はてなキーワード: 成るとは
詳しく答えてくれてありがとう!
納得できる所もありつつ、幾つか疑問点も有ったので書いていく
組み合わせであり合わせ技だから、っていうのは分かった
要するに、例えば
としたときに、
が、「AかつB」とか「AまたはB」が真の時に真である、だからCの真偽はBの真偽に依存するので、Bつまりタイトルに言及する必要が有った、って言う事だよね
で、じゃあCはAとBのどのような組み合わせなのか、と考えると、例えば
「広告全面黒塗りで右端に「月曜日のたわわ」って書いてある広告」は多分セーフ、という事なので、Aが偽でBが真の時はセーフ(Cは偽)
「タイトルが「月曜日のららら」だったらあのイラスト+編集部コメント」が多分アウト、という事なので、Aが真でBが偽の時はアウト(Cは真)
この時点で広告が問題であるか決める命題Cはどうやら「AかつB」ではないね(Aが真でBが偽の時にアウト(真)なので)
ただ、ここで1つ目の疑問点が有って、今のところ「Aが偽でBが真の時はセーフ(偽)」「Aが真でBが偽の時はアウト(真)」と、Cの真偽はAの真偽そのままになってるんだよね
もし他の象限でも「Aが偽でBが偽の時はセーフ(偽)」「Aが真でBが真の時はアウト(真)」となると、Cの真偽はBの真偽に関係なく完全にAの真偽と一致する事に成ってしまう
その場合、Cの真偽を論う時にBの真偽に言及する論理的意味は無くなってしまう、という事を言っていたんだよ
(加えて、Aつまりイラストの修正は簡単だけど、Bつまりタイトルの修正は実質的に無理であるという事情を鑑みても、問題視できるのはAのみになってしまうのでは?という事でもある)
だから今の所出してもらった例だと、CはAとBの組み合わせである、と言う主張に成って無いのではないかな?というのが1つ目の疑問
次の疑問、
広告にすでに「月曜日のたわわ」とう文字と単行本の表紙が載っているので「十分考えられる」というよりは「僅かにその可能性もありうる」程度かと。
ここについては根拠が良く分からない、「月曜日のたわわ」とう文字と単行本の表紙が載っている事と、広告を出す側が「(作品の中身は知ってるけど、それはそれとして、この絵単体で)」という意図を持ちうる可能性の高低にどういう関係が有るんだろう?
次の疑問、
これはたわわ広告の問題点の発動条件に「よくよく見る」を加える、という事で問題無いかな?
広告を見た多数の人のうち、「よくよく見る」を実行した人にだけ広告の問題点が発動する、という事だとすると、
「よくよく見る」をする人の割合によっては、その問題点が実際に問題であるかどうかの判定にも関わってくるのでは?(つまり、例えば「よくよく見る」人が極端に少ない場合、問題点があるとしてもその派生頻度の極端な低さから実質的に問題と言えるほどではない、となってしまうようなケースもあるのでは?)
次、
以降に書いて貰った部分、
これって、「たわわ広告がアウトである理由」じゃなくて、「ナタリーのあの記事がアウトである理由」になってない?
基本的な前提の確認だけど、あの広告を見る大部分の人はナタリーの記事を知らないし、編集部のあのコメントも知らないよね?
だとすると、「たわわ広告がアウトである理由」はナタリーのあの記事を知らない状態でもできる批判じゃないといけないよね?
でもあなたの批判は全体的にナタリーの記事と編集部のコメントに依存したものになってしまっている
だとすると、そこから導かれる結論は「広告は問題無い、しかしナタリーのあの記事は問題である」という事に成ってしまわない?
しかも今回のたわわ広告に向けられた批判は「日経新聞」という媒体を強調するものが多いので、
「広告は問題無い、しかしナタリーのあの記事は問題である・・・様に見えるが、こちらは掲載媒体がナタリーなので問題無い」
という結論にもなり得るように思えるけど、どうだろう?
あと
は端的におかしいよ
広告がナタリーの記事の情報を含まない(広告を見た人の大半はナタリーの記事を知らない)以上、
ナタリーの記事から問題化できるのはせいぜい「たわわ広告の製作意図」になる
しかし「編集部コメントがなければ」という条件では「たわわ広告の製作意図」は変わらない(編集部はコメントを出していないだけで同じ製作意図を持っている)訳だから、セーフに成る訳がない
例えばこんなケース。
②ジャニーズを起用した広告等、他のほぼ全ての広告も「3つのP」を守っていないと声が上がる
これ、③は成り立ってないよね?
まず①では「「3つのP」を守っていない事」を根拠に「問題だ」とされている。つまり「「3つのP」を守っていない事」は問題である為の条件であり、この条件を満たす限り全ての広告は問題だという事に成る。
そして②でジャニーズ広告等、他の広告が「「3つのP」を守っていない事」という条件を満たす事は既に示されている。
だとすると、①の批判に同意する限りジャニーズ広告等、他の広告も「問題である」と考えなければ理屈が通らないよね?
(それとも「「3つのP」を守っていない事」は十分条件ではなく、他の条件も満たさないといけない?だとするとたわわ広告もその条件を満たしているか確認する必要が有るから、その条件を示さないといけないし、結局「3つのP」は理由にならないって事だよね?)
以上より①の批判に同意するならあなたはジャニーズ広告等、他の広告も「私も問題だと思う」と考える訳だから、
「問題だと思うなら声を上げればいい」なら「声を上げればいい」のはあなたであるという事に成る。
だとすれば、それでも尚あなたが声を上げないなら、その理由が必要になる。
とは言え、「声を上げる」のにもリソースがかかるから、全ての問題に声を上げる訳にはいかない、というのは分かる。それは十分理由に成る。
ただ、だとすれば「問題だと思うなら声を上げればいい」はおかしいよね?問題だと思ったとしてもリソースの関係上声をあげられない人が居る(自分もその一人である)があなたの主張でしょ?
ならば全然「問題だと思うなら声を上げればいい」ではないよね?
あなたは(例え本心でなくても)体面上「ジャニーズ広告等、他の広告も問題だと思う、が、リソースの関係上たわわ広告のみにしかリソースが割けないので、他の広告は無視する」という立場な訳だから、
あなた以外の人に対しても「問題だと思う、が声を上げない(上げられない)」という立場を認めざるを得ないよね。
そもそもマイノリティの問題は様々な事情で「声を上げられない」事が多い。
それは貧困により声を上げる余裕が無い等、リソースの問題の場合もあるし、問題化する事がカミングアウトに直結してしまう場合もある、或いは声を上げる為にはトラウマを解消しないといけない場合等、
もしあなたがレイプされたが声を上げられない女性に対し「問題だと思うなら声を上げればいい」と言う屑や、
未カミングアウトのセクシュアルマイノリティが居る場所でLGBT蔑視の発言をし、「問題だと思うなら声を上げればいい」と言う屑を問題無いと思うなら、私はあなたを軽蔑する。
他人に対して「問題だと思う、が声を上げない(上げられない)」という立場を認めざるを得ないという事は、
当然ながら、他の人がフェミニズム等の問題に対し、「問題だとは思ってるんです、でもリソースの問題で、協力は出来ないですー」と言う事を許容しなければならない。
まぁ、ただ、そういう輩はどうせ協力する気なんて無いんだから、現状と何も変わらないし、どうでもいい事だとは思うけど。
B.「「3つのP」を守っていない事」等、①の批判の根拠になる条件が「問題である」と判定される為の十分条件ではない事を認める
(ただし、そのまま①に同意し続ける為には、十分条件を別途示し、ジャニーズ広告等、他の広告がその条件を満たさない事を示さなければ成立せず)
C.問題だとしてもリソースの関係上声を上げられないケースがあるので、③を撤回する(フェミニズムへの非協力の許容も必要)
D.②に対し、ジャニーズ広告等、他の広告が「3つのP」を守っている事を示す
どれを選んでもいい。
ただ、いずれにしてもB.D.は現状示せている例が見当たらないので、A.やE.が嫌ならC.を選ぶ(③を撤回する)しか無い。
(あなたが女性の場合、冷静に成る事を敢えて求めはしませんが)
非モテの苦しみの「主因」は「女性と付き合えないこと自体」にあるという主張を認めたとしても、そこから2行目3行目の間には距離が有ります。むしろ私にはあなたがそう思いたがっている様に見えます。
うん・・・男性が差別をされている事を認めてるフェミニストって実在するの?寡聞にして一例すら見たことないんだけど
あと、男性差別解消(と共に女性差別解消)のための銀の弾丸は「女性が稼げない男性と結婚すること」なので、損はあると思います
https://b.hatena.ne.jp/entry/s-scrap.com/7509
このブコメ欄を見て思った事、(これまでの言動等から)女性らしきアカウントは同情的・親和的なコメントを残している人が居る一方、
男性でかつフェミニストだったり左派らしき人がむしろ過激に記事を批判し、対立を深めるようなコメントをしている。
もしかしてフェミニズムの邪魔をしているのはフェミニズムに無関心な人よりも、この「無能な働き者」なんじゃないか?
女性の中に意外にもこの記事に対して同意する人が居るのは別に以外でも何でもない、
男性が差別をされている事を認めても、それが女性の損に成る訳では無いからだ、
むしろ女性差別の解消が結果的に「男らしさ」の強制からの解放によって弱者男性の助けになり得るのと同じように、弱者男性の支援が結果的にフェミニズムにとって利益に成る事も十分に考えられる。
ただ、女性に関してはその「冷静に」が難しい場合もある。リアルタイムに女性差別の被害者であり、他の性、特に男性もまた差別を受けていたり特権を大して受け取っていない人が居ることを認めることが心理的に難しい場合は有るし、それは仕方のない事なんじゃないかと私は思う。
それがその加害者としての後ろめたさの解消や、アンチフェミに当てこすったら気持ちいい程度のオナニーの為に悪戯に男女の対立を煽り、深める、一体どういうつもりなんだろう?女性と違って、あなたには冷静さを失っていい理由なんか無いでしょう。
はっきり言います、あなた達は足手纏いです、あなた達は邪魔です、フェミニズムの邪魔をしています、迷惑です、消えて下さい。
あなた達は女性の味方をしているのではなく、ただ自分のおままごとやオナニーの為にフェミニズムとアンチフェミの対立を利用しているに過ぎません、あなた達はただの加害者です。自覚して下さい。
http://blog.livedoor.jp/kudan9/archives/59152841.html
この記事、「またこの人かー」と思いながら読んだんだけど、読むと(思っていたよりは)論旨が明確だし、的外れな論敵(青識)への反論も(相対的に)正当だと思ったので、これは改めて考えてみる必要が有るのではないか、と思い、書く。
ただ、あくまで(思っていたよりは)なので、「ここは論旨や主張が曖昧だなー」「誤魔化されているなー」と感じる部分は有った。例えば以下の点。
①ラッキースケベは「性的無神経さ」を許容している、と書いているが、それが現実に実害(性犯罪を誘発等)を及ぼすと考えているのか?(ボカされている)
②ラッキースケベがレイプ神話を強化再生産し得る、と書いている、「し得る」はこれまでの調査でその様なメディア強化論を肯定する結果が出ていない(或いは否定的な結果が出ている)事の自覚と思われるが、
真相が「ラッキースケベはレイプ神話を強化再生産しない(またはその程度が非常に低い)」だった場合(これまでの結果から十分に有り得る)、この論はどの様に評価されるべきなのか?(有害な言い掛かり?)
③ラッキースケベがそのように批判され得るとして、ではそこでどこまで要求が正当だと考えているのか?(ラッキースケベ表現は全消去?それとも少年誌のみ全消去?それとも批判はするが表現を継続するのも自由?等々)
④最初の定義で男女間である事を不可欠とせず、こうすることで「同性間の「ラッキースケベ」も扱える」としていて、これは良いと思ったのだが、後の議論が結局男女間を前提としている・・・・
⑤結局①、②、③の判断はBL等のラッキースケベでも適用されるのか?あと性的モノ化批判も同様に適用される?
(余談、例えば(私の観測範囲の問題かもしれないが)「セックスしないと出られない部屋」はBL界隈発の発明かと思っているのだが、ラッキースケベにも近いこれも同様に扱われる?)
⑥論じられている内容を受け入れたとしても、タイトル「いわゆる「ラッキースケベ」が性暴力の許容となる」にはならなくない?何で自分から論旨を歪めて紹介するの?
・・・・等々、ただ、とは言え、これまでの記事から比較すると相対的に酷くない内容だし、考えるべきだなと思い、上記の問題点は一旦見なかった事にして、記事に対するブコメ等も読みながら、一つの考えに至った。
ジャンプ等の少年誌にはむしろ「ラッキーではないスケベ」が必要なのではないか?という事だ。
まず「ラッキーじゃないスケベ」とは何か?
これを参考に定義するとこうなる。
要するにラッキースケベの定義から①だけ否定になっているものが「ラッキーじゃないスケベ」だ。
ここでは私の個人的な考えを含む以下の条件が前提になっている。
上記の根拠は後ほど説明するが、これを前提とすると、先の定義の内②、③は外す事が出来ない。
しかも、引用した記事の論旨に沿うと、以下の通りラッキースケベに対する批判点の多くは①に集中しており、これを取り除く事で「毒抜き」する事が出来るからだ。
まず件の記事は単なる「性嫌悪」だけが根拠の無意味な主張ではない、従って「②性的(スケベ)であること」が即問題となる訳では無い。性的なコンテンツ全てをこの世から無くそうという話ではないのだ。
更に、「性的無神経さ」にせよ「レイプ神話の強化再生産」にせよ、問題とされているのは「①ラッキーである(偶然性が高い)こと」によってそれらが発生する事であって、「②性的(スケベ)であること」ではなくその扱い方が取沙汰されている。
唯一「サービスシーンとしての「ラッキースケベ」」は「③シーンが読者に提示されることが不可欠な要素」を問題としていると言えなくもないが、ここでは「性的モノ化」が問題なのであり、「ラッキーではない(偶然性が低い)」=キャラクターが自分の意志でやる描写なら「キャラクターを人格ある一個人として扱う」事に成り問題無い。
つまり総じて①だけ切除すれば、ここで論じられている有害さは全て取り除く事が出来る。
次に論拠とした「未成年にもスケベ(エロ)は必要である」の説明に入ろう。
単純な話である、男女関係無く未成年にも性欲は有る(勿論無い人も居るが)、そんな未成年に対しエロへの接触を一切禁じるのは、既に当事者ではない大人がその事実から目をそらして「楽をしたい」というだけの怠慢でしかない。
現在と言わず私達が子供だった頃から、未成年はそもそも自分からエロを探し摂取している、その事実から目を逸らし、ジャンプ等の少年誌だけを問題視しても、一切対策に成っていない、只のパフォーマンスである。
ならばむしろ責任ある大人の立場としてするべきなのは、未成年のエロへの接触を禁ずるなどという、実現不可能且つ悪影響も碌に評価出来ていない妄言ではなく、
そしてその為に「ラッキースケベがよろしくない」ならば別の代替物を考えるのは当然の帰結である。
では「ラッキーじゃないスケベ」は具体的にどういう物だろうか?
未成年にエロは必要とは言っても、流石に性器や性行為を直接描写するのは抵抗がある。(将来的にそれも許容される倫理観が定着する可能性も無いでは無いが)
加えて、それは「①ラッキーではない(偶然性が低い)」物で、「キャラクターが自分の意志でやる描写」が有る必要が有る。
つまり、例えば「主人公の事を好きなヒロインがスカートを自分の意志でたくし上げ、下着を見せる」等の描写であろう。
これならば「性的無神経さを許容」も「レイプ神話の強化再生産」もせず、「性的モノ化」でもない。
ただ、こうした描写が「ラッキースケベよりマシな物である」と私以外の人(特にフェミニストの人)が考えるかどうかは自信が無い、是非意見を聞かせて欲しい。
もしかしたらむしろそのような「同意による性的な行為」を見せる事の方が気まずさや、問題を感じる人も居るかも知れない。
しかし待って欲しい、そのような大人側の事情、怠慢こそが「ラッキースケベ」描写を生む原因だったのでは?
ラッキースケベはキャラクター同士の恋愛関係が成就しない状態で、同意を描かずにエロを書く為に都合のいい描写だ、
それは「性的無神経さを許容」したり「レイプ神話の強化再生産」する為ではなく、ただ大人が未成年に恋愛の成就の結果としての同意によるエロを見せたくなく、そのような要望を満たす為に生み出された技法なのではないだろうか?
もし、ジャンプ等でエロコメ等の漫画を描いている作者の方が「これからはラッキースケベは描くのを避けてください、ラッキーじゃないスケベならいいです」と言われたら、
その人は抵抗や反発を感じたり、残念に思うのだろうか?それとも「えっいいの!?」と喜んでそっちを描くように成るのだろうか?それは私には分からない。(ただ、既に矢吹健太朗は既に「あやかしトライアングル」でその方向に挑戦している様に感じる・・・・・)
けれどももしかしたらそんな健全な「ラッキーじゃないスケベ」をこれまで抑圧していたのは、むしろラッキースケベを問題視する側で、この不幸なすれ違いさえ解消すればWIN-WINな未来が待っているのかもしれない。
私はその様に考えてみた。
レベルが低い、フェミニストの方(なのかどうか不明だが、こう書かないと伝わらないと思われるため、便宜上このように書く)の評価に対するオタク側の反応も、それに対する反応も含めて、全部レベルが低い。
余りにレベルが低過ぎて真面目に書くと書く事が多すぎる、要点だけまとめる。
フェミニストへの反論として進撃の巨人世界の残酷さ等を持ち出す等、オタク側のレベルの低さも目立っている。
問題とされているのは「その描写がどのようなメッセージを放っている(と解釈されるか)」だ、幾ら残虐描写があっても、それが好ましくない物として描かれるならメッセージは問題無い。
それより、彼らは自分で結局何に反感を覚え、何を言いたいのかが分かっていない。
彼らが不満に感じているのは当然ながら「進撃の巨人が褒められた事」ではない、「進撃の巨人を褒める事をダシにして他の作品が貶された事」だ。
だから浅いレベルで反論したいなら進撃の巨人ファンとして「進撃の巨人を他作品を貶す道具として使用しないで欲しい」と言っておけば良い。
まずは「その描写がどのようなメッセージを放っている(と解釈されるか)」の前提が本当に正しいのかを考えるべき。
よく言われる事だが、作品の解釈は多様である。巨乳キャラやスカートめくりが出てくるキャラクターは「女性蔑視的なメッセージを発している」とされる訳だが、「本当にその解釈は正しいか?」「唯一絶対の物か?」と疑義を突き付ける事は可能。
作品に対する「女性蔑視的なメッセージを発している」という解釈は、結局数ある解釈の内の1つに過ぎない。「作品のメッセージ」なるものを決定する事は読者はおろか作者にも出来ない、まずはその点を強調すべき。
作品を貶そうと褒めようと、それがただの感想なら、そんなものは表現の自由の範疇内。
元になったツイートを見る限り、これはただの感想の域を出ないだろう。なら出版社や作者は気に入らないなら無視すれば良いだけだし、とやかく言う事でもない。
勿論他人の感想に対して感想を言うのも自由だが、出版社や作者に対応を求めるような抗議であればもっと発言した側の責任は重くなる、まずはどちらか見極めるべき。
貶される側の作品は具体的にどれか、他の増田で例として挙げられていたのでここでも「ぼく勉」を採用すると、
確かにあの作品はラブコメである性質上、スカートめくりや女性キャラクターの描き方周辺は「フェミニズムの視線で見れば」脇が甘い。
ただ、作品の価値を決めるのは当然ながら「フェミニズムの視線」だけではない、
萌え文化の文脈で見れば、漫画にマルチエンドを採用した意欲作として評価する事も可能な作品である。
オタク達が結局気に入らないのは、「フェミニズムの視線」だけで作品を評価しようとする偏狭さだろう。
しかし相手方は「フェミニズムの視線だけで評価する」とも「「フェミニズム的価値だけが作品の価値である」とも言っていないのだから、そんなものはただの邪推、ただ黙々と「フェミニズムの視線」とは異なる別の価値観の存在を見せ続ければ良いだけである。
スカートめくりに対するエクスキューズとして「ぼく勉」のやり方が十分か、足りないか、も同じ、そんな物は採用する尺度によって変わる相対的なものでしかない。十分とする尺度も有れば、そうでない尺度もある、それだけ。(その上で尺度同士の優劣を付ける事も可能ではあるが、そのレベルに達している者は殆ど居ない、無視して良い)
ただの感想だからそれで良いのだが、もし「自分の不愉快に配慮された作品が作られるべきである」とまで主張するなら、その「自分」に自分以外の他人を代入した場合も考慮すべきなのは言うまでもない。
もしかしたらAさんはあなたにとっては理解不能な理由で進撃の巨人が「安心して読めない」かもしれない、あなたの「安心して読める数少ない作品」はAさんから見れば「唾棄すべき悪」かもしれない。
そうやって常に自分とは異なる他者への想像力を働かせるのでなければ、他人にとっては他者であるあなたへの配慮を求めるのも、自己中心的視点しか持てない子供の戯言に過ぎない。
最終的にオタクたちが警戒しているのは作品が褒められる事でも貶される事でもない、規制されたり消費者の(または消費者ですらない)声によって作品が修正させられたり消去される事だろう。
しかし以上検討したそれぞれの点を見れば、ただの感想レベルとしては問題ないが、出版社や作者に何らかの対応を求めるには理屈も根拠も足りない物であることは明白である。
だから、それがただの感想でいる内は別に自由なのだから放って置けばよく、どうしても気に成るなら自分も感想の範囲で釘を刺せば良い。
作者の権利を制限したり、作品の改変を求める等の「強い要求」をする為には、作品が与える影響等を分析した科学的根拠や統計的根拠等の「強い根拠」が必要になる、それを出せるレベルにはないのだから、「強い要求」をするまでは放って置けば良いのである。
進撃の巨人という作品が「フェミニズムの視線」だけで批評しきれるような作品でない事は確かである。
既に長くなっているので詳しくは自重するが、
例えば壁の中の人類は過去に外へ侵略という行為に出たことにより人種丸ごと差別されている。これを大日本帝国による罪責を抱える日本の立場と重ねて論じる事も可能であろう。
そのような観点からすると、過去・祖先の罪の適用をどのように考えるか、優生学的な種の根絶による贖いすら含めて議論するこの作品に対し、高々「巨乳キャラが存在しない」程度の事でこの作品の危険さ(とそこに潜む魅力)を見過ごして、フェミニズム的な観点に易々と乗っかって「セーフ」判定してしまう軽さは(日本の立場に批判的であろう左翼なら尚更)滑稽に見える。
進撃の巨人はフェミニズム的な観点から見れば「安心して読める数少ない作品」かもしれないが、この作品の危険さは、そしてその危うさに伴う魅力は、そんな所には無いし、
そんな観点のみで「安心して読める」等と言ってしまう軽薄さは失笑物である。
"科学的根拠や統計的根拠等の「強い根拠」が必要" こうした意見に対する疑問を以前に投稿したが、納得のいく(科学的な)返答が得られなかったのでこの機会に再掲してみる https://b.hatena.ne.jp/entry/4711623874155541026/comment/B2igwzEE
そもそも「表現の自由」自体、科学的根拠のもとに存立したものではないのでは。主張には常に科学的根拠が伴うべきであるなら、まず「なぜ科学的根拠なしに表現を批判してはいけないのか」を科学的に説明してほしい
このコメントは興味深かったので、自分なりの見解を書いてみた。
自分の地元には旧制ナンバースクール中学をルーツとし、かつては屈指の難関、名門だった県立高校がある。
その高校のWikipediaの著名OB欄は学者、官僚、財界人、作家、軍人がズラーっと並んでいる。
しかし実はとっくの昔に凋落し、今は東大なんぞもはや4~5年に1人くらいしか出なくなり、私大の浪人込みの延べ人数合格実績ですら早稲田40人慶応10人くらいが平常運転になってしまった。
それでも地元ではこの高校の生徒は神の子扱いだし、生徒自身も自分の学歴と学力に対するそうした評価について一点の疑いも抱かず胸を張っている(なぜかまだ高校偏差値68くらいある)。
さて、この高校の学年上位1/3あたりの生徒は現役で青学や明治あたりに合格し、そのまま進学することになる(この高校は明治青学がやたら多い)。
と悲しみの進学と相成るところだが、この高校の生徒の場合は違う。
『素晴らしい名門である我が母校において、学年上位層をキープしてた自分が進学する明治大学、青山学院大学は凄いエリート大学だ!』
と当然に発想するので、彼らは胸を張って目を輝かせて明治や青学に入学することになるのだ。
この思い込みは強い。
落ちぶれてからとっくに30年は経っているカビの生えた県立高校に入学し、そのレベルの低い母集団で中の上をキープし、実力通りの大学に合格するだけで、
東大に合格したくらいの誇りや自己肯定感を得られるも同然なのだから。
俺が新卒で入社した大手金融機関の同期に、『この高校→明治や青学に現役進学』という典型的な経歴の持ち主がたまたま3人もいたのだが、彼らはやはり高校以降の自分の経歴、人生を誇っていた。
大手金融といっても東大の新卒なんぞ滅多に入らず、日東駒専卒からトータルで軽く2桁人数は入社するような程度の格の企業だったけど、
やはり『誇り高き彼ら』は自分の人生の栄光を疑わなかったし、そんな自分が入社した会社は泣く子も黙るエリート集団だと当然に思い込んでいた。
自分の将来を案じて卑屈な発言を繰り返す慶応経済(体育会運動部)出身の同期の嫌味やネガティブ発言や諫言を全て「わけのわからないノイズ」とばかりに余裕でスルーし、
彼らが相変わらず強がりではなく本心から勝ち組を疑わない様子見て、
ただ、旧制中学ルーツの落ちぶれた県立名門高校に入学するだけで良いのだ。
地元の人間なら老いも若きも崇め奉ってくれて、同級生も勘違いし続け、教師も誇りを抱くよう教育し、
やがて本人は労せずしてその高校発の過去の栄光を自意識下で体現することとなる。
そしてその効果は落ちづらい。
まぁ表現の自由戦士を積極的に名乗りたいとは思って無くて、そう呼びたいなら呼べばいいというスタンスなのだけど
フェミニスト議連の件も教科書の件も、表現の自由戦士目線、当然アウトなんだけど、みんなはどう?
「議員が表現に対して抗議等の圧力を掛けたらアウトかセーフか?」
この段階では当然フェミニスト議連の件の事なのか、教科書の件の事なのか分からないけど、それでもあなたは答えられる?
それとも、どちらなのか教えて貰わないと答えられないかな?
「この情報だけでは答えられない」と言う人は、どういう情報が有れば答えられる様に成るのか、教えて欲しい
何がアウトかセーフかの決め手なんだろう?
「抗議等の圧力」の内容かな?その場合、「酷いですね」「対応策を検討します」とツイートするのと、「性犯罪誘発」と抗議し、謝罪と動画の使用中止、削除を求める事は、どちらが重いんだろうか?
当然私は両方アウトだと考える
ただ、抗議する相手が公共機関か私企業かでアウトかセーフか変わると言いたいなら、説明は必要だろうね?どういう理由で変わるのだろうか?
また、私企業ながらも教科書という公的な役割を持つ出版物をどう考えるのかは非常に気になるね
例えば日本赤十字だって厳密には公共機関では無い様だけど、「公共的な役割を担っている」と言いたい人は居る様だね?だったら教科書も同じかも?
過去にはコンビニまで「公的な役割も持っているから公共の場だ」と言う主張もあったけど、整合性は取れているかな?
少なくとも週刊少年ジャンプよりは教科書は公共的な役割を持っていそうだけど、
議員がジャンプの表現に「酷いですね」「対応策を検討します」とツイートする事をアウトと判定して大丈夫?
勿論私は全然大丈夫だけど
それとも抗議内容が正しいかどうかかな?
抗議内容が正しいなら正当で、正しくないなら不当、という基準なんだったら、非常に分かり易くて良いね
ただその場合、別にそれは議員の発言に限った話では無くない?議員だろうがその他であろうが、抗議内容が正しいなら正当で、正しくないなら不当、じゃない?
影響力の問題なんだろうか?
いずれにせよ、抗議内容の是非が論点に成るのはこちらとしても喜ばしい、
教科書の件はそもそも政府見解とも矛盾しない内容を問題視しているので当然不当、
フェミニスト議連の件も「性犯罪誘発」には科学的根拠が無いし、他に謝罪や動画の使用中止、削除を求めるに値する根拠も無い、
そもそも抗議内容の是非が論点に成る段階で、抗議や公開質問に答えず逃げ回っている時点で論外だよね
つまり抗議内容に即せば両方アウトと言えると思う
また、そのような抗議に対して表現が取り下げられてしまった場合、あなたは誰を責め、批判するべきだと思っているのかな?
議員自身を批判するべきなのか?それとも表現を取り下げてしまった表現主体を批判するべきか?
もし教科書の表現が抗議を受けて変えられてしまったら、「あくまで議員は抗議しただけで、それを受け入れるかどうかは自由なのだから、表現を取り下げた出版社を批判するべき」なのかな?私は同意できない
それとも動画が使用中止、削除されたら、抗議した議員に抗議するべきなのかな?それは同意できるね
それがどのように働いて、誰のどの判断に影響するかなんて、誰でも分かるよね?それを分かっていない振りをするのは「すっとぼけ」に入らないの?
別に全員が矛盾しているとは言わないから、せめて特定のポスターや広告に対して「あれがエロいなんて分かってる癖に、すっとぼけるな!」って言っていた人達だけは、我が身を振り返って自分達が矛盾していないか考える必要が有るんじゃない?
あなたは「すっとぼけ」という言葉をどういう意味で使用し、どういう場合に不適切だと思っているの?自分だけは対象外?随分都合が良いね。
まぁ、と言っても、それであなた達が「確かに矛盾していた」なんてハッとする事なんて1%も期待してないし、そんな事絶対にあり得ないとすら思っているけど。
あなた達には自身の矛盾に気付くだけの能力が完璧に欠けている事を知っているから。
断言する、あなた達は「矛盾だった」なんて思わない。そうでしょ?
ただ、勿論それはあなた達だけではない、例えばアンチフェミの側にもそういう輩は一杯居る。あなた達の同類が。
そういう輩もあなた達が何を言おうと自身の矛盾に気付く事なんて100%無い、あなたがそれをどれだけ歯痒く思おうが、そもそもあなた自身にそれが出来ない以上、自分に出来ない事を他人に求める事は出来ない。
只管不毛だよね、あなた達がやってるのは、表向きは互いの主張や論理を戦わせている様に見えても、それで相手も自分も論理的な矛盾に気付く事が無いのだから、せいぜい互いに相手を不快にさせる程度の事しか実際には何もやっていない。
「じゃあお前はどうなんだ」と言われれば、何度か自分の矛盾に気付いてそれを表明した事も有るし、当然これからもその準備が有る。
別に実態としてそうである事までは求めないから、せめてこれと同じ事を宣言できる人が居ないかな、とは思うね。
私は「対象の表象や行為が、実際にはどのような影響を他に及ぼすか知っている筈なのに、それを知らない振りをしてその影響を放置する事」だと解釈しているが、それぞれの人がどのように考えているかは本人に聞くしかない。
仮に上記の解釈が正しいなら、勿論「個人名を出して「個人攻撃じゃない」」はすっとぼけに入るし、すっとぼけが悪いと考えるならその行為も悪いという事に成る。
また、上記の解釈はエビデンス無しのメディア影響論等でも利用されがちな理屈だ、
本来表象の影響を主張する側が根拠やエビデンスを示すべきだが、それを「知っている筈だ、とぼけるな」と強引に自らの実証責任を無かった事にする。
そのように考えると「すっとぼけるな」というすっとぼけ論は、一見正しいように見えても、自分にとことん甘いやり方だと言う事も出来る。
もしそのようなすっとぼけ論批判を支持するなら、「個人名を出して「個人攻撃じゃない」」に対する批判にも「じゃあ何が個人攻撃なのか定義しろよ、エビデンスは?」と迫れるだろう、
どこまでもリテラルに攻撃の意図が書かれていなければ個人攻撃ではないと強弁する事も出来る。その代わり、以降リテラルに明言されている効果や影響以外は言及出来なくなるし、すっとぼけ論やエビデンス無しの影響論は使えなくなる。ポスターや広告の批判は殆ど不可能になるだろう。
どっちを取るか、だ。
どっちか一つだけ取るなら、基本的に矛盾しない。欲張らずにどっちかだけを取ればいい。どちらを取ってもいい、そこに文句は無い。せめて矛盾しない選択をしてくれたら、それだけでいいんだよ。
考えてみて欲しい。
ドアんところにあるアルコール消毒液を
15秒もすり込んでる人みたことない
15秒は手洗いしてる
丁寧に洗い流すとかなり減るのでは。
拭いて冷蔵庫に入れてる。
細胞膜に由来するエンベロープがあるウイルスでは、エンベロープタンパク質が細胞側のレセプターに結合した後、ウイルスのエンベロープと細胞膜とが膜融合を起こすことで、エンベロープ内部に包まれていたウイルスの遺伝子やタンパク質を細胞内に送り込む仕組みのものが多くなっています。
エンベロープはその大部分が脂質から成るためエタノールや有機溶媒、石けんなどの界面活性剤で破壊できます。このため、一般にエンベロープを持つウイルスは、消毒用アルコールでの不活化が、エンベロープを持たないウイルスに比べると容易となっています。このエンベロープ破壊性が、コロナウイルスの環境表面での除染の主要な科学的作用機序です(ref.2)。
https://www.kao.com/jp/hygiene-science/expert/new-coronavirus-knowledge/enveloped-viruses/