はてなキーワード: 文化圏とは
持ち物をほめる時「くれ!」っていう文化圏の人なのかもしれない
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q14141346204
別に果物が安かった円高時代でも、そんなに日常的に果物摂取してなかっただろ?
そもそも日本文化圏では果物は「おやつ枠」に分類されるものなんだと思う。
他の文化圏、例えば北米や欧州では「食事」に含まれるんだと思う。
北米や欧州では食事の一部だから、贅沢品は別にして日常的に摂取する意識が根付いてる。
それぞれの文化に適応する形で流通網が整備されて物価がきまる。
日本文化において、果物を食事の一部として扱ってる人達も増えてきてはいるだろうけど、文化を変えるまでには至ってないし、その前に国内で果物生産および流通に従事する人達が減って「果物の食事編入」を阻害する環境が整ってしまっているように思う。
牛肉かなあ。
すき焼きを豚で作る人がいないように。
東北ではないので里芋での芋煮の風習はないけど、里芋でも牛肉と醤油。
野菜炒め全部牛肉とは言わないけど、ピーマンと炒めるなら牛だなあ。ピーマンの肉詰めも牛肉で作りたいし。
本場のレシピも牛肉だし、牛肉で作ると美味いのだけど、住んでるところが豚肉文化圏なので牛挽肉ってあんまり売ってない。合挽か豚挽肉ばかり。
牛肉と豆腐は相性がいいし、牛肉とネギも相性がいいし、なんで豚が主流なのか謎。
家で作るなら牛で、ルーはハウスのザ・カリー。ささやかな贅沢。
豚。
豚挽肉のほうがあまり煮込まなくても旨味がでるし、ふっくら仕上がる。
豚汁なんだから豚だろというツッコミはおいといて、牛肉で作ったやつも嫌いじゃないが豚のほうがよかった。
牛肉と味噌のとりあわせが合わないわけじゃないんだけと、比較の問題で味噌には豚のほうが合うというだけで。味噌汁にソーセージとかも意外と合うし。
名前的に牛肉で作りたいけど、豚でも牛でもそれぞれに美味いと思う。
焼き鳥で牛肉か豚肉かというのも変な話だけど、一口大の串焼きという意味で。
どっちも美味い。
牛肉で部位は心臓とかよく串で焼く。ネギの代わりにトマトを挟んだり。トマトと豚肉の組み合わせが好きと言った側から牛肉とトマトというのが矛盾だがw
豚の焼き鳥の地域はけっこうあるらしい。東松山式とかいう豚のカシラ肉を味噌で食べる焼き鳥がなかなか好きだ。室蘭のやきとり弁当はあんまり好きじゃない。
正直、それほど豚丼おいしいと思ってない。不味くはないけど、生姜焼きを丼にのせたほうが美味いと思ったり。同じ味付けで牛肉てつくったらすごく美味しかった。
「全部食べて皿が空になった」という結果=理想状態が重要であり、
もっと言えば大皿料理という集団戦において、最も軍功をあげた(手早くタスクを消化した)ものとして賞賛されるべき、とさえ考えているのではないか。
食べ尽くし系、色々なパターンがある。
大皿になると発動するタイプ、相手の皿から盗むタイプ、家庭でやるタイプ、飲み会でやるタイプ、冷蔵庫を漁るタイプ。
自制のなさに慄くところもあるが、一方で共感(?)できるところもあったりする。
私にも「食べ尽くしたい」と思う心はある。
みんなが大皿から料理をとったあと、結構な量が残る場合がある。
また俗に言う遠慮の塊が残ったりする。
私は「後少しで完了するタスクが放置されてるのが気になってしまう」タイプでもある。
マルチタスクが苦手なのもある。視界や思考から完全に消したいのだ。
そんなことをするので、毎度序盤でだいぶお腹いっぱいになってしまう。
最後らへんはひーこらいいながら食べる。
「完食教育」「お残しはゆるしまへんで」「世界に誇るMOTTAINAIの精神」「米一粒は汗一粒」「農家の皆さんに申し訳ないと思わないのか」───。
我々日本人はこのような言葉で幼い頃から食べ尽くすことを美徳と刷り込まれて生きてきた。
しかし食べ過ぎは健康に悪いのだから、残すこともまた理に適ってるはずなのだ。)
あなたも、ご飯を米粒一つ残らず完食したとき、奇妙に爽快な達成感を得ないだろうか。
やってやった。成し遂げた。達成した。そんな気分になったことはないだろうか。
あるいは、中途半端に残された残飯を見て、不快な思いをしたことはないだろうか。
韓国など、むしろ残すのがマナーとされる文化圏では発生し得ないその感覚。
「食べ尽くし系」はこの感覚の極まった場所に存在するのではないだろうか。
食事を多人数でのリラックスしたコミュニケーションの場と捉えているか
ただ食べる時間と捉えるかどうかでも、違いがあると思う。
食事にだけ集中してるし、美味しいものを食べる時は、自然と箸が進んでしまう。
そもそも家族は全員バラバラにご飯を食べる家庭だったから、一人で食べるのがスタンダード。
母親は子供のご飯を作ってラップしてテーブルに置いたら、別の家事をやっていた。
一家揃っての食事は、もっぱら週末の外食の時にだけ行われるものだった。
これらの習慣が影響してるのか?
こんな風になりがちだった。
大皿では終わりが個人で閉じないので、モヤモヤとしたものを抱えて残タスクを見つめる自分がいる。
はよ食べないのかなあ。話してるうちに冷たくなるぞ?次の料理もくるしスペース作らなきゃ…。
「美味しい!これあったかいうちに食べたほうが美味いですよ」とそそのかしてみる。
スルーされた。うーむ。
自分が日本とイギリスのブルマーについて調査してからすでに3年以上が経過したが、自分の興味関心というか性癖がほぼぶれていないのには笑ってしまう。pixivのお気に入りを見返してもそれは同様だ。ブルマ、CFNM、CMNF、混浴、ヌーディズム、野外露出と、十年単位で一貫している。
このうちの野外露出、野外で裸になりたい衝動は継続していて、合法的に実現するために混浴サウナだとかヌーディストビーチを訪れている。裸になって海で泳いだときには、もうこれだけ裸になりまくったのだからもう飽きただろうと思ったのだが、どうもそうでもないらしい。
困ったもんだ。
ブルマー姿の女の子といちゃつきたい願望もあり、かなり願望の再現度が高いプレイを5年以上前にイメクラだったかM性感だったかでしたことがある。その時は先に脱がされてCFNM願望も叶えた。そのときの記録をネットのどこかに放り投げたのだが、それは消えてしまっている。書き直してもいいのだが、増田に書いたところでしょうがないだろうと自分にツッコミを入れたい気分だ。
また行けばいいのではという意見もあるだろうが、風俗には飽きている。嬢は皆親切だったが、もう十分に楽しんだ。
先ほどヌーディストビーチに行ったと書いた。
実はこの夏、地中海をあちこちうろついていた。その際に、現地のへそ出しファッションをいろいろと見た。シャツが短い物、ほとんどブラトップのもの、へそだけ露出しているもの、前だけを覆って背中は紐だけ(びんぼっちゃまみたいなスタイル)、さまざまだ。同じへそ出しと言っても色々ある。他にも、レオタードの下にズボンをはいて腰の部分の素肌が見えている格好の人も見かけた(アニメ版攻殻機動隊の少佐みたいなスタイル)。
面白いのはモデル体型どころか、ふくよかであってもためらわずに着ている点だ。良い意味で、日本よりも人の目を気にしていない。
確かに欧州のリゾートはおばあちゃんでもビキニを着るし、トップレスも多い。
教会であってもへそ出しで入ってくる人は多い。一応ドレスコードが看板に書かれており、男性でもノースリーブはやめてくれとガイドラインがあるのだが、観光客はほとんど気にしていない。
これが地中海のむこう側のイスラム圏になると、異教徒の女性にはモスクの中でまとうスカーフを貸してくれる。短パンの男性も腰に布を巻かないと入れない。
好きなものを着るファッションの自由・権利と、伝統への敬意との衝突を目の当たりにしたわけだ。
地中海を越えてイスラム圏から出たときには、その温度差に風邪をひきそうになった。
そのへそ出しファッションについてだが、英語版のウィキペディアにMidriffとして記事がある。他にも西洋やインドの文化でのへその立ち位置を詳述した記事もある。ここから抜粋して記事を書こうとも思ったのだが、なんだか面倒くさくなっている。どうせウィキペディアを訳すだけなら、個人的に斜め読みをすればいいのだし、なんだったら自動翻訳にかけたっていい。まとめる必要もない。
同じ理由で、トップレスとか世界の文化における全裸・女性器についても記事を書きあぐねている。
ウィキペディアから訳すだけなら各自で読んでもらえればいいし、それで閲覧数やブクマを稼ぐのも馬鹿馬鹿しい。何か新しい知見が欲しい。
例えばクレオパトラはカエサルと対面したときはトップレスだったのか。そんなことも調べたい。しかし、この辺はハリウッド映画によりつくられたイメージも強く、画像検索も難しい。そもそもプルタルコスの時点で裸のまま袋だか絨毯だかに入って寝床に忍び込んだという話があるが、実際当時のエジプトの服はどうだったんだ。
面倒くさいなと思う理由は他にもある。
あれだけブルマーに関する記事がバズっても、ネットの世界ではほぼ常に日本でのブルマーについての議論が中心で、自分が提起した 「学校体育でのブルマーは日本のみならず、英連邦・共産圏でも見られた」という主張はそれほど広まらなかったからだ。
ネットの議論など、結局は自分がどういう経験をして嬉しかったとか腹が立ったとかの感情が中心なのだから、当たり前といえば当たり前であろうが、一つの事実が広まらないのは幾分残念であった。
増田から外部のSNS・ネット文化圏に広がるには、全く別の内容で達成したように、1000以上のブクマが必要なんだろう。
はてな匿名ダイアリーというのが辺境のサービスだということなのかもしれないが、増田全体に特に広がった様子もない。あるいは僕も含めて読者は忘れっぽいのか。
それにブルマーについてのフェチは薄れなくても、それについて書く情熱は薄れつつある。情念が薄れたせいか、全く関係のない記事もバズりにくくなった。
日本はAIの学習を行うのに必要不可欠なGPUを十分に調達できていないという記事があった。
https://wirelesswire.jp/2023/08/85203/
一本調子な煽り文体はどうにかならないのかとは思ったのだが、記事に対する反論をネットで一通り読んでみて驚いた。内容が幼稚すぎる。
要するに日本は自国でのAIの研究開発は諦める。そして他国企業が開発したモデルだけを使わせていただくような縛りプレイをこの先もずっと続けていこうじゃないかという意見だ。
「ボクは足し算なんか勉強しなくてもいいんだ。だって隣の花子ちゃんは掛け算や割り算もできるんだから、困ったら答えを聞けばいいんだもん」という頭の悪い小学生の言い訳のような意見だが、困ったことになぜか一定の支持を集めている。
当然のことながらOpenAIのモデルは英語やアメリカの文化圏を中心に学習されているのだから、日本語のプロンプトでは十分に性能を発揮できない。
まして彼らはAIのモデルそのものを外部に提供することは絶対にないだろう。AIを利用するには、彼らが提供するプラットフォームを通して、彼らが決めた利用規約に従い、彼らが定めた利用料を支払い続けるしかない。
App StoreとGoogle Playは合計して日本だけで毎年2兆円以上の売上を稼いでいると言えば、どんな状況か想像できるだろうか?
後追いすればいい
いつから?どうやって?
何百メートルも何キロも突き放されるまで待ってから後追いするのに具体的な勝算があるのだろうか?
今よりも市場が成熟してから二流三流のAIで追走していくのは遥かに困難だろう。
どうせ勝てるわけない
残念なことに、目に付いた批判の中ではこれが一番まともな意見だった。敗者なりに生きる場所を見つけるというのは一つの生存戦略ではあろう。
単に「勝てるわけない」と冷笑することで気分だけでも勝った側に回ろうといういじましい気持ちが透けて見えるコメントも多かったが。
ともあれ、自国が劣後しているという単純な事実を素直に受け入れられず、こうして意味不明な正当化を図ってしまう人間がこれほど多いことには驚きを覚える。
解雇されてやっと離職票が届いたのでハロワに行った帰り、ケーキ食べたかったけど喫茶店みつからなかったので仕方なくモスバーガーに入ってノンアル()サングリアとやら&チキンとオニオンたのんで席に座ったら、隣のボックスシートでなんか自営業とセールスが会談?してた
西だけど非関西文化圏出身者なんで、関西特有の圧の強い声音で断定的に話す関西オッチャン話法ってどうも苦手だけど立ってるだけで滝汗の外はもっと暑苦しいので我慢して注文分を消費する
セールスがスーツの制服の女性、自営業は私服、たぶんネットの戦略のコンサルかなんかみたいな話らしい、そしたら自営業が
(o´・ω・`o)
…サラリーマンにゃ尊敬する社長なんかいないよねー、ってか頼れる政治家すらいないよ、どうせ自営業とか実業家が自民か維新に入れてんでしょ~
大河ドラマでよく出てくる交通の要衝。西濃の人は東濃と中濃の人とほとんど交流がない。地図を見ると西濃から岐阜市を通らず中濃に抜ける道はほぼなく、東濃には愛知を経由したほうが早いのでほぼ他県である。
高速道路で飛騨の下呂温泉に行こうとすると東濃の中津川ICで降りるよう標識で案内される。高い山があり気温が低く雪が多い。古い街道と町並みがある。長野の仲間にされてたこともある。木曽路や飛騨路は山の文化。飛騨も西濃とは隔絶されている。
3中濃
分割の残りカス。関市美濃市郡上市は長良川の文化、美濃加茂市は木曽川の文化、美濃加茂対岸の可児市はなぜか東濃にされている。実は岐阜県は郡上市を北濃地区とする6分割もありそれだと可児市は中濃になる。いずれにしても中濃はバラバラな残りを無理やりくっつけただけである。
本編のアニメーションを楽しく見ていただけに、アニメ終了後の公式の対応に本当にガッカリした。
「機動戦士ガンダム 水星の魔女」のあらすじを三行でざっと書く。
・紆余曲折あって、苦難を乗り越えた二人は最終的に結婚(したと思われる描写がある)
アニメ本編は大盛りあがりでSNSでも大きく話題になっていた。
私は同性愛者でパートナーである彼女と毎週楽しく見ていました。
女性同士の恋愛が国民的知名度のアニメーションで描かれていること、またその二人の物語にSNSでポジティブな反響がある様子をみて「時代は変わったな~」と感慨深かった。また、作中の恋愛関係抜きにしても、毎週どうなるかわからない展開に視聴者としてハラハラドキドキさせられたし、毎週心待ちにしていた作品だったんだよね。
最終回二人の結婚を見届けることができて本当に嬉しかった。生まれて初めてだよ、作中のキャラの結婚を祝うケーキ買ったの。あれは最高にうまかった。
それがですよ。今週発売されたガンダムエース(KADOKAWAのガンダム専門誌)でちょっとした事件があった。
最終回を迎えた主人公とヒロインを演じた声優さん達のインタビュー。
それを読んだファンは「ああ、やっぱり2人は結婚してたんだな!」と盛り上がった。
というのも、物語のフックとして「最終的に2人は無事結ばれるのか?」という軸があったにも関わらず、最終回で結婚式の描写がなかったり、最終回直後の特番で声優陣も主人公とヒロインの結婚に一切触れないという、不自然な前提があったりしたからだ。
主人公とヒロインの結婚を祝福したいファンは飛びつき、エヴァの最終回ばりにおめでとうおめでとうと連呼した。
それが、発売後に急遽インタビューから「結婚」の2文字が消された。
Kindleって、発売後の本にアップデートかけられるんですね。初めて知ったよ。
当然ファン達はなぜ??と思うわな。KADOKAWAの問い合わせフォームから削除の理由を問い合わせたって声も多く見かけた。
https://twitter.com/G_Witch_M/status/1685628114125340672
いや、なんかもう怒りを通り越して、ただただガッカリした。
一編集者の憶測による文面がそのまま誌面に出るなんてことあるの?という違和感が拭えないし、修正漏れした編集部が悪いんで!と言わんばかりの釈明にもひいた。
いや、そういう問題じゃなくない??
そもそもなんで「結婚」の2文字を、発売後の雑誌にアップデートかけてまでわざわざ削除しなくちゃいけなかったのかって話なんだよ。
「一人一人の捉え方、解釈にお任せ」する、の真逆の姿勢じゃないか。
あれだけ作中で明確に2人は結婚したという描写をしておきながら、それでも結婚したとは公式に明示したくないってことでしょう。
最初は「大きいIPだし、同性愛がタブーの文化圏での配信や多言語対応を見越しての対応なんだろうな」と思ってたんだ。商業的な理由だと。
実際シンガポール版では一部のシーンがカットされていたし、中国では配信が予告されているものの、配信ができない状態が続いている。ただ、実際に配信に支障が出るのであれば、先のように台詞のカットや編集など、ローカライズで解決するべき問題だろう。
よくよく考えると日本でしか発売されていない雑誌の、しかも出版後のインタビューの2文字をわざわざ削除する必要あるのか……?と。
結局、
「公式で女性同士の恋愛・結婚を描いているにも関わらず、それを公式に明示してはならぬというレギュレーションがあり、それに反したため雑誌は修正された」
ということのようだ。
ただ、そのレギュレーションがなんのためにあるのか、さっぱりわからないんだよ。
だって、主人公とヒロインの関係を軸にしたガンダムで、結婚したって作中でも明確に描写されているのにだよ?
誰の、何を守るためのレギュレーションなんだろうな。
最終回で結婚していた主人公のスレッタとヒロインのミオリネは本当に幸せそうだった。
「人の数だけ正しいがあるもの。いつか必ずどこかで間違うのよ。それでもできることをするの。この先も」
差別や争いが絶えない世界で、この台詞に励まされた私のような人は多いと思う。
現場の制作陣やキャストは、むしろ厳しい制約の中でよく最終回まで描ききってくれたなと感謝している。
私は本当にこの作品が好きだし、観ることができてよかった。