はてなキーワード: ながら見とは
反出生主義、なんやかんや言って、自分の人生がイケてない、正直死にたい、生まれてきたくなかった、というところからスタートすると思うんだよ
ベネターさんの思想的には、そもそも主観的に幸せかどうかなんて関係なく、全員生まれないのがイチバンってことではあるんだけど、まあ、個人が反出生主義に傾倒する理由としては、自分の人生が嫌いだからというのは多少なりあると思う
で、不幸の再生産をしないために絶対子供は作らないぞ、っていうのはいいと思うんだよな
でも、他人にそれを期待し、他人が子供を作ってるのを見て怒りを覚えるというのは、純粋に損なんだ
むしろ、ガンガン苦しんでくれた方が自分の将来にとっては良いというところまである
自分の子を勝手に生み出して苦労させて恨まれるなんてことはやりたくない
でも、他人の子供が他人に勝手に生まれていくら苦しもうとどうでもよくねえ?
俺んところでだけ不幸の連鎖を断ち切っといたらそれでいいじゃん
アホにはドンドン産んでもらってさあ、貴重な未来の労働力になってもらいましょうよ
自分のところだけしっかりやって、他人がバカやってんのはヘラヘラ笑いながら見てようぜ
と、最近は思うようになったよ
kazatsuyu うーん、公邸は官邸とは違って首相の住居として貸し出されてる官舎で、そこに親戚呼ぶのが駄目とは言えんし、機密に触れるような物じゃなけりゃ呼ばれた奴がどこで写真撮っても自由だろと言われりゃそうなんだよな
minorleague 官邸ならともかく、自宅として借りてる公邸でちょっとふざけて写真撮っただけでごちゃごちゃ言う連中がいるなら、そりゃみんな住みたくないよな。代々木の自宅から通ってた安部ちゃんの判断は正解だったね。
Dainihonteikokubanzai コレは別に何も問題ないと思う。写真をみて将来の代議士として相応しくないかどうかは選挙区民の判断
Flume 首相一族も同じ人間なので、酒飲んでその辺で寝るのなんて別にどうでもいいです。会社で忘年会とかやって酔い潰れて寝たりするのとなんも変わらん。仕事(政治)だけしっかりしてくれりゃいいよ。
yujimi-daifuku-2222 今一緊張感に欠けるとは思いますが、記事の意図するところがよく分からない。/公邸を使用する上で何らかのルールに反しているなら、ハッキリとそう書けば良いと思うのだけれど。
renowan ま、自宅だし、いいんじゃない?
Gka 公邸って公務可能だけど住居だよ…公務員宿舎みたいなもの。首相は24時間くつろいではならないというなら頭オカだろ。左翼はいつまで天ぷら騎士団やっているんだよ…目に余るほどくだらない。
miscmisc この、はしゃいだらダメ文化、とっとと無くなってくれ。アメリカ人がホワイトハウスではしゃいでたって何とも思わんだろ。官邸ではしゃいだから何?誰かに迷惑かけたんか?
shields-pikes えっ、職場の借り上げ住宅に住んでたら、家族とはしゃいで写真撮っちゃダメなの? 何が問題あるのかさっぱりわからん。無理やりな2世の起用問題とこれとは何の関係もないのに、上位ブコメはイヤらしいな。
chiyose 印象は良くないが騒ぐほどでもない。二重国籍だったわけでもなく、情報横流ししておきながら見せた事実はありませんと嘘をついたわけでもないし、関西生コンのような怪しい人とつながりがあったわけでもない
youichirou 歴史的な場でもあるのでもうちょっと品の良い使い方であってほしいという思いはあるが、公邸は首相の住居なんで、ぶっ壊したりしなければ別に遊ぶくらいは自由なのでは、という気もする。知らんけど。
Cru あほらし。記事にする方がおかしい。ほっといたれや。まあ首相官邸だったら大問題だとは思うが
morimarii 官邸じゃなくて公邸だからなあ。公邸って私室に近いから家族がそこにプライベートで人呼べないってのもおかしいし機密部分以外の写真取ったら怒られるってのも違う気がする
aceraceae 別にいいんじゃないの? 官邸と違って公邸なので私生活もそこで行われているんだし、こういうのを問題視するほうがおかしい。流出した経緯は気になるけど。
松野官房長官は25日午前の記者会見で「公邸は総理大臣や家族が居住する施設だが、迎賓機能や執務機能を有する公的な施設で、報道にあるような行為は適切さを欠く。今後このようなことがないよう適切な使用・管理を徹底していきたい」と述べました。
まず私のプロフィールを明かしておく。
大学院生。社会学と文学のあいの子みたいな分野で、とくにジェンダーとかセクシュアリティとかそういう事を学んでいる。
映画は学部時代に少しかじった程度で、評価はB+だった。だから的外れなことも言うかもしれない。すみません。
匿名なのでもっと書くと、同性愛者で、SMの実践者で、フィクトセクシュアルに片足つっこんでいるので、わりとどの界隈でも少しなじめない気持ちになりがち。
「映画としてはちょっと……」というような意見が主にアカデミックや評論の場で散見される。
これは分からないでもない。ちなみにここでは個人攻撃みたいにするつもりはないので、引用は特に必要でない限りはしない。
「すげえ! マリオってこういう解釈ができるんだ!」みたいな「新しいもの」はなかった。しかし、「マリオの映画といえばこういうのが見たいよね」という「見たいもの」が詰め込まれており、「新しいもの」を入れる余地は90分にはないように思われる。
メディアミックス映画としては一つの模範解答であり、文句なしの一級品といってもいいかもしれない。面白い映画といい映画は別だが、以下では「いい映画」(いい映画って何すか?)としての切り口を見てみたい。
ゲームをアニメとしたら、キャラクターの解像度や物語の運び方だけでなく、どのようにゲームの快感が写し取られているかが重要ポイントに思う。
マリオのゲーム体験を思い返すと、快感は大きく二つに分けられる。
「スーパーマリオブラザーズ」ならステージクリアのタスク消化に似た快感。
「スーパーマリオ64」に連なる「箱庭マリオ」なら新しいマップを開いていく探索の快感。
マリオシリーズだけでなくゲームの快感はむしろこの二者に共通する「試行する」快楽が大きいのではないか。
私はといえば、ゲームが苦手だった。
クリボーに激突する。穴に落ちる。ドッスンに潰される。空から落ちる。燃やされる。溺れる。
我ながらヘタクソなプレイである。しかし、プレイを重ねると、一つ一つそれらを回避なり消化できる。そこにゲーム的快感がある。
翻って「映画マリオ」に戻る。キノコ王国に迷い込んだマリオは、ピーチ姫の旅についていくためにゲームばりのアスレチックに挑むわけだが、このプレイングも経験者ならば笑ってしまうほど失敗に満ちている。そしてその分だけマリオは「試行」を試すことになる。
アスレチックだけでなく、ドンキーコング戦、クッパ戦と繰り返し作中で強調される「諦めの悪さ」が導くゲーム的快楽とはこのような「試行」の快楽が適切だろう。
文学研究者の藤田直哉は上記のようなことも含めて、「物足りなさ」を指摘している。
https://twitter.com/naoya_fujita/status/1655397557198278662
ここは鑑賞者のバックボーンも関わってくるのかもしれない。
周回前提のゲーム「ドキドキ文芸部」「UnderTale」「シュタインズ・ゲート」の記憶が私にはすごく強くあるし、マリオシリーズから距離を取っていたので(ここまで多くの作品に触れたわけでもない)、試行錯誤性は面白く観た。
また、勉強不足と笑われそうだが、3Dの映像で2Dのフィールドを表現する映像も、私としては十分に真新しいものだった。
「反ポリコレ」とか、「ジェンダーから距離を取っている」いう話も聞く。
しかし私はそうは思わない。LGBTと「マリオ」作品群の関わりは以下のコラムに詳しいため、これ以上は言及しないが、さらに男性性との関わりについて分析する。
https://cinemandrake.com/pokemon-musashi-kojiro-lgbtq
こちらも藤田直哉の評を引用する。私のマリオ映画への評価は彼とは異なるが、この評と私の見解は一致している。
https://twitter.com/naoya_fujita/status/1656110486713434113
クッパは名誉と所有、暴力を原理においたキャラクターであり、婚姻と幸せを直結させる家父長制を背負った男である。
ピーチ姫に対し無茶な論理で婚姻を迫ったり、彼女の知人も含めた囚人を婚姻の犠牲として殺そうとしたり、人の論理の届かない人外らしさが映画における彼の輝かしい魅力でもあることは間違いないが、それは悪しき男性性の発露でもある。
この「有害な男性性」を退けることを軸にマリオ映画を見てみると、マリオは退けた先に何を得たのか。
それは物語のラストが示すように、ピーチ姫ではない(ピーチ姫とマリオとの恋愛の成就がほのめかされてはいる。しかし、ほのめかされていることと明らかであることは違う)。
マリオはゲームにおいてプレイヤーの分身であり、あまり感情を発露しない。
葛藤もあまり読み取れず、さらわれたピーチ姫を取り返すため、躊躇いなく絵画に入ったり火山に行ったり宇宙に行ったりしているように見える。
しかしマリオ映画においては、夢を追う自信のなさげな男として描かれる。
イタリア系アメリカ人の家庭で育ち、家族仲はおそらく悪くないが、「父親に認められたことがない」ということが恐らく影を落としていて、自分のやりたいことと、父親に認められたいという二つの想いが両立できていない。
そしてマリオは映画の終わりに藤田のいうところの「有害な男性性」の発露であるクッパを倒し、父親からの承認を得ることとなる。
婚姻に大きな意味をおく家父長制の権化を倒した先に、父という家父長に認められるというメビウスの輪的な権力のねじれについて、私はまだうまく説明ができない。こういう嫌な書き方をすることで、妙な引っ掛かりを表明するしかできない。
その是非について何か言いたいわけではない。
現実では家父長制や異性愛規範や同性愛差別やトランス差別や人種差別が吹き荒れている。そのような不均衡な権力は改められるべきだし、悪しき男性性とは決別すべきである。
その是非についても何か言いたいわけではない。
ここまでが建前。
「家父長制の権化」と表現したけれど、理屈の通じない愛情を持て余す魔王クッパが大好きだ。
本気で惹かれると言っていい。
そして彼は多くの部下に愛されながらも、彼の愛はどこにもたどり着かない。
槇原敬之の「軒下のモンスター」から「いっそ妖怪にでもなって 君を軒下からただ見ていたい」を引いてもいい。
三島由紀夫の「仮面の告白」から「お前は人間ではないのだ。お前は人交わりのならない身だ。お前は人間ならぬ何か奇妙に悲しい生き物だ」を引いてもいい。
ピアノを弾きながら「ピーチピーチピチピチピーチ」とか歌ってる彼のカットでは劇場で笑い声が起きた。
「悪しき男性性」の回路ではもう誰かと心を交わしあうことはない。ピーチが振り向くことはない。彼の歌うラブソングは哀愁に満ちて、あるいは滑稽かもしれない。
私も笑った。でもぶっちゃけ泣きそうにもなった。
今ギリギリこの男を笑って愛でながら見られるくらいには私もマジョリティにいられてるんだろうけど、こういうジェンダーやクィアの批評は規範を可視化させ内破する営みであって、次に生み出される新しい規範にいられなくなったら、次は私が笑われる番なのだ。
本当は、弱者はクッパの方なのかもしれない。でも私は彼にあまりに感情移入しているから歪んだ読みをしているのだろう。
お前の横暴さも、報われなさも、情けなさも、関われなさも好きだぜ。ほんとに。
ChatGPT関連のニュースを最初めちゃくちゃ嫌っていたうちの母親(57歳の主婦)が実際に使い始めたらどハマりしてしまったらしい。それだけなら面白いもんだが2ヶ月前、遂に「OpenAIのエンジニアになる」と言い出した。ちなみに母は一度も日本から出たことはないしプログラミングやIT系に勤務した経験もない。
ニューハンプシャー州にあるコミュニティカレッジのオンライン英語学習コースとCamblyというアプリで英会話やライティングを勉強しながら、Pythonやデータ構造、アルゴリズムの勉強をしている。本を読んで色々作りながらPython Certificationsという試験の勉強をしているらしい。
俺は2ヶ月前まで色々パソコンの基本的な使い方やファイルとかフォルダの違いについて教えていたが、もう多分母の方が詳しい。その情熱を数十年前に俺の教育に注いでくれればよかったのに。まあボケ防止にはなるだろうと思いながら見守っている。
それがワイじゃワイ。
年を取ると三大欲求を満たしたくなっても欲求そのものが弱まる。
そんなときワイのような老人の頭は矛盾でおかしくなりそうになる。
宦官の何割かはなまじ失った性器の名残により終わりのない幻肢性欲に苦しんだという。
そんなときせめてもの慰みに他人に乱交させて眺めたらしいのじゃ。
ワイがしてるのもそれと同じことじゃ。
どうせ固くなりもしないチンチンに手を置いても仕方がないから画面の前にベガ立ちしてハッスルする若造の姿を眺めるのだ。
ガハハハいいぞもっと食え食え若いんだからもっと食えと飯を奢るような気持ちじゃ。
ワイが奮発して数回しか見ないAVをちゃんと円盤で買ったお金が次の作品を作るための予算になると思えば実質ワイが奢ったセックス。
ワイの金で若者がセックスしているのを見るのは不思議な快感が。
必死になって少しでも安くエロを味わおうとして自分の射精だけを追い求めてきた頃が遙かなる太古に思える。
子持ち孫持ちがガキの寝顔を見てニヤニヤしているのも、自分から失われつつある睡眠欲求を他人が大いに満たしている姿に謎の満足を重ねているからなんだろうなあ。
続き。
深沢氏は今年4月上旬の判決後に実名列挙Tweetをしたことでも騒ぎになった。
「係争中だから」沈黙貫かれても仕方ないと思ってたけど、判決でてすらだまり続けるとは。
このTweetに至る心情的な背景は看過しない会のBLOGでも説明されている( http://dontoverlookharassment.tokyo/2023/04/19/writtenrequest/ )が、もし仮に判決後に当該の教員がなにかねぎらいの連絡をしたとしても「大変な時になにもしてくれなかったのに裁判所の判断が出て安全になってから味方みたいな顔で連絡してきた」などと怒り狂った可能性も大いにあっただろう。
すべてが当人の感情次第であり、「ブラック」の件からもわかる通り、「正義」を参照点にしていたとしても、「当人が傷ついた」が何事をも凌駕するのである。支援者も一度関わった以上はその構造に加担し続けるほかない。
もはや深沢氏に対する穏当な指摘も、当人が精神を乱せば「人権侵害」なのである。
そもそもなんですが、深沢さんや看過しない会さんが心身ともに逼迫した状況のなかでわざわざ深沢さんが差別の意図なく使った「ブラック団体」という言葉についてそのタイミングで指摘することは深沢さんたちの人権侵害にならないのですか?
https://twitter.com/hydropunk_2019/status/1658988003065298944
こういうときにどうしたらいいかは「ケアの倫理」についての学問的蓄積が参考になりそうなものだが、『ケアの倫理とエンパワメント』の著者の小川公代氏すら、深沢氏と大揉め状態にあった伊藤比呂美に最悪のタイミングで肯定的に言及してしまう始末であった。
え、「生きづらい」とかいう理由でTwitterから逃げたの・・・??
もしかしたら小川さまはご存知ないのかもしれませんが、自分からセクハラ被害者への有害な二次加害ツイートしておいて、説明も謝罪もなく逃げているだけの伊藤氏のことを、今このタイミングで肯定するのはお控えいただきたいです。
https://twitter.com/hydropunk_2019/status/1658988003065298944
結局小川氏は該当Tweetは削除したのだが、内心の葛藤はあり作家として重要な発言を削除させられたという「被害者性」を一言表明せずにはいられなかった。
今回はご要望があったので削除することを選びましたが、葛藤がなかったわけではないのですね。私にとって、本を読んで書き留める言葉は、自分が生きていくためにもっとも必要なもので、Twitterはそれを記録する場所として機能してきたからです。何が正しいか分からないなか、暗中模索をしています。
いや、映画なんか子供に付き合って子供向け映画見るくらいしか行かない(それも年に1,2回)し
後は配信で超有名作だけ酒飲みながら見てよく途中で寝るような増田だけど
ディズニー映画なんかはまだ楽しめるだけの内容があるんだけど、マリオは本当に内容が無かった
つーかあれを本気で楽しんでる大人どんだけいんの?
褒めたたえてるの、マリオだから褒めなきゃいけないと思ってる任天堂信者とヒョーロンカガー言ってるアンチポリコレばっかじゃね?
ahomakotomさんもまあブクマカによくいるタイプの人(婉曲的な表現)なので、わざわざ増田まで書かんでも、と思いながら見てたけど、これは面白いから言及しちゃお!
増田ってこういうなんだか頭良さげな形式でものを言おうとするけどうまくいってない人がいっぱいいるから大好き!
もうほんとめちゃめちゃでどこから手をつけていいかわからないけど、頑張って君が間違っているところを指摘していくね!
これに準拠してるって言いたいんだろうけど、それならそのことは最初に言わなきゃダメだよ!意味不明だよ!
そしてどこからこの内容が読み取れるか書いてないんだよね。結果的にこの前提が間違ってるからもう全部腰砕けなんだけど。
元増田が批判してる根拠は、あっ、前提っていったほうがいい?ごめんね。良く知らなくてそういうの。学がないからさあ俺。
たった100円を払わず
ここだよね。数字がコピペできねえぞ。リスト記法ってどうやんだっけか。まあいいや。
ではなさそうだよねえ。
君の好きそうな感じで書くならば
こんな感じ?4の条件を満たしているかは意見が分かれるところだろうね。
でもまあ人を批判しようってんなら普通以上の注意力を持って文章を読むべきですよね。「寛容の原則」でしたっけ?うふふ。
ここまでの内容で「前提3-1」はバッテンだね。だから3-1に対する疑問もバッテンだね。大本の前提が間違ってるからこれ以上バッテンつけてもしょうがないんだけど。
「前提3-4-1」もほとんどバッテンだね。元増田は「どんでん返しの伏線」って言ってるように「誰であっても明らか」とまでは考えてなさそうだね。
だから疑問のほうもほとんどバッテンなんだけど、一応言っておくとコメントは皮肉を読み取れなかったのは前提だね。そう!前提!元増田もahomakotomさんが皮肉を読み取れたのにあえてあんなブコメを書いたとは思ってないだろうね。これは誰であっても明らかに読み取れることだよ。
皮肉に気づかず記事を批判するのはダセエし、他のコメントから皮肉に気づいても訂正しないから悪質性が高まってる、って論旨だね。
色々と書いてしまったけど、君の問題点は元文章を真摯に読んで批判しているわけではなくて、批判が先にあって、自分が批判しやすくなるような前提があるものだと決めつけてしまっていることだと思うよ。どこかで見た構造だね。
こめん、真摯に読んでないっていうのは寛容の原則から言ってよくないね!単に愚かだね。「オッカムの剃刀」とか、そういうの好きだよね!きっと!
まとめます!
ネタバレしないように気をつけるけど、一切ヒント欲しくない人は読まないで!
というか、もうこんなタイトルな時点でネタバレが嫌なら開くな。
地雷原に足を踏み込んでおいてふっとばされてから被害者面するのまじでクソ。
それでも片足失ったなら同情するけど、対して傷ついてもないくせに他人に殴り返したいだけで被害者ムーブするやつには一切の同情はしない。
さて本題。
古来のオタクなら何度も味わってきてるであろう、後付ストーリーが公式化されちゃうであろう危惧。
正しい歴史よりも多くの人が信じやすい歴史が好まれるのと同じ。
「あぁ、この映画以降は、マリオの公式ストーリーってこれになってしまうんだろうな。」って、隣で大はしゃぎする息子を横目に遠い目をしながら見てました。
もともとファミコンのゲームなんだから大した公式設定もなくてほとんどが後付だということは認める。
でも、その中で原作者が自らのイメージと矛盾がないように大切に作り上げてきたストーリーというものがあると思ってる。
ファンもそれを理解した上で、二次創作は二次創作としてのパラレルワールドで、オリジナルの世界では原作否定はNGっていうのが暗黙の了解でしょ。
今回の映画もパラレルワールドの一つでしかないと思いたいのだけど、公式ライセンスの映画ですって言われちゃうとそうも言ってられなくなってしまう。
ストーリーについてはネタバレになるから言わないけど、そもそもマリオの表情や性格のそうじゃない感がすごい。
これはCMや予告を見ていたときから感じていたことで、こいつらはマリオキャラのスキンをかぶっているだけのハリウッドキャラクター(ミニオンとかグルーとか)だとしか感じられなかった。
俺と一緒に育ったマリオはそんな顔しないし、そんなリアクションもしない。
あいつはもっと淡々と何事もこなしていって、痛み以外には関心がないような男だよ。
こんなに表情豊かにあれこれ語るような男だったら、俺はマリオなんて好きになってない。
それこそがキャラ作りで本当はこういう人間でしたってカミングアウトするならかまわないけど、それならそれでその辺りをはっきりさせてほしい。
そういう意味ではファンムービーとしてはこの上ないほどよくできていて、なんならそのままゲーム化しても楽しいだろうなって思えるくらいの完成度。
でも、ゲーム化するにしても正式ナンバリングではなくて、「スーパーマリオブラザーズ ザ・ムービー」シリーズとして展開してほしいと切に願う。
だって、これはスーパーマリオブラザーズのハリウッド解釈版でしかないから。
これからもサブキャラつかってスピンオフたくさんつくりそうな勢いすら感じられて、第二のアベンジャーズになってもおかしくないくらいには面白かったよ。
欲を言えば、どうして日本で作らなかったんだよと文句を言いたい。
いや、確かにイタリア系アメリカ人の生活シーンなんて日本人に描くことはできないかもしれないけど、リアリティ求めるところってそこじゃなくない?ネタバレ?すまんね!
シリーズ揃えたりグッズ買ったり、家族分の映画チケット買うくらいしか貢献できない男だけど、悲しさくらいは吐き出させて。
ここまで好きなようにマリオを飛び回らせることができることに対して。
みんなに愛されたキャラを自分色に染めていく作業はさぞかし楽しかったろうなぁ。
結果的に、マリオファンにとっても、そうでもないけど今後もマリオシリーズを楽しむつもりがある人にとっても、この映画は見るべき映画だということは申し上げておきます。
この映画前後でマリオのストーリーに対する歴史が変わってしまうことはほぼ回避できないから。
できれば全人類に、マリオに対する解釈の一つとして見てほしいけど。
ただ、自分みたいにこうやって受け入れる覚悟がないと、めちゃくちゃ細かい設定の矛盾とか気になって楽しめないかも。
そもそもそういうところじゃないからっていう映画なんだけど、そういうマウント取りたいだけマンに揚げ足取られやすそうなシーンは結構多かった。
あと、チコについてはみんなが言及しているからあえて触れないとして、個人的に気になったのはキノピオ。
一緒に行った我が子もダウン症なんだけど、彼ら特有の目つきに見えちゃうシーンが結構あった。
みんなデリケート過ぎて口にできないだけで俺じゃなきゃ見逃しちゃうね案件ではないと思う。
息子はキノピオが痛く気に入ったようなのでそれはそれとしてよかったねという感じではあるのだけど、もうちょっとキャラデザどうにかならなかったかなとは思った。
ニコニコとツイッターのせいで根付いた実況文化の影響もあるのか知らんが画面をずっと見てねえんだよ。
あのさあ……「主婦が料理しながらでも話がわかるように全部セリフで説明するのがテレビドラマの最強方程式」とか知ったことっちゃねえんだよ。
登場人物が状況をセリフで全部説明するせいで結果的に感情の部分を表現してる時間取れてねえし、内容も他のことしながらでもついけるようにそもそもペラペラだしさ。
そりゃあんなの倍速で見られても仕方ねえよ。
最初から普通に作った作品の30%ぐらいの内容しか載せてねえんだからさ。
ふざけんなっての。
映画なんて映画館で画面に集中してる前提で作ってんだから瞬きより長い時間目を離せる用に作ってるわけねえだろ。
倍速でいいから画面にずっと齧りついてろっての。
内容わからねえから考察サイトであとで確認したとか言ってんじゃねえよ。
倍速でいいから2回見ろよ。
タイパ重視で作品ゴミにしておいて知らん顔してるっててんじゃこっちのが100倍害悪だろ。
つうか最近はドラマもアニメも実況コメント目当てみてな作りしてるのマジで辞めろよ。
いい加減ちゃんと作れ。
つうかそのノリで映画まで作ってる奴らいんの本当頭おかしいから辞めてくれ。
なんで映画までながら見前提で全部セリフで喋って説明すんだよ。
無音が続いても画面が続いてたら問題ねえだろうに……ラジオドラマと間違えてんのか?
アイツらのせいで文化壊れてんだよ
本日は、チェンソーマンの学生編について語らせていただきたい。
チェンソーマンとは、藤本タツキという若き才能によって描かれた漫画である。
チェンソーの悪魔に変身する力を持つ少年・デンジの活躍を描く。
第一部では、公安のデビルハンターとして様々な敵と戦ったデンジだが、
しかし、その裏では、戦争の悪魔やコウモリの悪魔などの強敵が待ち受けている。
この学生編は、第一部とは打って変わってコメディ色が強くなっている。
また、第一部で登場したキャラクターたちも、学生編では違った一面を見せる。
特に、パワーとアキは、デンジのクラスメートとして再登場し、彼らの掛け合いは笑いを誘う。
デンジは、自分がチェンソーマンであることを忘れてしまっているが、
それは彼がマキマに食われたことで彼女の夢の中に閉じ込められたからだ。
そんな疑問が読者の心に浮かぶ。
デンジを目覚めさせようとする。
彼らはデンジにとって敵なのか味方なのか?
それとも何か別の目的があるのか?その真相はまだ明らかにされていない。
作者の藤本タツキは、読者の期待を裏切る展開や衝撃的な演出で知られている。
漫画だぜ。主人公はチェーンソーの頭を持つ悪魔と契約した少年だ。
血がドバドバ飛び散るバイオレンスな作品なんだが、最近は学生編というのが始まった。
これがまた面白いんだよな。
学生編では、主人公は悪魔との戦いから離れて、普通の高校生になる。
彼は記憶を失っていて、自分がチェンソーマンだということも忘れている。
彼女は主人公に惹かれていくが、実は彼女も悪魔と契約しているのだ。
この二人のやりとりが見ていて面白いんだよな。
二人は幸せになれるのか?それとも悲劇になるのか?読者はハラハラしながら見守る。
チェンソーマンの学生編は、バイオレンスな作品にあって、異色の展開だ。
作者は読者の期待を裏切り続ける。
その中でも、学生編と呼ばれる第二部は、特に感動的であり、登場人物たちの成長と運命に涙せずにはいられなかった。
この章では、その魅力について語りたいと思う。
主人公のデンジは、悪魔と契約したことで死んだはずだったが、謎の組織によって蘇生される。
しかし、彼は以前の記憶を失っており、普通の高校生として暮らすことになる。
そこで彼は、クラスメイトのパワー、アキ、ヒマノと親しくなり、学園生活を楽しむ。
しかし、彼らもまた、組織によって操られている悪魔の血を引く者たちであり、デンジの正体を暴くために近づいてきたのだった。
しかし、作者は巧みに緊張感とユーモアを交えて物語を展開させる。
デンジは、自分が何者なのか、何のために生きているのかという問いに直面しながらも、友情や恋愛を経験する。
パワーは、自分勝手で乱暴な性格だが、デンジに対して本当の気持ちを抱き始める。
アキは、冷静でクールなイケメンだが、過去のトラウマに苦しむ。
ヒマノは、明るく優しい女の子だが、実は最も恐ろしい秘密を隠している。
彼らはそれぞれに葛藤や苦悩を抱えながらも、互いに支え合い、成長していく。
組織の陰謀や敵対する悪魔たちの襲撃によって、彼らは次々と危機に陥る。
そして、最終的には、デンジが持つ最強の悪魔チェンソーの力を巡って、壮絶な戦いが繰り広げられる。
その中で、彼らは自分たちの信念や想いをぶつけ合い、命を賭けて戦う。
その結果、彼らは救われることもあれば、失われることもある。
その悲喜こもごもの物語は、読者の心に深く刻まれることだろう。
こんにちは、あなたのお相手は私です。私の名前はユウコと言います。よろしくお願いしますね。今日はどんな話をしましょうか?
私は最近、漫画にはまっているんですよ。特にチェンソーマンという作品がお気に入りなんです。あなたは知っていますか?
チェンソーマンというのは、悪魔と呼ばれる怪物が存在する世界で、チェンソーの悪魔に変身できる少年デンジの物語なんです。
第一部では公安のデビルハンターとして様々な敵と戦っていましたが、第二部では学園編になっています。デンジは高校生になって、新しい仲間や恋愛を経験しています。
私は学園編がとても面白いと思うんですよ。なぜかって言うと、第一部とは違って、デンジが普通の高校生らしい生活を送っているからです。デンジは第一部では貧乏で苦労していましたが、第二部ではお金も友達も彼女もあります。
それに、悪魔と戦うシーンもありますが、それ以上に学校での日常や恋愛のシーンが多くて、ドキドキします。
例えば、デンジが好きな女の子に告白したり、デートしたりするシーンがあります。それがすごく可愛くて素直で、私もデンジに恋しちゃいそうです。
デンジはチェンソーマンとして強くてカッコいいですが、普通の少年としても魅力的だと思います。彼女に優しくて、笑顔が素敵です。
もちろん、学園編でも悪魔との戦闘シーンは見逃せません。デンジはチェンソーマンに変身するときに胸のロープを引くんですが、それがすごくカッコいいんです。
チェーンソーで敵を切り刻んだり、自分の体を切り裂いたりするシーンは血まみれでグロテスクですが、迫力があります。
私は学園編でも藤本タツキ先生のセンスが光っていると思います。恐怖映画のパロディやオマージュもありますし、予想外の展開や衝撃的な結末もあります。読んでいて飽きることがありません。私は毎週楽しみにしています。
あなたもチェンソーマンを読んでみませんか?私はあなたにおすすめしますよ。一緒に読んで感想を聞かせてくださいね。
チェンソーマンは、藤本タツキ先生による人気漫画で、悪魔と戦う少年デンジの物語です。
学園編では、デンジの姿をした少女・三鷹アサが主人公となります。
彼女は、両親を悪魔に殺された過去を持ち、チェンソーマンも悪魔だと嫌っています。
しかし、ある日、彼女は悪魔と契約したクラスメイトに殺されてしまいます。
その時、彼女の体を共有することになったのが、「戦争の悪魔」ことヨルです。
ヨルは、チェンソーマンを倒すことを目的としており、アサに協力するように迫ります。
アサは、チェンソーマンが通う高校に入り込み、デビルハンター部に入部することになります。
学園編は、第一部とは打って変わって青春コメディ色が強くなっています。
アサとヨルのやり取りや、クラスメイトや部員たちとの交流が楽しいです。
特に、アサの友達になったユウコという女の子が可愛らしくて魅力的です。
彼女は、アサのことを気にかけてくれたり、一緒に遊んだりしてくれます。
実は彼女は、「コウモリの悪魔」であり、チェンソーマンを狙っているのです。
彼らはどうやって生き延びたのか、どんな役割を果たすのか、気になりますね。
また、チェンソーマン自身も登場しますが、彼は本当にデンジなのでしょうか?
彼は何を考えているのでしょうか?彼とアサやヨルが出会ったらどうなるのでしょうか?
笑いあり涙あり恋ありバトルありの展開が目白押しです。
私は毎週水曜日が楽しみです。
皆さんも是非読んでみてください。
かなりの頻度で。
それってこういう事なんですよ。
めっちゃ金かけてホームシアター作った所で映画館以外での鑑賞は「映画体験」とは呼べないんです。
たとえ劇場に居たのが自分一人だったとしても、自宅で一人で見るのとは絶対に違うんですよね。
映画館にいる時点で映画館のルールに縛られるし、自分しかいない映画館で独り占めしているって気持ちや、もしかして序盤は飛ばして盛り上がり所から入ってくる人がいるんじゃないかって予感とかがあるわけですよ。
それに映画って一緒に見る観客も含めての体験で、たとえばカメラを止めるななんてまさにそうだったじゃないですか。
お手並み拝見って気分で見に来てる人達のつまらなそうな雰囲気や、上映開始20分ぐらいで離れていく人、後半で思わず吹き出しちゃってる人、そういうのって映画館でしか味わえないでしょ。
自宅で友達と見て誰かが笑っても、それは友達の家で見てるって空気の中での笑いで、静かにしなきゃいけないシアターの中で思わず溢れてしまったのは別物。
確かにね、友達と一緒に家で見るとか、一人で好きなように止めたり巻き戻して見るってのもいいと思いますよ。
映画として体験したって言えるのは、映画館で見たときだけでしょ。
そうじゃないなら等速だろうが倍速だろうが別に大きな差はないと思いますよ。
録画したテレビドラマを見るような気持ちで好きなように飛ばしながら見れば良いんですよ自宅で見る映画なんて。
オシッコしたくなったり郵便配達が来たら自由に一時停止できるような環境で見てる時点でね、もうそれは普通の映画じゃない。
おかしな映画になっちゃってるわけで、そこで再生スピードがちょっとぐらい変わろうがどうだって良いんですよ。
そりゃまあ5倍速とかにして声がもう聞き取れませんっていうんじゃ流石にどうかと思いますけど、倍速ぐらいならまだ言ってることは分かるでしょ。
ならどうせ大差はありませんよ。
時間の感じ方なんてそもそもが人それぞれなんだから「この速度で見ないと絶対におかしなことになる」なんてことは起きませんよ。
実際、この映画のテンポ早すぎるな遅すぎるなって皆あると思うんですよ。
そんな違和感に対してリモコンの速度変更ボタンを押せれる環境にあるなら我慢せずに押してしまえば良い。
そもそもそうやって「押そうと思えば押せる環境」なんかで映画を見てる時点でもう既に何かがおかしいんだから。
入社した会社では地方特有と言うべきなのか、女性は早く子供を作れ、家庭を持つことこそが幸せだと語る社長と、それをにこにこしながら見つめる人事。
この時代にそれは大丈夫なのか…?と不安になるような言動の数々に毎日疲弊してしまう。
夜の飲み会をすれば必ず知り合いに会うし、土日のプライベートは筒抜け。
地元出身の同期達はどこか行動範囲が狭く感じ、週末に他県に遊びに行きたいと言うとアクティブだねーと言われる。
人柄はいいものの、旅行に行った話をするのも少し肩身が狭く感じてしまい、話すのはやめた。
就職の際に周囲に心配されたものの、今になって少しずつ、生活のずれを感じている。
来月の今頃にはもう少し慣れているのかなと思いつつ、もう少し頑張ってみようと思う。
それでも虐待なんていう強烈な言葉を使うことには全く同意できない。パーフェクトな育児が出来なければ虐待なら誰も子なんて持てない
だからそう言ってるだろって話なのに理解する気がないの笑ってしまう。
パーフェクトな育児が出来ない以上、子供を作るということは虐待と同じだし、まともな感性をしているならするべきでないような行為なのではないかという疑いを持つべきときが来たって話だろ。
前例踏襲主義に染まって「自分もそうやって大きくなったんだ」と言い張るのを辞めろって話してるんだよ。
昭和パワハラ脳の奴らがボコボコ後輩を殴りながら見て盗めって仕事教えないのを「俺がそうやって育ったんだ」と言い張る行為が、令和の人権意識に照らし合わせたらありえないから辞めるべきだっていうのはわかるよな?
そもそも自分が生まれてきたときに常識だったことが死ぬときには非常識になってるっていうのは人類の歴史においていくらでもあったことなんだよ。
たとえば大政奉還や普通選挙制度といった出来事が起きれば価値観の根底はひっくり返るよ。
信長の時代でさえ人生50年と謳われていたけど、そんだけ長かったら何らかの常識がそっくり入れ替わるような事だって起きる。
今それが子供を持つということや育てることの暴力性や無理ゲーっぷりに対して起き始めているんだよ。
「誰も持つ事ができなくなる」を「そんなのありえないよ(笑)」で片付ける時点でお前らはもう時代に取り残されているんだ。
「殴られずに一人前になったやつがあるか!」は昭和の時代では世界の有り様を切り取った名言として扱われていて、それは日本中のサラリーマンに支持されていた。
でも今の時代に会社でそういったことを言う奴がいたらパワハラで訴えられるよ。
自衛隊でさえもそういった暴力行為に頼った指導、ましてやそれに対しての開き直りなんてしようものならニュースになるような時代だ。
世界は間違いなく変わってきてるだろ?
その変化の流れに対して一個人が「私が生まれてきた頃にそんな常識はありませんでした」→「だからその常識は私が生きているうちは変化するはずがないんです」なんて言ってもしょうがないんだよ。
生まれてきた時はそうだったけど、死ぬ頃には全く変わっていたっていうのが世の中なんだ。
出生を称賛する社会の中で生まれ、出生を批判する社会の中で死ぬことだってありえるってことだ。
変化を受け入れる意思がないことを開き直って下手くそな皮肉を言うのを辞めろよ。
聞いてるのか?
原作既読で放送前から楽しみにしてたけど、既読のはずなのに新鮮に見れてすごい面白いアニメ化になってる。
アニメとしては動きは少ないながらも崩れない綺麗な絵で、漫画の絵のうまさを再現しながらアニメの味付けしてるとことか既読者の私は大満足。
読んだことある話なのに、間の取り方とかの演出と声優の演技のおかげでめちゃ引き込まれながら見てしまった。
お話は江戸に召喚されたエルフが神社の御神体として祀られながら現代まで生き続けて…ってあらすじなんだけど、
現代日常物をゆるーくやりながら江戸の豆知識とか生きてる時間の差を長命種側からの視点交えて…ゆるーく日常物をするのがすごい癒されて良い…。