はてなキーワード: 流動性とは
Not Financial Advice。個人的メモ、現状の文字起こしと雑な未来予想。自分もWeb3ヤーとして整理したかった。
根源的にビットコインは規制で禁止することはできないので、できるところから規制されるトレンドは今後も続くだろう。目下、短期のナラティブはETF承認である。AML/CFT観点でビットコイン現物の流通はなるべく制限したい規制当局側と、ビットコインのエクスポージャーが欲しいだけの大多数の投資家の思惑の両方が、現物ETF承認という形で結実するのである。その後、ビットコインETFが高い流動性を持つようになれば、既存金融機関はビットコインETFを担保にした金融サービスや派生金融商品を展開できるようになる。
また、大手マイニングプールと、(すでにマイニングプールの株主となっている)ETF取扱金融機関が提携する未来もありえるだろう。例えばマイニング収益はプール参加者のウォレットアドレスに引き出されることはなくなり、プール参加者の証券口座にETF残高として入金されるようになる。これはプール参加者と規制当局どちらにも利点がある。プール参加者にとっては、ブロックチェーン手数料や秘密鍵保管といったブロックチェーン特有のリスクを負わなくて済むし、ビットコインETFを通して既存金融の多種多様な流動性へ容易にアクセスできるようになることも喜ばしい。規制当局にとっても、本質的に規制できないマイナーとBTC現物が切り離されることは喜ばしく、win-winなのだ。すでに大手マイニングプールはマイナーにKYCを求めているので、マイナーは分散思想よりも規制された安定を選んでいる。マイナーが投資家保護環境の整ったETFに乗り換えるのは合理的な選択なのだ。
ビットコイナーの思想とは相反するものの、市場原理とは相反しない力が優勢となって働くことで、ビットコインはATHを迎えるのである。
マイニングプールが結託して51%攻撃を起こすことは、マイニングプールにとっても合理的ではないので、少数マイナーの寡占状態が直接的にビットコインを破壊に導くとは考えにくい。しかし、大きな金額を動かさないといけない巨大プールは既存金融に保護されざるを得ず、規制の圧力に対しては脆い。同じ51%でも1 ✕ 51よりも25+26の方がCensorship ResistanceやOpennessといったブロックチェーンの本源的な価値は損なわれやすい。なのでマイナーに寡占が起こることを問題視しないのも間違いである。
https://x.com/nook_ethereum/status/1696476655475171759
仮の話だが、完全に当局の規制を受けてコーポレートが牛耳る、本源的な価値を失ったビットコインが、too big to failな状態でゾンビ化した時どう振る舞うのだろうか?そのタイミングで古参クジラは離脱して一時的に売り圧が発生する気もするが、そのままトリクルダウンとなるほどのトリガーかというと分からない。これはビットコインに使われる暗号の危殆化などのリスクと一緒で、起こるまで想像ができない。そのフェーズはP2P電子決済システムビットコインという壮大な社会実験の重要なハイライトになるに違いない。
ビットコインのブロックスペースを使って、レイヤー2上で好きなブロックチェーンを誰でも立てられるようにする新機能。まだ提案段階の機能だが、賛否両論を招き、界隈を真っ二つにしている。
ちょっと前に流行ったStacksの仕組みと異なり、BTCを子チェーンにオプトインするような仕組みも備える。もちろんオプトアウトもできる。
ただし、Drivechainが認められると、ビットコインのスケーラビリティを向上させるソリューションとしてのLightningネットワークの意義がかなり失われる。Lightningは”P2Pで”高速決済したい人が使うための機能という、かなり思想が強い人向けの錆びついた技術になり得る。
Drivechainの提案自体は昔からあったが、最近になって流行り出したのは単なるナラティブ作りであろう。ordinalsやStacksもそうだが、新しい技術はそれだけで盛り上がりやすい。ordinalsの場合だと、昔から追っていた人は、自分が優位でいられる情報が非対称的な時期に、短期で出口流動性(イナゴ、養分)をたくさん集めて、たんまり儲けて売り抜けることができた。
ちょうどBitcoin, not Cryptoな時期で、Drivechainのような特大アップデートがあればナラティブとしては強力だ。しかし、だからこそ、どうしてもDrivechain利権の存在を勘繰ってしまう。Lightning利権とも対立しそうだ。
Lightningはビットコインにマルチシグだけあればできる機能だが、Drivechainはソフトフォークとは言え、これだけのために新規のオプコードやメッセージの追加など、開発リソースをかなり費やす大幅なアップデートなので非常に図々しい。ソフトフォークをexcuseにすればなんでもありだと言うわけではない。
今更dAppsが走るサイドチェーンを作っても、Ethereumで起きているようなゴタゴタをビットコインに持ち込むだけで、Bitcoin, not Crypto神話を汚すだけになるだろう。
実質管理者のいるDeFiも規制の煽りを受けて存続は難しくなっていくだろう。ハッキングやインサイダー、スキャム(詐欺)、ラグプル(持ち逃げ)から投資家を保護できないファイナンスは、たとえゲイリー・ゲンスラーがSEC長官を退任したとしても長期的には必ず規制対象になる。また、そうはならなくとも投資家の方から勝手に離脱していく。
しかしながら、オフショアで規制の及ばないチェーンを舞台に、リスクを恐れない投機家の間でDaFi(Dark Finance、闇金融)に転じたDeFiがしぶとく生き残るのはどうしようもない。
ただ、そのようなDeFiはもう社会生活の金融インフラになることはないだろう。結果的に今のDeFiはDaFiかCeFiに分岐していく。
CeFiという語彙は以下のツイートから使わせてもらった。ブロックチェーンを使っているが、規制もされている金融サービスくらいの意味だ。
https://x.com/kimurayu45z/status/1695988782871498898?s=46
ブロックチェーン上の金融サービスに規制をかける場合、どのようなものになるだろう。まずCeFi事業者に対する当局による管轄、投資家のKYCは必須になる。そうなってくるとブロックチェーンでやる必要はあるのかいよいよ分からなくなってくる。かの有名なWhy Blockchain?の声がまた聞こえてくるのだ。
少なくとも、トークンでガバナンスするような機能をプロトコルに組み込む必然性はなくなり、ガバナンストークンは株や証券に近いものになっていく。また、仮にアプリケーションどころかL1チェーン自体が規制されれば、PoSなどのトークンベースのコンセンサスアルゴリズムはもはや茶番になる。
ユーザー目線でも、KYC済みのアドレスをスマートコントラクトに登録してまで、入札や取引したい投資家がどれくらいいるのか今のところ分からない。
もしもかつてのDeFiバブルが違法事業者の非合法的な取引で盛り上がっていただけの幻想だった場合、KYC後のクリーンなCeFiにどのような実需があるのだろうか。
MEVというのは、ブロック生成者が承認前のブロック内の取引を盗み見れることをいいことに、他人の取引を先取りしたり、順序を利己的に入れ替えることが可能である性質から生じる、ブロック生成者が独占できる収益源泉のことである。
https://keccak255.substack.com/p/mev
MEVがあるせいで、ブロック生成行為が中央集権化しやすくなったり、ユーザーのサービス体験が低下したりするため、dAppsが動くブロックチェーンにおいては重要な課題だ。
もちろん技術的に解決するSuaveのようなソリューションが提案されているのだが、分散化にメドがたっているわけではない。また、問題が外部化するだけで本質的な解決にはなっていないのではと思う。
Suaveについて参考までに
https://writings.flashbots.net/mevm-suave-centauri-and-beyond
また、MEV利権がすでに巨大化している政治的な事情もあり、問題はかなり複雑化している。このように込み入った問題を、さまざまなステークホルダーの思惑が入り混じる、非効率的な分散ガバナンスで解決するのは前途多難と言わざるを得ない。
チェーンのTVLが巨大化し、RWA(real world assets)などのMEVファクターがチェーンのエコシステムの隅々まで組み込まれれば、MEVがもたらすマイナス・サムの影響はユーザーにも感じ取れるくらい甚大なものとなるだろう。さらに、可視化できないリスクを嫌う大手投資家の参入を阻むことにもつながる。
そうなったとき、パブリックブロックチェーンの夢は雲散霧消するか、中央集権が正当化された世界でregulatedなブロックチェーンが生き残っていくかのどちらかになる。
一旦DaFiやCeFi、MEVのことは忘れて、全てが解決して、DeFiがそのままメインストリームになった社会を想定してみる。そこで注目したいのは、チェーンに閉じたDeFiでは信用創造ができず、分散型ステーブルコインなどの場合は常にover-collateralized(過剰担保)させなければならない点だ。つまりロックされた資本以上の価値が市場に再投資されない。原資本は再投資のたびに指数関数的に薄まっていく構造になってしまうのだ。
そのような先細りの金融インフラの上に展開される資本主義及び自由市場経済社会が、規制された金融に基づいた現状の社会よりも、高い資本効率と経済成長率を達成できるのかは甚だ疑問である。
一昨年のDeFiバブルの正体が、USDTなどの法定通貨担保型のステーブルコインがチェーン外から流入することで起こったに過ぎなかったのだとすれば、DeFiの世界はCe要素なしには拡大できないということになる。実際、USDT、USDCなどの法定通貨担保型のステーブルコインの時価総額は無視できないほどに巨大だ。そういった規制アセットの流入なしにはリターンが期待できない構造的欠陥がある限り、DeFiは規制を拒んで信用収縮の道を選ぶか、信用創造のために規制を受け入れてCeFi化していくしかない。
分散や自己主権といったブロックチェーンの思想を全く気にしない大多数のユーザー目線で見ても、国際送金や金融取引が瞬時に透明性高く行えるブロックチェーンが便利なのは間違いない。しかし、それは既存の金融サービスが規制というかなり重いハンデを付けられた状態で戦ってくれているからそう見えるだけで、ブロックチェーンという技術自体がイノベーションだからではないのではないか?つまり、仮に規制の側が妥協して、金融業界がリバタリアン並みの自由化を勝ち取った時、ブロックチェーンは、例えばApple銀行のような大規模なWebインフラを使った金融サービスに技術として勝てるのだろうか?
もしも、ポンジスキームやスキャムであることが明らかなミームトークン、発行主体を名指しできるXRPや、ガバナンストークン全般が、規制されない(もしくは証券ではない)と判決された場合、Apple銀行がプログラマブル・トークン発行プラットフォームを立ち上げればブロックチェーンは競争に負けてしまうのではないか?秒間取引処理数が少なくて、手数料も高く、ウォレットも使いにくいブロックチェーンの優位性はどこにあるのだろう?
とはいえ実際に既存金融が完全自由化することはありえない。あり得るのは、既存金融業界とブロックチェーン業界が融合していく中で、その両極からの声を取り入れながら、長期的には両者の境界線が最も曖昧となるような規制環境が整備されていくシナリオだ。それはトークンの証券化かもしれないし、証券という概念が古くなるような全く違う新しい法概念や規制のフレームワークの誕生かもしれない。そうなったとき、果たしてブロックチェーン技術が市場で競争力を持つのかは、改めて問われなければならない。使いやすさより分散思想を優先するユーザーなんて殆どいないはずだ。
日本のWeb3界隈は、昔から霞ヶ関を巡回する界隈と海外組の界隈に二分されていたが、最近は海外からの出戻り組が増えてきたように思える。かつてJapan色がなかったAstarが最近はJapanを押し出すことが増えてきたので、これも出戻り組と言えるだろう。京都で開催されたIVS Cryptoでは、かつての海外組が、今後は日本にもコミットしていくしたたかな姿勢も見せていた。
Astarが政府機関やJTCと手を取り合って、提携関係や共同研究関係を結び始めたときは、何をしているんだと正直思っていた。しかし、当時から規制側に歩み寄らなければブロックチェーンは存続できないと読んでいたのか、単なる嘘から出た誠なのか、こうなった今では一定の妥当性が理解できる。
とはいえ規制と近づきすぎるとパブリック・ブロックチェーンの特性が邪魔するはずなので、その擦り合わせは茨の道だろう。Why Blockchainの最前線で闘う姿勢は評価したい。
渡辺氏も、もしAstarがダメになっても、日本は偉い人と仲良くしておけば何とかなる国なので、かつてのホリエモンのような毒を出さなければ、どこかしらの利権に入れてくれるだろう。そこら辺を踏んでいるのか、彼のポジショニングは上手いなと思う一方で、FTXのサムが破滅直前まで政府と蜜月関係を結ぶのに奔走していたことを思い出させるから少々怖くもある。当局に近づくと不透明性が増すので、個人的にはまだASTRに買いを入れる勇気が持てない。
さて、クリプト・コミュニティ一般の話だが、これも昔よりは成熟してきたと思う。悪しき通貨が自然淘汰される市場原理が働いたというのもあるが、個人の中にも、かつては歯に衣着せぬ物言いでオピニオンリーダーになったインフルエンサーが、今ではバランスの良いコメンテーターになったりと、心境の変化なのかポジショントークなのか、変化を感じざるを得ない。日本人垢にも外国人垢にもそんな人は多い。
例えばVitalik氏は、かつては大衆向けに過激なことを吐いていたが、最近は難解な理論の提示にとどまり、過激な使い道を見つけるかどうかは受け手の自由ですよ、という我関せずな態度に改まった。
むしろ危ないのは、陰謀論界隈や極右派をバックにした米国会議員をはじめとするすでに過激なコミュニティが、ビットコインやWeb3に活路を見出そうとしていることだろう。余計なポリコレリスクを抱えると面倒である。
このタイトルは煽っているように聞こえるかもしれないが、流行りに乗っただけで煽ること自体は本意ではない。ジブリのあの映画を見た頃、こんなこと考えてたんだなぁと後でエモくなるための筆者なりのギミックなのだ。もし不快な思いをしたクリプトに携わる人や投資家の方がいれば、そこは大目に見ていただきたい。
https://anond.hatelabo.jp/20230830203626
「貨幣には価値がある」とかそういうのも言ってしまえば共同幻想なわけじゃない。
モンスター部下が話題だね。俺はまさに『Bさん』タイプ。大変だよね。わかるよ。
ただ、お前ら全く俺たちのこと理解してないなと思ったのでこっち視点からある程度書くね。
①本人に悪気はない
まず、なんか「本人に悪気はないんだろうけど」みたいなレスやブクマが目立つじゃん。
悪気あるんだわ。
先輩が不快になればいいと思ってるし、上司に迷惑がかかればいいと思ってるし、部署の評定が下がればいいと思ってるし、こんな会社潰れればいいと思ってる。
何でかって言うと簡単で、働きたくないのよ、俺。ていうかみんな働きたいの?働きたくないよね?
でも、この世界働かないといけないわけじゃん。つまり世界が間違ってるわけじゃん。だって俺は本来働かなくても500億円くらい貰ってしかるべき人間なんだから。
まあ、子供じゃないから世界を変えようなんて思ってないけど、イライラはするじゃん?そのイライラをぶつけるサンドバッグとして先輩や上司は俺のストレスを受ける義務があるよね?
という心情です。だから「本人に悪気はないんだろうけど~」系の言動は全部間違い。普通に悪意あるわ。お前らに損害与えようとしている。勿論そんなこと表に出したりしないけど。
でも普通に考えて、お前らなんで攻撃されないと思うの?「俺を働かせてる罪」の共犯者でもあるんだから当然罰を受けるべきだと思わないの?
だから普通に「あっ今聞いたら嫌だろうな」ってタイミングで質問もするし、なるべく相手が嫌がることをしようと思ってるよ。
俺の凄い所は、それを計算しないでもできるってことかな。人間、長所はあるもんだよね。
②何度も言ったことを覚えない
仕事を覚える気がない…とか以前に、お前の話聞いてねえんだわ。
だってお前の話面白くないんだもん。もっとyoutuberとか見習ってさ、仕事も面白おかしく教えようぜ?いや別に面白くても聞かないけど。
「話したら相手に物事が伝わる」と思ってる時点で人間舐めすぎでしょ。何でお前は自分の話が聞く価値のある話だと思ってるの?馬鹿だから?
指示だのマニュアルだの仕事だの知らねえってんだよな。てかさ、何で口頭で言うの?ちゃちゃっとテキストにまとめてチャットツールなりペライチで刷り出すなりして渡せよ。
そしたら「テキスト見て」で済むわけじゃん?何でそうしないの?アホだから?2回目くらいで「あっこいつ話聞いてねえな」って察してさっさとテキストに切り替えればいいよね笑
そういう判断力がないから、非効率的な仕事をいつまでも繰り返してるんじゃない?お前の話聞いたことないから知らんけど。
ていうか、そもそも仕事が出来るようになりたいと思ってないし、仕事が健全に回って欲しいとも思ってないし、仕事に興味もないんだから話聞くわけないだろ。
って感覚です。なので、さっさとテキストで渡した方が良いと思います。
③何で嘘つくの
逆になんで本当のことを言うのか全く理解ができない。嘘をつけるタイミングがあったらとりあえず嘘つくだろ。
本当のこと言うとさ、アレじゃん。なんか恥ずかしいじゃん。あと無意味な嘘で他人が混乱してるの見ると楽しい。すまんそれは嘘だ。ぶっちゃけ他人が何考えてるかとかどうでもいい。
お前ら病院の問診票とかでも見栄張って嘘ついたりしねえの?俺はするけど。
でもさあ、例えば「神が貴方を救ってくれる」とか、「仏様が見てる」とか全部嘘なわけじゃん。「貨幣には価値がある」とかそういうのも言ってしまえば嘘、共同幻想なわけじゃない。
嘘も良い嘘と悪い嘘があるよね?人が幸せになれるならそれは良い嘘なんだよ。つまり俺が幸せになれるならそれは良い嘘なんだよ。嘘をつくたびに俺にメリットがある。
あと正直言って、「お前ごときに嘘がバレるはずがない」っていう見下しと、「お前ごときに嘘がバレても構わない」っていう見下し、ダブルの見下しもあるな。
要は舐めてんだよ。お前のことを。だから嘘をつく。これが一番デカいな。そんな感じなので嘘をつくのは諦めた方が良いと思います。
あとは筋肉ムキムキになるとかすれば、見下されなくなるので嘘つかなくなるんじゃないでしょうか。
④こんなやつは辞めさせてしまえ
自分がこういうやつだって知ってるから、正社員目指すよね。普通。
こちとら小学校時代から社会不適合者なのわかってんすわ。馬鹿だけど馬鹿じゃないし。
なるべく体質が古そう、流動性が悪そう、窓際でも首にならなそうか、そういうところ見て就職してんだわ。あとはイジメとかぬるそうなところね。
そんで、そういう企業に受かるために子供のころから勉強してんだわ。だからさあ、そういう会社に入っている自分が悪い所あるよね?
という気持ちなので、なるべくしがみつきます。会社だけではなく、良い感じの部署がありそうならそこにもしがみつきます。
働きたいか?働きたくないだろ?会社は好きか?嫌いだろ?世の中は好きか?政権は好きか?嫌いだろ?
話し手の角度によって、急に態度を変えるの良くないと思うんだよな。
じゃあお前喜んで電車乗って会社行って喜んで仕事してるわけ?してないじゃん。
普段は会社に搾取される系の愚痴でわかるわかる~ってみんな言ってるわけじゃん。
だったら俺と同じムーブするべきだよね。会社や社会に搾取されないで、必要な権利や利益を引き出すのが賢いってみんな思ってるわけじゃん。何故そうしない?俺はそうしている。って感じです。
そういうことすると自分の寄生先が無くなるじゃん、馬鹿かよ。みたいな思考もわかるんですが、まあその時はその時で良いと思ってます。破滅は破滅で好きなので。
⑥そんな僕も今は
何故なら別に失敗することはどうでもいいので、たまたまやる気ある日に後先考えずにかけた営業が爆益産んだからです。
多動気味の人間ってこれが強いんじゃないかな。なんなら失敗しろやって案件ほどするする回ったりするよね。
真面目な人間って失敗することを恐れすぎなんだよな。別に会社なんて潰れたっていいじゃんとか、取引先や子会社に迷惑かけてもいいじゃん、という気持ちが足りてない。
他人なんてゴミカスなんだから、迷惑をかければかけるほどいいのにね。働いてるやつは全員「俺を働かせてる罪」で死刑になってもいいようなやつらなんだからさ。
まあ、ルールを大事にする人間ってルールを守ってることしか誇りに思えるようなことがないんだろうなってドヤ顔で後輩に言ってる。んなわけないけどな。
あ、⑤はBさんタイプの人間を勇気づけるために書いた。もっと会社にフリーライドしてゴミ共を踏み台にしていこうぜ。
勝手に病んでどっか飛ばされるようなカスより俺たちの方がよっぽど強いよ。無事是名馬ってやつだ。
まあ、結局社会が悪いしその社会を支えてる皆が悪いんだから、みんなで協力しあって俺たちを支えてください!
嫌なら社会をやめろ!
謝罪文なので一応謝っておく!ごめんね!
人間の流動性が加速していく昨今で過度に周りの人間に固執する必要はないし、取り返しのつかない大失態を犯しても環境を一新させることも比較的容易にできてしまう
そんな中で利他性を保って生きていくことが生存につながったような昔に造られた人間本能に準拠する既成道徳や因習に過度に凝り固められ縛られているから生きづらいのではないか
現代社会において利他的行動は我々に幸福感と生の喜びをもたらしてくれるポエム的なものに過ぎなく、利他的行動により生存が圧倒的に優位となれる可能性が高いわけではない
利他的行動は相手の良心に身をゆだねるため相手が利己的ならば奪われる
野生に生きる動物たちはむき出しの本能で日々血なまぐさく争っているが、人間は理性を用いて自分の身体性の限界を拡張する炎や武器などの圧倒的な暴力を生み出し、暴力に支配された自然の理を理性で制限し人間の利己性を押さえつけることに成功した。そして各々の利己性は利他性に奉仕させられそれを美徳とすることで人間は地球の覇者となった。
つまりは人間性の起点は利他性にこそ存在している。しかし人間はいつまでも本質的な原始本能である利己性をなくすまでには至ることができないでいる。
それは人間がやはりどこまで行っても獣であり、自分の体に縛り付けられた理性しか持ちえないからだろう。
だから我々人類は共生の歴史が根深く完全な利己的行動に走るには良心の呵責が伴いこれは簡単に捨てることができない。
完全に利己的行動へ堕するには獣にならなければいけない
獣になってでも生き延びることが美徳か?人間らしい利他性のために殉ずることが美徳か?
それを決めるのは個人の自由で良い、この世の縦横無尽に広がる無限の地平線の深遠さに比べれば本当にとるに足らないことなのだから、、、
有休は労働者の権利なので自由に取っていいし、そもそも理由を言う必要もない。
でもさあ、労基法上の有給休暇に関する規定だと、有給休暇って6ヶ月間継続勤務して初めて与えられるものなんだよね(労基法39条1項)
仮にこの新採用の人が今年の4月に採用されたとしたらまだ5ヶ月目に入ったばかりなので、
それなのに有休が取れるって時点で、恵まれた特権階級にある訳で、その事に対して問題意識を持たずに手放しで称賛するのはおかしいと思う。
実際には大手企業の正社員ならば6ヶ月を経ずして有休が与えられるところが少なくないし、
労基法上通りに6ヶ月経ってようやく休める非正規や中小との差が開くばかり。
有給休暇に関するこの定めって「雇用の流動性」を図る上では不都合でしかないのに
https://twitter.com/papagreen10/status/1688542514461257729
@papagreen10
株とか投資信託をやり始めて2年経ったので、パフォーマンスとか適当に書いてみる。
運用資産は1900万くらい。必ず現金を最低500万別に持つようにしている。
投資は株式100%だけど、これは自分でもアグレッシブ過ぎるかもしれない、と思っている。
まだ30代なので経済危機がきても持ち続けて10年くらい回復を待てる、と思っているがそのうち現金比率と債権比率を10年後くらいには増やそうと思っている。
何も工夫していなくて、国内株式・米国株式・全世界株式のインデックスの中から信託報酬が低くて流動性が高そうなのを選んで積み立てNISAで積み立てているだけ。
まぁずっと積み立ててようかな。
残りは国内株式(うち東証で取引される米国ETF含む)。割安だなーと思った大企業の株を中心に買っている。
優待よりも値上がりや配当を気にしている。いや、優待って使い切るの大変そうだし。。。
2022年のリターンは90万くらい。そのうち売買での利益が65万、25万は配当(すべて税引前)。
そこそこ増やせているのではないかな、と思っている。
含み益は+300万くらいでている。
2022年はコロナで打撃を受けた株が回復したり、商社株の伸びがすごく、軒並み株価が成長しててびっくりした。
KADOKAWAも会長が逮捕されたりしたときに大きく値を落としたが、回復している(落ちたときに会社のビジネスへの打撃じゃないしどうせ回復する、と思って買っていたのでよかった)。
株取引していると、欲望をどうやって抑えるのかが難しいな、と感じる。
一杯買いたいという気持ちが株価を見ていると湧いてくる時があり、それをどうやって抑えるか、というのが巷で言われる投資法のミソなんだろうな、と思った。
国内株式の調子が良かったのは間違いないけど、保有する株のポートフォリオをどうするべきなのか微妙だなーと思っている。
アメリカ株は為替手数料がかならずかかる関係であまり魅力的にうつらず、東証の米国ETFとか投資信託でカバーできればいいかなと思っている。が正しいのだろうか。
「雇用全体の流動化」を全部できなかったのが駄目だったのだろうな。本来だったら、大企業の解雇自由化も完全化すりゃ良かったのだけど、実際にできたのは「取り替え可能な派遣の流動性がアップした」というだけなんだよ。理想は大企業の窓際族の排除だったのだけど、そっちは解決できないで、当時たくさんいた団塊ジュニアという優秀な連中を派遣という手法で安くで使いこなすっていう、やんわりとした地獄なんだよな。そこで、本来だったら経済学者(笑)なんだから「経済的な視点でマズイとわかったはずなのに、なんにも手を打てなかった」というのはポイントだよね。普通に考えたら、団塊ジュニアを貧困に追い込めば少子化が進む、または団塊ジュニアに金がないと自国の製品を買えないで自国企業が細るというのは考えつくだろうにね。竹中氏が馬鹿にされるのは、経済学者なのに何にも政策としてプラスに繋がらないこと、または後でこういうことになるだろうに対策を打てなかったこと、だと思うよ。竹中氏は政策でなくて、無能だったから批判されてんの。そこは勘違いしないでほしいよね。
現在のボクシングでは複数階級制覇っていうのがフューチャーされてビジネスとして成り立っている。
体重別であれば筋肉量をどんどん増やすことによって階級を上げていくことが可能であり
その階級では最強でも「じゃあ上の(もしくは下の)階級のあいつより強いのか?」という議論が起こり、
日間ランキング制度について雑に書きすぎた気がしてきたので、1位になるには平均値以外の要素でめっちゃ稼ぐ必要あるよ(無理ゲー)という現役ランカーの解説を載せときます。
https://twitter.com/HamelnFilgaia/status/1691758710178345156
その理屈だと、なろうカクヨムどの小説投稿サイトでも規約違反BANが多数起きているので、すべての投稿サイトが脆弱です。というか実際そうです。
今回、炎上してやや大事になったのは、みんと氏と取り巻きが炎上の初期鎮火に失敗し続けたからであり、やらかしたことは本当に大したことありません。評価システムにもほぼ影響を及ぼしてません。
ハーメルン誕生期からの原住民じゃないから間違ってたらごめんだけど、それArcadiaと混同してない?
みんと氏の謝罪文の書き方が要領を得なさすぎて、混乱したブコメが散見されるので解説するよ
(俺を含めた)意味不明な人向けの説明:書籍化もしているラノベ作家が、自身も投稿しているWeb小説投稿サイトの、自著以外の小説に低評価爆撃してランキング操作しているのがバレて地味に炎上
トップブコメです。これ自体は正確な説明なんですが、ただまだいろいろ文脈が抜けててまだ「そのくらいで炎上する?」みたいな疑問が解けないと思うので、別の観点からこの炎上に光を当ててみましょう。
ハーメルンの評価システムについては別に解説したいので、1つ目は後回しにして2つ目から説明します。
月ノみんと氏は8作のランキング上位作品に低評価を付けました。
誰が評価付けたかは実は隠せるのですが、みんと氏はうっかり公開評価で低評価してしまったため、8作の作者8人全員、みんと氏の低評価は通知されています。
そのうちSNSで晒すという暴挙にでたのがリッチマン氏だったことは、Web小説界隈に馴染み深い人の中では何も意外性のないことで、彼は自分に舐めた対応取った人に対してなあなあで済ますことを許さないタイプの人間です。
例えば、
【更新】書籍化の打診→一度ならぬ全面改稿・分量半減を含む度々の直し→50日放置→企画立ち消え、という悲劇とその後 - Togetter
舐め腐った対応を取ったヒーロー文庫に対し、リッチマン氏がSNSで晒すことで炎上を引き起こし、「そんなことしたら出版社のブラックリストにのるよ?」「なあなあで収めてくれたら書籍化企画復活させるよ?」といった脅しや懐柔を「舐めとんのか」と突っ張り続けた事例。
しかも当時は「なろう通は知っている」程度の知名度だったのに対し、今ではハーメルン累計ランキング1位の作家で、なろうにも多くのファンがいます。
リッチマン氏は、みんと氏をSNSで晒したあとも、みんと氏がダメダメな炎上対応をするたびに、嘘や欺瞞を指摘して、炎上に火をくべ続けました。
喧嘩売ったのがリッチマン氏じゃなければ、おそらくいずれ低評価された作者の誰かが運営通報して、運営がみんと氏を処分する、そこまで話題にならない騒動程度で収まっていたことでしょう。
虎戸リア氏はリッチマン氏に対し、「お前がみんと氏を晒したせいで逆にみんと氏の作品が低評価爆撃されている。どっちもどっちだしDMで丸く収めるべきだった」などと主張しました。
もちろんそんなのリッチマン氏には関係のない話ですし、そこから犬も食わないレスバが勃発します。
また、「1人の悪意で崩壊するなんてハーメルンの評価システムは欠陥だ」などと一知半解の主張を繰り返し、ハーメルンを愛してやまないハーメルン民の怒りを買いました。ここでもレスバが起きました。
その果てには「ハーメルン民って地元最高って感じだね」などと、都会を知らず搾取される少女たちを描いた漫画を参照してハーメルン民を煽るなど、結局レスバは日が変わるまで続きました。
この虎戸リア氏の行動が致命的だったのは、月ノみんと氏がその時「沈黙」という悪くない炎上対応を取っていたにも関わらず、代理で油を注ぎ続けてしまったことです。「無能な味方は有能な敵より恐ろしい」とは言ったものですね。
リッチマン氏の晒し直後、「ちゃんと高評価も付けてるし印象操作やめろ」との趣旨の発言をみんと氏は行いました。当然リッチマン氏は公開評価全体のスクショを取っているので嘘はすぐに晒せます。低評価オンリーでした。
また、読んだ上での評価だとも最初は主張しました。後にハーメルン運営の調査により閲覧時間ほぼ0というログが残っていることが判明しました。
もちろんダウンローダーを使ったオフライン読書など、ログの残らない読み方というのはありますが、
なろう/カクヨムと違ってハーメルンでは低評価に実効性があることを強く意識していることがツイートから伺えたり、なろう/カクヨムでは低評価を行っていないのにハーメルンでは低評価しかしてなかったり、
その他様々な状況証拠も合わせると、読んだ上の評価というのが嘘であるのは明らかでした。
みんと氏を激しく非難していた層としては、リッチマン氏、ハーメルン民の他に、「本格ファンタジーワナビ界隈」があります(いまテキトーに名付けました。08/07追記「本格界隈」という名前があったらしい)。
みんと氏の作品はなろうカクヨムのランキング攻略用に特化し、流行りやテンプレを詰め込んだいかにもな作品です。みんと氏はその芸風で書籍化しプロになったことに強いプライドを持っていました。
一方で、プロ作家になりたいワナビの中には、「そんな低俗ななろう系は書けるか、俺は本格ファンタジーでプロになるぞ」という層があります。
炎上事件前のことなので、増田は生で見てないのですが、長年お互いをバカにしあってレスバしあってたようですね。
ただみんと氏は、書籍化作家という肩書があるだけワナビに対して優位を取れていた。そこに不正の暴露で一気に形勢は逆転、長年の屈辱を晴らすべく「本格ファンタジーワナビ界隈」は盛り上がりました。
ブコメに多く見受けられる誤解です。先の炎上理由1の解説も兼ねて説明します。
ハーメルンの日間は流動性が高くなるよう意図的に調整されてる、高得点や低得点数個の影響が大きい。全体的にとにかく目立てば得点になるなろうの加点法式を反面教師にしてる。利用者数は小説サイト中3位の大手。
この通りですね。なので月ノみんと氏の不正行為は攻撃だと言われるわけですが、「それでも欠陥では?」と思う人はまだいるでしょうから詳しく書きます。
結論を先に書くと、欠点を上回るほどの十分なメリットがあるし、月ノみんと氏の不正程度では大した攻撃にはならないのです。
ハーメルンの日間ランキングは、その日についた評価の平均に強い重みを起きます。事実上の平均ランキングです(日間以外のランキングは別計算式です)。
単純化してイメージで語ると、その日の評価者が1人だけでも、その人が満点を付けてくれたら日間1位になれるということになります。ランキングと言うよりピックアップです。
なろうの加点方式に対してこの方式にどういう利点があるのか。それはなろうの「ランキングが先か、読者数が先か」問題を解決できることです。
なろうではランキングに登らないと、読者に読んでもらえません。一方で、読者数が多くないとランキングにのりません。
富める者はますます富み、貧しき者はますます貧しくなる、なろうの膨大な作品投稿数も踏まえると埋もれる作品が大量に出てきてしまいます。
ハーメルンの場合、1人が推せば注目の場に上がれます、その代わり1人がけなせば別の作品に入れ替わります。流行りのジャンルでなくても、1人に刺さるものが書ければチャンスがある。
ハーメルンは二次創作の投稿サイトでもあるので、この性質はなろう以上に重要です。原作によって二次創作の潜在読者数は変わりますから。
原作が流行りの二次創作ばかりでない、展開が「なろう系」のテンプレばかりでない、多様性のあるランキングがハーメルンの日間ランキングの目指すところです。
それでも「1人の悪意で崩壊するなんて欠陥だ」みたいな意見があるかもしれません。しかしこれは日間ランキングなので1日しかその悪意は効果を持ちません。
「評価の付け直しで複数回低評価を入れる」なんて悪知恵を思いついた方もおられるかもしれませんが、ランキングに反映される評価は最初の1回のみであり実行不能です。
そして一日ランキングが下がったとしても、誰かが推してくれればすぐに復位できます。流動性の高さは、悪意に対する弱さでもあれば、すぐに元通りになる強さでもあるのです。
なお、ブコメにはありませんが「ハーメルンでは平均評価が8未満だと読まれなくなるから低評価は恐ろしい」という話を聞いたことがある人もいるかもしれません。これは実はハーメルン住民にありがちな誤解です。
平均評価が色で視覚化されていて、最上位の色、平均評価8以上の「赤」になるかならないかが、読者数増加を左右するというのは事実なのですが
ここでいう平均評価は上位下位それぞれ10%を除外した刈り込み平均です。現在ハーメルンでは高評価をつける人が圧倒的多数なので、低評価は下位10%に完全に収まります。
つまり高評価を付けた人の中での平均が視覚化されているわけで、低評価は計算式から完全に無視されます。
ただし、評価者が少ない連載初期の場合は例外です。刈り込み平均は機能せず低評価は極めて恐ろしい存在となります。ただし今回の月ノみんと氏の問題行為は「ランキング上位作品に対する低評価」なので無関係です。
上で述べたようにハーメルンのランキングシステムにはなろう・カクヨムと比較して大きなメリットがあります。一方で様々な緩和策が施されているとはいえ、相対的に性善説よりなのも確かです。
ただ、それで魔が差しやすくなるかは疑問です。日間ランキングには比較的容易に入れるという事実は、他サイトと比べ不正の魅力が薄いことを意味しますし、
それ以上にハーメルンは趣味の世界です。なろうやカクヨムと違ってプロ作家への登竜門ではありません。また実際問題として大した問題は起きていません。
むしろ、なろうのランキングは長らく相互評価クラスタで有名でしたし、最近でも、【注意喚起】不正に評価ポイントを増加させる外部のサービスに関して | 小説家になろうグループ公式ブログといった騒ぎがありました。
「ハックしやすいから魔が差す」なんて言説は、書籍化に命かけてるワナビたちのランキングハックに向ける根性を舐めてる気がします。
そんな背景もあってか、ハーメルン経由の書籍化については、ハーメルン運営はかなり否定的なメッセージを発信しています。
ただ、紳士協定以上の規制はないので、ハーメルンにもここ数年少しずつ書籍化の波が訪れているのも事実です。
もしこの流れが悪い風に働いてモラルハザードとなったらその時ランキングの計算式が変わるでしょうね。
ここまで書いたことから明らかでしょうが、ブコメに1人いるので一応回答します。月ノみんと氏はランキング操作目的で作品を読まずに低評価したことが、状況証拠とログから立証されたため非難されました。
面白くない作品に低評価をつけることは、何も責められることではありません。
評価は誰が何に付けたか非公開にすることもできるので、人間関係等も気にする必要もなく、正直につければいいのです。
ただし、評価傾向は非公開にすることができません。何を低評価してるかは隠せても、低評価しか付けていないことはバレバレですので、月ノみんと氏のような不正行為は評価非公開で行ったとしても風評リスクがあります。
月ノみんと氏がハーメルンでやったことは擁護のできない不正行為ではありますが、もたらした被害はそこまで大きなものではありません。
ハーメルン界隈の外にも伝わるような炎上をした理由は、彼が生きるのに下手くそな性分である(彼は発達障害診断済みの無職に近い専業作家です)ことに由来する部分が大きく、少し同情する気持ちもあります。
例えば、約1年前にハーメルンからBANされたエルトリア氏なんかは、嘘をついて不当な処分を受けたとハーメルンを貶めようと企てましたが、BAN理由が複垢による評価操作だとバレた瞬間にツイ消し沈黙し、いまでもなろうカクヨムで元気に活動しています。
彼は、月ノみんと氏と違って謝罪もありませんし、何ならなろうカクヨムでも一度BANされた過去のある、つまり再登録禁止という規約違反者であることも知られています。
それじゃバタフライエフェクトとか、恐慌が起きたときのシュミレーションはできないじゃん。ひょっとして、売り買いの幅が流動性の低下によって差が開くこともわかんないのじゃね?
例えば、ジュリア・クリステヴァの名声を確立したプロジェクト--詩的言語を構成するものは何かについての彼女の調査--を考えてみよう:
私たちにとって詩的言語とは、他の言語を包含するコードではなく、言語コードの無限性を表す関数phi(x1...xn)と同じ力を持つクラスAであり(存在定理参照、p.189参照)、すべての「他の言語」(「通常の」言語、「メタ言語」など)は、より限定された範囲におけるAの商である(たとえば、形式論理学の基礎である主語-述語構文の規則によって限定される)。例えば、形式論理の基礎である主語-述語構文の規則によって制限される)、この制限のために、関数phi(x1...xn)の形態論を偽装している。(SとB41ページより引用)
そして、これはほんの始まりに過ぎない。彼女のページの多くには、次のような公理(選択の公理)が散りばめられている:
(EA) {Un(A) . (x) [~Em(x) . -> . (Ey) [y e x . < yx > e A]]}
集合論を学んだ数学者には馴染み深いが、(私を含む)彼女の読者の大部分には全く不透明なものである。この公式は、「私たちの宇宙plのEに適用できる」と彼女は主張した(SとB p. 42)。(SとB p. 42)
ロラン・バルトは彼女の作品を「まったく新しく、正確なもの」と称賛した。そして最近の論者(John Lechte, Julia Kristeva, 1990)は次のように主張している。
クリステヴァの仕事で最も印象的なのは......それを提示する能力、それを追求する強烈な一途さ、そして最後に、その複雑な厳密さである。既存の論理学理論が引き合いに出され、量子力学が登場することもある(p.109)。
それ以外の人たちは、若干の懸念を抱いているかもしれない。用語の妥当性をチェックする知識もなく、議論に組み込む知識もなく、謙虚さと傲慢さの間のようなものから、CMTP(タウリン由来の大腸材料)に分類することをためらったのである。私たちの直感が正しかったと言えるのは今だけである。
というのも、SとBは非常に驚くべき2人なのだ。彼らは理論物理学者であり、集合論、行列代数、位相幾何学、そしてそれらの量子力学や非線形系への応用が日常的な労働の基盤となっているだけでなく、より広い文化的・哲学的問題についても深い理解を持っている。今回初めて、クリステヴァの主張を判断するのに必要な資格を持つ学者たち--言語、文学、自己などに関する世界的な主張を裏付けるために、高度な数学など(あるいはその外面)を動員する彼女のような人々--が、彼女の書いたものに注目した。-- 彼女が書いたものを見て、その中で科学や数学がどのように使われているのか、あるいはどのように使われているのかを詳細に検証した。そして彼らが発見したのは、彼女の概念投下(cf 名前投下)はまったく不適切であり、彼らにとっては初歩的な混乱と誤解を裏付けているということである。
SとBは、クリステヴァの`pl'の説明は、彼らが長々と引用し分析した他の多くの箇所と同様に、厳密に無意味であることを示した。例えば、「選択の公理」の使用は言語学とは何の関連性もなく、詩的言語の解明には役立たない。数学の集合論にこの公理が導入されたのは、無限集合、あるいは集合の無限の集まりを研究するためである。
詩のどこにそのような集合があるだろうか?選択の公理が「すべての配列が本のメッセージをどのように含んでいるかを正確にする」と言うのはおかしなことである。(p. 42)
SとBの多くの長所のひとつは、引用の長さと数である。さらに彼らの批判は、誤用されている用語--少なくとも超限集合論や数理論理学のより基本的な概念--について、光り輝くほど明快な説明と結びついている。SとBの解説は知的な饗宴であり、本物の数学者と一緒にいることに飢えを覚える。
SとBがクリステヴァのテキストで暴いている数多くの(そして彼らにとっては初歩的な)誤りの中には、(a)ゲーデルがその有名な定理で実際に主張したことと反対のことを主張していると彼女が思い込んでいること、(b)選択の公理が構成可能性の概念を含意しているという彼女の誤解、(c)関数C0(R3)の集合の定義の誤訳がある。私やPNRの読者のように、高度な数学の訓練を受けていない聴衆のほとんどは、彼女の言ったことを一言も理解できなかっただろうし、彼女の議論と詩的言語との関連性(たとえば、「私の車に触れたら、頭をぶち割ってやる」と対照的な「夏の日になぞらえようか」の特徴的な性格)を信用するしかなかっただろう。とはいえ、このようなクズのような彼女がパリ第7大学で言語学の椅子を得たのは、「新しく正確な」仕事でパリ(全権を握っていたロラン・バルトを含む)を驚かせた8年後のことだった。信頼を裏切るというのは、椅子に座るにはひどい仕打ちのように思えるが、あちらでは順序が違うのだ。彼女の任命委員会に誰がいて、彼らが集合論や数学的論理学をどれだけ理解していたかを知るのは興味深いことだ。これはすべて昔のことで、クリステヴァ教授は他のことに移ってしまった、という弁明はもちろん通用しない。もし私が、自分の臨床医学の分野では不正行為とみなされるようなことを根拠にして現在の椅子にたどり着いたと示されたら、その仕事が何年前に行われたものであれ、辞任せざるを得ないと思うだろう。その上、クリステヴァは、自分のブランドの準数学的詩学から、あからさまな詐欺師であるジャック・ラカンの仕事を受け入れるようになった。
象徴、イマジナリー、リアルに関する根拠のない教義を、クリステヴァがこの20年間、無批判な情熱をもって提唱してきたラカンは、クリステヴァと同様に、自分には本当の知識も理解もない学問領域から概念や用語を借りてきた。ラカンは亡くなるまでの10年以上、ある位相幾何学的な図形が精神疾患や人間の心に光を投げかけるかもしれないという考えに取り憑かれていた。例えば、彼はトーラスが「まさに神経症の構造」であると信じていた。(「まさに」というおかしな表現は、巨大な範囲とほとんどゼロに近い理解可能性を持つ直感に反する概念が、論証も事実も説明もなしに主張されるときに、強化語が使われることを見事に例証している)。したがって、彼の弟子たちもトーラスを信じていた--信じることが理解をもたらすかもしれないという、おそらくは常に先延ばしにされる希望の中で。(Credo ut intelligam)。いずれにせよ、彼らはボロメの結び目などに関する彼の一日がかりのセミナーに畏敬の念を抱いて耳を傾け、何度も脳卒中を起こした結果、失語症で言葉が不自由になり、認知機能がやや断続的になった哀れな晩年でさえ、そうし続けた。それまでは、失語症が失行症に移行し、彼の心が空っぽになるにつれて、彼の沈黙でさえも注目され、惜しみなく敬意のこもった解釈がなされた。
ラカンの数学の使い方のどこが問題だったのか。それは空虚な輝きであるだけでなく、内面的な欠陥でもある。ラカンの著作は、悪い精神医学、あるいは狂気の精神医学であるだけでなく、悪い数学でもある。SとBが示すように、ラカンは高度な誤りを犯している--トポロジーに由来する特定の用語(「コンパクトさ」など)の非常に特殊な技術的意味を混同している、など。しかし、彼は初歩的な間違いも犯す。例えば、無理数と虚数、普遍量化子と実存量化子を混同するような場合だ。
擬似数学の助けを借りて、ラカンは何時間もしゃべり続け、弟子たちは黙ってそれを聞いていた:
私はここで「コンパクトさ」という言葉を提唱する。断層ほどコンパクトなものはない。そこに閉じているすべてのものの交点が、無限の数の集合にわたって存在すると仮定すれば、交点はこの無限の数を意味することになる。それこそがコンパクトさの定義なのだ。
SとBが指摘したように、コンパクト性という位相幾何学的な概念と、位相幾何学の内外にある他の概念との混同は、数学の勉強をしていない聴衆にはまったく気づかれなかっただろう。このような話を何時間も聞きながら、彼らは何を思ったのだろうか。おそらく、ゴールドスミスの詩に出てくる村人たちのように、ただ畏敬の念を抱いたのだろう: それでも彼らは見つめ、それでもなお驚きを募らせた。彼のセミナーに参加した精神分析医や準医療関係者の中に、その頭が晩年は進行性の痴呆に悩まされていたという、あまりにも明白で悲劇的な事実を指摘する者がいれば、その驚きはさらに大きくなっていただろう。
SとBは、ミックスマスターの散文(あらゆる種類の華やかな用語が鍋に注がれ、500 r.p.m.で回転している)に気を取られることなく、個々の用語がどのような特定の用途に使われているのかに気を配っている。だから、ラカンが次のように主張するとき:
構造とは、言語のアーティキュレーションに隠された非球面である。
意味に関する限り、この副文--擬似様態語--の「それを持っている」ことは、動詞としてその文法的主語に包まれている対象そのものから反響しているのであり、主語の効果が非球面(中略)の渦巻きを作るか、この効果の主体がそこからそれ自身を「反射」させるかによって、意味の偽の効果、トポロジーによって誘発される想像の共鳴があることは明らかである(引用p.20)。
SとBは、ラカンが構造とは何を意味するのかを明確にしていないことを指摘するだけである。この用語が厳密な数学的用法に限定されると仮定しても、位相幾何学は構造の解釈の一つにすぎない。秩序構造、ベクトル空間構造、多様体構造などである。ラカンはどのような意味での「構造」を指しているのか明らかにしていないため、彼の議論は空虚である。
クリステヴァについての議論の中で、SとBは「彼女は、言語学、文学批評、政治哲学、精神分析といった、彼女が研究しようとしている分野と数学的概念の関連性を正当化する努力をまったくしていない」と指摘している。そして、誇示された博識の関連性の欠如は、『知的詐欺』において常に見られることである。メタファーを文字通りの真理であるかのように扱うことで、関連性があるかのように見せることもある。これは特にルーチェ・イリガライの著作に顕著である。
イリガライは、クリステヴァやラカンと同様、彼女が著作で利用する科学について徹底的な誤解を抱いている。彼女は流体力学に特別な関心を示し、「積層面」、「ソレノイド運動」、「スプリングポイント」といった専門用語を好んで使う。しかし、SとBの主な関心事は、彼女が流体力学を利用して、性的政治や女性の抑圧され疎外された状況について、かなり大げさな主張をしていることである。彼女の結論は、控えめに言っても、彼女が引き合いに出した科学によって決定されたものではない。
イリガライは有名なように、科学は性差別的であると主張している。例えば、E=Mc2は「性差別された方程式」である。彼女がそう考える理由は並大抵のものではない。方程式は:
我々にとって極めて必要な他の速度よりも光速を優遇している。この方程式の性癖を示すと思われるのは、核兵器による直接的な使用ではなく、むしろ最も速く進むものを特権化していることである......(p.100より引用)。
ここでの泥沼は非常に濃密であり、おそらくそれを解き明かす価値はないだろう。SとBが言うように、アインシュタインの方程式は高い精度で検証されている。イリガライが「我々にとって極めて必要な他の速度」よりも光速を優遇することについてどう感じようと、光速(c)が他の速度--例えば、スーパーマーケットで逃げ惑う幼児を追いかけて走る女性の速度--に置き換えられたら、この方程式は成り立たないだろう。別の言い方をすれば、もしこの方程式が性差別的であれば、自然も同じである。もし科学者がこの方程式に関して性差別的であるとすれば、それは物質が性差別的だからである。そして、物質が性差別的であるならば、物質でできている女性もまた性差別的なのである(このことについては、後述するようにもっと言うべきことがある)。
科学の性差別は、流体力学が固体力学ほど発達していない理由を説明するとイリガライは主張する。男性優位の)科学が乱流を扱えないのは、流動性を女性性と結びつけているからである。男性には突出して硬くなる性器があるのに対し、女性には月経血や膣液が漏れる開口部がある。したがって、男性の科学は流体力学に対応できない。これは、男性も女性と同じように90%が水分であること、女性と同じように5.5リットルの血液が体内を循環していること、女性と同じように出血し、唾液を分泌し、そう、小便をすることを見落としているように思える。こうした初歩的な観察にもかかわらず、これはイリガライの説明であり、なぜ女性が男性論から排除され、体液が科学から排除されるのかについての説明である。
もちろん、流体力学や乱流に関する膨大な文献がある。ここ数十年、カオス理論から派生した新しい解析ツールを使って研究されてきた重要な分野のひとつである。流れが乱流になる条件についての完全な定義は、科学者たちにはまだ見つかっていないが、固体力学や物理学全体においても、未解決の問題がある。
事実誤認、専門用語の誤用(イリガライは流体力学よりも数理論理学が苦手だ)、狂気じみた比喩の使用は、知識人が払うべき高い代償だと思うだろう。どのような目的がこのような絶望的な手段を正当化するのか知りたくなる。驚くべきことに、イリガライの目的は、男性優位主義者の豚が寝言で叫ぶような結論を支持することなのだ:
しかし、(女性の性経済の)発展のどの段階にも、それなりの時間性があり、それはおそらく周期的で、宇宙のリズムと結びついている。ケモビルの事故によって女性たちがこれほどひどい脅威を感じたとすれば、それは女性たちの肉体が宇宙と不可分の関係にあるからである。(113-4ページより引用)
これは田舎者特有のエピソードではない。イリガライは、合理性と客観性を男性性と結びつけ、感情と主観性を女性性と結びつけている。女性をセクシュアリティや月経周期やリズム(宇宙的なものであろうとなかろうと)に還元する」ことは、SとBが指摘するように、「フェミニズム運動がこの30年間闘ってきたことすべてを攻撃すること」である。シモーヌ・ド・ボーヴォワールは墓の中で眠っているに違いない」。美学的な目的のために、多くの神秘化と知的不誠実さを展開し、ただ田舎者との思いがけない共通点を発見するというのは、苦い皮肉である。ルーチェ・イリガライが普通の抑圧された女性たちの怒りを惹かなかった理由は、彼女に国際的な名声をもたらした著作が、アカデミズムの間では曖昧に包まれているからである。
興味深いことに、ポストモダン思想における科学の俗物的な誤用は、科学そのものへの敵意と隣り合わせにある。SとBは、科学は徹頭徹尾社会的なものだと主張するブルーノ・ラトゥールのような認識論的相対化論者を特に効果的に扱っている。科学が正確な予測をすること、科学が機能する技術を生み出すこと、そして科学がブラックバーンでもソウェトでも同じように効果的であること、つまりブラックバーンに住む重病の老人に対する抗生物質が、ソウェトに住む重病の若い女性に対する抗生物質と同じように効くということである。
子供の頃、私は数軒隣に住む若者と仲良くしていた。一緒に自転車に乗ったり、荒れ地で銃撃戦をしたり、火をつけたり、スクラッチクリケットをしたりしたものだ。しかし、互いの興味が異なる方向に発展したため、別れることになった。恨みはなかったし、実際、多くの善意が残っていた。ロジャー(彼の家族のために伏せておくが、これは彼の本名ではない)は、私自身の発展途上の知的興味をまったく共有しなかったし、私は彼のヨットに対する愛情をまったく感じなかった。ある晩、母が『リバプール・エコー』紙に掲載されたロジャーのインタビュー記事で、彼が本当に情熱を注いでいるのは「サイバネティクス」だと語っているのを目にしたとき、私は驚いた。私は彼を誤解していたのだと思い、結局のところ、私たちは思っていた以上に共通点があるのだろうかと思った。次にロジャーに会ったとき、私は彼にサイバネティックスへの関心について尋ねた。私の無知は思い込みではなく、本物だった。恥ずかしながら、ロジャーもサイバネティクスの本質について無知であることがわかった。彼にとっては、サイバネティクスは単なる言葉だった。サイバネティクスは科学技術や未来に関係するもので、当時は華やかで話題になっていた。明らかに地方紙の読者を感心させるためのものだった。私はそのことを追及せず、その後、ほとんど会うことはなかった。最後に聞いたのは、彼が不動産業者としてうまくやっているということだった。かわいそうなロジャーは、自分の「サイバーネティックス」についてのコメントが、『リバプール・エコー』紙の読者に取り上げられる(「尋問される」、「問題視される」)とは思ってもみなかっただろう。これは不運だった。さらに不運なことに、彼はサイバネティクスへの言及を理由に人文科学のテニュアトラック・ポストを与えられることもなく、パリ大学の思想システムの講座も与えられなかった。
アラン・ソーカルとジャン・ブリクモン(以後SとB)の『知的詐欺』を読んで、私はロジャーを思い出した。ロジェと同じように、ジュリア・クリステヴァ、ジャック・ラカン、ジャン・ボードリヤール、ジル・ドゥルーズは、感受性豊かな人々に感銘を与えるために、微塵も理解していない用語を使う癖がある。ロジャーとは違って、彼らはそこから抜け出せず、またロジャーとは違って、無名ではなく、国際的な名声と世界中の一見知的な学者たちからの憧れで報われた。
長い間、ラカン、デリダ、クリステヴァらは、自分たちの思想と学問の名声、実に全知全能の名声を支え るために彼らが収奪した知識領域について、読者がほんのわずかしか知らないと確信して、殺人を犯して 逃れてきたのである。ミシェル・フーコーの風変わりな時代考証に注目する真の歴史家は、いたとしてもほとん どいなかった。分析哲学者たちは、たった一人の例外を除いて、デリダをJ.L.オースティンと言 語行為論の現代的意義について議論を交わすべき人物だとは考えなかった。
やがてポストモダンの理論家たちは、彼らが迷い込んだ分野の専門家たちの注目を集めるようになった。言語学者たちは彼らの言語学を見て、初歩的な誤りが散見されることに気づいた。例えば、デリダは記号全体とシニフィエを繰り返し混同し、何十万人もの従順な弟子たちもそうであった。この誤りは、デリダの研究の根幹のひとつである。他の言語学者たちは、デリディアンたちがソシュール以外の言語学について無知であることを面白がっていた。歴史学者たちは、フーコーの思想史に関するひどいバージョンを検証し、彼の広範な理論の土台となっている極小かつ風変わりな経験的基盤でさえ、文献的証拠と大きく食い違っていることを発見した。彼の時代区分--西洋史と「最近の発明」としての人間についての彼のビジョンにとって極めて重要--は、ほんの一例を挙げれば、正しいエピステーメーに適合させるためには、デカルトが死んだ後のある時期に生きていたことを要求することになる。実際、フーコーのエピステーメーとそれを隔てるいわゆるエピステーモロギーの断絶--彼に国際的な名声をもたらした本(『言葉と物』)の中心的な概念--が、いかなる歴史的現実にも対応していないことを示すのに、大した学者である必要はない。彼の時代の一つに当てはまるはずの名前が、他の時代ではぎこちなく活躍し、彼の時代を超越した学問領域は、彼が考えていた以上に数多く存在することが判明した。(彼が生きている間に、このことを指摘しようとした人は一人か二人いたが、コレージュ・ド・フランスの思想史教授に何を言っても無駄だろう)。おそらくフーコーは、言説を「われわれが物事に加える暴力」と表現したとき、自伝的に語っていたのだろう。いずれにせよ、ポストモダニズムの理論家たちが、その理論が偶発的に事実に汚染されたとき、いかに頻繁に事実を取り違えているかが印象的である(このことは、「経験的なもの」に対する党派的な侮蔑では説明しきれないほど頻繁に起こっているのだが、事実を理論に合わせて曲げようとする断固とした努力の結果であるに違いない)。(事実蔑視が証拠捏造の傾向と密接に関係しているのは興味深い。おそらく、真実--そして真実という概念そのもの--を憎むことと、誤りを愛することを結びつけることには、ある種の一貫性があるのだろう)。ポストモダンの理論家たちによる哲学思想や哲学思想史の誤った表現については、最も詳細な批判的検証が行われている。プラトン、デカルト、フッサール、パイスといった主要な人物について、ポストモダニストたちが自説を支持するために述べていることを検証してみると、主要な人物の孤立したコメントが「西洋思想」の巨大な塊を意味するように仕立て上げられていることが少なくない。
それなら、このゲームはとっくに終わっているはずだ。これは、テリー・イーグルトンによって示唆されている。最近、ポストモダニズム理論に敵対心を抱いたことから判断するに、彼は、巧妙な資金が動いていること、そして今こそ、仲間との旅行や協力から抵抗に切り替える時かもしれないことを察知したのだろう。(とはいえ、無批判だが儲かる『文学論』から手を引いたわけではない)。ポストモダニズムの「思想」を支える哲学的前提のいくつかに対するM.J.デヴァニーの壊滅的な批評(Since at least Plato ... and other Postmodernist Myths)に対する好意的な批評の中で、彼は批評家たちが何も知らない分野に「飛び込む」ことの危険性について皮肉交じりにコメントしている。批評家が「哲学に立ち入る」場合、次のようなことがある、と彼は指摘した。
パーティーで死海写本についてのちょっとした知識を披露して相手を感心させようとしても、後でその人が新約聖書の学者であることが判明するようなものである。(タイムズ・リテラリー・サプリメント1998年1月2日号2頁)
そして、M.J.デヴィーニーについて、「彼女はポストモダン思想の側面に、ポストモダニズムに対する哲学史の知識という著しく不公平な利点をもたらしている」と付け加えている。ポストモダン理論で(経済的にもそうでなくても)大成功を収めた人物に、労を惜しまない皮肉は似合わない。いずれにせよ、『リバプール・エコー』紙の読者から「サイバネティクスとは何か」と尋ねられたり、「サイバネティクスについて語る資格があるのか」と訝しがられたりするリスクが常にあるのは事実である。
では、勝負はついたのだろうか?ポストモダンの理論家たちの無能ぶりが暴露されても、主要人物や業界そのものにはほとんどダメージがない、というのが恐ろしい現実だ。イーグルトン自身が言っているように、ポストモダニズム産業には精神的・物質的資本が投下されているため、その重役たちは耳を傾ける余裕がないのである。リベラルアーツの学生で理論に出会わない者はほとんどいないだろうし、文学を学ぶ学生などその多くは、理論がカリキュラム全体を覆い隠している。どうしてこんなことが可能なのだろうか?
セオリーとその系列校の網の目のように張り巡らされた、セオリーを批判から守るためのプロテクトは実に厚い。何十万人もの英語科の1年生が、教師から「ロゴセントリック」な西洋哲学の概説を聞かされても、ほとんどの場合、プラトンもデカルトもハイデガーも1ページも読んだことはないだろう。また、彼らの教師や彼らを教えた教師が、プラトンやデカルトやハイデガーを読んだことがないことも少なくない。ポストモダニズムの哲学史を支持するために出される書誌は、プラトンやデカルト、ハイデガーの著作を除外していることが多い。デリダ、ラカン、フーコーなど、あるいは、デリダ、ラカン、フーコーなどの大衆化、そして彼らの知的子孫の著作がリストアップされるのである。言い換えれば、教師もテキストも、ポストモダニストの世界的な理解体系に取り込まれた思想家たちの思考を、生徒たちが信頼して受け入れなければならないような、その思想家たちとの関わりや知識、考察から、数段離れたところにいることになる。プラトンを読んだ学生一人につき一万人が、デリダが「西洋哲学のすべてを支配するパターン」としての論理中心主義についての有名な理論を打ち立てた『パイドロス』についての、間違いにまみれた説明を受けていることになる。
ポストモダン理論の事実誤認、経験的不備、論理的矛盾、説明の失敗を実証すれば、カード城を瓦解させるのに十分だろうと想像していた人々(私もその中に含まれる)は、理論家たちがこのように何重にも絶縁していることを考慮していなかった。われわれは、ソンムの戦いの前にハイグ将軍が、1週間にわたる砲撃と100万発の砲弾を浴びせ続けた後、ドイツ軍がイギリス兵に戦線の上を歩くことだけを許すだろうと予想したときと同じ過ちを犯した。そして、ヘイグの歩兵と同じように、私たちも無人の地で、60ポンドの荷物に事実や議論など役に立たないものを満載し、10フィートの高さの有刺鉄線の絡まり合いの向こうで、無傷の機関銃に向かってライフルを振っていた。ドイツ軍はソンムの戦いの前に2年間しか塹壕を掘っていなかったが、ポストモダンの理論家たちは30年も前から塹壕やトンネルや地下壕を造っていたのだ。また、沈黙というもうひとつの戦術も想定していなかった。反論に必要な宣伝を拒否することで、有効な反対意見の影響を最小限に抑えることができる。あるいは、第三の戦術として、他の者が欄干の上から頭を出すのを躊躇させるような獰猛な反論もある。セオリーを批判する者は、診断され、分類され、ステレオタイプ化され、嘲笑され、傷のなめあいに追いやられた。デリダがジョン・サールを侮蔑的に扱ったのは、デリダの軽率な火術の核心がいかにオースティンの単純な誤読にあったかを示すものであった。彼はサールの名前に注目し、「サール」と嘲笑することで、人格攻撃論法をさらに一歩進めた。この闘争的なアプローチの利点は、議論がスキャンダルの煙幕に覆われて見えなくなってしまうことだった。続く暗闇の中では、良い議論も悪い議論もすべて同じように見え、革命派と保守派、あるいは老いぼれたトルコ人と若いトルコ人の殴り合いとして全体を見せることができた。デリダがソシュールを使うことに疑問を呈する本1冊につき、何百冊もの本がそれを当然視し、学年末のテストで生き残るためには流暢なテオローア語を話せるようにならなければならない学生にとって重要であることを説いている。デリダは1000ものカリキュラムに載っているが、彼の作品に対する批判的な試問はほんの一握りにも及ばない。セオリーを教える者は、セオリーに対する批評に注意を向けるほど愚かではない。真に批判的な思考と真理の無関心な追求に熱心な学者(このカテゴリは超高齢のカテゴリである)だけが、反対意見に注意を向けることで自らの足を撃つような愚かなことをするのである。
これらの理由から、『Intellectual Impostures』の出版は、人文科学の未来にとって第一に重要な出来事である。その本質的な利点が非常に大きいことは別として、『ソーカル・ハックス』という素晴らしい著作が出版されたことで、学術界内外で大きな反響を呼んでいる。さらに、SとBはポストモダン理論の批評に新たな基準を打ち立て、「不真実の城」がついに攻め落とされるかもしれないという新たな希望をもたらしている。知的失政の領主(と淑女)たちに対する批判が、これほど徹底的に、これほど堂々と行われたことはかつてなかった。SとBは冒頭で、ポストモダン理論全体を貶めるふりをしているわけではないこと、あるいはその創始者たちの全作品を否定しているわけではないことを注意深く述べている。しかし、彼らの忍耐強く、静かな考察は、その具体的な使命をはるかに超えた意味を持ち、またその影響をもたらすだろう。学生たちが、理論に屈服した教師たちのドグマから外れた言説の世界をようやく認識し、反対意見にも公平な耳を傾けるようになり、本当の意味で勝負がつくようになるかもしれないのだ。
SとBは、ポストモダニズムを「啓蒙主義の合理主義的伝統の多かれ少なかれ明白な拒絶、いかなる経験的検証からも切り離された理論的言説、そして科学を「物語」「神話」「社会的構築物」以外の何ものでもないとみなす認知的・文化的相対主義によって特徴づけられる知的潮流」と定義している。SとBは、ラカン、イリガライ、クリステヴァ、ラトゥール、ボードリヤール、ドゥルーズ、ガタリ、ヴィリリオなどが数学、物理科学、テクノロジーについて語ったこと、とりわけ彼らが言語、文学、人間の精神、フェミニズム、現代文化などについての著作の中で数学や物理科学から借用した概念を用いたことについて、細心の注意を払って調査している。SとBは、これらの著名人が男女を問わずロジャーズであることを発見した。彼らの著作には、彼らが微塵も理解していない用語や概念が散見され、彼らの主張の見かけ上の力強さは、それに大きく依存している。彼らの読者は『リバプール・エコー』紙の読者よりも若干洗練されている(騙されやすさは変わらないが)ので、彼らが借りる用語は「サイバーネティックス」よりももっとリッチなものでなければならない。クリステヴァは数理論理学や集合論から、ラカンは数理論理学や位相幾何学から、イリガライは固体力学や流体力学から、ドゥルーズとガタリは微分積分学や量子力学から、ボードリヤールはユークリッド幾何学や非ユークリッド幾何学から、といった具合だ。しかし、博識に見えるのはまったくの欺瞞である。
例えば、ジュリア・クリステヴァの名声を確立したプロジェクト--詩的言語を構成するものは何かについての彼女の調査--を考えてみよう:
私たちにとって詩的言語とは、他の言語を包含するコードではなく、言語コードの無限性を表す関数phi(x1...xn)と同じ力を持つクラスAであり(存在定理参照、p.189参照)、すべての「他の言語」(「通常の」言語、「メタ言語」など)は、より限定された範囲におけるAの商である(たとえば、形式論理学の基礎である主語-述語構文の規則によって限定される)。例えば、形式論理の基礎 Permalink | 記事への反応(2) | 20:18
俺も、みんながまだ新築住宅主義でいてくれると助かる側の人間なんだけど、これからは賃貸派にとって追い風になるようなことも起きるかもしれないよ、と予測しています。
まず元増田が言うとおり、現時点でも、建材価格高騰と建設技能者の不足のダブルパンチによって、住宅取得価格がこの数年で1.2〜1.3倍ぐらいに上がっている。エビデンスとしては建設工事費デフレーターがある。
https://www.mlit.go.jp/sogoseisaku/jouhouka/sosei_jouhouka_tk4_000112.html
このデータの住宅総合の工事費を見ると、2015年7月を100とした指数値が、2018年3月期が102.8、2023年3月期には121.7と20%上がっていて、現場の感覚に近い(ちなみに現場感覚ではもっと上がっている)。これからもさらに上がるというのも元増田の指摘通り。5年前ぐらいの感覚で「この予算でこれぐらいの家が建つ」と考えてハウスメーカーを訪れた人は、今では到底それが叶わない夢だと知って絶望するかもしれない。
「同一条件の住宅取得価格が1.2〜1.3倍になる」ということは、同じ予算では「これぐらいの家を建てたい」という計画の7割程度の規模感の建物しか建てられない、ということだ(建物は規模が小さくなるほど坪単価が割高になるので)。だから地方でも、一般的な収入水準の若年カップル家庭の予算感では、それまで各地域で「身の丈レベル」と考えられていた規模の新築戸建て注文住宅を買えなくなってきている。で、そうしてシュリンクした需要の受け皿として:
という流れが、どの地域でも起きている。注文主体の大手高級ハウスメーカー(たとえば積水・住林・大和Hなど)も、2021年頃からは「用地を買って、刻んで、安くて小さい物件を建てて、建売で捌く」という動きが活発になってきている。
ここで行政はどういう立場を取るのか。国はもう、「新築住宅に対する助成」というアプローチは徐々に手仕舞いにしつつある。空き家問題がこれから待ったなしの社会問題になっていくからだ。日本で最初にこの問題に警鐘を鳴らしたのはNRIで、以後はここが空き家関連政策の議論をリードする形になっている。国もゆっくりとした歩みではあるが、これに呼応して「中古住宅物件のストック流通をやるぞ〜」という方向に向かっている。
すなわち、住んでない空き家に対しては高い課税をかけ、解体か流通の二択を迫る。放置すれば危険なレベルの空き家(特定空き家)は過料や行政代執行の対象にして排除する。中古住宅を(エネルギー効率で見て)快適に住めるようにする施策には補助金をかける。金融機関でのリバースモーゲージを促進し、「居住者が死んだら即・市場流通」という筋道を作る。中古住宅の性能を保証するためのホームインスペクション制度を整備する。などなど、外堀はじわじわ埋められている。
一方で新築住宅に対しては、今後は長期優良住宅やZEHなどの「低環境負荷」で「SDGs」な物件以外(たとえばローコスト住宅や土地を刻んで建てていく狭小建売など)は、住宅ローン減税などの優遇措置を見直すことでテーパーをかけて減らしていくと思われる。
理屈のうえでも、出産適齢期人口が激減しているのに、増え続ける中古住宅を放置して年間70〜80万戸の新築住宅を建て続けるような政策デザインは持続可能性に欠ける。そもそも新たに建てる土地も減ってきている。昔ならいざ知らず、もう市街化調整区域に新築住宅をバカスカ建てさせて将来のインフラ維持コストを上げて自らの首を絞めるような自治体も減っている。市街化区域で今建っている土地の今建っている建物を流通させるのが、建築経済的には理に適っている。
そんなわけで、今後は行政主導の「ストック住宅流通促進」×「新築住宅優遇税制のテーパリング」の流れが進むことで、これまでの日本の住宅市場では決定的に供給不足だった、ニューファミリー向けの戸建て賃貸物件の本格流通が始まると思われる。この流れは賃貸派にとって追い風になるだろう。
不動産クラスタ的目線で言うと、ファミリー向けの戸建て住宅というのは、そのライフサイクルを通して見たときの空間利用効率が悪いのは否定できない。端的に言って、子育てが終わった世代にとっては、2階建て住宅の2F部分は基本的にムダだ(実際、近年は富裕層シニア家庭でのバリアフリー減築・平屋減築や平屋住宅の再新築が盛んになっている)。
子育てをしていて親と子が同居している期間って、子1人で平均約20年、子2人でも約25年ぐらいしかない。モデルケースとして、夫婦25歳のときに家を建てて子どもを産み、その子どもが20歳になった時に家を出るとしよう。そのとき夫婦は45歳。人生100年時代なら余生は55年。その間ずっと、この夫婦は2Fの子ども部屋空間を有効活用できない。平均余命の延長により、われわれは持ち家のメリットを享受できる期間が相対的に短くなり、その2倍以上の期間をその持ち家で過ごすことになっている。投資として見れば、かなり分の悪い行動をしていることになる。
だったら政策的に居住流動性を高めて、持ち家がある老夫婦は今の住宅を4人暮らししたい人に賃貸して、その家賃で2人暮らしに向いた間取りの住宅なりマンションなりサ高住なりを借りて引っ越せばよろしい、というシナリオが出てくる。確かにこれならステークホルダーみんなWin-Winに見える。経済学的に言うと、政府の施策(新築住宅優遇政策)によって発生していた死荷重(≒非効率性)が除去されて、市場の効率性が高まった状態だともいえる。
だからどうだってわけじゃないんだけど、あえてオチをつけると、「元増田も指摘する諸条件を踏まえても、賃貸派が勝利するシナリオというのはありえるよ」という話でした。