はてなキーワード: 信号とは
前作のキャスト卒業から荒れるに荒れて、キャストの急病によって公演中止にもなり、一時はどうなるかと思いましたが、千穐楽を迎えられたのは安心した。良かった。
周りの人達も満足してる人が多いし、勧める人も多かった。リピチケ買いに走った人も知ってるし理解できる。今作は良かったんだと思う。世間的には。
そう思うから、千穐楽までなかなか言えなかったけれど、私の言葉で誰かが観るのをやめたりしてほしくなかったから黙ってたけれど、私は不満でいっぱいだ。ずっと言えなかったから、終わった今全部言う。
前置きとして、私はライブビューイングもディレイ配信もまだ観ていない。
現地で観た記憶だけで話すので記憶違い、または公演中に改善されたところがあるとしたなら申し訳ない。もしそうだったらディレイ配信を買おうと思う。でもそうでないのなら悩む。なぜなら不満だらけだからだ。
特に、私があんスタで一番好きと言っても過言ではない、英智が良い話と悪い話を持ってくるシーン。
みか「んあ〜。良い話のほうがええなぁ、悪い話はドキッとするから聞きたくあらへんわぁ?」
宗「影片は喋るな」
というやり取りの後に、原作だと
英智「まずは良い話から聞かせてあげる、繊細な君にいきなりショックを与えたら死にかねないし♪」
宗「おおきなお世話なのだよ。僕は繊細なのではなく、君たちが鈍感すぎるだけだろう」
英智「そうかい?そこまで言うなら、君が強い人間であると信頼して悪い話から聞かせてあげようかな」
と、宗を煽り反発させ、悪い話から話す方向に誘導するのである。英智の話術の巧みさが光るシーンである。
しかし舞台だと、その煽り無しに突然英智が「『Valkyrie』を解散させてはどうか、という意見がある」という話を出すのである。
みかが良い話から聞きたいって言っているのに、何故か悪い話から話し始めるのである。
えっこれが良い話?全然良い話じゃないじゃん。悪い話じゃん。
そして要のRa*bits解散の話で「これが『良い話』だよ斎宮くん。」って言ってくるのである。
えっ?良い話と悪い話どっちから聞きたいか聞いておいて、結局悪い話を先にしてから良い話をするんじゃんか。なんでやねん。舞台の英智はアホか?
兎のミートパイの話をする英智は期待以上に恐ろしかった。公演を増すごとに恐ろしさが際立ってた。キャストはすごい。しかし脚本はクソであった。
みか「あんたが、お師さんの何を知ってるっていうん?」
英智「生殺しだよ」
思わずここでえっ?って思った。会話が噛み合っていない。
原作だと「知らないから、探っているのだけど。まだまだ味わい足りないからねぇ、『Valkyrie』を……。生殺しだよ、いいかげん我慢も限界なんだよね」である。
舞台にする上で原作の台詞をカットしなければいけないのは分かる。わかるけど、これを縮めて「生殺しだよ」だけになる?なぜそこを切り取った?私がここを縮めるのなら「知らないから、探っているのだけど。」だけにする。この拙いブログを書いてる私ですらそれぐらいの日本語はわかる。
だから何度見ても地下ライブハウスのシーンは理解できなかった。原作で一番好きなシーンなのに、舞台では英智が馬鹿なだけのシーンになっていた。許せない。キャストの演技は良かっただけに、台詞の訳分からなさがとてももったいない。原作で私が一番好きなシーンだからそう思うだけなのか?私の思い入れが強いだけなのか?
そして、圧倒的な桃李と弓弦の出番の無さにも落胆した。 原作の「天の川にかける思い」での2人の見せ場が全くないうえ、私でも覚えられる台詞量しかない。
JOKは王の騎行だけ、MoMはマリオネット、天の川にかける思い、願いの七夕祭という3作を詰めているからどうしてもカット部分が多くなるのは仕方ないのかもしれない。
しかし通うにつれて、キャストの演技力が足りないからでは?と疑い始めた。疑いたくなかった。前キャストと新キャストを比べたくない。しかし比べてしまった。前任の2人なら、もっと出番があったのかなと思ってしまった。もし卒業しなければの話なんて存在しないし考えるだけ無駄だけれども、何度も考えてしまった。どうして桃李と弓弦の出番がこんなにも減らされなきゃいけなかったんだ。
そして、その悲しみはtryst of starsを観るたびに増していった。新しい桃李と弓弦の歌声を聞くたびにどんどん悲しくなった。
正直、前の桃李も歌は上手くないと思う。でも今では、あの子が歌った「歌が消え去っても忘れないだろう」が恋しい。歌は上手くはないけれど、感情の込めかたは上手かったなと寂しくなった。新しい桃李と弓弦の感情のこもってないボーカロイド声よりはよっぽど良かった。
でも、新しい弓弦の踊りはフェスより良くなっていたからきっと伸び代はあるのだろう。そうと思わないと、この悲しみは紛らわせない。
新しい桃李のことも許せなかったけれど、客降りでfineのうちわを振っていたら嬉しそうにハイタッチしてくれてから好きになってしまった。あまりにも自分がちょろくて泣けてきた。好きだけど、許せないのだ。好きだけど許せないから、頑張ってほしい。もし次に桃李が出たとき、あのままだとしたら一生許せなくなってしまうから、どうか私が許せるぐらいまで、努力したしてほしい。
そして神崎。炎上した時点で、キャラクターに泥を塗った時点で、私は論外だと思ってはいるのだけれど、それはこの場では置いておく。
でもパフォーマンスで太鼓に腰かけたときは驚いた。ギョッとした。これは神崎じゃなくても、キャストが誰でも思ったことだと思う。
例えるなら、赤信号を渡ってる人を見たときの感覚に近い。本人はもちろん、それを指摘しない演出家やスタッフ、周りの人にも疑問を抱いた。
太鼓については他の人も指摘しているだろうからさておき、もう一つ気になったのは「お見事である、蓮巳殿!たいへんお達者な、そのう、ばきゅ〜んであった……!」のシーン。途中から吹き出すように笑う神崎。
ここは蓮巳殿が普段しないファンサービスを行なったのを見て、どう反応すれば良いか分からず、うまく言葉にできない状態で蓮巳殿を慰めたのであって、真面目にファンサービスをして恥ずかしい思いをしている蓮巳殿のことを、神崎は面白おかしいとは感じないと思う。客席からもつられて笑いが起こっていたし、盛り上げるのならそういう言い方もアリなのかもしれないが、私はどうしてもその神崎が引っかかった。
ここまで文句ばかり述べてしまったが、Valkyrieのパフォーマンスの凄さは本当に感動した。聖少年遊戯が始まって10秒で魅了されたと言っても過言ではない。
だからこそ、どうしてもfineと紅月のパフォーマンスが気になってしまうのだ。学院最強ユニットと学院No.2。その実力は、伊達じゃなはず。そのはずが、観に行った人たちは、『Valkyrieのパフォーマンスがすごい』と口を揃える。
桃李と弓弦の話のときにも言ったが、前キャストと新キャストを比べたくなかった。でも、もし前キャストだったら、と思ってしまった。
もちろん前キャストのままだろうが、『Valkyrieのパフォーマンスがすごい』という感想ばかりになっているかもしれない。それぐらいValkyrieはすごかった。
でもどうしても思い返してしまうのだ。前のキャストが卒業する前に、「fineと紅月のパフォーマンスが好き」「原作だと違うユニット推しているけれど、あんステはfineと紅月が好きだ」と言っていた人たちを。卒業したから余計そう言ってくれる人たちが多かっただけなのかもしれないけれど、でも私の周りには、少なからずいたのだ。でも今作では、英智の演技が好き、怖くて好き、と言ってくれる人は多いけれど、fineのパフォーマンスが好き、紅月のパフォーマンスが好きとは誰も言ってくれなかった。
新しいfineも新しい紅月も頑張ってくれているのは分かる。でも、前の英智や渉の歌声があれば、前の紅月の3人の動きが今作にあれば、Valkyrieに匹敵したのではないかと、頭を過ってしまった。新しいキャストには、何も罪がないのに。経験が浅いのに突然大舞台に放り込まれ、あの短い稽古時間で、前キャストが約2年で積み上げてきたパフォーマンスしろって言われたって無茶だ。
原作ではfineと紅月が好きだから、fineと紅月が最強だと思っていた。でも負けを認めざるを得なかった。だからValkyrieがすごい!という感想が流れてくるたびに悲しくなる。本当はfineは学院最強なのに。紅月はNo.2なのに。舞台でもfineが勝利する結末だけれども、なんの説得力もない。
Valkyrieが好きな人たちが羨ましい。疑いようもなく、返り咲いて夢ノ咲の帝王の地位を取り戻せたのだから。原作では返礼祭の頃まで紆余曲折しているのに、舞台では崩壊から一年も経たずに疑いようもなく復活している。
脚本は日本語が通ってない、好きなキャラは出番がほとんどない、好きなユニットは最強じゃなくなっている。
なのに世間では良い舞台だったと持て囃されている。私はあんステMoMを許せない。好きだけど、許せない。許させてほしかった。でもずっとこのモヤモヤを抱えてしまっている。
敬語の尊敬、謙譲はセットなのでどちらか欠けてると、俺尊重されてないんだなーと嫌な気持ちや違和感を覚える心理が働くと思う。
そういうのを常識ってルールで規定しているに過ぎないので、変に自分ルールで突き進むと自分は正義と思っていても敵作るんだよね。
風呂を出て、替えのパンツがないことに気付いたときにはもう遅かった。何日もためた下着はすべて、洗濯機の中で回っていた。
パンツがない。それはおれの35年の人生で初めてのことだった。潔癖症のおれは家の外はおろか、家の中でもパンツなしにズボンを履くなど堪えられない。舌打ちをした。コンビニに行けば買えるだろうが、どうせ朝になれば生乾きくらいにはなっているだろう。たった数時間のために金を無駄にするなど主義に反する。
運の悪いことに風呂に入る直前、レンタルDVDの返却期限が今日だったことに気付いてしまった。歩いて10分のところにあるその店舗に行くのが、今日はたまらなく億劫だった。なにせノーパンで外をうろつかなければならないのだ。下手をすれば逮捕されてもおかしくない。
何の因果で、と苛立ちながらいつものジーンズを履く。股間が擦れる初めての感触は思いの外悪くないが、ドアを開けた途端、ただ布一枚減っただけの股間は猛烈な寒気に晒される。さっきした小便の残りがいままた数滴流れ出たような気がする。何の因果で、とおれはまた呟く。
少し歩けばすぐ人通りの多い繁華街だ。いつもおれはこの道を無表情に歩く。会社からの行き帰りも、休日に遊びに出るときも、この道を通らないことはない。ときどき、歩いているおれを人はどんな目で見るだろうと思う。おまえの無表情は怖いから、笑顔でいた方がいい。会社の上司にそう言われたことがある。そのときは余計なお世話だと思ったが、あれから何年も経っているのにいまだに童貞を捨てていないということは、上司が正しかったということなのだろう。おれの無表情は怖すぎる。誰からも好かれることはない。頬や口角を上げたりして、どうにか柔和な表情になろうと努めもするのだが、気が付くとまたいつもの硬直した顔になる。
ふと感じた股間のあまりの寒さに、もしやチャックを閉め忘れたのではと不安になる。信号待ちのときに下を向き、たしかめてみるとちゃんと閉まっていた。安心すると同時に、パンツがないと股間がずいぶん盛り上がるのだなあ、と驚く。おれは決して自慢できるようなものは持っていないが、ジーンズに浮き出る形はまさにそのもので、これほどはっきり出ていたら他の人もおれがノーパンということに気付くんじゃないかとまた心配になり、周りを見回す。だが誰もおれの股間を凝視する奴などいない。
信号が青になり、人々が歩き始める。おれはつい笑ってしまった。おれはこの繁華街を、ノーパンで歩いているのだ。なのに誰もそれに気付かない。「選ばれてあることの恍惚と不安」という言葉がふと頭をよぎった。誰に選ばれているのかわからないが、おれは幸福だった。いつもはこわばった無表情で歩いているこの道で、おれは隠しようのないほどの笑顔を浮かべていた。それは傍から見れば単なる精神異常者か、卑猥なことを思い出しているエロ中年でしかなかったかもしれない。だがおれにはそのとき、ただの無関係な他人である通りすがりの人すら愛おしく思えた。何年も過ごしてきたこの徒歩10分の世界と、初めて調和できたような気がした。十代の頃から、心からの幸福を味わうのは愛する人と結ばれたときだろうと思っていた。だが違った。おれに必要なのは女の前でパンツを脱ぐことではなく、大衆の前でパンツを脱ぐことだったのだ。
DVDを返し、帰宅した。もちろんベランダのパンツは濡れたままだった。
ノーパンなんて考えられない。三十分前までのおれはそう思っていた。だがいまはもう、明日が朝から晴れることを願う気持ちはなくなっていた。
もしあなたが街で、電車の中で、それともオフィスの中で、場違いな笑顔を浮かべている中年男を目にしても、どうか不審には思わないでほしい。
高校生のころときメモのガールズサイドが流行って、自分はやらなかったけど友人がプレイしてる様を見てた。
その中にチャリに乗る時手信号してヘルメット被ってる男キャラが居たわけ。
ダッッッサかったので話題になった。そいつは手信号というあだ名になった。
それから数年後今、車に乗るようになったんだけど、
今迄2件ぐらいしか目撃してないけど、左折するか右折するかわかるんだよ!!
ついでにヘルメットも被ってほしい。チャリ、轢いたら死ぬから。
ヘルメット被ってるバイクだって轢いたら死ぬんだからチャリも被っていい。
実際自分がチャリ乗る時手信号するのスゲー難しい。手信号してる人偉い。
そういう訳で数年越しにアイツめっちゃいい男だったんだなと思った。惚れた。
ツクヒは普段から不機嫌が服を歩いているような人間だったが、この日は特に虫の居所が悪かったようだ。
体調が完全に回復していないのだろうか。
それとも昨日は寝入りが悪かったのか、はたまた寝起きの低血圧か。
朝食を食べ損ねたからなのか、朝の占い番組の結果がダメだったのか、エレベーターが中々こなかったからなのか、通学路の信号で尽く足止めをくらったからなのか、気温がいつもより低めだったからなのか、湿度が高かったからなのか、変なところで足をつまづいたからなのか、苦手な先生が話しかけてきたからなのか。
結局のところ理由は分からないけれど、当の本人すらよく分かっていないんだから、俺に分かるはずもない。
でも分かっていることだってある。
何かを指摘して、それが結果的に合っていても間違っていても、火に油を注ぐ可能性がある。
「どうしたの? 随分とイライラしているね。食生活が偏っているんじゃない?」
対立は決定的となった。
「御託は結構」
ツクヒは、ペットボトルの飲み口部分を握り締め、既に臨戦態勢だ。
俺たちはそれを止めようとはしない。
いま、あの場にいるのはツクヒじゃなくて、俺たちの誰かだったかもしれないのだから。
「ブリー君。どうしても断る理由があるのならいいけど、ないのなら受けて立った方がいい」
「ブリー君には自覚がないようだけど、これは必然的な戦いなんだ」
「もう、分かったよ。やればいいんでしょ。でも、何でペットボトル……」
気圧されたブリー君は、渋々といった感じでペットボトルを握り締める。
このペットボトルを武器にして戦う慣習は、学校の生徒たちによって作られた。
なぜこんな方法が生まれたかというと、「怪我をしにくいため」。
そして何より「子供のケンカに大人がしゃしゃり出てこないようにするため」だ。
だけど、これは両方とも大人の言い分だ。
お年玉と一緒さ。
身勝手な大人は、その“お年玉”を子供たちが与り知らぬところで使う。
そんな状態で、もうどうにも止まらないことが起きた時、子供だけの社会で何ができる?
大人たちが毎日どこかでやっていることより、遥かに平和的なケンカだ。
なのに、出しゃばりな大人たちは大きく騒ぎ立てるんだからバカげている。
同じ人間として扱っているようで、内心では子供たちを見下しているんだ。
だから、違うレイヤーに平然と土足で入り込み、その干渉が正しいとすら思っている。
そんな大人たちに、俺たち子供の世界を侵略されるのはゴメンだ。
そうして当時の子供たちは、子供たちによる子供たちのためのルールを自然と作っていった。
それは時代によって形を変えつつも、今なお残り続けている。
このペットボトルによる戦いも、その一つってわけだ。
そして今、その火蓋は切られた。
「おい、ブリーどうした! 腰が入ってないぞ!」
「いや、だって、ぼくはこれ初めてだし」
「ビギナーであることを言い訳にするな。オレはこの容姿のせいで、10戦10敗だ」
「それ、きみが弱いだけじゃ……うっ、脇はやめて」
今回使われていたペットボトルは、エコタイプだったので柔らかめ。
しかも、二人とも運動神経がよくないから、勝負の内容は凄まじく泥臭かった。
「さっきからお前は、口だけか!」
「ぐっ……ぼくは間違ったことを言ってない」
「“間違ったことを言ってないだけ”だ! お前はそれをウィルスのようにバラ撒く! だからみんな近づきたくないのだ!」
それでも俺たちは見入った。
ツクヒがブリー君に投げかける言葉、振り下ろされるポリエチレンテレフタラートによる一撃。
それらは、いつか誰かが実行していたに違いない。
それがツクヒだったというだけだ。
「オレはまだまだギブアップしないぞ!」
「こっちだって!」
ブリー君も雰囲気にあてられて、ペットボトルの振りが本格的になってきた。
「いいぞーやれー!」
「チャイムが鳴るのはまだ先だ! 頑張れー!」
ドッジボールをしていたときよりもエキサイトする、とても自由で豊かな感覚だ。
「あなたたち! 今すぐにやめなさい!」
だけど、終わりは突然だった。
俺たちによる俺たちのための闘争は、より力のある人間によって簡単に介入され、無理やり組み伏せられる。
それをしたのがルビイ先生だとは思ってもみなかったけど。
久しぶりにコナンの映画を見てみたら、安室透がスマートフォンのタッチパネルで爆弾の起爆スイッチを押していた。極めて慎重にセッティングされた爆弾を、緊張の面持ちで、つめたいガラスの画面に親指を軽く押しつけていた。
軽くタッチパネルの硝子に触れただけで、その爆弾はスマートフォンから送られた着信を受信し、爆発したのである。
この文章を読んで何がなんだか分からない方は2018年に公開された『ゼロの執行人』をレンタルかBDを購入して観て頂くとして、ともかく、その起爆スイッチを押すシーンというのは、私の中ではこの映画の中では三本指に数えられるほどに印象的なシーンだった。
もちろん、20年も前に始まった漫画のキャラクターがスマートフォンを使っている事に驚いているわけではない。最近原作を一から読んでいるけれど、巻が進むにつれ新しい概念を取り入れている大変面白い作品である。
では何故印象に残っているというか、一種衝撃を受けてしまったのかと言えば、それは起爆スイッチがスマートフォンだったからに外ならない。爆弾の起爆装置を起動させるための中継器が携帯電話なのはよくある話だが、それがスマートフォンになったところでふーんという感じである。携帯界隈の世代交代というほかない。
しかし、しかしだ。爆弾を起爆させるという、そんな重大なスイッチを、誤タッチの危険性があるスマートフォンでいいのだろうか、という心配が過ぎってしまったのである。
そもそも静電式タッチパネルというパネルは、文章を打つという観点からすると非常にいけすかないパネルである。まず文字を打ったという実感がない。決定ボタンを押しても、サイトのボタンがちゃんとタップできているかわからない。リンクが切り替わってやっと「押した」という実感がやってくる。
文章を打っているときはふよふよとしたキーボードというか最早シートのようなアルファベットが、指を当てる度に浮かび上がったり沈んだりというアニメーションを繰り返すけれど、だからといって指にキーボードを打ったときのような打鍵感は伝わらない。平面の板を指でつついているだけである。これでは指の方が変形してしまう。このふわっとした文字うち感覚がどうにも耐えきれず、私はポメラを購入せざるを得なかったし、パソコンを手放せなかったというわけである。
それでもスマートフォンの方が画質は良いし、画面が広いので横書きにしろ縦書きにしろ文章が読みやすいのである。ホームページも見やすい。そう、『観る』というツールとしては大変優秀なのが、画面だけがすべてみたいな、スマートフォンさんという機械なのだ。
それでもやっぱり、スマートフォンで起爆スイッチを押すのはどうなんだ、と思ってしまうのである。
これは安室さんに限ったことでは無く、スマートフォンというかタッチパネルを使ったどんなシステムにも抱く感情なのかもしれない。しかし、頭では確実性はタッチパネルの方が高いと言うことは理解しているのだ。それでも物理ボタンを頼った方が良いのでは無いか、と思ってしまうのは、最早ボタンレスが普通になりつつある現代に対して私が発症した適応障害じみたなにかなのかもしれない。
SFの世界に限ったことでは無く、現在でも様々な入力機械にタッチパネル(静電式)は使われている。
ボタン式の起爆スイッチ(なんかもうこの言葉だけで頭がおかしい気がしてならないのだが)の方が、構造上中継する部品が多い分故障や接続不良の危険性を孕んでいる。それを鑑みれば、やはり起爆スイッチは感度抜群のスマートフォンの画面をタッチする方が理に適っていると言える。間違ってスイッチをタップしてしまい誤爆することはあっても、起爆信号の正確性を考えれば、タッチパネルに何のクッションも挟まず触れてしまう方が、よっぽど確実である。絶対に爆発することができる。
それでも私はボタンの方がいいなと思ってしまうのだ。そんな軽々しい起爆スイッチで大丈夫かと思ってしまうのだ。この感覚が、私がボタンにたいして全幅の信頼を寄せているからなのか、ボタンを押すという実感がなければならないという強迫観念なのか。
あの触感のはかなさに反して、その先に起こる爆発という非常に重たい現象があり、それがコナンたちの命運をかけた一場面だと思うと、宙に浮いたような不安感がただようのだ。
そんなことを深夜に思いつき、こうして書き作っていた。
おわり。
今まで見なかったような夢を見る。
大きな手に追われたり、飼ってもいない飼い犬が迷子になったり。
転職活動を始めてから、転職を決意してから、その前からか、どうも夢見が悪い。
ワンマンだとか、古い体制とか、そもそも向いてないとか、やばい社員を残してるとか、色々積み重なって、プツンとあるとき糸が切れた。
他人はそんなことでと言うかもしれないけれど、私のキャパは超えてしまった。
原因はそれなりにわかっているつもりなのだけれど、上がり症が邪魔をしてくる。
転職したら改善されるのか、幸せになれるのかと自問しながら、それだけに縋る。
そもそも転職が初めてで、自分の価値もわからないので、希望年収の妥当性がわからない。ちなみに私は100億くらい欲しい。
抜け出せるかわからないトンネルを、千切れそうな命綱を付けて彷徨っている。
現職という命綱は、なんだかどんどん気に入らなくなってきて、息苦しくて、朝は吐き気がする。
元々隠し事が好きでは無いたちで、職場の人とプライベートな話をするのも厭わない方なので、今転職を隠して過ごしていることもしんどい。
趣味がたくさんあったはずなのに、どんどん使う時間も気力もなくして、楽しみ方も忘れてしまった気がして、食欲も失せる日もあって、これは黄色信号だと自覚する。
早く、早くトンネルの先へ、と思う。
せめて成功体験が一度は欲しい。
転職活動をしてる人なんで山程いるし、複数回だってあるだろうし、とは思うけど、私の辛さは私のものなので、早く抜け出したくて仕方がない。
終わったら、匿名ではなく、転職エージェントにお世話になった話とかを書こうと思う。
ただ、私がちゃんと自衛として、転職という手段に踏み切れたこと、自分の思い切り、現状の切り捨て、改善、そういうことができたことは収穫だと思う。自分が動かなければ変わらないと見切りをつけられた。そこだけはとりあえず誇っておこうと思う。
勢いで生きていきたいのに、うまく出来ないので、真似事を。
眠れない夜キミのせいだよ~
はじめての生体認証!
つい先日近郊の銀行で口座を開設したのよ。
張り切って行った
生体認証したときは暗証番号いらないのね!とビビってしまったわ。
暗証番号無しで引き出せるって、
ヤバくない?危なくない?大丈夫なのかしら?って思うわ。
もうさ、
いつまで人類は
信号の画像をクリックしたりしなきゃいけないのよ!と面倒くさいなぁと思ってたら、
あの暗証番号入れてないのに開けちゃったんですけど!って言いそうになったわ。
これちゃんと動いてるのかしら?って思うし。
指をスキャンしたら
黒い画面に無駄にデカデカと緑色のワイヤーフレームで表示されくるくる回る指先のイメージが出てきて、
赤い丸がぽわんぽわんと点滅表示されて、
リアルタイムにコンピューターが考えて認証してるんだな感を表現している、
そんなの現実の生体認証での画面では一度も見たことないわ!ってぐらい
映画を見てる人に分かりやすいぐらい大袈裟な大風呂敷演出の生体認証システムな画面だったら
フォント大きいし
インターフェイスの作りもなんか大きいし、
全てのスケールがなんか大きいのよね。
そんなの今時Windowsでもないわよ!って思っちゃうぐらい。
チャンチャン。
なんか今日はお店の品揃えが冴えない感じね。
すいすいすいようび~
今日も頑張りましょう!
インターネットでテスラに触れるとどこからともなく否定から入るやつがワラワラ沸いてきて面倒臭いから実名で書きたくないんだよね。なので増田に落とす。
これぞ美しい国ニッポンの真髄だ、腹筋が切れそうなくらいゲラゲラ笑ってゐる「国土交通省は、自動車メーカーが車に搭載されたシステムのプログラムを更新する場合、国の許可制とする方針を固めた」「情報技術(IT)の知識を持った職員がプログラムの中身を確認する」 https://t.co/aWKTksJJUt— TJO (@TJO_datasci) February 5, 2019
この話自体は確かに一見すると土人国家かよという印象を受けるのも仕方はないし、実際にはどうかというと「国交省自体が完璧な検証を行えなくても、ソフトを検証するプロセスが検証されていることを国交省が検証すれば、予測可能なハザードが概ね排除された状態を確保できる」ってところで落ち着いてはいる。
今後、自動運転技術による高速道路での車線変更といったプログラムの更新が想定されるため、国が事前に安全性を確認できるようにする。
メーカーが不完全なプログラムを配信することや、メーカー以外の第三者が勝手に改造プログラムを作り大量に配信することを防ぐ狙いだ。メーカーや第三者が許可を得ずにプログラムの更新を行った場合、罰金などの罰則も定める。
「メーカーが不完全なプログラムを配信することなんかあるか?」「配信なんて、受け取る奴は少ないんじゃないか?」という疑問があると思う。ところが、この2条件に直球で該当する会社が2社ある。「改造プログラム」の方はComma.ai, Inc. だが、まあこれはGeorge Hotzくんの個人プロジェクトだから大したことはない。問題になるのは、不完全なプログラムを配信する会社、つまり、
Tesla, Inc.(旧称Tesla Motors, Inc.)だ。
テスラは多ければ年に30回くらいアップデートを配信している。内容はイースターエッグを追加したとかアイコンの色を変えたとか軽微なものもあるし、自動運転のプログラムを丸ごと入れ変えるものもあるし、自動運転に関わらない発進加速や制動距離の変更もある。例えばModel S 75Dは発売当時のスペックでは0-100km/h加速(信号が青になった瞬間に踏み込んで、時速100kmに達する時間)が5.2秒から4.2秒と短縮されている。最上位のP100Dは2.2秒まで短縮されている。当然、インバータのファームウェアは書き換わっている。こうした変更は構造変更に該当する可能性があり、日本では国土交通省や運輸局に届け出や認可を得る必要がある、可能性がある。
しかし、テスラは基本的にファームウェアアップデートに関して届け出ない。届け出れば許可されない可能性があり、届け出なければ告発されることもなく、届け出なかったことを告発されても法的な罰は下らないからだ。日本ではさらに、型式認定を返上している。これは日本の法制上、認定のない「型式不明」の自動車を輸入して転売し登録することが認められているためで、Tesla, Inc.が製造した車両をテスラジャパンが並行輸入し転売する形を取れば、どんなソフトウェア更新を配信しても何一つとして法的な手続きを行う必要が無くなり、計算されたリスクのうちに収まりさえすれば、法に妨げられることなく製品を製造販売できるからだ。
「メーカーが不完全なプログラムを配信することを防ぐ」「許可を得ずにプログラムの更新を行った場合の罰則も定める」という2点がセットになっているのは、ピンポイントにこれを潰すためだ。試乗や審査の時間があれば、現在はテスラが危険なほど高速で回している開発サイクルに歯止めがかかる。それ以外の自動車メーカーについては、上に書かれたようなそれなりの検証が既に行われているので、規制は極めて形式的に終わることになる。
いい大人になってから気付いたけど、襟足の髪の毛がどえらい逆毛だった。
襟足発・耳の上経由・もみあげ着で逆毛になっており、耳の後ろ・上辺りに至ってはお前スネ夫かよって勢いで前に向いて生えてる。
道理で幼かりし頃から床屋さんで「くせっ毛だからショートは止めときましょうねー」って言われた訳だよ。
どこでも必ず重めのおかっぱにされてしまいふざけんなよと思ってたけど、こんな伏兵が潜んでいたとは。
逆毛と順毛が均衡するラグランジュポイントから生え際までの長さを測ってみたけど、最大10cmぐらいに渡って逆毛だった。全然伏せてねえ。
このことに気付いてから信号待ちのときに他人の襟足の毛の生え方ばっかり見てしまうようになった。そしたら案外いるね、生え際逆毛の人。
だけど、平均5cm以上逆立ってる人にお目にかかったことがない。自分逆毛族の中でもかなり才能ある方なんじゃないの?場合によってはレジェンド級なんじゃないの?って気になってきた。
転職活動でストレスが溜まっているので備忘録、愚痴吐きとして。
* 言うまでもなくクソなので行く価値なし。
* 見分け方はみんな知ってるだろうし割愛する。まあ勤務地は東京23区内とか書いてあったら香ばしいですよね?鼻腔に入ってこないで欲しいよな。
* 「多彩な案件を経験」したければ派遣免許取ってちゃんとやってる会社に行きます。違法スレスレの人材屋を選ぶメリットあるか?
* こういうクソを紹介してくる無能な転職エージェントは生まれてきたことを後悔するほど苦しんでから死んで欲しいものである。SESには興味ないって言っただろうクソが。
* ただ連中は節操なく人を採りまくるので、万が一の滑り止めとして一応受けておく選択肢はある。もちろんその際は次の次の転職先を探す必要があるので本当に最終手段である。
* 判断に迷うのは受託や自社開発とSES両方やってるパターン。SESという後ろ暗い商売で儲けていることに罪悪感を感じていて、真っ当な道に進みたいと思っているのかもしれない。人売り人材屋にしては比較的良心的な可能性はある。少なくとも首までどっぷり商流に漬かってるクズよりはマシである可能性が微粒子レベルで存在している。黒いSESか灰色のSESかを面接などで見極めるのも場合によってはアリ。
* でもやっぱ関わりたくないよな。SES企業の営業は前世でどんな罪を犯したんだろう。あんな仕事をして生き恥を晒しってるってことはよっぽどの大罪だと思うんだけど。
* これマジ?2019年にもなってそんなWebサイトで大丈夫?客来るの?という企業はたまにいる。社長の頭にウジでも湧いてんのかな。
* 感性が10年くらい前で止まってる。まだ人生半ばなのにもう死体みたいな顔してるジジイしかいないか、自分のところのWebサイトすらメンテできないほど余裕がないか、それか経営陣が自社サイトの重要性を理解していないアホなのか。なんにせよ地雷。
* 「今風にしようとしてるけどダサい」というパターンもある。Web系の企業じゃなければまあ仕方ない面もあるが、もしWeb系の企業ならデザインセンスがないというのはわりと痛い。デザインセンス無いくせにWebデザインの受託とかやってるならもう本物のアホだ。人に売る前にまず自前のクソみたいなWebサイトをどうにかしろ。私たちは楽天市場をデザインした間抜け野郎の親戚です、なんてアピールしてどうすんだよ客来ねえぞ。
* そもそも企業のイメージや信頼に直結するWebサイトがちゃんとしてない時点で色々アレな企業なのでは、という疑念が湧く。
* また、ちゃんと今風で問題のないデザインだけどダサいと感じる場合もある。これはこれでその企業の文化とあなたの感性が合わない可能性が高い。どっちにしても避けたほうが良い。
* 一度しか見たことないけど、その昔モバイルで表示が崩れるWeb制作会社がおったのじゃ…。
* デザインの方は「感性が合わないだけ」という逃げ道があったがはっきり言ってこっちは救いがない。技術屋が技術力のなさを晒したらもうおしまいでしょう。
* バカを見てると頭が痛くなるんだよ勘弁してくれ。
* みなし残業自体の是非は判断が分かれるところだが、とりあえずここでは少なければOKとしたい。そうしないと選択肢が大きく減ることになるからだ。
* といってもみなし残業なんてやってないに越したことはない。こんなのは給与を額面だけ高く見せつつ人件費を抑えたいセコいやつらのやることだ。その企業が儲かっていないか、あるいは社員から1円でも搾り取ろうとしている証拠である。
* 個人的には20時間とか30時間ならまあ仕方なし、40時間を越えると黄色信号、と判断している。この辺の基準は人によって変わるだろう。
* 過去に「60時間分の固定残業費を含む」とか書いてる間抜け野郎がいた。新卒の初任給22万は残業代を引くとほぼ最低賃金である。スタバでバイトでもしていたほうが時間あたりの給与は上なのだ。アホか、と思い僕はそっとタブを閉じた。
* こういうクソの山を紹介してくる転職エージェントはぜひ生まれてきたことを後悔するほど苦しんでから死んで欲しいものである。
* 起業なんて所詮は金儲けの手段。やってることはただの技術屋。だとしても、なんやかんやで思想というのは重要だ。企業は生き物なのだから。
* 果たして思想もセンスも持ち合わせていない経営者に人が付いていくだろうか?教養のない実務家が求心力を持ち得るか?答えはノーだ。
* この辺は人によって考え方は変わるかもしれない。少なくとも筆者は避けます。人はパンのみで生きるにあらず、というあの古い言葉を信じているからです。
* 意識高く見せようとしているけど薄っぺらさを隠せてない企業は多い。学のない経営者ってのは悲惨なもんですね。労働法も経営者は守ってくれないしな。
* こういう間抜け野郎に騙されないためにも人には教養というやつが必要なのだ。
* Webサイトに代表挨拶とかありますよね、そこに経営者の顔写真が載ってるやつ、よくありますよね。そいつの顔をよく見てみましょう。うわぁこいつキモいなとか、うわぁこいつ悪そうだなとか思ったらやめといた方が良い。人を顔で判断してはならない、なんてのは綺麗事である。
* 人柄は顔に出るんだ。だからおまえに備わった直感という名の経験知を信じろ。
* 魅力のない人間には魅力のない人間しか集まって来ない。だから経営者に魅力のない企業は社員にも魅力がない可能性が高い。高いエロティック・キャピタルを持った人間は相応の場所に行くものである。
* ああいう経営者ってアホづら晒して恥ずかしくないのかな。自分だったらもう街歩けなくなると思うんだけど。まあ経営者って人種は恥知らずだからな。
* もちろんこれは顔が良いか悪いかというような話ではない。顔に滲み出る人柄の話である。
* 体は食べたもので出来ている。しかし顔を形作るのはその人間の魂の総体なのだ。
* 顧客が第一ということはつまりそう、分かりますよね。従業員は二の次なのです。
* まあ、ありがちな売り文句ではあるのでこの文言があったら即黒、というほどのもんではないと思う。見極めよう。
* ただ、こんなことを書いてしまう企業にセンスがないことに変わりはない。この言葉が優秀な求職者を遠ざけるマジックワードであることに気付いていないのだから。まあ採用担当が間抜け野郎なだけかもしれないし多少はね?
* 顧客第一と言うのなら、では貴社にとって株主は何番目なんですか?などという質問をして採用担当を困らせるのはやめよう。
* でも気になるよな。こういうこと言ってる企業にとって株主って何番目なんだろう。株主を差し置いて顧客第一とはけしからん!とか怒られたりしないのかな。
* 正直これ重要だと思うんだけどなんでこんな下の方に来たんだ。
* 上で書いた兆候からある程度探れるもんだとは思う。Webサイトのデザインがあからさまに古かったりしたら使ってる技術も古い可能性が高いよな。URLが「〜〜〜top.php」だったりしたらヤバそうだよな。
* その企業が自社でWebサービス展開してるなら一度は見ておこう。デザインやUI、URLパラーメタなどから読み取れる情報は多い。
* まあどの程度これが問題になるかは人によるか。個人的にはこういうのは大嫌いです。
* 人売りSESじゃなかったとしてSIerと関わってるならやめた方がいい。SIerなんてろくなもんじゃない。奴らと仕事をするくらいならいま話題のマナー講師にでもなった方がまだマシだね。
* まあ本当に大手企業と直で取引してるなら良いと思う。見極めるべきか。取引先以外にアピールポイントがない感じだとアレだけど。
* エンジニアにとっては取引先なんかよりも、自社内にどんな開発環境があるか、どんな仕事ができるか、技術力を磨けるか、ってところの方が重要じゃないですかね?人によるかな?どうなんだろう。
* 即アウト、というほどのもんではないけど、まあセンスないよね
* アイコンはともかく、画像があからさまにフリー素材ってのは期待値を下げる要因になりはしても上げる要因にはなり得ない。
* でかでかと貼られたぱくたその写真素材は、「弊社は自前で素材を用意することもできなければ有料の素材を買う金銭的余裕もございません」と高らかに宣言している。
* ぱくたそ自体は良いサービスです。こんなクソ記事で名前出しちゃってゴメンな。
* なんの罪もない労働者に生き恥を晒させるクズだと思うんだけど、どうなんでしょうね。人によるのかな?
* そこそこのブランドがある企業ならともかく、無名の零細企業に自分の顔写真が晒されるとかCIAが開発した新手の拷問手法か何かか?
* この新しい拷問は、クソみたいなサイトデザインと合わさることでより強い効力を発揮することが知られている。
* 明確な地雷の兆候が見えない会社なのにこう感じるのだとしたら、それは「合わない」ということだ
* こういう嗅覚は案外バカにならない。あなたは識閾下で何かしら良からぬものがあると感じているのに、ただそれを言語化できていないのだ。
* 仮にこれが勘違いだとしても働きたいと思えない会社に面接行くのしんどいしね。
以上。
あーすっきりした。
ここおかしいだろとか、なんでこれがないの?とかあったら突っ込んでください。今後の転職活動の参考にします。後半雑になったのは自覚してる。
個人的にニューアカ風味に欠けてるなーというのが不満だったので、ちょっと添削してみました。いかがでしょう?
神経医学の、医学全般への漸進的な貢献は、敬虔さという態度変更を伴わない状態では、あらかじめ(つねに/すでに)構造化されうるものではない。
医療技術分野での最新の知見により近時あらためて問題提起されたこの<貢献>という主題が、なぜ現状のようにじゅうぶんに構造化されえないのか(あるいはまたそれが如実にあらわれてしまっているか)は、だから自明のことなのではないだろうか。
今日では歴史の地層に埋もれてしまった感もあるが、19世紀末にスウェーデンからアメリカへと活動の場を移したエリファット・フォン=ハシュヴァルツという精神科医/哲学者がいる(とはいえ、当時はなかば詐欺師のような扱われ方をされていたようでもあるのだが)。彼女は精神分析医として働きながら哲学・神学の領域にまで思索の幅を広げ、まるでのちの構造主義を予見するような理論Kalmia Theoryを提唱している。その思想はひじょうに複雑にして晦渋きわまりないものだが、暴力的に単純化すれば、神経医学においてキリスト教的認識論の軛から逃れ、世界を多面的・多声的にとらえる・そのための方法とでもいうものだったらしい。
倫理がなぜ神経医学において重要なのかという問題は、これもまたいっけん自明に思えるかもしれないが、実はそう簡単な話ではない。簡単な例を挙げれば、経頭蓋磁気刺激法という術式は、磁気増幅器を使用するため被験者の神経パルス信号の異常をもたらす場合がある。しかしこれを即座に危険とみなせるかどうかもまた「時と場合によって」しか決定されえないのである。そしてその場の恣意的な判断によってただ闇雲に積み重ねられ溢れかえっているこうしたミクロな事象をどう扱うかという問題は、当時の精神医学界の躓きの石であった。だがある日、その状況に待ったをかけた言わばコペルニクス的転回ともいえる現象が観測されたのだった。
増田本人からネタバレがされているが、全く読解できない文章ではない。
「◯◯という単語が出てきて、そこで読むのやめた」というブコメが多いが、
この手のケムに巻いた文章の読み方を伝えたいと思う。
簡単に言えば、数学のように変数として扱うことである(厳密に言えば、定数であるがそこはご愛嬌)
面白いので、すこしやってみよう。
神経医学における漸進的な貢献は、敬虔のない状態では決して構造化されるものではない。
最新医療技術によっても問題提起されたこの貢献が、なぜそれを如実に現している現状のように構造化できなくなったかは自明であろう。
あまり知られていないが、19世紀後半にエリファット=フォン=ハッシュヴァルツというスウェーデンからアメリカへ移住した哲学者がいる。哲学者と言っても当時彼女は詐欺師のごとく扱われていたようだが。この哲学者は哲学以外にも同時に医療や神学を学び、現在でいうところの構造主義の前置きとなるKalmia Theoryを提唱している。誤解を恐れずに言ってしまえば、神経医学においてもキリスト教史観での認識論を改めて多角的に世界を認識しなければいけないというものだ。
倫理がなぜ神経医学において重要かというのは自明に見えるかもしれないが実はそれほど自明なものではない。ひとつ例をあげると、経頭蓋磁気刺激法というものは磁気増幅器を使用するために神経パルス信号へ異常をもたらす場合がある。しかしこれが危険であるか否かというのは一般的に明瞭ではない。こうした恣意的な評価に留めるだけではミクロ的事象を溢れさせてしまうことになる。だがそれに待ったをかけたコペルニクス的転回を見せた事象がある。
文意を取りたいだけなら、強調のみの用語は全部取っ払って良い。よくわからない言葉は変数を置く。
神経医学の貢献は、現状のようにBできなくなった。
19世紀後半にCという哲学者がいる。この哲学者Cは哲学以外にもいろいろ学び、構造主義の前段階となるD理論を提唱している。Cの主張は、神経医学においても、Eを改めてFしなければいけないというものだ。
神経医学において倫理が重要であることは自明のようであるが、実はそれほど自明なものではない。(次の例示は前の文章と同内容を主張することになるはずなのですべてカットしてしまってよい)だが、それに待ったをかけたコペルニクス的転回を見せた事象がある。
このように読解すると、どうでもいい意味ありげな言葉を取り除いてしまえば、たいして論理構造が難しい文章ではないことがよくわかる。
最後の2文を読めば良い。
つまり、論理展開上はこの後の文章では、「Aって常識だよね!」「いや、そのAの常識を疑おうぜ」「その常識を疑う態度を疑え」という2番目から3番目に移行する(つまり、ただ一番最初の主張に戻るだけのつまらない)主張を裏付けるエピソードが記述されることになる。
最後までやってひとこと。
ある本から引用した文章だけど、ちゃんと読める?俺は読めるけど。
神経医学における漸進的な貢献は、敬虔のない状態では決して構造化されるものではない。
最新医療技術によっても問題提起されたこの貢献が、なぜそれを如実に現している現状のように構造化できなくなったかは自明であろう。
あまり知られていないが、19世紀後半にエリファット=フォン=ハッシュヴァルツというスウェーデンからアメリカへ移住した哲学者がいる。哲学者と言っても当時彼女は詐欺師のごとく扱われていたようだが。この哲学者は哲学以外にも同時に医療や神学を学び、現在でいうところの構造主義の前置きとなるKalmia Theoryを提唱している。誤解を恐れずに言ってしまえば、神経医学においてもキリスト教史観での認識論を改めて多角的に世界を認識しなければいけないというものだ。
倫理がなぜ神経医学において重要かというのは自明に見えるかもしれないが実はそれほど自明なものではない。ひとつ例をあげると、経頭蓋磁気刺激法というものは磁気増幅器を使用するために神経パルス信号へ異常をもたらす場合がある。しかしこれが危険であるか否かというのは一般的に明瞭ではない。こうした恣意的な評価に留めるだけではミクロ的事象を溢れさせてしまうことになる。だがそれに待ったをかけたコペルニクス的転回を見せた事象がある。
問. その事象とは何か?
ある程度の数読まれて、いろいろと気が付かれた方も多くいらっしゃったようなのでさっさと種明かしをしようと思う。結論からいえばソーカルやユニバーサルメルカトル図法という語がもっとも的確にこの記事を表現している。
「ある本から引用した」というのがまず第一の欺瞞である。引用ではなくぼくの創作である。また「ちゃんと読める?俺は読めるけど。」は煽っただけの惹句である。
必然的に、引用と銘打ったその後の文章はすべてがでっち上げたものである。この「引用文」はシンタックスは問題ないながらも言葉の意味をデタラメに並べ書き連ねて意味ありげにしたものである。ただしいくつか罠を張ってある。最初の煽りも罠の一つであり大いに楽しんでもらえたように思う。
「引用文」のはじめに出てくる「敬虔のない状態」というのはデタラメで意味不明である。「敬虔」という言葉は神学・キリスト教史観などの語を後に出現させて煙に巻くための布石であって、ここではそれ以上の意味はない。「構造化」も「構造主義」「認識論」につながって哲学の要素を暗示するための適当な言葉である。だいたい「○○化・○○的」と言えば立派に聞こえるものだ。
「最新医療技術によっても問題提起されたこの貢献」は文の構造からみるに「神経医学における漸進的な貢献」と等価であるが、これに関して特にエビデンスはなくデタラメであるし「漸進的な貢献が最新医療技術によって問題提起される」とはナンセンスであろう。「如実に現している現状〜は自明だろう」は「そんなことも知らないの?」と煽るために付加したもので、もちろんこちらもエビデンスはなく適当である。
「エリファット=フォン=ハッシュヴァルツ」なる人物は架空の存在でありでっちあげたものだ。19世紀後半にスウェーデンから移民というのもよくある話を適当に追加しただけである。フォンやヴァルツなどの音はそれっぽいので採用した。音がそれっぽく聞こえること以上の意味はない。「あまり知られていない」「詐欺師と言われていた」と弁解しているのはググっても出てこない理由をそれらしくするための装飾である。察しの通り、Kalmia Theoryも架空の理論である。Kalmiaはツツジ科の花でスウェーデンの植物学者カルムが命名したものである。つまり構造主義とは何ら関係がない。また「構造主義の前置き」とあるが正しくは「構造主義の前提条件」などとするべきである。また、構造主義は20世紀に登場した実在の概念である。
「誤解を恐れずに言ってしまえば」というのは、Kalmia Theoryまでの大きな嘘を覆い隠すため、ろくに調べなくてもいいように逃げ道を作ってあげたものである。続く文は「神経医学においてもキリスト教史観での認識論を改めて多角的に世界を認識しなければいけないというものだ」というわかりやすそうで意味不明な文である。「キリスト教史観での認識論を改める」とはめちゃくちゃであり「欧米人が考える哲学的な何か」くらいのざっくりした暴論の衒学的表現である。「神経医学においても」とつけたのは更にデタラメさを助長したかったためである。
「経頭蓋磁気刺激法というものは磁気増幅器を使用するために神経パルス信号」は、似ている言葉を並べただけで何も関連性はない。こちらはひとつひとつの専門用語が実際に存在しているために「そういうものがあってそういうことがある」ぐらいの気持ちで読み流されるのを狙ったものである。直後の「しかしこれが危険であるか否かというのは一般的に明瞭ではない」によってなんとなく納得するように仕向けているが、結局デタラメである。そのデタラメさは、ひとつひとつの語の意味を知ろうとすれば見抜くことができる。
「ミクロ的事象」の意味はない。流れで「評価」というワードを思いついたのでなんとなく経済用語でもぶちこんでおくかくらいの気持ちで追加したものである。
最後に「問.」とあるのは最後の煽りであって、意味などないし「引用文」の中に答えがあるはずもない。心理学で言うダブルバインドに近いとぼくは勝手に考えている。
また、この文章はぼくが適当に独自に創作したものであるから英文から和訳したものではない。内容が欧米っぽいことは否めないが。