はてなキーワード: よそ者とは
鬼頭えんは中世イングランド文化に詳しく、その文化の中で生きる少女が汚いおっさんに犯される作品を得意とする
聖人フォワールの伝承が残る地域で、その聖人を祝う日にキスをした恋人たちの愛は永遠になるという
少女たちはその日にキスをすることに憧れるが、想い人ではなく汚いおっさんにベロチューレイプされてしまうのがシリーズの伝統だ
小さな少女が巨躯のおっさんにのしかかられ画面の2/3がおっさんの汚いケツで埋められる
複数人のおっさんに同時にあちこちを攻められ種付けプレスされた少女は嫌なのに感じてしまう
おっさんたちは熟練のレイプ犯で、それまで無垢だった少女にありとあらゆる愛撫や言葉責めを施すことに長けている
時にはおっさんではなくショタの集団というパターンもあるが、大抵はおっさんだった
ところが近年の鬼頭えんはおっさんをしまい込んでイケメンばかりを描く
イケメンな幼馴染、イケメンな義弟、イケメンな王子、イケメンな執事…
輪姦もなくなり、男のケツを見せつけることもなくなり、少女の尊厳破壊するような酷い言葉の暴力もない
「ちょっと強引なイケメンに求められて気持ちよくされちゃうv」という完全に女性向けの作風になってしまった
これは、良くない
転換期は『Saint Foire Festival Richildis』だろう
領主の娘である無垢な少女リチルディスは、亡き父に仕えていた従者のイケメン幼馴染と相思相愛
しかし、後見人である叔父が金目当てに汚いおっさん貴族との縁談を進めてしまい、おっさんは「味見」として挙式前からリチルディスを連日凌辱する
挙式を控えたある日、冷たくなったイケメンを追いかけ屋敷を出たリチルディスは聖フォワール祭の見物客であるよそ者の汚いおっさん集団に輪姦されてしまう
他の男に汚された上に気がふれて価値を失ったリチルディスは、貴族のおっさんに見捨てられ結婚は破談
なんやかんやあってイケメンは片腕を切断され顔の半分を焼かれるが、もう誰にも望まれなくなったリチルディスを屋敷から連れ去りイケメンの故郷で平和に暮らしていくエンド
「色々あったけど最後にはイケメンと幸せになる」この作品が評価された結果、
「汚いおっさんとの色々なんかなく、普通に最初からイケメンと幸せになったほうがいいのでは?」となってしまったのだろう
結局「おまえ誰やねん」だと思うんだよ
京都弁だとどういうんだろうな
よそ者に厳しいと言われる京都だが、実際の京都はよそ者にある意味やさしい、一般通過する旅行客みたいな存在、そういうどうでもいい野郎はスルー出来る
でも、ちょっと目立ったところにギトギトのパルワールドなんていう建物立てられたら、「おまえ誰やねん」が発動する
結局のところ、パルワールドの問題は「ソニーがかかわったから」がクリティカルじゃないかと思う
MSが買収するかもと言う話もあったしな
そうなったら話は変わってくる
もう旅行者扱いはできない
売上考えて本社をアメリカに移すくらいドラスティックな経営判断をする企業
だから、売れないIPをドラスティックに切っていくことも普通にある
だから最近、アストロボットが高評価だけど「ゲームは面白いけど、いかにソニーが過去のIPをおろそかにしているかがよくわかる」
といわれたりもする
ソニーはそのへん気にしない
社風の違いがよくわかる話が最近立て続けに起きたなって思う
自身は違うが、漫画編集者の友人が何人かいる。他ジャンルの編集者やマスコミ関係と比べ特有の疲労感やストレスを抱えているケースが多い印象だ。取引先である漫画家は会社で働いた経験のない方が多いらしく、一般的な常識が通じにくい場合やゼロイチで物語を生み出すクリエイターならではの繊細さを持つことがあるらしい。
SNSで悪徳編集者を糾弾する言説が流れるのを見ることがある。会社に守られた立場の編集者と個人事業主の漫画家という著しい不均衡さが色々と問題を引き起こしやすそうなのは想像に難くない。実際、ろくでもない人間もいるのだろう。
だが、数ヶ月ぶりに会った友人が深夜近くになって「今から打ち合わせが入るかも」と言い始めたり、24時間即レスの切迫感にかられたり。一般的な常識や倫理観よりも「面白い」「個性的」「ネタになりそう」が優先し始めたり、果ては漫画家からの圧力で精神を病む友人まで出始めたのを見ると、悲しくなる。お前がそこまで緊張感ある仕事をしてないだけだと言われればそれまでなのだが、無関係のよそ者としてクリエイティブってそんなに全てに優先するのか?と思うことがある。
日本みたいな島国と違って、地続きなのに、「一緒には住めない」と思ったから別の国として独立してるわけで、「アイツらとは違う」という選民意識はどこの国でもあると思う。
でも、日本の場合、他国と自国の間に線を引く、他国民と自国民の間に線を引くにあたって、日本という国家や日本人という概念があまりないまま、よそ者、外人、くらいの雑なくくりで認識してる。島国で侵略を受けた回数が少ないことや、幕藩体制もその前の戦国も連邦国家だったためだと思う。
偉大な王が興した国も腐敗してグダグダになり遊牧民が滅ぼすというようなのももちろんだけど、いろんな事件や物事を、故事成語や宗教の言葉、古典文学の一節に絡めて総括したがる。
アメリカ人は、歴史に「なぜ?」を求めるけど、誰のどういう決断によってどう動いたかということに帰結させようとする傾向が強く、歴史は個人の決断が動かしたと考えてる。「そのときあなたならどういう決断をすべきか?」という歴史教育をする。
フランス人は社会全体のうねりに帰結させたがる。誰々から誰々の手紙みたいな、膨大な一次資料を歴史の授業の教材にする。フランス革命がアイデンティティなのだと思う。
日本は、歴史にifを求めないし、歴史を責めない。あちら側からしたらそれが正義で、こちら側からしたらこれも正義で、全ての出来事は仕方ない。みたいな考えに落ち着く。
イランの鼻につくところは、選民思想と歴史観が、悪魔合体してるところだと思う。それでいて、こんだけ欧米から干されてもうまいこと綱渡りしてるし、アカデミアは強いし、賢いっちゃ賢いんだろうけど、やっぱ特異的だ。
それより、日本じゃイラン人っていうと薬物関係の犯罪者が多い印象。北朝鮮やロシアといい、欧米に輸出入を禁じられると違法な物品の売買が強くなるだろうか。ならずもの国家だからなのか、欧米が締めつけるからならずもの国家になるのか、卵が先か鶏が先かだね。
https://anond.hatelabo.jp/20240805223215
こんなの全部「動物は右翼。なぜなら世界の中心である私より右にいるから」としか言ってないのに右翼系ブクマカが鵜呑みにしてるんじゃない
元増田の主張には「野生動物は"どの程度"よそ者を怖がるのか」という量的な概念がまるっきり欠けているし、だからもちろん「人間と比較して排外性が高いかどうか」という肝心な部分がない
見る人のスタンスによっては「私より動物のほうがずっとよそ者に甘い。動物の本能は左翼」ともなるだろう
ドードーという民族は移民の流入に甘く軍備も重視しない左翼だったので滅びていった
>群れを作る動物はリーダーを頂点としたピラミッド構造を作る
野生のハイイロオオカミの群れに階級ピラミッドは存在しない、というのははてなみたいなハイソな場所では常識だと思っていた
(https://www.newyorker.com/science/elements/the-myth-of-the-alpha-wolf ハイイロオオカミの階級ピラミッド説を著書で唱えていた研究者は己の間違いに気づき絶版にしようとしたが、出版社はなかなか同意してくれなかったという)
野生のニホンザルの群れにはピラミッド構造があり、また基本的にオスのほうが階級が上なので確かに保守的な社会構造のように見える
しかしニホンザルは母系社会であり、母の地位が子に引き継がれ、また夫婦という概念はない
これは今の日本人や欧米人が思い浮かべるいわゆる保守的な社会とは真っ向から反している
チンパンジーはピラミッド構造があるが夫婦はなく、またオスの地位が子に引き継がれることもない
ハイイロオオカミは生涯一夫一妻を貫くことが多いものの先ほど言った通り階級はない
メスを従えるライオンのオスはいかにも人間の「強い男」のようだが、オス同士ではピラミッド構造以前にそもそも付き合いがほぼない社会である
このように動物といってもいろいろある中で「保守の目指す社会はチンパンジーのように階級ピラミッドがあってハイイロオオカミのように一夫一妻制があってライオンのように夫が妻を従えているから動物の本能に沿っている」と主張しても、チンパンジーもハイイロオオカミもライオンも同意してはくれないだろう
それが通るなら「チンパンジーのように夫婦がなくハイイロオオカミのようにオスメスの地位が同じでライオンのように男同士は離れて暮らすから動物の本能に沿っている」も成り立ってしまう
もっと言うと生涯一夫一妻を貫くのは哺乳類には珍しく、鳥類が圧倒的に多い
「人間社会は鳥の本能に沿っている」と正しく主張してもらいたい
動物は「ひたすら変化を避けてひたすら敵を攻撃する」などという方向性で生きているわけではない
変化を避ける←→好奇心を持つ 敵を攻撃する←→和解を図る の相反する方針にはそれぞれ一長一短があるので動物たちはその時々の環境に合わせてこの両極の間を揺れ動いている
新しい物をなんでもかんでも食べていたら食中毒になるが、警戒しすぎてなにも食べなかったら餓死してしまう
身を守るために軍備は必要だが、むやみに戦っては負傷で死んでしまう(ところで動物は対話による解決くらい普通にやる)
というわけで増田の主張する「右翼は動物的本能に沿っている」は全く間違いなので動物に謝れ
(蛇足:人間のオスは他のオスの「勇気」を喜ぶ傾向にあるが、これは動物としては珍しい。オスウサギは外敵からとにかく逃げるし、オスライオンはよそのオスライオンが勇気なんぞ出しても邪魔なだけである)
遅ればせながらミッドサマー見ました、ディレクターカット版。まぁ夏休みだからね。せっかく見たわけだから、感想をどこかに違法投棄したかった。
だった。
とにかく「共感」という感情の働きをグロテスクに、狂気的に描写している。下馬評を聞いて、カルト村にやってきたよそ者が現地のネーチャンとパコパコした後に、愉快な仲間と共にグロ処刑されるよ!って話だと思っていたので、なんか予想と違う角度からの露悪的な表現に、自室の椅子から転げ落ちてしまった。劇場で見なくてよかった。ありがとうamazon prime。
本作の主人公であるところのダニー、これがまた悲劇的人物で、双極性障害の妹がダニー以外の家族を巻き込んで無理心中してしまうという、壮絶な背景を抱えている(ルックバックであれこれ言われた我が国ではできそうもない設定だ)。さらに言えば、彼女自身もパニック障害持ちと、かなり苦難の人生を歩んでいる。
そんな彼女にも、理解のある彼くんこと、クリスチャンがいます……と思いきや、このクリスチャンは理解ある彼くんになるにしては力不足。作中冒頭でもダニーの電話に辟易としている様子が描写されている。ダニーが不安になるたびに電話がかかってくるので嫌になったんでしょうね。
また、クリスチャン自身もダニーの誕生日を忘れてしまっていたり、自分の旅行の計画を彼女に伝えてなかったりと、純粋に彼力が足りてない部分も描写されている。
そんな彼の落ち度をダニーが非難して謝らせ、ダニーはそこからさらに追撃(本当に心から謝ってる?攻撃)をかまし、そしてクリスチャンに非難され返して慌ててダニーが謝るという場面がある。
そんな彼女の前に現れるのがペレ。この物語はペレに誘われてホルガ村に来たクリスチャンとダニーとその仲間たちが、ダニーを除いて村の生贄にされる話であるから、彼は物語的には黒幕、あるいは元凶である。
そんなペレは、作中でダニーに対し「自分も同じ境遇(家族を失った)だから」と彼女の悲しみに寄り添おうとする。
……と思いきや、不思議なことに彼は作中一度もチンポを出さない[^2]と、いまいち意図がわからないキャラクターとなっている。なんなら誕生日を忘れたクリスチャンをフォローしたのもペレだ。NTR男だとしたら敵に塩もいいところだ。
そんな彼の動機も、作中中盤に明かされる。自身が家族を失った悲しみをコミューン(ホルガ村)に支えてもらったと。だから同じようにダニーもホルガ村で支え合えると。
つまり宗教である。男が女に寄るとき、その理由はセックスか宗教か金の3択だ。こいつも例外ではなかった……というのはさておき、動機だけ見ると善性寄りに思える。
作中でダニーたちが訪れるホルガ村。ホラー作品の類型に漏れず、この村は姥捨てからスピリチュアル儀式、人身御供までを幅広くこなす、分かりやすいキリスト文化圏外のエログロホラーカルト村だった。
ここまでは典型的な因習村といったところだが、ホルガ村にはホラー作品としては珍しい要素がある。
どういうことかというと
など。ホラー因習村としてはユニークな表現だ。そして、これこそがペレの言っていた「家族を失った悲しみをコミューンで支えてもらった」の真相である。この村は、とにかく村民同士で共感し合って、悲しみを乗り越えるようだ。
そして、紆余曲折あったダニーはホルガ村に迎え入れられ、紆余曲折あって知らん女とスピリチュアルセックス儀式をしていたクリスチャンを生贄に捧げることを決意したのであった。燃えるクリスチャンを遠目に眺めながらダニーはニッコリスマイルを浮かべて映画は幕を閉じる。
ここから先は物語の中では描かれず、それぞれの解釈に委ねられている。故に、自分も己の解釈を述べることにする。
ホルガ村で行われている、この共感メソッド。その目的は、個人が抱えるには重すぎる苦痛をコミューン全員が共有・分配することで苦痛を乗り越えることにある。また、協力して苦難を乗り越えることからコミューン内の結束力を高める効果もあるだろうし、感情の共有を徹底すれば「村民同士で共感しない感情については村として承認しない」という仕組みを作ることができる。これぞまさに共産主義的な支配に他ならない。
現に、姥捨の場面では「こんなことおかしい」と叫ぶ余所者の感情には一切共感せず、しかし村に迎え入れられたダニーの嗚咽には共感してみせた。このように、村をあげた共感の儀式は、その他の共感しない感情を排除する効果がある。カルト式の集団運営に一役買っているのだ。
双極性障害の妹から連絡が絶えた不安に共感して欲しい、この不気味な村から早く抜け出したい、そういった感情への共感を、ダニーはクリスチャンに求めてきた。しかしクリスチャンはそれを受け止め切ることができず、ダニーはそれに不満を感じていた。
そして、共感に対する内なる欲求をペレに見透かされたからこそ、ペレはダニーがホルガ村に来ると知ったすぐ側から、ダニーに寄り添い始めたのだ。村人が「ペレの見る目は確か」と言ったのは、そういうところを指しての言葉だろう。
しかしながら、ずっと笑顔の戻らなかったダニーが、スピリチュアルメイポールを通じて村の女性と心を通わせ、恋人を失う悲しみを共有することでやっと笑顔を取り戻すという展開からは、ホルガ村を迎え入れたことそのものが幸か不幸かは判断がし辛くはある。
人は誰しも自分の感情に共感してもらいたいものだ。しかしながら、共感を他人に問答無用で押し付け、そして押し付けられることを選んだコミューンの行き着く先がエログロカルト村というのも、寓意を感じずにはいられない描写だ。
なにより、ダニーのような、恋人に感情労働を押し付ける女がそのようなコミューンに適合するという描写が、そのような人間の行き着く先は地獄であると暗に示しているようでならない。
現代ではエコーチェンバー効果という言葉を聞くことも珍しくなくなってきた。思想の似通った者同士が通じ合い、かくして狂気は産まれるのだというストーリーは、思い返せば現実でもよく見る構図であった。
もし、この映画から得られる教訓があるとくれば、それは「共感のしすぎ、求めすぎ」は狂気を招くということではないだろうか。
是非とも身に覚えのあるメンヘラ女の諸氏におかれては、このことを胸の片隅にでも置きながら、周囲への配慮を怠らずにいてくれれば幸いである[^3]。
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[^1]: このように書くと、パニック障害なのだから仕方ないじゃないか、差別だなどと書かれるかもしれないが、そもそも恋人は無料セラピストではないのだ。クリスチャン自身もダニーを支えきれないことを自覚し、別れ話を持ちかけようともしているのに、単純にクリスチャンをクズ男扱いして死んで当然扱いする感想記事があり、あまりにもあまりにもであったので、ささやかな抵抗として、このように駄文をゴミ捨て場に投げ捨てている。
[^2]: ちなみにクリスチャンはチンポを見せている。
[^3]: 決して私怨ではない。
昔からお笑いとかが好きでここ2〜3年でめちゃくちゃ生大喜利に興味を持った。
コロナ禍でもリモートでやってたりYouTubeにあがってたり配信ライブがあったりとかでめちゃくちゃハマって、いつかはやってみたいと思うようになった。
住んでる場合が微・地方(?)みたいなところで県内ではあんまり大喜利会もやってなくて行くなら隣県まで出る必要があったから、今高校生で受験生だからバイトもできないしとりあえずはネット大喜利とかをやっている。
そんなウケるわけじゃないけどたまにランキングがいい位置にいると嬉しい。
大喜利するときの名義でのTwitter(X)でアカウントとかは作ってなかったけど、情報収集のためにリア垢を兼ねた鍵ROM垢を持っていた。最近は大きな大会もあるしなんだしでフォローする量が少しずつ増えて、それこそ自分の住む隣県で主に活躍する人とかをめちゃくちゃフォローしてた。
大喜利の人は(これはどこの界隈の人もそうかも)サブ垢がある人も多い。というか1つ目の垢では主に告知、ライトなしがみ(他の人の解答をおすすめする?みたいなことでいいのかな)とかをして、サブ垢では大体自己反省とか趣味のことを話したりするスタンスの人が多い。鍵をかけてない人も多いけど、よそ者だしと思ってフォローするのは躊躇って鍵リストとかに入れて見たりしてた。
なんていうか表に出て大喜利します、なんて人はやっぱり変わった人が多いみたいで、ちょっとしたお気持ちとかがあったりすると結構攻撃的なことを言ったり、若干いざこざがあったりする(これはどんなコミュニティでもそうなんだろうとは思うけど)。Twitter(X)のおすすめタブってすごく害悪で、フォローとかいいねとかの関連性とかで1触った話題に対して10のTLを構築してくる。だからそのいざこざに対して主語をぼかして呟いてもおすすめタブには流れてくる。普通に引RTとかでギョッとすることを言う人もいるし。サブ垢で暴れるならまだいいけど、身一つで暴れまわる人もいてそれがなんていうか怖い。
界隈ではだいぶ有名な人のトラブルみたいなのへのスタンスが全く明らかじゃない人も多いし、(明らかにしろ、というわけでは無い)逆に明らかすぎる人もいるしでガキの自分には怖い雰囲気に感じてしまった。長く活動する方や社会人が多い場所なので、今までいたコミュニティとの温度感のギャップがどうしても埋められなくて少し足が遠のいてしまった。受験終わったらやるぞ〜みたいなモチベにしてた部分も大きいので、勝手に神聖視してハードルをあげて勝手に裏切られた気持ちでいるだけなんだろうけど、ちょっとショックを受けてしまった。
そもそもよそ者が檻の中を覗いて毛色が違う動物がたくさんいた事を嘆く時点で間違っているのは重々承知です。でもどうしても吐き出したかったので、ごめんなさい。
中堅以上は管理職を含めて中途が過半数、若手はほぼ全員新卒入社という環境
コミュ障なりに前職で身につけた、とりあえず挨拶、分からないこと聞く、分かるまで質問というスタンスで、働いている
前職のノリを引きずっていたので理性的な雰囲気の今の職場では聞きすぎ空回り質問魔になっていた気もするが、来年ぐらいまでに落ち着いて仕事がまわせるようになっていれば問題ない、それよりも分からなくても許される入社年度の浅い時期に聞いた方が良いことを出来るだけ聞いておきたい、このスタンスで1〜2年後に使えるメンバーになれば最初は酷かったな〜という笑い話に出来るのでよし、というつもりでこのスタンスを課の全員に対して行っていた。
私より同年代〜年上の人はこのタイプの人間もいる、という認識で付き合ってくれている(と思う)
問題は社歴が私より長いがほぼ新入社員の若手にも同じスタンスをしてしまったことだ。
私は分からない知らない教えてを連発していたし仕事もところどころつまづいていた(見積購入の方法がこんなに違うとは思わなかった)ものの、前職の経験と知識という下地があったのでコツを掴めば直ぐできるようになり、上司も経験者として雇っているので若手後半中堅序盤に相応の重さの仕事を渡してくれた。
これが若手から見た時にどう思うかを考えていなかった。
私は若手の子にも分からない知らない教えてを連発していたし、色々教えて貰っていた。
若手の子も私に相談をしてくれたりしたものの、前職なら1年後なら答えられるがほぼよそ者の今は答えられない、という状態であった。この時、私は笑いながら○○さんに聞けばわかる気がするなどと回答していた。
後輩から見れば、知識のないヘラヘラしてる奴が自分より重たい仕事をしている状態になっていた。
結果後輩から、「違う仕事のほうが向いてるんじゃないですか〜」と笑いながら言われることとなった。しかも他の人がいる前で。
言われた時初めて若手をまずい状態にした事に気がついた。
正直私だけに言うなら全然よかった。私も前職で後輩の方が重たい仕事を先に任されたり多部署の同期が先に進んでいた時に暗い気持ちになったことは良くあった。
でも他の人がいる前でいうのを我慢できないレベルにしたのはまずい。若手が他人にそう言う事を言う人間だと思われる状態にした責任を感じる。
同年代〜年上の人が私の態度を許してくれている理由の一つに、私の言動から経験ある事が分かるからということがある。
業務内容が多少違くとも色々あったことがお互いにわかる空気があった。ただ若手は未経験ゆえにその言語化されていない部分の共有が難しい状態であった。その点も余計に若手になんでこいつがと思わせてしまう要因だったように思う。
ジャンプ+のケントゥリア、期待して読んでいたものの4話まで来てかなり酷いなと感じた。
作者の力量にすら疑問符が付く内容だった。
働き口を探す気になり近くの村を紹介してもらう。
ところが村のリーダーから「お前には信用が無い」「足手まといは村全体の負担になる」と言われて
テスト内容は「崩落した穴の土石を一人で運び出してみろ」というもの。
夜中には仕事を完了して見守っていた村人達も感嘆、労働者として認められる。
…これもうすべてがおかしいでしょ?
どこの世界でも第一次産業では子供に手伝わせるし何ならその為に子供を作る。
「とりあえず小石運びとか雑用からやらせてみて勤まらなければ帰す」でいいわけで
わざわざテストなんか課す理由はどこにもない。テストだってコストがかかる。
現代で試用期間だの面接だのがあるのは労働者の権利が守られてるからであって
奴隷上等のこの世界なら一日働かせて「「この役立たず!給金なんかねーぞ帰れ!」でいいから
・ダメな奴にやらせられる仕事がないどころか触らせたことで台無しになる可能性がある
みたいなことはあるんだけど、作者はその現代日本の感覚のまま話を考えている。
自分の作った世界の諸条件に合わせて人物の行動を考えるということが出来てない。
ユリアン少年は村のそばで半年間生活していて、同居して面倒見てくれてたのは先述の兵士。
今回の話もその兵士が村に働き口の世話を依頼している。
兵士と村人との関係も詳細は不明だが、こういう話をするぐらいの関係ではある。
その兵士が身元を保証する少年を労働に使ってやってくれって言ってるのにこの対応、
「村人が兵士に相当険悪な反発心を抱いている」みたいな設定があるならいいけどたぶんないでしょ?
「有難いお申し出ですけどこの子はちょっとまだ小さいようで…」と兵士に談判するか、
兵士の顔を立てるために誰でも出来る雑用を与えるかとなるはず。
人間関係や社会的な行動についての想像力が相当低い(たぶん実体験が乏しい)。
暇すぎるだろ。
なんでよそ者の子供一人のテストに村人があんなに集まってるの?今日はまつりか?
一個目の時も背景にどう見ても数十人単位でいる。
半分まで行った時にもまだ同じ密度でいる。
ユリアンが石を運び終わった夜中にも同じ感じで村人が沢山いる。
新入り労働者のクオリティに「村の足を引っ張るんじゃないか?」ときついテストしてくるほど生産性に厳しい村の人間が
何十人も朝から晩までくだらない石運びテストを興味深く見守っている。
そんなに暇なのもおかしいし、そんなものに関心が続くのもおかしい。
これ本当に何も考えずに絵を描いてないだろうか。
主人公ユリアンにとってこの石運びが死んだ仲間やディアナ母への決意表明だったとしても
そんなことは他人には関係ないし伝わってもいないのだから、外から見ればただの石運びなので
ただただ退屈な石運びを見つめ続けられるわけもないし心を打たれるわけもない。
村人の視野とか村人の都合とか村人の思考とかを想像する能力が無く
ユリアン君が頑張ると村人がずっと一緒に見つめ続けて感動するという有り得ない展開になってる。
これは精神的発達段階としてはかなり未成熟段階の認知だと思う。
絵が素晴らしく巧みなのでギャップがあるが、描かれてるものだけ見ると相当稚拙なんではないだろうか。
全然裏切らずに命を捧げてくる奴隷仲間の時からなんか変な感じが漂っていた
(が、善良ベースな世界を描いているのかなと保留されていた)部分が
もちろん、裏切り者が出てくれば成熟した精神世界だとか言ってるのではない。
そうではなくて各キャラに独立した都合や思考が想定されているか、その上でユリアンに命を託してくれているのか、
と言う話をしている。
つまりただただた絵と内容が合ってない。
上手い絵で粗い内容を読まされると人間心理としては段々不快感やイライラがたまってくるので
このままなら『ケントゥリア』はそのうちアンチ的な感想が増えて叩かれるようになると予想する。
今はまだ『ケントゥリア』が期待され持ち上げられている段階なので
怪獣8号も2話3話で「これは期待外れかも」「普通の漫画になってしまった」と書いたら
作者は絵に対して真面目で打ち込むタイプに見える。
描かなくていい村人を描いちゃうぐらいには絵に賭けてる。
もしかすると実は内容が薄い自覚があって絵だけでもと思ってるのかもしれない、
けれども作家としての成長を考えるなら&『ケントゥリア』の成功を考えるなら
というアプローチが良い気がする。
粗い内容は粗い絵の方がいい。
よさこいソーラン祭りは、1992年にスタートした祭りで、6月の本祭のほか、学校教育や観光、さまざまなイベントでも披露されています。
よさこいソーラン祭りは、1991年に北海道大学に通う学生の思いつきがきっかけで始まりました。第1回は参加10チーム1,000人、観客動員20万人で始まり、現在では約270チーム27,000人の参加者する利権となっています。
参加費は、企業チームが最大35万円、一般チームが最大25万円です。また、商業演舞には12月から権利使用料が徴収されています。
2023年の協賛金は計約600万円。
しかし2024年度締め切りを1カ月後に控えた2月末時点で協賛金は150万円ほどにとどまる。
SNSの発達により、イベントが地元で不評なこととまた運営が傲慢であることが知れ渡り、イメージダウンを嫌う企業が増えている
祭り期間中は3日間にわたりで開催会場周辺の交通規制が実施される。
よさこいソーランまつりは公道を占拠するために道路使用許可を得て開催しており、警察官1500人を動員するなど財政を圧迫しているが、道路使用料などは支払っていない。