恐怖も少ない方がいいが、避けようがないものもある。

1つの対処法は準備。

病気にならないように、情報を集めて健康でいる。

孤独にならないように、人に尽くして、人徳を積む。

蔑視されないように、努力して、結果を出す。

結果を変えることで、恐怖から遠ざかる手段

覚悟」も対抗策の1つ。

悪い結果を想定して、余裕を持っておく。

恐怖を乗り越える「覚悟」を持っていれば、もはやそれは恐怖ではない。

そしてもう1つ考えた方がいいのは「そもそもその恐怖の対象は不幸に直結しているのか」

老いたから、即不幸なのか。何ができなくなることが不幸なのか。若いままでいて、何ができることが幸せなのか。

病気孤独蔑視もそう。それ自体が不幸なのではなく、その結果なにかができなくなることが不幸であり、逆に何かしたいことができるままであれば、それ自体は恐怖の対象ではなくなる。

最後に残る恐怖は「死」のみ。

「死」の恐怖はすさまじい。「死」は積み上げた幸せを失う。

死は避けられない。どんな生き物でも100%死ぬ

死んだことがないから、またわからない。わからないものは怖い。

対抗する手段は「人生に満足すること」ではないだろうか。

あれもしたかった、これもしたかったはたくさんあるけど、「この人と一緒に過ごせてよかった」とか「得られるだけの幸せを手に入れた」と満足することこそが、生死の際まで幸せでいられる手段ではないだろうか。

この世との別れは哀しい。それは絶対に避けられない感情だけど、それより人生に対する幸福感が上回れば、受け入れられないものでもないのかも。

うん、やっぱりどう考えても今は死にたくないな。

もっともっと妻や家族や友人と、楽しい時間を過ごしたい。

長生きするのは不幸だという意見だったけど、失う対象が少ない状態死ねると考えれば、今はじめて、少しだけ羨ましくなった。

幸せな死」にこれから出会えることがあれば、そこから学ぼう。

出会う前に死んだら、仕方ないな。

幸せについて、考えられる日は、幸せな日だけだな。

怒りや恐怖について考えられる日も、多分幸せな日だけ。

哀しみについては、哀しい日の方が考えられるかも。

余裕ができたら、余裕がなくなったら、また読み返そう。

2018-01-09

anond:20180108105930

このレベルになると特殊例過ぎて、ネタでも本当でも俺には関係ねー話だわ(鼻ホジ って感じだな

もし本当なら、それはそれで理解してもらえる相手がとても少なくて、ある意味孤独かもしれないという点だけ同情する

2018-01-08

anond:20180108230755

お前が人やコミュニティを選ぶように

周りも選んでるんだよ

から、お前が人とつながりを持ちたいなら選ばれる魅力を持つしかない

当然、外見的な要素はないだろうから

自分が損して周りに尽くすしかない

めんどくさい企画をして、周りを盛り上げてこちから仲良くなるための声かけをして

連絡先を聞いて、そこからさらに一緒に遊びたいと思われるような企画をして誘う

普通はそんなのめんどくさいか孤独を選ぶよ

そうやって人は孤立してる

そしてそういう孤立してる人でも今言ったようなことをしてくれる人でもいない限り仲良くはなれん

点と点は結ぼうとしようと積極的にならない限り結ばれない

そういうこっちゃ

2018-01-07

anond:20180107171953

俺の解釈なんで合ってるかわかんないけど、要はアレは孤独でも何だかんだ生きていけるよね、って話だと思うんよ。

プライドは虎のように猛々しくても、実際の自分は弱っちいカメレオンしかない。

カメレオンは最終的に動物園という「あるべき所」に収まって、主人公もあれこれ考えながらも元の生活を続けている。

物語最後エウリピデスがうまく結論になってると思う。

>「人間生活といふものは、苦しみで一杯でございます。その不幸には休みといふものがございません。しかし、若し人間のこの生活よりもつと快いものが假りにあるとしても、闇がそれを取圍み、我々の眼から隱して了つてゐます。それに此の地上の存在といふものは燦かしいやうに見えますので、私共狂人のやうにそれに執着するのでございます。何故と申しまして、私共は他の生活を存じませんし、地下で行はれてゐることに就いては何も知る所がございませんから。」

孤独で地味な生活もそんなに悪くないものだよ、ってことですな。

っていうか薦めてみたものマジで読んでくれるとは思わなかった。

ありがとね。

anond:20180107012709

自分デカチンポと向き合う夜

二人きりのはずなのに孤独だね

ねぇチンポ

俺たちこれからどうなっていくのかな

2018-01-06

精神科病棟身体拘束された話

せっかくの経験から、伝えようと思う。

2年くらい前まで入退院を繰り返してた。

中高生時代にも子供精神科に通ってたけど、高校卒業を期に、いったん精神科卒業した。

けど大学生活のストレスで再発した。

私がお世話になった病院精神医療専門病院で、なおかつ建物が新しくなって間もなかったのは、とっても幸運

鉄格子なんてなかったし、建物ボロボロや不潔でもなかった。

大学一人暮らしをしてたある日、何故か包丁を持って外にでようとしてた。やばいと思って近所のメンタルクリニックに行ったら即病院に紹介されて、受診したその日に入院が決まった。

はじめは保護室という部屋に入れられた。

窓はなくて、トイレとベッドだけがある、施錠された個室。分厚い鉄扉についた小さなから、1時間に1回看護師さんが様子を見にきた。

部屋が真っ白で、ベッドに寝転んで天井を見上げるしかすることなかったから、いまでも白い蛍光灯は苦手。

何も持ち込めず誰とも話せず、孤独で辛かった気がする。

数日様子を観察されて、解放された。

4人部屋に移った。

入院の際にコード類や携帯没収されてるので、音楽も聴けなかった。外部を遮断できるツールが使えないこれが一番辛かった。みんな顔死んでるけど。

病棟内でも保護室エリア一般エリアは区切られてて、一般エリアは以外と静かだった。騒いだり奇声を発する患者保護室に入れられてるから

ご飯は食堂で一斉に食べた。毎回暗黙の席取り合戦がある。勝つために時間がきたら早く座ってた。

どれだけ食べたかももちろんチェックされた。

主治医許可がでて看護師さんに言えば、1日に1回だけ売店に連れていってくれた。何買ったかはもちろんチェック。甘いもの好きだけど、買いすぎると怒られた。部屋に持ち帰ってこっそり食べたりした。

辛かったのは看護学生が実習で来てたとき

私と同い年くらいなのに立派だな、と思ったし劣等感爆発した。大学に行ってたはずなのにどうして今こんなところにいるんだろうって。病室の窓から大学が見えるのが、余計に悲しかった。

入院生活は暇すぎた。

テレビ見るか、作業療法行くか、塗り絵するかくらいしかなかった。

病棟に同年代なんていなかった。

それでも主治医毎日顔を出してくれて嬉しかったのは覚えてる。

一度、持っていたタオルで首を締めることがあった。一応看護師さんに軽く報告してタオルは預かってもらった。

そしたら当直の医師に伝わってしまって、保護室連行され身体拘束された。

両手首・両足首・胴体の5箇所をベルトでベッドに固定され、ピクリとも動けなかった。

おまけに血栓防止ストッキングなるものを履かされ、めちゃくちゃ痒かった。

ぴっちぴちのメディキュットもどき

痒くても掻けない。

トイレ自由にいけない。

天井蛍光灯時計しか見るものがない。

拷問のようだった。時間が経つのが遅すぎて気が狂うかと思った。

私はまだ、見回りのタイミングベルト外してもらってトイレできたが、最悪オムツらしい。女子尊厳は守られた。

食事は胴体と手首のベルトが外され、ベッドの上で監視されて食べた。

翌日に主治医が来てくれて、もうしないことを約束して、その翌日に解放された。

あれは自分にとって紛うことな拷問だ。罰則だ。約束を守るように頑張った。

最初に入った病棟は楽しかったよ、割と。

症状の軽い人たちがいる病棟だったから、会話が楽しかった。気のいい兄ちゃんもいたし、優しい兄ちゃんもいた。

でもそれ以外の病棟は、みんな症状重くてそれどころじゃなかったなぁ。

私も病状が悪化して、ますます壊れてたし。身体拘束はこのころね。

なんだろ、そんな感じ。

まだネタはあるけど、区切るわ。

今は元気にOLしてます

んじゃ。

2018-01-05

理想おっぱいとは

人それぞれである

大きさ

硬さ

乳輪の大きさ

乳首の色

など

僕の孤独レースは続いてく

anond:20180105012344

そう言っておいて皆大学生エンジョイするんだよな

友人とルームシェア始めたり

真の孤独者は新しいどころか古い人間関係もないぞ!

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