はてなキーワード: 一方的とは
題名の通りだ。ネット環境という文字でのコミュニケーションが多い環境だからこそなのかもしれないが、気にしなくていいような誤用が気になってしまう。
例えば、「~しないわけにはいかない」の意味で用いる「~せざるを得ない」を「せざるおえない」「せざる負えない」「せざるえない」と表記するだとか。「または」「あるいは」等の意味で用いる「もしくは」を「もしくわ」と表記するだとか。気になる誤用を延々と……そうそう、「延々と」もそうだ。「永遠と」と表記する人をよく見かける。
話を戻して。自分でどの誤用が苦手なのか、どの誤用なら問題ないのかを考えてみたものの、共通点がてんで分からない。「せざるおえない」「もしくわ」「永遠と」「そうゆう」「~しずらい」は気になるのに、「こんにちわ」「全然大丈夫」は大丈夫だし、ら抜き言葉もそこまで気にならないのはなぜなのか。ら抜き言葉が気にならないのに縦書きの文章を左から右に読ませるものが気になってしまうのはどういった理屈なんだろう。
別にこれで自分だけが気にして少し嫌だな~ともやもやするだけなら別にいい。いや、正直なところを言えば嫌ではあるのだが、自分だけで完結するし自衛もできるだろう。気になる誤用が出てきたなろう小説はそれ以上読まなきゃいいし、気になる誤用を扱う切り抜きチャンネルは見なければいい。
だが、自分は大層厄介なことに、どうしても気になって声を上げてしまいたがる性質だ。このように。今こうしてここに書いてしまっているように。普段SNSやらで友人達と交流する時だって誤用が気になって仕方がない。もちろんそんな誰彼構わず指摘しているわけでもないし、親しくなった友人にだってなるべく言わないようにしている。言ってしまったこともあるが、苦手なものを聞かれた時に「そうゆうとかもしくわとか、そういう感じの誤用が苦手かも。使うなとは言えないけど」程度の回答に留めていたように思う。とはいえ、使うなとは言えないと言ったにもかかわらず、友人の誤用が気になり段々嫌になって自分から距離を置いてしまったこともあるから、これも最善ではないのだろう。
そんな中、先日、ついに別の友人に「その表記は誤用だよ」と指摘してしまった。「『延々と』と『永遠と』は全く意味が違うよ」と、ついに声を上げてしまった。友人は心優しく、自分のこんな狭量な発言に対して謝罪をしてくれた。気分は全く晴れない。口語表現となんとなくのノリで生きてきてしまった、言葉を扱うのが昔からずっと下手だった、と友人は続けて零していた。気分は全く晴れず、それどころか落ち込んだ。
言い方が悪かった。このことに関しては間違いはないだろう。けれど、どう言ったらよかったのだろうと考えてしまう。そもそもとして友人たちは好きなように言葉を使っただけであって、その言葉を見て自分が一方的に気になってしまっただけなのに、自分が何かを言う必要なんてないだろうに。言わないほうがよかったのかもとも思っているが、言わないなら言わないでまた自分から距離を置いておしまいだろう。見ただけで集中力が切れ、見続けるだけで段々気落ちしていくのだから、言わないままというのもきっと自分の精神衛生上よくない。
誤用が気になってしまう。誤用が気になってしまう自分に嫌悪感を抱いてしまう。言語は移り変わっていくものだと分かっているつもりでも、移り変わっていく過程で生じた誤用であり数百年後には正しい表記になっている可能性もあると理解しているつもりでも、それでも気になって気分が悪くなったり気分を悪くさせたりしてしまう自分に嫌悪感を抱いている。
昔々、とある町に「手コキ医者」という名の医者がおりました。ええ、ご心配なく、ご想像の通りなどとは程遠いです。その名前は彼の手技から来ているのですが、この名前が町中で大いに話題となり、少々風味のある行為を連想させて人々をドキッとさせていました。
ある日、町の大金持ちが訪れ、「手コキ医者、我が息子の問題を何とかしてくれ」と頼みました。大金持ちがニヤリと笑い、医者は首を傾げるものの、大金持ちの息子と会うことになりました。
その息子は見るからに引っ込み思案そうな青年で、世界を絶望で塗り固めたようなひとみで喋りました。しかし医者は自慢の手技で息子の体をコキコキと鳴らすと、その性格がみるみるうちに変わっていきました。
しばらくしてから、町に驚きの噂が広まりました。大金持ちの息子が社交界で大活躍し、取引先の可愛い娘さんと縁談まで持ち上がったと。そしてその娘さんとの縁談の席で、息子は一方的に、いかがわしい言葉を口にしたのです。「手コキで人生がかわりました。」
一方、手コキ医者の元に大金持ちが再びやってきて、「息子が娘さんと結婚することになった。すべてはお前の手コキのおかげだ。」と感謝の言葉を述べました。医者は首を傾げ、「それは嬉しいことだが、あなたのそのスリッパ、右左逆じゃないか?」と言いました。
大金持ちは驚き、見下ろすと、なんとスリッパが右左逆に履かれていました。「ああ、これは...実は、これが私の商売の秘訣なんだ。スリッパを逆に履くと、なんとなく新しい視点が見えてくるんだ。」医者は大笑いし、「それならば、次からはそれを治療法としてお勧めします!スリッパを逆に履く、これが新たな商売繁盛の秘訣だ!」
家事育児の分担について、「家事育児を頑張ると言っていた夫が結局やらなくなってしまう」という怨嗟で満ち溢れている。しかし、はっきり言わせてもらうと、女性の方が圧倒的に責任があるのである。
まず初期条件として、①労働時間は男性の方が長いことが多い、②子供の頃から家事を任されるのは男子よりも女子が多くて得意である、③家事育児の「普通」の期待水準も女性の方が一般的に高い、④出産以降に子どもとの関わる時間も女性の方が多い、ということがある。
つまり、「時間的な余裕があまりなく、家事育児の経験値が少なく、求める水準も低い」男性に対して、「時間が少しだけ余裕があり、家事育児の経験値が多く、求める水準も高い」女性の間で、「家事・育児」を平等に分担しようとしたらどうなるか。当然ながら、女性の決めた基準とやりかたに男性が従ってついていく、という形になる。
2)女性から見ると明らかに不満な水準なので、「なんで言われた通りにできないの?それでやったつもりなの?」と怒られる。
3)女性は結局自分でやったほうが早いということになり、次第に女性のワンオペ家事・育児になる。
4)男性は「勝手にやると怒られる」ので自ずと「指示待ち」になり、それを女性が見てさらに怒る。
5)男性はますます手出しをできなくなり、家事・育児から逃げるようになる。
このプロセスで悪いのは、はっきり言わせてもらうと女性の側である。家事育児については女性の方が完全に主導権を握っているからである。もし職場の上司で「使えない部下ばかりで、働いているのは俺だけだ」と怒鳴り散らす人がいたら、それは明らかに「ブラック上司」だろう。しかしこれが家事育児の話になると、ほとんど似た状況なのに、男性が一方的に悪いことになってしまう。明らかに理不尽である。
女性に求めるのは、①一度男性に任せたら口出しないこと、②家事育児の「普通」の期待水準を下げること、③外部サービスの頼ることの三つである。これができないというのであれば、それは「わがまま」としか言いようがない。
そもそも女性は家事育児に頑張りすぎているが、そんなものは超適当でいいのである。母親が不在で、今から考えてもきわめて不衛生な家と雑な育児で育った人間として強く思う。
彼女とは共通の趣味により、インターネットを通じて知り合った。
いつからかLINEで繋がって、共通の話題だったりそうじゃない話題についてもなんとなくやりとりをしている。
これはあくまで私側の見え方なので、彼女にとっては違うかもしれないけど、ここ最近特に、比較的彼女が一方的に「私通信」を送ってくることが多い気がする。
いや私も負けじと「私通信」を送るものの、彼女はそれに対して相槌と所感を1行ずつ送って、また自分の話を始める。
そもそもこちらは連絡不精だし、会って話す方が好きなので、あんなにポンポンLINEを送れるのはすごい。
そして何より、今まで送られてくる「私通信」に相槌を打ったり、それを深掘りしたり、頂いた質問に返事をすることについて、大して苦に思わなかったのに、ここ数ヶ月急に「疲れた」と思い始めた。
よくよく振り返ってみれば、ちょうどそう思い出した時期から、私は仕事が忙しくなった気がする。
どうにかして残業を減らしたいのに1日のノルマが時間内に終わらない。
「仕事ができない自分が良くない…明日は何か生産性良くしないと…」思いながら電車に乗って帰る日々。
相槌は打てても、振られた話題に対して興味を示して深掘りしてあげられない。
あと、私の「私通信」として「こんなことやらかしちゃったんだよね〜」と吐き出すと、こうやって頭をこねくり回して悩むタイプであることを「いや何言ってんの?そういうタイプじゃん」と真顔(推測)で返されるのにも、モヤモヤするようになった。
そんな自分の気持ちを見るに、今の私はもっと優しい答えがほしいんだなと気づいた。全く笑い飛ばせないんだよね。前は笑い飛ばせたのに。
彼女と話すと心が乱れることに気づいた私は適度にやりとりを間引きするようになった。
仕事が落ち着くと、間引きしていた分やり取りしても良いか!と思って返事をするけど、戻ったら戻ったで、やはり話の相手をしていられない。
やはり、毎日LINEをしていたあの頃には戻れないのだろうと思う。
学生時代からの友人であれば、お互いに上手い具合にバランスを取って話ができる。(というか、できているはず…滅多にラインなんてしないから分からないけど)
私は私で、なんて自分勝手なんだろう…と凹みつつ、私にとっては、LINEなんてたまに必要な用事を話すくらいで丁度いいモンだなと改めて気づいた。
深夜に狂気に任せて書き殴った排泄物みたいな怪文書を色んな人に読まれるのめっちゃはずいな!!!
で、その怪文書は帰宅途中にラジオでこのニュースを聞いて衝動的に書いたものなんですけど
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20230530/amp/k10014082521000.html
ニュースの内容がどうというより、ラジオから聞こえてくる当事者や支援者たちの嬉しそうな声に涙ぐみハンドルを持つ手が震えるくらい気持ちを揺さぶられ、晩ごはんも喉を通らないくらい興奮しました
彼らの気持ちが凄くわかるし、羨ましいなと思ったので
なぜその友達に拘るのかというと、彼女が私の初恋の人でずっと片思いしてるからです
そして凄く情けなくてキモいこと言いますけど、東京で彼氏作ってバイバイされるのが怖くて怖くてたまらないからです
だから絶縁なんて到底無理なんですけど、ただ金銭的な支援をするのは確かに私の一方的なエゴなのでもう止めようと思います
でも高2の頃から着衣での身体接触、一緒にお風呂に入って脱衣での身体接触、性的なニュアンスを含んだ手付きでのボディタッチや軽めのキスに対する彼女の反応を探り探りじっくりと6年かけて調べた結果、この子絶対素質ある(じゃなきゃ同居なんかしないでしょ)と確信してるのでまだ諦められないなあ
鳥の王様選び(あらすじ知らん人は文末解説読んで)というグリ厶童話を思い出してしまう。
なぜ「誰それを応援している」という借り物の御旗で調子に乗るのだろうか。
お前が虎の威を借りているものの素晴らしさとお前の間にある繋がりなんて細すぎるだろ。
無数にいるファンの一人でしかなく、パトロンやスポンサーと呼べるのかも怪しいくせに。
なんだろう。それで「俺こそがこのキャラを愛してる」とか言うの辞めてもらえますか?
お前が好きなのはお前だろ結局。
そのために利用してるだけだろ。
お前が見出した原石でもなければ、お前が磨いた宝石でもないものを、「この素晴らしさが分かるなんて自分は素晴らしい」とかよく言えたものだな、と。
好きだという権利はあるし、それを共有するのはいいことだと思う。
何かが好きというのを自分の事実として受け入れるのは大切だよ。
自分の趣向を知るのは大切だ。
でもそれで自分が何者であるのかを認識するのはやはり良くないと思うな。
子供の頃の楽しかった思い出にずっと固執してるとか、なんとなくこういう色合いが好きとか、そういったものの積み重ねの果てに推しが生まれるわけだ。
それを「これが好き」で止めるなよ。
たとえば「鉄道」が好きなのをちゃんと「自分の生活に根ざしたものでないと興味が沸かない。人間や動物は怖いから無生物が好き。揺りかごのような振動に安心する。個人が所有するのが難しい物の方が、好きなのに持っていないという矛盾を受け入れやすい」みたいな分析を深めていって、そこに自分のアイデンティティを持てよ。
雑なんだよ。
「これが好きです!全部好きです!」なんてのはさ、相手も自分も分析する気がなく理想を一方的に押し付けてるだけだろ。
そういった態度がやがて「俺の理想通りにならないはずがないんだが?」という思い込みを生んでストーカーや窃盗に繋がるんだ。
自分がなにをどう好きになるのか、どういったものが好きなのかでキャラ付けして、その結果として推しを持て。
自分の価値や自己認識を無から生み出すための手段として推しを利用するな。
それはただの痛い人だ。
鳥がある日王様を選ぶことにした。
カラスは様々な鳥から羽をパクって自分の体に貼り付けまくり、コンプリートフェザーフォームでランウェイを歩いた。
実況からは「素の自分でオタクは黒に染まれしてればワンチャン」
拾い画じゃねーか
女性誌モデルの顔なら拗らせメンヘラでも許されると思ってるのか?
てめえの嫌いなアニメアイコンとやってること変わらんだろうが
ヤリチンに踊らされて病んでる暇があったら
その高すぎる自己愛を見つめなおせ
まず息子さんイケメンじゃないんだろうなってことはわかる。イケメンだったら自然とクラスの輪の中に入れてもらえるしこんな性格にならないと思う。
容姿は生まれつきのものだからどうにもならないけど、性格は育て方に問題があったんじゃないかな。息子さんは、自尊心が傷付きすぎ、承認欲求が満たされなさ過ぎて、「自分のことを認めない奴は全員敵だ」みたいな心理状態なのかなって感じた。息子さんに兄弟はいるのかわからんけど、兄弟や近所の同級生と比較して一方的に息子さんを貶めるようなことを普段からやってない?それやっちゃうと、自尊心破壊&承認欲求モンスター誕生の最悪のコンボだよ。クラスに居場所が無くて自尊心を満たせないようだから、家の中では自尊心を保ってあげないと。このままじゃまじで将来ニートだぞ。
https://www.jiji.com/jc/article?k=2023052700385&g=int
ロシアのガルージン外務次官(旧ソ連圏担当、前駐日大使)は、ウクライナ侵攻終結のための条件として、ゼレンスキー政権が占領地を「ロシア領」と認める必要があるとの立場を表明した。ロシアはクリミア半島に加え、ウクライナ東・南部で「住民投票」を強行して占領地を一方的に「併合」しており、ガルージン氏は「民族自決権の実現の結果として生まれた新たな領土の現実が承認されなければならない」と強調した。
国営タス通信が27日、インタビューを配信した。ガルージン氏は26日、中国政府の李輝ユーラシア事務特別代表とモスクワで会談。これに合わせてメディアを通じ、ロシア政府の立場を明らかにした形だ。
当事者って誰だよ
それぞれで立場が違えば主張も異なるのに一緒くたにまとめてこいつは敵!こいつは味方!って分ける方が乱暴
タイトル通りなんだが、いい加減「私の気にくわないことをする男」をモラハラ扱いするのをやめろ。
ツイッター辺りでよく見かけるんだが、モラハラ夫の自称被害者の主張を辿ると、夫に
「○○をされた」「何度言っても聞いてくれない」「私を大事にしてない」と言い続けていて、同じような被害者と繋がっている。
ただ、明らかに「それはモラハラじゃないだろ」ってこともモラハラ扱いされてる。
例えば
「靴下を裏返さないでと言ってるのに何度言っても聞かない。私のことは聞いてくれない」。
「外出先でセクハラに逢ったことを話したら気にするなと言われた。私のことを大切にしてくれない」。
それがモラハラ?
膝詰めして話しているのか?
「今日さあ○○で○まるされて~」
「○○って✕✕だよね~」
レベルの話を聞かれなかったぐらいで「モラハラ」と言ってるんじゃないのか?
妻が夫を無視する系の漫画やネットに影響され「モラハラ夫に困ってます」と一方的に主張する女が増えすぎていないか。
まず女は「私はモラハラされている可哀想な女なんだ」って思い込みを捨てろ。
以前付き合いのあった人で、単純な言葉の裏に言ってない悪意を勝手に創作しては気分を害された、自分は大切にされていない!とこちらに謝罪を要求しまくってきた女さんがおったんやけど、これHSPやった?んやね。本人が苦しいからと言って他人に当たり散らして良いわけがないしそういう態度が人を遠ざけて負のループに入るんだよね。
切れるまで、切れたあともツイッターで一方的に悪口書かれまくったしひたすらしんどかったけど反面教師として言葉は素直に受け取るようになったよ。お世辞言うのはある程度こちらに好かれたいからだもんね。
中学ぐらいまでは苛ついたら叫んでたんだよね。
家で叫ぶと怒られるから海とかで叫んでた。
社会人になっていきなりど田舎勤務に飛ばされたときにこの癖が再発した。
上司も左遷されたダメ人間オールスターみたいな状態で本当に辛かったのもあると思う。
田舎で人の居ない場所は選び放題だったから周囲に人がいないのを確認して定期的に叫んでた。
でもある日、山の中で叫んでいるのを「最近あの辺って山犬?鹿?熊?の声が聞こえるよね」って噂になった。
それ多分、私です。
山の上で叫んだら麓に結構届くんだね。
流石にこれで自分が原因だって分かったら現代妖怪としてウォッチされてしまうと思って我慢するようになった。
代わりに枕を殴ることが増えた。
でもこれやると2ヶ月ぐらいで枕が壊れるんだよね。
ボコボコに粉砕した枕を社宅のゴミ捨て場に2ヶ月おきに捨ててたら、それが噂になった。
どうせ捨てるんだしと最後ビリビリに破いてたんだけど、それが「ナイフで滅多刺しにしてる。多分誰かの子供がストレスで不良になったんだ」って話になってた。
これは不味いな。
団地のフォークロアとして独身のままBランク怪人人妻みたいな扱いになっちゃうな。
でもね、出てくる時に職場の人に合っちゃったの。
田舎のカラオケ屋だから壁が薄いし、アニソン歌ってたの聞かれてんなって。
自分の趣味を職場に知られたくなかったのでもう二度と行かないことにした。
せっかく言ったのに流行りのJ-POPで縛るとか辛いだけだし。
ムカつく連中の悪事を書いた閻魔帳を用意するというのは結構楽しかった。
でも纏めてくとしょーもない奴らしかいないなって気づいた。
何百万もふんだくれるようなハラスメントをしてるのも見たことないし。
たとえばこれをライバルの会社に送っても相手にされないだろうな。
そんなこんなでたどり着いたのがシャドーボクシング。
相手を椅子に縛り付けている状態をイメージして顔面をひたすら殴る。
デブは柔らかそうな腹を殴る。
ただただ殴る殴る殴るたまに蹴る。
人間って人間を殴るのに向いてないんじゃねっていざ殴りまくって初めてわかった。
スポーツショップで自由に殴れるサンドバッグを数発ベシベシしたことはあったけど、何十発もワンツーしたわけじゃないから知らなかった。
あいつら体力スゲーなって今わかった。
ダンス真似してみてアイドルの体力おかしいだろって気づいた時以上にヤバさを感じる。
虚空殴りは本当にいいね。
枕殴りのときは流石に床に響かないぐらいを意識するけど、虚空殴りは足運びに気を遣えば床もきしまない。
カーテンちゃんと閉めてるの確認したらあとはひたすら全力で拳を振り回す。
非力な拳だろうけど流石に50発も打ち込めば歯の一本ぐらいはへし折れんだろとひたすらに叩き込む。
ほとんど開かなくなった目の奥から許しを請うような光が覗き込んでいるのを思うと、人間なんざ最後は暴力でボコれば終わる程度の奴らだってよく分かるね。
よく言う「筋肉を鍛えまくれば、いざとなったら殴れば良いと自信がつく」って話はこういうことなんだろう。
しびれ薬でも盛った想定でただただ殴り続けてやればいいだけなんだ。
凄い疲労感。
これが正解だったんだなあ。
でも実家にいた頃に虚空をボコボコ殴ってるの親に見つかったらキマづさがヤバかっただろうな。
一人暮らしサイキョー
うどんから蛙が話題ですが、果たしてうどんをG・Eで🐸に出来るのでしょうか?
小麦粉は既に生命ですがうどんになってしまった小麦粉はある意味で死体なわけです。
生命にG・Eを使って変化させるのは確か無理だったはず。
ブチャラティの例を考えると、死せる小麦が生命エネルギーによりゾンビ小麦となるだけで🐸にならないのではという説が有力です。
前置きはこれぐらいにし、何故G・Eが🐸化戦法を辞めたのかの話をしましょう。
序盤においては必殺とも言える戦法として成立しており、涙目のルカは完全にこれで再起不能(リタイア)しております。
相手の攻撃を半自動的に全反射するという最強の能力は一部の完全自立型スタンド以外には無敵の強さを持ちます。
極論を言えばボスが相手であっても全員が全身を🐸でコーティングしていれば攻撃を一方的に反射し初見勝利さえ出来たのです。
というか反撃を受ける本体が存在しないタイプの自立型であっても、ノトーリアスBIGのような完全無敵型以外であれば反撃によるダメージで行動不能に陥ってくれればそれだけで反撃のチャンスは無限に広がってしまいます。
そうでなくてもG・Eは無敵に近く「ジョルノが助けに来れなかったので」は他の仲間を活躍させるための重要なエクスキューズとして作中のかなり多くに広がっております。
こういった話題でよく上がるのがパープル・ヘイズですが、あちらはあくまでも「超火力が高い」であり相手とステゴロの距離まで接近する必要があります。
対して🐸は完全な能力バトル的対話拒否🙅を可能にしており、トーキング・ヘッズのような精神面への攻撃以外は全てが実質的に無効化されます。
もしも全員が常に🐸アーマーで覆っていればあらゆる名バウトが崩壊します。
ペッシの釣り針は勝手に本人に戻ってきますし、老化は🐸を通して本体に🐸の数だけ倍加された速度で襲ってきます。
🐸の仕組みによってはグリーンデイさえも高低差を超えて自動反射されてしまうかも。
なので🐸化戦法は封印されたのです。
ジョジョという作品は緻密な頭脳バトルが売りとされていますが、実際にはかなりライブ感よりな作品です。
超自然的な現象に対して人間が必死に対抗措置を取ろうとした時、それが自然と頭脳バトルの様相を呈するでしょう?
そのため理屈っぽい部分は数あれど、完全に世界がロジックで動いてるわけではない。
超自然的な現象が超自然的でありながらも何らかの法則に基づいていて動いている様子を、人間が必死に解明してそこにルールを見出しているだけなのです。
なので「凄み」で解決できるときもあるわけでして、ジョジョを緻密なロジックバトルだと勘違いしているとこの辺の理解がバグるんですよね。
私も学生の時にこの罠に一度落ちました。
でもここを勘違いしていると読み味を見落としてしまうんですよ。
だから「強すぎるから🐸は使えなくなった」をそのまま許せるぐらいの寛容さを皆にも持って欲しい。
繊細すぎるとジョジョは楽しみにくいです。
ホラー映画なので。
ホラー映画も当然、繊細すぎる人には向いてないですね。
単なる憶測にすぎないが、田舎でそれなりに立場のある親の子どもは、ガキのころに天狗になりやすい。
しかし都市部の大学に出たときに自分の実力を思い知る。今まで見えていたものは単なる幻想で、自分など大したことはなかったと。ここで非常な挫折を経験する。
「私がいちばん馬鹿」のようなポジションになってしまうとその中でもより挫折しやすい。これは都市部の私立高校でも発生する。
昨今では、地方と東京の断絶が進み、学歴差も大きくなっている。田舎しか見たことがない子どもは、東京の強大さを全く知らないのに「自分がナンバーワン。少なくともだいぶ優れている」と思っている。自分の田舎を100倍したものが日本のすべてだと感じるのだろう。だから、位置的にもそのようになるのだと感じるのは自然なことだ。「日本」と「アメリカ」の関係もあるが似たようなものだ。
こうした子どもが首都圏に行くと自分が味噌っかすであることを全身全霊・魂レベルで経験することになる。そこらへんのどこにでもいる凡愚とされる。準備などしていなかった衝撃である。年々、この落差がどんどん激しくなっているように思う。
彼らは「地元の名士」の子どもでもなかったりする。地元の名士は何かと東京と繋がっているものだからそういう情報が入ってきやすいが、彼らはそういう情報がなく、表面的な文化の部分でのみ都会を理解しているのである。これはしかし原理上どうしようもないことになっている。
彼らのほとんどは挫折によって苦しみながらも自分の立場をなんとか確保して成長していく。とくに、若いころから苦い経験を飲み込んで努力を積み重ねてきた人間は、問題を抱えつつも人格的にも能力的にも徐々に成長していく。こうした人間は適応し、確固たる居場所を獲得する。そういう人々が家臣団として東京周辺にザッと住んでいるのだ。城下町のように、家来として東京の中心地を囲んでいる。そして主君のお望みの通りに馳せ参じるのである。また、各々の人生を歩む。よく成功しようとしたい者は海外に出る。海外というのは「アメリカ・イギリス・EU」などのことだ。ここ最近は主君をアメリカとみなしているのである。長いものには巻かれろということだ。
しかし、大した努力や積み重ねもなく、今まで1番を獲得し続けてきた子や、親から1番になること、1番でなくともある程度優位な立場を得ることを強いられ続けてきた子、強制的にレール上を歩かされてきた子は、ここで強烈に挫折を味わい、脱落していく。「挫折」と表現されたくすらないかもしれない。ちっぽけなプライドゆえに「挫折」と捉えられない。「挫折した」のではなく、「今も挫折し続けている」のだ。立ち直る術を知らない。
「本気を出してないだけ」「時代が悪かった」「環境が悪かった」と、なんとかして知性化という合理化を図り、自分の心が折れていることを観測できない。もう耐えきれない。心を捻じ曲げようとする。「お前ぐらい勉強ができるものは無限にいるぞ」と受け入れられない。そのような「田舎」など、全国で見ればほとんど無限にあるのだ。足軽にもなれないような実力なのに、身分は家老ぐらいあると感じている。穢多・非人程度の扱いをされるのは、到底受け入れられない。
自分を知らないし、他人のことも知らない。ただただ軽視されることに耐えられないのである。第一、もはや身分が違うからといって人を軽んじていい世の中ではない。ますます生きにくくなる一方だ。ポリティカルコレクトネスとはそういう流れだろう。
生きている意味とは何かわからない。親もまた、その挫折を真剣に受け止められない。立場が違いすぎるがゆえに、わかってあげることができないのだ。わかってくれるような親ならば、初めから違った教育をしている。
彼らは、性格も歪んでいるために、友人関係を結べない。「バカで無能で愚図でおまけに性格も悪く、カッコよくも可愛くもなく、一人で生きる力も無いし、人のために何かすることができず、依存性が高く、他の周りの人たちよりも恵まれた環境なのに文句ばかり言う割に、他人の助言を聞き入れもしない」という、どうしようもない子どものできあがりである。何者かになろうとしていると表現されている。アイデンティティの崩壊がある。すぐそこに救いはあるのに、自らが軽んじている相手に頭を下げて敬意を払うことができない。この私が。屈辱だ。なぜ私がこんな目に。私は軽蔑などされるべき対象ではなく、人を一方的に軽蔑しても良いはずなのに、なぜ人は私を軽蔑してくるのだろうか。なぜ人は精神を蝕んでくるのか。
わかっている人でも、これを鋭く指摘してはくれない。下手に関わって逆恨みされたくはない。全く無関係の嫌な奴の精神の奥深くを抉ってもメリットなどないのだ。すぐに離れていくことだろう。そもそもあまりに距離が遠すぎて、そういう人に出会うことがない。ただ運のみである。そういう運命の人がたまたま自分の近くに来ることは少ない。理解のある彼くん、私の王子様、ぼくの女神さま、オタクに優しいギャルなど。
大抵、こうした子の親は両親とも毒親であり、子どもはアダルトチルドレンである。
そして親にそこそこの金があれば、脱落しても引きこもりをすることができる。
自分がゴミクズであることを受け入れて、セルフネグレクトに邁進する日常を選択できる。幸福だ。絶望という名前はついているが、幸福で穏やかな毎日を送ることができる。
何をやっても無駄なのだという学習性無力感と精神の麻痺。突然湧き上がってくる希死念慮。荒廃した生活。死ぬという選択が取れない優柔不断さ。他責的・他罰的な発言。努力をしようと「学問」に活路を見出すも、それをどう活かせるのかは未知数であり、どうすれば生きることができるのかはわからないのだ。学問は決して救わない。機械的人間を大量生産する教育システムそのものが時代遅れなのである。経済の硬直化と後進性と長老支配。学問の民主化により、昭和初期の三流エリートぐらいの知識があるだけでは、生存には足りないのだ。自分の力での生き方はわからないのに、生存自体はし続けることができるという矛盾。欲が無い。欲を持つことができない。
そして、そうした努力も長くは続かない。学校の勉強ぐらいしか知らないのだ。狭い価値観ゆえにそれしか道がないと勝手に思い込んでいる。やがて意味がないと気付くのであろう。容易にやめてしまう。簡単にたどり着けるところまでやったあとはすぐにやめてしまう。見下していた賤業には就きたくないという都落ちを拒否する愚かなプライド。山月記で何を学んだのだろうか。そしてある日、その「賤業」にすら就けなくなる。精神は子どもなのに、体だけはしっかり老化していく。虎にすらなれないのだ。
親に中途半端に金があるのが厄介である。親は、償おうとする。子もときには努力しようとする。それでもうまくいかないし、近所は理解しない。何か精神的に異常なのであろうという、全く異なる価値観によって蔑まれる。それが村社会というものだ。
親に金がなければ、生きていくために自力で仕事につく他ない。首都圏で揉まれ続ければ、やがては苦しみながらも自分の生きる場所を確保できるだろう。
しかし、ただ親元で小さな世界で何年も何年も閉じた生活を送っていると、そうした道も閉ざされる。貴族的な生活。放蕩、放縦。嫌悪している相手に依存しているという忌避感。
年齢の数値は淡々と増えていく。やがて手遅れそうなことに気付くのであろう。
なんなのだこの人生は。なんなのだこの世の中は。許しがたい。テロリストたちへの深い共感。
人は言う。「自分が招いたことだ」「自己責任だ」と言う。この世には悪しかいないように見える。悪辣な社会の中で自分だけが虐げられている。他人に「自己責任だ」と言う者もまたコンプレックスを抱えている。「お前が悪いのだろう」と言いたいのだ。「お前の自己責任だ」という言葉は、「俺が悪いとでも言いたいのか?」の裏返しだ。
他人は楽しんでいるではないか。どうして私が苦しまなければならないのか。
異世界かもしれない。異世界に行けば、愚かな民たちを嘲笑い、自分が正しく認められる世界に行けるのではないかと、光を見出す。
更に狩られているだけなのだ。その精神は看破しているぞ。ただの餌だ。空想の世界へようこそ。現実を直視できない。現実はどうしてこう苦しいのか。
しかし、現実は「そんなどうしようもないものではない」ということをまだ知らない、という点が彼らにとっての最大の不幸である。価値観そのものがどうしようもなく古いのである。
自分がどうしようもないダメ人間だという真実をすべて受容して、それを打ち払おうと一歩一歩踏み出すことでしか道は開かれない。外に出て、本を読むなど世界を広げれば良い。また、生活パターンを変える。思考を広げる。それが本来の学問というものだ。
人材は不足している。別に自分はそういう人物なのだから仕方がないのだ。でもそれを、自分で変えようと進み続けることで自分の人生が拓かれる。ニートのままでも別にいい。全然変わらなくてもそれはそれで仕方がない。
本来、絶望する必要はないはずなのに、どうしても絶望したいのだ。能動的に幸福になるために受動的に絶望を選択している。
絶望することで、「ハンデを負っているのにここまでできる自分はすごいのだ」と思いたいのだ。セルフ・ハンディキャッピングという。
そうではない。より強い絶望を選ぶべきなのだ。能動的に絶望を選ぶことで、受動的に幸福になれるのだ。自ら絶望しなければならない。今より苦しめば、今より苦しまなくなる。
苦しみからずっと逃れようとして「楽な苦しみ」を選び続けているだけなのだ。世間はそれを看破して「楽でいいね」と言っている。世間側のイラつきもある。
もしくは、やはり目を閉ざして、元の穏やかで苦しいメルヘンワールドに戻るかだ。知らぬが仏という。こんな偏見にまみれた文章などくそったれだ。せいぜい凡人たちは、社畜を頑張れば良いさ。
教育ママも、また、気をつけなければならない。教育ママのコンプレックスは、子どもを愛玩動物のように扱おうとすることで子どもに伝染し、子どもを生涯苦しめることになる。愛と呼ばれるものではない。
頑張ってほしい。
いわゆるガスライティングって奴。
これ本当にヤバイ。
言葉と手法を知っていれば防衛できるけど、知らない奴が多い空間で先にやられたらその人が一方的に不利になる。
お局様とか言われる連中は多分名前も知らないままに経験則でこのやり方をしまくってる。
それがどういう仕組みなのかさえ理解してないから自分がやってることの卑怯さにも無自覚。
周囲を平気で洗脳し続けて罪悪感ゼロで、いざその手法のエグさが問題視されても被害者気取って無敵モードのまま最後まで居直る。
まあそもそも普通に倫理観があったら人の悪口なんてベラベラ喋らないからその時点で紛れもなく悪党なんだけど、本人はそれぐらいイジリの範囲だと思ってるのが最悪すぎる。
乙骨じゃなくてもこれやってくる奴は結構いて、多いのが「自分が批判されるような理由を持っている人」。
たとえば病的にデブってる人とか、異常に臭い人、単純に元々の性格がウンコな人間、仕事が出来ないお荷物、生活態度に問題がある人、らへん。
こういった人達は「自分が批判を受けるようなことをしていて、実際それはある程度正論である」という事実から目を逸らすことを生存政略にしてる。
そのための手段としてよくあるのが「先手打って攻撃することで、他人から発された耳に痛い言葉を全て「反撃」ということに脳内で変換する」というもの。
これが偶然にもガスライティングの手法と一致してしまいがちなのが世の中の最悪な所。
先手打ってガンガンガスライティングしまくって、疲弊した周囲が洗脳されてくるといつの間にか「論点ズラしの反撃を食らってる可哀想な人」というポジションに居座れてしまう。
経験則でそれを学習してしまうと、そういう人は一生このスタイルを擦り続ける。
手法の邪悪さが看破されてコミュニティを追放されても、次にやってきたコミュニティで同じことを繰り返し、ガスライティング耐性の低いコミュニティを引くまで「可愛そうな私を認めてくれる場所」を探し続ける。
マジで最悪……。
日本社会の事なかれ主義でひとまず我慢して溜め込むのを是とするやり方は、ガスライティングに大して激弱だからこういうのがそこら中に溢れるんだよなあ……。
アメリカ社会だったらいわれなき批判を続けたら起訴されて即死だけど、日本はそうじゃないから異常者に舐められる。
君の職場にも居るだろ?
問1: なぜこの二人の会話は成り立っていないのか200文字以内でまとめよ(配点50点)
■反立憲反日本共産の人達は自分達が文革の紅衛兵と同じことやってる自覚ないの?
彼らのはてなTwitter togetter等のネット上の立憲叩き共産叩きってもはや論理性皆無で叩ければいいって状態でしょ
もう少し具体例を出してくれ。
その辻本や蓮舫は安倍の変な画像を作ってネットで流すどころかメディアで拡散してなかったか。
紅衛兵並というなら、辻本や蓮舫は地位も財産も奪われてメディアにも取り上げられる事はなくなり、国会議員にもなれず、支持者の家にまでリアルで生命財産の危険が及んでるってことになるんだが、そんな話は聞かないぞ。
紅衛兵というなら最低でも、集団で、周囲も手出しができない、悪質で長期にわたる攻撃って方向だったと思うけど、何が言いたいのかな?