はてなキーワード: 概観とは
『生理ちゃん』の作者である小山健氏は、女性への性加害をギャグマンガにしたり、それどころか「時効」と題して「【侵入した女子トイレ】で【使用済みの生理用ナプキン】を手に取る」過去の行為をマンガで自ら明らかにしたりしていた。
https://twitter.com/Haruka_5748/status/1198263872802541568
https://twitter.com/tachimimi_makio/status/1197920591384154112
https://togetter.com/li/1434909
女店員の月経をバッジにて明示するというこの大胆な試みには賛否両論あり、概観する限りでは「便利でいい」と支持される一方で、「セクハラ」や「変態へのご褒美」との批判が根強く多数派を占めている(特にTwitterでは)。
「生理バッジ」は、漫画作品『生理ちゃん』とのコラボ企画で、オモコロに掲載された「ツキイチ!生理ちゃん」の第19話に初登場。ネット上の各所で話題になった。
https://omocoro.jp/kiji/199147/
作中では、「生理バッジ」に否定的な人たちはあたかも保守的であるかのように描かれていて、女性が社会の中で前進するには「生理バッジ」が重要なんですと言わんばかりだ。
年配の女性を否定派、西洋人を賛成派、との描き分けをするあたりがいかにも恣意的で、作者の意図があからさまに反映されている。
しかし生理バッジは、果たして本当に「女性のため」になりうるのだろうか。
実際には、「生理バッジ」で女店員が下半身の個人情報を公共に明け渡すことで、女性の身体への社会管理や消費を強化しているにすぎないのではないか。
上半身裸になる欧米のフェミニストと同様、文脈が共有されないために、かえって女性の物象化を促しているだけなのではないか。
本当に必要なのは、バッジなどではなく、月経困難症などへの社会からの理解なのではないか?
さて。この第19話が閲覧できるウェブページには、「今回の「生理ちゃん」は株式会社大丸松坂屋百貨店への取材をもとにしたフィクションです。」との注意書きがあり、こうして、案の定大丸梅田店にて「生理バッジ」が現実のものとなったのだった。
https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20191125-00030892-forbes-soci
記事を読む限り、大丸の立場は、作中に描かれた百貨店(の女店員であるヒロイン)と同じく「生理バッジ」には肯定的で、先進的な取り組みとして前向きのようである。
保守的でなくともその過激さを指摘する声は少なくなく、男女問わず、女店員の「セクハラ」被害では、との意見が中心だ。
そしてTwitterでは女性の意見の方が目立つ。下半身の状態を晒し「変態へのご褒美」を与えてしまう苦行、との見方が大方共通している。
そんな中、「生理バッジ」の生みの親である、『生理ちゃん』の作者小山健氏の過去と過去作に注目が集まった。
(冒頭と同じURL)
https://twitter.com/Haruka_5748/status/1198263872802541568
https://twitter.com/tachimimi_makio/status/1197920591384154112
https://togetter.com/li/1434909
小山健氏は、女性への性加害をギャグマンガにしたり、それどころか「時効」と題して「【侵入した女子トイレ】で【使用済みの生理用ナプキン】を手に取る」過去の行為をマンガで自ら明らかにしたりしていたのだった。
男性の作者が月経について語っているのが気持ち悪い、との声は、極端に受け止められるだろうが、しかしその男性作者が小山健氏となると話は別だ。
気持ち悪いとの声は、今思えば、作品の背景にある欲望を直感した真っ当な感想だったと言えるだろう。
(本論からは多少逸れるが)さらにこの漫画の特徴として、女性の読者に寄り添っているという錯覚を与える技巧に秀でている点が挙げられる。
この漫画は、「ツキイチ」第19話に限らず、生理に関する物事について、とかく二元論的に語りがちである。二元論的に捉えるよう読者を誘導し、その二元論の選択肢からわかりやすい「正答」を選び出し、作者が読者と同じ価値観をもつ味方だと、読者に錯覚させる手法が頻々と用いられている。
結局のところ小山健氏は、性加害さえも戯画化する強烈なギャグ漫画家と、生理をネタに女性読者からの支持を集める「チンポ騎士団員」とのハイブリッドであると匂わせる状況証拠を、とうに出揃わせていたのだった。
「感じさせられる女」「感じさせる男」という役割は、いつ生まれたか(田中 亜以子) | 現代ビジネス | 講談社
これな。中を読めばなるほどと思わされる近現代の面白いトピックがたくさん書いてあるんだけど、それはいいんだが、総論があまりにおおげさじゃね? 「男性が女性を『感じさせる』セックスをデフォルトとする価値観の誕生は、20世紀初頭の西欧に見出すことができる」とある。マジかよ、と驚いた。
「とはいえ、女性=受動的、男性=能動的とする当時の性別観は強固に維持された。(中略)『感じさせられる女/感じさせる男』の誕生である」ともある。そこに至る論旨がよくわからないんだが、なんか「女性=受動的、男性=能動的とする性別観」イコール「感じさせられる女/感じさせる男、という性別観」であり、そんな価値観は19世紀以前の地球人類には存在しなかった、と言ってるように読める。そりゃいくらなんでもおおげさじゃねーの。
そんなに最近生まれた特殊な価値観だとしたら、「昔のセックスは男女対称だった」という例が,いくらでも挙げられるハズだ。しかしどこまで読んでも、それは、ない。ないのはどう考えてもオカシイんだが、そう指摘するブコメもない。春画では男女が対称的に絡み合ってる、という仄めかしが冒頭にあり、全体の締めに「性的快楽の平等は、女性のリプロダクティブ・ライツの保障はもとより、社会的に女性が男性と対等な存在となることなしに、ありえない。そして、そのときこそ単純な『感じさせられる/感じさせる』という性役割も消滅しているのではないだろうか」とあるが、その割に、江戸時代の町人男女は社会的に対等で性的に対称だった、のかどうか、踏み込んだ検証もない。なんでないの。ないならなんで仄めかすの。
オスがアプローチし、
諾否の決定権はメスが持つ。
オスが攻めでメスが受け。
その構図が、西暦1900年以降の西欧で発明されたものだっちゅーの? アホか。地球上の大抵の虫も鳥も、カメレオンもクジャクもラッコもカメも、そういうふうになってるじゃないか。それでも普遍的とは言えない、というなら別にそれでいいけど、数億年単位の歴史があるものを「誕生は、20世紀初頭の西欧」って、ないわー。
◉◉
精子は貧弱だが活発で無尽蔵、卵子は富栄養だが不活発で希少である。種の生存戦略としてそれが普遍的な正解だとは言わない。原初の地球の原初の海の所与の条件下で、たまたま結果としてそういうタイプが勢力を拡大した、ということなのかどうか、まあとにかく事実としてそうなった。そういうタイプの生物に於いては、オスが遺伝子を残す確率は、ほぼ、孕ませたメスの数に比例する。要するに、片っ端からヤリたがるのが正しい。
一方、メスはいくらヤッたって、一繁殖期当たり、通常一体のオスの子しか孕めない。当然、遺伝子を残す確率を高めるには、相手を厳選しなくてはならない。クソみたいなカスみたいなオスに孕まされたら一巻の終わりだ。なにせ卵子は希少なのだから。ヤリチンは英雄だがヤリマンは愚か。例外は「タマシギ」くらいしか知られていない。
ヒトの場合で言うと、オスは1年で300人を孕ませることだって(3000人だって)原理的には可能だが、メスはその間、一度しか妊娠できない。クソみたいなオスのアプローチを、時にかわし時に撥ね付け、同時に一方では懐妊のタイムリミットも気にしつつ、落としどころで妥協して決断して受諾するしかない。人気ブコメに「女が『やらせてあげる』(男が『やらせてもらう』)っていう表現や意識は絶滅してほしい」というのがあるけれど、そういう意識の根源はここにあり、絶滅はなかなかむずかしいと思う。「誕生は、20世紀初頭の西欧」って、ないわー。
◉◉
昔のブンガクの話をする。好色一代女は、「堂上家の姫君に生まれた一代女が、その道を踏み外して、快楽と苦悩とのないまぜになった売春生活の末に、次第次第に転落し、太夫から天神、私娼へと堕ちてゆく」話で、1686年刊、とWikipediaにある。
あるいは八百屋お七。これはどこまでが史実でどこが創作文学なのかわからないんだが、大火で焼け出されたうぶな少女が、避難所で遊び人にヤラれちゃって忘我の境地を知りメロメロになり、そのオトコに逃げられて想いを募らせ罪を犯すという話が、当時も、現代においても、深い同情と共感を呼ぶ。
あるいは竹取物語。男たちが求婚し、諾否の決定権は女が持つという、まさにそういう構図の話だ。
あるいは「逢ひ見ての のちの心にくらぶれば 昔はものを 思はざりけり」とか「つれなのふりや すげなのかおや あのようなひとが はたとおちる」とか、どうですか。エロいでしょう。西洋の寓話には「眠れる美少女がイケメンのキスで目覚める」というのが多く、男女逆のは聞いたことがない。あれも、そういうことじゃないんですか。
あるいはオウィディウスの「恋愛指南」(複数の和訳があるらしい。以下はネットで拾いましたすみません)。「私は[女が]自分の喜悦をついもらす声を聞くと嬉しくなる。私に待ってくれとか、こらえてくれとか、いってくれるのは嬉しい。女の愛の狂的な、もう参ったという目つきを見たいものだ。彼女をぐったりさせたい。もうさわってくれるなと拒ましめたい」「目当ての女性の膝に塵が落ちかかるようなことがあったら、指で払い取ってやらねばならぬ。たとえもし塵など全然落ちかかってこなくとも、やはりありもせぬ塵を払い取ってやりたまえ。なんでもいいから、君が彼女に尽くしてやるのに都合のいい口実を探すのだ」「接吻を奪ってからは、満願成就までなにほどのことがあろうか。ああ、なんたることぞ。そんなのは恥じらいではない、野暮というものだ。力ずくでものにしてもいい。女にはその力ずくというのがありがたいのである。女というものは、与えたがっているものを、しばしば意に添わぬ形で与えたがるものだ」紀元前の書らしいよこれ。
これらに接して素直に浮かぶ感懐は、オレの場合、ああ、エロ事情って二千年前から変わらねえんだな、というものです。お前ら様はどうですか。ちなみに怪人小谷野敦は、怪著『もてない男』の中で「近代以降と中世以前との違いばかり強調するのがいまどきの流行だが、共通点だって普通にある(大意)」と述べている。「誕生は、20世紀初頭の西欧」って、ないわー。
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まあブンガクは置いとくとして、「ほとんどの生き物が、オスが性的にアプローチし、諾否の決定権はメスが持つ」というのは、珍説でもなんでもなく、大抵の人が知っているはずの事実だ。「ほとんどの生き物で、まあ控えめに言ってもほとんどの哺乳類で、メスは交尾の間、ただじっとしている」というのも「ヤリチンは武勇伝として語られがちだが、ヤリマンは呆れられる」というのも、大抵の人が知っている。「男の性欲は視覚からでも、あるいは内なるリビドーからでも一瞬で火が点くが、女の身体は時間をかけ手順を踏んで優しい接触から始めてもらわないとなかなかスイッチ入らない」とか、「多くの男は射精の快感を自然に知るが、多くの女は上手な男に上手に開発されないとなかなか目覚めない」とかいうのも、まあ俗説かもしれないが、フェミ勢を含む多くの人が直感的に、かつ体感的に、認めているのではないか。
「若い女は可愛い」というのも、無視できない。もちろん筆者なら「それこそまさに社会が押し付けるジェンダーロール」と言うだろうが、本当にそうか。「ヒトは、小さくてすべすべでふわふわで声の高い生き物を可愛いと感じ、愛でたくなるようにチューニングされている。子育てに有利だから結果としてそういう特性が優位になった」という仮説は、そんなにおかしくないと思うんだが。写真を見るとこの筆者自身、明らかにオレより可愛い。
「オスが攻めでメスが受けなのは性器の形状から考えても当たり前」というような一見バカっぽい主張だって、「いつ生まれたか」を本気で考えるなら、当然アタマをよぎるはずのファクターだ。
なぜ、それらをすべて無視して、20世紀初頭の西欧なのか。
それは、「いつ、なぜ生まれたか」を、本気で考える気がないからだ。
この人は「それは社会的な刷り込みに過ぎない。それもごく最近の、特殊な」という結論ありきでものを言ってる。だから、その結論に都合の悪い話は無意識にスルーする。
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「ホニャララという価値観はなんら普遍的なものではない」式の主張は、確かに快刀乱麻感があって気持ちいいが、そもそも価値観というものはすべて何らかの偏りであり、したがって「普遍的ではない」のは当たり前だ。それだけでは「価値観は価値観だ」と言ってるのと変わりない。
それが意味を持つのは、ホニャララフリーな世界も意外に広い、という事実とセットの場合だけだ。例えば「チョンマゲはカッコイイという価値観」に対して、「チョンマゲを奇異に思う世界の方が圧倒的に広い」と提示することには意味がある。また例えば「食事というものは主食とおかずから成る」と思い込んでる人に、そうでもない文化圏の存在を示せば、有益な目ウロコ落としになるだろう。だが「感じさせられる女」の論考には、男女が互いに感じさせ合う文化圏も意外に広い、というような例は、ぜんぜん出てこない。
そんなら、最初っからこう言えばいいんだよ。「普遍的かどうかとか、いつ生まれたのかとか無関係に、私はその価値観が嫌いだ」と。「想像してごらん、男女が対称的なセックスを。私を夢想家だと笑うかい? But I'm not the only one. I hope someday you'll join us」と。
オレは「セックスの快感の授与と受容において、男女はもっと対称的であるべきだ」という、なんとなくジョンレノンっぽい主張を、批判する気はない。特に賛成でもないが反対でもない。そう思う人はそう主張すればいいと思う。少なくとも、悪い意見じゃない。
また、男女の性行動の非対称性に自然な根拠があるからと言って、「自然な根拠があるから肯定・維持すべきだ」とも思っていない。例えば「痴漢は男が多い」ことには、生物としてもっともな理由があると思うけれど、だからといって痴漢を擁護する気はない。いくら本能的にもっともであっても、否定されるべきことというのはある。
だからね、その主張自体は、べつにいいんだよ。ただ、その主張を強化するために、客観を装ってもっともらしい嘘を述べ、あるいは誰かのもっともらしい嘘を本気にし、それをあたかも確定した事実であるかのように無批判に引用し、自分の主張の根拠とし、都合の悪い要素はスルー、という、その姿勢がイヤだ。恥ずべきだ。
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オレの方こそ些細な点をおおげさに問題にしてるのだろうか。
例えば「そういう価値観は太古からある。ちょっと20世紀初頭の西欧から概観してみよう」とでも書いてあれば何も文句はないんだし、脳内でさらっとそう読み換えて流すのが大人のたしなみなのかも知れない。だけどさー、「いつ生まれたか」というタイトルで、いやまあタイトルなんてものはね、著者の意向と無関係に編集者が後から勝手につけたりするもんだけどね、これの場合は本文中に「本稿では、『感じさせられる女/感じさせる男』という役割が、そもそもどのようにしてつくられていったのか、その歴史的経緯を概観したい」と書いた上で、直後に「誕生は、20世紀初頭の西欧」って、はっきり書いてあるんだもんよー。長くてごめんねー。
日曜の日本×南ア戦、結果は少し残念なものとなったが、ちょっと苦し紛れっぽくポストしたプレビューで試合の見所を紹介でき、観戦の良い補助線になったというコメントもいただき、多くの人に楽しみを提供できたかもしれないと思うと嬉しかった。
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日本代表の試合となると、勝ち負けの結果が最大の観戦ポイントとなるのは避けがたいが、そうなると負け試合になった時、ただ悔しい、辛い、つまらない、みるんじゃなかった、という思いも心に湧き上がってしまう。
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増田としては、それだけではなくて、事前に何をもって戦いに臨み、実際にフィールドで何が起きているのか、というところに目を向けて、このスポーツの面白みを発見できる見方を知って欲しかった。
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また、見方において日本戦だけでなく他の試合においても思うところあり、スコットランド戦のレビューでも触れたように、「勝者の物語」はまた「敗者の物語」という側面を持っている。
日本に敗れたチームや、強豪に敗れたチームの詳細にも触れて、普段の観戦よりもう少しだけ多くの視点からの風景を共有したいと思った。
そう言った意味では、ウェールズ×ジョージア戦や、ちょっとお説教を頂いた日本×スコットランド戦のレビューも、その遂行面ではともかく、視点としてはまあまあ気に入っている。
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さあ、準々決勝の4試合だが「多分リアルタイムで観るの難しいっぽいなー」と言っていたものの、蓋を開けてみるとクアラルンプールからの帰国便は6時間余りあり、機内のモニタでも国際スポーツチャンネルがあったので、19日の2試合はリアルタイム観戦ができた。
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さらに、南ア戦の翌日は1週間の旅の疲れを癒すために休暇をとっていたので、オンデマンド放送でウェールズ×フランス戦も観戦できた。
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詳細なレビューは書ききれないが、これらの試合を概観し、準決勝の展望についても触れたいと思う。
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イングランド×オーストラリアの試合は、伝統的な重くてシンプルなフィジカルラグビーに4年で鍛え上げた強力なオープン攻撃を組み合わせたイングランドの「進化型フィジカルラグビー」と、「ストラクチャー」ではあるが地上戦のランで組み立てる今となってはクラシカルなオーストラリアの「シークエンスラグビー」の激突となった。
「シークエンス(台本)」と言いながらも、オーストラリアはその布陣においてSHのウィル・ゲニア、SOのクリスチャン・リアリーファノ、FBのカートリー・ビールと試合のタクトを振れる3人を並べ、トリプル司令塔で攻撃に冗長性と予測不能性を加えていた。
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しかし、その3人をもってしてもイングランドの強固なディフェンスの穴を見つけることができず、長時間ボールを支配したにも関わらず、その時間に見合ったスコアを獲得できなかった。
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スタッツをみることができるなら、「ボール支配率(possession)」と「ゲインメーター(meters made)」に注目してほしい。
オーストラリアは62%もポゼッションし、イングランドの2倍以上の距離をメイドした。
にもかかわらずスコアにはつながっておらず、これは多くの場合、エラーやディフェンスにあって突破ができなかったという事で、非常に効率の悪い攻めをしていたことを意味する。
このことの視点をひっくり返してタックルに注目してみると、イングランドはタックル数において86回のオーストラリアに倍する193回のタックルを見舞っていたにも関わらず、オーストラリアの13回のタックルミスに対して21回のタックルミスしかしていない。
6.6回に1回捕まえられなかったオーストラリアに対し、倍の数を試して10回に1回しかミスしていないということだ。
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効率を無視したメーター数と運動能力で圧倒するのはオーストラリアのスタイルであり、簡単に変えるのが正しいとは言い切れないが、ボールを持たずに白い壁を作り、切り返しからの一発で獲るのもまたイングランドのスタイルであり、オーストラリアは自分たちのプランに持ち込めたが、遂行の面でイングランドに問題を突きつけられた、という形になった。
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オーストラリアとイングランド、双方のHC、マイケル・チェイカとエディー・ジョーンズはコーチボックスでブチ切れる事で名高いが、フラストレーションの溜まる展開も、結果はかなり一方的なものとなり、チェイカはキレるというより憮然としてしまった。
こうしてイングランドが準々決勝に次いでまたも準決勝に一番乗りした。
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スタイルを貫いたのに壁に跳ね返される展開となった第一試合だったが、第二試合で増田はさらに息を呑むような衝撃的な光景を目の当たりにする。
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今年のテストマッチでオールブラックスを破り、直前まで獲得した世界ランキング1位を引っ提げてW杯に乗り込んだアイルランドだったが、彼らはその「1位」という数字の当てにならなさを残酷なまでに突きつけられた。
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36%しか獲得できなかった「地域獲得率(territory)」、オールブラックスと比して8割ほどの回数はボールキャリーできたのに半分ほどしかメイドできなかった「ゲインメーター(meters made)」、クリーンブレイク僅か2回、そして最終スコアの46−14は、「どんなプランを持っていたにせよ、ほとんど何もさせてもらえなかった」という事を意味する。
オールブラックスとほぼ同じ回数タックルを見舞っていたにも関わらず、2.5倍もタックルミスをしてしまい、8回ものターンオーバーを喫している。
実際見ても、あの緑の壁が地上戦でズルズルと下がっていたのは恐ろしい光景だった。
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オールブラックスはアーディー・サヴェア、ブロディ・レタリックなど強力FW陣が躍動し、コーディー・テイラー、デーン・コールズ(驚くべきことに2人ともFWだ)、ジョージ・ブリッジなどの驚異的なランナーが次々とラインを破り、アーロン・スミスやボーデン・バレッドがその閃きで違いを作り出したが、増田は個人的POMとしてSOのリッチー・モウンガを挙げたい。
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この地味な司令塔は、敵陣に侵入し、すわ驚異的なアタックが始まるぞという時でも、デフェンスラインが浅いとみるやゴロパントを蹴って22mのさらに深くからのセットプレーを相手に強い、ボールが暴れるやドリブルで蹴だしてボーデン・バレットへ脚でのパス。
黒子に徹しながらも異常な反応速度と驚異的な回転の早さで黒衣の王者を動かした。
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緑の巨体を一蹴したオールブラックスが今度は白い壁がまつ準決勝に駒を進めた。
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細かい数字の話が続いたのでスタッツからは少し離れることにしよう。
ウェールズ×フランスは、準々決勝で唯一、1点を争うクロスゲームが演じられた。
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緑の芝に赤と青のユニフォームが映える一戦は、個人の閃きで予測不能な攻撃を仕掛ける青のフランスに対し、壁を作って切り返し、直線的なランとハイパント、サインプレーからの一発を狙う赤のウェールズという展開となった。
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前半からボールを支配し、次々と不確実性を突きつけるフランスに対し、守勢に回るウェールズは、数少ない攻撃のチャンスを得ても、ダン・ビガー、ガレス・デービス、リーアム・ウィリアムズの個人技しか出来ることがない。
そもそもウェールズは3フェイズ以上の攻撃になるとすぐに手詰まりを起こしてしまい、そこから先はキックと個人技と密集戦くらいしかやることがなくなってしまうのだが、その3フェイズの切れ味で尸の山を築いてきたチームだ。
ボールをもってジャズセッションを奏でたいフランス相手に気分良い時間を提供してしまう。
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しかし、しかしだ、フランスにはなぜかW杯で顔を出す、悪い、致命的に悪いクセがある。
前回W杯で密集のどさくさに紛れてオールブラックスのリッチー・マコウに芝との挟み撃ちにするプレスパンチを繰り出し退場者をだした様に、今回もLOのセバスティアン・ヴァーマイナがモールのどさくさに紛れてウェールズの選手に肘打ちを見舞ってしまう。
掲げられた赤いカードは同じ赤のジャージを着たウェールズにとっては幸運のカード、青のフランスにとっては逮捕状に見えたことだろう。
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ここからウェールズは徐々に息を吹き返し、ついには土壇場で勝負をひっくり返した。
フランスは優位に進めていた試合を自ら壊してしまい、涙を飲むことになった。
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W杯が始まってからというもの、「あーこりゃマズいな」という状況を執念でひっくり返し、薄氷の勝利の道を踏み抜かずに歩き続けるウェールズは感嘆に値する。
毎度毎度、怪我人の穴埋めで呼び出されて司令塔になるW杯男、ダン・ビガーは、男であればこうありたいと思わせる勝負強さだし、肘打ちを食いながらもPOMに輝いたアーロン・ウェインライトは全てのパパが見習うべきで、父たるもの大男はちょっと厳しくてもヤンチャな娘の肘打ちくらいには耐えないといけない。
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土壇場に強い男たちの活躍で準決勝3番目の椅子はウェールズのものとなった。
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準決勝はニュージーランド×イングランド、ウェールズ×南アフリカという組み合わせとなった。
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ここまで圧倒的な強さを見せつけるオールブラックスだが、相手に付け入る隙を与えずねじ伏せてきたのはイングランドも変わらない。
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しかしオールブラックスが優位に試合を運ぶのではないだろうか。
重厚でクラシカルなスタイルから進化して、未来型フィジカルラグビーとでもいうべき戦法で次々と対戦相手を沈めてきたイングランドだが、その選択肢の多さが逆にオールブラックスの付け入る隙となるかもしれない。
いっそランニングを捨てて激しく前に出る高速ディフェンスによってオールブラックスのモメンタムがつく前に潰し続け、ロースコアの展開に持ち込んだほうが勝機が見えて来るのではないかとも思う。
オールブラックスとしては、いかにして前に3mのスペースがある状態でボールを持つかということになる。
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名将スティーブ・ハンセンと、勝負師エディー・ジョーンズの采配に注目だ。
また、エディーがいつコーチボックスでブチ切れるかにも注目だ。
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南アフリカとウェールズの戦いに関しては、ともにフィジカルを盾にしたディフェンスに特色のあるチームであり、小細工を弄するような対戦になると考えづらい。
双方ともペナルティゴールを積み上げた上で、試合合計でも3個以内のトライを奪い合う展開になるのではないかと思う。
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自分の自尊心を守る為に見えてるものに目を瞑る誘惑には耐えなければいけないが、それでも南アフリカが優位にゲームを進めるのではないだろうか。
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翻って必殺の一撃が世界最高クラスのフィジカル相手にも通じるのか試さないといけないウェールズだが、どうもクロスゲームには縁があり、かつて日本相手のテストマッチでも70分過ぎのドロップゴールで逃げ切った経験がある。
今回ももし75分を過ぎて手が届く点差なら何でも起き得る。
綱渡りのうまい大男達がまたも勝負の谷を超え、頂への挑戦権を得るだろうか。
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日本の挑戦は終わったが、W杯で残された4試合はいずれも興味深いものばかりだ。
みんなも是非もう少しお付き合いいただきたい。
1週間のご無沙汰、レビュー増田(ありがたく名乗ることにした)です。
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これがポストされる19日は、イングランド×オーストラリア、ニュージーランド×アイルランドという非常に興味深い対戦が行われ、レビューのしがいがあることは間違い無いのだが、実は増田はこの1週間、所用で日本におらず、帰国日がまさに19日の夜になる。
なので、これらの対戦をレビューしてポストする頃には、日本×南アという大一番に皆が集中していることになるだろう。
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そこで、今回は番外編として、前回の日本×スコットランド戦でも触れたように、増田がマレー半島を北上しながらボーッと考えた南アや日本が取りうる選択肢や展望について触れ、プレビューとしたい。
プレビューで分析すると良いのが、「双方や一方の戦略戦術が機能せず、パッと見で凡戦や圧勝劇なったとしても、そこに遂行にまつわるドラマを感じることができる」という所だ。
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このプレビューで、みんなが事前に自分なりの注目ポイントを見つけることができ、より楽しく観戦できれば最高の喜びだ。
因みに前回のレビューは羽田空港で外国人に囲まれながら試合を観戦し、翌朝クアラルンプールからポストした。
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4年前のW杯でアップセットを演じ、今回も驚異的な戦績でプールAを突破した日本だが、直前のテストマッチの結果が示すように、地力で南アには及ばないのは間違いない。
10回やって6回勝てる相手なら地力で優っているとも言えるだろうが。
NZの地元紙が予想した日本の勝率24%というのは妥当とも言えるし、むしろ好意的だとも増田は思う。
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まずもっての所、ノックアウトランドは勝ち点制でないので、すべての国が点数の大半をペナルティーゴールであげるような「堅い」展開になりやすい。
南アはフィジカルを盾にしたディフェンシブでセットプレー中心のぶつ切りラグビーを得意とする国で、そういったゲームは大好物だ。
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また、それは現在のメンバーにも現れており、司令塔、SOのハンドレ・ポラードは地元・南アのスーパーラグビーチーム、ブルズで正にそういうゲームのタクトを振っている。
ここで出てくるのが、ツーブロックなのかモヒカンなのか微妙な髪型の控えSOエルトン・ヤンチースであれば、小柄ながら強気プレーでもって鳴らすSHファフ・デクラークとの連携でボールを回すオープンな展開になるのだろうが、初期代表チームでこのコンビの結果が出なかったため、ポラードの固定となった。
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その後、南アはでかい身体ですぐキレるLOエベン・エツベスや、大会最高クラスの長身で掴み合いになると笑顔になるのが怖いLO RGスナイマン、一転してナイスガイオーラが滲み出る大男FLのピーター・ステュフ・デュトイ、怖いとかナイスガイとかもうそういう話じゃなくてプレーも身体も顔もなんかサイボーグっぽいHOマルコム・マークス、そんな中でどこか哲学者のような雰囲気を漂わせるキャプテンFLシア・コリシなどのFWが中心となった堅いラグビーを基本としながら、「ポケットロケット」WTBチェスリン・コルビや、海外中継などだと「マッピンッピ!」と独特のアクセントで名前を呼ばれる俊足WTBマカゾレ・マピンピ、直前のテストマッチで連続トライを挙げたワンダーボーイ、SHのハーシェル・ヤンチース(本日2回目のヤンチース)などを加え、身体をぶつけてよし、走ってよしの非常に攻略しづらいチームになってしまった。
因みにシア・コリシは極貧の身からラグビーでのし上がり、功なり名を遂げると、幼い頃に生き別れになった腹違いの妹を自力で探し出し、非常に煩雑な法的手続きを経て養女として迎え、共に暮らしているという。
理知的な人物として知られ、FW戦には付き物のジャッジの解釈をめぐるレフェリーとのコミニュケーションもバッチリだ。
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おそらく南アの戦略のファーストチョイスは、ここ一番の時にオールブラックスさえ封じ込めるやり方、ハイパントを上げて着地点の競り合いやキャッチ後の攻防で直線的にドカンドカンと身体を打つけ、ボールを前に落とすノックオンからのスクラムを狙ったり、ボール争奪戦で時に頭を突っ込み、時に圧力をかけて日本の規律を崩してペナルティー獲得を狙うというものになるのではないかと思う。
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マイボールスクラムになったらまた直線的に走ってスクラム脇を急襲し、身体を打つけて1コマ前に戻る。
接点の圧力に対応するため日本が人数を集めれば、さあ外のスペースに展開だ。
強力なランナーがいる。
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もっと良いことにペナルティーを獲得した場合、素直にペナルティーゴールで3点を狙うか、タッチキックで前進してトライを狙うかは考えどころだ。
タッチで前進したあとの狙いは、立っての密集、ドライビングモールとなる。
日本は今大会、スクラムになかなかの強さを見せるが、モールは止め切れていると言い難く、フィジカルに絶対の自信を持つ南アが3点で満足せず、これを狙ってくる確率は高いとみる。
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日本としてはこの展開になりたくない。
なので、アイルランド戦やスコットランド戦で見せた、「ボールをキープして攻撃で時間を使う」という戦術が考えられる。
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今回、南アは十分な休養日があり、たとえ守り通しの展開になっても、体力切れは起こしづらい。
それに、地上戦で身体をぶつけ続けると、その衝撃で消耗してしまい、日本の方が先に体力切れになってしまう可能性がある。
キープするならどのタイミングで繰り出すかが悩みどころとなる。
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さらに悪いことに、南アの多くのプレイヤーは日本の早さや多彩な攻撃、意外と侮れないフィジカルの強さなどを「感覚的に」知っている。
これは日本が代表のクローンチーム、サンウルブズでスーパーラグビーに参戦して数年来南アのチームと対戦し続けているのと、南アの多くのプレーヤーがジャパンラグビー・トップリーグでプレーしているためで、お互いに顔見知りの選手も居るくらいだ。
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そこで考えられるのが、サモア戦で日本がとった、「ボールを相手の背後に蹴って背走させ、身体接触を避けながら前進し、走力を削る」というやり方なのだが、これも蹴ってしまう事には変わりないので、相手が充分なところに蹴ると、正に相手好みの展開の呼び水となってしまう。
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今大会、日本のディフェンスはよく機能しているが、国際的な日本の評価は「恐ろしく早いテンポの多彩で素晴らしい攻撃と、脆弱な守備を併せ持つ、『よく取るけどよく取られるチーム』」というもので、増田から見てもそういうチームであって、できれば守勢には回りたくない。
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南アが唯一対応に後手を踏む可能性があるのは、ボールがあっちに行ったりこっちに行ったり、攻守の交代が目まぐるしくなる「アンストラクチャーラグビー」の展開だが、その起点がハイパントだったりすると巨人揃いの南アに空中戦で競り勝たないといけない、ということになる。
ハイパントのキャッチが「当たりの日」じゃなかったら果たしてどうやってここまで持ち込む?
アンストラクチャーのもう一つの起点は相手が持ち込んだ密集、ラックでボールを無理やり引っこ抜いたり、激しいタックルで落球を誘い、有利状況の反則流し(アドバンテージ)で相手が攻めから守りへ切り替えられないうちに走り抜けるというやり方だ。
こうなってくると姫野やリーチや大阪弁が第二外国語のトモさん(トンプソン・ルーク)に頑張ってもらうしかない。
というか、むしろソレについて考えなければいけないのはシア・コリシの方で、大体において宥めてしまうので期待薄だ。
あとデクラークも小さい身体で掴み合いには一歩も引かず、何だったら自分から掴みに行く勢いなので、危なっかしい事この上ない。
シア・コリシの胃壁の強さには感嘆するばかりだ。
あ、マルコム・マークスは大丈夫。彼は多分そういうの超越してる。
まあそれは良いや。
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日本はこれらの考えられる展開の中で、今まで挙げた戦術を切り替えて勝利の緒を探すかもしれない。
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ランキング1位だったアイルランドと5位だったスコットランドを倒したからいけるっしょ、と思いたくもなるが、このように概観した上で考えると、相性で見たところはそれら2チームより遥かに悪いのが現状ではないだろうか。
日本は相性最悪の強敵を前に、わずかな隙間に手を突っ込んで勝利へのドアをこじ開けるプランを見つけなければいけない。
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注目は最初の15分に日本がボールを持った時に蹴るか・キープするか、その後さりげなく戦術が変わっていないか、前後半で戦術に修正が入るかというプランのところと、地上の密集・ラックでどちらが優位に立つか、ファーストスクラムがどちら優位になるか、エラーや反則の数が時間と共にどう増減するかという遂行のところだと思う。
みんなはここを見てみてほしい。
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果たして試合は4年前の再現となるか、4年越しのリベンジとなるか。
増田は普段序文で書く話を今書いてしまったので、レビューで何を書こうか、ちょっと不安だ。
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あ、あと日テレの実況が酷いという意見が散見されるが、以前はラグビー界の松木安太郎にならんとして感情爆発実況をしていた元代表とか「いや、展開の複雑なラグビーでそれはちょっと」みたいなのもあったんだから、それを踏まえた上で、今回、数年来みずから映像編集してまでミニ番組をYoutubeで配信しラグビー普及に尽力してきた日テレ安村アナはなかなかいい仕事をしている思うぞ。
前のレビューをみんな読んでくれて、ラグビーの見所が伝わったというのが嬉しいので、注目の対戦カードが立て続けに3試合行われた21日の試合も続けてレビューすることにする。
義務感は感じてないけど、さすがにいい試合すぎて、これはちょっと書きたくなったので。
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21日は面白い試合が目白押しで、全く違う個性がぶつかったオーストラリア×フィジー、似た者どおしのシーソーゲームとなったフランス×アルゼンチンも良かったのだけど、この日最注目のカードということと、増田本人が普段から南半球のラグビーを追っており、選手の個性もとりたい戦術も理解してるということで、ニュージランド・オールブラックスと南アフリカ・スプリングボクスの試合としたい。
南アフリカというと4年前、日本がアップセットを演出したので、ライバルとみなす向きもあるけど、実力でいったら日本は話にならないくらい負けている。
で絶対王者のオールブラックスはいうと、圧倒的に強い彼らが肝心なところで負ける時、相手はフランスか、このスプリングボクスであり、因縁でいうとこちらの方が深い。
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ゲームが始まる前に、オールブラックスは伝統のウォークライ、ハカのパフォーマンスをしたのだが、その演目は「カパオ・パンガ」であったのにちょっと驚いた。
通常、予選では、もう一つのバージョンである「カマテ」が演じられることが多いのだが、大勝負の時しか出ない「カパオ・パンガ」であったのはオールブラックスも相当な気合いが入っていたのだろう。
ちなみに、ハカは通常、リードとよばれる独唱からはじまり、これだけはマオリの血を引くメンバーでないといけない。
今回のリードはTJペレナラ。第二スクラムハーフ。最近は彼が多い。
世界最高とも言われる第一スクラムハーフのアーロン・スミスも資格があり、彼がリードだったこともあるが、国際試合の旅先で女性をトイレに連れ込み、セクシーな行為に及んだのがオールブラックスっぽくないと懲罰を受け、代表から外れていた時期があり、その時からペレナラがリードになった。
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さて試合の方だが、伝統的にこのカードはロースコアになることが多く、その理由はスプリングボクスのとる戦術にある。
彼らはボールを持つと、非常に単調な攻めを繰り返し、パワーをテコに相手の苦し紛れのペナルティを狙ったり、キックを蹴って落下地点でど迫力のタックルをかまして、ポロリから→リスタートのスクラムでパワーで押しつぶして前進を狙う。
大事なのはディフェンスで、キックでボールを渡すので、絶対突破されてはならず、それさえ可能ならロースコアにコントロールできる。
オールブラックスの華麗なパス回しと走力は世界一だが、それを止めうるのが「単純なガタイのデカさ」「常識はずれのパワー」「きれない集中力」「決してサボらない真面目さ」そして「異常なくらいの単純さ」というのが面白い。
実際この試合でもスタートはスプリングボクスが狙い通りコントロールしていた。
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ただ、計算違いが生じたのは前半20分ほど。
予想外を演出したのはオールブラックス10番、リッチー・モウンガ。
彼は前W杯から3年ほど、本日15番に入ったボーデン・バレット、怪我で今大会出場できなかったダミアン・マッケンジーの陰に隠れて、司令塔としては「第三の男」扱いされていたが、今年になって地元NZのチームでの活躍で頭角を現し、オールブラックスの10番を射止めていた。
オールブラックスは、このどちらかと言うと手堅さと抜け目なさを信条とする地味なモウンガと天才的な閃きのある派手なバレットの2人を併用し、実質W司令塔を形成していた。
モウンガについては、栄光のオールブラックスの司令塔という、ラグビー界において文句ない立場にいるのだが、「天才」だの「イケメン」だの「最注目選手」だのともてはやされるバレットと比べて、彼自身のプレースタイルのせいかルックスのせいか、立場に見合った注目をされてると言い難く、なんかちょっと悲哀を感じさせるものがある。
彼が自陣で平行に蹴ったキックパスをきっかけに、オールブラックスは一気にトライを陥れる。
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その後も、モウンガかバレット、どちらかが密集に巻き込まれて機能停止しても、もう一方がゲームを組み立てるので止まらない、という攻めにスプリングボクスは対応できない。
前半で計2トライを献上。
この時間帯はあまり長くなく、2トライを与えてしまった一瞬以外はディフェンスもよく機能し、前半のほとんどの時間がむしろスプリングボクスのロースコア狙い戦術の通りに進んでいた、でも結果として一瞬の破綻で点差は開いてしまった。
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後半はトライがないとプランが遂行できないスプリングボクスだが、驚くべきことに彼らはあまり戦術を変えず、なんとオールブラックスの一瞬の油断から逆にトライをもぎ取ってしまった。
ここら辺は、自分たちのやることを信じて崩れなければ、幸運が一定確率でやってくると言うことかもしれない。
さらに後半20分、SOポラードが虚をついてドロップゴールを狙うと、これが入り、当初の予定通り、「トライはいらない、キックで刻むぜ」戦術を現実的に見える線まで引き戻した。
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しかし、その後、お互いがあまり大きなミスをしないまま時間は経過し、いくつかの幸運の中でオールブラックスが獲得したペナルティーキックを、地味な男モウンガが確実にきめ、スプリングボクスの勝機はじわじわと離れていった。
スプリングボクスとしては長時間ゲームをコントロールし、自分たち好みのゲームを演出したにも関わらず、前半に一瞬の隙で奪われた2トライで試合を失うという結果になってしまった。
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ゲームの概観としては、オールブラックスもスプリングボクスも非常に出来が良く、プールに彼らを脅かす敵がいないことから、双方決勝トーナメントに進む可能性は高いと見る。
そうなると、1ヶ月後に彼らは再び相まみえるかもしれない。
なかなか楽しみではある。
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ブコメで質問があり、増田的にも非常に印象的だったので、フランス×アルゼンチンにおけるドロップゴールについて解説を試みたいと思う。
多分だけど、チームとしての戦術ではなく、個人のとっさの判断だと思う。
ドロップゴールは陣形やゲームスピードから、出そうなタイミングがわかるものだが、あの時「これは蹴るぞ」というタイミングでは全くなかった。
ゲーム全体の流れを思い出してほしいんだけど、あのゲームは前半、フランスが圧倒的に優位に進めていたものを、後半、アルゼンチンがゲームを辛抱強く戻して、ペナルティーキックで刻んで追い上げていた。
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特徴的なのはキックとモールで、前半、双方まったくキックを蹴らず、ムキになって走り合っていた結果、フランスがゲームを支配していたのが、後半アルゼンチンはキックを蹴ったり、モールで押すようになり、長時間の走りあいにこだわらなくなった。
その結果、ゲームが落ちついてアルゼンチンは刻みながら追い上げ、ついには逆転した。
この時点で、計画的にアルゼンチンがゲームのコントロールを自分たちのものにしていた。
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フランスにとっての後半は、前半とうって変わってコントロールできない上にじわじわ追い上げられてしまいに逆転されるという非常に嫌なムードに飲まれそうになっていた時間だった。
そこにリザーブで入ってきた奴がまったく空気に合わせずにシレッとドロップゴールを決めて流れをブった切ってしまった。
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俯瞰で見てる奴がゲームをまるっきり変えてしまうのは、どことなく会社などで中途採用のよそ者がガラッと慣習をやぶって風穴をあけるのを連想させる。
あれはラグビーのフィジカルな面でなく、「我慢のスポーツ」「コントロールのスポーツ」としてのメンタルな面をよく表していたと思う。
ラグビーでは、戦術やフィジカルといった見えるものと、もっと上位にあって見えづらい「客観性」「空気」「メンタル」みたいなものが勝負を大きく左右するケースがあるので、そこにも注目してみると、味わい深くなると思う。
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あ、あとついでに、オールブラックスの選手、リーコ・イオアネのNZから日本に向かう様子を本人が投稿した動画のリンクを貼っとくわ。
彼は「恩人が日本人なので日本語の名前を息子につけたい」と希望した両親に危うく「リエコ」と名づけられそうになったが、「それ女の子の名前やで」と訂正され、「リーコ」になった経緯がある。でも綴りはRiekoやんけ。
そんな人たちもやってくるW杯、みなさん楽しんでほしい。
今回の発端これじゃねえの?
https://twitter.com/solt__P/status/1145718110478934016
それともこっち?
http://trpg.hatenablog.com/entry/2019/02/22/190000
誰が暴れたのか分からんけど、
概観するかぎり「最大勢力」は「お試しなら許容」派じゃないの。
というか「お試しならいいけど本格的にやりはじめるなら買ってね」と
「1度でもお試しで遊んだら買わないと許さない」だと似たこと言っててもだいぶ印象が変わるし
ましてや「体験会すら許さん買え」はまったく話が違ってくると思うけど。
印象操作?
「動物心理学」は動物の学習、知覚、認知、生理機構といった諸形質の放散と収斂の原理と過程の解明を目指す心理学の一領域である。
心理学全体の中ではマイナーではあるが、国内の研究者の集まりである「動物心理学会」は、実は数少ない戦前から続く (1933年発足) 学会であったりもする (ただし、悲しいことに、動物心理学が学べる大学は減り続けている)。
だが、動物心理学を学びたいと思った学生が、何から手を取ればいいのか、あまり紹介の記事が世に出回ってない気がした。そこで、独断と偏見で、オススメの書籍を挙げてみた。番号はオススメ順とかではなく、特に意味はない。気になったものを読めば良いと思う。
(1) 動物たちは何を考えている? -動物心理学の挑戦- (技術評論社)
日本の動物心理学の主だった研究者たちが、動物心理学の代表的な研究について平易に語った本
(2) パピーニの比較心理学―行動の進化と発達 (北大路書房)
マウリシオ・R. パピーニ (著)
日本語で鈍器のような大きさでまとまっているのはこれくらいか?
(3) 鳥能力―小さな頭に秘められた驚異の能力 (化学同人)
渡辺 茂 (著)
筆致が軽やかで、ベッドの上で寝転がりながら読んでも十分に理解できる。書名通り鳥限定であるが、名著である。
(4) ハトがわかればヒトもわかる―比較認知科学への招待― (共立出版)
渡辺 茂 (著),
動物行動学の創始者のローレンツがいかに動物と向き合い、その行動を観察していたのかを記したエッセイ
ローレンツの論文は難解で読みづらいことで有名だが、一般向けの著書は対照的に驚くほどとっつきやすい
(6) タコの心身問題――頭足類から考える意識の起源 (みすず書房)
哲学者である著者がダイビングでタコ・イカと接することを通じて彼らの生き方
タコとて侮るなかれ。動物心理学を志す者が覚えていてほしい動物との向き合い方がぎっしり詰まった一冊である。
(7) 動物心理学史―ダーウィンから行動主義まで (誠信書房)
R. ボークス (著)
動物心理学が、いかなる過程で独立した分野として成立したのかを述べた本
ダーウィン (著)
言わずと知れた、ダーウィンの古典である。いつ読んでも何かしら発見があるもので、それが古典が古典である所以なのだ。
余談だが、動物行動学の論文でダーウィンが扱った問題を再び取り上げるときは “Charles Darwin once said…” という殺し文句で始めることがある。
「脳」の起源と、その発生、さらには脊椎動物の脳のデザインがいかに生じたのかを、ホヤから霊長類研究者まで多彩な研究者が論じた本
図や動画が手に入るURLのQRコードがついてくる嬉しいおまけつき
(10) 感覚器の進化―原始動物からヒトへ水中から陸上 (ブルーバックス新書)
岩堀 修明 (著)
眼はいかにして出来上がったのか?感覚器 (視覚、聴覚、触覚、嗅覚、味覚) が現生の形になった進化の道筋を解説した本
ユクスキュル (著), クリサート (著)
比較生理学の祖、ヤーコプ・フォン・ユクスキュルが豊かな想像力で動物の生理学的機序からその「環世界」について語った本
名著中の名著である
ヤーコプ・V・ユクスキュル
同著者が、生物の生きる、その固有な世界像について、当時の解剖学的知見と合わせてより詳しく解説した本
(13) あなたのなかのサル―霊長類学者が明かす「人間らしさ」の起源 (早川書房)
フランス・ドゥ・ヴァール (著)
ドゥ・ヴァールはかなり擬人主義的な研究者で、研究者によって評価が真っ二つに分かれる。動物心理学も一枚岩ではない。氏の著作に同意するかどうかは、自分をどのような立脚点に置きたいのかをはっきりさせる意味でも一度は目を通すと良いだろう。
スティーヴン ミズン (著)
人間の心はいかに生まれたか?スティーヴン・ミズンは「元は個別の用途に進化させた認知機能が、文脈を問わず適用できるようになった」認知的流動性により、高度に柔軟な我々の心が生じたと考える
内容は既にやや古いが、独創的な論考の面白さは色褪せない
佐藤 方哉 (著)
行動主義心理学のエッセンスが詰まった本。絶版なので図書館で探そう。
「行動主義」的なものの見方は、認知研究では棄却すべき対立仮説として扱われることが多い。しかし、実際にはその対立仮説は多くの場合単なる誤解であり、藁人形を叩いているに過ぎない。
箱田 裕司 , 都築 誉史 他
比較認知科学は、動物心理学の中でも、動物の認知機能を種間で比較し、その種差や共通性を描出する分野である。比較認知科学の実験では概念や手続きが認知心理学のものを援用することが多い
従って、認知心理学についてよく知るのが重要なのは至極当然なのだ
池内 昌彦 (監修, 翻訳), 伊藤 元己 (監修, 翻訳), 箸本 春樹 (監修, 翻訳), 道上 達男 (監修, 翻訳)
今日、科学の分野間の壁はますます小さくなり、生物学と動物心理学をことさらに区別する必要性も薄くなりつつある。
とはいえ、原書版は鈍器のように重たいので、エッセンシャル版の方が挫折しないと思われる。
泰羅 雅登 (監修, 翻訳), 中村 克樹 (監修, 翻訳)
同様の理由で、自身が神経科学を取り入れるか別に、神経科学についてもどこかで通っておいた方が良いかと思われる。
そもそも、「動物心理学に固有」な方法論というのは現代にはなく、近隣領域と連続的なつながりを持って成立しているのだ。
心理学の成り立ちに関して、コンパクトかつしっかりまとまった本
歴史を学ぶと、どこかで役に立つ。物理学者エルヴィン・シュレディンガーの言葉を引いておこう。
歴史は, あらゆる学問の中で最も基本的なものである。なぜなら、人間の持つ知識には、その成立条件や解決してきた問題や, 果たすべき機能が忘れ去られた場合, その学問的意義を失わないものは存在しないからである。
横澤 一彦 (著)
視覚に興味があるなら、読んでおいて損はない。
(21) メイザー学習と行動 (二瓶社)
ジェームズ・E. メイザー (著), James E. Mazur (原著), 磯 博行 (翻訳), 坂上 貴之 (翻訳), 川合 伸幸 (翻訳)
学習完全に理解したマンになりたい人が必ず読む本。学習完全に理解したマンになりたいなら読もう。
次に読む本としては『オペラント心理学入門―行動分析への道』も良い本である。
(22) 古典的条件づけの理論―パヴロフから連合学習研究の最先端まで
入門レベルでは「犬とベルと唾液」くらいにしか教わらない古典的条件づけが、いかに奥深く、理論的な探求に富んだ領域なのかが概観できる。例えるなら魔術書である。
(23) 感じる脳 情動と感情の脳科学 よみがえるスピノザ (ダイヤモンド社)
これも動物の研究者の本ではないが、ダマシオは身体性を重視する立場の認知神経科学の方向を作った一人だ。
ダマシオは多作で、『デカルトの誤り』『自己が心にやってくる』など、他の著書も面白い。
リチャード・ドーキンス (著)
進化学流布の急先鋒、ドーキンスの一般向け書籍。同氏がスリリングな筆致で進化について語る。
『利己的な遺伝子』の方が有名だが、オシャレさでは『盲目の時計職人』の方が上だ。
V・S・ラマチャンドラン (著), サンドラ・ブレイクスリー (著)
これの動物の研究者ではなく、ヒトの神経科学者の本であるが、大変面白い逸話がたくさん載っているので挙げた。
続編に『脳の中の幽霊再び』『脳の中の天使』も出ていて、どれも楽しく読める
鳥にも我々と同じように目・耳が二つ、舌が一つ、皮膚には触覚受容器が備わっている。しかし、世界の見え方はまるで違うことがわかっている。彼らの感覚世界について、鳥類学者が一般向けに語った本
鳥の代表的な認知研究について、各項目2p程度でまとまった入門書。どんな研究が、どのような方法で行われているのか、ざっと知るにはぴったりである。
ちょっと邦題が間抜けな感じがするが、原題は "Bird Brain: An Exploration of Avian Intelligence” である。
生物という視点から「心」がどのように形成されたのかを解説した本
まとめ方が独特だが、面白いことには間違いない
岡ノ谷 一夫 (著)
動物のコミュニケーションはヒトの「人間らしさ」について何を語るか?
元が高校生向けの連続講義であったらしく、大学生なら誰でも読める。
おまけ
リチャード P. ファインマン
ネットで男女問題に興味のある人は、男性差別を訴える人と、女性差別を訴える人の噛み合わなさを目にしたことがあるだろう。
たとえば「女性差別を訴えると、男性もこれくらい差別されているという反論が来るが、それに対してじゃあ両方の差別をなくす運動をしていきましょうと言うと、なんだか話が続かなくなる」みたいな状況だ。
どうやら陣営間、男女間に意識の差があるようだが、なぜああいうことになるのか。
それについて書く。
結論から言うと、男性と女性で、居心地よく感じる道徳度が違う傾向があるのが噛み合わない原因だ。
男性は、周囲から多少迷惑を受ける代わりに自分の迷惑も大目に見られるくらいの、やや低い道徳度の居心地がいいが、
女性は、自分を厳しく律する代わりに、他人からも迷惑を受けない高い道徳度の方が居心地よく感じやすい。
だから男性は、男性差別を訴えることを通じて、「自分たちもこれくらい差別抑圧を受けているが、これをなくそうとしたらコストと規律が莫大になるので俺もお前もやりたくないだろう。なので今後も受け入れていくから、女性もこれくらいの抑圧は受け入れた方がいい」と社会全体の道徳度をやや低めに設定することを目指している。
一方女性は、女性差別を訴えることで本当にそれをなくしたいし、その一環として男性差別がなくなることも歓迎する、道徳度を高めにすることを目指している。
その、目標とする道徳度がズレていることをお互い理解していないから噛み合わないのだ。
男性差別を訴える人は、男から男へのセクハラはあまり指摘しない。
これは単に女叩きがしたいからだと思われがちだが、実はそうではない。
男性差別を訴える人は、本当はセクハラ的なやりとりを一切なくしたいわけではなく、むしろある程度ならすることもされることも許される環境にしたい。
男から男へのセクハラはホモソーシャルな交流として好ましいし残ってほしいので、指摘は活発にならない。
一方女から男へセクハラがされていることはよく指摘しているのだが、本音では、これもそんなになくしたいと思っていない。
女から男へのセクハラだってこんなにひどいんだぞと語られる時、そこには暗に、(でもそれを全部なくせって言われたら息苦しくて困るだろう? 大目に見てほしいだろう? だから他の様々なセクハラもお互い大目に見ることにしよう)というメッセージがあるのだ。
書店にBL本が堂々と並んでいる、男性アイドルのセクシーな姿が色んなメディアに出ている、男も性的消費されている、男向けエロを規制するなら女向けエロもがっつり規制しろそうしたがらないからダブスタだ、などの指摘をする時、そこに含まれている真のメッセージは(でも本当に全部規制やゾーニングしたら人生つまらんだろう? こっちもそんなこと望んでない。だからお互いうるさいことを言うまい)なのだ。
だがそれを言われた女性側は、(息苦しくて困るだろう?)という遠回しなメッセージを受け取っていない。
むしろ男→女も女→男も清浄化された方が居心地がいいというのを当然の前提としているので、男性が男性差別を訴えながら差別を解決する気がなさそうなことが不条理にばかり感じられる。
逆に男性の方は、女性が清浄化された環境を想像してもそれほど窮屈に感じないとわかっていないので、通じない隠しメッセージを、通じているつもりでいつまでも送り続ける。
男性差別を訴える人も、女性差別を訴える人も、よほどタチのわるい差別主義者でなければ、男女平等は良いことだという大義名分は共通している。
だが、低めの道徳度での平等が心地いいのか、高めの道徳度での平等が心地いいのかが違うし、そこがズレているというのをあまり認識していない。
このズレを頭に置くと、色々な論争のこじれ方が腑に落ちるはずだ。
こう書いていくと「男は寛容と言いたいのか? 気に食わないことがあると不機嫌をあらわにしたり怒鳴る男は結構いるのに」と思う人もいるだろうが、別に男性が寛容なわけではない。
男性が好む低い道徳度ではある程度の迷惑は受け入れあうといっても、黙って微笑み受け入れるというより、場合に応じて個人レベルで衝突することが想定されている。
その頻発する、毎度結果が違う衝突や力比べも含めて道徳度低めということだ。
低い道徳度では対立相手へ直接的に力を振るいあうことが基本で、高い道徳度では社会全体のルールや不文律や権力者の力を使うことが基本になる。
オタク議論/喧嘩で言えば、男性ジャンルの揉め事は炎上リンチや荒らしといった無法の荒野みたいな雰囲気になりやすいが、女性ジャンルの揉め事は学級会などの規律を求めた管理社会的になりやすいようなものだ。
この喧嘩における雰囲気の差も、それぞれの馴染む道徳度が違っていることから生まれているのだと考える。
男女ともに、目指す道徳度の世界はだいたい想像で描いて、それがいいとか悪いとか判断している。
道徳低めの社会を希望しながらも実現したら「こんな不安で怖いと思ってなかった」という人、道徳高めが実現したら「こんな窮屈でディストピアみたいだと思ってなかった」という人、どちらもかなり現れそうな気がする。
なのでこのエントリは、実現した時に生きやすい社会の違いというより、想像した時に好ましいと思う社会の違い、と読んだ方がいい。
また、もちろんこんなのは大まかな傾向に過ぎない。
男性差別を強く問題視する女性も、女性差別を強く問題視する男性も、いるだろう。
本気でセクハラやホモソ的なやりとりを撲滅したくてそれらを非難していると男性も、いるだろう。
ラフなコミュニケーションの方が好きで、あまり世間が道徳的でお行儀良くなると嫌だという女性も、いるだろう。
このエントリで書いたことは、男は腕力も気遣いも力加減が下手な代わりにタフで鈍感、女は細かなコントロールが得意だが傷つきやすく繊細、という典型の言い換えみたいなものである。
日本社会は表向き実力主義、成果主義を掲げつつ、未だ学歴主義体質が根強いと言われている(渡辺,2006)。そのような社会の中で、大学進学者の割合が初めて5割を超え(文部科学省,2009)、数十年前と比較して高学歴化が進んでいる。全入時代までは至らないが、志望大学に拘らなければ受験生の9割超が大学に進学できる時代となった。今後は大卒の肩書きのみでなく、大学の知名度や質を重視する傾向が強まり、受験競争はさらに激化するとも考えられる。ここで問題となるのが、受験という競争に伴う敗者と勝者の存在である。彼らが過剰な挫折感や劣等感、あるいは優越感に囚われた場合、学歴コンプレックスとして諸々の心理的、社会的な問題を引き起こす。しかし現状は、定義自体が曖昧であるため、研究者独自の概念や言葉で当問題が扱われている。そこで、今回は心理学分野での学歴コンプレックスに関する研究に注目し、考察と今後の展望を述べることとする。
学歴コンプレックスとは、不満足の原因を自己あるいは他者の学歴に関連づけることで感じる、劣等感や自尊心のこと(鷲田,1995)であり、学歴に対して劣等感を抱く場合と学歴への誇大な自尊心を抱く場合の2層に分けられる。両層に共通する主な特徴は、以下の3点に集約される。第1に、自己の実力不足や失敗を過度に学歴に帰属すること、第2に、自己だけでなく他者をも学歴で評価すること、そして最後に、学歴ばかりに囚われ学業という本来の目的を見失いかねないことである。これらの根底には、学歴が高いほど将来は報われると考える「学歴社会意識」(安藤,2007)や有名大学の進学のみに価値を見出す「学校歴主義」(野田,1996)といった学歴志向の存在が窺える。層別に見ると、劣等感層では上述の志向に加え、入試時に第1志望に落ちて仕方なく所属大学に入った「不本意入学」(伊藤、1995)がコンプレックスの主要因となっている。そして、不本意感から多浪や仮面浪人、退学を繰り返す再受験症候群や、国公立大の進学者を優遇する国公立大学至上主義下での私大進学者なども本層に含まれる。一方、誇大な自尊心層では、学歴社会の勝者であるがゆえに、学歴に比例して自己を過大評価する傾向がある。その裏には人柄や実力よりも学歴イメージが先行する、レッテルとしての学歴の影響が見られる。その他、学歴に見合った社会的待遇でないと受け入れられない学歴保証の希求や、就職時に多い高学歴者の挫折体験等の問題も挙げられている。これらの学歴コンプレックスに伴い、失敗感、挫折感からくる無気力や自尊心低下、不本意感に由来する不適応や抑うつ状態といった心理的問題に加え、充実感や生き甲斐の欠如、自我同一性拡散の深化など、生き方そのものに関わる問題の存在も示唆されている。また、学歴志向や進学観が親子間で継承される(吉川,2005)ように、親子間でのコンプレックスの継承や家庭内の学歴格差によるコンプレックスなど、個人のみでなく世代間に学歴問題が発展する可能性もある。
先行研究は、学歴コンプレックスを多側面から検討し、日本独自の学歴観や学歴の持つ意味、学歴が認知や思考に及ぼす影響について言及した点で、学歴問題の諸相と今後の研究可能性を提示した意義を有する。今後の展望としては、同じ状況下で不適応に陥る人とそうでない人との相違や学歴にまつわる不適応への対処法など、臨床実践に向けた研究を進めていく必要がある。
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鷲田小弥太 (2005).コンプレックスに勝つ人、負ける人PHP研究所渡辺山.
年に1本面白そうな鉄道ネタがあれば行くくらいのライト層だけど、友人が薦めてくれた、「東北新幹線」に今ははまっている。
最高速度が320km/hで、たしかにスピード狂の自分好みに思えて毎週見ていた。
しかし、なんでこうちょいちょい座席課金要素があるのか、正直意味がわからない。
しまいには、完全に豪華列車まがいなサービスが出てくる有様。(これがまた「ここまで新幹線で頑張っちゃいました」みたいな感じでさらに不快)
こんなのわざわざする必要があるのだろうか。
東北でローカル線に乗ろうとした時に、変な電車が出てきて、なんとそれが茶色い普通電車の改造車。
そしてこういった列車は東北各地に走っているというカオスっぷり。
ここで先に進むのをやめた。
この東日本エリアに限った話ではないけれど、なんでわざわざ一部の利用者にこだわるのだろうか。
SNSや5chとかを見てみると、ブロジョワホイホイがあるからこそみたいな意見が非常にたくさんあるけれど、怒られるの承知でいってみると、食べ物が美味しいだのイスが快適だの正直こんなんだから、鉄オタは嫌いだの言われるんじゃないかなーと思ったりもするわけ。
家も大学も東京のJR線沿線にあるけど、電車のテレビにそういった電車の紹介シーンが流れて、乗客は何も言わないものの、本当に勘弁してくれと思った。
かといって客層も少ない区間でコソコソ流すなんて余計にださいし、都会に住む鉄道の好きな裕福な人達は一体どんな風にこれを見ているのだろうか。
そんなにブルジョワホイホイが必要なら、上下分離でも導入して別会社に運営させておけばいいだけだと思うのだが。
公共交通に課金なんて全くいらないと思う俺は少数派なのだろうか。
SNSや5chの住人みたいに食事が美味しいだのイスが快適だの喜んでるの?
追記)
これが例えばスポーツカーや歓楽街のバーとか富裕層相手しか相手がいないようなコンテンツだったらこんなこと書いてない。そんなものは論外だし、子供や若者を持ち込むなで終わってる。
現実は知らないけど、公共交通の体裁であれば、そういった課金要素はいくらでも省くことはできたんじゃないかとも思えてしまうのよ。
もちろんそれはないと成立しないところはもう仕方ないにしても、あからさまに狙った課金要素だったり、必要のないところでいちいち突拍子もないホイホイ要素を入れてくるこの風潮に疑問を感じている。
そして、そういう突拍子もないホイホイ要素を入れてくる鉄道路線がとにかく多すぎるんじゃないかと思うのよね。
これはこないだ大阪に行って感じた、観測範囲が非常に狭いものではあるけれど、そんなのばかりで、コメントではやはり5chと同じく「座席が快適」だの「ブヒブヒ」だの。
久しぶりに電車で旅行して非常に不快になったし、鉄道が大金持ちの娯楽施設にしかなっていないことがどうにも残念で仕方ない気持ちになったんだ。俺は貧しくはない方だけど、本当にこいつら気持ち悪いと思えてしまうのよ。
それだけの需要があるから運行業者側はやってることだとは思うんだけど、お前らがそれに乗っかって最高に気持ち悪い反応するからそういう風潮になったんだとストレス発散のためにここに書いてしまったということもある。
まず、以下の記事を見てほしい。
https://togetter.com/li/1058347
タイトルは「男性にとって恋愛や結婚は、危険で割に合わない。でも、女と社会は、男性叩きだけ。こりゃ草食は続くしかない」。
面白いのは、【反男性差別を掲げ、恐らくはフェミニズムなど「今の女尊男卑社会」の悪しき慣習として唾棄するであろう彼の主張が、
その実、フェミニズムと非常に親和性の高いものである】ことだ。
当記事ではこの問題について、具体的な引用を交えながら考えてみることとしたい。
なお、このまとめで述べられている意見が、dsa0【男性差別が溢れてる2】 @dsa0自身のものなのか、あるいは別記事からの引用なのか、判断が付かなかった。
このまとめ自体はツイートを集めたものだが、ツイートの内容はどこかからの引用にも見えたからだ。
しかし、当記事では、これを統一して<彼>の意見と呼ばせてもらう。
便宜上の意味もあるが、これらの言葉が彼自身のものであるにしろ違うにしろ、今の社会で苦しむどこかの<彼>の主張ではあるのだろう、と考えたからだ。
では、内容に入りたい。
男のチキン化
命かけることができないわけ。
恐らくどこかの記事(元記事はURL失効のため参照不可)から引用したものであろうこの文言に対して、<彼>は以下のようにコメントしている。
恋愛離れ語るのに、【恋愛離れの原因になってる男性差別的な価値観】で考察してるアホ多すぎ。←これじゃ、恋愛離れなくなるわけないわ
<彼>は、「チキン化」した男性を「ホモみたいな男」と非難する価値観を、「男性差別的な価値観」と呼んでいる。
しかし、【「男はかくあるべき」という規範は、元来家父長的な価値観によって生み出されてきたものである】ことを忘れてはいないだろうか。
「女らしくあるべき」という束縛を破壊することは、「男らしくあるべき」という押し付けをも打ち砕くことである。
彼がまとめの中で嘆いている、男性の経済的負担に関しても、同じことが言える。
<彼>は、「男性の立場で言うとね 「女様様」の今の女尊男卑社会では、おっかなくて結婚なんてできない」と述べながら、結婚についてこう語っている。
・女に甲斐性ない
続けて、<彼>は女性にこう求める。
「お金のことは何とかなるよ」とか「一緒にがんばろうよ」とか言えば
男も少しは気が楽になるだろうに
<彼>の視点に、極端な部分や、視野の狭い部分があるのは事実である。被害妄想的な傾向も。女性が聞いて腹を立てても仕方がない内容だ。
しかし、「男も少しは気が楽になるだろうに」というぼやきは、<彼>の「負担や義務」の体感からくる切実なものではあるのだろう。
それは、耳を傾けられてよいように思う。
ただ、ひとつ言っておかなければならないことがある。
それは、<彼>の求める新たな男女関係の構築が、<彼>の今しているような【女性への非難】によっては到底実現されにくい、ということだ。
非難すべきは誰なのか?戦うべきは誰なのか?
このことを考えるにあたり、例によって、<彼>の言葉を参照したい。
<彼>はここで、「老害バカマッチョ」が己に「家畜奴隷になれ!」と命じる、と述べている。
彼に「奴隷」になることを強いているのは、「老害バカマッチョ」なのである。
とは、何か。
「マッチョ」のもつ意味については、この記事(http://y-uki.hatenablog.com/entry/2015/07/16/034652)がわかりやすい。
英語で ”macho な男性” と呼ばれるのは、昔ながらの ”男らしい” 価値観を重視する人たちで、
これが、フェミニズムの戦ってきた最大の敵であることは、特筆するまでもないことだろう。
「老害バカマッチョ」を、【旧態的な男尊女卑】として言い換えることが出来るならば、<彼>も、女性も、等しくその被害者である。
<彼>が、「おまえも結婚して、家畜奴隷になれ!」という台詞を、「老害バカマッチョ」に言わせたのは、的を射ている。
【家族を養うために男は外で働き、女は内で家事労働に励む、という仕組み】は、高度経済成長期に完成したという。
(ちなみに、この記述を私が見たのは平田厚『虐待と親子の文学史』(論創社)である。時代に伴う家族形態の変化と、その文学への反映を概観した良著。)
この仕組みは、既存の男性優位な価値観の延長線上にあったうえ、その価値観を強化するものであった。
<彼>は女性に対して、「「お金のことは何とかなるよ」とか「一緒にがんばろうよ」とか言」ってくれることを、求めていた。
「お金のこと」を「一緒にがんば」るためには、女性にも安定した収入源のあることが不可欠だ。
しかし、それを難しくしているのが、先に述べた構造である。【家族を養うために男は外で働き、女は内で家事労働に励む、という仕組み】だ。
この仕組みの後遺症は、未だに消えていない。男女間の賃金格差、管理職の割合の格差を見れば、それは事実として明らかだ。
その打開を目指すのが、男女平等思想であり、フェミニズムであった。
【<彼>の目指す「男性差別」の解消は、「女性差別」の解消によってしか実現され得ない】と言える。
また、【真の敵は、「老害バカマッチョ」、すなわち、旧態的な男尊女卑的価値観と構造】である、とも。
<彼>は反男性差別を掲げ、女性を非難している。しかし、抵抗すべき対象は他にある、と言いたい。
女性は、またフェミニストは、本来<彼>の同志なのだ。手を取り合って、ともに戦うべき仲間なのである。
インターネット上では、熾烈な男女対立の激化とともに、「フェミ」を巡る議論が後を絶たない。
匿名はてなを小一時間も見ていれば、その議論が実のところ非生産的な憎悪のぶつけ合いに陥りがちなことは、すぐ了解されるだろう。
今回取り上げたまとめも、一見、そういった動きのひとつ、単なる憎悪の噴出に見える。
Twitter右左界隈でも、ちょっとサイコパス感漂う青識亜論さんについて調べてみた
https://twitter.com/dokuninjin_blue
https://togetter.com/li/986696
対局風景1
https://togetter.com/li/1147988
対局風景2
https://togetter.com/li/1154255
なんとなくこの辺を読むと根幹が悪意で構成されている風味があるなと感じた
原文:
https://bg.battletech.com/universe/battlemech-technology/
バトルメックが装備できる武装は幅広い。メック搭載の核融合炉から事実上いつまででもエネルギーの供給を受けることができるエネルギー兵器は弾薬の補充を必要としない。このため一般的なバトルメックは、荷電粒子兵器もしくはレーザー兵器を主武装として搭載している。加えて、多くは短距離ミサイルや長距離ミサイルの発射システムを持っている。その他、連射型オートキャノンやマシンガンを搭載しているメックも多く、これらは対歩兵、対航空機、対メック戦闘に用いられる。兵器の各分類に関する概観は下記のとおりである。
オートキャノンは高速で連射が可能な自動装填兵器であり、高性能炸薬を詰めた徹甲弾の奔流を吐き出す。「通常型」オートキャノンは徹甲弾、フレシェット弾、焼夷弾、狙撃弾などの各種弾薬を使用可能である。加えて、機能を追加した3種の改良型オートキャノン(LB-Xオートキャノン、ロータリー・オートキャノン、ウルトラオートキャノン)が存在する。オートキャノンの弾薬は、致命的な損傷を受けたりオーバーヒートによる自動発火が発生した際にメックの内部で誘爆を起こす可能性がある。
メック搭載型の典型的な火炎放射器は、核融合炉の発する熱を利用して短射程ながら強力な爆炎を作り出す。発熱が大きいわりに与えるダメージが小さいため、メックに搭載されることはまれであるが、焼夷兵器として有効な場合もある。
ガウスウライフルはライフル砲身の中に設置された磁石の列によって、標的に向けて弾体を加速する。動作に必要な電力は莫大だが、発熱が非常に少ない上、発射時の弾速は他の通常兵器の二倍に達する。ヘビーガウスライフル、通常型ガウスライフル、軽量型ガウスライフルの3種がある。オートキャノンとは異なりガウスライフルの弾薬は誘爆しないが、ガウスライフル自体はダメージを受けると爆発する。
中心領域製バトルメックの中には、装甲を切断するための劣化ウランの刃を備えたハチェット(手斧)を装備している機種がある。ハチェットはメックに固定され、標的にダメージを与えるにはターゲットに振り下ろさねばならない。ハチェットの変形としてソード(剣)がある。
レーザーは狭い範囲に莫大な熱量を集中することで標的にダメージを与える。バトルメック搭載の各種レーザーは射程と威力に対応してマイクロレーザー、小型レーザー、中型レーザー、大型レーザーのいずれかに分類される。このほか、射程延長型レーザー、ヘビーレーザー、パルスレーザーがある。レーザーはダメージを受けても爆発することがなく弾薬も不要だが、大量の熱を発する。
バトルメックが装備することはまれだが、マシンガン(機関銃/機関砲)は高速で連射することが可能なので、素晴らしい対人兵器となる。マシンガンにはライトマシンガンとヘビーマシンガンがある。
ミサイルランチャー(ミサイル発射装置)は推進力と誘導装置を持つ弾体を発射し、標的にダメージを与える。非常に多くの種類があり、長距離ミサイルに始まって中距離ミサイル、短距離ミサイル、さらにはクランの改良型戦術ミサイルシステムや〈ストリーク〉短距離ミサイルなどの各種改良型ミサイルまで様々である。その上、「通常型」長距離ミサイルランチャーであっても無数の派生型弾頭を使用できる。たとえばフレア型、分裂型、焼夷型、半誘導型、それに〈サンダー〉地雷散布ミサイルなどである。オートキャノン同様、ミサイルランチャーの弾薬はダメージを受けたりメックが過剰に加熱すると誘爆を起こす可能性がある。
PPCは要するに磁気加速装置であり、高エネルギーの陽子もしくはイオンの矢を撃ち出して衝撃と高熱によるダメージを与える。各種PPCはバトルメックが装備可能な兵器のうちでは最強クラスだ。PPCには通常型PPCと射程延長型PPCが存在する。
装甲と兵器に加えて、メックは広範な各種システムを装備可能である。多くは武器の正確性を向上させる電子的システムや各種防御手段を提供するものだが、各種の防御的機能を持つ純粋に機械的なシステムもいくつか存在する。
動力を切ったユニットや偽装されたユニットであっても標準レベルの電子戦装備一式より遠距離から探知・識別することができるため、アクティブ・プローブはあらゆる偵察部隊にとって有効な追加装備となる。
アンチ・ミサイル・システム(AMS)は連射可能な定点防御用マシンガンである。飛来するミサイルを追跡し、迎撃し、破壊することができる。きわめて効果的ではあるものの、大量の弾薬を消費するのが最大の弱点である。
対人攻撃ポッド(Aポッド)は要するに指向性地雷である。設置するのはバトルメック脚部の膝から下であり、そこは敵歩兵が繊細な駆動装置に爆発物を仕掛けようとする場合には必ず攻撃せねばならない部位である。
〈アルテミスⅣ〉射撃管制システムは、通常型ミサイルランチャーによる射撃の正確さを向上させる。
指揮/統制/通信(Command/Control/Communications、すなわちC3)コンピューターは中心領域特有のシステムである。複数の機体ーー最大12機ーーが照準データを共有することを可能とし、これによって射撃の精確さは大幅に向上する。このシステムには重大な欠点があり、それは「主要マスターコンピューター群」が破壊もしくはダメージを受けたり、敵の電子的対抗手段の干渉をうけたりすることで、ネットワークの構成部品が「消えて」しまう可能性があることである。改良型のC3コンピューターでは「マスターコンピューター群」が失われることによるネットワークの消失という問題はなくなっているが、合計6ユニットまでしか接続できない。
CASEは機体内部の弾薬誘爆による被害を軽減するダメージコントロール技術である。CASEによって防護された部位に格納された弾薬が誘爆した場合、CASEは特殊設計の外鈑と装甲を通じて爆圧を逃がす作りになっているため、爆発力のほとんどをコクピットやエンジンなどバトルメックにとって致命的な部分から逸らすことができる。
〈ガーディアン〉ECMスイートは広い帯域にわたってジャミングおよび電子的対抗措置を行なう装置であり、敵の長距離探査・監視装置の効力を低下させる。
MASCはバトルメックに短時間だけ爆発的なスピードを与えるが、繊細な脚部駆動装置を損なう危険もある。MASCの作用は脚部マイアマー(人工筋肉)への信号を増幅し、通常可能なよりも高速で収縮・弛緩を行なわせるというもので、これによってスピードは上がるが、使用時間が伸びると駆動装置と人工筋肉への負荷によって破滅的な事故が発生する可能性がある。
〈ナーク〉ミサイル・ビーコンは大改造を施したミサイルランチャーであり、「ポッド」と呼ばれる特殊なミサイルを発射する。ポッドは磁気を帯びた弾頭とその後ろに搭載される強力なホーミング・ビーコンで構成される。このミサイルは標的に命中すると、〈ナーク〉の信号を受信できる味方のミサイルシステムすべてに向けて追尾信号を発する。〈アルテミスⅣ〉ミサイルシステムと同様に、〈ナーク〉のポッドによって命中するミサイルの数が増える可能性がある。改良型の〈ナーク〉発射装置は通常型よりも射程が増大しているのみならず、以下の特殊なミサイルを発射することもできる。すなわち追尾型、爆裂弾頭型、ECM型、〈ヘイワイヤ〉および〈ネメシス〉ミサイルである。
照準確定装備は観測機によって用いられ、〈アローⅣ〉ミサイル投射システムが発射するホーミング・ミサイルのため、もしくは長距離ミサイルランチャーが発射する半誘導タイプのLRMによる攻撃のために、標的を指定する。氏族もTAGの軽量化バージョンを用いており、これは軽量ではあるがより短射程である。
氏族は様々なミサイル兵器用の特殊照準システムに加えて先進的な照準システムを開発しており、中心領域でこれに比肩するものが現れたのは最近のことである。照準コンピューターは以下の種類の直射兵器のパフォーマンスを向上させる。すなわちレーザー、PPC、ガウスライフル、オートキャノンである。
中心領域の科学者は特殊なタイプのマイアマー(人口筋肉)を開発した。これはメックがオーバーヒートした時に極めて強い力を出す。この技術は氏族のバトルメックでは使用できない。
タイトルの通りです。
就学前のお子さんがいる世帯で、一番気になるのは認可保育所(地域型や認定こども園等も含む)への入所が従来とどう変わるかだった。
しかし、自治体と施設を運営している法人(個人も含め)には大きな変化が2点あった。
②施設への委託費ではなく、児童(の保護者)単位での給付費の代理受領となったこと
①については、26年以前は入所選考と言っていたものが、支給認定と利用調整の2つに分かれた。
旧制度では、児童福祉法により、保育園は様々な理由で保育所を使う必要がある人に、自治体が「措置」として、保育所に入所させるという形だった。
新制度では、子ども子育て支援法により、幼稚園も含めて、保護者(支給認定保護者)がどれくらい教育・保育を受ける必要があるのか「支給認定」を自治体に申請して、支給認定証を受け取り、各保育所へ申し込み、施設と「契約」する形になった。
しかし、実際には待機児童と呼ばれる保育所に入る必要があるが、入れない児童がいる。
その場合には、自治体は「利用調整」を行える法律になっている。
つまり、従来は「措置」で自治体が選考基準を決めて、振り分ければよかったものが、全員が入れる前提の制度になったため、「支給認定」のみになったはずが、実際には入れない児童が生まれる現状があるので、「利用調整」を行う必要があるという制度である。
大して変わっていないと思うかもしれないが、「支給認定」は幼稚園を使うだけの子どもにも行う必要がある。
また、「支給認定」は法律上の基準等があるが、「利用調整」には法律上の基準がなく、自治体ごとで設定する。
このことにより、「措置」時代から使用していた自治体ごとの基準(現在の「利用調整)と、「支給認定」の基準にズレが生じた。
これが結構難題で、本来であれば、「支給認定」を基に「利用調整」を行うはずなのに、旧制度時代に作ったトリッキーな基準を無くすこともできないため、自治体職員が混乱する事態になっている。
いままでは、入所児童数から換算して、自治体から施設運営法人へ概算払いを行い、実際の月別の児童数等を確認(途中入所や退所は自治体でわかる)して、清算する方法が一般的だった。
新制度では、入所している児童ごとに給付を行い、それを施設が代理受領している方式になった。
(この方式自体は、介護保険制度で行われており、健康保険制度でも一部行われている。)
しかし、そもそも保育所等を運営している法人は、事務職員が少ないため、新制度になって、毎月の給付費の請求事務が発生したため、事務量が増大した。
子ども子育て支援新制度は、介護保険と異なり、介護報酬にあたる「公定価格」の改定等だけでなく、職員への処遇改善など、様々な給付・補助が多く、また改定されまくるため、毎年、自治体も施設も職員が混乱している。
上記の2点から、今後の子ども子育て支援新制度(いつまで新制度っていうのか謎)は、制度設計の基になったと言われる介護保険制度のようになっていくと思われる。
運営数が多ければ多いほど、②の事務負担を集約化、軽減できる。
今まで以上に、法人間のM&Aが行われていくと思われる。
①については、法人が大型化すると、園の運営が効率化を超えて、硬直化したりするので、しょうがい児保育や医療的ケアの必要な児童にとっては、難しい時代になるのかもしれない。
介護保険制度では、各サービスごとの給付だが、保育所では、通常の給付費+αのα部分が少ないため、運営法人としてほ旨みがない。寧ろ医療リスクや事故リスクを考えると避けたいのが本音と思われる。
さてはて、これで認可外施設にも保育料無償化を推進したら、どうなることやら…
介護保険に置き換えたら、給付対象外の有料老人ホームに入った人が払う、毎月の施設利用料(家賃)を無料にするということ?
どうやって管理するんだ、これ。
そもそも、大企業は企業内保育所も含めて、認可外保育施設の保育料も無償化という話が出始めてから、積極的に認可外保育施設を設置し始めています。
(企業主導型保育所は、平成30年度時点では、施設種別では認可外保育所です。)
認可外保育所は、認可制度の範囲外ですが、逆に言えば自由度が高いとも言えます。
もし、この傾向が顕著になってくると、現在認可外保育所を運営している法人は、認可保育所だけでなく、大企業が運営する認可外保育所との競争にもさらされます。
認可保育所は、ある意味、国の庇護の下ですが、認可外保育所は自由競争です。
認可外保育所の動向についても、今後気になるところです。
取り留めもなくてすいません。
メンデルの遺伝学の訳語として使われてきた「優性」「劣性」は、遺伝子の特徴の現れやすさを示すにすぎないが、優れている、劣っているという語感があり、誤解されやすい。「劣性遺伝病」と診断された人はマイナスイメージを抱き、不安になりがちだ。日本人類遺伝学会とも協議して見直しを進め、「優性」は「顕性」、「劣性」は「潜性」と言い換える。
これは、まだ分かる。だが、こっちがいただけない。
他にも、「バリエーション」の訳語の一つだった「変異」は「多様性」に。遺伝情報の多様性が一人一人違う特徴となるという基本的な考え方が伝わるようにする。色の見え方は人によって多様だという認識から「色覚異常」や「色盲」は「色覚多様性」とした。
これ variation という用語を、日本でだけ diversity に変えちゃうよ、って話なのか? じゃあ「突然変異」を「突然多様性」って言い換えるの? 「突然多様性」って、なんか日本語としておかしくね? それから、色覚「異常」や色「盲」を「多様性」とする、という話なのか? 「現象」を意味する語を「性質」に置き換える?? そう読めちゃうけど、コレ違うんじゃないか。
色覚の「様々なあり方 variation」の全体、つまり、俗に正常とされる色覚や異常とされる色覚、あるいは色が認知できないという人間の知覚のあり方全体を総括する概念として新たに、「色の見え方の多様性 Color vision diversity」という概念を置くよ、という話だと思うんだが(というか、海外のサイトだとこの語が普通に使われてるっぽいので、単にそれに合わせただけじゃないかと思うが)。個々の症状は、その概念のワンノブゼムになるってことだろ。遺伝なんて別に全然専門じゃないが、素直に読んだら意味不明な情報を構成し直せばそういうことではないかと想像するよ。
これは、かつて個別にネーミングされていた自閉的な様々な症状を「自閉症スペクトラム」として概観したのと同じように、「色覚多様性」という認知の下で様々な症状の関連や位置づけを捉え直そうということになったって話なんじゃないか。概念の枠組み自体が変わったよという話であって、用語を変えようという上の話とは全然別のレベルで理解しないと、なんで置き換えられないはずの言葉が置き換わるって話になるのか理解できない。もしこの想像が当たってるんだとすると、これ訂正記事出した方がいいくらいの「誤報」じゃないかねえと思うんだが。
どうもこの記者(だけでなく許可した上司、ひいては記事を載せた朝日新聞社自体が、か)「○○」という用語は使っていい、ポリティカルにコレクトかどうか、みたいな底の浅い理解だけで記事を書き、伝えるべきことの本質が理解出来ていないと思われる。こんな時代だからこそ、大手と呼ばれるメディアは、速報性に主眼を置く発想ではなく、質の高い信頼できる情報の報道に力を入れてもらいたい。これだけネットの発達した時代なんだから、中間媒体として、そんなレベルの「情報」でいつまでも対価が取れると思ってるとじきに大変なことになると思うんだけどね。
結婚したのを機に田舎に引っ越して、ときどき父親の農業を手伝ってる。その手伝いの仕事があまりにイライラさせられるので、ある時なんでだろうと分析してみた。これが巷で見るダメな上司のアンチパターンにマッチしていて、興味深かったので残しておく。
朝、トウモロコシにネットかけるから手伝ってー、と言われて網やら棒やらを持たされ、畑に着くと開口一番「じゃそこに棒立てて」。何のために(鳥害・獣害を防ぐため)何をするのか(網をカサつきの棒で支え、下も隙間なく地面に留める)の共有がないので、アバウトな指示で何をしたらいいのか判断できない。
指示がみんな「そっち引っ張って。そっちやない、こっちや、こっち」というありさま。こっちって東のこと? 東側を下に引っ張ったらいいんやね? といちいち確認する必要がある。
最後に検分していて「あーダメダメ、こんなんじゃ(獣が)入ってしまうがな」。分かるわけないやん、と口答えすると「考えたら分かるやろ、そんなん常識や」。どういう価値基準や美意識で判断してるかを知らされず、仕事が終わってからダメとだけ伝えられるのでやる気がなくなる。
◆ ◆ ◆
こんな上司いるわけないだろー、と本やネットを見てて笑っていたが、いた! と可笑しかった。しかし実際父親は悪くなくて、これらのことを伝えたらみるみる改善していきつつある。ただ他人と作業する機会がこれまであまりなかっただけらしい。みんなも気をつけよう!
私の攻略法や採用した戦略、戦術、感想やその他ゲームについての雑感などを交えてだらだらと語っていこうと思う。
ちなみに6月2日にインストールして、20日に終局特異点をクリアしたので、正確には19日間ということになる。
長くなりそうなのでふわっとした結論だけ先に言うと、FGOはいいゲームであり、無課金でも十分やっていけるので
まだやっていない人はストーリーを楽しむためにやってみのもいいんじゃないかな。その際私の攻略法も、少しは参考になるかもしれないよ、だ。
以上が結論で、以下が長文となる。
まず私について少し語ると、ゲーマーというものに該当すると思う。いわゆるゲームはファミリーコンピュータから、
ネトゲ歴は97年のDIABLOからだから、もう20年か。これまで色々なゲームを楽しんできた。
Fateについては、オリジナルのstay nightは遊んだが、それ以外のアニメや続編などは一切ノータッチ。
ソシャゲはあまりやらず、PCや据え置き機がメインだ。ソシャゲなどの課金すると有利になるルールのゲームでは、
これまでは常に無課金で遊んでいる。理由はゲームにお金を使いたくないということではなく(例えば最近はPS4PROSSD換装済で
ダクソ3のDLCを、ラグの少ない光回線とPSPLUSを準備し闘技場で金になるまでは遊んだ)、課金すると有利になるゲームを
完全無課金でどこまでできるのか試してみる、というのが私にとって非常に楽しいゲームだからだ。もし今後、課金した方が
トータルで楽しめると感じるソシャゲが出たら、課金することだろう。
課金をしたほうがゲームを楽しめるという人も多くいるだろうし、楽しみ方は人それぞれなので、
各人自分の楽しさを最大化させる遊び方をすればよいだろう。
というわけで、FGOも課金した方が有利になるゲームなので、当然私は無課金で遊んだ。
また、課金しない以外にも自分がゲームをより楽しむために、以下の縛りを付けて遊んだ。
・ネットなどの攻略情報を見ることの禁止(※公式サイト及び素材のドロップ場所だけは調べてよい)
これらの理由について説明すると、まず攻略情報については、自分で攻略法を調べたり考えたりするのが楽しみ
なので、公式以外の情報は一切遮断するのが基本姿勢だ。しかし途中でキャラを強化するのに必要なアイテムを
集める必要が出てきて、その入手場所を自分でしらみつぶしに探すというのは不毛すぎる作業なので、その情報だけは検索して調べた。
フレンドの登録禁止については、本来なら私は一人でそのゲームの世界観に浸るプレイを好むので、他プレイヤーの存在を感じる
要素は極力排除したい。(MMOでもチャット禁止、他人とパーティーを組むの禁止というルールでのソロプレイを基本としている。
ゲームによっては普通にギルドに入る場合もあるが、ケースによる)
そのためFGOにおいても、序盤の間はストーリーで加入するイベントキャラ以外の他プレイヤーのサポートキャラは極力
出てこないように隊列の最後に入れて、ストーリー上のキャラのみで進めていた。しかしFGOというゲームでは、
他プレイヤーのキャラを一人パーティーに組み込む必要があるゲームデザインになっており、
その1キャラを戦闘に登場させないということは不可能だということが分かってきたので、
ただし継続的な繋がりは避けて一期一会に徹するために、フレンドの登録はしないというルールにした。
そのため4章からは他プレイヤーのサポートキャラも活用している。
尚、フレンド以外のキャラの利用では宝具が利用できないが、フレンド登録した人のキャラを利用すると宝具が利用できるようだ。
そのため、これから始める方はこの縛りをつけないでおくと、私より非常に楽にゲームを進められるだろう。
宝具を利用できるなら、利用価値が高まるキャラが多く居るし、選択肢の広がりは大きなアドバンテージだ。
リセマラは、配られたカードで出来ることをする、というスタイルでいつも遊んでいるので私はやったことはないが、
やったほうが楽しめる人はやったほうが有利になるのは間違いないだろう。
実際には他にも細かな戦闘上の縛りルールも設けていたが、その辺は割愛する。
ではこれらの条件下で、どのように19日間プレイしてきたかを概観してみる。
6月2日 一日目 インストール
このゲームに対して持っていた事前情報は、Fateの続編であることと、人気があるということのみ。
名前は知っていたし、気が向いたのでとりあえずやってみようかとインストールした。
しばらくやっていくと、大体のゲームシステムは分かってきた。そしてやはりストーリーやテキストが面白い。
ソシャゲだと、ゲームシステムだけがあり、テキストはとってつけたおまけのようなクオリティのものもあるが、
これはしっかりと作ってあるし、キャラの育成も楽しめそうだし、気合を入れてやっていくことにする。
ガチャのシステムとAP(行動値)回復のシステムを踏まえて、このゲームを無課金でがんがん進めていくための戦略を考える。
特に聖晶石というのが、このゲームでは核となる資源だ。ガチャ、AP回復,戦闘で全滅時の復活、という使い道があり、
これらにどう配分していくかが鍵になるだろう。のんびり遊ぶなら全てをガチャに回すのが正解だろうが、
無課金でがんがん進めるにはガチャ以外にも割り振っていく必要がある。
そのために考えて出した戦略は以下の通り。
2.その中からお気に入りのキャラを選び、集中的に成長させる。
最初の無料10連のほかに、ログボとフリクエなどで60個集めて後2回10連を引き、
呼符をあわせるとトータル40回くらいは序盤に引けるのではないだろうか。
これだけあると確率的には星4のキャラを一人は引けると思う。引けなければ星3でも
お気に入りであれば限定資源を投入して成長させていけるのでストーリー進行は可能だ。
私は一人のお気に入りを選び、その1キャラだけを集中して成長させることにした。
(キャラの成長にもAPが必要なので、無課金短期間プレイでは複数人を成長させる余裕はない。
もちろん、可能であれば成長させたほうが望ましい。)
上記のような経緯で戦略を定めて、結局私は以下の攻略スタイルとなった。
前衛は、マシュ、エース、サポート、の3人で固定する。エースは自分のお気に入りのキャラで、
このキャラを全資源を投入して成長させる。マシュはストーリーを進めると勝手にlv上限があがり、
後衛にはコマンドカード調整用のキャラを配置するが、積極的には成長させずにあまった資源で成長させる。
クエストを進めるとマスターのlvがあがってAPも回復し上限も増えるので、とにかくストーリーを進めることを優先する。
結果、5日目には、マシュとエースはlv40以上だが、その他は20台になった。
7日目に4章クリア、9日目に5章クリア、12日目に6章クリア。
週に一度の曜日クエストや、特定のフリークエスト周回で素材を集めないとlv上限解放ができないことがわかり、がんばって集めた。
そのためのAPは聖晶石を使って工面していく。12日目と13日目にはゲイザーを50体ほど
狩って素材を集めたが、これが一番眠くなった。APも1000くらい使ったので、7日目のログインボーナスの
14日目にはエースが念願のlv100に到達。
効率重視なら、90止めでもいいのかもしれない。数千万QPを稼ぐために石を消費した。
15日目から季節イベントもやってみた。どんどん稼げるので、これがもっと早くあれば楽だったかもしれないが、仕方ない。
結局、ひとつの特異点につき2,3回は令呪や石でコンテニューしたと思う。
終局クリア時点で手持ちの聖晶石は70個ほど残っていた。
6日目からクエストAP半減が始まったのでこれがなければあと20個ほど余分に使っていただだろう。
クリア時点でのキャラレベルは、マシュ74、エース100、控え壱40、控え弐70、控え参54だった。
(ちなみに控え四は18。1章以来使っていない。強化はエースが季節イベの恩恵もありHP、ATK共に+1080))
メンバーが固定なので、戦術は一貫して、マシュが守ってエースとサポートが殴る、というものだ。
サポートも(イベントキャラがいなければ)宝具が使えないので、選択肢は限られる。
私同様フレンド機能を制限している人のために書くと、クーフーリン・オルタは宝具が無くても大活躍だった。
後は相手の攻撃タイミングに合わせてマシュがスキルや宝具を展開していくと、そこそこ3人で戦っていける。
例えば相手の宝具が単体攻撃だった場合、そのターンに無敵スキルと攻撃集中スキルを使うことで封殺しつつ
ゲージを溜めて、次のターンに展開することが可能だし、相手の宝具が全体攻撃だった場合は、そのターンに
宝具を展開できるようにゲージをため、次回の相手の宝具のターンは無敵スキルとマスタースキルで凌ぎ、
その次はまた宝具で凌ぐ、などができる。マスターの装備は私はずっと初期のものだったが、自キャラとの
組み合わせで最適なものは変わってくるだろう。(育てる時間があるかも含めて)
さて、私はこんな感じで遊んだということを長々と書いてきたわけだが、私は私の条件で効率を考えて遊んだだけであり、
無課金での最高効率プレイとはまったく異なる。(そもそもフレンド不可縛りなどを無くせば非常に楽になるし、学生などで
ゲームに使える時間が私より長い人ならもっと短期間でクリアできるだろう)
しかしこれからFGOを始めようかと考えている人にとって、このような条件でもこのような感じてプレイしていくと
ストーリーはこのくらいで進められるという参考になればと思って書いてみた。私はやっている間ずっと楽しかったし、
いいゲームというものはやっていない人には紹介してみたくなるものだ。私のプレイ時間は一日4,5時間ほどだったろうか。
思ったことをつらつら書いてきたのでまとまっていない文章だが、よくここまで読んでくれたと思う。
ゲーム内容については(おそらく)紹介しているサイトが沢山あるだろうから、私は私の体験だけを書いた。
今後の私は、ストーリーの区切りがいいのでここからは攻略に集中するのは控え、プレイ時間を最短にしつつ効率よくキャラを育成していく
スタイルに切り替えてのんびり続けていこうと思う。鬼ヶ島イベントも素材以外の商品は全部揃いそうなので、急ぐ理由もない。
問題は今月末が締め切りの業務をこの三週間で極力後回しにしてきてしまったことだが、まあなんとかなるだろう。
館名から敬遠していましたけれど、大きなお友達陶器博物館に改名するべきでした。
博物館を運営するメーカーが1968年(記念すべき1号は巨人の星)から
生産しているキャラクター茶碗がたくさん展示されていて間接的にアニメの歴史を概観できました。
「空想科学世界ガリバーボーイ」の茶碗には完全にやられてしまいましたわ。
そして「魔法少女ちゅうかなぱいぱい!」「魔法少女ちゅうかなぱねま!」のタイトルが意味不明で引っかかります。
およげ!たいやきくんってアニメだったのですね。およげ!さばやきくんも制作するべきですわ。
簡単に年代で作品を見比べられるので明らかに先進的であったことが分かりました。
最近のお茶碗はプリキュアとレンジャーの無双状態になっていて寂しかったですわ。
深夜アニメ茶碗も作ってほしいですわ。
またアナの女王茶碗では陶器への転写技術がどれだけ進歩したかがよく分かりました。
冷静に考えるとパン派への酷い裏切りに思えてなりませんでした。
ショクパンマンのお茶碗で食べるまっしろごはんはどんな味かしら?
B1の特別展示では、やなせたかし先生がじきじきに絵付けをした
アンパンマン・バイキンマン・ドキンちゃんのお皿もありました。
ナコルル問題で急に有名になったtwitterer、kotnei
togetterをみるとアイヌ関連で攻撃的なまとめを何個も作り、軋轢を生んでいる人物であることがわかる
このような人格はなぜ形成されたのか、2011年から始まる彼のつぶやきを概観することで調査してみた
twitterを始めた当初、kotneiの会話の中身は他愛のない趣味のカメラの内容ばかりであった。
変節が始まるのが2013年前半あたり。金明秀や李信恵といったいわゆるしばき隊人脈との会話が増えていく
金明秀 KIM, Myungsooさんへの返信
@han_org 質問させてください。ここでの同化主義と排外主義は対立する概念なんですか。それとも,一人の人がその両者を同時に持つことはあるのでしょうか。
そのきっかけはtwitterだけではわからないが、朝鮮生まれ満州育ちの母や鶴橋で育ったという彼のルーツが影響を与えていることが推測される
ネトウヨにならなかった理由を@rinda0818 さんが聞いていましたが,育った地域の環境に加えて,朝鮮生まれ満州育ちの母の影響はかなり大きかったのではないかと思います。
ここまでは韓国・朝鮮関連とのかかわりが多く、アイヌに関するツィートはごくわずかだったのだが、
札幌市議によるヘイトスピーチ。 RT "@kaneko_yasuyuki: @IcloudBurabu アイヌ民族なんて、いまはもういないんですよね。せいぜいアイヌ系日本人が良いところですが、利権を行使しまくっているこの不合理。納税者に説明できません。"
転機は金子快之市議が「アイヌはもういない」発言で除名された騒動のあたり
ちょうどこの頃、小林よしのりがアイヌを標的にしだした時期であることから、敵の敵は味方とばかりにアイヌ関連の話に入り込むことになったのだろう
そもそも、彼は現在北海道在住なのでアイヌ問題を話題にしやすかったものと思われる
本来ならば必要のないことですが,カエルの粘着があまりにも酷いので,私の生い立ちについて説明しておきます。私は四国生まれの日本人の父と植民地時代の朝鮮生まれの日本人の母との間に生まれた日本人であり,在日コリアンではありません。高校までは大阪で育ち,その後北海道に住んでいます。
ここまでの流れでわかるとおり、kotneiの激しい攻撃性は、しばき隊の行動理念に根底がある
ここ数年は周辺のアイヌ人twittererにも悪癖がうつっている傾向があり、頭の痛いところだ。
[追記]
表現規制賛成派なんでしばき隊と相性はよさそうだったけど、北海道関係ないよね
[追記の2]
togetterの騒動は、どうやら両陣営お互いしか書き込めないまとめを作って収束したようでよかった。
このまとめを作った意味は、本来対立するべきでないオタクとアイヌの対立を避けるために、攻撃対象を正しくしばき隊に向けることにあったんだけど
オタ陣営も「アイヌ警察」「アイヌ自警団」なる単語を作って切断処理を進めてくれたのでありがたかった
kotneiおじさんも普段の相手とはまるで物量が違う相手が現れてさぞ疲れただろう、しばらく頭冷やしてくれればいいが、、、
今しばき隊の影響下に置かれているtwitterアイヌも、今のしばき隊の内ゲバぶりが顕在化するにつれ
いずれ元の穏やかな書き込みの人たちに戻るだろう
その際には快く迎えたい
ただ、本来は小林よしのり辺りがアイヌに噛みついた時点でしばき隊以外のもっとまともな面々が支えるべきだった
このために一時でもこんなに溝が深まったのが悔やまれる
[追記の3]
kotnei、今度は城娘に噛み付いてまた火だるまになっとる。いい加減学習しないか。
それはそうと、今度はオタク側が金子快之や砂澤陣の記事・著作を参照にし始めた。
こいつの中身を信じるのは良くない。
kotneiやマークウィンチェスターがしばき隊に取り込まれたアイヌ警察なら、
金子快之や砂澤陣は小林よしのりに取り込まれた反アイヌ論者。いうなれば鏡の存在。
オタはこういうのに入れ込むのは良くないし、
なにより彼らの論法どおりアイヌ民族の存在が否定されたら、困るのはオタク趣味を持っているアイヌだ。
エロゲには泣きゲーというジャンルがある。傾向として18禁要素は少なく、その必然性が薄いこともままあることから時にエロ不要論が主張されたり、あるいは泣きゲーはエロゲではないと揶揄する人もいるジャンルである。
しかし「一般に、泣いたあと人間は気分がよくなる」(ウィリアム・フレイⅡ『涙―人はなぜ泣くのか』)。快楽を得ながら体液を体外に排出する行為をエロと称するのであれば、その意味で泣きゲーがエロゲの一ジャンルであることは間違いない。
泣きゲーはある日突然出現したものではなく、それはどうプレイヤーの涙を誘ったかの技術の積層であり、様式の歴史である。個々の作品論は星の数ほど存在し語り尽くされてきたが、この歴史という点での言及は少ない。当時それは歴史ではなくリアルタイムだったのだから、当然といえば当然ではあるが。
2016年現在、エロゲ論壇は死に、泣きゲーが語られることも少なくなった。
だが、だからこそ、最初からぶっ通してやり直してみることでその変遷について、その後に何が継承されていったのかという点で俯瞰することが出来るのではないか。
ということでやり直したので、増田に書きなぐっておく。
そもそもエロゲの目的は何かといえば、もちろんエロである。主役はエロCGであり、脇役に過ぎない物語の出来を評価する者などいなかった。
その様子が変わり始めるのは80年代後半、『リップスティックアドベンチャー』(フェアリーテール,1988/5)辺りからである。エロゲが一つの娯楽物語として成立することが示されたことでプレイヤーはその物語性に目を向け始め、脇役だった物語はSFやホラーなど様々な要素を取り入れていく。その一つが「感動」であった。
例として、早くも1991年の『ELLE』(elf)に対して「ホロリとした」という感想が存在する(小林義寛『ゲーマーはエロと戯れるか』)。泣ける物語かというと微妙だが、今プレイしても確かに面白いSFエロゲであり、感動的要素が含まれていると言える作品である。
人は感動すると涙腺が弛むことがある。逆に言えば、涙腺が弛む種類の感動がある。この点での先行研究として米沢嘉博の『マンガで読む「涙」の構造』があるが、そこで昭和の泣ける少女マンガ、少年マンガを分析した米沢は、女性は不幸における愛と感動の物語に泣き、男性は友情、努力、勝利の感動に泣く、としている。
男性向けであるはずのエロゲはしかし、何を血迷ったか「不幸における愛と感動」を物語に取り込むことに成功する。
『DESIRE』(C's ware,1994/7)、『EVE』(C's ware,1995/11)、更に『この世の果てで恋を唄う少女YU-NO』(elf,1996/12)と傑作を連発した剣乃ゆきひろはいずれも物語の中核に少女の悲劇を配した。それは壮大かつ感動的な物語の帰結としての落涙をしばしば生み、その感想に「泣いた」というものが少なくない。
さらに『同級生2』(elf,1995/1)の桜子シナリオにおいていわゆる難病物がエロゲに導入される。それは当時十分に涙を誘うものであったとして、これが泣きゲーの元祖だとする説も存在する(小林,前掲)。
努力・勝利の感動が無かったわけではない。例えば『闘神都市2』(ALICESOFT,1994/12)は自分の無力さが生んだ悲劇をきっかけに、強くなるために精神をすり潰し、廃人になってでも最後の敵を倒す物語であり、高く評価された。……しかしそこにはやはり「悲劇」がつきまとっている。
「不幸における愛と感動」は、こうしてエロゲで広く受けいれられていく。
難病物は概ね、主人公とヒロインの仲が深まるにつれて病状が悪化する展開をとる。これを病気に限定せず、「不幸」に一般化したものを涼元悠一は「萌やし泣き」と呼ぶ(涼元悠一『ノベルゲームのシナリオ作成技法』)。ヒロインとの幸福な日常をまず描いてから一気に雰囲気を暗転して二人の不幸な状況を綿密に描写、涙腺の緩んだプレイヤーに最後の一押しをするという、泣きゲーに慣れた人にはお馴染みのそれである。
この萌やし泣きは、しかし突如エロゲに登場したわけではない。
前述の闘神都市2には、ごく短いが構造上萌やし泣きと解釈しうるイベントが存在する。同級生2の桜子シナリオは難病物である以上もちろん萌やし泣きだが、その不幸描写は非常に短く、またオチが「主人公の勘違い」というギャグである。それは手法としては古くから存在しており、変わってきたのは、それを物語上どの割合で展開するかという点であった。
1997年5月、それが一つの分水嶺を超える。『ToHeart』(Leaf)のHMX-12マルチのシナリオは、萌やし泣きを1ルート全てを費やして実現した。
おそらくこれが(エロゲ上で)萌やし泣きの威力が十分に発揮された最初の例だろう。彼女の物語は感動的な場面をクライマックスに据え、それ以外の要素――ギャグも皮肉もセンス・オブ・ワンダーも滲ませること無く、ストレートに終わった。そのシンプルさに価値があったと言え、本作は多くのプレイヤーから「泣いた」と絶賛された。
そしてもう一つ、作り手の意思という点でも分水嶺を越えたものが登場する。『MOON.』(Tactics,1997/11)が「鬼畜サイコ涙腺弛まし系ADV」と自ら名乗ったことは、その後の歴史的意味でも強く象徴的である。もし泣かすという意思で作られたものを泣きゲーと呼ぶならば、その明示という点で最初の泣きゲーは本作と言うこともできるかもしれない。
MOON.は大量のエロシーンを擁し、エキセントリックな人物造形も無く、萌やし泣きでもない。後の作品よりも本作が泣けるし好きだという人もいるが、多くの人を確実に泣かせる威力に本作があと一歩不足したことは事実と思う。
とはいえエロゲはついに、プレイヤーを泣かすことを主目的とし始めたのである。
ToHeartで泣かせる物語構造が確立し、MOON.で泣かす意思が示され、そしてそれは『ONE』(Tactics,1998/5)において結実する。MOON.のスタッフが作ったそのエロゲには、萌やし泣きが全ヒロインのルートで導入された。
当時の多くのプレイヤーにとって、それは致死量だったと言っていいだろう。
本作はMOON.と変わって18禁要素は非常に薄く、無くても物語は成立する。物語は全ルートで感動と涙が目的に据えられ、それしかない。にも関わらずこれがプレイヤーの絶賛を浴びたことは、「泣かせること」がそれ単独でジャンルを成立させられることを示していた。
今やり直してみると甘い部分も多い。しかし『sense off』(otherwise,2000)、『それは舞い散る桜のように』(BasiL,2002)など、本作の影響下にありつつも秀逸な作品がのちにいくつも生まれたことを考えれば、その影響力と価値を軽んじられる者はいないだろう。
6月、MOON.を作りONEを作ったチームは独立してKeyと名乗り、『Kanon』をリリースする。これがどれだけの信者を獲得したかは言うまでもないだろう。
特に技術的な面でKanonはONEよりも洗練されている。OPとED、泣かせるための特殊演出などのソフトウェア面はもちろん、泣かすための専用BGMが用意された、という点も大きい。1997年の『アトラク=ナクア』(ALICESOFT,1997/12)は物語のクライマックス、その絶望的状況下で「Going On」が初めて静かに流れ出すことで異様な精神的高揚をプレイヤーに与えたが、これが事前に何度も使われていたら効果は半減していただろう。これと同様のアプローチをKanonは泣かすという目的で採っている。
Kanonから3週間後に発売された『加奈』(D.O.,1999/6)もまた、この時代の泣きゲーの金字塔である。ONEやKanonが物語を中盤過ぎまでギャグで埋め尽くしたのに対し、加奈は10年以上に渡る兄妹の闘病生活を正面からシリアスに描いた難病物である。リアリティのある物語という点で「新しい」泣きゲーだったと言え、今なお評価は高い。
――一方で、ToHeartもONEもKanonも加奈も、悪く言えばただのお涙頂戴である。ハッピーエンドは奇跡や幸運によってのみ訪れ、主人公たちは運命に翻弄される無力な存在でしかない。こうしたお涙頂戴は今も昔も根強い人気を誇るが、一方で毛嫌いする人がいることも事実である。
興味深いことに泣きゲーは、これらのお涙頂戴では泣けない人々をも泣かせようとするかのように、別の「泣かせる何か」の模索を少しずつ始めていく。
知名度も低く地味だが言及しておきたい良作として、1月に発売された『Lien』(PURPLE,2000/1)がある。不慮の事故で幽霊になった主人公とその周囲の人々が残された2週間でその死に向き合い、改めて別れを告げる物語であり、主人公が生き返ることは無い。従ってお涙頂戴の文法に則っているが、しかしその最後において、彼らは前を向き、笑顔で別れを告げる。別れは悲しみしか生まないものではなく、人の強さを示すものでもあることをLienは描いていた。
そして9月、Keyのリリースした『AIR』は約束された勝利を遂げる。物語はもちろん難病物で、ヒロインは最後に死ぬ。その死を「ほとんどなんの意味もない」(東浩紀『ゲーム的リアリズムの誕生 動物化するポストモダン2』)とするならば、これは従来通りのお涙頂戴だろう。
しかし、彼女が無意味に死んだことが悲しくてプレイヤーは泣いたのだろうか。
もちろんそういう人もいるだろう。だがかの有名な「ゴール」は、彼女が最後まで努力し、やりきったこと――笑顔で幸福な記憶を全うしたからこそ、泣いた人も少なからずいたと筆者は考える。最後の別れにおいて、彼女は必死で前を向いていた。
悲劇の象徴としての別れの描き方と、それに対する姿勢は少しずつ変化を見せ始める。
ところで萌やし泣きの多くは幸福8割、不幸2割程度の文量配分で構成される(※数字は筆者の体感であり、根拠はない)。これを反転し、幸福を2割以下、不幸を8割以上にするとどうなるか。
MOON.もその一つだが、『DiaboLiQuE』(ALICESOFT,1998/5)や『銀色』(ねこねこソフト,2000/8)など、爆発的に売れることは無くとも鬱ゲーは途切れること無く続いてきた。特に銀色の執拗な鬱展開は秀逸であり、未だ根強くファンがいることも頷けるものである(個人的にはDiaboLiQuEももっと評価されていいと思う)。
そして8月、幸福と不幸がほぼ半々、つまり鬱ゲーであり泣きゲーでもある『君が望む永遠』(age,2001/8)が発売される。
男女関係の修羅場をシリアスに描いたエロゲといえば『WHITE ALBUM』(Leaf,1998/5)が有名だが、そこでは主人公が修羅場の矢面に立たされることはない。対して本作のメインシナリオでは主人公は徹底して矢面に立たされ、主人公が別れを切り出すことでのみ悲劇は終幕する。
誰を切り捨てるかは、プレイヤーに選択肢が突き付けられることで行われる。だからこそ最後に彼らが再び笑い合える可能性が示されることはプレイヤーを安堵させ、涙を誘った。彼らは奇跡によってではなく、心の強さによって悲劇を克服する。
さらに11月、物語の殆どがギャグで占められ、物語の構造自体は従来の萌やし泣きの延長ながら、にも関わらず枠を踏み越えたものが登場する。『家族計画』(D.O.,2001/11)である。
家族に捨てられた連中が偶然集まり、やむなく家族を偽装し、衝突しながら家族になっていき、崩壊し、再び家族になる様が描かれる作品である。加奈やAIRでも家族愛は描かれたが、いずれも兄妹あるいは母娘の二者間に閉じている。対して家計は父母兄姉妹という集団の絆を描く。
襲いかかる不幸は彼らの手によって跳ね除けられる。プレイヤーはもはや誰かの不幸にではなく、茉莉がお兄さんになって下さいと訴え、準が最後にスプーンを咥え、その家族としての努力が実ったことに涙する。
なにより家計ではもはや誰一人死ぬことはない。君望もメインシナリオでは誰も死なない。誰かを失う悲しさだけが泣かせる手段ではない。悲劇に敢然と抗い、心の強さで打ち勝つだけでも人は泣くのである。
……などと枠を広げ、新しい要素を貪欲に取り込むパイオニアばかりではない。泣きゲーというジャンルを充実させたのは既存の要素で構成された作品群である。
例えば『flutter of birds』(シルキーズ,2001/2)は極めて基本に忠実な難病物だし、特定ルートで萌やし泣きを取り込んだ『みずいろ』(ねこねこソフト,2001/4)や『水夏』(CIRCUS,2001/7)、『グリーングリーン』(GROOVER,2001/10)はいずれも好評を博した。またDESIRE同様、悲劇的シナリオの感動としての落涙であれば『腐り姫』(Liar Soft,2002/2)はこの年の作品では秀逸である。
また、集団間の絆も広く扱われていく。
『うたわれるもの』(Leaf,2002/4)ではSRPGというジャンル上の必然もあるだろうが、家族的な仲間との絆が描かれている。『世界ノ全テ』(たまソフト,2002/4)や『ロケットの夏』(TerraLunar,2002/10)は後半こそ二者間が主軸になるものの、いずれも部活を通して仲間と触れ合うことで主人公が成長し、仲間との絆を育むことで成立する物語である。
ONEとKanonとAIRを足して3で割ったような『SNOW』(Studio Mebius,2003/1)、あるいは『てのひらを、たいように』(Clear,2003/1)では、困難に対する仲間の存在がより大きな価値を持つ。その最後は奇跡による解決とはいえ、ヒロインのために仲間全員が努力し、足掻くことでハッピーエンドが訪れる様は「与えられたもの」というより「勝ち取ったもの」という印象が強い。
これらを「みんなは一人のために」とするならば、「一人はみんなのために」もまた登場する。『CROSS†CHANNEL』(FlyingShine,2003/9)である。
ToHeart型のよくある学園物語に始まり、それが綱渡りの上で構築されたものであることが明かされ、ばらまかれた伏線が繋がっていく様は見事の一言に尽きる。と同時にそれは、心の壊れた主人公が何度も失敗しながらトラウマを乗り越え、仲間のために自己犠牲を重ね、それによって心を再構築していく物語である。その実に静謐な最後において、そこで彼が平穏と幸福を遂につかんだことに、タイトルの意味と、そして彼が勝ち得たものが明かされることにプレイヤーは涙を流す。
そして1月、『Fate/stay night』(TYPE-MOON)が発売される。絶望的状況下で静かに流れだす「エミヤ」はプレイヤーに凶悪な興奮を与え、「強くなるために精神をすり潰し、廃人になってでも最後の敵を倒す」展開に涙を流した。
そこに「友情、努力、勝利の感動」があることを疑う者はいないだろう。
泣きゲーというとKanonやAIRがよく話題に出されるが、「泣いた」という感想がC†CやFateにも多く存在することは事実である。と同時に、いずれにも物語の重要な位置に少女の悲劇と愛が配置されている。
そしてこれまで言及してきた「不幸における愛と感動」の泣きゲーに、努力や勝利が全く存在しないわけでもない。その努力が実ったかどうかの差はあれど、必死の行動があったことはどの作品でも紛れも無い事実である。
としてみると、「泣いた」と感想を多く有する作品、すなわち泣きゲーには「不幸における愛と感動」と「友情、努力、勝利の感動」の要素が、両方含まれていると捉えても間違ってはいないだろう。そしてそうだとすれば両者は対立するものではなく、両立するものと言える。
そう捉えるならば泣きゲーの歴史とは、時代によって、作品によって、この両者の配分を巡る歴史だった、ということもできるように思う。
いい加減読んでいる人も飽きただろうし2005年以降は割愛するが、一つ言及するなら不意打ちという手法が導入された点である。
例えばいかにも安っぽいハーレムものとして始まりながらシリアスなSF展開を経て感動的最後を迎えたり、あるいは陰惨な陵辱物として始まりながら見事に綺麗な純愛物へと変貌したり、泣きゲーとしての姿勢を最初は微塵も匂わせず、突如牙を剥くものが2005年以降に目立ち始める(いずれもタイトルは念のため伏せた)。
また泣けるイベントが用意されていても、それが作品としてのクライマックスと一致しないことが珍しくなくなる。中には語るべき物語は全て終わり、エピローグの最後の最後で油断しきったプレイヤーに猛然と襲いかかるものもある(いずれもタイトルは以下略)。
昨今、泣きゲーが減ったと言われることがあり、実際、一見してわかりやすい泣きゲーを現在はあまり見かけない。しかしプレイヤーを泣かせることが主目的化した時代を超えて、泣きゲーとしての技術や様式は再び物語を盛り上げるための一要素へと還元されていった、というのが現代の流れだとすれば、それは死につつあるのではなく、むしろ要素として広く普及し、遍在したことで目につきにくくなった、ということのようにも思えるのである。
リアルタイムにこれらを経験した人にしてみれば、有名作を並べただけでなんの面白みもない内容と思う。申し訳ない。が、今20歳前後の若者にとってみればFateですら12年前の古典である。「泣きゲーの元祖」がなぜ人によって違うのか。なぜ未だにはわわとかうぐぅとか言ってるヤツがいるのか。若者がそんなことを知っている方がおかしいし、それを知るために最初から全部やり直すなど正気の沙汰ではない。
かつて何が起きて、それが今にどうつながっているのか。粗く拙いまとめに過ぎないが、その理解の一助として本稿に役立つところがあれば幸いである。加えて「そういや最近エロゲやってねぇなぁ。またちょっとやってみるか」と思うきっかけになれば、それに勝るものはない。