はてなキーワード: 原初とは
フォンテーヌの世界任務はそれぞれが関連しあっていることが分かるようになっている。
内容も世界観の根幹に関わる、各国の横断的な要素もあって興味深い。
また、これらはメインシナリオが残している謎にも示唆を与えているはず。
不思議な本のページ・12を読んでいた時、突飛な発想が浮かんできた。
これは、諭示機のプロトタイプなのでは?
諭示機の位置は四象限の一角、あるいは鍵である剣の位置だとしたら?
その下はきっと原初の海に接続していて、水に溶けた過去のフォンテーヌ人の意識に接続している――
憶測にすぎないが、諭示機がまるでシビュラシステムのように機能している原理を説明できる。
10ページ目が脱落しているが、ここにルネの結末の核心があるはずだ。
9ページで人間としてのルネは死に、水と融合したが、11ページからの書き手はルネとは同じようで別人のような書きぶりに見える。
これを水に溶けたがゆえの統合意識、あの噴水の声のようなものと解釈することもできるし、やはりルネ的な意志を継いで先導しようとする、結社側の人間のようにも見える。
また、溶けたあとに地上に何らかの形で顕現することが可能なようにも受け取れる書き方になっている。
現時点では「マリアン」に扮した純水精霊と化した水の記憶ソースは、リリスのように思われる。
純水精霊の形を取ることで人間(の記憶)が実体(投影?)を伴って顕現可能なのはヴェルーリヤ・ミラージュや、安眠の地で見てきた通り。
もっと遡れば、テイワットの地下を這っている地脈は過去の記憶の奔流であり、その投影が現れることがあるのは稲妻編以降、度々目にしてきた。
フォンテーヌにおいては、地脈にあたるものがおそらく、海、というかグレート・フォンテーヌ・レイクなのだろう。
海がせり上がり、文明を飲み込んでいくという地域特有の歴史があるのは、だいぶ深刻な現実だが、噂レベルまで矮小化されている仕掛けも気になる。
あと、一般的な湖は下に凸だが、フォンテーヌ全体で見るとそれは上に凸で、その上に文明が築かれているのは壮観ではあるが、それ以上の意味がある。
いや腐営業(腐売・BL売)って言葉がジャニオタで使われるくらいだったから元増田の最初の認識で合ってる
腐女子はマジで日本の原初の闇なんよ(こんなのが子にまともな性教育するわけが無い)
地下やコンカフェに比べたら健全そのものだけど、全通爆買いのガチ恋勢もいるしなぁ・・・
あと、『生きづらいちゃん過ぎて人とまともなコミュニケーションが取れなくて、ジャニーズが唯一の人と繋がるコミュニケーション手段の人』のケースだと、
どっちなのかは不明
あと頑張っている人が好きは世の中によく見られることだから、
大変な状況にある人が、ジャニタレのなんらかのものが刺さって、唯一の心の支えにしているから、都合が悪いことはぜんぶ無視したいというのもあるのかも
増田のお仕事創作記事は気が滅入るレベルで酷い化石が多いけど、
キャバ・スナックなどで働いている水商売やっている人(当事者)の思考のそれらしさ、
風俗嬢(アプリのフリーの立ちんぼも含む) やっている人(当事者)の思考のそれらしさ、
ズバ抜けているだけあるわ
「夫が子供欲しがったから産んだだけ」「子供なんか産まない方がいいぞ」でしかないんだよね。
こんな事言ったらもろ毒親だけど。
だからそういう強制力がなくなった今の若い世代には「セックスなんかしなくていい」「結婚なんかしなくていい」「子供なんか産まなくていい」しか言う事ない
こんなの「正しい」教育ではないが
これは、BS民放やアニメ業界どもに対する怒りと憎しみと悲哀が入り交じった訴えだ。
何でアンタらはもっと早くとらドラをBS無料chに持っていけなかったんだよ!?
近辺3年どころか10年間を見てもあるべきでない悪貨コンテンツが、とらドラよりいい画質ビットレート条件のBS無料放送でたれ流されてきた悲劇が何度あったか?
とらドラが何故放送画質での冷たい待遇を放送業界から受けなきゃいけないのか…
この10年を見てみろよ
ガンスリンガーストラトスもどき、ゴッドイーターアニメ版(意識高いな映像作り込みが裏目に)、
しゃちばと、リアデイル、
いせにど、人間不信、fromTVanimation惑星のさみだれ、
艦これいつ海、おさまけモドキ、
セブンナイツ、Dコードトロイメライ、エクスアームもどき、ジビエート…
これら全部なんだと思う?
BS無料で松竹東急さんより高いビットレートまたはフルHD、4Kサイマルでかつ国民生活不安が今より悪くなる前の放送を得てきた、
とらドラの足元に及ばない存在でしかないくせに。な作品連中だよ。
とらドラだけでなくBS未放送および初放送からインターバルが長い作品はろくに再放送とかして貰えないのおかしくないじゃないか。
クラナドシリーズは2期のBS-TBSでの放送終了から14年3月、
カウボーイビバップはBSアナログWOWOWでの放送終わってから四半世紀、
続く
他にもBS無料局にBS初放送リクエスト出してるのに無視されてる作品色々…
ある時期からBS未放送作品にろくに目を向けず同じ作品の繰り返しになって、観れるの精々サンライズ旧作枠ぐらい、そのサンライズ枠も廃枠されやがった。
BS日テレも20年〜21年にトライナイツ・はてなイリュージョン・ブレイドアンドソウルの頻繁な放送ばっかして
他の良質旧作放送に目を向けてくれなかった。
そしてBS11。
新作すし詰め状態いつか来てBS日テレが容量オーバー分担当するような状態を予期しない上に
21年の春夏秋に視聴者を舐めた安上がりな近辺作再放送ばっかしやがってきた。
神なたシグルリ偽ひぐらし俺100ラスダン裏世界スケートの失望の9ヶ月を超えたら次は何?
アイツこそBS日テレがやれよ。
で春クールになったら空き枠使用が続編前の前作再放送に使われて激萎え(無職転生1、死神坊ちゃん)
で夏クール(今期)は?
続編は1月放送なら10月クールで良かったのにそうしなかったり
こんな他局の不甲斐なさと業界の怠慢な新作作り放題の結果がこのザマ。
とらドラのBS無料初放送は地デジ以下のビットレート数のchという悲劇。
業界は良貨に対して卑しく悪貨を尊んでやがるようになってるとしか思えない。
それにBS機器やケーブル放送持ってないMXエリア圏内はとらドラを羨ましがってんじゃねえよ。
2020年の下半期にハナヤマタとニャル子はさぞ美味しいものだったんじゃん?
あと、私の作品適正属性トップ3はこの数年間(加速したのは近辺1〜2年)で激しく激変しました
必要以上に「ステレオタイプシリアス・鬱イベント」に対して顕在的に怯えるようなことが増えて(のんのんびより製作委員会がテレ東と組んで一期二期は東名阪のみ、それらの再放送をスカパー無料の日に投げ売り、で三期はBSテレ東でサブchで通販やってるせいで2kは地デジ以下の画質だということでの「ステレオタイプシリアスそのものに対する逆恨みからの八つ当たり」でもある)、
恋愛ものに対しても嗜好が変わりました。(男女間恋愛よりも百合のほうが大事)
あとこのすばリゼロオバロ転スラへの庇護も弱くなった、21春以降からの異世界乱発が原因で今の異世界のひとつの原初ポジションへのモチベも下がった。
ついでに、盾の勇者もリゼロもヒプマイもBプロもみんなBS日テレに移籍すればいい、なんてレベルにまでBS11に対する捻れた感情を持つようになって行きましたよ。
つまり今回のとらドラの件で私の業界全体に対する憎しみは大きく一つ増えたことになる。
せっかくのBS初放送が地デジ以下のビットレートのチャンネルの上にウクライナ・ロシア紛争起きてからという遅さだったことから。
「君たちはどう生きるか」感想。
具体的なネタバレはそれほど無いと思うが、作中のかわいい一キャラクターのみ個体言及する。
一言で表すならば、眠りの浅い時に見た夢。
ナウシカ、ラピュタ、トトロ、魔女の宅急便、紅の豚、もののけ姫、ハウル、ポニョ、そして風立ちぬといった宮崎駿歴代作品イメージボードをブンブン振り回されて巡らされた。
呆然とした。
映画が終わった時には、なるほどね、と口から漏れていた。何故広告を打たなかったのか、得心したからだ。むしろ広告が打てなかったと言う方が正しいのではないかと思う。
ストーリーが訳がわからんかったのは別にいいというか、この作品自体が夢みたいなもんだからどうでもいい。
まず引っかかったことの第一、台詞回しが説明的だったのに結構なダメージを受けた。
映像だけで説明できているはずのシーンで重ねて行動の意図を口に出して「今この台詞言う必要あったか?」となったのが、覚えている限り少なくとも二回はあった。
他にも感情の流れの描写がなく、どうにも唐突に結果だけが放られる台詞が多かった。細田守を彷彿とさせる台詞回し。辛かった……
私はキャラクターへの共感については特に必要性を感じない方なのだが、感情の流れだけはしっかり描いてほしいと思っている。その流れがブツブツ途切れていて、最後に繋げたい結論だけを口にさせていて、気持ちが悪かった。
それも意図的なのかもしれないが。
第二にショックだったのは、ワラワラがただ可愛いだけのゆるキャラだったこと。
駿の中にはもうマスコットになりうる「可愛くて、でも不思議な」キャラクターはいないんだなと痛感した。
安直でなんの捻りもない造形には、宮崎駿の原体験や自然の中にある生命の伊吹を感じることができない。そこに「いる」必然性は描かれず、ただ丸く、かわいい、特徴の廃された「マスコットらしいマスコット」でしかない。
子供向けにフックとしてマスコットが要るだろうという「思いやり」もしくはジブリと言えばという商業的要請から出されたキャラクターにしか感じられなかった。
DNA螺旋なことは分かるが、それにしたって安直なデザインには宮崎駿の興味・関心が感じられない。
まあそこは今の宮崎駿にとってはどうでも良かったのだろう。でもシンプルながら風変わりで、動物や幼児の見せる原初の感情や愛嬌を細やかに描いたキャラクター達を愛していたので、個人的にショックが大きかった。
現在の宮崎駿の中で鮮やかに表現されるのは、戦争であってファンタジーではないというのは今作を観て強く感じられた。
最も切実にこちらに訴えかけるのはやはり空襲のシーンであったし、街が燃え、人が炙られ彷徨うシーンだった。
主人公が自らを傷付け、結果二兎を得るが上手いこと加減できず割と深い傷になる小賢しさと迂闊さも少年らしく良かった。
背後に不穏さが漂う陰鬱な現実こそが「今」の宮崎駿なのだろう。現代情勢からも必然だろうとも思う。
私は宮崎駿の、普通エンターテインメントに乗りきらない切実で繊細なものを、エンターテインメントという砂糖をまぶして結実させ、本来のターゲット外の人までより広く世に送り出す手腕にこそ心酔していた。
「風立ちぬ」なんかはその真骨頂で、あんな純文学を大々的にお出ししてきたのは正気ではないと思いつつ狂喜乱舞したし、そこに込められた宮崎駿の諦念を目の当たりにし、これで創作活動を終いとするのは悲しすぎると涙した。庵野が棒すぎて頭に入らないから嫌と内容以外の部分で周りに否定されたのも悲しかった。
結果的に言うと「風立ちぬ」は宮崎駿の終点とはなり得ず、私の望みは叶えられた。
「君たちはどう生きるか」を鑑賞し、ここまでただ狼狽した心情を書いてきたが、今の宮崎駿に非常にショックを受けつつも、なんとなく心穏やかになった部分もある。
宮崎駿作品から既にひりついた表現への欲を感じなくなったのは、それはそれで救いであるとも思う。
そういう意味では、私にとっても「宮崎駿」への餞というか、終活になった。
どんなに作品の底に込めた意味があろうと、こちらに伝えようという意思が感じられない、というか作品を観ながら「伝えたかったもの」を考える余地がある、物語に没入できない時点で出来の悪い作品と考えているので、作品単体で言うと★1なのだが、監督が宮崎駿ということを加味すると★3になってしまう。
「君たちはどう生きるか」を宮崎駿ではなく、例えば米林宏昌あたりが作っていたら私は激怒し、オマージュを大義名分にジブリブランドを体良く利用して棄損するなと気炎吐き散らして暴れ回っていただろうが、宮崎駿ならばこれを作る権利がある。
去年ご店主夫婦が高齢でとうとう閉店したインベーダーゲームがテーブルになってるような近所の喫茶店に、子どもの頃たまに母に連れられて行ってた
そのお店の壁一面の白い本棚に「ぼくとフリオと校庭で」が置いてあって、多分小学生のときに気になってそれを手にとったんだよね
表紙の絵とタイトルが妙に心に残ってて、増田は若いからわかんないと思うけど山崎まさよしの「僕と不良と校庭で」って曲があって、あれを聴いたときにそのときの記憶がばーって蘇ってきてあれなんか似てる、でも変なタイトルじゃん?そんなもの本当にあったかなと思って検索したらサジェストで出てきたので驚いた
でもなんか夢みたいな記憶だから念のためその喫茶店に本当にあったか確かめに行った、もう19か20だったから今度はひとりで
そしたら年数分古びてるだろう同じその本がちゃんとあったのでまた妙な感慨を味わった、よっぽど印象的な本のたたずまいだったんだなって思った
よく見ると他の短編集とかもあって、普段は端正な松花堂弁当とか出してる喫茶店のご店主夫婦のどちらかが、あるいは二人共がこの変わった感じの作品たちが大好きなんやな……と思って不思議な気持ちになった
隣に整体があって、そのしばらくあとからその整体へ腰を手術したあとの祖母が通うようになったので付き添いで待ってる間私もしばらくその店に通うようになった
その店の諸星作品読みながらリプトンの出過ぎた紅茶と業務用ケーキを食べつつ待ってた思い出この増田みてまためちゃくちゃ鮮明によみがえってきたわ
以降自分で買い集めて諸星作品読むようになったけど、私は結局とっつきやすい栞と紙魚子シリーズが一番好き
私家版魚類図譜みたいなのもいいけどね、栞と紙魚子はいつでも繰り返し気楽に読める
ただこれもなんか大昔に読んだ記憶があって不思議なんだよね…紙魚子のこと知ってて幼稚園くらいのときにすごく好きだった気持ちがあったような気がするけどその頃まだ上梓されていない…
「子供や家族連れで賑わう公園が突然の閉鎖。そのきっかけは、子供の声がうるさいという近隣住民からのクレームだった」
そんなニュースを聞いてあなたはどう思う?
――そいつは何て心の狭いやつなんだ!せっかくの遊び場を、どうせ使いもしない奴が文句言いやがって!
――死にゆく老人がこれからを担う子供の遊び場を奪うな!
そう感じるだろう?俺も同感だ
子供はしっかり外で走り回り、きゃっきゃと声を上げ、草や土を掴み、全力で遊ぶのが何よりだ。本当に心からそう思う。
だが、そんな俺も公園を管理する市に対してクレームを入れたことのある1人なんだ。勿論、騒音について。
つまり傍から見れば、俺は「公園で大きな声を上げて遊ぶ子供を愛しながら許容しない」不思議な存在だということになる。
日本各地にあるこの問題、まず確実に言えることがある。
「公園クレーマーと非公園クレーマーが見ている公園の姿は違う」。
そして、「現状、公園クレーマーたちはクレームを上手に世間に伝えられていない」。
次に、これを読んでいるあなたが「公園クレーマーってちょっとオカシイよね」と思っていることを前提に、以下の事実を列挙したい。
・公園クレーマーは必ずしも子供の声が無条件に嫌いな偏屈ジジイではない。
・非公園クレーマーが公園クレーマー化するのは、一部の非常識な利用者のせいである。
・非常識な利用者だけを除外する仕組みを、行政は持ち合わせていない。よって、公園クレーマーは全ての利用者を敵視するしかなくなる。
・公園クレーマーは、クレームをつける行為に負い目がある。
さて、じゃあ早速冒頭の文章をニュース原稿だとして、続きを想像してみよう。
――子供や家族連れで賑わう公園が突然の閉鎖。そのきっかけは、子供の声がうるさいという近隣住民からのクレームだった。
とすれば、次に来るのは男性ナレーションの低音ボイスであえて野暮ったく読み上げられる次の語句だ。
――「子供の声が、うるさい」
その次は行政の記者会見のシーン。
――「近隣の方との話し合いを続けてまいりましたが、双方の納得には至らず、やむを得ず閉鎖の判断を致しました」
で、そこからが問題だ。恐らくここで、普段の公園の様子か、或いはイメージ映像などで、元気よく遊ぶ小さな子供たちが映し出されることになる。
――「家族連れで賑わう平和な公園で、何が?」
これが大問題なんだ。
少なくとも俺は、こうした元気よく遊ぶ小学生、保育園児、幼稚園児は、好きなんだ!癒される!
きゃっきゃきゃっきゃと楽しそうにおいかけっこをして、たまにミ゛ャー!と寄声を発して、あーあーと泣き出して、しばらくすれば何でもなかったかのようにまたギャーギャーと走り回って…
心から平和を感じるんだ。
精一杯走りたまえ。あーあー、転んじゃって。大丈夫?
俺はこれを、うるさいとは思ってはいないんだ。
じゃあ、「子供の声がうるさい」と言ったクレーマーの気持ちはなんなんだ?
俺はそのクレーマーの気持ちを理解しようと努めることができる。恐らくその人も、最初からそれがダメだったわけではないんだ。「ダメになった」んだ。
(一応補足しておくが、この日記では「俺」と「公園クレーマー」という主語をほぼ同一として扱う。いわゆる「主語がでかい」状態だが、便宜上許して欲しい)
俺が公園クレーマーになった原初のきっかけは、とある夜のことだった。
当然すぎて端折っていたが、俺の家の目の前には公園がある。住所はとりあえず北関東ということでボカさせてほしい。
大きくはないが、追いかけっこは勿論、キャッチボールやフットサルくらいなら十分できる広さがある。
2階の窓からすぐ見下ろせるところにベンチがある。そこに、夜な夜な中学生か高校生くらいの男子連中がたむろし、談笑しながらボール遊びをするようになった。
変声期を終えた男子の声は、かなり通る。そして、ボール遊びの中でもとりわけサッカーボールを蹴る音というのも、実はかなーり、通る。
少なくとも俺の家の窓は全く防音性という面で貢献しなかった。
ボン、ボン。ギャハハ。ボン。ボス。ギャハハ。ボン。
不規則なリズムで、しかし短い間隔でリビングに響くその音を聞いていると、30分も経たないうちにまるで面白半分に自分の頭を蹴られているような気分になり、怒りが湧いてくる。
ここで、自明の事実を書く。
こうしたたむろ連中は、必ずしも「迷惑をかけるつもりで」やってはいない。
彼らは、「自分達の発している音が、目の前の家の中にまで達していることを想像できない」のである。
壁を隔てた向こうに、自分たちの存在が察知されていることを知らないのである。
これは誰しもが陥りがちなことであるが、どうも人間と言うのは「見えていないならば聞こえていない」と認識しがちである。
自分から見て、近くの家の中など当然透視はできない。ならば聴覚も届かぬ場所であると錯覚するのだ。
要は、「想像できないことは認知できない」のである。
結局その日は警察を呼び、お帰り願った。(夜9時台だったので世間一般的にも迷惑案件だと判断した)
翌朝、その場所にはペットボトルやカップ麺などの大量のゴミが散乱していた。
夜の騒音はその日で終わらなかった。
ここでのポイントは、「同じ連中が毎晩たむろしに来るわけではない」ことである。
とにかく色んな人が来る。
金もなく公園に行くしかないカップル。
夜しか時間が取れないのであろう、子供を引き連れてバッティング指南をするおっさん。
花火をしに来た家族連れ。
先程の件と別の男子学生グループは幾つもいた。
中には缶チューハイで酒盛りする中学生男女グループというのもいた。世の中的に見れば全く珍しくもない、可愛い非行の一種だが、目の前で見せつけられるのはさすがに弱った。
そしていずれの人達も、当人らが思っている以上にその声や動作音は聞こえてきた。
中にはTikTokの流行りの動画を大音量で流す奴もいた。
ただ、それですら、彼らはこちらのことを認識していないのである。
単に「流行りの音楽を好きな音量で鳴らす俺」という環境を欲しているのであり、それが他者に聞こえているとは思っていないか、考えたこともない。
彼らにとって俺の家は書き割りの背景と同じなのである。
そのうち、夜に公園に来るすべての人間がバカに思えてくるようになった。
先ほど書いた通り、「自分の出した音がどのくらい遠くまで聞こえているか」「それが思いもよらぬ誰かの耳に届いているか」というのは「想像力」の話である。
なので、彼らは「想像力の無いバカ達」だということになる。
一方こちらは常に公園の音が耳に入ってくる。
自分の感知エリアの中に公共の場があるのだ。自分の感知エリアの中にバカが入り込んでくる可能性が常時あるのだ!
これは結構大変なことで、つまり自分自身が「公園の24時間警備システム化」してしまったのである。
これは良くないと思い、市に電話を入れた。
クレームではない。「夜間の大声やボール遊びを禁じる看板を立てられないか」という要望としてだ。
「あくまで自分は要望のつもりだったんですがねえ」と言い訳したいのではなく、あらゆる体裁において実際要望として伝えた。
いわゆる公園クレーマーとしての立場になりたいわけではないし、日中の利用のマナーは良く感じているというようなこともできるだけ言った。
結果、1週間内には夜間早朝のボール遊びや集会、騒音を立てる行為はご遠慮ください、といった旨の即席看板が立った。
この看板にはある程度の効果があった。
ありがたいことに地域の全体的な民度は低くなく、夜の利用者がこの看板を見て「もう1個の広い公園行こうか」などと発言する様子も見られた。
だが、それでも無視する者も少なくなかった。
そして、俺ももう手遅れだった。
警備システム化した神経は、最早日中の音ですら気になるようになってしまったのだ。
常時テレワークであるため、在宅せざるを得ない中、ボールを蹴る音や子供の騒ぎ立てる音が聞こえる。
いや、それでもやはり冒頭書いたような、「小さな、天使のように朗らかな子供たちの駆ける音」は何の問題もなかった。
中高生男子の声とサッカーボールの音が、いかにもたむろ連中を想起してしまい、聞くだけで頭痛がするようになった。
大半の少年たちは育ちが良く、騒ぎ立てはするものの、辺りが暗くなればささっと帰ってくれる。
だが恐ろしいことに、「そもそもいること」が許せなくなった。夕陽が沈みかけ、薄暗くなったあたりで「早く帰れ早く帰れ」と念じるようになった。
そして――どうにかベンチを撤去出来ないか?一部の区画だけでも閉鎖できないか?
いつしか「クレーム」を入れるようになったのだ。
ここで、非公園クレーマーであろうあなた方に問いたい。
あなたが想像する公園クレーマーが「子供の声がうるさい」と言った時、あなたが想像する声の主はどんな姿だろうか?
小学生や、幼児たちを想像していないだろうか?
そのうえで「まさかこんな子供たちを排除するなんて!」と憤っていないだろうか?
また、「勝手に昼間で想像している」のではないだろうか?
違うのだ。
もう少し上の年齢の、「自我が目覚め、夜遊びもしたい、生意気盛りの子供たち」なのだ。
そして、俺には今自宅の目の前にいる利用者が「良い利用者」なのか「悪い利用者」なのか判別がつかない。
全ての音を拾うしかないのだ。
そうなれば俺が言うことはただひとつ、「子供の声がうるさいんだ」である。
しかしその言葉から逆引きされる「子供」とこちらのいう「子供」には隔たりがあるし、経緯はいっさい伝わらない。
さて、そろそろあなたには幾つかの疑問、というより「ツッコミ」が生じていることだろう。
――引っ越せばいいのでは?
――家の防音性能を上げればいいのでは?
――イヤホンとか耳栓でなんとかならない?
――他の住民が気にしてないなら気にし過ぎなのでは?
引っ越しはそう簡単にできるものではない。膨大なローンが残っているし、自分ひとりの問題ではなく家族を巻き込んだ話になる。
窓を増設するという手がある。しかしこれも公園に面した各窓に処置するだけで100万円はカタい。マインクラフトみたいに素材があればポンと設置できるものではない。
イヤホンや耳栓というのは応急処置として有効である。しかし「自分の家で行動を制限される」ストレスの方が強い。なぜ自分の家で、家族との会話もシャットアウトし外界の音に我慢させられているのか、ということになる。
それに、これはまた派生的な「症状」なのだが、俺のようになると音だけでなく「窓を開けたら人がいる」という状況ですら悩みの対象になるのだ。目の前のバカがいつバカをやり出すかわからない恐怖が発生してしまうのだ。
大体、「夜間の集会はご遠慮ください」という看板がある状況で集まっている時点でそいつはルールを自己都合で無視できる人間なのは確定しているのである。
そんな奴が自宅から10m強先にいること自体がストレスになってくるのだ。
そして最後。
ここがまた、公園クレーマーと非公園クレーマーの隔たりの原因である。
公園クレーマーとは、恥ずかしいものなのだ。
だって、公園は良いものである、という世間の認識があるのだから。
そして既に、公園にクレームを入れるのは「わからずやの偏屈ジジイ」だとする一般通念があるのだから。
俺だって、もし街を歩いていてテレビの取材にあたり、「公園にクレームを入れるのってどう思いますか?」と聞かれたら、
「ウフ、うん、まあその、公園って子供たちがねえ、元気よく遊び回る場所だからねえ、その、それをねえ…」
などと口ごもるだろう。
「アッ、こいつ公園クレーマーの仲間だぞ!」と思われたくないので。
恐らくだが、インタビューで公園の騒音を肯定的に捉えている人の中にも、「実は参ってるんだけどね…」という人がいる可能性はゼロではないと思う。
こうして、公園クレーマーの印象は「誰にも理解できないキチ○イ」へとどんどん先鋭化されていく。
とはいえ、この日記では解決策を示して欲しいわけではない。
あくまで公園クレーマーとは何なのかを公園クレーマーの立場から書いているだけである。
ということで長くなったが、それでも、俺のような公園クレーマーに対して「偏屈」「気にし過ぎ」と感じる人は多いだろう。
それはそれで問題ない。何せ事実、神経過敏になっている。
最早俺は、バカが来て騒音を出すのがダメなのではなく「常にバカが来て騒音を出す可能性がある」ことがダメになっている。
もしかすると、今はまだ俺が愛おしく思っている小さな子供たちすら、今後は煩わしくなっていくのかもしれない。
そうなれば、次にニュースに登場し、世間から罵られるのは俺ということになるだろう。
だが、非クレーマーたる皆さんには、少しだけ想像をしてもらえないだろうか。
あなたがイメージする「公園」「公園の騒音」は、クレーマーの思うそれとは時間帯も対象人物も在り方も違っていないだろうか。
また、あなたは公園の目の前には住んでいないのではないだろうか。
ならば、「自分が自宅に居ながら公共の場の音を感知する警備システム化する」という感覚を知らないはずである。
何も公園クレーマーを理解しろとは言わない。
ご推察の通り、精神疾患的な症状は少なからずあるので、そこを含めて理解しろというのは傲慢であろう。
ただ、公園の騒音という社会問題について何か語ろうと言う時、少しだけ、想像をしてほしいのである。
最後に余談として。
あなた方が考えるツッコミにはもう一例あると思う。
――自分が若い時もやんちゃしたのに、今の若い子のそれは許せないの?
これはこれでデカいテーマなので書くなら別の日記として書くべきだろうことだが、正直に言えば「許せない」が「心の慰めにはなっている」という程度だろうか。
俺も学生のころ、男子連中で友人の家に寝泊まりし、近くの公園でバカ騒ぎした記憶がある。
下校時に彼女を連れ立って、公園の木の陰でいい思いをしたこともある。
迷惑をかけたし、その近隣の住民に我慢を強いたうえで「仕方なく許された」のが今の俺であることは解る。
実際それらは個人的には「いい思い出」として処理されているし、懐かしく思うこともある。
だが、「ならば自分も許そう」はそもそも道理でない。単に個人の思想の一種でしかない。
あえて極端な例を言えば、過去にゲーム感覚で万引きをした経験のあるヤンチャ坊主が成長して小売店の店長になったとして、自分の店の万引き犯に対して「でも自分もやったことだしなあ」と許せるかという話である。
学生の頃イジメを働いた人間が社会人になって会社でイジメられて「でも俺もイジメっ子だったしなあ」となるかという話である。
そういう因果律で人生を捉える人がいてもいいが、それがイコール正しい考え方ではない。
余った炭は埋めろ。
燃やし尽くすな。
わざわざ大気中のCO2を植物が固定化してできた木材を、これまたエネルギーをかけて(加熱により炭化させて)微生物に分解されない炭にしたのに、必要もないのに燃やして熱を発生させて(温暖化に寄与して)CO2をも発生させる(さらに温暖化に寄与する)なんて愚かすぎるだろ。
還すな!
地球が誕生したばかりの頃は大気のほとんどが二酸化炭素だったけど、その頃にまで還したいのか?
原初の地球には大気中の酸素も石炭資源もなかったけれども、何億年もの悠久の時を隔てて、二酸化炭素として存在する大気中の炭素原子を植物が固定化したことにより、酸素の豊富な大気と石炭資源に満ちあふれた今現在の地球があるんだぞ。
炭を燃やし尽くした未来にあるのは、大気中の酸素の消失とそれによる全ての動物の死滅により、本当に原初の地球へと還っていくことだ。
一方で余った炭を埋めることは、大気中の酸素の低減を防ぐだけでなく、将来にわたって資源を温存することにつながる。
たとえ人類が滅びてしまったとしても、その後に誕生する知的生命体が用いる資源として残るのだ。
だから、バーベキューで炭が余ったとしても絶対に燃やし尽くすんじゃないぞ。
火が必要なくなったら、すぐに消せ。
そして炭を残せ。
燃やし尽くせば一見して何もなくなって綺麗に見えるけど、二酸化炭素として地球全体にバラまかれるだけだ。
キャンプの管理者や利用者は見た目だけを気にして炭を燃やし尽くすように主張しているけど、何億年・何十億年という長いスパンで考えたら炭は残した方がいいに決まってる。
近所のメガドンキで9がつく日は肉の日デーで100g238円で厚さ5cmくらいのステーキが売ってるんだけど
だいたい600gスタートくらいなのね
んで買って帰って焼いて食べるんだけど、大体いつも400gくらい食ったところで「多すぎる……」ってなる
ただ、俺がそのステーキを買うのはもう純粋に「とにかくクソデカい肉を腹いっぱい食いたい」という
原初の衝動に駆られてのことなので200gくらい切り分けておいてと、かやるのもなって考えて
毎回ちょっとだけ後悔する
でも次の9がつく日にはそんなこともケロっと忘れて