はてなキーワード: 雑誌モデルとは
この記事へのコメントに、人の性癖知れることこそ増田らしい!とかロリコンの人とかも見たい!て書いてあったので。
自身は32歳。既婚者。それなりに金もあるし、それなりにモテる。ロリコン。
ロリコンといいつつ、ペドフィリアとかアリスコンプレックスと言われるやつである。
https://togetter.com/li/1166414
好みど真ん中は小4〜小6。とはいえ、幼稚園児も中学生も好き。高校生以上は普通に女性と見なすので、性対象だがロリ対象ではない。
とはいえオナニーの対象とするだけで、もちろん実際に手を出したことはない。
児童ポルノにも興味はなく、今のジュニアアイドルやジュニアモデルのTwitterやインスタに上がる画像や、雑誌のニコラ/ニコプチ、知人のFacebookに上がる娘とかがオカズ。
これは成人女性でも同じで、ヌードやAVよりグラビアや女優、後輩のインスタのほうが抜ける。
きっかけはわからないのだが、むしろ小学生の頃に同級生で抜いてたのがそのまま下限が変わらずここまできたという感覚。
もちろん妻は同世代だし、年上も全然いける。18歳年上の女性といたしたこともある。
正直、低学年ならわかるんだが、小5以上の女の子がなぜみんな対象にならないかわからない。そりゃその辺歩いてる小学生ならまだしも、雑誌モデルやってメイクばっちりの子とか普通に女じゃん?
まず親がミュージシャンだった。
私立の学校へ行ったとか無いのだがなぜか中高で必ずクラスに1人芸能人がいた。
すごく有名な芸能人では無いとはいえクラスに必ず1人って何か次元が捩れてる気がする。
そしてその芸能人に決まって絡まれた。そのせいでミュージシャン・芸能人が嫌いである。
モデルはカットモデルをしているときによく遭遇した。カットモデルとサロンモデルは違うのである。
特に話したりはしなかったがツンツン&自由人ぶってて草生えた。
サロンでたむろしてた子たちの印象とは全く違くて草生えた。モデルって、敬語、喋れる生き物だったんですね。
▼アイドル
「人種差別や性差別が嫌われている時代にあって、学歴偏重主義は容認されている最後の偏見なのだ」
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/www.hayakawabooks.com/n/n2c36e7aad3a2
学歴偏重主義はまだ批判する人がいるけど、容姿偏重主義なんてもっと無批判に受け入れられてて酷いんじゃ?
劣った容姿を不利益に扱うことは批判されるけど、優れた容姿を取り立てる事には文句出ないじゃん
学歴はまだ本人の努力でなんとかなる要素があるけど、優れた容姿なんて99%が生来の遺伝と環境でしょ。
ブサイクに生まれて努力しても少しマシになるだけで、優れた域には達せない。
学歴より救いがない。
タレントとか俳優とかモデルとか、容姿の優れた人しかなれないじゃん
そりゃ大成するには努力が必要だろうけど、持って生まれた遺伝子(体型、顔の造作)が
優れてなければスタートラインにすら立てない。
一部の業界の話っていわれるかもだけど、それなら学歴も同じで肉体労働とかなら関係ない。
で、一番救いがないと思うのが、学歴偏重は経営者(雇用者)がやってることだから大衆は無責任に「よくないぞ!プンプン」と怒って批判できるけど、してるけど、
容姿偏重はテレビタレントにしろ映画俳優にしろ雑誌モデルにしろ、大衆が優れた容姿の人を望んでその結果でそういう人ばかり人気が出てるので、
大衆は怒りもしないし批判もしないから改善の見込みが全くナイってこと。
自分がテレビや雑誌で美形を見たいんだから、それが偏重だろうが差別だろうがブサイクをわざわざ金払って見たくないよね。
ふだんルッキズムに批判的なはてブですら、本人が積極的に優れた容姿を活用してる「美人すぎる○○」とか、美少女しか登用されず女優の登竜門と言われてる飲料のCMには無批判に賛美すんだもん。「優れた容姿を活用するのは戦略(キリッ」なんてしたり顔ブコメがスター集めて上位になるんだもん。
これはどうしようもないと諦めてる。
他の差別について語るとき、自分も容姿差別に加担してる自覚を常に持てと。
そう言いたい。
二期の告知がでてからアニオタ内で「あのラブライブの2期」みたいに騒がれだして、「なんかそんなんあった気するけど流行ってたの?」って思ったもんだよ。
円盤の売上とか知らねーし。一期放送時の2013年ってまだ「みんなご存じラブライブ」って感じじゃなかったような…リアタイだとたまこまーけっとのほうが話題になってた印象がある
で、まあ「それは僕たちの奇跡」がオリコントップ3とかになって驚いた。
一期でエモい青春群像劇みせてオタコミュニティ内で盛り上がりが過熱していたところに曲を投下したら見事にスマッシュヒットしたって流れが、Nizi Projectが終わってから「Make You Happy」でブームを世間に周知させたのとなんか重なる。
あのころローカルアイドルや地下アイドルのムーブメントを反映してアイドルを取り扱うドラマやアニメが散見されてたから、ラブライブもその一つとしか思ってなかった。
アイドルが飽和してどんどん奇抜な方向に流れていた時代にラブライブが流行ったのは、シンプルな成長ドラマとそのハイライトとして歌唱シーンを使用することで楽曲と物語の相互作用を図った点が見ていてわかりやすかったからだと思う。
アイドルブームも今は昔で当時勢いのあったグループが続々となくなる今、真っ当にかわいくて前向きであることを前面に出すNiziUの原点回帰的なコンセプトはなんかあのころに似ている気がする。
まあバックストーリーを売りにするのはかつてのモーニング娘。やAKB、ももクロもそうだったんだけど、「あどけない女子が一つのグループとなって活躍する」ってだけのシンプルなストーリーを1クールのテレビ番組としてパッケージングしちゃったってところで、これラブライブの感じに近いんじゃないかって思う。娘。やAKBは一筋縄じゃなかったし、ももクロの物語はあくまでメンバーの発言やファンの口コミでしか存在しなかった。
でも、そう考えると生身の人間の生き様をこんな風に消費しちゃっていいのかっていうリアリティショーへの疑問も当然感じるんだよね。
NiziUは古くはアクターズスクール、今でいえばTWICE等のK-popといった、ローティーン女子が主だった支持層になるタイプのグループだと思う。
ダンススクールや雑誌モデルに憧れる延長上にいるアイドルの系譜な。
そういった方面を意識し一時代を築いたE-girlsが2020年12月に解散。またNiziUと同じく韓国芸能事務所が協賛するオーディション番組発のIZ*ONEも今年4月で活動終了。
ファン層が被りそうなグループの終焉とデビューが重なったためにそれらのファンからの注目を集められたことがヒットを加速させたと思う。
そうはいってもNiziUは洗練されたK-popを歌い踊るのに、発展途上にある粗削りさや初々しさを売りとする極めて日本的なキャラクター像ももっている。
八頭身美女やいかついアイメイクのラッパーが一瞬の隙もないパフォーマンスやトークをするようなのがこれまで日本で話題になったK-popアイドルとすれば、それまでなかったような柔らかさをNiziUからは感じる。
その日韓エンタメのハイブリッド感が新しいし、それが日本の大衆にうけている一番の要因かもしれない。
個人的にはモーニング娘。とNiziUってそこまで被らないと思う。
今の娘。はベテランで洗練された9~11期メンバーとフォトジェニックな12期~14期、新人の15期という世代間でのカラーの違いがあって、それぞれのジェネレーションの交わりが垣間見える。
そして意外と今のハロプロには隙はない。研修生上がりとそんな連中に圧倒されない子で各グループが構成されているのでデビュー時からタレントとして完成されている。
もはやモーニング娘。は「あのポンコツがこんな立派に成長しました」というような見方をするものではない。それは道重さゆみの卒業で終わった。
つんくが癌で一線を退いたあたりから心なしかハロプロにおけるオーディションのあり方は変わった。それがいいとも悪いとも思わないが。
芸能経験に乏しい子がスターダムを駆け上がる成長ドラマの一面があるNiziUとは対照的である。インタビューでもはにかむばかりで月並みなことしか言わないNiziUの様な初々しさは娘。にはない。
NiziUがジャイアントキリングを目指す新興クラブならモーニング娘。は伝統あるスポーツ強豪校のような魅力じゃなかろうか。
毛色が違うので両者は共存する…というかハロプロ好きはかっこよさやかわいさを評価しているのではなく”ハロプロらしさ”を支持している奇特なオタク共なので、いくらNiziUが魅力的でもそうは簡単になびかないと思う。岡村靖幸のファンが久保田利伸にフリーライドしないのと同じだ、「縄跳びダンス」程度の奇天烈さで彼らは満足しない。
雑誌モデルもそれだと着映えしないでしょ
自身は32歳。既婚者。それなりに金もあるし、それなりにモテる。ただしロリコン。
ロリコンといいつつ、ペドフィリアとかアリスコンプレックスと言われるやつである。
https://togetter.com/li/1166414
好みど真ん中は小4〜小6。とはいえ、低学年も中学生も好き。高校生以上は普通に女性と見なすので、山Pがロリコンとは思わない。
とはいえオナニーの対象とするだけで、もちろん実際に手を出したことはない。
児童ポルノにも興味はなく、今のジュニアアイドルやジュニアモデルのTwitterやインスタに上がる画像や、雑誌のニコラ/ニコプチ、知人のFacebookに上がる娘とかがオカズ。
これは成人女性でも同じで、ヌードやAVよりグラビアや女優、後輩のインスタのほうが抜ける。
きっかけはわからないのだが、むしろ小学生の頃に同級生で抜いてたのがそのまま下限が変わらずここまできたという感覚。
もちろん妻は同世代だし、年上も全然いける。18歳年上の女性といたしたこともある。
正直、低学年ならわかるんだが、小5以上の女の子がなぜみんな対象にならないかわからない。そりゃその辺歩いてる小学生ならまだしも、雑誌モデルやってメイクばっちりの子とか普通に女じゃん?
一時期はまってた時期があった。
なんとなく覚えてること書いてみよう
もちろんこれが全てじゃないけど1ケースとして
数えきれないほどの人数と会ったし回数もやったけど奇跡的に性病は一度もならなかった
生では絶対にやるな
・PCMAX
可愛くておっぱい大きい人が多かった
30前後が多かった。
あとフリーターとか多かったな。最後に池袋でよく会ってた人は看護師で金が余ってるのかいろいろ買ってくれた
・掲示板
あの人は1回きりだったのになぜかよく覚えている
昔より勢いはなくなってたな。書き込み男ばっかだし。
とにかく数打ってメールするしかないが全員同じことをしているのでいかに即レスできるか/スペックがマッチするかに限られる。
ただ返ってくれば後はスッと行く。
ここで忘れられないのが、新宿で会った明らかに風呂入ってなくて全身から変な臭いがしてた人…10分だけうろうろして本当ごめんなさいして帰ってきた
ここはねえ、、本当にいろんな人がいてまとめられない。
基本は趣味友だったり恋人探しが多いから堂々とオフパコ狙ってますって人は基本スルーされる。
女がオープンなこともたまにあるけど、有名なメンヘラだったり囲いの騎士がいたりで近づくのはおすすめしない。
これやってたときは彼女いなかったし、普通に付き合う流れでやれればいっかーってやってた。
プロフと写真は清潔感が大事。あと手慣れてる感を出さない。日記はまめに書いてるとよく来てくれる子が出てくるから、こっちからDMするかほっとくと向こうから送ってくる。
ただ、自称激ぽちゃとかいう100キロ越えが本当にたくさんいる。マニア向け。
一般的デブ線はちょいぽっちゃりで留めておくと、磯山さやかレベルの子が出てくる。
写真もなにも登録してないアカウントと一回会ったらラファモ(ぽっちゃり女子の雑誌モデル)だったのはレアな体験だった
わりと後期に始めた
ヲチ用のアカウントでたまたま出会い専用タグ見つけたのが始まり
他と違ってプロフやツイートは雑であればあるほど信用されやすい
20~25くらいがメイン層。普通の人生生きてて普通に働いて、でもちょっと刺激がほしくて彼氏に内緒でやってますみたいな子が多い。なのでまあまあ可愛い。
複数の女をフォローしたりいいねしてるとすぐばれて(こんな界隈でも嫉妬やらヤリチンへの警戒はあるらしい)釣れないからやるならアカウントを複数展開したほうがいい
これを理解していない男はかなりいる
以上。
共通してるのが、自己肯定感が低い人が多いから褒めまくるのが基本の立ち回り。ニッチな需要だから競争率は普通のオフパコより緩いはず。
オフパコやめたきっかけは会うまでがピークでやってる最中にむなしくなってくる回数が多くなったのと、
9月8日にシュナムル氏がツイッターでつぶやいたラノベ表紙問題、そしてそこから派生したキズナアイ問題について。約一カ月遅れではあるがこの論陣に参戦してみたいと思う。
「きょう書店で娘が心底嫌そうな顔で「お父さん、これ気持ち悪い…」と指さした光景。
自分の属する性別の体が性的に異様に誇張されて描かれ、ひたすら性的消費の道具として扱われる気持ち悪さは想像できるし、それを子供の眼前に公然と並べる抑圧はほとんど暴力だよなと改めて思う。」
シュナムル氏は、最近のラノベの表紙を女性の体を性的に異様に誇張して描いている、と書いている。
はてな界隈では性的消費のワードが注目されているみたいであるが、私個人的にはこの前段の文章の方に違和感を覚えたという言うか、引っかかった。
ラノベ表紙に描かれているのは雑誌モデルのように実在の人間ではなく、物語上の非実在のキャラクターである。
非実在のキャラクターなのだから被害者が存在していない。だから性的消費云々の問題以前に一体これの何が問題なのだろうか、という反論がはてな界隈でも出ていた。
だがここで重要なことは、表紙絵のモデルや下地になっているのはリアル社会における現実の女性一般である。ロマサガ2に出てくる人外のサラマンダーのような完全な架空の生物でない以上は、現実社会の女性をモチーフにしているはずなのだ。
である以上は、ラノベ表紙に描かれている女性キャラクターは「女性一般を性的に消費する」ことになるのだ。
女性の人格を無視して性的な存在としてだけ消費しており、従って全ての女性に対する尊厳の侵害である、というフェミニストの主張は筋が通っている。
しかし、ここでシュナムル氏やフェミニストたち、はてな界隈が見落としている点がある。
問題のラノベ表紙に描かれている女性の絵は、確かに胸や露出を誇張してエロ要素を前面に出している。
しかしこのような格好をすることができるのは一部の女性(キャラクター)だけであろう。
何が言いたいかというと、ラノベ表紙(だけに限らず雑誌やテレビなどにも共通するが)に登場することができるのは、一定レベル以上の美人や可愛い容姿、スタイルを持った女性だけである。
シュナムル氏もこの点を分かった上で敢えて書いていないのか、それとも本当に見落としているのか定かではないが…。
「自分の属する性別の体が性的に異様に誇張されて描かれている」とシュナムル氏は書いているけど、それは間違いである。
ラノベ表紙に描かれているのは、一定レベル以上の容姿の女性キャラクターという記号としての普遍化されている「シンボル」である。※シンボルの部分を「アイドル」とも「偶像」の言葉に置き換えてもいい。
ラノベの表紙からはブスキャラクターは徹底的に排除されているわけであり、この時点でシュナムル氏の言う「女性一般の身体を性的に異様に誇張して描いている」という話は破綻している。
ブスは女のカテゴリーから排除する、という暗黙の了解が存在しているからだ。
性的消費されているのは女性一般ではなく、一定レベル以上の容姿の女性だけであり、ブス一般は別に性的消費されていない。
何度も言うが、「美人一般」が性的消費されているとしても、それはあくまで「美人一般」だけであって、決して女性一般は別に性的消費されていない。
化粧が嫌いだった.
より正確に言えば大人の女性は化粧をするものだという社会通念が嫌いだった.
第一に,化粧をしていない人間の顔をそこまで醜いとは思えない.
そうであるのにまるで化粧をしていないことをとても悪いことのように扱う風潮が嫌いだった.
思うに人間の顔というのは誰も皆適度に崩れているもので,そこには面白さがあると感じる.
大前提として人間の顔はそれほど美しいものではないように思う.
美しいものを見たいと望むなら,人間の顔を見たり人間の顔を無理やりそう作り変えたりするよりも,他のものを見た方がよほど効率的だ.
人間の脳のつくりは面白くて,人間の顔を見る(相貌認識)ときはたとえば風景な無機物を見ているときとは異なる活性化の仕方をするのだ.
話がずれた.
雑誌モデルなどについてはどうだろう.
確かに彼らは美しいような顔をしている.
彼らは化粧をしているからこそ美しいのではなく,そもそもの顔のバランスの問題だと思われる.
彼らを見て彼らのようにありたい,彼らをまねしたいというのは変な風潮だ.
彼らは芸術品だ.
相貌認識をする対象ではなく鑑賞物,たとえば絵画や壺のような存在だ.
人間の顔はどれも面白いが,万人に好かれる最大公約数的な美貌というのはあり,それは突き詰めていけばごく平凡な顔立ちになるだという話を読んだことがある.
そういうひとが一般的に美人だと認識され,掘り出されて芸能人やモデルなどになっているわけだ.
おかげで誰もみな顔がよく似ている(おかげでわたしは芸能人の名前を覚えられない).
化粧とは己の顔の特徴(それはいろんなものがあるだろうが)を消し,平均的美貌へと近づける行為であり,彼らをまねしたい,彼らのようになりたいと考えることだ.
芸術品になりたいわけでもあるまいし.
猿真似のようにみな同じ顔立ちをしているさまははっきりいって気色が悪い.
第二に,そういった風潮を納得してしまうためには,自分自身の価値観や美意識を大衆側に捻じ曲げなければならない.
それは非常に体力のいる作業だし,強い虚無感を感じる.
マットな肌や整った形の眉や,バシバシのまつ毛やチークの入った頬.
そういったものを「自分にとっても魅力的で,価値のあるものだ」と思いこまなければならない.
その上で,どうすればそういう要素の自分の顔面に再現できるかを学習し,実践しなければならない.
それは考えるだけでも憂鬱なことだが,一般的にそういうものが「良し」とされている以上,化粧文化(あるいは女性社会)に自分も「一緒にあ~そぼ」と仲間に入れてほしいと望むのなら,そんな甘えたことは言ってはいられない.
生意気は死だ.
思考停止をして,スポンジのように「良し」とされているものを吸収していかなければならぬ.
そうしていると,次第に自分にもそういった価値観が芽生えていく.
それは努力の成果であるが,一方で,自分がかつて憎んでいた存在に自分自身が成り果てているさまにひどく落胆させられる.
それが大人になるということだとしても.
第三に,特にスキンケアについて,はっきり言って胡散臭いからだ.
薬事法を逸脱してはならないがために生まれたあやふやな表現の数々.
コラーゲン,ヒアルロン酸,プラセンタ,保湿,スキンケア,基礎化粧品! ああ基礎化粧品! 大抵の基礎化粧品には,「保湿成分がある」以外の価値はない.
当たり前だ.
人体に積極的な薬効成分が含まれていればそれは医薬品になってしまう.
なので保湿はメリットがある.
ただそれだけの話.
「睡眠はきっちり摂りましょう」みたいな話だ.
たとえばひどいアトピーであったり,乾燥肌であったり,ニキビだったり,化粧をするしない以前の何らかの肌環境の破綻が起こっている場合,自助努力の効果ははたかが知れているのだ(それでもてきめんに効く場合もあるんだろうが).
そうであるのにそういった人々を「中傷してもいい」という風潮が強くある.
「化粧をしていないものには死を.
肌が荒れている? 生ぬるい.
このインターネット女性社会コスメ部門では勝者ばかりが可視化され敗者は暗がりへと追いやられる.
「わたしはこうしたら効いたのであなたもするべきだ」というのも.
思うのだが,そういった人々は,そういった「商品」を試さずとも,ひょっとしたら改善していたのではないか? あるいは「商品です」と偽って砂糖水を毎日顔に塗るだけで,全ての問題が改善したのではないか? 圧倒的な対照群の欠如.
しかたのない話だ.
肌というのは人体で最も大きな臓器だし,現在のようなつるつるの肌色の形態をとるようになってからの歴史は存外短いのだから.
分かっていないことの方が多い.
結局,何が正しいか最適解を見つけるのは現代社会では困難なのだ.
なので個々人が試行錯誤をするしかないし,それすら無駄なことも多い.
「救われぬ」状態が少なからず存在する以上,社会が求めるボーダーはもっと低くあるべき,いやボーダーなんて設定するべきではないのだ.
なのにひとに不安に付け込んで,不安をあおって,高い買い物をさせる空気がまかり通っている.
それが基礎化粧品だ.
社会悪だ.
吐き気がする.
使用前と使用後の顔写真,明らかに照明の当たり方が違うじゃないか!
そんなわけであるからずっと化粧が嫌いだったが思うにそれは世間が嫌いなくせに世間体を意識してしまう自分自身の矮小さへの憤りだった.
そうと気付いてからは世間体ではなく自分自身が価値あるもの,好きだと思うものを意識して大切にするようにした.
重要なのは自分に適度に自信を持つことで,そうすれば無理に他人に合わせたり,あるいはしゃにむに他人を否定しなくても,自己の同一性を維持することができる.
それは心の平穏に繋がった.
他人を称賛することもできる.
そうすると化粧をすることも以前ほど嫌いではなくなった.
化粧をした自分の顔は好きだ.
周回遅れでスタートして,必死に追いかけるのは,とても疲れる行為だった.
熱意はたかが知れている.
そろそろ平衡点なのかもしれないと思う.
無理をしたって仕方がないのだ.
だいたいなにか目的があるわけでもない.
わたしはわたし自身の幸せのために,背伸びをして今どきの女性のふりをするのをそろそろ諦めるべきだろう.
ファッションなどもそうだ.
化粧が嫌いだった.より正確に言えば大人の女性は化粧をするものだという社会通念が嫌いだった.理由はいろいろある.第一に,化粧をしていない人間の顔をそこまで醜いとは思えない.そうであるのにまるで化粧をしていないことをとても悪いことのように扱う風潮が嫌いだった.思うに人間の顔というのは誰も皆適度に崩れているもので,そこには面白さがあると感じる.大前提として人間の顔はそれほど美しいものではないように思う.美しいものを見たいと望むなら,人間の顔を見たり人間の顔を無理やりそう作り変えたりするよりも,他のものを見た方がよほど効率的だ.人間の脳のつくりは面白くて,人間の顔を見る(相貌認識)ときはたとえば風景な無機物を見ているときとは異なる活性化の仕方をするのだ.顔というのは社会活動に必須なアイコンだからだ.だから人間の顔は美しくはないが面白い.話がずれた.雑誌モデルなどについてはどうだろう.確かに彼らは美しいような顔をしている.彼らは化粧をしているからこそ美しいのではなく,そもそもの顔のバランスの問題だと思われる.彼らを見て彼らのようにありたい,彼らをまねしたいというのは変な風潮だ.彼らは芸術品だ.相貌認識をする対象ではなく鑑賞物,たとえば絵画や壺のような存在だ.人間の顔はどれも面白いが,万人に好かれる最大公約数的な美貌というのはあり,それは突き詰めていけばごく平凡な顔立ちになるだという話を読んだことがある.そういうひとが一般的に美人だと認識され,掘り出されて芸能人やモデルなどになっているわけだ.おかげで誰もみな顔がよく似ている(おかげでわたしは芸能人の名前を覚えられない).化粧とは己の顔の特徴(それはいろんなものがあるだろうが)を消し,平均的美貌へと近づける行為であり,彼らをまねしたい,彼らのようになりたいと考えることだ.それは相貌認識の理屈に合わないので納得できない.芸術品になりたいわけでもあるまいし.猿真似のようにみな同じ顔立ちをしているさまははっきりいって気色が悪い.第二に,そういった風潮を納得してしまうためには,自分自身の価値観や美意識を大衆側に捻じ曲げなければならない.それが面倒くさくて,とびきり惨めな気分になるから嫌なのだ.それは非常に体力のいる作業だし,強い虚無感を感じる.マットな肌や整った形の眉や,バシバシのまつ毛やチークの入った頬.そういったものを「自分にとっても魅力的で,価値のあるものだ」と思いこまなければならない.その上で,どうすればそういう要素の自分の顔面に再現できるかを学習し,実践しなければならない.それは考えるだけでも憂鬱なことだが,一般的にそういうものが「良し」とされている以上,化粧文化(あるいは女性社会)に自分も「一緒にあ~そぼ」と仲間に入れてほしいと望むのなら,そんな甘えたことは言ってはいられない.生意気は死だ.思考停止をして,スポンジのように「良し」とされているものを吸収していかなければならぬ.そうしていると,次第に自分にもそういった価値観が芽生えていく.それは努力の成果であるが,一方で,自分がかつて憎んでいた存在に自分自身が成り果てているさまにひどく落胆させられる.それが大人になるということだとしても.第三に,特にスキンケアについて,はっきり言って胡散臭いからだ.蔓延る似非科学.薬事法を逸脱してはならないがために生まれたあやふやな表現の数々.コラーゲン,ヒアルロン酸,プラセンタ,保湿,スキンケア,基礎化粧品! ああ基礎化粧品! 大抵の基礎化粧品には,「保湿成分がある」以外の価値はない.当たり前だ.人体に積極的な薬効成分が含まれていればそれは医薬品になってしまう.乾燥していることは肌には負担だ.なので保湿はメリットがある.ただそれだけの話.「睡眠はきっちり摂りましょう」みたいな話だ.たとえばひどいアトピーであったり,乾燥肌であったり,ニキビだったり,化粧をするしない以前の何らかの肌環境の破綻が起こっている場合,自助努力の効果ははたかが知れているのだ(それでもてきめんに効く場合もあるんだろうが).そうであるのにそういった人々を「中傷してもいい」という風潮が強くある.「化粧をしていないものには死を.肌が荒れている? 生ぬるい.それはあなたの努力不足だ」.このインターネット女性社会コスメ部門では勝者ばかりが可視化され敗者は暗がりへと追いやられる.とんだ生存バイアスだ.「この商品が効きました」というレビューがある.「わたしはこうしたら効いたのであなたもするべきだ」というのも.思うのだが,そういった人々は,そういった「商品」を試さずとも,ひょっとしたら改善していたのではないか? あるいは「商品です」と偽って砂糖水を毎日顔に塗るだけで,全ての問題が改善したのではないか? 圧倒的な対照群の欠如.しかたのない話だ.肌というのは人体で最も大きな臓器だし,現在のようなつるつるの肌色の形態をとるようになってからの歴史は存外短いのだから.分かっていないことの方が多い.結局,何が正しいか最適解を見つけるのは現代社会では困難なのだ.なので個々人が試行錯誤をするしかないし,それすら無駄なことも多い.「救われぬ」状態が少なからず存在する以上,社会が求めるボーダーはもっと低くあるべき,いやボーダーなんて設定するべきではないのだ.なのにひとに不安に付け込んで,不安をあおって,高い買い物をさせる空気がまかり通っている.それが基礎化粧品だ.カルト宗教じみている.社会悪だ.吐き気がする.使用前と使用後の顔写真,明らかに照明の当たり方が違うじゃないか!
そんなわけであるからずっと化粧が嫌いだったが思うにそれは世間が嫌いなくせに世間体を意識してしまう自分自身の矮小さへの憤りだった.そうと気付いてからは世間体ではなく自分自身が価値あるもの,好きだと思うものを意識して大切にするようにした.重要なのは自分に適度に自信を持つことで,そうすれば無理に他人に合わせたり,あるいはしゃにむに他人を否定しなくても,自己の同一性を維持することができる.それは心の平穏に繋がった.他人を称賛することもできる.そうすると化粧をすることも以前ほど嫌いではなくなった.化粧をした自分の顔は好きだ.スポンジのように様々な知識を収集した.こうして自分のコンプレックスは一度終わりを告げたに見えた.
けれど問題は,技術が稚拙であるということだ.周回遅れでスタートして,必死に追いかけるのは,とても疲れる行為だった.熱意はたかが知れている.そろそろ平衡点なのかもしれないと思う.無理をしたって仕方がないのだ.だいたいなにか目的があるわけでもない.わたしはわたし自身の幸せのために,背伸びをして今どきの女性のふりをするのをそろそろ諦めるべきだろう.ファッションなどもそうだ.女性社会は以前ほど嫌いではなくなったが,化粧は技術が難しいし金がかかるし手も汚れるので,やはりめんどくさいなあと思う.一周回ってこういう結論にたどりついた人間がいてもよいのだ,と思うことにしている.