はてなキーワード: 恣意的とは
懐かしい
素直に返せばよかったと思わせるほどの目にあってもらわんと
そもそも横領が発覚しても問題なかったほうが稀でしょ?横領って罪が軽いわけじゃない。発覚すれば大なり小なり痛い目はみるよ。
最近だと警備会社の人が数億使い込んだが、あれだって賠償させられただろうさ。
全国で多発するっていうが、それならコロナの休業補償のほうが乱用されているし、こちらを利用したほうがよほど効率的だからね
なんで1世帯に数千万も振り込むなんて目立つ不正が多発できるのか、まじでわからん。
横領って「発覚しないようにする」か「誰がやったかわからないようにする」のであって、仮に恣意的に公の前でやったなら強盗や詐欺と変わらん
「何かを学び、知見を深めるのは良い事である」というのは勘違いだ。
端的に言って、一般人が著作権に詳しくなるというのは世の中にとって良い状態ではない。
というかマイナスなんだよね。ミクロの話ではなくマクロの話な。
人間は自分に都合のいい情報だけを集める。これはもうどうあっても逆らえない。
一般人は例えば弁護士Aと弁護士Bが「この場合はこうです」と言って、その内容が食い違っていた場合、必ず自分にとって都合のいい意見を採用する。
実はこれは良い状態なんだ。
一番良い状態=「なんとなく犯罪っぽいことは知識がないのでやらない状態」なんだよね。
実は法律って結構ガバガバというか、あえて恣意的な運用が出来るように、良く言うならば自由度が高く柔軟に作ってあるのよ。
構造上、ファジーな部分がある。だから、結構網目をすり抜けようと思えばすり抜けられるんだよね。
で、ぶっちゃけ法律の知識ってのは要は「ここまでは罪になりません」ってことを知ることになるわけよ。
著作権ってのはかなり、この悪影響を受けている分野だと言われている。まあ、大体同人誌周りのせいなんだが。(その手の法律の勉強してる人達は「実態と法律が噛み合ってねえ~」って一度は頭を悩ませたことだろ)
スピード違反だって厳密には違法行為だけど、ぶっちゃけほとんどの人は守ってないわけじゃん。
それって知識のせいなんだよね。「この程度なら捕まらない」「あの辺はネズミ捕りがあるから避ければいい」とかね。
仮にそういう知識が全くなければ、多分世の中からスピード違反は随分減ると思うよ。
何で日本は暴動が起きないんだと思う?それは実は「暴動のノウハウがない」からなんだよ。決して民度が高いからじゃない。「この程度の犯罪をどの場所でどの程度の人数でやれば捕まりにくいな」っていう経験値が足りないだけ。
逆に、同人誌とかは、かなりノウハウあるのわかるっしょ?「この程度のことをここで公開する分には捕まらねえよ、まず」って知識がやたらと共有されている。
だからある種のグレーな状況が維持できてるわけだ。
で、冒頭の話に戻るんだけれど。
ゆっくり茶番劇の件って、要するに『商標登録ってこんな簡単に人の褌で相撲取れるんや!』ってみんなで拡散しあってるんだよね。
ニュース番組で空き巣の手口や車泥棒の手口を事細かに解説すんなよ、とかそういうレベルの話なんだ。
「こうこうこういう理由で、ゆっくり茶番劇の件、あいつは違法行為をしている!」って、裏を返すと「その部分以外は違法じゃない」ってみんなで採点をしているに等しいんだよね。
何が怖いって、今回の件で一番得してるのって多分当事者以外の商標ゴロ(新規)なんだよ。だってすげえ人数で今回の商業登録案件のクロスレビューをしてくれてんだもん。ほとぼり冷めたらその知識と経験でもっとあくどいことができるわけじゃん。
集合知って素晴らしいね。ホントに。(本当のゴロはもう理論武装してるから法改正だのされそうなことすんなよ馬鹿、と思ってるけどね)
実は、悪い事だけど捕まらないだとか、捕まっても大したことないとか、そういう例っていっぱいあるんだよね。だからヤクザとか半グレの上の方はちゃんと法律を学んでるわけよ。
学ぶとね、「これって悪い事だったんだ!やめよう!」なんてことにはならないよ。
「ああなんだ、これってやっても大丈夫なんだ」って事の方が多いから。法律って。一般人がみんな法律の専門家になってみろ。大変なことになる。「大衆の無知こそがモラルを守ってたんだ」とアメリカの某弁護士ドラマでも言ってただろ。
みんなが、自分にどういう権利が与えられているかなんて理解すると、必ず運用でめんどくさいことになるんだ。
で、そのめんどくささはサービスの受け手であるみんなに逆に降りかかってくるよ。絶対。単純にコストが増大するからね。
だからみんな、今すぐ法律を学ぶのをやめよう。全体のことを考えると、マジで迷惑。
今回の件は手遅れだけどね。
・情報を摂取するのはその当人において1視点からその機能に応じて同じく見えるので「接種する情報をどうにかしろ」というのは無理な話
・情報の重要度や優先度、価値といったものについて言うならば「情報を得た人間がそれを利用する場合」に付くものではないか
この前提をもってする1意見なのだけど、その匿名だったり複数の人格を装って発信できる情報なりの素があることは表現とかなんとかの自由で認められるべきものだろうと考える
発信された情報を受け取った人間がどう利用するかについては、問題が発生すると思うのだが「〇〇という発言があった、というのを見た、しらんけど」という使い方をすることについて価値を認めないようにすべきではないかと考える
「保育園おちた」発言で世の中かわったありがとうという記事もなんか今ホッテントリしてるけど、助かった自分がいたのと自分との直接的な関係性はその記事からうかがえるというのはわかるが、直接的に恩恵をうけたのは市政のはず
礼を言うのが身近な店員ではなく神にという主義ならわからなくもないけれども、それでも礼を言う相手が違うのではないか
動かない事柄を動かしてくれた何かに感謝、というならば死んだ人間にみんな「死んでくれてありがとう」という癖がある人なのかと思ってしまう
警察に助けられた警察機構をつくってくれた犯罪者の皆様には感謝しかない、とか日本の平和は敗戦国へと追いやってくれた戦争参加各国のおかげ感謝しかない、とかそういう感覚なのであれば自然ではありそう
どこのだれか知らないけれども発信された情報があったので、それは大事だとするのは感謝の気持ちをそこに添えるのは問題ないし良いことかと思うが、そこに責任があるとしたら自分に返ってくることを自覚すべきではなかろうか
死ねと言い含めたことを、自己の責任として再発言することになった事に責任が持てるならば何の問題のないだろうし、それを臨んでいるので仮に「死ね」発言について炎上したとしても、受けきれるのだろう
実際に問題が発生していたり救済を必要としていたりする情報源について実態を伴う行動が必要かどうかは情報が存在していて、かつそれを摂取して判断した結果になる
発信者が嘘偽りを発信していようが発信者として偽っていたとしても「それを良しとする」規約範囲内での活動を問題視するということは規定を自由に存在させていいという社会的領域を狭める
ツイッターの話ならばツイッターが規約を厳密にしたり審査を厳密にしたりすることはありだろうし、放置するのも緩くするのもありだろう
その自由な選択を認められることが社会的な領域の広さにあたると考えるのでそれは狭めるべきではなく、社会的地位としての上昇を臨むならば社会を狭めて情報源を確実なものに押し上げるのではなく、情報源自体が規約なりで縛り押しあがっていくことが望ましいのではないか
何もしなかったり緩くすることで社会的な情報源としての地位を下げることになるのはその自由の範疇においてやむを得ないだろう
しかし低く下がった信頼度を、ほかの時点の価値観とかさねあわせて「信頼できる情報源において」とするのは「ほかの時点の価値観」でその情報源を推し量っていることが問題だと感じる
文字データになってインターネットに流れていたらみんな平等に貴重な情報源って言うのはいいし信じるのはいいけど、それをもってして行動するのは自己責任にすべき
「〇〇っていう噂があって、まことしやかで、本当なら問題だし」から具体的な例に置き換えて「例えていうなら」からの自説を披露し相手に「だと思わない?」と結局関係ない行動喚起をさせて「しらんけど」と言うのは良くないのではないか
関係ない人間に恣意的な行動喚起をする材料としてそのへんに散らばってる情報を利用して「という情報があるのを発見した」からの「という風に見える」と冴えたような加味をして与えるのは「その情報ソースがそこに落ちていた」という事とほぼまったく関係がないといっていいように思える
それは「人の口元へ運ぶ行動と、口にしていいようにした」のはその情報発信者なのだから、元の情報をつくった人間はもうすでに関係がないといっていいだろう
偽の情報発信者が多く潜み偽の情報を沢山流したとしても、それをまとめて扇動したり誘導したりしようとする人間がでてくるはずで、注意すべきと責任を追及すべきはそこで十分ではないだろうか
改善すべきは、むかしはよかった、むかしはこうだった、かつてはこうだった、だから「今もつかえる」という判断基準で過去の人やものを盲目的に利用しつづけ更新しない人により新鮮な情報を提供するようになっていけばいずれそのなりすましでどうにかなる情報の発信や迷惑行為を正義と勘違いするような扇動者の区別はつくようになっていくのではないかと考える
PVさえあげられりゃ奴らは何でもするわけよ
めちゃくちゃ嫌いだから2chまとめも見ないし、なんならTogetterも見ないことにしている
結構ホッテントリに2chまとめが入ることが多いんだよね。正直軽蔑してるけどまあ人の自由だししょうがない
啓蒙活動は増田でしていたんだけど、結構伸びた啓蒙記事のブコメにTogetterは違うだろって書かれましたわ
まあいいんですよ。Togetterははてブで一大コンテンツですからね。毎日ホッテントリ入ってますもんね。炎上系の奴とか、対立煽り系の多いですよね。
恣意的にまとめられたものを見てキレる、バトる、もうねアホかと。ブクマカ共目を覚ませと。俺につよつよリテラシーみせつけてくれよ。
このまとめでは表現の自由戦士が顔真っ赤にして「エロばかり攻撃されてる!エロが最優先だ!」と仰っている。いやいや、エロばかり攻撃されてないから連載中止にまでなったんだが?
オタク達の間では、フェミが騒いでるだけでその騒ぎがスルーされていて広告が取り下げられてもいなければ連載中止にもなってないたわわの方が、連載中止となった宗教2世漫画よりも迫害されていて可哀想ランキング上位らしい。へー。大した表現の自由ですこと。
「たわわ」に関する問題点と宗教2世における問題点をごっちゃにするバカがいるの、何でだかわからないんだけど。無理矢理、相手に「表現の自由戦士」とか冴えないレッテル貼りした挙句、表現の自由に関するトピックなら全て闘え、というのは流石に無理筋だろ。
漫画表現に対する恣意的な基準に基づく圧力の話と、宗教教団の内部情報暴露に関する報道の自由の話は、「表現の自由」に所属する、という点でしか共通点がない。
そもそも、宗教2世の件で(そもそも誰にか分からんが)抗議をする事に、正当性があるかどうか、という点から怪しい。宗教2世漫画、教団の許可を取らずに内部情報を公開している訳で、これは表現の自由を踏まえても危ない橋を渡っている。報道の自由があるから何しても無問題、と言えないことは、先日の北海道新聞の記者逮捕の件からも明らか。しかも、今回の媒体は報道機関ではない。
特定の宗教教団の内部情報を公開するにあたって、許可が取れていないのであれば、教団側から「おいそれどういう事だ」とクレームが入るのは当たり前の事。教団側にも権利がある。潜入ルポ(に類する活動)をやるのであれば、教団側とどういうコミュニケーションを行うのか、について事前に十分に準備をする必要がある。
集英社が連載中止をしたということは、言い換えれば教団側の主張が勝ったということ。この件においては彼らの方が正しいのであれば、それを受け入れなければならない。なので、「集英社の担当者はしっかり準備して、著者や取材先を守れよ」ぐらいは思うが、それ以上の意見はない。教団側にも理がある場合、それも尊重するのは当たり前。何をしてもいい訳じゃない。
宗教2世の件、抗議するにあたっての法的正当性すら怪しいのだけど、法律よりお気持ちが優先なんだっけ。明らかに関係ない論点について説明しろ、というのはフェミニストの悪い癖だな。もっと丁寧に議論しろよ。
観ながら気になった事がいくつかあったのでメモしていく
お気に入りの服を着ていた子を恥ずかしめる主人公達(子供がお洒落する事を批判している?)
自分の理想の自然な子育て像が描かれているが現代では危険で破綻したものだと思う。
デイケアセンターと併設して美しいだろうと見せているが現代ではお金かけて豪華な施設に通える老人と働きながら子育てする若者の対比になってしまってむしろグロテスク
気風のいいリサのファッションや言動がこういう純粋な女性がいてほしいというオジさん目線を感じる。
問題の子供を家に置いて夜に仕事に向かうシーン。男も女も仕事を優先する事がカッコいいという思想を感じる。実際に働きながら子育てした人ではなくて想像の働きながら子育てを描いている感じで違和感バリバリ。父親も帰れるけど帰らなかったとも取れるセリフがあってどうかと思う。
山道に慣れた地元の人の運転が速いみたいな感じでリサの運転を描いているようだけれど実際の山間部に住む人の運転はもっと綺麗で速い(自然にアウトインアウトで走れたり見通しの悪いところでは見えるポジション取りをしたり加減速が丁寧)
あの運転は上手いというよりはただ危険で乱暴な走り。運転が乱暴なのは地方都市の人。
海の汚れ方が恣意的すぎる。ヘドロの海で底引き網漁なんてしないだろ。昔の人は馬鹿だったから海は汚れているんですよ、ガハハみたいな強い思い込みを感じる。
・子供の恋愛を描こうとしているようで大人がくっつけたい感じの目線で気持ち悪い
〇〇くんのお嫁さんになりたいって無理矢理言わせる大人みたいな感じ。子供の恋愛を描きたいならもっと子供の心の機知を描く事はできるはずだが突拍子もない事をするのが子供という思い込みがありそうした描写は皆無。観察が足りなく想像で描いているように見えてガッカリする。
かつて庵野秀明が富野監督は裸踊りができるが宮さんは隠していると評したがこの映画は裸踊りになっていると思う。他の映画は冒険活劇やSF、神話的表現によってそうした部分が隠されていたがこの映画のプロットは伝統的人魚姫の物語を下敷きに言いたい事を全部言っている気がする。
一番やりたい事は子供の可愛さを描く事だと思うが宮崎吾郎氏のインタビューで父親にあまり愛されなかった話を思い出すと他人の子の可愛いらしさを描く前に家に帰れ、自分の子を可愛いがれ、と思う。
フェミニズムを巡る疑念、糾弾、齟齬の根幹は、結局はそれが「女権のみ拡張主義」であるのが普遍的な人権思想に根差しているのかによる。「○○のみ拡張主義」はナチズムが「アーリア人の権利のみ拡張主義」であったように最悪の結果をもたらすし、それによって公共が左右されることはファシズム以外の何物でもない。
この種のフェミナチたちは、誰かが対抗理屈(と言うか対抗屁理屈)を発明するとそれに群がって考えもせずに多用し始めるが、これが問題であるのは、「○○のみ拡張主義」で公共を左右しようとする試み自体がナチズム/ファシズムとして糾弾されるべきだからであって、常に公共への働きかけは普遍的な人権思想に基づく公共の福祉の調整でなければならないからである。
つまり普遍的な人権思想に根差して、公共の福祉の調整と言う観点に基づかない権利主張はすべてファシズムなのであって、他者に対する人権弾圧である。
これが「女権のみ拡張主義」「ならば男性は男性で自分たちで男権を主張してください」の人たちが言葉の正確な意味合いにおいて社会害悪であり、積極的に排除されなければならない根本的な理由だ。また、これが世界の主流派フェミニズムが急いで、ユニヴァーサリズムに方向転換しようとしている理由でもある。
ナチズム下においては、人権の定義が大きく制約されることになった。通常の殺人の範囲に含めないことでユダヤ人の大量虐殺は可能になったのである。
従って、アフターナチスの世界で求められるべき「人間」とは定義が恣意的な意図によって左右されない絶対性によって規定されるべきであろう。死刑廃止運動とはまさしくこの観点から為されている。死刑囚の人権擁護のためではなく、「人間」の不可侵性を守ろうとする思想である。死刑廃止運動においては、このことを理解しているリベラルが中絶の問題になれば、まったく態度を翻すのは理解しがたいことである。
人間の定義には政権やイデオロギーの恣意性に基づく冗長性があってはならないのであって、アプリオリに絶対的なものでなければならい。
現在は、胎児は「全身が母体から出てからが人であってそれ以前は物」と言う考えが主流であるが、これは恣意性そのものの定義である。例えば頭部のみが出ている段階で、赤ん坊をナイフで刺せば器物損壊罪で、1秒後に全身が出たところで刺せば殺人罪と言うのは科学的な説明がつかない。物体それ自体は同じだからである。栄養従属体であるかどうか、つまりは臍の緒でつながっているかどうかであれば、帝王切開をするかしないかでも他者による恣意性が入り込むことになる。
1秒前までは物、1秒後は人間、と言う科学的なアプリオリに基づかない恣意性から脱却するためには、結局のところ受精卵に人間性を求めるか、少なくとも胎盤への着床後にそれを求めるしかないのであって、理屈の方は中絶禁止派の方が科学的には通っている。
「女の体は女の物」
「私の体の決定権は私にある」
と言う人たちは、徴兵制によって徴兵されて死を強制されて来た男性兵士たちのことを考慮してみた方がいいと思う。彼らもまた、同じことを言いたかっただろう。現在、徴兵制があるかどうかは問題ではない。それがあり得る政策として現在も許容されているということが問題なのである。そしてこれは、同時に、「女性のみが男性のリソースに負担をかける形で体育成績で優遇されている」「女性のみが需給法則・雇用の自由に逆らって男性の機会リソースに負担をかける形で男女雇用機会均等法がある」「女性のみが男性の権利を侵害する形で女性専用列車がある」「女性のみが男性の税金雇用機会に負担をかける形で女性センターがある」等など数え上げればきりがないが、最終的には男性の身体性を毀損する形で、公共の福祉の観点から調整が図られているのだ。その結果が著しい性差が偏った寿命格差、幸福度の差、自殺率の差であっても、許認されているのである。
つまり、利害が対立する局面において、他方の損失が生存に負荷をかけるような重篤性がある場合は、「女性がこの社会により適合性を持たないのは男性のせいでは無いが」、公共の福祉の観点から調整が正当化されるのである。
それが市民社会なのであって、中絶問題はつまりは女性が、他者の利益のために公共の福祉を成立させる自己犠牲を受け入れられるかどうかが問われているのである。
女性の身体の自由性、女性の心身の健康もかなり人権的には重篤なレベルの権利ではあるが、それが胎児の生存権に優先され得るかどうかが問題になっているのだ。
「胎児だから人間ではないので胎児の人権それ自体が存在しない」
という主張は、既に見たようにアプリオリなものでも無ければ科学的根拠に基づくものでもない。恣意性に基づいていると言うこと自体、批判されるべきであるが、恣意性に基づいているのであれば別の恣意性によって動かし得るものなのである。そしてこれを免れ得ないので、中絶賛成派は、アプリオリな定義と科学に基づく議論には決して深入りをせずにただ相手をキチガイ呼ばわりしてそれでおしまいにするのだ。
女性の身体の不都合と胎児の生存権、どちらを優先するかは人権思想に基づくのであれば、後者とせざるを得ないのである。なぜならば私たちは二度とユダヤ人を人間の定義から外した恣意性に戻ってはならないからである。
フェミニズム主流派が言うように、フェミニズムがヒューマニズムの一形態であるのであれば、ここが女性が人権思想を本当に尊重し得るのか、市民社会のプレイヤーとして相応しいのかどうかが問われる試金石になるだろう。他者の生存権を尊重できないようであれば、フェミニズムはイコールの関係においてナチズムに他ならないのである。
https://togetter.com/id/inori1995
このユーザーのまとめってどれも恣意的で燃やそうという意図が見えるから悪質だね
バイラルメディア的にはこいつが正解なんだろうけど
批判したいならグラビアだろうと個人の二次創作だろうと全部すればいいんだよ。誰も止めないから。
恣意的に批判すること自体が悪いことじゃないんだよ馬鹿じゃねえの?
これは気に食わない、これは嫌いって批判すること自体何もおかしくないだろ。
それを「これはルール上アウトなんですー」とか言いながら「恣意的に批判対象を選んでる」ことを元ツイは批判してんだろアホじゃねえの?
お前こそ馬鹿じゃねえの?
「言動に一貫性がない以上、恣意的に批判してるだけだよなお前」ってだけなんだよ。
全方位に批判してるのならわかるけど一部だけを批判してるのって「結局お前の気に入らないものだから批判してるんじゃないのか?」って話なんだよ。
男性は男女平等であればそれで構わないので。わけのわからない謎理論で、女を優遇することが無ければ、そこにあるのはただの競争社会なので、競争社会が駄目ならばまた違ったレイヤーの主張になる。
簡単に言えば、女は「男女雇用機会均等法」による調整済みの状況を男女平等と捉えているが、男は本来の男女平等は、そういう調整の無い、自然の需給法則が働く状況を指している。この認識の差が、どちらがゲタを履かされているのか、の認識差になっている。
何の規制も無い男女平等な社会ならば、男が圧倒的に有利であるので、男はそれを自然状態、デフォルト状態と捉えている。女の不利は「能力の欠落」だ。女はそれを「男がゲタをはかされている」と言うが、それは実際にはかなり無理がある。法制度的な優遇があるわけではないし、慣習的な優遇もそれは男性の優位性の結果であって、原因ではないからだ。ありとあらゆる歴史、国において結果的には男性優位社会に帰結していったと言うのは、それが恣意的な作用によるものではない根拠の一例だろう。
例えば社会が女性医師ではなく男性医師が欲しいと言う状況に関しても、医師国家試験に、体力(耐久力)、持続可能性を能力としてカウントする要素があればおのずと収斂するはずだが、そうならないのは、座学でのお勉強だけを「」付きの能力とすると言う、女性側の操作が入るためである。それだけではなく、女性医科大学などの制度的な優遇措置もあり、このゆがめられた状況下で、女性がゲタを履かされていないと言う見方はかなり難しい。
要はデマンドサイドの理屈に沿って、市場原理に従って処理すれば、能力の結果によっておのずと女性は排除されてゆくので、男性にとって男性優遇措置は必要ない。「優遇措置全般」を排除すればいいのであって、スタートラインで男性と女性が同等であると見なすこと自体、それは女性の傲慢であり、いかに女性が優遇されているのかを無視する鈍感である。
貿易だと自国の産業が育つまで関税を高して保護するってのは普通にする。
ソフト産業というか、GAFA、FANGのような企業を止められなかったのは何故か?
中国だけが金盾を作って馬鹿にされたが、長期的にみて成功だっただろう。
無料で使えてしかも性能が良いってのが一般消費者の目線ではそうだろう。
技術者目線だと、従来の産業だと国産できるようにすることに技術者の役割があったが、使いこなすことだけに注力している点に原因はあろう。
もう勝負はついたというのは簡単なのだが、スマホアプリ市場を例にするとマージンが高いとか判定が恣意的だとかは起こっている。
さすがに政府広報とかがヘイト系のものをチラつかせ始めたら本気で抗議しなきゃならんと思うけど
日経が実際そんなヘイト系で汚染されたら俺は購読をやめるし、そうなったらなったで別の新しいメディアが立ち上がってくる契機になるかもしれない
いち企業ごときに正しさや公益性なんぞ求めようがないってことをあまり理解してない我儘な人が多いよな
どんな立派な思想から始まった企業でも金に困ったらなんでもするようになるもんだ
むしろ株主でもない人間が勝手な我儘を押し付けて企業を捻じ曲げられると思ってる方がモンスター気質で怖いわ
そんな空気の圧力、利用者のお気持ちのせいで本来機能するはずの新陳代謝が効かなくなる社会は不健全極まりないし
恣意的な公的資金注入なんかよりよっぽどどうにもならんヤバさだ
政府シミュレーションでは敗北が分かってた太平洋戦争を開戦に向かわせたのはメディアひいては国民の意識だってことから学んでないんだろうな
思うにどっかの企業がズレ始めたらぶっ叩いて修正してやるなんて思考をしてる人は、それが自身の怠惰であることに気づいてない
一度信頼を寄せた企業に脳死で一生ついていけたら楽かもしれんが、状況は変化するもんなんだよ
生きてる限り情報をアップデートしつづけて常に冷徹に自分が摂取するものを取捨選択しつづけなきゃいけない
それが賢く生きるってことであり、ボロ船や泥舟に成り果てたものにしがみつく人間が多い社会はどんどん窮状へと追い詰められていくだろう
日本人は感情と理性を切り離すことができんから流動性が低すぎるし失敗するには大きすぎる状況までズルズルと突き進んでしまって効率が悪すぎる