はてなキーワード: 高度経済成長とは
元から国土も人口も資源も圧倒的なんだから成長するの当たり前なんだよな
馬鹿な事をしたと思うかも知れないが、日本だって人権があったから、アメリカに負けても復興させてもらえたんじゃん
それが高度経済成長じゃん
勝ってる中国だろ
人権どうでも良いってなったら支援しても得なんかないんだから見捨てるのが正解になるじゃん
そうなったらロシアの勝ちじゃん
冷静に考えてみような、雇う企業がなけりゃ女は外で働かない
どこか段階で政府が「女も外で働きましょう」なんて命令しましたか?
昔はどこも農村社会だったから妻も娘も夫や父と一緒に農作業してたの
「女も外で働かせせろ運動」なんてなかったんだよ
実際にあったのは「すでに働いてる女の労働条件を良くしろ運動」
あのね女性の勤労者の圧倒的大多数は中卒高卒の店員と工行員なんだよ
その人たちは別に女も社会進出するのが時代の戦端でかっこいいとか
厚生労働省の統計だと九州とか四国とか地方ほど女性の就労率は高い
すぐ嫁にやる予定のない娘は親が都会の工場に働きに出したんだよ
元増田君は子沢山のアフリカ貧困国よりいい暮らしができてるワケ
・火災があれば消防と警察と一緒に呼ばれ現場に向かって、目の前で家が燃えている中、電線切って電気を止めます。
・災害(地震、台風、洪水)があれば、住んでいる場所に関わらず日本全国応援派遣。避難所とか病院とかで高圧発電機車で交代で送電。
・電柱建替えで停電できるのは0時すぎ〜6時で、もちろん夜勤です。
・電気を生かしたまま作業するから感電したことない人はほとんどいません。
・6600Vを生かしたままで当たり前に作業します。(家庭用は100V)
・多いときは電柱に1日15回以上直接登り作業。(交通量の多いところ、狭いところは高所作業車使えない)
・家とかで停電あったらすぐに現場向かって工事します。電柱に車がぶつかればすぐに現場向かいます。
・電柱の建替え工事で家に工事の交渉に行きます。(断られますし、何回もお願いに行き怒られます。)
・電柱とか電線とかに関わるクレーム対応(市役所の窓口で猛烈に謎のクレームしている人をイメージすると良い。)
コールセンターで1次対応してもらうけど、現場に謝りに行くのは社員。クレームの質もまぁひどい。
高い給料もらってるっていう批判は多いけど、常に危険と隣合わせで休日深夜呼び出し待機当たり前だし、足りないくらいだと思う。
地元の国公立大学とかUターンで就職する人が多いからこれ以上給料下げるなら普通に辞める人多いでしょ。
実際若手はどんどん辞めていってる。
災害の多い日本で応援派遣しているのは自衛隊だけじゃないんだよなぁ。
これ以上給料下げていつまでこの体制が維持できるかな。。高度経済成長期の電柱・電線はそろそろ怪しいから仕事はこれからいっぱいあるぞ。
それでも高い給料もらってるんだから、給料下げろとか言ってる人がいるなら、電力会社に入ればいいと思う。通年で募集してるから入ってくれるとありがたい。私は辞めたけど。
便乗。俺が働いている訳じゃ無いけど。
資源回収・解体業。いわゆる産廃処分業である。創業社長、現在の会長が高度経済成長期に帰郷して立ち上げた会社。
現在はその息子が社長(66歳で高卒)孫が専務(37歳で大阪の大学を出て、商社勤めしていたことがある)と言う布陣。
従業員数はたぶん100名はいるんじゃないか。専務曰く、フルタイムで働いているのは20人ぐらい。残りは正社員の肩書きは持っているが、年寄りが多く、半日勤務とか、働ける範囲で働いているとのこと。
昔は農家が農業だけでは喰っていけず、アルバイト的に兼業で来ていた従業員が主力だったそう。今たぶん違う。
そして、日系ブラジル人とか5人はいるし、暴力団だったという噂のあるじいさんとかもいる。女性は社長の奥さんと専務の奥さんだけ。常にハロワに求人でているが人が集まらない模様。落とした奴は一人しかいないとは専務。
創業者の代から、中卒で入ったら会社が金を出して定時制なり通信制に行かせる、と言う事をやっている。が、十年以上在籍しても卒業できないんだよ、とかネタにしてる奴がいる。いや専務の目笑ってないけどな。
外に出しちゃ駄目なやばい奴と、出してもいいやつの二種類に分けられている。やばい奴は電話も出るなと徹底されている。
そうして持ち帰られたものを、外に出しちゃ駄目な奴が工場で分別などの処理をするという流れになってる。
敷地には、専務が作った自動プラントが聳え立っており、同業者や自治体が取材に来るぐらいのインパクトがある。社内でゴールデンタワーと呼ばれているが、これは借金借金言いすぎたら借金タワーという名前が定着してしまいそうになったため、ゴールデンタワーと呼べと徹底がはかられた結果らしい。
敷地がむちゃくちゃ広く、何処からともなく拾ってきた車を緑色に塗って巣を作っているやつがいたりするし、養蜂をやってる奴とか、ゴミの中から出てきた物を修理してジモティやメルカリで売り払ってる(業務上横領)話を、自慢げに専務に話す愉快な連中。
社名で検索すると、金属泥棒の片棒を担いで処分を受けたと言う新聞記事が出てくる。
金属泥棒をやって持ち込んでた奴はさすがに警察に突き出されているが、何故かそいつは今は社員として働いている。
こいつがどうしょうもないクズ野郎で、金属泥棒の経験が解体業に役に立つと公言したのを見たことがある。素行が悪いとしか言いようがない。クズは所詮クズ死ぬまでクズ。
時給制と日給制。安い。
だが、残業はし放題なので稼ぐやつは残業が出来るし、ここが面白いところなのだが、売上げや利益の額がオープンにされていて、この利益の半分はボーナスに回すと言及している。なので、年5ヶ月分とかボーナスが出る。
業務や資格ごとに手当が出る仕組みになってる。外勤手当が5万円、重機が使えれば月1万円、高卒なら5000円、大卒なら8千円、と言ったノリ。それを全部入れれば人並みの給与にはなるっぽいが実際は知らん。
これを専務は「ジョブ型労働」と呼んでいたが、それは、なにか、違うと思う。
行くといつも休憩室にいるおっさんとか、持ち場についているのに何もしてないように見える奴とか、そういうのがいるのでたぶんまともじゃ無い。
また、この仕事の9割が儲からない仕事だと言うのが口癖。え。じゃあ残り1割ぼってるってこと?
社内のノリは完全に年功序列。年寄りが一番偉い。外勤担当のエースであっても、年齢が若いので子ども扱いされる。
おそらくパワハラセクハラだと認識してないハラスメントが多数降り注ぐ感じ。昭和まではいかないが、平成中頃の内輪のノリと行ったらいいだろうか。
なお、経営者一族はゴリゴリの自民党員で、選挙が始まると仕事そっちのけでフルコミットするので仕事が遅れて酷いことになるが、みんな知っているのでその時期はみんなで諦めている。
もちろんそのとおり。高度経済成長期以降の話だよね。(でもそんなこと大抵の人は知ってるだろうし、北欧は特に働かねばならない状況が強かったと強調したかったまで。あんなに寒くて日照が弱けりゃ農業も大変だろうしな。)
本件は、昭和42年の高度経済成長の真夏において、被告人が味噌製造会社に押し入って家族を殺害し金品を強奪したものと解される。そこで、その当時の実行行為の甚大さなどについて検討
する。被告人は昭和42年時点でプロボクサーである。当時は高度経済成長の真夏で、社会全体が経済成長に向けてヤリマンヤリヤリの時代だったと認められ、最近の状況とは全く違う。
そのような状況下において、当時の裁判所が、警察官のとった調書を添削し、90%を不採用とし、一部を認めて慎重に判断したことはほとんど合理的だったと思われる。その後の経過について
説明する。昭和55年に刑事裁判も秋のたそがれという時代に再審請求がされたが、ヤリマンヤリヤリ刑事裁判官だった団藤重光は既に、伝統的保守体制の裁判官になっており、そのやる気のなさ
は、姥ケ山自転車保管所の職員と同程度のものになっていたといっても過言ではない。確かに、昭和49年に団藤が書いた尊属殺刑法200条違憲判断は、ヤリヤリの内容である。その当時に
おいては、団藤は世間から尊敬され、怪しい裁判官とは思われていなかった。しかし、昭和55年の波崎事件のときにおいては、既に最高裁のいずに座っていただけで、傍聴席から人殺しと叫ばれる
まで自分が何をしていたか分からないくらい枯れていた。被告人は、最初は、小菅にある恐ろしい拘置所に収容されていたけれども、平成9年の東京拘置所の改修工事で立派な居室に移されてからの
20年以上はほとんど暇つぶしのような人生であったと解される。平成26年に千葉地裁が再審開始決定をしているけれども、当時の総理大臣は安倍晋三であり、本件の千葉地裁の再審開始決定は膨大な量に上る裁判官の独り言やクソの類でありほとんど価値がないし、平成30年における東京高裁の即時抗告棄却決定も、具体的妥当性もないただの嫌がらせである。
被告人の行った行為は、はるか昔の話であり、現在の国民のほとんどが覚えていない、知らない話である。
日本人の正体が性狂いヤリ魔の女性で恐ろしいものがあるという観点とそのような本質があるからこそ現在の東京23区のような過激な社会が昭和時代に形成されたという見地からしても、
本件の再審開始棄却決定などは裁判官の独り言で何も意味がないものであり、日本人が、性狂い魔の女性として生まれてきているという見地からしても、本件の事件はおよそこの島に存在する
いかなる者もこれに対して興味を持つ余地のないものであり、不合理にすぎると言わざるを得ない。
確かに法令の目的はその国に法的安定性をもたらすことにあり、高度な美的見地から制定され、規定が発見され様々な法律構成にも過激なものがあることは予想されるけれどもそのようなことが
流行したのは60年前の話で現在においてそのようなものが流行する余地はないというほかない。実際に流行の余地がないこととしては、法令の何が凄いのかについて説明する者もいないからである。
確かに数学においては、定理を発見し、構成することの繰り返しにおいて非常な驚異的体験を必要とするとするのが一般だが法令の制定や解釈過程においてそれと同じような体験が必要であるか
どうかは法学者の間でも世間でも明らかにされていないからそれのどこに魅力があるのか理解できない。また仮に明らかにされていたとしても、体育や部活動と同じで現在の日本人に対してそのような驚天動地の体験をさせてはいけないことというのは世間の常識であるから、現在の日本国民には法令に記載されていることは実行できないものというべきである。
裁判官は、いわゆる、善人などというものではなく、 法令に関する専門知識と特に解釈技能を有するエキスパート的な存在というべきだが、本件事件に関して、法令の解釈適用において実質的に
評価に値するようなものは含まれていない。幾何学において、相似変換の理論は最小の真理とされており、他に応用可能性のないつまらないものとされているが、相似変換の理論は、他の驚愕的な
技術とあいまって、もっとも美しい証明を完成させるところ、法律学において、何がそのような理論であり、何が驚愕的な技術であるのかはほとんど明らかではない。
別に悲しくないし当然とも思える
そこまで生き残ってほしい民族ならなんでアイツら政治に積極的になれない?
賢いフリをして地獄に落ちるだけならまだしも、同じような人間を量産して地獄に導いてんだよ
その矛盾に気付かないバカばっかりでそれが普通だとしてるから衰退する。
まぁそれだけではないし
ぶっちゃけ言えば適切な日本人の数がこんなもんなんだろうな、と思える。
高度経済成長期に馬鹿みたいにプリプリ産ませたけど馬鹿だから自分らの先祖代々の土地を気軽に売って国の上に立ってる馬鹿も“労働力足りねえから海外の穀潰し達をこき使うわw”とか言って海外の人間を奴隷みたいにして連れてきて何の対処もせずに放置してたらムラが出来てしまい日本に海外の人間の日本支部を点在させている。
減るのは仕方ねえよ、だって日本人は賢いから性欲も切り離して生きていけるもの。
海外から来る日本の企業に奴隷みたいにされて何としてでもこの土地で生きていこうとしてる奴らは全部の欲が出てるから当然子供なんてそこら中に居る。
日本の企業の上のカス共も「ンー頑張ってる奴はエライ!」って言いながらミソでもカスでも正社員にするからその血が純日本人じゃなくても半分日本人の血を引いてるだけでもむしろ海外同士のカップルだとしてもゲイだとしてもニコニコしながら雇う訳
で、日本で義務教育という名の去勢をされた日本人達は頭に弱者の冠を付けて『年収がン』とか『子育てがン』とか『恋人がン』『陰キャがン』とかほざきながら死んでいく訳
あのね!日本の偉い奴らはお前らアホのことはどうでもいいのよ!
自分らの会社の利益だけ欲しいの!国益?とかいうのよりも海外から安く手に入れて安く金払って高く売ってウハウハってして日本で哀れに生きてるお前ら金無し独身若年層のことを笑って生きてたいの!
お前らの世話で何年取られてんのかわかってねえのか!!!
そのくせに“この子は真面目で優しい子”の称号しかもらえねえんだわ!!!
はよしね!!!!!
子供に負担を強いるのがわかってっから無理なんだよ、寂しくても無理はよ衰退しましょうや
だから何も考えず生でセックスしまくって命が芽吹いた時に責任感に追われて金金金で狂っていく低偏差値のバカしか子作りしねえんだよ
だからまぁ悲しくても減って当然だと思う
きっとバランスが働いてんだよ
以下のくだりが、とても印象的だった。
その時にわたしの出身地の名産が好きで、通販でたまに買って食べてるんだけど美味しいよね、とさりげなく話題をそらしてくれた年配の男性がいた。
その人が後から「あの人、悪い人じゃないんだけどごめんね、自分も神戸出身でさ」と言われた。
恥ずかしい話、「神戸出身だから」と言われて私は何も分からなかった。
私は自分が地震と津波の被災者で、東北で育った私たちが一番の被災者で、今後数十年はわたしたちが一番のかわいそうな立場だという感覚を持っていた。
「なぜ急に神戸?」とポカンとして「はぁそうなんですか…」と雑に返した気がする。
その後、関東に戻ってしばらくしてから、何がきっかけか覚えていないがオウム真理教の話になったとき、
上司が「あの年は神戸で大震災もあって、オウムの事件もあって日本は終わりだと思った」と言ってて
やっと気づいた。
ひとの災害経験というのは、ほんと様々で、一概にかわいそうな被害者としてのっぺらぼうな面をみるわけにはいかないよね。
自分だけが被害者面していたかも、という気づき。こういうちょっとワンクッションおいて、時間が経って考えること、こういうのが大切なんだと思う。
ただ、被害者という言葉で共通項を見出したとしても、阪神淡路大震災を経験したひとと、東日本大震災を経験した増田がこうして、何かのきっかけでお互いの体験の共通部分に触れようとしたときでさえ、お互いが経験したものの奥行や背景は全く違う。でもそれは、もっと言葉を交わさなければみえてこないもの。
多分、増田は上記の言葉を交わしたとき、その手前でふと立ち止まって考えたんだと思う。
ひるがえって自分の親戚の話。自分語りをトラバに混ぜるのはなんだかな、と思うところもあるが、テーマの性質上書かせてもらう。津波から数日後、東北のもっとも大きな漁港のひとつで、親戚が経営していた漁業関連会社と生産工場が全滅したとの一報を受けた。一方、杜の都に住む息子娘世代は全員無事だったという朗報にほっとしたことを思い出す。
しかし、それよりも震災から半年くらい経って、父が一言つぶやいた言葉のほうが忘れられなかった。
他界した親戚一家は、さかのぼると、昭和8年の津波の前から漁港で生計を営んでいた。1933年の津波で多くの財産を失った親戚は一から再建する際に、同じ場所でやり直すのはやめるべきだと再三にわたって、周囲から助言されていたという。しかし、結局、同じ場所で人生をやり直し、次世代が引き継ぎ、そして次第に事業規模が大きくなり、津波の記憶が遠ざかっていくなかで、そのまた次世代の方々が財を成し、地元の名士として羽振りよく、親族のなかで存在感を持つに至る。そんななかで、半世紀以上前、東京に出て行った東北の令嬢が結婚前の父と出会う。
大切な令嬢(大地主の長女)をどこの馬の骨ともわからないよその県の小作人の末っ子風情に嫁がせるわけにはいかない、という大反対の嵐。本家筋からなにから親戚中の冷たい目線。結局、結婚は許されて、父は母の家系に婿として入ることになるのだが、その時に受けた屈辱を忘れられないらしく、東日本大震災で全滅した親戚に対して、天罰、という言葉で自身のつらみを含ませて表現したのだった。
父にとっては、かわいそうだね、では決して片づけられない感情。
個人的には、なにより、貧しい者も栄華を誇った者も等しくなぎ倒した大津波の、客観的な、物理的な力に圧倒せざるを得なかった。
たとえ、誰と震災の経験の話をするとしても、このようなパーソナルヒストリーの違いによる温度差は避けることができない。そう思っている。
震災を経験していようがいまいが、あるいは同じく焼け出された隣人でも同じではない。大地震大津波の破壊力を前には、あの家は無事だった、無事でなかった、そういうさまざまな経験がそれぞれにあるにすぎない。
こうしたファミリーヒストリーな視点でそれぞれの思いがある一方で、
上司が「あの年は神戸で大震災もあって、オウムの事件もあって日本は終わりだと思った」と言ってて
やっと気づいた。
という上司の言葉。そして、「やっと気づいた」という言葉。このつながり方は、大変興味深い。「あの年は~」というのは個々の経験の違いを超えた、歴史を振り返った俯瞰的な総括を含んでいるからだ。1995年という時代、そういったマクロな視点での気づきをもたらすのも災害だ。
そして、それが何かの理由で、自分自身のファミリーヒストリーや神戸出身者とのちょっとした会話と結びついたのだとすれば、それは自分のある意味「かわいそうな」私的な思いを、歴史の一コマのなかに着地させようとする、そういう覚醒だったのかもしれない。
実をいうと、よりマクロな視点で、それぞれの災害にはそれぞれの社会的な背景があり、その脆弱性が被害を増幅させている、という視点を最初に提起したのは、阪神淡路大震災だった。
1990年代以前は、災害被害者というのは、災害管理の文脈で救援対象として、比較的ステレオタイプに捉えられていた。しかし、その認識を大きく変え、都市の社会構造の脆弱性に関心が高まったきっかけが1995年の震災だった。こう書くとなにやら上から目線風だけど、阪神淡路大震災が自分が仕事として防災の世界に入るきっかけを作った。
神戸の都市としての成り立ちは、明治の初め、神戸港が開港された時から始まる。以降、港湾労働者が多く流入、低所得層が脆弱な埋め立て地や条件の悪い内陸部へ集住するようになる。他方で、20世紀の鉄道の時代に入ると、阪神間の交通網が充実し、六甲山ろくに高級住宅地が開発されるようになる。高度経済成長期には六甲の開発で切り崩した丘陵地に住宅地を建設、その残土で海岸が埋め立てられ、工場用地や港湾建設が進められていく。おりしも公害問題が深刻化した時代、都市の生活環境はますます深刻化していった。そんななか、オイルショックを契機に産業構造の転換という時代の変わり目を迎え、神戸の産業のシンボルであった造船、鉄鋼は停滞してゆく。それは関連する神戸の零細地場産業を苦境に陥らせ、今度は人口流出が起こり都市部の空洞化が始まった。都市部に残っているのは、流動性の低い層つまり高齢者、低所得者ばかりとなった(インナーシティの形成)。
これに対して1980年代、神戸市の政策的な対応としては、財政問題の打開が先行した。バブル前の当時の考え方では、大規模開発こそが地域経済の再生をもたらすと信じられていた。埋立地の利用による、ポートラインラド、六甲アイランド建設、物流機能強化のための明石大橋建設、最先端技術産業の誘致、ニュータウン建設など、新たな付加価値の創出が事態打開の切り札だった。
その一方、社会の脆弱層への支援、行政による市街地の再生は後手に回っていた。
オイルショック後の産業構造の転換で取り残された低賃金労働者の町、老朽化の進んだ木造住宅密集地域、長屋建ての住宅の占める割合の多い市街地(長田区のスラムのようなオールドタウン)は新陳代謝が進められなかった。地震対策の上でも洪水対策の面でも取り残された街となった。どのような地域であったかは番町地区で検索をしてほしい。
このような経済格差や脆弱性が生み出された、マクロな構造変動のなかで襲ったのが1995年の大地震であり、被害が社会経済的に脆弱な人々に集中した。暴力団員が懸命に救助活動していたエピソードを覚えている人もいるだろう。そういう街だった。
社会学的な視点でみれば、この地震の教訓として、被害が高齢者、低所得者に集中したのは、ある意味、歴史的必然だ。格差が生み出された背景などのマクロな政治的・経済的な動向と切り離せないということだ。
そして、このような格差や脆弱性という切り口でみる構造分析は先月発生したトルコとシリアの大地震でも、当てはめることができる。
このように、可哀そうな存在というのを社会学的に脆弱性として構造的にとらえる、ひとつのきっかけは、やはり他の災害を知るということであるし、昔の災害を知るということだと思う。
パーソナルヒストリーとしてお互いに触れあうことで、お互いに違うバックグラウンドにあることがうすうすわかってくる、それもまた、大切な気づきなのだと思う。
また、パーソナルなコミュニケーションが、例えばまさに「通販でたまに買って食べてるんだけど美味しいよね」みたいな会話、これが実はマクロな特性を知るうえでも、その人のパーソナルヒストリーをしるうえでに、もっとも重要なエントリーポイントだったりする。仕事上、ひとから話を聞くときにいつも気に留めていることでもある。
だから、トルコとシリアで現在進行形の震災について全体状況を大きな視点理解している国際機関よりも、よりミクロな視点で、特定の家族や地域の人たちにコンタクトがとれる小規模のNGOや支援団体に私自身は微力ながら支援金を送付している。たまたまシリア難民支援をしている人と知り合いの知り合いくらいの関係でSNSでつながっていたのがきっかけだ。アサド政権が物資を止めてしまう現状も現地の声としてより関心を持つようになった。そのほうが確実に、受け取った人の顔がみえ、困っている状況がミクロにもマクロにもわかってくる。自分が支援したお金が支援先の一家族あたりの支援額(しかも第一バッチ)の1/4にも満たないことを知る。こういうことも大切だと思う。
そのように、何かをきっかけに、他の災害に対して接点を持つ機会を大切にしたい。
というのは、居酒屋のトイレの洗面所とかで何気なくかわす会話、とか想像していたのだけど、そういうのが大切だよね。そういうのが心の残って覚えている、ということがさ。もちろん完全にひとのことを理解するなんてことはどんなに会話を交わしてもない。でも覚えてさえいれば、そのなぜか覚えていた思いを何かにつなげることができる。その「きっかけ」というのはとても大切に思う。
災害を忘れない、というのはそういうことだと思うので。
・ 普通に働いてさえいれば来月も来年も10年後も給料が入ることが強く期待される。ローンなども組み立てやすく、金を貸すほうも貸しやすい
・ 企業としてもほいほい辞めないことが期待できるので来月来年10年後を見越して従業員に投資できる
・ 退職金制度が作りやすい。従業員にも企業にもメリットがある
こんなところである。つまりは高度経済成長期をがっつりサポートできたのはこれのおかげである。
なお、本質的には終身雇用制度と転職流動性は両立可能である。40歳で中途入社したならその会社の40歳のルートにいきなり乗せてあげればよろしい。
転職してきた人はまた転職して行ってしまうのではないか、という考え方になりがち。間違ってないけども。それをシステムでサポートするのが特定派遣だったんだけどもさ。