はてなキーワード: 成るとは
私が思いますのに
女の子と付き合って幸せになるという状況いかんのものは、もちろん、発情期における女の子であってしかも色気づいてかわいい女の子であれば理想的であること論をまたないが・・・
ただ女の子がベッドに横たわってはい触ってくださいというごとき仕事のようなもの、女の子の方から、黙示に、だまった好きといった状態で股間をこすりつけてくる・・・
しかしこれは女の子は始終寝ている、目をつぶっている、女の子の方から何もしてこない、仮令、するとしても、ガンガン攻めるよといった、女の子らしくない言動・・・
自然な女子小学生が黙って近寄ってきて股間をこすりつけてくるといったやうな古代原始の日本しゃくわいに見られるような男女の恋愛関係、言葉がなく男女がお互いに自然と近寄ってきて
経済学や経営について全く分かっていない素人なんだけど、多分増田の書いている事が正論と言うか常識なんだろうなーと思ったんだけど、いくつか気になった事が有り、質問したい。
初っ端から多分自分のような素人と知ってる人とで意識や考えに差が出る所なんだろうなーと想像しつつの質問なんだけど、
増田でも他の話題(GDPとか?)のブクマとかでも「生産性を向上しつづける事」が前提になっている様に思えるんだけど、
そもそもそれって前提に出来るほど簡単な事なんだろうか?と素人的には思う。
手段は、設備投資、イノベーション、配置換え、何でもいい、とのことなんだけど、どれも最初のほうはまだ稼いだお金の中からやっていけるのかなーと想像するけど、
いずれ残弾が尽きるというか、やれることが枯渇していきそうな気がした。(完全にイメージです)
継続的に常に実施していけるものなんだろうか?という疑問と、あとやはり投資とリスクテイクが必要という事で、(これも素人だからそう見えるだけかもしれないけど)どうもギャンブルという風に見えてしまう。
勿論経営には時にギャンブルも必要なんだと思うけど、それと「継続的に」の相性がよくないように思える。
必要なときに必要な分だけ割のいい賭けを行うなら期待値からみて基本的に得をしそうだけど、常に継続的にギャンブルをしていると期待値は良くてもいつか破綻するのでは?と(マーチンゲール法の破綻とかをイメージしつつ)どうしても思えてしまう。
2.それは割のいい賭けなのか?
そもそもその賭けは期待値がプラスなのか?という所も気になった。
生産性を向上と言うけど、やればやるほど基本的に生産性の上がる値は鈍化していくようなものなんじゃないか?というイメージがあり、
だとするとやればやるほど、リスクに対して得られる利益は悪くなり、いずれ期待値はマイナスに転じざるを得ないような気がする。
となるとやはり「生産性を向上しつづける」という前提それ自体が破綻しているような気も・・・・。
また、これも完全にイメージなんだけど、経営では特にそもそもリスク側が最初から大きすぎるように見えるのも気になる。
例えば「最低賃金を上げられないような企業はつぶれるべき」という文言にしても「最低賃金を上げる」という利益に対して「企業はつぶれる」と言うリスク側が明らかにデカすぎない!?となる。それって本当に割のいい賭けなのか?という感じが(イメージの錯誤かもしれないけど)
以上、そもそもリスク忌避的な自分の性格が経営等に向いてない(という事からも分かる通り、自分は経営者ではなく労働者です)のだと思うけど、
その上で上記のような事を考えるに、どうしても「あえて生産性向上のために大きな賭けには出ない安定択がありなのでは?」と思ってしまうんだけど、やはりこれは経営とか経済学的にはナシの選択肢なんだろうか?
ただ、経営には関わらなくてもその結果の経済は自分に返ってくるので、結論としてそうした安定択を最初から排除した考えがそもそも破綻を孕んでいるなら、やはり気にならざるを得ない。
4.それで本当に世の中は良くなるのか?
増田は解雇や倒産をある程度前提にして、社会全体としては利益的に成る様なイメージを持っているのかなと思うんだけど、
どうしても失業率の高い外国をイメージして、「本当にそっちの方がよくなるんだろうか・・・?」と不安に感じてしまう。
海外の事をよく知っている訳でも無く、イメージだけで考えているのが良くないんだろうとは思うのだけど、(おそらく増田の言っているような方針でやっている)他の国は、それで現状上手くいっているんだろうか?というのが気になる。
という、おそらく標準的な回答が既にある様な、何周遅れの質問ではあろうとは思うのだけど、
素人目線で引っ掛かりそうな観点という事で、以上のような事が気になったよ、と言う感じ。
・追記
追加の疑問点があったので。
5.ギャンブルだとすると、プールの大きさで最適な戦略は変わってくるのでは?
続けてギャンブルのイメージを持ったままの疑問点になってしまうのだけど、
ギャンブルを継続する上では元手と言うかプールのデカさが、どれくらいのギャンブルができるかの戦略を左右するというイメージがある。
プールがでかければ運の悪い失敗がたまたま連続しても耐えられるので、先に挙げたような継続的なギャンブルも可能かもしれない。
けれど最低賃金が問題になる様な、中小企業の場合、プールが小さい気がするので、そうした戦略が本当に最適なんだろうか?いずれ破綻するだけでは?と思えてしまった。
これは増田に聞くことじゃないかもしれねいけど、もし知ってたら。
零細企業って聞いて今までイメージしてたのは小さい工場とか、或いはどういう企業か特にイメージもしないまま小さい会社を想像してたんだけど、
よく考えてみるとあんまりちゃんとイメージできていないな、って。
自分の地元には旧制ナンバースクール中学をルーツとし、かつては屈指の難関、名門だった県立高校がある。
その高校のWikipediaの著名OB欄は学者、官僚、財界人、作家、軍人がズラーっと並んでいる。
しかし実はとっくの昔に凋落し、今は東大なんぞもはや4~5年に1人くらいしか出なくなり、私大の浪人込みの延べ人数合格実績ですら早稲田40人慶応10人くらいが平常運転になってしまった。
それでも地元ではこの高校の生徒は神の子扱いだし、生徒自身も自分の学歴と学力に対するそうした評価について一点の疑いも抱かず胸を張っている(なぜかまだ高校偏差値68くらいある)。
さて、この高校の学年上位1/3あたりの生徒は現役で青学や明治あたりに合格し、そのまま進学することになる(この高校は明治青学がやたら多い)。
と悲しみの進学と相成るところだが、この高校の生徒の場合は違う。
『素晴らしい名門である我が母校において、学年上位層をキープしてた自分が進学する明治大学、青山学院大学は凄いエリート大学だ!』
と当然に発想するので、彼らは胸を張って目を輝かせて明治や青学に入学することになるのだ。
この思い込みは強い。
落ちぶれてからとっくに30年は経っているカビの生えた県立高校に入学し、そのレベルの低い母集団で中の上をキープし、実力通りの大学に合格するだけで、
東大に合格したくらいの誇りや自己肯定感を得られるも同然なのだから。
俺が新卒で入社した大手金融機関の同期に、『この高校→明治や青学に現役進学』という典型的な経歴の持ち主がたまたま3人もいたのだが、彼らはやはり高校以降の自分の経歴、人生を誇っていた。
大手金融といっても東大の新卒なんぞ滅多に入らず、日東駒専卒からトータルで軽く2桁人数は入社するような程度の格の企業だったけど、
やはり『誇り高き彼ら』は自分の人生の栄光を疑わなかったし、そんな自分が入社した会社は泣く子も黙るエリート集団だと当然に思い込んでいた。
自分の将来を案じて卑屈な発言を繰り返す慶応経済(体育会運動部)出身の同期の嫌味やネガティブ発言や諫言を全て「わけのわからないノイズ」とばかりに余裕でスルーし、
彼らが相変わらず強がりではなく本心から勝ち組を疑わない様子見て、
ただ、旧制中学ルーツの落ちぶれた県立名門高校に入学するだけで良いのだ。
地元の人間なら老いも若きも崇め奉ってくれて、同級生も勘違いし続け、教師も誇りを抱くよう教育し、
やがて本人は労せずしてその高校発の過去の栄光を自意識下で体現することとなる。
そしてその効果は落ちづらい。
”アンチンポです”との一致はありません。
”アンチンポデス”
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探しているページに表示されている可能性がある言葉で検索してみてください。たとえば、「ケーキの作り方」ではなく、「ケーキのレシピ」でお試しください。
お困りの場合は、Google での検索に関するその他のヒントをご覧ください。
またヒット件数が出なくなった(二件ヒットした)
クソ広告乱舞といい
アンティポディーズ諸島またはアンティポデス諸島(―しょとう、Antipodes Islands[2][notes 1])は、ニュージーランドに属する火山島群。全て無人島である。
スチュアート島の東南東約860km、バウンティ諸島の南約215kmにあり、水半球の中心付近に位置する。この諸島は最も面積の大きいアンティポデス島(20km2)、その次に北に位置するボロンズ島(2km2)、そして多数の小島や岩礁から成る。最高峰は標高366mのギャロウェイ山である[3]。
ボロンって
うぷぷ
目次
1.はじめに
(1)歴史認識について
(2)対北朝鮮外交について
3.佐藤優による主張の使い分け
(1)ナショナリズム論
(2)ポピュリズム論
(3) 格差社会論
6.「人民戦線」という罠
(1)「ファシズム政権の樹立」に抗するために、人民戦線的な観点から佐藤を擁護する
10.おわりに
註
1.はじめに
このところ、佐藤優という人物が「論壇」を席巻しており、リベラル・左派系の雑誌から右派メディアにまで登場している。
だが、「論壇の寵児」たる佐藤は、右派メディアで排外主義そのものの主張を撒き散らしている。奇妙なのは、リベラル・左派メディアが、こうした佐藤の振舞いを不問に付し、佐藤を重用し続けていることにある。
佐藤による、右派メディアでの排外主義の主張の展開が、リベラル・左派によって黙認されることによって成り立つ佐藤の「論壇」の席巻ぶりを、以下、便宜上、〈佐藤優現象〉と呼ぶ。この現象の意味を考える手がかりとして、まずは、佐藤による「論壇」の席巻を手放しに礼賛する立場の記述の検討からはじめよう。例えば、『世界』の編集者として佐藤を「論壇」に引き入れ、佐藤の著書『獄中記』(岩波書店、二〇〇六年一二月)を企画・編集した馬場公彦(岩波書店)は、次のように述べる。
「今や論壇を席巻する勢いの佐藤さんは、アシスタントをおかず月産五百枚という。左右両翼の雑誌に寄稿しながら、雑誌の傾向や読者層に応じて主題や文体を書き分け、しかも立論は一貫していてぶれていない。」「彼の言動に共鳴する特定の編集者と密接な関係を構築し、硬直した左右の二項対立図式を打破し、各誌ごとに異なったアプローチで共通の解につなげていく。」「現状が佐藤さんの見立て通りに進み、他社の編集者と意見交換するなかで、佐藤さんへの信頼感が育まれる。こうして出版社のカラーや論壇の左右を超えて小さなリスクの共同体が生まれ、編集業を通しての現状打破への心意気が育まれる。その種火はジャーナリズムにひろがり、新聞の社会面を中心に、従来型の検察や官邸主導ではない記者独自の調査報道が始まる。」「この四者(注・権力―民衆―メディア―学術)を巻き込んだ佐藤劇場が論壇に新風を吹き込み、化学反応を起こしつつ対抗的世論の公共圏を形成していく。」
馬場の見解の中で興味深いのは、〈佐藤優現象〉の下で、「硬直した左右の二項対立図式」が打破され、「論壇」が「化学反応」を起こすとしている点である。ある意味で、私もこの認識を共有する。だが、「化学反応」の結果への評価は、馬場と全く異なる。私は、これを、「対抗的世論の公共圏」とやらが形成されるプロセスではなく、改憲後の国家体制に適合的な形に(すなわち、改憲後も生き長らえるように)、リベラル・左派が再編成されていくプロセスであると考える。比喩的に言えば、「戦後民主主義」体制下の護憲派が、イスラエルのリベラルのようなものに変質していくプロセスと言い替えてもよい。
以下の叙述でも指摘するが、佐藤は対朝鮮民主主義人民共和国(以下、北朝鮮)武力行使、在日朝鮮人団体への弾圧の必要性を精力的に主張している。安倍政権下の拉致外交キャンペーンや、一連の朝鮮総連弾圧に対して、リベラル・左派から批判や抗議の声はほとんど聞かれなかったのは、「化学反応」の典型的なものである。「戦後民主主義」が、侵略と植民地支配の過去とまともに向き合わず、在日朝鮮人に対してもせいぜい「恩恵」を施す対象としか見てこなかったことの問題性が、極めて露骨に出てきていると言える。〈嫌韓流〉に対して、リベラル・左派からの反撃が非常に弱いことも、こうした流れの中で考えるべきであろう。
私は、佐藤優個人は取るにたらない「思想家」だと思うが、佐藤が右派メディアで主張する排外主義を、リベラル・左派が容認・黙認することで成り立つ〈佐藤優現象〉は、現在のジャーナリズム内の護憲派の問題点を端的に示す、極めて重要な、徴候的な現象だと考える。
馬場は、佐藤が「左右両翼の雑誌に寄稿しながら、雑誌の傾向や読者層に応じて主題や文体を書き分け、しかも立論は一貫していてぶれていない」などと言うが、後に見るように、佐藤は、「右」の雑誌では本音を明け透けに語り、「左」の雑誌では強調点をずらすなどして掲載されるよう小細工しているに過ぎない。いかにも官僚らしい芸当である。佐藤自身は自ら国家主義者であることを誇っており、小谷野敦の言葉を借りれば、「あれ(注・佐藤)で右翼でないなら、日本に右翼なんか一人もいない」。
佐藤が読者層に応じて使い分けをしているだけであることは誰にでも分かることであるし、事実、ウェブ上でもブログ等でよく指摘されている。そして、小谷野の、この現象が「日本の知識人層の底の浅さが浮き彫りになった」ものという嘲笑も正しい。だが、改憲派の小谷野と違い、改憲を阻止したいと考える者としては、この現象について、佐藤優に熱を上げている護憲派を単に馬鹿にするだけではなく、〈佐藤優現象〉をめぐって、誰にでも浮かぶであろう疑問にまともに答える必要がある。なぜ、『世界』『金曜日』等の護憲派ジャーナリズムや、斎藤貴男や魚住昭のような一般的には「左」とされるジャーナリストが、佐藤に入れ込んでいるのか? なぜ、排外主義を煽る当の佐藤が、『世界』『金曜日』や岩波書店や朝日新聞の出版物では、排外主義的ナショナリズムの台頭を防がなければならない、などと主張することが許されているのか?
この〈佐藤優現象〉はなぜ起こっているのか? この現象はどのようなことを意味しているのか? どういう帰結をもたらすのか? 問われるべき問題は何か? こうした問いに答えることが、改憲を阻止したいと考える立場の者にとって、緊急の課題であると思われる。
まず、佐藤の排外主義的主張のうち、私の目に触れた主なものを挙げ、佐藤の排外主義者としての活躍振りを確認しておこう。
(1)歴史認識について
佐藤は言う。「「北朝鮮が条件を飲まないならば、歴史をよく思いだすことだ。帝国主義化した日本とロシアによる朝鮮半島への影響力を巡る対立が日清戦争、日露戦争を引き起こした。もし、日本とロシアが本気になって、悪い目つきで北朝鮮をにらむようになったら、どういう結果になるかわかっているんだろうな」という内容のメッセージを金正日に送るのだ」。朝鮮の植民地化に対する一片の反省もない帝国主義者そのものの発言である。また、アメリカ議会における慰安婦決議の件に関しても、「事実誤認に基づく反日キャンペーンについて、日本政府がき然たる姿勢で反論することは当然のことだ。」と述べている。
特に、大川周明のテクストと佐藤の解説から成る『日米開戦の真実―大川周明著『米英東亜侵略史』を読み解く』(小学館、二〇〇六年四月)では、極めて露骨に、日本の近現代史に関する自己の歴史認識を開陳する。以下、引用する。佐藤が自説として展開している部分である。
「日本人は(注・太平洋戦争)開戦時、少なくとも主観的には、中国をアメリカ、イギリスによる植民地化支配から解放したいと考えていた。しかし、後発資本主義国である日本には、帝国主義時代の条件下で、欧米列強の植民地になるか、植民地を獲得し、帝国主義国となって生き残るかの選択肢しかなかった。」(三頁)、「「大東亜共栄圏」は一種の棲み分けの理論である。日本人はアジアの諸民族との共存共栄を真摯に追求した。強いて言えば、現在のEUを先取りするような構想だった。」(四頁)、「あの戦争を避けるためにアメリカと日本が妥協を繰り返せば、結局、日本はアメリカの保護国、準植民地となる運命を免れなかったというのが実態ではないかと筆者は考える。」(六頁)、「日本の武力によって、列強による中国の分裂が阻止されたというのは、日本人の眼からすれば確かに真実である。(中略)中国人の反植民地活動家の眼には、日本も列強とともに中国を分割する帝国主義国の一つと映ったのである。このボタンの掛け違いにイギリス、アメリカはつけ込んだ。日本こそが中国の植民地化と奴隷的支配を目論む悪の帝国であるとの宣伝工作を行い、それが一部の中国の政治家と知的エリートの心を捉えたのである。」(二八一頁)。また、蒋介石政権については、「米英の手先となった傀儡政権」(二五七頁)としている。他方、佐藤は、汪兆銘の南京国民政府は「決して対日協力の傀儡政権ではなかった」(二四九頁)とする。
右翼たる佐藤の面目躍如たる文章である。ちなみに、こんな大東亜戦争肯定論の焼き直しの本を斎藤貴男は絶賛し、「大川こそあの時代の知の巨人・であったとする形容にも、大川の主張そのものにも、違和感を抱くことができなかった」としている。
(2)対北朝鮮外交について
佐藤は、「拉致問題の解決」を日朝交渉の大前提とし、イスラエルによるレバノン侵略戦争も「拉致問題の解決」として支持している。「イスラエル領内で勤務しているイスラエル人が拉致されたことは、人権侵害であるとともにイスラエルの国権侵害でもある。人権と国権が侵害された事案については、軍事行使も辞せずに対処するというイスラエル政府の方針を筆者は基本的に正しいと考える」。さらに、現在の北朝鮮をミュンヘン会談時のナチス・ドイツに準えた上で、「新帝国主義時代においても日本国家と日本人が生き残っていける状況を作ることだ。帝国主義の選択肢には戦争で問題を解決することも含まれる」としている。当然佐藤にとっては、北朝鮮の「拉致問題の解決」においても、戦争が視野に入っているということだ。『金曜日』での連載においても、オブラートに包んだ形ではあるが、「北朝鮮に対するカードとして、最後には戦争もありうべしということは明らかにしておいた方がいい」と述べている(10)。
さらに、アメリカが主張してきた北朝鮮の米ドル札偽造問題が、アメリカの自作自演だった可能性が高いという欧米メディアの報道に対して、佐藤は「アメリカ政府として、『フランクフルター・アルゲマイネ・ツァイトゥング』の記事に正面から反論することはできない。なぜなら、証拠を突きつける形で反論するとアメリカの情報源と情報収集能力が明らかになり、北朝鮮を利してしまうからだ」(11)と、いかなる反証の根拠も示さずに(反証の必要性を封じた上で)、「北朝鮮の情報操作」と主張しているが、この主張は、保守派の原田武夫にすら否定されている(12)。佐藤は現在、右派メディアの中でも最も「右」に位置する論客の一人であると言えよう。
佐藤は、「在日団体への法適用で拉致問題動く」として、「日本政府が朝鮮総連の経済活動に対し「現行法の厳格な適用」で圧力を加えたことに北朝鮮が逆ギレして悲鳴をあげたのだ。「敵の嫌がることを進んでやる」のはインテリジェンス工作の定石だ。/政府が「現行法の厳格な適用」により北朝鮮ビジネスで利益を得ている勢力を牽制することが拉致問題解決のための環境を整える」と述べている(13)。同趣旨の主張は、別のところでも述べている(14)。「国益」の論理の下、在日朝鮮人の「人権」は考慮すらされてない。
漆間巌警察庁長官(当時)は、今年の一月一八日の会見で、「北朝鮮が困る事件の摘発が拉致問題を解決に近づける。そのような捜査に全力を挙げる」「北朝鮮に日本と交渉する気にさせるのが警察庁の仕事。そのためには北朝鮮の資金源について事件化し、実態を明らかにするのが有効だ」と発言しているが、佐藤の発言はこの論理と全く同じであり、昨年末から激化を強めている総連系の機関・民族学校などへの強制捜索に理論的根拠を提供したように思われる。佐藤自身も、「法の適正執行なんていうのはね、この概念ができるうえで私が貢献したという説があるんです。『別冊正論』や『SAPIO』あたりで、国策捜査はそういうことのために使うんだと書きましたからね。」と、その可能性を認めている(15)。
3.佐藤優による主張の使い分け
排外主義者としての佐藤の主張は、挙げ出せばきりがない。前節で挙げたのも一例に過ぎない。では、佐藤は、こうした主張を『世界』『金曜日』でも行っているのだろうか。
佐藤が仮に、「左」派の雑誌では「右」ととられる主張を、「右」派の雑誌では「左」ととられる主張をすることで、「硬直した左右の二項対立図式を打破」しているならば、私も佐藤をひとかどの人物と認めよう。だが、実際に行われていることは、「左」派メディアでは読者層の価値観に直接抵触しそうな部分をぼかした形で語り、「右」派メディアでは本音を語るという下らない処世術にすぎない。「左右の二項対立図式」の「打破」は、「左」の自壊によって成り立っているのだ。佐藤が『金曜日』と右派メディアで同一のテーマを扱った文章を読み比べれば、簡単にそのことはわかる。
一例として、米国下院での「慰安婦」決議に関する佐藤の主張を読み比べてみよう。産経新聞グループのサイト上での連載である〈地球を斬る〉では、「慰安婦」問題をめぐるアメリカの報道を「滅茶苦茶」と非難し、「慰安婦」問題に関する二〇〇七年三月一日の安倍発言についても「狭義の強制性はなかった」という認識なのだから正当だとして、あたかも「慰安婦」決議案自体が不正確な事実に基づいたものであるかのような印象を与えようとしている(16)。ところが、『金曜日』では、こうした自分の主張は述べず、国権論者としての原則的な立場から日本政府の謝罪には反対だとしている(17)。なお、『金曜日』の同文章では「歴史認識を巡る外交問題は Permalink | 記事への反応(1) | 18:32
考えれば考えるほど複雑な問題なので、まずは自分のスタンスを書く
まず自分はウクライナから日本に国籍変更して日本にずっと住んでたなら日本人だと思うし、ミス日本にふさわしいと思う。
その上でややこしいなと思うのが、そうした態度が「〇○人役は〇○人がやるべき」というような風潮やそれに同意するスタンスと整合性が取れるか、という事で、ここについては書きながら悩んでいる。
また、今回は問題無いものの、アジアやアフリカ各国のミス〇○を白色人種の人が席巻するようになったら、色々問題視されはじめるかも知れないな、とも思う。(でもやっぱり、それも問題無いというしかないんじゃないの?とも)
ここでオリジンを絶対視しない相対主義派とオリジンを絶対視する絶対主義派が出てくる。
単純に考えれば、オリジン相対派は「ミス日本を日本以外にオリジンを持つ人が受賞しても問題無い」「日本人役を日本以外にオリジンを持つ人が演じても問題無い」となり、
オリジン絶対派は「ミス日本を日本以外にオリジンを持つ人が受賞するのはおかしい」「日本人役を日本以外にオリジンを持つ人が演じるのはおかしい」となるはず。
しかしどちらもそうなっていない人が多い、つまり場合によってオリジンを相対化したり絶対化したり、使い分けている人が多い様に見え、また自分自身もそうではないか?という疑念が自分の中に生まれている。
その上で、じゃあ結局どっちを取るのかと言われれば、自分は相対主義を取るだろうな、と今は考えている。
何故オリジンが問われるのか?理由の一つは仕事や立場の確保だと考えている。
例えば映画などで日本人役を毎回他の国の人がやる状況になると、日本人役者の雇用が間接的に奪われる事に成る。「ホワイトウォッシュ」などもこの文脈で理解出来る。
これと同じ構図で考えると、確かに「ミス日本」をもしほかの国の人に受賞されると、日本人がそれを得る機会を奪われた、という事になるかもしれない。
しかし、自分はやはり今回の受賞者は「他の国の人」などではなく、日本人だと思う。だから機会を奪われたとはやはり思わない。
ただしそう考えるからには、日本人役(あるいは他の役でも)を演じる人についても、その人のオリジンではなく、国籍や生活実績、或いは自認をもとに考えるべきだと思う。その結果「〇○人役は〇○人がやるべき」が実質的に形骸化するとしても。
念の為確認しておきたいのは、こうした困難や矛盾はリベラル側だけでなく、その反対側でも起こるだろうし、むしろ起きているという事。
「ミス日本を日本以外にオリジンを持つ人が受賞しても問題無い」と言いつつ「日本人役を日本以外にオリジンを持つ人が演じるのはおかしい」と言う人がおかしいように、
「ミス日本を日本以外にオリジンを持つ人が受賞するのはおかしい」と言いつつ「日本人役を日本以外にオリジンを持つ人が演じても問題無い」と言う人もおかしい。
どんな人でも矛盾やうっかりという事は有る、重要なのは自分が矛盾している可能性を見つけたり突き付けられた時に、見ない振りをせず、自分に甘い判断を下さず、真面目に考え抜く事ではないかと思う。
あと、その上で自分は「ミス〇○」はもうあまりよろしくないんじゃないか、とも思っている。
この考え自体はミス日本の方も嬉しくないかもしれないとは思うが、それでもやっぱり女性を(男性でも)順位付けて表彰するような事は、やはり問題があるのではないかと思う。
クロップサイエンスやqqqみたいなのは荒らしと呼べますかね?
知恵袋運営は信ぴょう性を保証してないと謳っていますが、だからってデマを自由に書いていいということにはならないと思うので、それをあえてやってるのって荒らしってことになるんでしょうかね?
より楽しんでいただくためにYahoo!知恵袋をお使いのみなさまへを参考にしてください。
不適切ってなんだよ(哲学)。こっちはむしろ不適切な情報(デマ)ばらまいてるやつの牽制にもなると思って書いたのに不適切とか…
CO2が赤外線を吸収することを発見したため、温室効果があることがわかりました。
さらにCO2濃度を2倍にする実験をしてみたところ、赤外線の吸収は増えませんでした。
このことは、当時のCO2濃度(330ppm位か)でも吸収可能な赤外線を吸収し尽くしていて、それ以上に濃度を上昇させても、赤外線の吸収は増えず、温暖化しないことを意味しています。
最新の機器を使用した場合でも、CO2は吸収可能な波長15μm付近の地球放射を100%吸収済であることがわかっています。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Atmospheric_Transmission_JA.png
波長15μm付近の地球放射の遠赤外線の宇宙への透過率はゼロです。このことも、CO2濃度が上昇したとしても、さらに吸収可能な波長15μmの遠赤外線は存在しないことを意味しています。
よって、CO2濃度の上昇による温暖化は物理的にありえません。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E6%B0%97%E3%81%AE%E7%AA%93
大気の窓
図3・5では破線が地球放射で、地表から宇宙に向けて上向きに出る遠赤外線です。実線は大気放射で、大気から地表に向けて下向きに出る遠赤外線です。
CO2が吸収可能な波長15μmを見ると、両者の線が一致しています。
これはCO2が地球放射を全部吸収し、全部再放射し、その全部が地表に戻っていることを意味しています。従って、その波長では放射冷却は起きていません。CO2濃度が上昇しても放射冷却を減らせないことから、濃度上昇による温暖化はあり得ません。
http://www.asahi-net.or.jp/~rk7j-kndu/kenkyu/ke03.html
図3・5 大気放射
「地球放射を吸収したCO2は周囲の空気を暖め、再放射しない」という主張は地表に再放射による大気放射が地球放射と同じ大きさで届いていることから、間違っていることが明らかです。観測で否定される理論はゴミにすぎません。
CO2、水蒸気、メタンといった温室効果ガスが吸収できない波長8~13μmの大気の窓領域の地球放射が宇宙へ出ることにより、放射冷却が起きています。
濃度が上昇すると温暖化するのは、この波長域に赤外線吸収波長域があるフロン類と対流圏オゾンだけです。どちらも厳しく規制されていて、極めて低濃度ですから、温暖化への影響は無視できます。
↓qqq
重力の根源は空間の引きつけとか,重力子とか言われていますが,どうも原因に自信が無いというのが今日の考え方です。
それで私は全く別に,誰も考えていない重力を考えています。本当は力の作用する働きから見て,誰でもこう考えられるのではと思う考え方ですが,
何故か誰も言っていないという事の方が不思議です。
即ち,光など外に飛び出せば直進しますよね,それが物質の内に篭もっていると,出ないとして頑張っているという事の想定です。
そうするとその場所は,自然出づらい方の位置にいようとする,こういう幼稚と言えば幼稚な考えです。
こういう事で過去に私はこれに関して,丁度地球の話題で回答していますので見て頂ければと思うのです。これによって考えると,
私は地球の中心が一番重力が集まって居るんじゃないかと思います。
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1212896857
即ち厚い方に重力が多いので,中心が一番回りから見ても物質が集まっていると見えます。逆に中心から見ると,回りの方へ物質が薄くなって行っていますから。
今日の考え方で,中心が無重力でないのかというのは,一寸考え辛い疑問が残るように思うのですが。
すなわち,例えば地上から離れて天上はるか上にスペースシャトル,そこでは無重力ですよね。人が中で浮いていますから。しかしここでも,
現実にはスペースシャトル自身は地球に引かれて落ちる位置なのですが,地球の回りを回っている為に,遠心力も働き外に出ようともしています。
これはそれで,単に出るか,下に落ちようかとのバランスの位置で起こる無重力です。そういう事で本当の無重力はもっと地球を離れた
それでこれを,無重力という地球の中心に当てはめて考えますと,地上からの無重力の位置は天空はるか上でしたので,地球の中でも同じように
これに匹敵する空間が必要に成る筈です。すぐ近くに物質が有ると,それに引かれるからです。それで球上に回りが空間ですが,回りから
全て引かれるという姿の場合未だ無重力ではありません。先にスペースシャトルのようにバランスの元での事と同じように考えられるからです。
それで地球内部では,地上からの空間に匹敵する空洞が地球内部に存在しなしと,中心が無重力と言えないと思うのです。
綱引きの場合両方から引きますよね。もし綱を半分に切って,そこに人が居て,両方から引くのを両手で支えますと,両方からの力を受ける訳で,
真ん中に掛かる力は支えようとして非常な力が必要です。
地球の物質も内部の物質は,外に物質がこぼれないように引っ張っている形にも取れるので,内部に行くほど重力は強くなければならないと思うのです。
為せば成る為さねば成らぬ何事も成らぬは人の為さぬなりけり。
メルカリには高額な「使用済みクオカード」が、何故かたくさん出品されている。
5000円以上で絞ってみても、過去にたくさん販売されている形跡がある。
レアなカードであれば売れるのは分かるのだが、コンビニで容易に購入できるクオカードが、新品価格よりも高く販売されている。
どう考えてもおかしい。
考えられるのは以下の2つ。
(1)の場合はメルカリの規約違反にはならないだろうが、ユーザー同士のトラブルに成る可能性が高い。
(2)の場合は、現物でない商品を送付しているため規約違反。そして、現金類に相当するため規約違反。