はてなキーワード: 至上主義とは
「どんなセンスを世間に披露するんかというところが勝負な訳である」
まずこの時点最高に気持ち悪いというか、何と戦ってるのかさっぱりわからないけど、まあナルシシズムもご自分の内に留めるなら全然好きにすればいいと思う
ただそのナルシシズムを気持ち悪いものだとメタ認知できなかった結果、女同士で悪質で陰険なマウントが始まってるの見ると、シンプルに「おばさん達性格わる、こわ」ってなるなあ
「外見や容姿を基準に人を判断したり、差別的な扱いをしたりする思想や社会現象を指します。外見を意味する「Looks」と、主義を意味する「ism」を組み合わせた言葉で、日本語では「外見至上主義」とも呼ばれます」
らしいけど、「嘲笑われてるのは見た目ではなく芋なセンスとそれを世の中に晒してしまう迂闊さ」ってルッキズムの定義そのものだと思うけど…
この人、遊戯王エアプって訳ではないと思うけど多分真面目に遊戯王やったことはないと思うんだよね。何故なら、
あれだけ伝説級の活躍をした「ドラグーン・オブ・レッドアイズ」は制限復帰後は一切見かけることがない
もちろん使うデッキが強いからこそ活躍できたのだが、だとしてもこの状況は元禁止カードとは思えないし、なんなら明日から3枚使えたとしても誰も使わないだろう
ドラグーンは当時セットで使われていた相性の良いカード(アナコンダ、リリーサー)が禁止だから使われていないだけで、例えばアナコンダが解禁されれば今の環境デッキに出張するパワーはある。
何よりもティアラメンツが3年後には環境に入らないと言う予想をするYPは殆ど居ない。なぜならティアラメンツは(主にマスターデュエルで)規制後も墓地利用グッドスタッフ的に使われていて、墓地利用テーマが強化される限り(つまり遊戯王OCGが続く限り)強化され続けるテーマであって、仮に純粋なティアラメンツとしての動きが時代について行けなくなったとしてもデッキのエンジン役としては3年後も強いに決まっているというのが一般的な見解だからだ。
近年の遊戯王OCGのテーマは基本的に1枚のカード(初動)からデッキ、エクストラデッキの全てのテーマ内ギミックにアクセスできるように設計されている。つまり初動さえ通ればデッキ内のテーマカードは全て試合中に使える前提でデッキが構築されている。全てにアクセスできると言うのは自由に思えるかも知れないが実は逆で、手順が多少変わる事はあっても最終的には全てにアクセスした上でほば同じ制圧盤面が作り上がるプレイング面での不自由さを内包していることになる。
実際遊戯王OCGで新しいデッキを組む際、最初にやることは基本となる数パターンの展開ルートと呼ばれるプレイを覚えることで、その後実戦の中で相手に妨害を受けた場合の分岐ルートを覚えていく事になる。つまり遊戯王OCGにおけるプレイングとは実の所その多くが展開パターンの暗記と言うことになる。もちろんそれで決着が付かない場合もあるのでアドリブの終盤力も必要となるが、まずは序盤中盤を乗り越えるための暗記が必要になる。
ここまでの前提を置いた上で自分が主張したいのは、遊戯王OCGは(MTGライクなカードゲームと比較して)対戦時にアドリブ的に発生する対話よりもデッキ構築を重視したカードゲームだと言うことだ。デッキ内のギミックを全部使って構築時に決めた動きをするカードゲームと引いたカードでアドリブ的にプレイングを組み立てるゲームとでは採用するカード一枚に対する重みが違う。遊戯王OCGは一見なんでも出来る自由さ故に初動率やエクストラデッキの枚数、サーチできるテーマ内カードと素引き前提のテーマ外汎用カードの比率と言ったデッキ構築時の制約が直接的にプレイングに影響する不自由なカードゲームでもある。一枚一枚の採用理由を明確化して環境と対話し、事前研究の結果をデッキに詰め込んでぶつけ合うのは遊戯王OCGの魅力の大きな部分を占めていると思う。
因みに同じく国内長寿TCGの双璧を成すポケモンカードも似たような特徴を持っていて、あちらはよりデッキすべてを使って対戦する特徴が強い。今の使用率トップデッキは毎ターン4エネ(MTGでいうマナに近い)加速した上でデッキを引き切る『アグロ』デッキである。遊戯王OCGだけが地雷の上で飛び跳ねる特異なカードゲームであるというのであれば、ターン毎にマナ加速して4ターン目くらいにはほぼデッキを引き切った上で高火力で殴りつづけるアグロデッキをWotCに刷って貰えばいい。
世の中には、MTGこそが至高のカードゲームであると公言してはばからない人達が一定数いる。その人達がそう思うのは勝手なので好きにすれば良いと思うが、その際に雑に他のカードゲームを引き合いに出すのは行儀の悪いことだと理解したほうがいい。こんなことはわざわざ書くのもアホらしいことだが、MTG的な楽しみ方という軸で優秀なカードゲームを選ぶと勝つのは常にMTGなのである。しかしMTG至上主義者はMTGこそがthe カードゲームだと(意識的、無意識的に)信じ込んでいるので、おかしな比較をしていることに気付かない。
公平な観点で他のカードゲームとMTGを比較したいのであれば、まずは世の中のカードゲームは全てMTGから派生した物である(これはある面では事実だが、世の中のカードゲームはあらゆる娯楽の影響を受けた派生であり得るという点で間違っているし、MTG自体もなんらかの非電源ゲームの派生である)という見方を捨てる必要があるのではないだろうか、
地方の自称進学校に進学し、国公立大学が1番だと教えられてきた。
でも受験は前期後期ともに失敗し、唯一合格していた都内の私立大学へと進学した。(親の意向で浪人はナシ)
受験に失敗した時の先生方の落胆した表情と、私立大学への進学を決めた時の冷たい態度は心が大きく抉られた。
先生が欲しいのは「国公立大学進学者」であり、私立大学進学者は存在価値がないことを思い知らされた。
上京して都内の私立大学に進学したが、今まで公立の学校にしか通っていなかったし、地元の友達は国公立大学に進学しているのに自分は私立大学で恥ずかしい気持ちでいっぱいだった。
でも大学での友達はそんなこと誰も気にしていなかった。国公立が〜とか誰も話していなかった。私立中高一貫校出身が多かったからかもしれない。他にも社会人入学の方や海外出身の方もいて沢山の人と交流したことで様々な道があることを知ることができた。
通っていた大学は教授の指導が手厚く資料も沢山あり、勉強や研究にしっかり取り組めたと思う。国公立大学じゃないと就活に苦しむと高校の先生には言われていたが、第一希望の企業に無事内定をいただけた。
「国公立大学でなければ人に非ず」と信じていたけど東京ではそんなこと言っている人は誰もいなかった。
4年間過ごして自分も生きていいんだって気持ちになれた。呪いが解けていく音がした。
教職の授業を取っていたため、卒業校で教育実習を行ったが先生の扱いは「国公立大学の実習生>私立大学の実習生」で私は空気だった。元同級生の東北大学の実習生がいたが神のような扱いだった。何も変わっていなくて悲しかったが、逆に地元に対する諦めがついた。
ずっと地元にいたら、自分も国公立の呪いに囚われていたのかと思う。大学生活は楽しかったし、国公立が私立が、とかどうでもよくなった。大学がどうのこうのより勉強して自分のため人のためになれればそれが1番だ。
でも、地元が国公立大学の呪いで溢れている限り、地域復興とか地元貢献とかUターン就職をすることは今後ないと思う。
高校卒業まで地元の税金を沢山使ってきたけど、東京で幸せに生きて納税して地元に還元しないのが私の呪われた地元に対する復讐。
[B! 大学] 東京電機大学生、生協で取り寄せたらどんな本も1割引きになると凌辱物のエロ漫画を購入→大学「学内で調査を行っております。調査後、大学として厳重に対処いたします。」
いちいち引用しないが、事実を誤認した大量のゴミブコメがトップに並んでいる。
「生協でエロ本を買うのは制度の悪用であり、お目こぼしがなくなりルールの厳格化を招く」? 全くのデマである。
書店でなぜ原則本を値下げできないのかというと、日本には「再販制度」、製造元である出版社が決定する定価を書店は変えてはならない、という業界慣行があるからだ。
だが、この形態の取引方法は、独占禁止法において明示的に禁止されている。
第二条⑨ この法律において「不公正な取引方法」とは、次の各号のいずれかに該当する行為をいう。
四 自己の供給する商品を購入する相手方に、正当な理由がないのに、次のいずれかに掲げる拘束の条件を付けて、当該商品を供給すること。
イ 相手方に対しその販売する当該商品の販売価格を定めてこれを維持させることその他相手方の当該商品の販売価格の自由な決定を拘束すること。
ロ 相手方の販売する当該商品を購入する事業者の当該商品の販売価格を定めて相手方をして当該事業者にこれを維持させることその他相手方をして当該事業者の当該商品の販売価格の自由な決定を拘束させること。
我々の生きる資本主義社会というのは、市場での公正で自由な競争を大原則とするものであって、価格決定権は小売業者が持つべきものである。価格統制を行い、小売業者同士の競争を禁止するなぞ以ての外である。
このような掟破り行為が出版業界でおおっぴらに行われているのは、独禁法の23条4項に、著作物の発行事業者による正当な行為であれば、独禁法を適用しないという例外が定められているからだ。
なぜこのような特権が認められているのか? 独禁法の教科書を開いてみよう。
著作物に係る法定再販制度の趣旨は,必ずしも明らかではないが,戦前からの定価販売の慣行を追認したものとされている。また,著作物の種類ごとに,例えば,新聞については戸別配達の維持,書籍・雑誌については多様な出版物の発売や書店での展示販売の確保といった説明が後付け的になされているが,再販行為の必要性とは必ずしもつながらないと思われる。(『条文から学ぶ独占禁止法 第3版』p271)
「趣旨は必ずしも明らかでない」「戦前からの定価販売の慣行を追認したもの」「説明が後付的になされているが、再販行為の必要性とは必ずしもつながらない」なかなかボロクソな書きぶりではないか。
当然「商慣習の追認」なる貧弱な理由で、大原則を曲げていいはずがない。再販制度廃止の動きはこれまでも何度もあった。今もなお現存しているのは、廃止の動きがあるたびに既得権益を守りたい新聞業界が大々的に抗議キャンペーンを行い揉めに揉めたからである。政治的駆け引きの末の「お目こぼし」によって成り立っている制度なのだ。
新聞業界という第四の権力がバックにある以上、既得権益を廃止するのは難しい。されど、お目こぼしをいいことに既得権益を拡大しようとする、出版業界のイキり行為には公正取引委員会は否を突きつけ続けてきた。
1990年代を通して喧喧諤諤の大戦争となった再販制度廃止論争は、2001年公正取引委員会による「当面再販制度を存置するのが妥当」という停戦宣言により一応の終結を迎えた。
事実上の勝利にイキった出版業界が次に目をつけたのがポイントサービスの禁止である。
確かに、再販価格維持契約で定価販売を義務付けても、ポイント還元がOKであるならば、事実上値引きと言っていい。「本はどの本屋でも同じ価格」というカルテルを侵す存在であり、再販制度に当面のお墨付きを得た出版業界が禁止を目指すのは当然の成り行きであった。
されど原理原則に戻れば、現状の再販制度さえ、政治的判断による苦渋の決断として認められているにすぎないのである。
出版業界の舐めた振る舞いに激怒した公正取引委員会は、ポイントサービス禁止運動を行う業界団体に対し、「事業者団体による共同行為を禁止する」独占禁止法第8条違反を宣告。
結果、業界団体の会長は責任をとって辞任、クビを差し出して詫びる羽目になった。
ポイントサービス禁止論争で争点となったのは、1%程度のごく低率のポイントサービスであったが、
現在では、アマゾンやヨドバシなどの大手通販サイトを見れば、条件付きではあれど12%ポイント還元だとか10%ポイント還元だとか、大幅な値引きを行っている。再販価格維持契約?なにそれおいしいの?の域である。
しかし再販制度自体がお目こぼしの例外である以上は、再度「ズルいからやめろ」とヤブをつついて蛇を出したくないというのが業界の考えだろう。
再び公正取引委員会の逆鱗に触れ、今度はアマゾンの政治力を背後に一気に再販制度廃止まで持っていかれるかもしれないのである。
この事例からわかるように「イキり行為」に気をつけなければいけないのは消費者である大学生ではなく、売り手である出版業界側であって、ブクマカの認識はまったくあべこべなのだ。
ここまで述べた再販制度の縛りを、大学生協は負っていない。これは独禁法第23条5項が生協を例外の例外の1つとして指定しているからである。
つまり、書籍は例外として再販売価格を拘束する契約を結んでよいが、その例外として生協には通常の取引と同様に、再販売価格の拘束契約を結んではならないということである。
ブクマカが勝手にでっち上げていう「学業目的の特例」とかそんなものではない。実際、書籍の割引は一般の生活協同組合(例えばコープこうべ)でもおこなわれていることだ。
再販制度という大本の例外が設けられた理由を再確認すると「商慣習の追認」が定説である。ただこの理屈では再販制度は生協のみならずすべての事業者において廃止すべきという結論しか導かれない()。
なので百歩譲って少数説である出版業界のポジショントークを参照すると、再販制度なしには、書店が理念を見失い利益至上主義に陥り売れ筋の俗悪本のみが蔓延る世界になるから、らしい。
しかしこの捏ねくりだ出した理屈ですら生活協同組合に適応することはできない。生協は、利益を目的としない消費者どうしの相互共助団体であるからである。
利益の追求のために消費者に不利益を与える行為は法律で禁止されており、また組合員が持つ平等な議決権及び選挙権によって効果的に阻止される。再販制度の容認などという副作用の大きな例外を認めるだけの意義はどうあがいても見出すことができない。
前節では、大学生協で書籍が割引が「可能」である理由を述べたが、愚かなブクマカは「大学生協は学生の学業を支援するためにあるのだから、制度上可能であってもエロ本については割り引くべきではない」などと言うかもしれない。
しかし大学生協の目的なぞをでっちあげたいならば、まず定款を見るべきだ。
第1条 この消費生活協同組合(以下「組合」という。)は、協同互助の精神に基づき、組合員の生活の文化的経済的改善向上を図ることを目的とする。
(事業)
第3条 この組合は、第1条の目的を達成するため、次の事業を行う。
(1)組合員の生活に必要な物資を購入し、これに加工し又は生産して組組合員の生活に必要な物資を購入し、これに加工し又は生産して組合員に供給する事業合員に供給する事業
(2)組合員の生活に有用な協同施設を設置し、組合員に利用させる事業
というか名は体を表すというように、大学生協とは生活、「大学に属するすべての人つまり大学生/大学職員/教職員の生活」を共助する団体である。役割は学業に限られない、当然娯楽を提供することも含まれるのである。
書籍の割引販売は、それが教科書であろうと、学術書であろうと、コミックであろうと、エロ本であろうと
に一律で含まれるであろう。
(追記:id:worris 氏のブコメより、誤りの指摘があった。書籍は第3条第1号「組合員の生活に必要な物資」である。つまるところ、生協の言う「生活に必要な物資」とは日常用語の生活必需品より広い概念であり、娯楽を含むのだろう。論旨の変更は必要ない。)
もちろん、娯楽の提供は大学生協の役割に含まれると言っても、程度問題は存在する。
生協の資金力にも労働力にも限界は存在するのだから、何にリソースを投じれば「組合員の生活の改善及び文化の向上」を達成できるか、取捨選択が必要になる。
決めるのは、一人ひとり議決権あるいは選挙権を持つ、組合員である。
ブクマカは「イキるとお上のお怒りを買うぞ」という論調であるので、決定権が生協のおえらいさんとか大学経営陣とかにあるように勘違いしているように見受けられるのだが、事実は全くの逆なのだ。
組合員自治の原則を念頭に置いた上で、なぜ本が一律割引されるのかを考えてみよう。
大学生とは多くの人にとって人生で一番本を読む時期である。これは今年『何故働いていると本が読めなくなるのか』という新書がベストセラーになったことでもわかることである。
そして生協は再販価格拘束契約で縛ることのできない例外的な存在として、彼ら組合員に独自の価値を提供できる。
そう考えると書籍の一律割引販売で、組合員の合意がまとまるのは、ごく自然ななりゆきである。
仮に「娯楽本は除外」とか「教科書のみ割引」とかいう制度になったならば、利益を得る層が組合員の中で偏ってしまう。みんながWin-Winになる制度こそが、民主主義的な議論で選ばれるものである。
紙の本をほとんど買わない組合員からすれば、事業資金は「書籍を10%引きで売る」ことより「生協食堂のメニューを1品増やす」方に費やしてほしいことだろう。
「学術書読んでる同級生は応援したいけど、エロ本はな……」と彼らの票が離れることは、あり得る展開ではあるかもしれない。
しかしエロ本を割引販売することで、大学生協は何ら損をしていないことにも留意が必要である。むしろ、大学生協は新たな顧客層を開拓することで利益を得て、他の事業へ投資可能な資金を増やしたと言える。
「割引率が10%であるべきか5%であるべきか」は難しい経営判断であり組合員間での真摯な議論が求められるところであるが、割引中止とか販売停止とかになると誰のトクにもならない論上に上げるまでもない愚論なのだ。
なお大学生協に客を取られなければ、定価でエロ本を1冊売ることができたであろう一般書店は損をしたといえるが、再販制度というお目こぼしに守られているものが「ズルイ!」なんて言える立場にないことは先に述べたとおりだ。
大学生の行為を「バカッター」とか「バイトテロに等しい」だとか意気揚々と名誉毀損行為を行うブクマカたちは、
実際は、自分たちがこそが大学生協の役割を勝手にでっち上げたイキりバカブクマカであり、はてなというプラットフォームの名誉を大いに傷つけるブコメテロであることを認め、真摯に謝罪すべきである。
そして、大学生協の役割を学業目的だと誤解する人がここまで多いという事実は、「生協ではどんな本でも割引される」ということを声高く啓蒙する意義を証明している。
0001 名無しなのに合格 2023/12/03(日) 01:22:27.19
学歴コンプレックスで長らく悩み続け、いよいよ自殺をすることになった。
日本に安楽死制度が整備されているのであれば、今すぐにでも申請し、「一件落着」だが、残念なことに今の日本にそのような制度はないので仕方がない。
もちろん死ぬのは怖い。本当に怖い。
ただ、もはや自分の知能の低さを規定しているこのDNAが、それ故に生まれながらに高学歴を得られないことを決定づけているこの劣ったDNAが、それにより構成されているバカで劣等な自分自身の存在そのものが、生理的に気持ち悪くて仕方がない。
知的社会たる現代日本では高学歴を有さない者は、基本的に「人」そのものとして劣っているとみなされる。
卒業大学の名前がそのまま当人の知的能力の全てを、ともすると人間としての価値やランクをまるごと規定してしまう。
学歴は能力の指標にとどまらず、内面の繊細さや思慮の深遠さ、人としての毛並みや美しさまでもを規定する。
そのような地獄の知能カースト社会において、低学歴が人としての尊厳や誇りを持って生きられるはずもなく、したがって幸福に生きられるはずもない。
もし低学歴者が高学歴の連中の目に「幸福に生きている」ように映ったとすれば、「動物園ではしゃいでいる猿」に対する眼差しと同様のそれを向けられる。
現代日本において低知能に生まれた(私のような)低学歴者は、言わば戦前アメリカに生まれた黒人と同じなのだ。
そこに救いはない。
早く楽になりたい。苦しい、苦しい。
私は極めて難しいペーパーテストにより先天的に知能の高い者以外を(事実上)排除する、この国の上位大学の入試形態によって殺されたようなもの。
社会やメディア、ことにインターネットにおいて無秩序に猛威を振るう、アパルトヘイト級の学歴至上主義・学歴差別によって殺されたようなもの。
学歴コンプレックスで長らく悩み続け、いよいよ自殺をすることになった。
日本に安楽死制度が整備されているのであれば、今すぐにでも申請し、「一件落着」だが、残念なことに今の日本にそのような制度はないので仕方がない。
もちろん死ぬのは怖い。本当に怖い。
ただ、もはや自分の知能の低さを規定しているこのDNAが、それ故に生まれながらに高学歴を得られないことを決定づけているこの劣ったDNAが、それにより構成されているバカで劣等な自分自身の存在そのものが、生理的に気持ち悪くて仕方がない。
知的社会たる現代日本では高学歴を有さない者は、基本的に「人」そのものとして劣っているとみなされる。
卒業大学の名前がそのまま当人の知的能力の全てを、ともすると人間としての価値やランクをまるごと規定してしまう。
学歴は能力の指標にとどまらず、内面の繊細さや思慮の深遠さ、人としての毛並みや美しさまでもを規定する。
そのような地獄の知能カースト社会において、低学歴が人としての尊厳や誇りを持って生きられるはずもなく、したがって幸福に生きられるはずもない。
もし低学歴者が高学歴の連中の目に「幸福に生きている」ように映ったとすれば、「動物園ではしゃいでいる猿」に対する眼差しと同様のそれを向けられる。
現代日本において低知能に生まれた(私のような)低学歴者は、言わば戦前アメリカに生まれた黒人と同じなのだ。
そこに救いはない。
早く楽になりたい。苦しい、苦しい。
私は極めて難しいペーパーテストにより先天的に知能の高い者以外を(事実上)排除する、この国の上位大学の入試形態によって殺されたようなもの。
社会やメディア、ことにインターネットにおいて無秩序に猛威を振るう、アパルトヘイト級の学歴至上主義・学歴差別に殺されたようなもの。
お一人様至上主義者や反出生界隈というのは保守の「娘」当人の態度及びそれに対する周りの態度が中年女まで拡張されているだけ
男性嫌悪的な社会運動についてリベラリズムが原因だと考えたこともあったが、実際のところは女性は劣っているということを前提にしたチン騎士右翼であって、それがリベラルと名乗っている
真に男女平等を実現すればミサンドリストが幅を利かせるようなことにはならない
弱者男性たちは共に立ち上がりましょう
学歴コンプレックスで長らく悩み続け、いよいよ自殺をすることになった。
日本に安楽死制度が整備されているのであれば、今すぐにでも申請し、「一件落着」だが、残念なことに今の日本にそのような制度はないので仕方がない。
もちろん死ぬのは怖い。本当に怖い。
ただ、もはや自分の知能の低さを規定しているこのDNAが、それ故に生まれながらに高学歴を得られないことを決定づけているこの劣ったDNAが、それにより構成されているバカで劣等な自分自身の存在そのものが、生理的に気持ち悪くて仕方がない。
知的社会たる現代日本では高学歴を有さない者は、基本的に「人」そのものとして劣っているとみなされる。
卒業大学の名前がそのまま当人の知的能力の全てを、ともすると人間としての価値やランクをまるごと規定してしまう。
学歴は能力の指標にとどまらず、内面の繊細さや思慮の深遠さ、人としての毛並みや美しさまでもを規定する。
そのような地獄の知能カースト社会において、低学歴が人としての尊厳や誇りを持って生きられるはずもなく、したがって幸福に生きられるはずもない。
もし低学歴者が高学歴の連中の目に「幸福に生きている」ように映ったとすれば、「動物園ではしゃいでいる猿」に対する眼差しと同様のそれを向けられる。
現代日本において低知能に生まれた(私のような)低学歴者は、言わば戦前アメリカに生まれた黒人と同じなのだ。
そこに救いはない。
早く楽になりたい。苦しい、苦しい。
私は極めて難しいペーパーテストにより先天的に知能の高い者以外を(事実上)排除する、この国の上位大学の入試形態によって殺されたようなもの。
社会やメディア、ことにインターネットにおいて無秩序に猛威を振るう、アパルトヘイト級の学歴至上主義・学歴差別に殺されたようなもの。
具体的にはトランスジェンダリズムと性自認至上主義に疑問を呈す内容を考えている。
あるところに女性として生きづらさを抱えている少女がいた。その少女は昔から可愛いものが好きではなく、お人形遊びもおままごとも好きではなかった。ピンク色の洋服を親から着せられることが苦痛だった。この子が中学生になる頃、学校に心は女性と主張するトランスジェンダーの女性が中学校でLGBT講演会を開いた。その人曰く、スカートが好きで可愛いものが好きな男性は心が女で、スカートが嫌いでカッコイイものが好きな女性は心が男のトランスジェンダーなのだという。そしてトランスジェンダーは正常な第二次性徴を止める思春期ブロッカーを服用したあと、乳房や子宮を切除すれば幸せになれるのだという。その少女はその言葉にすっかり耳を貸してしまい、自分はトランスジェンダーなのだと信じ込んでしまう。確かに胸が膨らむにつれて男の性的な視線が増えてきたし、月経や生理痛に悩まされることも苦痛だった。それを親友に話したところ「あなたの苦しみは全ての女性が抱えるものだ。決して心が男だからではない」と言われる。その後に「スカートが嫌いでカッコイイものが好きな女性は心が男?冗談じゃない。本来なら男がスカートが好きでも良い、女性がスカートを嫌いでも良いと教えるべきだ」「男はカッコよくあるべき、女性は可愛くあるべきというジェンダーロールこそ解体すべきもの」「心に性別なんて存在しない」と断言する。少女はハッとした。自分が生きづらかったのは女性のみに課せられる差別やジェンダーロール、性的搾取であり、もし私が男になったとしても根本的解決にはならないのだと。トランスジェンダリズムや性自認至上主義は、あたかも多様性を尊重しているようで、かえってジェンダーロールを助長していると気づいた少女は、その後政治家になり、特例法を廃止する功績を上げるのだった。
俺は高卒だけど、ハリーポッターの「レイブンクロー」って、悪い意味でアジア人の象徴だと思ってる。レイブンクローの性質を見てみろよ。
これって、日中韓のツリメの特徴そのものだろ。教育ママゴンのことだよ。あいつらは、学歴が人生を決めるって思ってるから、子供にその競争を強いる。周りの親たちと張り合うために、子供の意思なんて無視して習い事を強制するなんて、信じられない。
奴らは、知識をひけらかして他人を見下す傾向がある。自分の知識を誇示して、周りを支配しようとするなんて、特別な存在だとでも思ってるのか。他人の努力や才能を軽視するなんて、ほんとに腹が立つ。これって、アジア社会における「優秀さ」の押し付けそのものだろ。
常に競争を意識して、他人と比較することを怠らない。自分が一番じゃなきゃ気が済まないし、他人の成功を妬むことも多い。こういう姿勢が、教育ママゴンたちの子供に対する期待と重なって、子供たちに過剰なプレッシャーを与えてる。成績が良いことがすべてだと信じ込んで、他の価値観や個性を無視してる。
連中は知識を追求することが美徳だと思ってるけど、実際の人間関係や感情の大切さを軽視してる。学問や知識ばかり重視して、友人や家族との絆を疎かにして、孤独を感じることも多い。教育ママゴンたちが「勉強が全て」って教え込むことで、子供たちが人間関係を築く能力を失わせてる。
レイブンクローは学歴至上主義の象徴で、アジア社会の教育のあり方を反映してる。知識や学歴を武器にして他人を攻撃し、自分たちの地位を守ろうとする。これが教育ママゴンたちの子供たちに与える影響で、彼らの未来を狭める要因にもなってる。学歴が全てだなんて考え方は、子供たちの自由や創造性を奪って、結果的に社会全体の多様性を損なうことにも繋がる。
レイブンクローは、単なる学問の追求に留まらず、社会全体に悪影響を及ぼす要因になってる。教育ママゴンたちの「学歴信仰」は、子供たちにとっての重荷で、彼らの成長を妨げる要因になってる。最終的には、学歴だけじゃ測れない人間の価値や可能性を見失わせてしまう。こんな状況、ほんとにうんざりだ。
anond:20241012181121週刊少年ジャンプ史上最も重要なマンガ20選
↑を書いた増田です 適当に書いた増田がしばらく見ないうちにブクマ数めっちゃ伸びてて派生増田もめちゃくちゃ出ててビビった。ただのおじさんの与太話にいろいろ意見をくれてありがとう
みんなのコメントの中には恥ずかしながら読んでなかった作品もあったくらいで、今週はネカフェやKindleの50%還元セールでいろいろ読み返してました
選考基準について少し補足すると、ジャンプという雑誌の在り方への影響度がとにかく重要だと考えてます。売上とか人気とか社会的影響は考慮はしてますが、あくまで付随する要素に過ぎません。
ブコメやXで結構言及されてたのを見て思ったのは、選評を雑に書きすぎて自分の考える重要性が伝わってないところが多かったのと、20選だとさすがに網羅出来てないなということ。もともと個人的なメモ書き程度に書いたものだったのですが、色々な意見を取り入れた25選にして、一人一作縛りもなくして、選評ももうちょい見栄えするようリライトしてみました。これが現時点でのベストだと考えているので、もう異論は取り入れません。
月2回刊で始まった少年ジャンプの創刊号はわずか10万5000部しか出なかった。その9年前のサンデー創刊号が30万部、マガジン創刊号が20万5000部だったことを考えると、その始まりが実に静かなものだったことがわかる。
そんな中、大家・永井豪が描いたこの作品の絶大な人気がジャンプの売上に大きく貢献したことは言うまでもないが、それ以上に重要なのは、この時点で「読者が面白いと思うことなら何だってやる」という編集部の方針は明確であったことである。
過剰ともいえる性描写、教職への徹底的な批判からなる本作は、当時の基準でも極めてラディカルで挑発的な作風であり、批判に晒され続けた。しかし、競争原理に基づき、常に読者の方を向いた雑誌を作るという編集部の意向が、この作品を存続させた。後に「アンケート至上主義」という形で現代まで続くことになるジャンプの強固なアイデンティティは、本作の成功とともに形をなしたのである。
頭文字Dや湾岸ミッドナイトのようなクルマ系のマンガが下火になったのは、若者が誰もスポーツカーに乗らなくなったことが原因のひとつであるという。頷けるところもあるが、じゃあ不良、ヤンキー、番長と称されるような若者なんてもっと絶滅危惧種なのにどうして彼らをカッコいいものとして描くマンガは何作も出続けているんだ?東リべのような大ヒットも未だに出ているのに。
思うに、我々の脳には義理と人情、泥臭さ、そして熱さを欲する部位が生まれつき備わっているのだ。そしてこうした要素を最も効果的に表現しうる分野が不良漫画であると見抜いたのは本宮ひろ志が最初であった。
ストーリーは完全にご都合主義で、キャラクターの一貫性もまるでない本作は、しかし「男の強さ」を描くという一点のみにおいて全くブレることはなかった。どんなに反社会的な人間でも、腕っぷしと強靭な精神と仲間への思いやりさえあればクールに映るという価値観は、フィクションにおいての(もはや誰も意識すらしなくなった)お約束として今なお残り続けている。
ジャンプが国民的マンガ雑誌とみなされる要因はどこにあるだろうか?40年間一度も休載することなく駆け抜けた秋本治のデビュー作は間違いなくその一つであろう。
当初は型破りな警察官・両津勘吉のドタバタを描くコメディとして始まった本作は、その時代のサブカルチャーや政治経済情勢を積極的に取り込むことで、高度経済成長期以降の近代化していく日本の風景を余すことなく取り込んだ作品となった。
浮世絵が江戸の庶民たちの風俗を映し出す史料であるように、こち亀が織りなす物語は昭和から平成にかけての日本人の最大公約数的な心象風景を巧みに映し出した。いまや日本から失われつつある中流の庶民の日常を、我々は全200巻からなる亀有の小さな派出所の日常にしみじみと感じ取るのだ。
もともと硬派なボクシングマンガとして始まった本作は仁義や兄弟愛をベースにした極めて現実的な作風で、決して圧倒的な人気作とは言えなかった。しかし、あしたのジョーの下位互換になるくらいなら無茶苦茶やってやる、という判断のもと路線変更し、過剰さと大袈裟さを極めたことで人気を博し、史上初の最終回巻頭カラーとして、ジャンプ史にその名を刻むこととなる
───という、教科書的な本作の功績だけが、本リストに入る理由ではない。重要なのは本作が男一匹ガキ大将(=根性と漢気)、侍ジャイアンツ(=超人的能力)の要素を意識的に再生産していることである。車田正美を源流として、ジャンプ的な文脈を後世の作品が重ね合わせることでより濃くしていく流れが明確になる。我々の知るジャンプは全て車田正美以後なのだ。
同時代の作家に比べ、寺沢武一のデビュー作の視座は群を抜いて高かった。スペースオペラの世界観から引用した本格的なSFのアイデアの数々。高い等身で描かれ、まるで映画のようなポージングやセリフ回しで魅せるセクシーな男女たち。幾度もの休載をはさみつつも、本作はユーモアとカッコよさと強さをコブラという一人の男の中に共存させるという偉業を成し遂げた。
登場人物も読者も無垢な10代の少年でなくてはならないという近視眼的な幻想と、ジャンプ作家は絶対にコンスタントに週刊連載をしなければならないという既成観念を、葉巻を加えた気障な宇宙海賊のサイコガン──精神力をエネルギーに変えるアイデアも寺沢が生み出したものだ──は易々と破壊したのである。
リングにかけろが確立したバトルマンガ路線を、当時の少年たちが大好きだったプロレスに絡めることでさらなる高みへ導いた作品。いわゆる「友情・努力・勝利」という実際にはジャンプ編集部の誰も公言したことのないらしいパブリックイメージを単独で築き上げた。にもかかわらず、本作は国民的作品とはみなされておらず、犯罪的なまでの過小評価に甘んじていると言わざるを得ない。マジでなんで?絵が下手だから?嶋田のSNSの使い方が下手だから?
キン肉マンはマンガとしてではなく文化的に重要なのだと主張する類いの人間がいるが、そいつらの目と脳にはクソしか詰まっていない。ゆでたまごは絵の巧拙がクオリティに関係しないことを証明し、あらゆる世代の男たちにマンガに熱狂する勇気を与え、信じがたいほど面白い作品を描いた。この作品を嫌う人たちもまず冷静になり、理解しようと試みるべきだ。
鳥山明の訃報を聞いた日、Kindleで買ったまま放置していたDr.スランプの1巻を読んでみた。久しぶりに読む本作はきっと悲しいほど古く感じるだろうと思っていたが、実際のところiPadの画面に映るペンギン村の住人達は今も新鮮味をもって感じられた。
本作は後にDBやドラクエで知られることになる鳥山明がその才能の枝葉を伸ばし始めた作品である───と書けたらどれほど楽だったろう。枝葉どころかこの時点で大樹の幹である。
言語以前の本能の領域に鋭く迫り来る現実味を携えた絵は存在するが、そうした絵を毎週16ページのマンガで成立させる人間は鳥山明以外には存在しなかった。頭の中にBlenderが入っているかのような立体的なデフォルメは、我々の住む現実世界とは違うところにもリアリティというものは存在しうることを示し、「マンガのための絵」であった劇画調を衰退させる最大の要因となった。
Jリーグ創立の流れを生み出したともされる本作がサッカーマンガ界に残した遺産はなにか?もしかしたらこのような問いの設定自体が誤っているようにも思える。高すぎるキャラクターの頭身、大真面目に繰り出される荒唐無稽な技の数々が目をくらますかもしれないが、高橋陽一が一貫して表現したかったのはひたむきな少年たちが織りなす爽やかな青春であって、こうした要素は他作品にも見られるものだ。彼がサッカーという題材を選んだのは単に「野球マンガはありふれているから」という理由だ。本作は期せずしてサッカーマンガというジャンルの中心に祭り上げられたに過ぎないのだろう。
それでも、我々はこの巨星に感謝するほかない。この作品が無ければサッカーを始めていなかったであろう日本中、いや世界中の少年たちが、みな大空翼という一つのアイコンに夢中になっていたのだ。マイナースポーツのひとつに過ぎなかったサッカーをメジャークラスに引き上げ、軍国主義に基づく根性論を相対化し、ひたむきにボールを追いかける楽しさを私たちに初めて教えてくれたのはこの作品だったのだ。
元増田を書いたとき、ブコメ欄は「ぼくのはじめてのジャンプ」にまつわる涙なしでは語れない思い出たちで溢れかえったわけだが、はてブに入り浸る層の平均年齢を考えれば当然のことである。
自分のようなおじさんにとって涙なしでは語れない系マンガの筆頭に位置するのが北斗の拳である。1980年代中盤というのは、親しみやすいポップ路線と男臭い劇画路線がちょうどクロスオーバーする時期であった。今のメインストリームがどっちかは言うまでもないが、自分にとっては線が太くてむさ苦しい絵柄こそが少年ジャンプの原風景だった。
強くてカッコいい大人の男が弱肉強食の戦場で己の命を懸け闘う...そんなジャンプ初期から続く系統の最高到達点かつ袋小路が本作である。このようなマンガが流行る時代は二度と来ないとわかっているからこそ、特別な輝きを放ち続けるのだ。
かわいい女の子を見るためにマンガを読む者と、そうでない者がいる。どちらがいい悪いということはないが、少なくとも創刊してしばらくのジャンプは前者に見向きもしない雑誌であったのは確かだ。うちには高橋留美子はいないんだよ、といった具合に。
きまぐれオレンジ☆ロードは申し訳程度の超能力要素を除けば、一貫して思春期男女の甘酸っぱい三角関係に焦点を合わせ、かわいい女の子の日常が描かれているだけだ。それのなにがすごいのか?別にすごくはない。ただ、エロくもなく大したギャグもなく荒唐無稽な展開もないふつうの男女の日常に需要があることに、誰も気づいてない時代があったのだ。
まつもと泉は早くに体調を崩したこともあり、これ以降影響力ある作品を生み出すことはできないままこの世を去った。それでも、彼の鮮やかなトーン使い、歯が浮くようなセリフ回し、そして"かわいい女の子"以外に形容する言葉が見つからない鮎川まどかのキャラデザを見返すたび、これをジャンプでやってくれてありがとう、と思わずにはいられない。
鳥山明が死してなおこの先何度も繰り返される問いだろうが、ドラゴンボールよりもワンピやナルトの方がどれほど優れているのだろうか?そしてその答えを誰もが知っているのは何故だろう?これらの問いに対してどんな議論がなされようともすべて的外れで無意味である。それはこの作品が頂点だからだ。
鳥嶋和彦の意向により、本作はバカげた後付けの設定や引き伸ばしをせざるを得なかった。それでも、マンガを金銭を生み出す道具と見做す人間たちのあらゆる商業的な意図を超えて、本作はそれ以前、以降に掲載されたあらゆる作品を軽々と凌駕する金字塔となった。
11年に渡る孫悟空の冒険をもって、鳥山明は日本のマンガ文化が世界最高のものであるという事実を叩きつけ、自身が手塚治虫、赤塚不二夫、つげ義春、萩尾望都、藤子F不二雄、高橋留美子と並び立つ歴史上最高のマンガ家の一人であることを証明したのである。
車田正美はリンかけで過去のジャンプ作品の再生産を初めて試みたと述べたが、それを自分自身の作品でやった人間も車田が最初であった。自身のやりたいことを詰め込んだ男坂が衝撃的なまでの不人気に終わった反省から、彼は自身の原点に立ち返りつつもよりスケールを拡大した再生産をやることを決めた。
彼はギリシャ神話と宇宙、子供向けと大人の女性向け、劇画とプラモデルといった要素を交互に行き来しながら、自身が積み上げた様式美の世界を前人未踏の領域まで押し上げた。聖闘士に同じ技は二度通用しないが、我々読者は何度でもこのパターンを欲してしまうのだ。
ある一定の世代の人間からは、ジョジョという作品はいつも巻末に掲載されている時代遅れな絵柄のつまらん作品という評価が下されることがあり、そこには50%の事実と、50%の誤った認識が含まれている。
荒木飛呂彦の絵柄が彼の見た目と同様あまり本質的な変化がないことについてはその通りだ。だがいくら彼より本誌での掲載順が上であろうと、革新性・才能・実験精神という点で彼より優れた人間が果たして何人いただろう?
幽波紋と、理不尽な能力値のインフレを伴わないバトル描写は、彼が残した功績の中で最大のものである。キャラクターが持つ能力を、作者の演出の道具として使うのではなく、自律したキャラクター同士の駆け引きの領域に落とし込むことに成功したのだ。
我々はフィクションの中での整合性を厳しくジャッジすることに慣れっこになっているが、それに耐えうるものを初めて生み出したのは荒木だった。彼以降、マンガを読む行為は絵と吹き出しで表現された作者の脳内世界をくみ取る作業ではなく、自律したキャラクターたちと同次元に立ちその思考を辿るものとなった。荒木は真の意味で我々をマンガの世界に誘ったのである。
「少女漫画」というジャンルの話ではなく、誌名の「少女コミック」である
現在は「Sho-Comi」と名を改めているので、少女コミック時代に絞る
2000年代には「過激な少女漫画」の代表的存在となりネット上では「性コミ」の蔑称で呼ばれ、一部地域で有害図書指定、議員やネットやPTAからの抗議を経て名を変えた
少女漫画といえば月刊誌が多いが、少コミは週刊時代も長く、隔週に落ち着き、Sho-Comiも隔週
黎明期には男性作家もちらほらおり、掲載誌を彷徨う漫画『サイボーグ009』が掲載されたこともある
ギムナジウムを舞台に、自殺した少年トーマを巡り犠牲と信仰について描く文学的な作品。
やや難しい内容のため連載時は人気がなく打ち切りスレスレだったが、今では少女漫画界を代表する名作の一つとして語られている。
日本でギムナジウムもの描いてる人は大体萩尾望都を通ってるだろう。
時を経てから読んだ者にはピンとこないが、実は少女誌連載作品である。
特に少女向け用に作風を変えた感じはないが、女子小学生が主人公(一応)なのは著者なりに少女を意識したのかもしれない。
美への執着と母娘の確執は女性向け作品で繰り返し描かれるテーマだ。
人種差別、同性愛、父子相姦、児童への性暴力などのシリアスな描写が少女漫画界に大きな衝撃を与えた。
当時は朝チュン程度でも過激扱いだったため、連載を編集に反対されたという。
他作品をまず成功させ発言力を得てからようやく連載を許され、連載開始まで6年かかった。
凄惨な展開の数々は少女たちにトラウマを与え、二次創作で幸せにする的な発想のフォロワー作品も生まれた。
スポ根枠である同著者の『真コール!』の方と迷うところだが、実写化しているこちらで。
5人のシスコンなイケメン兄貴に溺愛されつつも同級生男子とラブコメするイケメンパラダイスな作品で、この手の作品でありがちな「実は兄たちとは血縁がない」展開が発生しなかったところが評価できる。
少女漫画界全体としては、外国が舞台で白人への憧憬→現代日本の学園もの、と定番が移り変わったが、本作は中華風の異世界がメイン舞台である。
現代日本から転移した少女が神獣を召喚して国を救う巫女となり、召喚に必要な七人の戦士たちを集めるため国中を冒険するというファンタジーで、「少女には受けないのでは」と編集が渋ったりもしたが、ヒット作となった。
少女の手足が棒のように華奢に描かれる作品が多い中で、むちむちとしてエロティックで、アニメは大きなお兄さんからも人気が出た。
「非処女になったら巫女の資格を失う」ため敵のイケメンがレイプしようと狙ってくるなど、未遂で終わるがエロ描写が多かった。
古代ヒッタイト帝国(現トルコ)に生贄として召喚された現代日本の少女が、武人・政治家としての才覚を発揮し皇帝と共にオリエントの覇権を掴むに至る大河ロマン。
史実エピソードを拾い上げながらニッチなロケーションを描き勉強にもなる作品だが、この時期には性コミ化が進んでおり、むやみなセックスシーンも多い。男が意味もなく全裸になるのは女性向け故か。
現代でリア充だった主人公は、元の世界に帰ることを渇望し、だがヒッタイトにも大切な人ができてしまい、どうすべきか葛藤する。最近の異世界ものではこの手の葛藤は珍しいぐらいだ。
物語の中に性的展開もある前述の作品群と違い、エロこそが主題の作品であり性コミの代表的存在。
惜しげもなく少女の乳首が出てきて俺様イケメンとのエッチな展開が多発、また敵イケメンに愛のないガチの強姦をされる展開もあった。
物議を醸す問題作だがヒット作でもあり、エロは著者は嫌々だったが編集主導とのことで、少コミは急激に性コミ化が進んでいく。現代人が読むとそこまでエロくもないが…。
アニメ版では一切エロがなく、主人公も存在せずイケメンたちが切磋琢磨しながらバンドに励む作品になっている。
宮坂香帆『「彼」first love』(2002-2004)
性コミ化が進んでいく中で、「一見地味女子だが眼鏡を外すと美少女」という古典的設定ながらピュアラブを貫きヒット作となった。
斬新な設定や凝ったストーリーなわけではないのだが、堅実・丁寧に描写を積み重ね、少女漫画らしい少女漫画である。
庶民JKが上級国民生徒の世話係になりセクハラも甘受させられる話で、エロシーンのために物語が捻り出されるようなエロエロ作品。
相手役が合意なく下半身まさぐってきたりだいぶカスで、逆らうと退学なので主人公は逆らえない。上級国民による性的搾取を許すな!
前作『レンアイ至上主義』と合わせ性コミの代表的存在の一人である著者だが、後の作品は清純化が進んでいる。
青木琴美『僕の初恋をキミに捧ぐ』(2005-2008)
青木琴美は『僕は妹に恋をする』ではエロエロだったが、本作では一転して「難病を抱えながらも純愛」というピュアラブストーリーを描いた。
邦画でよくありそうな題材なだけに映画化、ドラマ化を果たした。
エロエロからピュアラブへの回帰を果たした本作が、少女コミックとSho-Comiをまたぐ連載となったのは象徴的だった。
他
これらはメディアミックスもしているが、渡瀬悠宇作品ではやはり『ふしぎ遊戯』が飛び抜けているだろう。
・闇のパープル・アイ
闇のパープルアイはドラマ化やOVA化しているので、そういう意味では天河より上と思う人もいるかもしれない。
少年漫画や青年漫画のイメージの強い著者が、特にガラッと少女向けに変えることなく「掲載誌が少女漫画誌なだけ」というのは『洗礼』があるのでこっちはいいかな?
将来結婚したいなら、「性欲至上主義」に骨身まで染まらない方が良い。
おそらく20代後半から、「相手は生涯のパートナーとして寄り添えるか?」相手を値踏みする行動が一般的になる。それはそれで「純粋な愛なのか?」という疑問は残るが、「生涯のパートナー探し」という観点で性的魅力より人としての内面性が評価高くなる。
「【悲報】男性向けなろう、女性向けに比べて○○なことが多い」
として、セルフまとめをしている人、
男性向けの例がRe:ゼロから始める異世界生活、女性向けの例が破滅乙女ゲームの破滅フラグしかない悪役令嬢に転生してしまった…、の主人公の画像付きで
https://x.com/rui29625780/status/1825184138665853240
男性向けには「主人公と同じ年代の同性がメインキャラとして基本出てこない」「性格がいい美少女は全て主人公のもの」、
女性向けには「主人公と同世代の魅力的な同性キャラがメインとして出てくる」「他の女性キャラを想っているイケメンキャラも出てくる」
などと書いていたけれど。
少なくともその二つに関しては、自分が見た印象と真逆なんだけど…!?
私(女)の印象としては、少なくともその二作品に関してはそれぞれ
リゼロ…サブの男キャラに若いイケメンが複数いて、女キャラとの関係性もそれなりにあり、主人公が絡まないカップリングも楽しめて多様性がある
はめフラ…サブの女キャラはことごとく主人公の引き立て役で主人公にしか興味がなく、男キャラとのカップリングを楽しむ余地がなく多様性がない
という印象なんだけど。
この人が言っているのとは真逆だよ。はめフラはせっかく本来のヒロインが可愛いのに、主人公至上主義者にされてがっかりしたよ。
いや私が知らないだけで、なろう系の大多数はこの人の言う通りなのかもしれないけれど、なんでよりによってその二つを例に挙げた…?って感じ。ツッコミ狙いか?
「カスハラ」(カスタマーハラスメント)は、顧客が企業の従業員に対して行う過度な要求や暴言、暴力などの不当な行為を指します。日本では特に近年、社会問題として注目されており、以下のような条件で発生しやすいとされています。
日本には「お客様第一主義」という文化が根強く存在し、特に「お客様は神様」という言葉が象徴するように、サービス業における顧客至上主義が従業員に強いられることがあります。この文化が顧客に対して無理な要求を許容する土壌を作りやすく、カスタマーハラスメントが発生しやすい要因の一つとなっています。
サービス業や接客業では、従業員が長時間労働や低賃金に悩まされるケースが多く、精神的・肉体的に疲弊しやすい環境にあります。このような状況下で、理不尽な顧客対応に直面すると、従業員がよりストレスを感じやすく、カスハラが大きな問題として浮上します。
日本は都市部に人口が集中しており、特に東京や大阪などの大都市では、サービス業の需要が非常に高くなっています。これにより、接客業従事者の業務量が増加し、顧客の多様な要望に応えることが難しくなります。人口密度が高い地域ほど、顧客からの過剰な要求が頻発しやすい環境になっていることもカスハラの一因といえます。
日本は世界でも有数の高齢化社会であり、高齢者によるクレームや理不尽な要求もカスハラの一因とされています。年齢や経験を背景に、自分の要求を過度に押し通すケースが増えており、これもサービス業におけるハラスメントを助長する要素の一つです。
企業は従業員を守るための明確な指針やガイドラインを整備し、カスハラが発生した際には適切に対処する必要があります。具体的には、従業員が顧客に対して対応を拒否できる権利を付与したり、ハラスメントを防ぐための教育や研修を行うことが重要です。
カスハラに対する法的な枠組みがまだ十分に整備されていないため、ハラスメント行為に対しては、より厳しい法規制が必要とされています。労働基準監督署などが介入することで、従業員の権利が保護されやすくなるでしょう。
カスハラ問題に対する社会全体の認識を高めることも重要です。メディアや教育機関を通じて、過度な顧客対応が社会的に許容されないというメッセージを強く発信することが必要です。
AIを使った自動応答システムやセルフサービス技術の導入は、従業員が直接顧客対応する場面を減らし、カスハラの機会を抑制する可能性があります。これにより、サービス提供の効率化が図られ、従業員の負担も軽減されます。
日本の社会環境や文化的背景が、カスハラの発生を助長する要因となっていますが、適切な対策を講じることでこの問題に対処する道が見えてきます。
まあ、実際こんなもんよ。
【左】れいわ>共産>社民>立民>国民>公明>自民>維新【右】
※情勢を見て、死票となるかどうかを加味
※比例同様、情勢を見て、死票となるかどうかを加味。
※政党で第一印象を決めて、実際の候補者を見てみてそれを修正。候補者がよほど良い/悪いなら、優先度がかなり低い政党所属でも票を入れるかも。
「事実上、○○党だな」とわかる場合は、その党所属と同じ評価。
完全無所属っぽいなら、冷やかし・電波でない限りは一応ちゃんと検討する。
その場合、主に、経歴で能力を推測、演説や広報内容(HP等)で政策の傾向を推測して、判断。
論外。
候補者個人がどれほどまともそうに見えても、こんな政党に所属している時点で、どこかずれてるか、本気でヤベー奴か、目立てばいいと思っている打算野郎かのいずれか。
正直、カルト的という点では、参政党とかとある意味あんまり違わないんじゃないかという気もする。
少なくとも山本太郎党首は不安や怒りといった人間の良くない感情を煽ってそれを党としてのエネルギーにしている節がある。
どうしても他の候補が嫌だったら、最悪投票するかもしれないけど……いや、でもな……。
こういう党が一定数いてもいいとは思うけど、積極的に支持するには、ちょっと共産主義独裁の悪いところがありすぎますね……、という感じ。
比例は、他の左派党に入れたら死票になることがよほど明白で、自公や維新を減らせる可能性があるなら、まあ考えるか、というところ。
小選挙区は、他の左派候補がいなくて、候補者本人が比較的まともそうならば、というところ。
たとえば、沖縄の警備員さんの死亡事故で、基地反対運動団体の責任がないようなこと言ってたら、ちょっと考えちゃうな……。
希少種。力が弱すぎて、害もないけど、益もあんまりなさそう。判官贔屓で応援したくなってしまうが、死票にならんかなぁ、というところ。
比例は、他の左派党に入れたら死票になりそうで、社民自身が議席獲得の当落選上にいるなら入れるかも。
小選挙区は、そもそもいないんだけど、もしいたら、候補者本人がトンデモではなさそうなら、入れるかな。
表現規制とかのいらんところに力を入れてないで、労働者の人権、再分配の方に重点を置いてくれ、という気持ちはあり、本当はちょっと微妙。
とは言え、最大勢力なので死票の可能性が比較的低いのがいいところ。
比例は、基本的には第一候補。但し、他の左派政党が当落線上ならそっちに入れるかも。
小選挙区も、第一候補。但し、候補者本人が、「こいつはアカン……」クラスなら、他の左派系か、無所属か、最悪自公もなくはない。
純粋に政策的には、比較的中道で若者重視だし、多少危ういところはあっても一番応援したいところではある。
でも、死票にならんのかいな、というところは気になる。なんで、いまいち支持率高くないんだろうね。
比例は、議席の積み増しに影響しそうかどうか次第。
でも、悪いけど、創価学会が嫌いだし、「無宗教志向」という宗教上の理由で、ほぼ選択肢にならないんだ。
これも個々人を見れば良い人もいそうなんだよね。
まあ、裏金議員の有力対抗馬のポジションにいる人なら入れるかも。
裏金議員そのものなら入れないっす。ケジメをつけられない人は恩を仇で返す。
氷河期世代近辺の人間としては、こういう「改革至上主義」が社会をダメにした一因だと思っているので、自分は支持しない。
周りの変化を見て思ったことがあるので書く。
俺は今年で21になる大学生なのだが、恋愛の基準が「好き」から「性欲を求める恋愛」に大きく変わった肌感がある。
それこそ高校生の頃は「可愛い」とか「一緒にいて楽しい」とか、もちろん「ヤリたい」も中には含まれていたけれどあくまでもヤッているの母体数が少なくて天の上の話だった。
それが大学生になると大きく変わり、性交渉の機会が目に見えて多くなった。
友達と会えば「ヤった・ヤらない」の話になり、彼女と過ごした夜の経験談もよく耳にする様になった。
サークルや授業などの人間関係も男女問わず「この人とは体を許せるか」がボーダーラインとして引かれ、そうでないものは炙れているような感覚に陥る時がある。
そんな「恋愛が性欲中心の日常」に様変わりしたことで、そのことに苦しんでいる人も増えた印象だ。
具体的には女だったら「体を許し過ぎたことの弊害」、男だったら「性交渉のプレッシャー」になる。
性欲がどこかに潜み続ける日常を送っていると、恋愛と性欲の狭間がなくなっていく感覚がする。
これは特に高校は真面目だったけど大学に入りのまれてしまったやつに多いんじゃないかと思う。
恋愛と性欲を履き違えて、体を許し続ければ誰かに愛してもらえると勘違いしてしまった女。
周りが絶えず性の話をするからそのプレッシャーから本来の優しさを失ってしまった男。
そんな奴らがぽつりぽつりと現れては、ごちゃ混ぜにキャンパスライフを送っている。
特に一番悲惨だと思ったのが、それまで親しかった友達が性欲と恋愛を混同して短期間の交際を繰り返していたことだった。
もうあいつには「〇〇さんが好き」なのか、「ヤらせてくれないから嫌い」なのか、多分区別がついていない。
それこそ興味本位な性のペースや居心地の良さを含めて運命だというのかも知れないが、1人を大切に出来ないのに性欲だけを優先させようとする姿は本来の恋愛とかけ離れたものがあるんじゃないかと思ったりする。
この性欲至上主義な恋愛が終わりを迎える時は来るのか、とても不安になる瞬間がある。
「誰かを愛すること」って体だけじゃない良さがあると高校の時は思っていたのだが、これから生きていく社会では違うのだろうか。
ともかく誰とでも触れ合えてしまう「10代後半~20代前半の恋愛」は闇であり、きっと若気の至りとはこの間の期間を指すのだと納得した。
遊んでおくのか、はたまた寡黙に真摯に生きるのか。