はてなキーワード: 盲目とは
フィジカルとメンタルの不調を数値化出来れば世の中はもうちょっとマシになる気がする
ウェアラブルガジェットで常時測定し、自分以外の人間に提示出来ることが望ましい
フィジカルの不調なら数値化画像化が可能な場合も多いし、医者のお墨付きということで他人に示しやすいが
診断が下りてお薬を飲んでいたとしても、他人には言い辛いというのもある
何よりも「そんなもん気の所為。怠け」などと捉えられることが多い
(阿呆な奴は目に見えるフィジカルの不調―例えば骨折とかですら「そのくらいで」と言い放つけどな)
阿呆元気な奴の不調指数が「0つらい」を示す時、フィジカルメンタル絶不調な奴の不調指数が「90つらい」とかなら「具合悪いんで休みます」と言っても納得出来るだろう?
(でも常に「0つらい」の奴には結局理解出来ないだろうけどな。「つらい」ということが分からないもの
まあ、そういう奴には「つらい」を経験させれば良いんだけど。「妊娠状態」とか「盲目状態」とか経験させるやつあるじゃない。アレ
そういえば数値化された痛みを機械によって経験出来るやつがあるよな。電流流れるんだったかな?
他にも色々バーチャルで経験出来るから、「0つらい」脳のやつにビシバシ痛みとか辛さを与えてやればいいんだわ)
追記:
考えてみれば、血液検査によってストレスの度合いわかるんだよな
でもいちいち血ィ抜かないと分からないのは駄目だ
昨日NHKのラジオで、「今日は一日沖縄ソング三昧」って番組やってたんだけど、みんなが選ぶ沖縄ソングトップ20!みたいな企画の2位にジャニーズWestの曲が入ってて引いた。沖縄好きな人がいてその人が沖縄の曲作ったんですって。え、知らん曲だ……以外の感情がなかったですけども。てか、kiroro、夏川りみ、BEGINときて、そのジャニーズWestのだったので、正直な感想は空気読めよだった。
これは自分もわざわざ見に行くのが悪いんだけど、Twitterで投票呼びかけている人がいたみたいだ。みんなの力だね~!聞き逃し何分のところです!え二位だったの、すごい!みたいなの見てさらに萎えた。
沖縄の曲といえば、で盛り上がっている人たちのなかに、「私たち、ジャニーズWest大好きでーす!」って叫びながら入ってきてそこだけ盛り上がるの、どうなのよ……。沖縄ソングだから投票したんじゃなくて、ジャニーズの曲だから投票したんでしょ。こんなん田代祭りコイル祭りと変わらんじゃん。自分たちだけが楽しいんじゃん。
盲目なファンが、対立構造作っちゃうんだなあ。ふつうに聞いていた人は、ファンが組織票入れただけでしょ、はいはいジャニーズファンのための時間でしたねってなるし。投票したっていうジャニーズファンも、ほとんどはそこだけ聞いてあと聞いてなさそうだし。そこからお互いに広がっていかないというか。
十何位とかにしておけば、そういう子もいるんだねってなる人多かったかもなあ。無理やり中心に植え込むんじゃなくて、合う場所で咲かせてあげなよ。って思ったところで、ジャニーズへのモヤモヤの輪郭を少し掴めたような気がした。
自分はジャニーズが嫌いじゃないし、ドラマや映画でも納得の配役だなあとか、うまいなあと思うものはあるのよね。
でもなぜその人?という謎な主役とかは、結局作品自体が「ジャニーズファンのためのもの」になってしまって、ジャニーズファンではない自分のものではなくなってしまう、notformeになってしまう。原作が好きだったりすると、それが辛くてもやもやするんだ。
ジャニーズを使うと「これだけは集客・集金ができる」というのが分かるからありがたい、というのを聞いたことがあるので、まあ仕方ないことなんだろう。ジャニーズを使ったことで逃した金額は測りようがないし。
・情報を摂取するのはその当人において1視点からその機能に応じて同じく見えるので「接種する情報をどうにかしろ」というのは無理な話
・情報の重要度や優先度、価値といったものについて言うならば「情報を得た人間がそれを利用する場合」に付くものではないか
この前提をもってする1意見なのだけど、その匿名だったり複数の人格を装って発信できる情報なりの素があることは表現とかなんとかの自由で認められるべきものだろうと考える
発信された情報を受け取った人間がどう利用するかについては、問題が発生すると思うのだが「〇〇という発言があった、というのを見た、しらんけど」という使い方をすることについて価値を認めないようにすべきではないかと考える
「保育園おちた」発言で世の中かわったありがとうという記事もなんか今ホッテントリしてるけど、助かった自分がいたのと自分との直接的な関係性はその記事からうかがえるというのはわかるが、直接的に恩恵をうけたのは市政のはず
礼を言うのが身近な店員ではなく神にという主義ならわからなくもないけれども、それでも礼を言う相手が違うのではないか
動かない事柄を動かしてくれた何かに感謝、というならば死んだ人間にみんな「死んでくれてありがとう」という癖がある人なのかと思ってしまう
警察に助けられた警察機構をつくってくれた犯罪者の皆様には感謝しかない、とか日本の平和は敗戦国へと追いやってくれた戦争参加各国のおかげ感謝しかない、とかそういう感覚なのであれば自然ではありそう
どこのだれか知らないけれども発信された情報があったので、それは大事だとするのは感謝の気持ちをそこに添えるのは問題ないし良いことかと思うが、そこに責任があるとしたら自分に返ってくることを自覚すべきではなかろうか
死ねと言い含めたことを、自己の責任として再発言することになった事に責任が持てるならば何の問題のないだろうし、それを臨んでいるので仮に「死ね」発言について炎上したとしても、受けきれるのだろう
実際に問題が発生していたり救済を必要としていたりする情報源について実態を伴う行動が必要かどうかは情報が存在していて、かつそれを摂取して判断した結果になる
発信者が嘘偽りを発信していようが発信者として偽っていたとしても「それを良しとする」規約範囲内での活動を問題視するということは規定を自由に存在させていいという社会的領域を狭める
ツイッターの話ならばツイッターが規約を厳密にしたり審査を厳密にしたりすることはありだろうし、放置するのも緩くするのもありだろう
その自由な選択を認められることが社会的な領域の広さにあたると考えるのでそれは狭めるべきではなく、社会的地位としての上昇を臨むならば社会を狭めて情報源を確実なものに押し上げるのではなく、情報源自体が規約なりで縛り押しあがっていくことが望ましいのではないか
何もしなかったり緩くすることで社会的な情報源としての地位を下げることになるのはその自由の範疇においてやむを得ないだろう
しかし低く下がった信頼度を、ほかの時点の価値観とかさねあわせて「信頼できる情報源において」とするのは「ほかの時点の価値観」でその情報源を推し量っていることが問題だと感じる
文字データになってインターネットに流れていたらみんな平等に貴重な情報源って言うのはいいし信じるのはいいけど、それをもってして行動するのは自己責任にすべき
「〇〇っていう噂があって、まことしやかで、本当なら問題だし」から具体的な例に置き換えて「例えていうなら」からの自説を披露し相手に「だと思わない?」と結局関係ない行動喚起をさせて「しらんけど」と言うのは良くないのではないか
関係ない人間に恣意的な行動喚起をする材料としてそのへんに散らばってる情報を利用して「という情報があるのを発見した」からの「という風に見える」と冴えたような加味をして与えるのは「その情報ソースがそこに落ちていた」という事とほぼまったく関係がないといっていいように思える
それは「人の口元へ運ぶ行動と、口にしていいようにした」のはその情報発信者なのだから、元の情報をつくった人間はもうすでに関係がないといっていいだろう
偽の情報発信者が多く潜み偽の情報を沢山流したとしても、それをまとめて扇動したり誘導したりしようとする人間がでてくるはずで、注意すべきと責任を追及すべきはそこで十分ではないだろうか
改善すべきは、むかしはよかった、むかしはこうだった、かつてはこうだった、だから「今もつかえる」という判断基準で過去の人やものを盲目的に利用しつづけ更新しない人により新鮮な情報を提供するようになっていけばいずれそのなりすましでどうにかなる情報の発信や迷惑行為を正義と勘違いするような扇動者の区別はつくようになっていくのではないかと考える
盲目の人に「どこ見て歩いてんだ!」、車椅子の人に「走れ!」とは言わないよね?だから発達障害で得手不得手にムラがある部下にも「なんでできないんだ!」って言ったら酷いよね。
みたいな主張。
一見筋が通っているように思える。
が。
発達隠して健常者枠で入社してきて、いざ入ったらアレできませんコレできませんやらせないで下さい、コレは凄く得意なのでやりたいです、もちろん給料は定型の同僚たちと同額貰いますなんて言ってる奴に優しくはできねーわ。
もちろん、これはあくまで自分の周りのケースであり、世間にはとても苦労して生きづらさと戦っている発達持ちの人もたくさん居ることだろう。
要は、配慮されて当たり前!配慮してくれないなんて酷い!という態度を取るなって話。
車の免許持ってない友人がいるとして、あたし免許持ってないから乗せてもらって当たり前!乗せてくれないなんて酷い!免許持ってないから仕方ないことだしお金とかは払わないよ!という態度取られたら嫌だろって話。
21歳男(未婚、学生)が、既婚未婚問わず複数の女性に手を出していたことが判明した。(同時進行多数)
この男は私にも言い寄ってきたが、私は既婚者のため、気づかないふりをしてかわしまくっていたので被害は受けていない。
おそらくサークル外にも女が多数いると推測できる。
彼女は自分も不倫の立場であるのを棚に上げて、自分は被害者であるとわめき、
「ここまで人を不幸にして、あいつにはいつか大きな不幸が訪れる」などと言う。
いやいや、あなたもご主人とお子さんを裏切っているの、お忘れでない?
何らかの形でご主人の耳に入ったらどうなる?
家族を裏切っている以上、あなたにも不幸が訪れる可能性があるってわかってる?
しかも彼女は、男から別れようと言われていないからと、なんやかんや理由をつけて、不倫をやめる気はないらしい。
それどころか、この機に別れたほかの女性に対して
「彼のことを一番わかっているのは私だから」などとマウントを取り、
昨日は〇時間電話した、こんなことを話したなどとのろけ話を披露する。
半年以上デートしていないらしいのに、どこからそんな自信が来るのだろう。不思議でならない。
彼女が切られない理由は、男の言うことを何でも聞いて、色々なものを貢ぎまくっているからだと考えられる。
後ほど判明したことだが、同時進行が発覚するまで、除名された男に近づく女性には嫌がらせのようなことまでしていたらしい。
「代表は私の親友だから、私が被害者になったからあんなに怒っているの」などとほざく。
恋は盲目とは言うが、ここまでくると手の付けようがないと思った。
彼女の目が覚める日が来るかはわからないが、目が覚めた時、自分の行動に対してどう思うのか。
普段から自信満々で自己評価が高い彼女だが、恐らく彼女は何に関しても現実が見えていないのだろう。
人の振り見て我が振り直せ。私も気を付けなければいけないと感じた。
両親は仲良しというほどではないけど、両親ともに友人がおらず、父親が子に無関心で母親の言いなりだった
父が母を盲目的に信じている感じだったので、いわゆる支配関係っていうのとは違うかもしれないと思って書いてみてる
また表面上、子供を一番に愛してる夫婦の顔をしてるけど、実態は母親は子が他の何よりも母優先にしてくれないと泣きわめき、父親はそれに気づいていないというのが常態化していた
学生として遅れて自我が出始めた頃、母親の「あなた(子)の友達に無償で〇〇やってもらってよ」との頼みを断った結果、自分の存在価値を否定する感じに何時間もめちゃくちゃに罵倒されて落ち込んで部屋に籠もった
罵倒される日々についに心が折れて、本当に初めて父親にLINEで「これ以上はもう頑張れないよ、言っちゃいけないとは知ってるけど死にたいくらいだ」と泣き言を言ったら「お母さんだって頑張ってるんだから、それくらい思ってもいいんじゃない?許してあげなよ」みたいな返事が来た
その時はそっか、自分が言うことを聞かなかったりめげるのが悪いのかと思ったけど、大人になって見返したら子の初めての緊迫したSOSに対して心配の一つもしない文面にドン引きした
結託かはともかく、日常的に「この世に本当の味方は家族だけだからね()」って言われてた割に、子の味方は家族に居なかったし、私を助け出してくれたのは親戚ですらない他人の大人だった
直近ではたわわな女子高生についてだし、これまでも何度も広告や漫画で表現の自由が話題になっている。
私はリバタリアンとして当然、表現の自由を擁護する側に立つが、
一方で表現の自由を重視する人たちの内の結構な数の人がその他の自由、例えば転売の自由を認めないことがとても不思議だ。
転売つまり自分の所有物をどう処分するかを決める権利は所有権や財産権という各種の人権の中でも根本に近い権利であり、
表現の自由を認めるなら転売の自由も認めるほうが自然なはずである。
予想される反論に予め答えておこう
・どんな表現も表現関係の法律に違反していないなら問題ない と主張するなら、
・どんな転売も転売関係の法律に違反していないなら問題ない と主張すべきである。
「きちんと利益を申告して納税し、また必要に応じて古物商免許を取っていればPS5だろうがガンプラだろうがいくらでも買っていいし転売しても良い」
と考えるならもちろん矛盾はない。
しかし、転売を批判する多くの人は転売という行為自体が倫理的に問題があるように考えているように見受けられる。
例えば法律に違反していないレベルのエッチな広告を見て快に思う人たちも不快に思う人たちも居る。
それらの人たちの厚生の合計は、仮に計算できたとしても、プラスかマイナスかは自明ではない。
また、「誰もが不快に思う表現こそ守らなければならない」と擁護するのは、
表現の自由が社会の厚生を上げるからではなく、その基本的人権としての価値を認めるからだろう。
同様に、転売を不快に思う人たちも快に思う人たちも居る。(例えば先着順販売に並ぶ時間がないなど転売がなければ買えない人は必ず居る)
それらの人たちの厚生の合計は、仮に計算できたとしても、プラスかマイナスかは自明ではない。
また所有権や財産権という基本的人権の価値を認めるなら、仮に社会の厚生を下げるとしても転売の自由を擁護すべきである。
※なお、ある財から得られる厚生が小さい人から転売によって大きい人へ移動するので、むしろ社会全体の厚生は転売がある方が高いとするのが経済学の主流
転売屋が儲けるのが嫌って"お気持ち"で規制するのも当然ダメ。
https://twitter.com/sho_pilgrim/status/1516530970735828997
千羽鶴の話。開戦すぐにウクライナ入りした身からすると、別にありがた迷惑ではないと思う。
https://twitter.com/sho_pilgrim/status/1516532063314317315
人より頭がいいという自信は時に盲目にする。
自分も自信が仇となり自分の矛盾や間違いの可能性に気付かずにいることが多々ある。
頭のいい人も間違うしそうじゃない人も真理をつく時がある。
https://twitter.com/sho_pilgrim/status/1516533546759950336
「相手の立場になって考えれば絶対いらないでしょ」って相手の立場ってものを
https://twitter.com/sho_pilgrim/status/1516548176093847569
https://twitter.com/sho_pilgrim/status/1516549313224224769
俺はウクライナにてあまりロクな飯食わない生活してるけど、食事も嬉しかったけど心が奮い立ったのは子供の落書きのような絵だったなぁ。
はてなに反左翼なユーザーが増えて久しいが、折り鶴関連のブコメは、もはやオタクまとめのコメント欄と同程度の内容だ。
はてなーは一体どうしちゃったんだよ。
「昔から男が稼いで女は家で男の帰りを待つと決まっていてそれをみんな信じてるからそれを否定するのは間違ってる」
なんて今頃主張したら袋叩きに合うのに
わたしはとても性格が悪いからわかるのだが、わたしの友達はめちゃくちゃいい子だ。
だからその言葉で傷つく日が来ることが怖くて距離を置き始めた。
最近の話。
友人は今の仕事は続けるつもりはなく、結婚して専業主婦になり子育てするのが自分の幸せと考えていて、それを目標に生きている。
わたしは、絶対結婚したいともしたくないとも思わず、なるようになれば良い派で、たとえプライベートがどうなっても正社員は辞めずお金を稼ぎたいと思っている。
わたしと友人は別の人間なのだから、各自が自分の生きたいように生きれば良いと思うが、友人は自分が幸せだと思うことが他の人にとっても幸せだと考えている。
最近は会うたびに、そんな男の子が一生懸命働いて稼ぐようなところで頑張る必要ないよ、と言われる。男の子より稼いでない方が可愛いし、自分の時間を作って専業主婦スキルをあげるほうが将来につながると。
改めていうが、友達は本当に性格が良く、善意の塊である。つまり、これはわたしの生き方を馬鹿にするために言ってるのではなく、本当に親友には幸せになってほしいという善意で言っているのだ。
学生時代はそう言われてもはいはい〜って感じだったけど、社会人になって、この子といたら将来傷つく日が来るんじゃないかと思い始めた。
わたしは自分の人生を100%肯定して生きていくほど自信を持つことはできないだろうから、みんなの人生が分岐していく時、その友人に〜って生きるのが幸せだよ、と言われた時に自分が揺らいでしまう気がした。
そうはいっても出会って7年も経つ友人だし、わたしはそういう風に言われると、自分の考えとかを否定されている気になってしまうと正直に伝えるべきかも悩んだ。
将来のために一人でも友達は多く残しておいた方がいいかななんて打算的なことも考えてしまう。
そうして、友人という存在に打算的なことばかり考える自分の性格の悪さに落ち込み、結局は純粋で、いい子で、自分の考えがいいと思える盲目的なところが幸せそうで羨ましいという嫉妬なんだろうなということに気づき、将来どころか今傷ついてしまうのだった。
自分が@niftyのADSLと契約したのが2000年だったと思う。インターネットが、時間を気にせずに、生活の中にがっちり組み込まれたのはそれ以来だ。以来22年。2003年くらいからブロゴスフィアなるものが登場した。ネット論壇は高度で刺激的で、礼儀を守りつつ論争的であった。自分の体感的には2008年くらいから、「あれ?」と思うことが多くなってきた。はてなブックマークもそこから如実に子供の言い合いのような罵倒コメントが増えてきた。それまでは仮に、イラッと来る言論があったとしても「お言葉ですが、かくかくしかじかの理由で、お考えには多少の齟齬があるのではないでしょうか」くらいにぐっと堪えたものである。2008年ぐらいから急に「やーいやーい、うんこちんちん」みたいな反応が多くなった。
何が変わったんだろうと考えてみると、だいたいゆとり世代が成人し始めるのがそれくらいからであった。ゆとり世代は17年間続いたので、今がちょうどネット活動世代のヴォリュームゾーンかも知れない。明らかに、日本語を読めてない人たち、過度に構図を単純化する人たちが増えてきた。
「ウクライナ兵の決死の戦闘に敬意。終結するまでロシア 軍を叩き潰すしかないが、報道がきちんとなされているか懸念。」
これが従前からの、人命を守るために早く降伏しろと言う彼の持論からの手の平返しと叩かれた。
手の平返しだろうか。以前からのロジックとかけ離れているのであれば、その解釈をまず疑うべきではないだろうか。
「人命のためには降伏が早い方がいいが、それもできないというならば人命を犠牲にしても終結までロシア軍を叩き潰すしかない」
と読めば何の矛盾も無い発言であるし、実際、これ以後の氏のコメントを見るにこの解釈が妥当なのだと思う。報道がきちんとされていないという橋下氏の主張は、ゼレンスキーが全体主義的な強権を発動して国民を盲目にしていると言う橋下氏の見解に沿っている。このtweetの主眼が後段にあるのは明らかだ。
しかし大半の人がそれを読めていなかった。
ウクライナ戦争への評価の話ではない。単純に日本語読解力の問題である。
次に相手に都合がいいように解釈してみると言う精査の段階を欠いている。端的に言えば自己肯定、万能感が強すぎる。客観性が欠如している。
更に悪魔視した相手だと罵倒の限りを尽くしても構わないとする、異論排除傾向と念のために礼儀を守っておこうと言う安全策をとらない無謀さが顕著である。
昔はよかったとは安易には言いたくない。
しかし今の20代30代のヴォリュームゾーンは20年前と比較しても明らかに水準が低下している。IQが30くらい下がっている印象を受ける。
以前、夜道を歩いていたらね、前を歩いていたブスがこっち見てさ、「きゃあ」みたいな表情をしていきなり走り出したわけさ。あれなに?
傷ついたし、腹も立ったし、と言うか正確に言えば腸が煮えくり返ったのだけど。
女はさ、女の弱い立場に思い致して憎むなら痴漢を憎めみたいなことを言うけど、おまえら俺を過大評価しすぎだからね。そこまで人間出来てないって。
侮辱してきたのはあの女であって痴漢ではないし、はっきり言ってこっちは50万円払ってもあの女を殺したいくらいその時は怒り心頭なのに、その女に同情するってのはお釈迦さまでもあるまいし、こちとら無理な話よ。女の事情があるのは分かるけど、損得で言ったら女側も危険なんと違う?
痴漢だけではなくて、普通の男でも瞬間的に激怒させる挑発よ、あれは。相手を人間扱いしないってことはそれくらい、人間をバーサーカーにさせる。おまえら、バーサーカー相手に戦えるの?
相手を人間扱いして相手の心情も思いやっていたら、自分の「だってこわいんだもーん」だけで全面塗りつぶしにはならないよね。仕事で叱る時だって場所と言い方は考えるでしょ?
でもいきなり逃げ出すっていうあれはね、公衆の面前でいきなり相手を侮辱しているようなもんだから。相手が本当の本気で激怒して盲目になったら、あんたら逃げきれないでしょ?戦えないでしょ?
損得から言ってもそのやり口はよくないのよ。じゃあどうすればいいか。
そこはTPOに応じて考えるべきでしょ。例えばさ、時計を見て、「あっ、ドラマもう始まるーいそげー」とか小芝居挟むとか。なんでもいいのよ、相手の怒りを刺激しない方法があるなら。