はてなキーワード: ノブとは
奈々立場遍歴
②章司…本カノ 略奪サレ
③ノブ…本カノ (時期近すぎてどっちかわからん子を孕む→)自身が略奪サレ
タクミ→嫌い。だけど、何もかも手に入れて羨ましくもある。こういう奴が成功するから恋愛工学なんかにハマる奴が出る。俺を大学時代イジメてきたのもこんな奴。ホストをバイトでしてて、裏では女をヤリマンだの、メンヘラはすぐ分かるだの言ってるのに、表では見た目に反して真面目とか言われてやがる。今は社長してやがる。お前のせいで俺はニート10年目だ、クソ野郎
・レイラタクミの子→奈々より先にレイラが妊娠する可能性がないのでなし
・奈々ノブの子→ナオキに「所詮タクミの子」「目つき悪い」と言われているので可能性は低いが、ナオキは事情を知らない説もあり得る
タクミに付いてUK行くの?って感じだけど、誰の子か不問って決めたからあり得る?
・レイラシンの子→顔的にはあり得るけど流石に奈々タクミが引き取る義理がないし、レイラが「憎らしかった」とは言わなさそう
・奈々タクミの子→レイラが「憎らしかった」のもわかるし、順当。ただタクミの遺伝子弱め
・ナナ(本城)蓮の子→黒髪遺伝子どこに行った。ナナが「ピル飲む必要もないのに」と言ってた時には奈々妊娠中なので、ナナ蓮の子の方が年上ということも考えられない。
・皐は「奈々の遺伝子を継いでる」って淳ちゃんが言って奈々が微妙な顔一つせず受け入れてるから母親は奈々と思われる。目の形も奈々似。眉と髪質から父親もタクミ。容姿からはナナ蓮の子の可能性もあるけど、蓮が亡くなった頃にはナナが妊娠可能性に気づいてないと不自然(数ヶ月会えてなかったはず)
・でも第一子が無事に産まれなかったとすると、レイラタクミの子の可能性が。。でも、生む生まない含めてレイラとタクミの関係は激悪化すると思うけどレイラが「憎らしかった」まで言うかは疑わしい。仮にも大好きな人との子供だし。
でも↑のシナリオで考えると
・奈々がお風呂場で自殺未遂したのでは?という仮定(707号室のバスタブが変わってること、未来でお風呂場の奈々をノブが心配すること、美雨の伏線が根拠)が浮かぶ。でも蓮のことがあって自殺もしないかな〜と思うけど、それこそ美雨みたいに死ぬ気はなかったのが大ごとになっちゃったか…
・妊娠してから奈々の価値観は子供を守るに変わっていくけど、その子供を亡くしたらどうなるかわからないなと。でも安定期に入ってるはずだし確率は低そう。
生きてて楽しい事はあるし生き甲斐みたいなのも持ってるけど、それ以上に面倒臭い事が多すぎる。
独身をバカにしたくてたまらない人に言わせれば「責任のない人生」特有の考えなんだろうね。
でも私は大人やら社会人やら責任とかいう謎ワードから活力を得られるほど社会性を内面化していない。
資本主義、というか賃金労働にコミットする事に対して謎の忌避感がある。
さりとて働かなければそこそこ以上の生活はできない。そこそこ以上の生活はしたい。でも働くのも面倒くさい。
自殺をしよう。でも進撃が完結してからにしよう。エヴァが完結してからにしよう。
そんな考えを繰り返しながら生きてる。
別にいつ死んでもいいけど、せっかくならあれを待ってから死んでもいいかなと思う事で精神的イニシアチブを取ってる。
今は再販されたみそきんを食べてから死のうかなと思ってる。おれは今みそきんに生かされている。
今までは漫画や映画に楽器、好きだったもの、憧れていたものに生かされていたけど、生きる事へのどうでもよさが如実に表れてきた。
20代ならまだギリ自殺してもかっこいいから死ぬなら早めに死にたいね。
この間足を床につけたままドアノブで首吊るってやつ試したんですけど、あれコツがあるみたいで苦しいだけでしたね。
いつどこでどうやって自殺したのか知りたくなるが、ブラウザの検索履歴に残るのも、かといってシークレットモードを使うのもなんだか癪に障る。
だからいつも「いいなあ、自分も早く死にたいなあ」って思うだけだ。
とはいえ、自分は「死ぬしか後がない」というほど追い込まれているわけではない。
自分は20代前半で、シス男性(身体的性・性自認がともに男性)で、異性愛者で、大学を卒業しており、家族との関係も円満で、住む場所もあり、友人もいる。
社会的に見れば、よほど恵まれている方であるという自覚はある。
新卒で入社した企業と相性が合わず、ここ2週間ほど仕事を休んでいること。
微熱などの体調不良が続き、心身共に疲弊した状態が続いていること。コロナでもインフルでもなかった。
クリエイティブな趣味に没頭しようとするも、集中できずスランプが続いていること。
そのような状況を改善しようともせず、「できない自分」に酔って自己憐憫に浸っていること。
そんな中でも一番の理由が、「生きることに希望がないから」だ。
二十数年生きてきて、今まで上手くいったためしの方が少ない。
もちろん完全なゼロではないが、それでも他の人より劣っていたり、社会に上手く溶け込めなかったことの方が多い。
今までそうだったのだから、これからもそれが続いていくのではないか。そんな不安に苛まれている。
前置きが長くなったが、本題に入ろう。先日、自分は自殺未遂をした。
もともと希死念慮はあったが、ここまで強く、そして具体的に「どう死ぬか」まで考えたことはなかった。
その日は突然だった。
いつものように仕事を休み、Twitterで「死にたい」だの「いかに自分が無価値な人間か」を呟いているうちに、「本当に死ぬか」という気持ちが膨れ上がってきた。
失禁があると聞いていたので、足元にタオルや珪藻土マットなどを敷いた。
死ぬとしたら遺書や遺言を残すつもりだったけど、そんな気力はなかった。
その日はもう遅かったし、一人暮らしだったから邪魔は入らないと思った。
何もできなかった日だったので、自殺の準備をしている時間は生き生きとしていた気がする。
ネクタイの片端をドアノブに結んだ自分は、仰向けで横になり、首を吊った。
息苦しかったが、それだけだった。
意識が朦朧とするわけでも、視界がぼやけるわけでも、音楽が歪んで聞こえるわけでもなかった。
結果は同じだった。
大学時代に読んだ『完全自殺マニュアル』によれば、首吊りは最も楽で確実な自殺方法だという。
曰く、一瞬にして意識が飛び、苦しみを感じることもなく死ねるとかなんとか。
自分が首を絞める箇所が悪かったのだろうか。それとも、この本に書いてあることが間違っていたのだろうか。
今となっては分からないが、その時の自分は、死ぬことすらできないという絶望を抱きながらスーツを脱ぎ捨てた。
あれから数日経つが、今のところ自殺をしようとは思っていない。
満足したからなのか、死ねないことが分かったからなのかは分からない。
もっと良い首の吊り方を探すかもしれないし、別の死に方を見つけるかもしれない。
でも、それまでは頑張って生き延びてやろうとは思う。
より良い自殺のために。
オーナーが家族のために左利きでも暮らしやすいように作った家とやらが借り手を募集していたので入居して1ヶ月経った。
致命的に暮らしづらいわけではないけれど、ちょっとずつストレスが溜まる。
一番使いづらいのは握り玉式のドアノブ。右手で使うと開けられない。トイレに駆け込みたい時とっさに右手を出してガチャガチャやってしまう。
地味に困るのは備え付けの棚。手で抑えていないとしまってしまう作り。左手でおさえながら利き手の右手で重いものをしまいたいのに、右で抑えて左で物を入れないといけない。
あとは折り戸とか、窓を開ける向きとか、玄関のてすりとか、ウォシュレットのボタン位置とか入居当初は使いづらく感じていたところもあるけど今は慣れた。
左利きの人は日常生活の至る所でこんな地味ストレスを感じているんだろうな。すごいや。
抑えないと入れられない棚とか握り玉のドアノブとかって今主流なんだろうか。オーナーの左利き重視にしたいという思いが右利き排除に傾いた設計な気がしなくもない。
結婚して子供を産むのが正しいの、生まないのが正しいのでケンカしてる光景はインターネットでザラだ。
そんなもの正しいと思ってる人には正しいし、そうでない人にはそうでないだけの話で。意味があると思ってる人にはあるし、無いと思ってる人には無いだけ。
当然の話で、人が生きるのも、社会に参加するのも、生物が種を残すのも、理詰めで言えば何の意味もない。存在の話ではなく当為のそれなんだから。
大人の義務や責任?どこから湧いた?生産性?何の為の?社会の維持?何の為に?人権思想?何の為に?生きるため?なぜ?
子供を作る事に限らず、人の営みはリンゴが上から下に落ちていくのと本質的には何も変わらない。
現実的な議論としては、人権思想が公理であり土台となっていて、そこで一旦は打ち切られる訳だけど。それにこれはあくまで「お気持ち」や「主観」から離れた場合の理屈だ。
まあ人権という公理から導き出される規範も一義的なものではなくて、それぞれの解釈が対等だからまた言い合いになるんだけど。
その対等な言い争いは民主主義と呼ばれて割と尊重される。しかし人権を認めるのであれば、人に結婚出産をするな、しろと強要できる道理はどこにもない。
そもそも社会を生き長らえさせる意義を感じていない人間に対して、子供を持つ事がいかに社会の持続に必要かを説いても無駄。
人生に先立った苦しみなどなく、行い次第で如何様にも幸せになれる。と信じている人間に対して、辛く苦しいだけの生を生み出す残酷さを熱弁するのも然り。
前提が揃っていない段階で話をしてもボタンの掛け違いになっている。
共通認識を揃え、対等な異なる意見を持ち寄って考えを深める事はあっても、最終的にどちらに転ぶかは自分の納得の問題だ。
全ては無意味、と言うとすぐ冷笑と抜かす人間がいる。無意味を開き直り、さらに他人を巻き込もうとすればそうかもしれない。
しかし規範において、理詰めで言えば無意味である事実は変わらない。
それを歪めるのは不誠実な物の考え方ではなかろうか。いくら生活の為にはある程度の忘却や思考停止が必要と言ったって。
ともかく、無意味とはいっても自分の中で実感や確信に基づいて意義を見出す事は可能だし、多くの人がそうしてきて、今もそうしてる。
そもそも意味などを問う以前に、まず生きる事そのものが価値のある、というよりあまりにも当たり前のものだと思っている人も少なくないんだろう。
むしろその方が多いかもしれない。もっともそれにしたって、意識的であれ無意識であれ生を肯定する規範、信仰、納得を持っている訳だけど。
世界に元々用意された意義なくて、そこに「正解」を用意したらそれは宗教だ。
別に宗教が悪いとは1ミリも思わないけれど、それを押し付けるのがいかにグロテスクかは歴史を見れば明らかで。
他者の生き方に口出しをしてかくあるべしというのは、自分の選択に腹の底から納得できていないじゃなかろうか。これは理屈の話と言うよりは邪推だけれど。
一度きりの人生、自分の選択が、価値観が「間違い」だなんて思いたくはない。そんな疑問が浮かびもしないほどの実感と納得がある生き方をしたいもんだ。
でもそう強い人ばかりでもない。自分の選択に自信がないが、自分の中に納得の源泉がない。だから外部にそれを求める。他人に肯定してもらいたい。
同じ意見を持つ人間と集まって、互いに肯定し合う。あるいは単純化した二項対立の上、自分の対岸にいる者を「間違い」だと断罪し、そして自分は正しいんだと思う。
そうした正当化が健全か不健全かは知る由も無い。が、考えの異なる者同士、互いに説教や罵倒を受ける道理は無い。
視野狭窄、知識が足りていないように見える人間に対して「こういう見方もあるよ」と助言する事はあるかもしれない。教育とは、学びとはそういうものだ。
しかしそれが強く押しつけがましく攻撃的で否定的、あるいは過剰に肯定的なものですらも、そこには自分と同じでない他人への苛立ちがあるのかもしれない。
社会の利害調整を問うなら互いに言い分もあるだろうけれど、生き方の問題に口を出すのはナン ノブ マイ ビジネス(夜に影を探すようなもの)だ。
その点、受け売りの胡散臭い政治思想とアイデンティティや価値観が悪魔合体している人は非常に厄介という事になる。
まあ上から目線で説教する道理もなかろうけど、なかった所で誹謗中傷やらにならない範疇で批判をするのも勝手だ。
よしんば中傷じみた人格攻撃でも、そんなもんネットに溢れてるし、それで捕まるのも稀だ。という事を踏まえて平気でやる人間がいるのも事実としてある。
悲しいね。
等しく無意味な人生に価値を見出せるのは自分だけだ。上手い飯を食うでも、芸術を愛でるでも、ギャンブルに狂うでも、何だっていい。
愛に囲まれ他者から存在を肯定してもらうのも、神様を信じてみるのもいい。それは一見外部の他者が価値を与えてくれるように見える。
しかし結局それによって得た納得が湧き出るのは自分の心の中だ。
「敵」を罵り「仲間」と慰め合って拵えた後ろ向きの納得よりも、内から発される声に対して真摯に耳を傾け、それに従った方が良い、ような気がする。私は。
まあ私だってきっと自分の考えに腹の底から納得できていないから、こんなサイトに長々と文章を書いているのかもしれない。
勿論意味など最初から問わない、忘却するという選択肢だって大いにあり得る。今際の際に蓋していたものが頭を過るのが怖くて私は出来ないが。
人をブチ殺して回りたい、それが私の納得する生き甲斐だ。こう思うのだって非難される、というか過剰に誹られる謂れはない。
なんなら思うだけではなく、法だの人権だのがいくら殺人はダメと言った所で、別に実行する事は可能なのだ。現に殺人事件は一定的に発生している。
出来るからやって良いなどとは言っておらず、可能な事実があると言っているだけですからね。
当然我々が恩恵を受ける司法や人権思想のもと、社会によってしばかれるだけだが。バレなきゃしばかれないけど。
茨の道が待っていると知った上で尚もその納得、価値観を手放さないというのなら、私は敬意すら覚える。当然自分が殺されるのは御免で、それはまた別の話だが。
個人主義、民主主義社会の範疇における多様性とはそういう事なんだろう。
お気持ちがどうとか主観がどうとかいった言葉を使って何か言った気になってる人がいるけど、事実でなく規範を語るなら感情論で当然なんだよね。
絶対的な真理、善、正義を信じる本質主義者なんで、と言われたらそれまでだけど。
金持ちがネオリベにかぶれるのも貧乏人がその逆になるのも当然だろうし、いくら事実と論理を積んだ所で最終的には感情論。
勿論ノブレスオブリージュを語る金持ちも、支配者への忠義が大事だと思う貧乏人だっているかもしれない。
それもまた価値観や納得に基づいたものであって、どちらに転ぶか、必然性はない。
「ブーメラン」はロジカルを自負するインターネットマンの口癖だけど、言行不一致は理屈ではなく感情の問題だ。
殺人犯が「人殺しはダメ」と言ったらどの口が言うかって話だけど、言ってる事は間違ってない。
でもやっぱりコミュニケーションにおいて心象というものは無視できないので、お気持ちのない、ポジショントークでない意見など神様にしか言えない。
まあいくら社会性に則った無難な話をした所で、「こういうヤツ、バカですw」みたいな強い言葉を使った話にばかり注目が集まるのも悲しい事ですね。
食洗機(当然乾燥機能付き)使うか、都度、スポンジを殺菌消毒か交換してください
食器洗いスポンジは、一般的にキッチンで最も雑菌が繁殖しやすい場所の1つと考えられています。実際に、スポンジからはさまざまな種類の細菌が検出されています。たとえば、米国立衛生研究所(National Sanitation Foundation)の調査によると、キッチン用品の中で最も汚染されているのは食器洗いスポンジであり、約4億個もの細菌が含まれていることが報告されています。
また、米国の食品安全・検査サービス会社Ecolabによると、食器洗いスポンジの表面積は小さく、水分や食物の残渣を含んでいるため、細菌が繁殖しやすい環境を提供しているとされています。
ただし、スポンジの雑菌の数値は状況によって異なり、厳密な数値は定まっていません。定期的な消毒や交換を行うことで、スポンジの雑菌の数値を減らすことができます。
ガンや感染リスクを下げるためには、定期的な掃除・消毒が重要です。
○ 定期的な掃除
家の中のホコリやゴミ、汚れを定期的に掃除することが大切です。床やカーペット、家具などは掃除機で、壁や天井などはほうきや雑巾で拭き取りましょう。また、ペットを飼っている場合は、ペットの毛や抜け毛もこまめに掃除してください。
○汚れの落とし方
汚れの落とし方にも注意が必要です。水洗いできるものは洗剤を使って洗い流し、乾いた布で拭き取ります。水洗いできないものは、掃除機などでホコリを取り除いた上で、消毒シートやスプレーなどで拭き取ります。
○ 消毒
ウイルスや細菌を除菌するために、消毒が必要です。特に、キッチンやバスルームなどの水回り、ドアノブやスイッチなどの手で触れる場所、テーブルやカウンターなどの食品が触れる場所などは、こまめに消毒するようにしましょう。
消毒には、アルコール消毒液や次亜塩素酸ナトリウムなどが効果的です。使い方については、製品の表示をよく読んで、指示に従って使用しましょう。
○ 空気清浄機
空気清浄機は、部屋の空気中に漂う微小な粒子を取り除くことができます。花粉やハウスダスト、ペットの毛やカビなど、アレルギーの原因となる物質や、ウイルスや細菌なども取り除くことができます。特に、部屋を換気することができない季節や、花粉症の時期などに効果的です。
ただし、空気清浄機だけで完全に空気中のウイルスや細菌を取り除くことはできません。必ず定期的な掃除や消毒を併用するようにしましょう。
○ 食器洗浄機
食器洗浄機は、手洗いよりも衛生的に洗うことができます。食器を手洗いすると、手の届かない部分や細かい隙間に汚れが残りやすく、細菌の繁殖や食中毒の原因になる可能性があります。
しかし、食器洗浄機を使用することで、高温の水や洗剤によって食器をしっかりと洗浄することができます。
食器洗浄機を使う際には、以下の手順を守ってください。
- 食器を事前に汚れを取り除く
食器洗浄機に入れる前に、食器についた汚れを事前に取り除いてください。食器洗浄機に汚れが残っていると、洗浄効果が低下する原因になります。- 食器の種類に合わせてプログラムを選択
食器洗浄機には、食器の種類に合わせたプログラムが用意されています。適切なプログラムを選択しましょう。- 食器をしっかりと固定して入れる
食器を入れる際には、しっかりと固定してください。食器が倒れたり、ぶつかったりすると、洗浄効果が低下する原因になります。- 食器洗浄剤を適量投入する
食器洗浄剤は、適量を使用しましょう。過剰な使用は、洗浄効果を低下させるだけでなく、洗浄機本体にも悪影響を与える原因になります。- 定期的に洗浄機を掃除する
食器洗浄機には、汚れがたまりやすい場所があります。定期的に洗浄機を掃除し、清潔な状態を保つようにしましょう。
How to Clean Your Home When Caring for Someone With Cancer
https://www.cancer.net/blog/2020-10/how-clean-your-home-when-caring-someone-with-cancer
来客がキッチンシンクを皿用スポンジで洗いやがった、清潔観念がおかしいもう絶縁だとか、旦那がそれやりやがった、もう離婚考えているとか、シンクをスポンジで洗う事で発生するトラブルは多い。
これは畢竟、ケガレの観念の問題だ。シンクは下(シモ)の範疇になっているのである。
実は日本人のこのシンク=シモの感覚というのは20~30年前に定着したもので結構新しい。それまではシンクは上(カミ)の範疇であり、1990~2000年頃はこれらが混じり合った状態だった。また、調理の現場ではまだシンク=カミだ。
ところで古い国鉄時代の特急などでレバーやボタンを放すと即座に水が止まってしまって手が洗えない洗面台に困惑した事はないだろうか?
シンクというのは元の意は「溜め」だ。水を溜めて使うのがシンク。これとは別に「流し」もあった。これは小学校のプール付属の長いのが判り易いね。
故にキッチンシンクも水を溜めて使う、流しとして使うの二つを兼ねる事が前提になっていた。これは洗面台も同じ。
だからキッチンシンクにも洗面台も水を溜める為の栓が必ず付属していた。
また、1990年代前半までのシステムキッチンのCMでは、シンクに水を張ってそこに野菜をまるごと投入して洗うというシーンがよく登場した。それは清涼感の演出のためであり、つまりはシンクはカミだったのだ。
洗面台ではゴム栓だけではなく、もっと機能的なレバーやノブ式の排水栓が一般化していた。洗面水栓の近くにあるノブなどを引っ張ると水がたまるのだ。
今では洗面台ボウルは手を洗った水受けや歯磨きうがいした後の水の吐き出し受けになってるから洗浄後でも水を張ってそこに顔を付けるという行為はしたくない人が多いだろう。つまりはシモである。
このシンクやボウルに水を張って使うというのは80年代後半~90年代に廃れ、キッチンでもシンクにボウルを入れてそこで洗うというのが一般的になった。
この為に2000年代前半から各調度品メーカーは水溜めの栓とか排水蓋を付属しなくなる。洗面台のレバー式排水栓も廃止された。
こうなると利用者の方のケガレ観念も完全にアップデートされてシンク、ボウルはシモのケガレあるものとなり「皿用スポンジでシンク洗いしやがった、信んじらんねぇ!」となるようになったのである。
一方、プロの調理場の方ではシンクは水溜めのままだ。シンクに水溜めて食材洗うし食器のすすぎもする。カミのままなのだ。
だから皿用スポンジでシンクを洗った人は調理場で働いている可能性もある。汚いという意識が発生しない(排水口の網などは別だ。ここは単純に不衛生だ)。
増田も「気まぐれクック」で金子がシンクに魚置いているのを見て「不潔だな」と思う口だったが、実際に自分でも魚捌きをやるようになると、シンクの中でやらないといけない作業が結構ある。
すると食材をシンクに置くなんてとんでもない!というケガレ意識はなくなった。
特急で多客期や臨時列車などで国鉄時代の電車が来ることがある。
トイレが和式なのも困るが、後に手を洗おうとするとすると、出水レバーやボタンから手を離した途端に水が止まってしまうので両手をすり合わせての手洗いが出来ない。一定時間で止まる装置が壊れちゃったのか?
しかもお湯と水の二つのボタン、レバーがあるが、お湯の方を押すと火傷する熱さで手洗い出来ない。なんだこれ!どうやって使うんだ!?
こういう体験した事ないだろうか?
また、昭和中期の古いホテルや旅館に泊まると、同じように水栓が湯水二つあり、こっちは普通の蛇口で出しっ放しには出来るものの、お湯の方はやはり熱くて使えない。
しかもメインのボウルの他に小さなボウルがある。これは一体どうやって使うんだ…。
これも説明しよう。
例を用意した。
これは戦後すぐに製造or改装された旧型客車の手洗いで、ボタンを押している時だけ湯水が出る、洗面ボウルの右にワンタッチ排水栓がある、メインのボウルの左手前に小さいボウルがあるというこの問題の全入り品だ。
https://twitter.com/ma_mere_loye/status/1642412578201800704/photo/1
小さいボウルがある。水栓は湯/水二つ式だったのを潰して後付け水道管に変更されている。
なんでこうなっているかというと、今の人は手も顔も水を出しっ放しにして手を洗い、流水を掌に受けて顔を洗うだろう。
だが昭和中期までの日本人は流水でそんな事をしなかったのである。ほぼ必ず洗面器のボウルに水を溜め、それを掌で掬い、顔を洗ったのだ。だからお湯と水を洗面台で混ぜて適温にしていた。
昔は冷房も無く窓を開けていたので蒸気機関車の煤煙で顔が汚れた。長時間の乗車も多い。夜行列車も多かった。だから洗面は必須だった。
そしたら歯磨きしたりうがいした吐き出しはどうすればいい?
それが手前の小さいボウルなのだ。ここは吐き出し専用で、痰が残ったりしたら手で水を掬って水で流すのだ。
つまりは洗面台=手を洗うところ、夜行なら歯磨きや洗顔の排水受け、または化粧直しの場という風になったのは昭和後期であり、それまでは洗面台はその名の通りに水を張って顔を洗う場所だったのだ。
因みに洗面器という名もその通りで、水を溜められない流しなどでは洗面器に水を張って手で掬って顔を洗う為の物であった。その洗い方では石鹸で水が汚れるが、そしたら水を交換して2回くらいで洗顔する。
ただ、この洗顔法は昭和後期には誰もやってなかった筈であり、感覚的にも大勢が痰や唾を吐いたり手洗いの排水受けた洗面ボウルに水張って顔洗えるかという感覚だった筈だ。国鉄は融通が利かずに規格化されたこのタイプの洗面台を発注していたが当時から手洗いしにくい不便なものという評価だったと思われる。
だからJRになると今のと同じ、自動水栓や時間水栓に交換されたりした。
そういう訳でシンクや洗面台に対する日本人の清潔感情、ケガレの意識がアップデートされ、それによって水を溜めるという構造の調度品が作られなくなり、それでまた更に清潔感情がアップデートされ、となって来た。
故にシンクを皿用スポンジで洗うと非常識に驚き、古い構造の洗面台は使い方すら判らない、という事になるに至ったのである。
だが調理場ではシンクは未だ水溜めて使うカミのものであるから、そういう従事者が他業種の人と交差するとトラブルになる。
またハードな料理をすると家庭でもどうしてもシンクで食材扱うようになるから感覚は変わる。