はてなキーワード: コマとは
すぐ爆食いしちゃう。
朝7時に家を出て、夜は21時に帰宅する。担任をもって毎日5〜6時間、空きコマ無しで働いている。プールにも入るし、リコーダーも吹くし、習字もマッチのつけ方も教える。
この仕事を始めて想定外だったことの一つに、休憩時間がないということがある。給食〜昼休みは、一応書類上は休憩時間扱いだと聞いたことがある。が、子どもと一緒に配膳をし、器の置き方や箸の持ち方、苦手な物でも一口食べようとか声をかけ、皿をひっくり返せば一緒に片付け、吐いたら処理し、30人分の食器を下げ、咥えたまま出歩かないように歯磨きを見張り、昼休みは宿題をチェックして、不登校の家庭に連絡し、全校マラソンで走ると「休憩時間」は終わる。
16時頃に子どもが帰って、休んだり怪我をしたり心配な様子があった子の家に連絡をして、あらゆる行事の事務処理をし、発達障害や家庭環境的ハンデのある子(今やクラス平均10人弱)への支援や指導の計画を練る会議や計画作りをして、植木に水をやり、校外学習先へ挨拶回りをし、提出物に朱書きする。気づくと20時過ぎている。
休憩っていうのは、放課後になってコーヒーやお茶を飲みながら仕事をしていい時間だと思っていたから、OLをしている友達が仮眠したりコンビニに行ったりソシャゲしたりしていると聞いて驚いた。
もちろん、OLの仕事が楽だとかそんなことを言いたいわけじゃない。
子どもと過ごすのは楽しいし、やりがいもある。これは自分で選んだ仕事で、楽な仕事じゃないことは分かってたつもりだった。
でも、現状、これ以上頑張れる気がしない。家に帰った後、何をする気にもならない。ほぼ毎日寝落ちする前にぼーっと見るYouTubeで「10分で効くストレッチ」やら「美味しくヘルシーな簡単朝ごはん」を見ていいなあと思っても、疲れて1ミリも動けない。「今月発売の新作コスメ」も「話題の映画のネタバレなしレビュー」もいいなあって見るけど、化粧直しなんて概念はないどころか毎日ほぼすっぴんだし、平日に仕事が終わらなければ土曜も無給で仕事して日曜は死んだように寝てるといつの間にか映画の公開終わってる。教材研究もろくにできてないから、毎日帰宅しながら一人反省会して落ち込んでる。
毎日毎日「あーしんどい」「いいなあ」って思いながら床で寝落ちしてる。
言うて、歳を重ねて経験を積めば、多少力を抜いたり受け流したりできるようになるのは、先輩たちを見れば分かる。こんな私を先生と呼んで慕ってくれている子たちを放り出すこともしたくない。
けど、この先10年20年と、この仕事を続けていける自信は正直ない。辞めたいわけじゃないんだけどなあ。続けられる気もしないのよ。
でも、膀胱炎とストレス性胃炎のダブルパンチのときに、電話口でいじめの加害側の親から「子供も産んだことない冷たい女のくせに」って怒鳴られたときはちょっと泣いた。
でもね、まだなんとか、明日も頑張らないとなって思えるくらいには、魅力も多い仕事なんだよ。子どもって本当にすごいって毎日思ってるよ。
でもやっぱ、この生活が続く限り、ダイエットとか何かの勉強とか、現状をもっと良くするためのアクションは無理かもしれないとも思う。生きてるだけで精一杯すぎる。
一応断っておくが、本稿は岡田索雲によるwebアクション掲載『アンチマン』( https://comic-action.com/episode/4856001361287348513 )のネタバレ論評である。ネタバレが嫌な人は先のリンクから漫画を読んでからお進みください。
父親を介護しながら食品会社に勤務する溝口。彼は、日常で蓄積した鬱憤を“ある方法”で発散していた……。『ようきなやつら』の岡田索雲が描く、アンチの哀歌。
公式のこの紹介文のなかの“ある方法”がダブルクオーテーションで括ってあるのは、それが妄想である事の示唆となっている。その妄想と現実の境界線をどこに引くか、実はそれは本作においてあまり重要ではない。溝口のポジションが少し変わるだけだからだ。
だが、一応妄想と現実の区別を付けておこう。妄想の範囲を広く取りすぎると発散してしまうので、できる限り狭くとる方向でいく。
1回目ヘルパー、2回目同僚田山への描写が妄想である事に異論はそうないはずだ。実際に手を出すまでのマッサージ依頼や、ジャスティスブレードマグカップの部分を妄想に含めるか否かは本稿ではあまり問題にならない。個人的な感想としては、田山がジャスティスブレード好きと言うのは都合が良すぎるように思えるので、妄想だと思う。
こちらははてブ内では結構割れているようだが、どちらともとれるよう曖昧な描写に留めているようにみえる。それでも、スマホ破壊率100%やウキウキでぶつかり3連発があまり現実的描写には思えない事と、本稿の前提である「溝口に同情的に」という前提のもと、妄想であるという前提で進めていく。その方が溝口の悪質性が弱まるからだ。
この場合も、1回目の妄想対象を見つけて横目で追いかけるコマまでは妄想ではないとする。漫画では描かれていないが、対象を決めて尾行を実際に行いながらぶつかり妄想をしたとしておく。3回目で、ぶつかりターゲットのストーキング中に田山を見つけ、尾行対象を変更しているからだ。
こちらもそこそこ割れているように見えるが、正直どちらでも良い。レスバトルに完全勝利していない事から、紹介文での「鬱憤解消」には当たらない。なので、現実であってもおかしくはない。しかし、特にここが溝口の感情読み解きにかかわる事はないので、好きな方を採用してほしい。2回とも父親のうなり声で中断される所が、目覚ましで中断される強姦妄想と似ているな、とは思う。
同僚、結果的に通り魔から庇った女性、母親の3組が溝口の見舞に来るが、こちらもレスバトルと同様、溝口の感情読み解きにはかかわらないので、好きな方を採用してほしい。
まず、溝口の心に一番重くのしかかっているのが、幼少期に自分を連れずに去って行った母親である事に異論はそうないだろう。
それを埋める代償行動として、溝口は女性嫌悪、ミソジニーに嵌ってしまう。これが如実に表れるのが、2回目のレスバトルでの「女は戦えないから逃げる」(女性ヘルパーも入るかもしれない)、そして直後父親に言い放った「あんたがあの女殴って愛想つかされなかったら」というセリフのなかの「あの女」だ。「母さん」や「母親」じゃなくて「あの女」と呼んだ所にミソジニーの染みつき方が垣間見える。
母親への執着は、父親の葬式後、戸口の方を眺めるコマでも強調される。来るはずのない(恐らく連絡もしていない、そもそも知らないかも)母親を期待する視線だ。
2回目の会議後、「繊細さは女性ならではのものじゃない」という発言にお礼を言われて溝口は浮かれる。ただ、これは田山をフォローしようという意図はなく、直後に描写されるように、自分が父親の介護をしていたり、ジェンダーロールの押し付けをつらいと思っているから出てきた言葉だ。だからお礼を言われても第一声が「へ?」となる。
溝口の目に目にハイライトが2つ入るのは全編で2回あるがその内の1回が本件である。なお、お礼を言われた直後は何のことかわかっていない様子で、その後も本当に分かったのかは不明瞭だが、「溝口に同情的に」ルールで、分かったという事にしておく。
その後スキップのような軽い足取りでぶつかり3連妄想に繋がる。上機嫌なのに何故、鬱憤発散行為であるぶつかりをするのか?という疑問が沸くが、自分はこれは妄想の習慣化と考える。電車事件の前段階だ。
溝口の目にハイライトが2つ入る2か所の2つ目が、ネットで情報を仕入れて実際にスマホで女性ジャスティスブレードを観た瞬間だ。ミソジニーを忘れた、女性主人公への純粋な好意の表れ。しかし、ネットの声ですぐにミソジニーが戻ってくる。
溝口は他人が居るスペースでは基本的にマスクをしている。自宅でもヘルパーを迎える時はマスクONだ。これは、社会的な望ましさに合わせようとする意図の表れで、やったらまずい事・言ったらまずい事を出さない様に自制している事の表れでもある。
社内会議1回目での、女性モデルの胸の強調をマスクON状態で「気にしすぎ」と言ったのも、溝口が考える社会的望ましさのラインを越えていないという事だ。
また、喫煙所ではマスクをあごに寄せて口を出し、眼鏡の同僚にあまり望ましくない「狙ってんの?あの女」などというセリフをはいてしまう。
溝口の考える社会的望ましさのラインは恐らく一般社会が考えるそれよりも低い。
まず、女性ヘルパーをジロジロと眺めて嫌がられ、男性に交代されてしまう。男性ヘルパーへ「急に変わるものなんですか?」と質問しているが、自分の行為によるものだという自覚があるか否かは特に描写されない。同情的ルールに基づいて、本稿では質問の時点で気づいた(それが出来るだけの知恵がある)ものとする。
また、この件の前には、電車内で女性を盗み見するコマがある。「見る」事が加害行為になりうる事は分かっていなかったのだ。
スマホ歩き女性へのストーキングも、毎回ターゲットを変えているから発覚・問題化しないだけで、少なくとも一般社会では褒められた行為ではない。これに溝口が気づいているかは明確ではないが、先ほどの盗み見と同様に、気づかれなければ問題ないと思っていたのだろう。
父親の死後、栄養ドリンクの空き瓶の山が、ハードワーク・オーバーワークの忙しさで気を紛らわせようとする溝口の心情がうかがえる。
父親は、母親を失う原因であり、憎む対象であってもおかしくないのだが、基本的には社会的望ましさに従ってか、無言で介護をする。
2回目のレスバトルで劣勢だった怒りに任せて本音をぶつけはするが、その後もすぐに介護を続ける。
微妙な関係性ではあれど、自分の言葉が父親を自殺に追いやった事は溝口にとってつらい事実だったんだろう。
結果、残業のしすぎで上司に「最近厳しくなってる」と残業を禁止される。そこで1回目の会議で「女性の体の強調」を問題視した田山と眼鏡に目をやり、ハイライトの無い目のコマの後、「そうやって男の仕事も奪っていくんだよなぁ…」「お前たちは…」というセリフ。これは父親死亡前までなら出さなかったセリフだ。上司も大丈夫か?と違和感を示している。
溝口はここではマスクをしている。先ほど示したとおり、本稿ではマスクを溝口の社会的望ましさへあわせる態度の象徴として考えるのだが、ここでのセリフはそれに合致しない。ここに歯車の狂いが見える。自分で自分を制御しきれなくなってきている描写なのだ。
その後、ぶつかり妄想の対象を公園でみつけた溝口は、その対象を尾行中にスマホを見ながらすれ違う田山に気づく。尾行対象を田山に変更するが、これはぶつかり妄想対象としてはないように思える。その後、田山が眼鏡と会い、2人で車に乗り込んで走り去るのを目撃する。
溝口にとってこれは不倫の現場で、喫煙所での眼鏡の「狙ってませんよ、結婚してますし」というセリフが嘘だったという認識になっているのだろう。
電車の中で、溝口はだらしなく寝込んでしまう。この際、マスクが片耳にかかっているだけの状態になり、それを両脇の女性が嫌がっているコマが挟まれる。
これは溝口本人がマスクを外そうとして外したものではないと考える。片耳は残っているので、寝ぼけて意図せず「外れて」しまったと考えることが出来る。
これは直後の事件と関係する。目の前でコケて四つん這いになった女性の尻を見て、襲い掛かってしまった事だ。マスクと同じく、これはきっと溝口は意図せずやってしまったのだ。いつもしている妄想だと思い込んで乗り掛かってしまったのだ。それを補強するためのストレスが父親の死、過労による疲労、同僚の密会だ。
意図せず女性に襲い掛かってしまった瞬間に通り魔に後頭部を刺されてしまう。
最初に確認したとおり、見舞客が妄想か否かは本稿では問題にならない。同僚達や庇った女性たちは、ただ淡々と見舞に来る様子だけが描かれ、溝口の感情が動く様子はみられないからだ。どうでもいいのだ。
だが、死の間際(飛び立つトンボ、落ちる最後の一葉、飛行機雲の3重の示唆がある)に母親が見舞に来て、手を添えられた時に溝口の目からは涙がこぼれる。結局溝口が欲していたのは母親だけだったという事だ。余りに単純すぎる解釈だと思うかもしれないが、であればこそ溝口の哀れさが際立つ。
ここからはIFの話だ。母親を失った悲しさで得たものは偽の名誉であり、それは溝口にとって何の意味も無かったことは言及した。
孤独は闇の感情を加速させる。孤独な以上、「ケア」される機会もない。ネットのレスバトルはネットで完結してしまい、その先に居る個、溝口を慮ることは無い。
割れたスマホとのレスバトルで、溝口は一端の真実を話してもいる。「(ぶつかり)被害者は女だけじゃない」「役割を押し付けられて辛いのは女だけじゃない」。ただ、それは加害の理由にはならないのだ。内心の自由はある?ただの妄想?私見では本作ではそれが現実に結びつく危険性が示唆されている。
一方で、割れたスマホから流れてくる溝口に敵対する意見にも論点ずらしやただの悪口になってるのも多い。
大前提として、レスバトルで人は考えを変えないのだ。カルトや悪徳商法に嵌った人は、ただ事実を突きつけられても意固地になって更に悪化する事がある。そこから抜け出させるためには、親身になって付き合ってあげる人が必要になってくる。近年の反ワクチン問題やカルト問題でもそういう記事をたくさん見た。
作品中には溝口が心を許せる相手は一人も出てこない。友達の影すらない。同僚とすら付き合いは希薄だ。助けが必要な人ほど助けて!と言いづらい構造もある。
朝日新聞の記事に、『「死刑囚の元同僚」ツイッターで実名発信 孤独な人の相談に乗る理由 (https://www.asahi.com/articles/ASR655CM1R65UTIL015.html)』というものがあった。
「最後にアクセルを踏むか迷った時に、頭に浮かぶ人になりたい」そうだ。溝口はアクセルを踏んだのではなく、うっかり道を踏み外したわけだが、彼に必要だったのはこういう人の存在だったんだろう。時には赤の他人の方が悩みを打ち明けやすい場合もある。チャンネルは多い方がよい。ただ、こんな重い事自分に出来る気は全くしない。
孤独による不幸を減らすために出来る事を考えてみよう。
展示された30種類のEVはほとんど粘土で作られたモックアップだったし、結局ほとんどの車種は開発停止になってるし
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/bestcarweb.jp/news/business/356086
トヨタの本気ですね。
その国のエネルギー等の事情に合った最適車をどうぞ、がトヨタの戦略か。巨人だけができるパワープレイだな
トヨタはEV化でもトヨタは困らないポーズだったが、正しくそうね
王者の風格だなこれは。IT 業界に例えると、パソコン OS を制した後の MS っぽさがある。モバイル OS こそ失敗したけど、他は何でもやってる (あるいは買ってる) し、どれもそこそこシェアがある。
自動運転とAIに関してはGoogle Appleというソフトに強い巨人が来ているのでトヨタが食われる可能性はあるが、EVに関しては単にハードの問題なので元から全方位作戦のトヨタは負けないよ。
トヨタはまだ何もわかってない的なお説教ブコメまだ見れます?/見れた!よかった!
テスラ株ホルダーアカウントの皆さんはこのニュースでEVの大衆化を歓迎するでもなく相変わらず細かいところを批判しているところを見るに、結局は環境どうのこうのよりも彼らはポジショントークなんだなと感じた次第
小出しにしていると、また欧州に有利なようにレギュレーション弄られるので、ある程度落ち着くまでは不利に見せかけるようにEV反対の姿勢を取り、ひた隠しにしていたのかな。内心大笑いしてたかもね。
過去にHV出してることを揶揄してたブコメ多かったけど、ストロングHV出せるメーカーなんだから、EV出来ない訳がないんだよ。
「選択と集中」とは真逆のスタンスで、なおかつEVで世界一も目指すと。やっぱこええなこのメーカーは……。
以前別のブコメにも書いたけど、トヨタは再エネ企業を買収してトヨタグループで再エネを賄って工場回そうとしているっぽいので、カーボンニュートラルに対して抜かり無い。強いの一言。
日本車排斥を狙った非関税障壁であるEUのEV規制。日本人の意識他界系は自国の産業が潰されようとしてるのにこれからはEVと無邪気な馬鹿ぶりを露呈。逆にEVで欧州を制圧して欲しい。
だから前から言ってたろう97年からHV販売してるメーカーが電動車で遅れを取るわけないだろ、と。トヨタはいつもこの戦術だぞ、黙~って秘密裡に全方位対応準備してて後出しで全て掻っ攫っていく、昭和時代からこれ。
トヨタは全方位で抜かりなし。全固体電池は大型化が難しく、小型のものをHVから採用するとしている。/日本が化石燃料による発電を続けるならば、生産拠点はアメリカなど海外だろう。現在の海外生産台数は年間600万台。
BEVより圧倒的に難しくてBEVの技術を全て包含したHVをずっと作ってきたトヨタがBEV本気で作ったらハードウェアでは負けるわけないでしょ
いわゆる究極の後出しジャンケン。勝てるコマを残すだけという戦略
つよい。誰ですかEV乗り遅れてトヨタ埋没するとか言ってたのは。
テスラ株また下がるな
トヨタまじ強いな・・かっこよすぎるでしょ・・
これで欧米市場を蹂躙した挙句、欧米からトヨタ締め出しの条約が2030年過ぎて発行されるまでがセット(遠い目)
女が「何の音?」って聞いたら男が「カーナビにうそ発見器がついてる」って言うのね。
女が「嘘ついてるってこと?」って聞いたら男は「アハハ、バレたか」って答える。
で、最後のコマで実は男は一人で車に乗ってましたってオチが付くんだよ。
1.そもそも黙ってる間もうそ発見器が鳴り続けているのはなぜなのか。
2.「うそ発見器がついている」と言っている間もうそ発見器が鳴り続けているのはなぜなのか。
※嘘ならうそ発見器はついていないので音が鳴るわけないし、本当なら鳴りやむはず。
3.「嘘ついてる?」「バレたか」の会話中もうそ発見器が鳴り続けているのはなぜなのか。
俺は主人公に近い方の底辺な人間なんだけど、ぶつかりは妄想のように思えた
現実だとどうもコマ割的にシュール感あるからってのと、いくら意図的ではないのを装ってたとしてもぶつかりやるなんて凄く勇気いるよ
悪意がなかったといってもお巡りさんがやってくる案件になるかもしれないんだから
ていうかこんなぶつかりでストレス発散できるぐらいの度胸あるなら主人公はここまで負を貯めこまないし例え母へのトラウマ抱えてても結婚できるとこまで行けるんじゃないかな
・「尾行して、追い越す」描写があり、向きの違いは不自然ではないのでは?
・歩きスマホの女性にターゲットを定め尾行していたからこそ同僚の不倫を目撃したのでは?
・ぶつかり行為は自分が悪くないと言えるエクスキューズを確保していて、大胆な行為とは評価できないのでは?
をなかったかのようにスルーして「あなたの主張をまとめると、」と言われても……………
なんでスルーしたのか教えてもらえる??
女性にぶつかる→スマホ落下して割れる→割れた画面のアップ→さらにアップでスマホが「サイアク」とか「女だからって〜」と喋る
次ページ、自室で主人公と喋るスマホが向かい合って言い合いをする
の流れ。
つまりこの「割れたスマホへののズームアップ」で徐々に、現実世界から主人公の内面世界にフォーカスして、
「スマホが喋る」という非現実的描写で、主人公の内面世界に移行したのが示されてる。
そりゃまあコマの間黒く塗りつぶしてくれなきゃわから〜んって人がいるのかもしれないけど、そうしなくたって十分わかる描写と思うよ。
2.女性がスマホを落としてそのスマホが割れるシーン→主人公の妄想
しかし、漫画を読む限り、上記の1と2は連続したコマで書かれており、途中でシーンが切り替わる描写などはありません。
これをぶつかった瞬間までは現実で、その次の瞬間からは妄想に入ったとするのは無理があるのではないでしょうか。
一連のシーンは全て現実にあったことか、全て主人公の妄想、そのどちらかと捉えるのが自然ではないかと思います。そして全て現実にあったこととすると色々とおかしいのは言及元に書いたとおりです。
まあ、いずれにせよスマホを落として割れるシーンは現実ではないのは確定だと思います。漫画を読み返しましたが、ハンマーで叩いたかのごとく、派手にスマホが割れています。最近のスマホは頑丈なので地面に落とした程度であんなふうにヒビが入ることはありえません。
https://note.com/japotify/n/n3c5fce254553
しつこいジョボジョボの重なりには、いかにもわびしい物を感じるね
ようやくケアされる側になったなという感じも受ける
やっぱり最初のページにもどってあわせて見るとさ、もどってきた女は母親でさ、
テーマ分類としては「母恋物」(失せた母性が恋しい)におちつく気がする
母を失ってから尻、髪の毛などというところに母性を見ていて、それと性欲(おとろえかけた)がないまぜになってる感じ
今の日本社会はどんなに「母親がいないと人生が失われる」かという表現ではないか
まあ実際失われたよっていう話は増田でもよくきくし現実味のあるテーマ
「お父さんは殴ることで家庭をダメにした」と信仰している主人公は決して殴るなどという暴力には訴えないけど
性暴力も暴力だったり、フィクションなら女も暴力を振るって解決できる、するという世の中にある
ブログにあるようにそれはどっちが悲惨か悲惨くらべをしてもしょうがないとわかってて救われない弱者?男性がテーマ
なんで男女は平等じゃないんだろう、
母親は父親を殴ってでも家庭をなりたたせてほしかったという悲しみ
なんで親子は平等じゃないんだろう
子供はせめて離婚のときくらい親を選べないんだろうという悲しみ
それが一人の立派な成人男性をひねくれさせてる
食品てのもいいよな
殴った父は手料理などできないからずっと二人で既製品を食べてたんだろう
そこらへんにも失った母親の代替を見つけようとしたのかもしれない
ずっと暮らしてきた家族、父親を自殺させてしまうことで居場所は(ひろがればいいのに)
女の人に居場所を取られるという妄想が昂進しだすとそれはもうスマホとの会話通りになっちゃってるね
(煙突の前のコマは葬儀場なのかもしれないけどちょっとわかりにくかった)
まあでも統一教会が思うままにしたアジアの小さな一つの国(いうほど小さくないけどね。ロシアと人口同じだから)
職、社会における自己表現の停止を家庭のだれか一人に押しつけることなんだよね
タコピーの原罪とかルックバックの時もそうだったけど、自身の感想を他人とすり合わせようとするのってなんなの?
明らかに誤読だろと思うのもあるけど、感想はその人のものだからいいだろって思う
といいつつ、隙あらば自分語り
私の解釈を書く
作中には描かれていないけれど、歩きスマホの女性にぶつかって落としたスマホの画面が割れた過去があると思ってる
当事者の女性には釈明できなかったわだかまりを抱えたまま、ネットでぶつかりおじさんの話題を見るようになり自分が責め立てられるような気持ちになり、割れたスマホと脳内レスバをするようになった
作中のぶつかり行為は妄想だと思うけど、実際にやってたって捉えていいんじゃないのとも思う
次のジャスティスブレードが女性になると知ってスマホの画面を見た時の表情に言及が少ない、少ないというかほぼないのが気になる
目にキャッチライトが入るのがこの時と、最後の見開きの前のページの最後のコマだけ
ジャスティスブレードと最後のコマだけというのを考えると、最後はおしりに目が行ったというよりも庇おうとしたと見ておかしくない
ただ、それだと軽い感じになるから主人公が強姦するような姿勢にしたのかなと考えた
どうでもいいけど、ちょっと前に話題になった片親パンが出てこなかった
片親パン煽りに反発する描写があってもいいのかなって思うけど、そうなるとぼやけるんだろう
このマンガが完成するまでに色々な枝を刈ったのだと思うけど、マンガもディレクターズカット版みたいな別バージョンがあったらと思うことがある
特に今回は
大学卒業後新卒で入社。流通小売業らしく労働時間が長く休みも少なく体育会系のしごき体質だったが、有給は取れたし残業代も支給されたしボーナスも出た。入社数年後に本部の販促に異動するも、現場よりつらかったのと(社長直々のパワハラ)、このまま行くとこの業界から抜け出せなくなるため20代後半で退職。
1の直後に入社。デザイナーとして入社したにも関わらず研修と称して3ヶ月テレアポさせられる、なんだかんだ意味不明な理由をつけて仮採用期間を延長される。社会保険未加入。意味不明なデスマーチ。常時セクハラ・パワハラ。
極めつけは在籍している社員に無理やり自動車など高価な商品をローンで購入させて辞められなくするなどしていたため、半年で退職を決意。
退職するときも恫喝めいた引き止めに合うも、県の労働局に相談しそこから連絡したところあっさり退職を認められた。
社長は伝説のブラック企業H社出身だった。コロナ給付金を不正受給して逮捕されたそうだ。
2の直後に入社。2以上の零細企業で、社長の息子が使い込みをしてクビになったところに後任として入社(もちろん入社後に知らされた)。
残業や休日出勤はなく仕事もぬるかったが(暇な時はゲームしたりネット見たりしてた)、薄給なのと給与が現金手渡しだった。後で気づいたけど、あれ税務署をごまかすためだったんだな。
同僚と上司に中卒が二人もいて、年がら年中パチンコや風俗の話ばっかしていたり、電話対応が明らかにおかしかったり(クレームになって何故か俺が処理する羽目になった)、出入りしている問屋の営業と喧嘩したり(この営業も負けず劣らず「輩」だった)、教育困難校の学級委員みたいな仕事が嫌になって2年で退職。ここは割とあっさり辞められた。あとでわかったことだけど、中卒の二人が俺の悪口を社長に言っていたらしい(風俗に誘われたのを断ったのが原因)。
3の直後に入社。悪名高いSESだが現場ガチャであたりを引いたおかげか割りと稼働は重くなかったし人間関係も悪くなかった。たまに炎上してたけど。
5年ほど前に中途入社で入った会社で中間管理職になって3年が経つのだがか、会社に自分が不要なんじゃないかと思うようになった。
きっかけは、昨年10月から直属の上司が変わり、現場の判断に細かく積極的に首をつっこまれるいわゆるマイクロマネジメントされるようになったからだ。
その結果、私のチームの意思決定者は私と私の上司の2名体制に近い状態とった。他のチームも同じような状態になっていた。
私が問題なしと判断しても覆ることや、逆に私が懸念事項をフィードバックしても上司が問題なしとすることがたびたび発生する。上司の判断軸との事前すり合わせも試みたがすり合わせたはずの内容を平気で覆して来るのであきらめた。
結局は私の上司の権威性を上げるためのコマにされているにすぎないと感じることが多くなり、もう自分いらないじゃんと思うようになってしまった。
前の上司はいい塩梅で現場に介入する程度で任せてくれてたのもあり自由度高く責任感も持って仕事できていた。前の上司にもどしてほしいけど5年ぐらいはそれもかなわなそうなので転職しようと思っている。
お前がそう思うんならそうなんだろうお前の中では(例のコマ)
私ってあってもなくてもいい状況とかの描写を異様に欲しがっているのかも…
この情報は誰と誰が知ってる?
AがこれをしていたときにBはなにをしていた?
それはいつ? どこで? どうして? 誰が?
あの時Cがあれをした意図とは…?
そこまでの作品だったらまあアレなんだけど、大好き作家の本を読む時はない行間も読みますよね。だいたい最後まで読むとなんかあるのかと思った行間なんて何もねえんですけどね。探偵と助手は付き合ってないし。でも、けむに巻かれるのって楽しい。まあそれだけです。いわば自縄自縛ですよね。
だから、意味ありそうななさそうな、状況のディテールの描写がとても好きです。
何だろう。マンガで言うところの、コマのはじに引いてある不安を掻き立てるうねうねした効果線とか、ハッピーラブラブなほわハートのトーンがあったらアガるってことなんでしょうね。
そんなことに気づきました。
人が書いた文章読んでると、そんなにしっかりは書いてないんですよね。
別になくても全然話は進むし。いや、二人が歩いてる道ってどんな道なんよ!? って私は気になりながら読んでるんですけど、あれ、もしかしてそういうスケッチっていらないのか? みたいな。大発見でした。
二次創作を読んでて読者としてのお願いなのですが、
場面が切り替わるたびに、いつどこでどんな雰囲気で、とかは書いてもらえると嬉しいかもしれん。ものや動作に対して何らかの印象がつくような描写をチョイ足しすると、とんでもねえ深みと奥行きが生まれるんじゃないかなって私は思います。情報も整理されるし。
例えば「頭を撫でる」動作だとしてもおっかなびっくり撫でたのか、大雑把な手つきで撫でたのか、その辺で感情の籠り具合が変わってくるし、何となく意図を匂わせる感じになっていい感じじゃない?
なんかからなんかに場面が切り替わって、キャラが道を歩いていたとして。同じ住宅街の道でも、「陽炎がちらつく無機質なアスファルトの道路」か、「人の気配に満ちた真昼の住宅街」を歩いているかで何となくウキウキ度とか変わってくるしさ。
さっきのシーンからどれだけ時間が経過したかとかも書いて欲しいな。読む方の心構えが変わってくるじゃん。5秒しか経ってないのか5週間経ってるのかさ。ドキドキ感変わるくない?
高校生の時に習った気がします。小説は人の感情を追って楽しむものだと。
だから私はシロートながら動作にしろ情景描写にしろ、キャラの感情が乗るように書けたらなあと思います。
まあ、私はストーリーを考えるのが得意でないので、そのあたりで及第点を取ろうと頑張っているだけなのかもしれません。
悲し〜〜
ほんとこれだけはお願いしたい。
寝てる?立ってる?座ってる?膝に乗せてる?ベッド?イス?ソファ?床?飲食してる?タバコ吸ってる?なにもしてない?向かい合ってる?並んでる?同じ方向を向いてる?どこ見てる?相手?それとも部屋にあるパンダの置物?それとも床に転がった死体でも見てる?左手はどこに置いてる?右手は?足は行儀いい?絡み合ってる?靴は脱いでる?ねえ。
ここまでじゃなくていいからもうちょっと景色をクリアにしてくれ。二人が何をしているのかわからないと(´・ω・`)こんな顔になってしまう。
あなたが見た推しカプの幻覚をもうちょっとでいいからはっきり見せてくれ〜〜〜
お願いします。
それは、つねにおもいがけない可能性に対して開かれた態度であり、慣習的な物事の結びつきを超えてあらゆる未来を否定せず、支配と被支配の天地すらもあいまいに塗りかえる。そうした状態に政治性を求めるのならば、こういいかえてもいい。NTRとは革命である、と。
NTRの宿る瞳は風景を革命する。たとえば、あなたは都会とも田舎ともいいづらい、郊外の住宅地に住んでいて、そこにしゃれたパン屋さんが建っているとする。味はそこそこで、町のなかでさえ注目度は低い。あなたはその店へ日常的に通い、品揃えと定休日を完璧に把握し、なんとなれば五回に一回は店主が声をかけて二言三言挨拶をかわす。ちゅうくらいな好ましさがある。
ある休日、幸福な遅起きをしたあなたはその店に向かう。しかし閉まっている。開店時間は過ぎているし、定休日でもないのに。店の扉に張り紙がしてある。「Aデパート地下街新春スイーツフェア出店のため、誠に勝手ながら、〇日~×日はお休みさせていただきます」。
世界がすうっと冷えて遠のいていく。
そのデパートは毎日百万人が乗り降りするような規模の駅の前にそびえている。
そこに行くと、よく見知ったパンが知らない装いで売られており、おそらくあなたが手をふったとしても、他人のふりで無視されてしまう。三百円の買い物ごとにスタンプを捺してもらっているあなたのカードも、存在しないものとされるだろう。
もうあのひとかみごとに皮が崩れ散るクロワッサンも、あの固くなった餅のような生地のベーコンピタも、もうその手には届かない。あの店は二度ともどってこないではないか。そんな感覚にあなたは襲われる。
開期が終わると、パン屋はもどってくる。以前の顔のまま、あなたのとなりに、なにひとつ変わっていないかのように。
だが、変わってしまったのだ。なにかが決定的に以前とは違うのだ。
営業再開初日の朝一番にあなたはその店を訪れる。柔和な顔立ちの店長が、変わらぬ笑顔で「焼きたてですよ」といいながら、あんパンを棚にならべる。あなたは礼儀正しく待ったあと、ひとつをトングでつかみ、瓶入りの牛乳といっしょにレジに出す。
あなたが知っているかはわからないが、あんパンはパンのなかでもっとも官能的なパンだ。NTRを体現している。それはおはぎと逆の極にある存在だ。おはぎで餅米を包んでいたオラオラ系のあんこが、西洋の象徴であるパンと出会ったとたん、しずしずと包まれるに甘んじている。 あなたはあんことパンを咀嚼しながら、自分が今、寝取っていると同時に寝取られているような、ふしぎな感覚を味わう。それこそがNTRの奥義だ。シナイ山でモーセはふたつの神の名を与えられた。ひとつはYHMH。もうひとつはNTR。発音できないことはそれ自体神聖さの証だった。
能動と受動ーー寝取りも寝取られもNTRというひとつの言葉に封じられている。わたしたちはそうした矛盾を孕んだ言葉を何の違和感ももたずに使っている。どちらでもあり、どちらもない状態こそが自然なのだ。そうした状態を自然にすることで、わたしたちは今ある景色を転覆できる。
NTRという言葉の両義性に想いを馳せるとき、わたしは菅井の顔を思い出す。
九十年代の善き日々に、わたしはフリーランスでいわゆるNTRビデオレターのディレクターをやっていて、彼はそのプロデューサーのようなポジションで助監督的な雑用からポストプロダクションまでを一手に引き受けていた。
あの時代を知らない子どもたちには、NTRビデオレターをヤラセだと思っているものも多いと聞く。たしかにそうした側面があったのは否定できない。特に大手の制作会社がAVのついでに量産しているようなものは、最初から商業的な流通を折り込んで、俳優を雇って制作されていた。
だが、わたしのいた現場はみな本物で真剣だった。寝取るほうには寝取るものの矜持があり、寝取られるほうには寝取られるものの葛藤があり、そしてかれらを撮るわれわれはそうした昏い機微、愛の真理といってもいい、そのさざなみのような感情を、一コマも撮り逃すまいという気概があった。誰もが真剣に傷つけあっていた。
独立系の低予算のチームである。撮ってくれと頼むのも、大手に発注できないような貧乏な若者ばかりだ。ビデオレターを撮って、送りつけたい。その情熱が何よりの対価だった。
菅井もそんな情熱しか財産を持たない若者のひとりだった。彼と出会ったのは大学のあるサークルの飲み会のことだ。三次会だったか四次会だったかを先輩の家に転がり込んでおっぱじめ、みなひとしくへべれけになったノリで、先輩が「おもしろいものがある」とVHSテープを取り出した。
それは当時話題になっていたNTRビデオレターで、メーセッジを収録している最中に寝取られる女性(四十代の主婦という触れ込みだった)が感極まって泣き出し、泣くのはよくあることだったが、その上にすさまじい量のゲロをぶちまけて寝取り役も撮影スタッフも大騒ぎ、という内容だった。要はネタビデオである。皆視聴済みの有名作で、先輩もそのことをわかっていたはずだけれど、みな初めて観る体で盛り上がった。
そして、例のゲロの場面が来ると、みんなで爆笑した。わたしも笑った。下に見る笑いだった。そうした笑いを仲間内で共有することが結束である、と信じていた。
だが、菅井はそうでなかった。
それまで部屋の片隅でちびちびキリンなどをやっていたのがいきなり、「笑うな!」と叫んだときは、おどけた反語的表現なのかなと思っていたが、先輩にくってかかるに及んで本気だとわかった。
押し倒された先輩の顔に浮かんでいたのは暴力を振るわれた怒りではなく、驚きと困惑だった。わたしたちも止めるでもなく、ただひたすら唖然としていた。先輩もわたしたちも、NTRビデオレターに対して真剣になる人間がこの世に存在するなどとは思わなかったのだ。 菅井は酔っ払いすぎだとして家に帰され、後日、酒の席のことと暴行は不問にされた。菅井はサークルで、なんとなくアンタッチャブルな存在になった。
サークルの他の人間たちとは逆に、わたしは菅井に興味を抱いた。
当時のわたしはNTRビデオレターの大半をヤラセだと考えていた。そうした作り物にたいして、あそこまで入れ込める人間がいるというのは不思議というより驚異だった。
菅井はふだんから近づきがたいオーラを発している類いの一匹狼だったが、こちらから話しかけると意外に愛想良く応じてくれた。
彼のNTRビデオレターについて該博な知識を持っていた。その歴史からジャンル、ゲームチェンジャーとなった名作の存在、業界構造まで、事細かに、しかも大変おもしろく教えてくれた。良い教師だった。
あるとき、彼の部屋でふたりだけで宅飲みをしていたとき、わたしは彼に訊ねた。「どうしてNTRビデオレターにそんなに興味を抱いているのか?」
菅井は、酒気に染まった赤ら顔しばらくゆらゆらさせたのち、立ち上がり、押し入れからひとつのVHSテープを取り出した。
部屋の明かりを消し、無言のままビデオデッキにそのテープを挿入する。あまり上等とはいえない画質に、ベッドに座った二人の裸の男女が浮かび上がる。男のほうは下腹が出ていて、若いようにも中年のようにも見える。女のほうは透き通った印象の美人だった。
男のほうがピースをしながら口上を述べる。さしてオリジナリティのない、平坦なセリフだった。菅井はその口上にかぶせるように、ぼつぼつと、VHSテープの来歴を語りはじめた。
ビデオに映っている女のほうは菅井の伯母であるという。知的でやさしくて、幼心に憧れの存在だった。伯母夫婦には子どもこそいなかったものの、傍目から見れば、仲睦まじく、理想の夫婦といった趣に見えた。夫婦で菅井をかわいがってくれ、週末にはよく遊びに連れて行ってもらったそうだ。
その伯母が急な病で若くして亡くなった。菅井が高校生のころだ。意気消沈する伯父を励ますために、菅井は伯父の家をたびたび訪問して話し相手になったやった。
しかし、伯父は一方的に話す菅井に黙って相づちを打つだけだった。菅井が三人で出かけた思い出を語らおうと、アルバムの場所を聞くと、伯父は「焼いた」といった。そこで菅井は初めて、家の中から在りし日の伯母の写真という写真が消失しているのに気づいた。
菅井はそのことを問い詰めようとしたが、伯父の返答は要領を得ず、ついには泣き出してしまった。
菅井は長らく伯母について伯父の前で触れずにいた。だが、大学進学が決まって伯父の家に挨拶へ行った日、めずらしく伯父が上機嫌で出迎えてくれた。自分から菅井にいろいろ話しかけてきた。流れで伯母の話題にもおよび、ひさしぶりに伯母の思い出について深く二人で語り合った。良い時間だった、と菅井はいう。
微笑みながらも目頭を熱くしていた伯父は、ふと思いついたように席を立って、どこかからかVHSテープを持ち出してきた。なにそれは、と菅井が訊ねると、伯母の映っている唯一のビデオだという。
そして、菅井と伯父はそれを観た。ふたりとも、ひとことも喋らなかった。
伯父の訃報を聞いたのは、菅井が大学の下宿へ引っ越した直後だった。自殺だった。
わたしたちの観ているビデオレターは山場にさしかかっていた。VHSと自らの由来を語り終えた、菅井の横顔はブラウン管の青い光にぼうっと照らされ、かそけく浮かび上がっている。画面を凝視している。そこにあるのが歓びなのか、哀しみなのか、あるいはまた別のなにかなのか、推し量ることはできない。