はてなキーワード: 部活とは
学校を対象とした商品を販売している業者に勤めているものだが、時々お金の支払いが本当に悪い先生に出会うことがある。
これは学年単位の大口の注文ではなく、部活で使う物であったり、生徒が紛失した商品を先生が注文した場合の請求についてがほとんどなのだが、それでも1万円ぐらいの請求書を出して1ヶ月あとぐらいに先生にお会いしても「まだ集金できていないので」「請求書を無くしてしまったのでもう一度いただけますか?」みたいに理由をつけて、全然払わない先生も中にはいる。
先生も仕事が忙しいのでお金の支払いまで時間を割けないことがあるのも理解してはいるが、であれば事務の先生に任せて欲しいし、滞っている請求に対してこちら側から督促した場合は、普通であれば申し訳ない態度で学校の側から連絡して支払って欲しいものだが、こういったお金の支払いが悪い先生についてはそういった連絡・態度もない。
中には請求書と領収書の違いもわからない先生もおられ、請求書を再発行して欲しいと言うつもりが「領収書を再発行してください」と言い間違える先生もそれなりにおられる。請求書の意味がわかっていないからお金を支払えないのだろうか?
全員の先生がそうというわけではない。お金の支払いをきっちりとされる先生が半分以上だ。だが、支払い先生は本当に全く支払わない。びっくりするほどに。先生たちはモノを売ってお金を稼ぐという経済の流れ自体を理解していないような、そんな気さえしてくる。
学校を対象とした商品を販売している業者に勤めているものだが、時々お金の支払いが本当に悪い先生に出会うことがある。
これは学年単位の大口の注文ではなく、部活で使う物であったり、生徒が紛失した商品を先生が注文した場合の請求についてがほとんどなのだが、それでも1万円ぐらいの請求書を出して1ヶ月あとぐらいに先生にお会いしても「まだ集金できていないので」「請求書を無くしてしまったのでもう一度いただけますか?」みたいに理由をつけて、全然払わない先生も中にはいる。
先生も仕事が忙しいのでお金の支払いまで時間を割けないことがあるのも理解してはいるが、であれば事務の先生に任せて欲しいし、滞っている請求に対してこちら側から督促した場合は、普通であれば申し訳ない態度で学校の側から連絡して支払って欲しいものだが、こういったお金の支払いが悪い先生についてはそういった連絡・態度もない。
中には請求書と領収書の違いもわからない先生もおられ、請求書を再発行して欲しいと言うつもりが「領収書を再発行してください」と言い間違える先生もそれなりにおられる。請求書の意味がわかっていないからお金を支払えないのだろうか?
全員の先生がそうというわけではない。お金の支払いをきっちりとされる先生が半分以上だ。だが、支払い先生は本当に全く支払わない。びっくりするほどに。先生たちはモノを売ってお金を稼ぐという経済の流れ自体を理解していないような、そんな気さえしてくる。
タイトルの通り。
現在33歳になって、いよいよ友人との関係が終わりを迎えつつある。
似たような内容の増田を数日前に見かけて、俺も少し書いてみたくなった。
元々高校の同級生で、同じ部活の4人でかなり仲良くしていた友人たちがいた。
仲のいい4人ではあったものの、成績は俺だけが学年でも下位30%程度で、残りの3人は上位10%に入るような成績だった。
結局俺は関関同立に進み、残り2人は京大に2人と国立の医学部に1人が進学した。
ただ、思えばその時点で軽いコンプレックスを抱くようになっていたと思う。
明らかに俺だけ大学のレベルが違ったし、会う都度、彼らの大学生活の話に出てくる同級生や先輩の質みたいなものが、俺の周りとは違うような感覚があって、表現し難い疎外感のようなものがあったと思う。
もう一つ、他の3人と俺との間の隔たりとして、実家の太さの違いがあった。
俺以外の3人はかなり実家が太く、いわゆる高級住宅街に住んでおり、それこそ家の床が大理石だったり、よくわからんけど高そうなステンドグラスがあったりした。
初めて友人の家にお邪魔した時にケーキとコーヒーが出てきて、心底驚いたのを今でも覚えている。友人を家に招く時は、ポテチや煎餅に、ファンタなんかを出すのが俺の中の常識だった。
俺はというと、地元でもあまり平均所得が高くない地域に住んでおり、2LDKで築年数もかなり経過したボロマンション住まいだった。家には呼べなかった。
そんなことを気にする様子もなく、3人とも本当にフラットに接してくれたが、その邪気の無さがかえって妙な居心地の悪さに繋がっていたような気がする。
卑屈なだけと言われればそうなんだろうが、それでもなんとなく恥ずかしいような情けないような気持ちは心のどこかにあったと思う。
大学に入学して以来も定期的に会っていた。卒業後の進路として、俺は公務員を目指しており、大学4年の夏に試験に合格し、無事公務員として就職した。
俺以外の3人だが、1人が司法試験の受験勉強に励み、1人はそのまま院進し、1人は医学部のため卒業時期が違うといった形で、俺だけが少し早く社会人になった。
定期的に飲みに行ってはいたが、やはり俺以外の3人の方が学生で時間が取りやすく、俺だけが参加できない会も増えていった。
参加しても、俺だけが仕事の話をしている中でみんなはまだ学生として話しているので、なんとなく噛み合わない感覚も抱いていたと思う。
それでも一緒に過ごした時間も長い大切な友人たちだったので、話を合わせながらみんなで学生レベルの安居酒屋でワイワイ楽しんでいた。と思う。
なんか当時は本当に楽しかったはずなのに、今思い返せばそうじゃなかったような気がしてきてしまうのが本当に悲しい。
俺と3人の差が顕著に現れ始めたのは、25歳になったあたりだと思う。
みんなそれぞれ社会人になり、それぞれ医師・弁護士・一流企業勤めと、同い年だというのに、俺が40代になってようやく辿り着けるかどうかというレベルの金を稼ぐようになっていた。
もちろんみんな良い友人ではあったので、年収の話になることは少なかったが、最近した買い物の話や住んでいる場所の話でなんとなく、経済的な格差を感じることが増えたように思う。みんなで行く店も、俺にとってはけっこう背伸びしたお店へといつの間にか変わっていた。
思えば年収の話なんかは、明らかに俺だけ水準が違うことを気遣って、あえて避けてくれていたのかもしれないな。なんかそうやって、友人同士なのに、薄ら弱者として気遣いを受けている状況が本当に耐えられないと感じてしまった。
年に数回会うような関係がずっと続いていたが、最近になって、旅行に行かないか?という話題が出た。
普通に近場の温泉なんかに行くイメージでいたが、話を聞くとシンガポールに行くとかいう話になっていた(たまたま2人で話していたらしい)。
旅費なんかも密に調べてくれていた。言っても目玉が飛び出るような金額ではないものの、妻子もいる中で、正直シンガポールに行くだけの金銭的な余裕は全くない。
が、妻子持ちなのは俺以外の3人も同じだし、おそらくお金のことを気にしているのは俺だけなんだろうなと思う。
なんとなくだが、今回の旅行を断ってしまったら、いよいよ3人と俺との関係はもう終わってしまうような気がする。
もう明らかに属している社会の階層が違うということは気づいているのに、それでも背伸びしてしがみつくべきなのか、正直言ってわからなくなっている。
ただただ一緒にいて楽しかったはずの4人なのに、どこで間違えたんだろうな。
結論としては、まぁTwitterがあって良かったな〜ってくらいの話。
なので被災地のように大変な経験は全然してなく、安全圏で生活をしていた。
地震が起きたその日はテストが終わり、部活も休みなので普通に帰宅していた。
歩いていると揺れってなかなか分からないと思うけど(私だけかもしれない)、周りの方が「やだ地震?」って声で私も立ち止まった。
反対車線にあった電線が少し揺れていて、確かに揺れてるかもと思ったその時、下から突き上げるようなズシンとした大きな揺れ。
立っているのが難しく、近くにあったフェンスに捕まった。
その時印象的だったのが、わたしの近くに自転車を押していたご婦人がいて、揺れの最中に「あああああああ」って言いながら道端に自転車をガシャンとぶっ倒してどこかへふらふらと歩いて行ってしまった。
人は自分よりパニックになる人を見ると冷静になれると感じる一件であった。
自転車は道の真ん中に倒されてたから他の人と一緒に端に寄せた。
3.11の事を思い出すと未だにあのご婦人はあの後大丈夫だったのだろうかと考える。
早く帰らなきゃと思いながら歩いていたら、近くの人が「東北で震度7だってよ」って話しているのを耳にしてゾッとした。
今思うとそこで情報を拾えたのは幸いだったと思う。通っていた学校が携帯持ち込み禁止であったのと、あの時は今ほどすぐに情報を拾えない。
(実際携帯がない人は何が起きてるか分からなかった人も多いと聞いた。
あと持ち込み禁止だけど普段はこそこそ持って行ってた。この日はテストなので不携帯でした。持ち物検査されてもいやだし)
家に帰り母親と合流。
幸い家の中はそこまでひどくなく、食器棚も倒れたりはしていなかった。
そしてもう一つ幸いだった事は、私がTwitter利用者であったこと。(てかツイ廃だった)
Twitterをみたらそれはもうありがたい情報がたくさん流れていた。何をしなければいけないとかね。
母親と共に近くのコンビニに行ったが食べ物はなく、少しだけあったカップ麺を買って帰り、お米を5合炊いておにぎりをつくり、浴槽やペットボトルにしこたま水を貯めた。
地震が起きたその日はリビングで母親と交互で寝ようと提案して夜を明かした。
テレビもずっと付けていたと思う。
当時16歳とかそんなもんの高校生がここまでできたのは情報をくれたTwitterのおかげだった。
父親は仕事で千葉におり、帰ってきたのは震災が起きた翌日の昼頃であった。道路は全く動かず、車で夜を過ごしたという。
メールが繋がらず、職場がわりと臨海地域なのもあり、帰ってきた時は安心したのを覚えている。
電車が止まっているので集まった人数はクラスの3分の1以下で、返却後すぐお開きとなった。
私はバスで通学していたため利用していなかったが、電車は駅への入り口がすべてシャッターで閉ざされていたのを覚えている。
駅を利用したいために並んでいた人に説明している駅員さんもいた。
連日被災地のニュースが流れ、計画停電もあったが私の住む地域は病院などの社会サービスを提供するような施設が集まっていたのもあり、計画停電は行われなかった。(実際の理由はわからないが)
そして徐々に日常に戻って行った。
そしてTwitterありがとう。あの時いっぱい情報をくれたから色々動けた。情報を得る手段を知っているのは強いね。
俺は医局内でうだつの上がらない眼科医の父親と、同じくうだつの上がらない乳腺外科医の母親の一人息子として生まれた。
うだつの上がらない両親は医局内で粗雑に扱われており、かと言って開業する気概も資金もなく地方や郊外の関連病院を行ったり来たりしていた。
スポーツも不出来で両親と同じく気弱な俺が平穏な学生生活を送ることができたのは、幼稚園から高校までエスカレーターの私立男子校に進学したからだろう。
母校は俺が入学した時には既に開成や筑駒などに大きな差をつけられていたが、同級生には芸能人や経営者の子息がたくさんおり、彼らとの格差を感じずにはいられなかった。
高校を卒業した俺は1年間の浪人を経て都内の私立大学医学部に進学した。
部屋の先輩はスポーツ推薦で入学した他学部の学生であり、俺とは全てが真逆だった。
合コンに明け暮れ、大量の酒を飲み、それにも関わらず部活で結果を示していた。
先輩は善意から俺を合コンや遊びに連れて行ったが、お互いに気が合わないとわかってからはコミュニケーションも殆どなくなり、寮から出られる二年目以降は祖母の家に帰った。
大学を卒業した俺は東京を離れ地方の総合病院にて初期研修に入り、そのまま内科の道に進んだ。
当初は呼吸器の道に進もうと考えていたが、実習中に見た気管支内視鏡のおぞましさと患者の辛そうな様子を見てやめた。ちなみに内科のローテート中でもこの気管支内視鏡を目にするのが一番嫌だった。
妻は俺が女性経験がないことを知ると「その歳で…?信じられない…」とドン引きしていた。
結婚式の際、地方で代々事業を営み財力もあり顔の広い義父の招待客でホテルが埋め尽くされる中、隅っこで父と母が小さく座っていた。
結婚後、妻との営みは片手でちょうど数えられる回数しかなく、妻は俺の性的能力の低さを侮辱し俺は男性機能を喪失した。
そのため俺と妻の間には子供がいない。
完全な家庭内別居が始まり、消化器内科医として一人前になった頃にちょうど病床の母が亡くなった。
見舞いも拒む妻は当然葬儀の日にも予定を入れており、俺は一人で東京に向かった。
続く
当日はひとりで横浜観光して、中華街、ウィンドウショッピング、赤レンガ倉庫とか山下公園で街並み観光を楽しんだ所存。
横浜は人生で二度来たことあった。一度目は校外学習で、班長だった私は道に迷って、帰りのバスの時間に遅れたことで先生にこっぴどく怒られました。方向音痴なんですね。昔から涙腺よわよわだったからバスの中で涙が止まらなくてみんな心配してくれた。だからあまりいい思い出はない。二度目の横浜は、コスモワールドにあるコスモパニックの非常口へ行かなければならなかったから。このコスモワールドは、みんなご存じ横浜の遊園地の名前。じゃあなんでそこに行かなければならなかったか、それは、SEKAI NO OWARIの聖地で、コスモパニックがなくなっちゃうっていう記事を見たから。部活あったけど行かないで終わるなんて嫌だったから、それも休んでまで行ったの。だけど今回コスモワールドに行ったとき、コスモパニックは、なくなっていなくて、ちゃんとあったんですね...私何のために二度目行ったんだろう。
この日周った中で一番楽しかったのは中華街かなぁ、食べ歩きは正義だよね。餃子、肉まん、イチゴマスカット飴、揚げまんじゅう、ダージーパイとか食べたけど、意外とコスパ良くって満足度高かった。ちなみにダージーパイは一人で食べるものではないので気をつけようね^^半分でギブったしそのあとのイチゴマスカット飴があまりに美味しくて白目剝いたわ
あと中華街で占いもしてもらった! ”鳳占やかた”っていうお店を選んで、手相と誕生日を見てもらうことにした。3300円で色々教えてくれたし意外と安いと感じたかも。占いって当たり前のことをあたかも自分のことのように言われるって友達とか有名人が言ってたから期待はしてなかったのよ。でも嘘でも背中押してもらえるようなこと聞けたらいいなって思って、勇気出して行きまんた!話によると、私って元気な人で、人と関わる仕事が向いてるらしい。今看護師になるために勉強してるからすごく心強い言葉でしたね。上司にかわいがられながら、専門的な勉強をするのがいいんだって、海外行くのもいいって言ってくれたから、行こうかなとか、口だけだけど考えてみてる笑 ちなみに今行きたい国はシンガポールです。それと、将来は結婚して子供も男女1人ずついるらしい。今は手相の結婚線ゼロって言われたし彼氏も好きな人もいないけど、本当にそうなるといいよねぇ、幸せになりたいぜ...普通の幸せな家庭を築くことがどれだけハードル高いことか、最近になって少し感じるようになってきた。29歳までに結婚観とかをはっきりさせれたらいいらしいけど、難しい。
夕方にはランドマークタワーの展望台行って、景色堪能してきましたよ!!もう綺麗ったらなんの、やっぱりライトアップされる時間に見たかったから日没して1時間後くらいに登ったの、正解だったな。展望台は景色見れるだけじゃなくて、ドリンクとフード頼めたり、読書するスペースがあったり、横浜の歴史見れる場所、椅子が階段状に設置されててゆっくりできる場所とかあって、なかなか素敵な場所だった。この期間はブルーロックとコラボしてたみたいで、ブルーロック好きの女の子たちもたくさん来てました。とっても可愛かったです。
その後は初めて会う友達と合流して、コスモワールドで遊んでプリ撮って、って死ぬほど楽しんできた!!あのジェットコースター最高に楽しいわ、見た目より怖くないんだよね、重力で頭取れるかと思ったけど。あとは二人で居酒屋行って、(私この日誕生日だったのでね!!!)新時代っていう居酒屋なんだけど全部美味しかったな。一番好きだったのやっぱり揚げ餃子かな∼、どる焼きもあれ正体何か分かってないけどすごく美味しかったですよ。お酒飲んで気持ちよくお店出ました。その次は隣にある”はなれ”っていうシーシャ行ってみた。友達がシーシャよく行ってるらしくて連れていってくれたにょ。人生初シーシャだったけど、頭ふっらふらして昇天するかと思いました、タバコも吸わないので煙耐性ゼロなんですねぇ。ドリンク飲みながら楽しんで寝そうだった。1時くらいまで楽しんだんだけどね、ドラマとか映画何見る?って話を友達としてたの、それで私Netflixだけ入ってること伝えたら、友達がU-NEXTのファミリー会員に誘ってくれてね...誕生日プレゼントとか言って入れてくれたのさ...もう最高でしょ?最高の誕生日でしょ...?後から本当にいいのか聞いたら、死ぬまで入ってていいんだって、あまりにも男前すぎるよね、ありがとう..........
その後は、もう夜も遅いから取っておいたビジホに泊まって、爆睡して朝迎えた。ホテル泊まるのって結構わくわくするんだよね、ただのビジホでもいつもと違う環境だからちょっとそわそわもする。今回チェックイン時間過ぎちゃったし泊まる人数も増えたのに、受付の方快諾してくれたのめちゃくちゃ助かりました、まじありがとう...
二日目は特に何をするか決めていなかったから、とりあえず朝食バイキング楽しんで、(しっかり取りすぎて食べ過ぎた)チェックアウト時間延ばしていただいて、12時までホテルでゆっくりしてました、この時間が堪らない!!
友達の朝食は私が受付の方に要らないって言っちゃったから(ごめんね)どこかカフェでも入ろうかってなった、んだけど、昼飲みありじゃね?じゃあ入る?ってなって居酒屋入ったりました。勝ち。
居酒屋出たけど行くところないから友達の最寄りで遊ぶかってなって、色んなお店入って、滅茶苦茶に楽しんで、友達の家お邪魔して、映画見てっていう最高のルーティーンを過ごしてやったんだぜ。昨日からずっと幸せなんだよな。友達に感謝しかない。ちなみに、なんとなく入った古着屋で一目惚れしたピアスを購入させていただきました!本当にかわいいよこれ、何気初めてのピアスかも、まだ安定もしてないんだけどね。着けるのが楽しみだ∼。他には茶葉とかティーバッグが売ってるお店に入って美味しいお茶を入れていただいて、とても心が温まりました、店員さん素敵な方だったし美味しかったです。
友達の家行ってからはおすすめしてくれた”インターステラー”っていう映画を見て、号泣してたら23時になってました。インターステラー、本当に面白いので見たことなかったら絶対見てほしいです。やはり信じるべきは愛ですね...何度も見ることで面白さが増す映画ですので是非!見てみてください!!お願いします!!その泣きはらした顔で、今日一緒に遊んだ友達が働いてるバーに誘ってもらえたので遊びに行きました。人生初バーだったからもうドキドキで、友達の友達もバーにいたけど、緊張しすぎてずっとヒトカラしてて...人見知りかコミュ障か分からないけど治したいですこの性格。色んな人と仲良くなりたいです。でも、その子たちが沢山話しかけてくれてお友達できました、ありがとう。その後も色んな方とお話しできて、同い年でも私の知らない世界を見てきた子と話したり、年上の方に人生相談に乗ってもらったりして、すっごく有意義な時間を過ごせましたよ。気付いたら朝6時になって、バーが閉まって、仕事終わりの友達に、同系列の仕事をしている方々の集まりに連れて行ってもらい、またカラオケを楽しみお酒を飲みました。綺麗なお姉さんが二人もいて、どう見ても20代前半なのに後から聞いたら30代って聞いて震えました。ありえない。私もあんな大人になってみせたいね。緊張と綺麗さでドキドキしっぱなしでした。一緒に飲めて嬉しかったです、ごちそうさまです...
その後は友達の家に戻って二人で爆睡して、夕方に私の実家に帰宅しました。すごい濃い三日間を過ごした気がする、体感。やっぱり色んな人と色んな経験するの楽しいですね。もっと私の知らない世界を見せてください。私の人生やりたいことまだ残っているのかもしれないねぇ。
テストの問題文の理解ができなかったり、問題文の日本語は読めるが表現が気になってその所を何度も確認して先に進めず1問目以降白紙などもあった。
このような状態だと学校や集団塾では改善はしないだろうと感じたので、自分が勉強につきっきりになることにした。
幸い、私はある程度勉強はでき、中学レベルなら英国数ならほぼ満点はとれる。
まず、問題文を読んで頭がパンクしてしまうことに関しては、深く考えるとパンクしてしまうということなので、そのパンクの兆候がでたらその問題から離れる訓練をした。
日々の家庭学習で問題集をとかせ、それが発生しそうなら知らせてスキップする。
そのあと、問題文でパンクする問題を一緒に説いて、問題文は何を求めているのか2人でじっくり考えるようにした。
そうすることで、問題文の表現のパターンが分かり、次第にテストの問題文の意味が分かるようになってきた。
もともと息子は社会や理科は興味があるので、問題文が読めればある程度テストでも点数が取れるようになった。
(一部追記)
なぜ小6から勉強ができなくなったのかというと、小学校の頃は雰囲気でやってもなんとかなっていたから。
しかし高学年だと英語もはじまり、内容も高度化して遅れていった。
私も「小学生なら特に何もやらなくても大丈夫だろう。」という楽観もあった。あまりテスト結果もみてなかった。だがそうならなくだんだんと置いていかれるようになっていた。
よって、6年からできなくなったというわけではなくて、表面化したという表現が適切かもしれない。
算数は小学校時代は苦手だったが、中学にきて意外にも好転してきた。
正負の計算や方程式が最初の関門だが、正負の計算で今まで『0より小さい数字になるような引き算はできない』というルールに感じていた気持ち悪さが解消され、調和した四則演算ができるので一気に数に対する理解度が増した。
方程式はやり方を教えて何度かやっているうちに、四則演算の理解度が高まっていたので難なく扱えるようになった。
その流れで、連立方程式も進んだ。
一次関数は数学の第2の関門だが、これは科学史への興味が効果がでた。
デカルトについてと、代数と幾何学を同じ計算でできるということを教えたら、興味が増し。
交点が連立方程式でとけることに感動していた。二次関数も自主的に予習していた。
興味がある本はどんどん買った。
私が持っている本も年齢的に理解できないとしても貸した。
はじめは音読で読んでいたが、次第に黙読になりスピードもました。
たまに私が読んでいた本を息子が読んでいるときに、理解をしているか要約させたりしている。
これが今もできない
元々、文章を理解して意図を汲むというのを苦手としていた上に、日本語と構造が違うので理解の糸口が見つからない教科だった。
ラテン語から、ゲルマン語、ノルマンコンクエストでフランス語が入ってきたといういくつかの文明の交わりで言葉が変わっていったというところ教えた。歴史が大好きなのでこういうので覚えてくれる。
曜日とローマ神話、月名とラテン語の数詞とカエサルとアウグストゥスなど、そういった言葉の語源も添えると覚えてくれる。
そのあとで、主語と動詞、特に中学校では後半にやるけど5文型は先に教えた。この子は構造を理解したら先に進めるタイプなので、文法構造からやった。
そのかいあって、単語並び替え問題等では最初は全くすべてをランダムにおいていたのに、今は少しずつ文法の構造はわかってきた。
文法は言われればわかるが、単語がどうも覚えられない(覚えてくれない)
単語の効率の良い覚え方はレクチャーしたが、英語以外の教科では理解をした後に一気にすべてがわかるブレイクスルーを体験したがために、どこか暗記に銀の弾丸があると思っている節がある。
1年1学期の白紙よりかは良くはなってきているが…今後、改善が必要なポイントだ。
テスト直前になると問題集を解くだけに忙しくなると勉強ができないので、2週間くらい先を進めて予習して問題集をやらせている。早めに課題を終わらせて、自分自身の問題点に向き合える時間をふやす。
余談だが、学校でもその問題集を使うので毎日持って帰るのが大変だ。今は学校では置き弁がゆるされているが(じゃないと運べない量)、ちゃんと勉強するとなると荷物が大量になるというジレンマがある。
インプットとアウトプットの間隔を短くさせるために、1ページごとに採点・間違えたところの確認・再度問題を解く・というサイクルを持たせている。
最終的に、独力で自分の課題の発見と解決のサイクルができればいいが、まだそこは難しい。問題がとけない原因を言語化させるように努めている。
採点の際には私も一緒にやって理解度を確認している。その際には、あてずっぽうで答えて当たったことをさせないために、回答の根拠をちゃんと聞くようにしている。
今やっている範囲以外のことの理解も足りているかの確認もここでする。英語だったら授業範囲ではないが、以前やった単語や表現が出てきたらちゃんと理解しているかを聞く、
学校で指定されている問題集以外にも、たくさん解かなければ身につかないので、市販の問題集で補ってやっている。
試験を想定した実戦形式の問題の場合は時間を短めに設定して、制限時間内に終わらせるようにしている。
これはなるべく家庭学習で実戦より難しい状態にしておくことで、実戦が楽になるためだ。
それどころか、学校の教科書も体系立てて書かれておらず、そのまま読んでも理解がしづらい。
特に英語に感じたことだが、読む・聞く・話す・表現する を重視するあまり、文法や単語に関してはサラっと先に進んでいる。
指導要領が増えているため時間がないのかもしれないが、とにかく内容がスカスカだと思う。
to不定詞を例にとれば、名詞的用法・形容詞的用法・副詞的用法 があるがそれをまとめて説明しているページがなく、
旺文社の『中学総合的研究』など総合的な説明が書かれている本を買って、体系づいた知識にアクセスできるようにする必要がある。
これに関しては数学も同じだ。
また、受験に関しても中学校の教師はあまり良いアドバイスをしてくれない。問題の傾向などの情報も持っていないようだ
私は塾はなるべく通わせたくなかった。本人の集団学習に馴染めない傾向というのもあるが、それだけでない。
高校は義務教育でないにしてもほとんどが進学するようになった現在、進学への対策は義務教育の範疇だと思う。
貧乏でも義務教育をちゃんとしていればいい高校に入れるべきなのだが、塾に通わせなければならない現状はおかしいとおもう。
また、塾と部活をやると大人でも過労死基準の労働時間に相当する拘束時間になってしまう。それを子供に強いるのはおかしい。
なので、社会の歪みをそのまま迎合するのも避けたかったので、学校がクソなら親の私がその穴を埋めようとしていた。
だが、今年の春から中三なのだが、学校は高校受験に関する良い情報を何一つ持っていないので不安しかない。
また、英語がやはり伸びない。
私は勉強はできても教えるプロではないので、やはりプロの力は必要だと思い、個別指導に通わせることにした。
受験の開幕前だが、今までを振り返ってみるとまあ親としてちゃんとできたかなとは思う。
反響があって驚いている。
読み返してみると、勉強のことばかり書いていて詰め込みさせ過ぎなんじゃないかという印象を与えそうなので、一応勉強以外のことも追記しておこうと思う。
私がゲームをするし不公平だし、禁止したところで不満が出るだけだ。
ただ、ゲームも「負けて・リプレイをみて・問題点を改善して・試合に挑む」という姿勢は学校の勉強と同じだということ。成績の上位層の生徒はゲームも大体うまい。ということは教えている。
ただ、ゲームはカジュアルにやってほしいので、介入することはない。
スマホは問題をとく15分か30分はLINEをしないという制約をつけている。やることは一つに絞れと。
死のうと思って家を飛び出したことがある。
直前までメッセージを送り合っていたのに、急にLINEのアカウントを消したので、察知した姉が鬼電をかけてきた。
私は出るべきか、出ないべきか、考えながら歩いた。
一度出て、話したけど、もういいよ…と言って切った。電源も切った。
図書館、と思っていた。図書館で本を借りたままだから死ぬ前に返さなきゃ迷惑がかかる、と本をカバンに入れていた。よしもとばななの「デッドエンドの思い出」。
死に方が分からなかった。でも家にいちゃいけない。
妹が帰ってきて、死んでいる私を見るのはかわいそうだ。
イヤホンで音楽を聞かないと外を歩けないのは、自殺直前でも変わらないんだなと思った。死ぬ前にはこの曲を聞こう〜と普段アホな妄想していた曲なんかまったく聞かなかった。
姉のことを考えた。
すぐに電話をくれて、車で向かっているからとにかく待ってと言ってくれた姉のこと。
一番下の妹が自殺未遂したばかりで、すぐ下の妹までしんじゃおうとしている。
旦那や友達と遊んだり趣味に使えた時間を私たちに割いてくれて、「全然いやじゃない。むしろ頼ってくれて嬉しいよ」とまで言ってくれた。
でも小さい頃、妹にはぎゅーっとするのに私にはしてくれなくて、たまに睨んだり無視したりしてきた。私も妹に同じ態度を取ってしまった。
「あんたはお姉ちゃんが好きだから〜」と母親にからかわれると恥ずかしくて、でも姉はウザそうにするだけで、少し悲しかった。
実家ではほとんど無表情で小さい声だったのに、大人になって外で遊ぶようになると、すごく大きな声で笑うようになっていた、知らない人みたいな姉のこと。
電源を入れて、姉にかけ直した。そのへんのマックで待って、姉の車に乗せてもらって、ちょっとドライブして帰った。
後で落ち着いて考えたら、「妹の自殺を止められなかった」という経験を姉にさせなくて良かった。それでなくても多大なストレスを与えたと思う、本当にごめん。来てくれてありがとう。
そして、妹を助けるために頑張ることも限界があると思った。
妹のこと。
小さい頃、とにかく暗い表情をしていた。
笑っている顔が見たくて、変顔したり冗談を言ったりした。ものすごい形相で耐えていた。
全然笑ってくれないなーと思っていたけど、後から「家の中では笑っちゃダメだと思ってた。お姉ちゃんが笑わせてくるから大変だった」と話してくれた。
ずっと死のうと思っていたことも。
私は今まで生きてきて、笑ってほしいと思ったのはきみだけなんだよ、言わないけどね。
中学に入って明るくなった。友達ができたり部活をやったり、傍から見てても変わりっぷりにびっくりした。
私は家族に理解されること愛されることをあきらめて、部活に打ち込んで彼氏や友達と過ごしてばかりいたから、きみの苦しみには気付けなかった。ごめんね。
コロナ禍で母親のストレスが限界を超え、いよいよヤバくなったので、逃げるように家を出て二人で暮らし始めた。
楽しかったし、つらかった。
私は自分のことで悩んでいたし、ダブルワークで睡眠不足が深刻だったので、この頃の記憶がほとんど無い。洗面所ゴミ箱事件も覚えていなくてごめん。きみが教えてくれたゲームを今でも大切に続けているよ、ありがとう。
夜中まで漫画の話で笑い転げたり、かと思えば過去のトラウマを聞いたり、なんだかめちゃくちゃな生活だった。
あの時期、ボワッと明るいオレンジ色の照明だけつけて喋っていたので、いまだにオレンジ色の照明が苦手。気分が落ち込む。
お互いに精神が追い詰められていくのを感じた。
私はきみを助けられなかったし、逆もしかりで、何か変えた方がいいんだろうなと解りつつ、なかなか行動に移せなかった。金銭面も精神面も余裕が無かった。
いよいよ自殺未遂したと知り、手っ取り早く環境を変えるために引っ越した。私は職を変えて前より安定した。
色んな事情からまだ二人で暮らしているけど、部屋は分かれたし、会話は一切無いので、たぶん前より快適な生活になっていると思う。
余談だけど、実家でも前のアパートでもずっとリビング?ダイニング?で寝ていたので、一人きりの空間で眠るというのが初めてで、あまりに安心することにびっくりした。すごい。
きみの地雷を踏んだ以上、関係が修復できないのは分かってるから、そこは仕方ない。私の落ち度だ。
でも毎日思うことがある。隣の部屋で死んでいて起きてこないんじゃないか。帰りの電車に飛び込んで帰ってこないんじゃないか。
口にも態度にも出さないように気を付けているけど、一ヶ月に一回くらい考えが止まらなくなって、部屋で泣いている。これもその一環。
いつか妹は死ぬんだろうな。
その時後悔しないために色々口出ししたけど、私自身が弱すぎて追い詰められたり、逆ギレしたりして、もう何にもうまくいかなかった。
ほんとはやる前から分かってたよ。これはプロに頼む案件で、メンタル不安定な素人にできることなんて何にもないって。言ったけど聞き入れられなかった。
妹は私の助けなんて必要としてないのに、勝手に助けると決めて追い詰められて傷つけたんだからしょうがないんだけど。
今は方向を変えて、いつか妹が死んだ後、時間がかかっても立ち直れるように、自分の問題を解決しようとしたり、友達と関係を保ったりと努力している。
ほんとはまた喋ったり、遊んだりしてみたいけど。縁を切られてもいいから生きて、できれば笑ってて欲しいけど。もう無理だろうね。
この文章が二人に見つかりませんように。
俺悪くないよね?
地方の中の更に局所的な過疎によって小学校に人がおらず、1学年1クラス(30人くらい)だった
女子が7人しかおらず、皆ほんのりした恋心はあったんだろうけど誰かが付き合うみたいなことはなかった
思えばこの6年で異性とやり取りする免疫みたいなものを得られなかったんだと思う
1学年7クラスになった
そういう意味では大チャンスだった
なんとなく好きな子もできたけど、既に自分の容姿その他がイケてないことに気づいていたので、アクションを起こせなかった
あと、これも局所的だと思うが誰かが付き合うみたいな噂を一切聞かなかった
恋愛は漫画の中か、過去のものだと思っていた(後から知るがそれは違った、俺の時代は全盛期だった)
あと好きな女子には別の好きな男子がいたのもアクションを起こせなかった理由だと思う
好きな子は学力が220人中30番目くらいだった、俺は20番目くらい
頑張れば同じ進学校に行けると思っていて、そしたらワンチャン仲良くなれるんじゃないかと思ったが
それで終わり
またしても浮いた話をまるで聞かない
ひょっとしたら俺の知らないところではあったんだろうか、あったんだろうね
俺はもうクラスの女子に興味を失っていて、二次元に傾倒していた
自分の自信がなかったのも大きいし、接点もなかった
部活は小学生の時に暴力的な鬼コーチにあたって嫌になって以来所属していない
好きな子は居た
でも浪人生だしね、それどころじゃないよね
結果詰んだ
バイトで出会った子も淡く好きだったけど、コンビニ2人体制だったのがまずかった、話すチャンスがあんまない
あと実家通いだったのもよくなかったかもしれない、人脈が築かれない
研究が忙しすぎた
驚きの不景気により諸々それどころではなかった
が、引きこもっていた時にネットで仲良くなった2chねらーとオフ会をした
びっくりするくらい常識人が集まり、その中の女子に死ぬほど惚れた
30kg痩せて、見た目も気にしたけど
まあわかる、そういうんじゃないよな
謎の新人(モデル30代)の面倒をなぜか個人事業主の俺が見ていた時にコロナになった
仕事の面倒をみてやりつつ、週5フルタイム雑談しながら仕事した
4ヶ月耐えたがとうとう惚れてしまった
スラブ系のぴえん系で高飛車なんて趣味じゃないしーと思ってたんだけど、そういう人っておっさんと絡んでるから妙に知識があって面白いんだよね
歴代彼氏を聞いて引いた、世界が違う、モデルってそんなモテるのか?
この期間に筋トレやら美容やら服やらを再開したが、高校生の時にやっときたかったなぁとか思った覚えがある
いま一番楽しい
3年で200人くらい会ったと思う、馬があったのが6人(不定期が常に10人くらい)
誤解ないように言うと、かなり健全な方だし、皆の想像するような港区系は1人しか居ない(今のパパ活界隈はマジで全系統がいる)
今はもう彼女作る気がない、年も年だし、今この年とスペックでやると彼女じゃなくて奥さんしか寄ってこないみたい
結局のところ問題なのはどれだけ女性と一対一で向き合ってきたかなんじゃないかと思う
自分の良くなかったのは高校で好きな人ができなかったことと、大学〜社会人まで男社会すぎたこと
そして男社会に入り浸った結果、出会いを求めるのではなく2次元に傾倒してしまったこと
良かったと思うのは2回重い恋をしたこと(死ぬほど苦しかったけど)、そのことで少し努力するモチベーションができたこと
1回もしてなかったらどうなってたんだろうなあ
ネットにはそういう人も結構いるよね、それはもうしょうがないんじゃないか?惚れるのは理屈じゃないし
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え、まってまって雑じゃないよw
金はあるから中年になったら女遊びしようかなーとずっと思ってたところにコロナが来た感じなんだよ
今は遊びっていうか大切なパートナーって感じだけど
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もう少し考えたんだけど、先々のことを考えすぎるのも良くないなと思った
高校の時は大学で上京するつもりだったから、彼女なんて作ろうと思えなかった、お別れするの寂しいし
今は「将来結婚しよ〜」って言われても「やだ、彼氏探せ」って言うし
うっかり惚れないように人数増やして分散してるから上手くいってる
気軽さが大事だと思う、彼女作りたい人はマチアプとかで「女子の知り合い」をたくさん作ればいいんじゃないかな?彼女とか結婚とか頭から外して
若ければできるはず、デート代全部出すくらいすれば
そうだ、金って便利だよ
どのくらい貢げばデートしてくれるのかが分かる、つまり自分に不足してる魅力は金に換算するといくらなのか?と
仲良くなって割り勘までいけたらゴールみたいな
結局ギャルゲーじゃん