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はてなキーワード: 序文とは

2019-04-06

anond:20190406131516


 

緊急寄稿

「令和」から浮かび上がる大伴旅人メッセージ

品田悦一

 

 新しい年号が「令和」と定まりました。典拠文脈を精読すると、〈権力者の横暴を許せないし、忘れることもできない〉という、おそらく政府関係者には思いも寄らなかったメッセージが読み解けてきます。この点について私見を述べたいと思います。なお、この文章は「朝日新聞」の「私の視点」欄に投稿したものですが、まだ採否が決定しない時点で本誌編集長国兼秀二氏にもお目にかけたところ、緊急掲載のご提案をいただいて寄稿するものです。

 

 「令和」の典拠として安倍総理が挙げていたのは、『万葉集』巻五「梅花歌三十二首」の序でありました。天平二年(七三〇)正月十三日、大宰府長官大宰帥)だった大伴旅人が大がかりな園遊会主催し、集まった役人たちがそのとき詠んだ短歌をまとめるとともに、漢文の序を付したのです。その序に「于時初春令月、気淑風和」の句が確かにあります。〈折しも正月の佳い月であり、気候も快く風は穏やかだ〉というのです。これはこれでよいのですが、およそテキストというものは、全体の理解と部分の理解とが相互依存し合う性質を持ちます一句だけ切り出してもまともな解釈はできないということです。この場合テキストは、最低限、序文の全体と上記三二首の短歌(八一五~八四六)を含むでしょう。八四六の直後には「員外思故郷歌両首」があり(八四七・八四八)、さらに「後追和梅花歌四首」も追加されていますから(八四九~八五二)、序と三八(三二+二+四)首の短歌の全体の理解が「于時初春令月、気淑風和」の理解相互に支え合わなくてはなりません。

 

 さらに、現代文芸批評でいう「間テキスト性 intertextuality」の問題がありますしかじかのテキストが他のテキスト相互に参照されて、奥行きのある意味を発生させる関係に注目する概念です。当該「梅花歌」序は種々の漢詩文を引き込んで成り立っていますが、もっと重要かつ明確な先行テキストとして王羲之の「蘭亭集序」の名が早くから挙がっていました。この作品書道の手本として有名ですが、文芸作品としてもたいそう味わい深いもので、「梅花歌」序を書いた旅人知悉していただけでなく、読者にも知られていることを期待したと考えられます。「梅花歌」序の内容は、字面表現された限りでは〈良い季節になったから親しい者どうし一献傾けながら愉快な時を過ごそうではないか。そしてその心境を歌に表現しよう。これこそ風流というものだ〉ということに尽きます。「蘭亭集序」の語句構成を借りてそう述べるのですが、この場合、単に個々の語句を借用したのではなく、原典文脈との相互参照が期待されている、というのが間テキスト性の考え方です。「蘭亭集序」は、前半には会稽郡山陰県なる蘭亭に賢者が集うて歓楽を尽くそうとするむねを述べており、ここまでは「梅花歌」序とよく似ていますが、後半には「梅花歌」序にない内容を述べます。人の感情は時とともに移ろい、歓楽はたちまち過去のものとなってしまう。だからこそ面白いともいえる。人は老いや死を避けがたく、だからこそその時々の感激は切なく、かついとおしい。昔の人が人生の折々の感動を綴った文章を読むと、彼らの思いがひしひしと伝わってくる。私が今書いているものも後世の人にそういう思いを起こさせるのではないか……。

 

 「梅花歌」序には、人生の奥深さへの感慨は述べられていません。続く三二首の短歌も、〈春が来たら毎年こんなふうに梅を愛でて歓を尽くしたいものだ〉(八一五)やら、梅の花は今が満開だ。気の合うものどうし髪に飾ろうではないか〉(八二〇)やらと、呑気な歌ばかりが並んでいるのですが、そしてそれは、旅人大宰府役人たちの教養の程度を考慮して、「蘭亭集序」を理解したうえで作歌することまでは要求しなかったからでしょうが旅人自身は「蘭亭集序」全体の文脈をふまえて歌群を取りまとめました。その証拠に、上記「員外思故郷歌」は

  わが盛りいたくくたちぬ雲に飛ぶ薬食むともまたをちめやも(八四七)

   ……わたしの身の盛りはとうに過ぎてしまった。空飛ぶ仙薬を服用しても若返ることなどありえない。

  雲に飛ぶ薬食むよは都見ば賤しきあが身またをちぬべし(八四八)

   ……空飛ぶ仙薬を服用するより、都を見ればまた若返るに違いない。

というのです。人は老いを避けがたいという内容を引き込んでみせている。

 しかも、ここには強烈なアイロニーが発せられてもいる。旅人にとって平城京はもう都でないのも同然で、「都見ば」という仮定自体が成り立たなかったからです。

 

 都はどうなっていたか皇親勢力の重鎮として旅人が深い信頼を寄せていた左大臣長屋王――平城京内の邸宅跡から大量の木簡発見されたことでも有名な人物――が、天平元年つまり梅花宴の前年に、藤原四子(武智麻呂・房前・宇合・麻呂)の画策で濡れ衣を着せられ、聖武天皇皇太子呪い殺した廉で処刑されるという、いともショッキング事件が持ち上がったのでした。この事件は後に冤罪と判明するのですが、当時から陰謀が囁かれていたでしょう。旅人もそう強く疑ったに違いありませんが、遠い大宰府にあって切歯扼腕するよりほかなすすべがなかった。『万葉集』の巻五は作歌年月日順に歌が配列されているのですが、梅花歌群の少し前、天平元年のところには、旅人藤原房前に「梧桐日本琴」を贈ったときのやりとりが載っています事件は二月、贈答は十月から十一月ですから、明らかに事件を知ってから接触を図ったのです。〈君たちの仕業だろうと,察しはついているが、あえてその件には触れないよ〉〈黙っていてくれるつもりらしいね。贈り物。はありがたく頂戴しましょう〉と、きわどい腹の探り合いを試みている――あるいは、とても太刀打ちできないと見て膝を屈したとの見方もありえるかと思いますが、とにかく、巻五には長屋王事件痕跡が書き込まれている。

 

 巻五だけではありません。巻三所収の大宰少弐(次席次官小野老の作

  あをによし寧楽の都は咲く花のにほふが如く今盛りなり(三二八)

は、何かの用事でしばらく平城京滞在し、大宰府に帰還したときの歌でしょうが、『続日本紀』によれば老は天平元年三月、つまり長屋王事件の翌月に従五位上に昇叙されていますから、たぶんこのときは都にいて、聖武天皇から直接位を授かったのでしょう。すると、大宰府に帰った老は事件後の都の動向を旅人らに語ったと考えられる――そういうことが行間に読み取れるのです。また巻四には、長屋王の娘である賀茂女王大宰府官人だった大伴三依との交情が語られていて、三依は事件に憤慨しながら大宰府に向かったようです(五五六)。さらに巻六。歌を年月日順に配列する中で天平元年に空白を設け、直前に、長屋王嫡子事件ののさい自経した、膳王の作を配しています(九五四)。

 これらはみな、読者に長屋王事件喚起する仕掛けに相違ありません。偶然の符合にしては出来すぎている。

 

 「梅花歌」序とそれに続く一群の短歌に戻りましょう。「都見ば賤しきあが身またをちぬべし」のアイロニーは、長屋王事件を機に全権力を掌握した藤原四子に向けられていると見て間違いないでしょう。あいつらは都をさんざん蹂躙したあげく、帰りたくもない場所に変えてしまった。王羲之にとって私が後世の人であるように、今の私にとっても後世の人に当たる人々があるだろう。その人々に訴えたい。どうか私の無念をこの歌群の行間から読み取って欲しい。長屋王を亡き者にした彼らの所業が私にはどうしても許せない。権力を笠に着た者どものあの横暴は、許せないどころか、片時も忘れることができない。だが、もはやどうしようもない。私は年を取り過ぎてしまった……。

 

 これが、令和の代の人々に向けて発せられた大伴旅人メッセージなのです。テキスト全体の底に権力者への嫌悪と敵床心が潜められている。断わっておきますが、一部の字句を切り出しても全体がついて回ります。つまり「令和」の文字面は、テキスト全体を背負うことで安倍総理たちを痛烈に皮肉っている格好なのです。もう一つ断わっておきますが、「命名者にそんな意図はない」という言い分は通りません。テキストというものはその性質上、作成者意図しなかった情報を発生させることがままあるからです。

 安倍総理政府関係者は次の三点を認識すべきでしょう。一つは、新年号「令和」が〈権力者の横暴を許さないし、忘れない〉というメッセージ自分たちに突き付けてくること。二つめは、この運動は『万葉集』がこの世に存在する限り決して収まらないこと。もう一つは、よりによってこんなテキスト新年号の典拠に選んでしまった自分たちはいとも迂闊(うかつ)であって、人の上に立つ資格などないということです(「迂闊」が読めないと困るのでルビを振りました)。

 

 もう一点、総理談話に、『万葉集』には「天皇皇族貴族だけでなく、防人農民まで、幅広い階層の人々が詠んだ歌」が収められているとの一節がありました。この見方はなるほど三十年前までは日本社会の通念でしたが、今こんなことを本気で信じている人は、少なくとも専門家あいだには一人もおりません。高校国語教科書もこうした記述を避けている。かく言う私が二十年かかって批判してきたからです。安倍総理――むしろ側近の人々――は、『万葉集』を語るにはあまり不勉強だと思います。私の書いたものをすべて読めとは言いませんが、左記の文章はたった一二ページですから、ぜひお目通しいただきたいものです。東京大学教養学部主催の「高校生のための金曜特別講座」で語った内容ですから高校生なみの学力さえあればたぶん理解できるだろうと思います

 

【記】

品田悦一「万葉集はこれまでどう読まれてきたか、これからどう読まれていくだろうか。」(東京大学教養学部編『知のフィールドガイド分断された時代を生きる』二〇一七年八月、白水社

2019-04-02

…さて、「令和」ってなぁにぃ(?)

なキミも、めろんちゃんと一緒にお勉強タイム~♪

万葉集」第5巻"梅花歌"序文中の

"…。時、初春の令月にして、気淑く風和ぎ……"

典拠みたいですね。

令月(れいげつ):何事をするにも良い・めでたい月

気淑(きよ)く:空気は澄み,

風和(かぜやわ)らぎ:風も穏やかで

…ってなワケで、なんかちょっぴり賢くなったような?

★…まずは、成年向けからご紹介♪★

18禁】「新元号カレンダー 成年ver」特設ページ

http://cl.melonbooks.co.jp/c/ajbba5vK4JwsrwbG

2019-04-01

anond:20190401125907

こういうものの名付けの典拠って、その漢字単体ではなくて、フレーズで出てきてないとダメなんだよ。

付け焼き刃で良さそうな意味漢字を調べて当て字するキラキラネームみたいな名付けられ方はしてないんだよね。

これまではだいたい四経五書から取ってて、昭和だと「百姓昭明、協和萬邦」、平成は「地平天成」とかそういう漢文フレーズから取ってる。

麗を使った名付けの例でいえば、麗澤大学なんて大学があるけど、あれは易経の「麗澤兌。 君子朋友講習」から取ってる。

友とともに学ぶことを、二つの沢の流れが交わり潤すことにたとえていて、この場合「麗」という漢字は麗しいという意味ではなく「並ぶ」という意味で使われてる。

あと、今回、万葉集採用されたけど、使われたのは漢文で書かれてる序文のほうで、本文は万葉仮名での表記になるから「うるわし(うるはし)は」「宇留波斯」と記載されてて「麗し」ではない。

(それ以前に、利便性意識して画数が多い漢字は使わないって宣言も出されてたしな)

2019-03-19

anond:20190319170005

オススメした増田だけど、流石に研究者の本に対して読んでないうちから研究の域に達してないって評すのはどうかと思う

自閉症スペクトラム精神病理』については序文書評がここから読める。せめてそこで印象を判断してくれ

http://www.igaku-shoin.co.jp/bookDetail.do?book=82030

津軽弁の人が書いた論文はこっち

https://www.jstage.jst.go.jp/article/tokkyou/52/4/52_263/_article/-char/ja/

大きなお世話かもしれないけど、読んでない人に好きな本について心外なことを言われるのは我慢ならなかった

2019-01-30

こんなゲームブログでもアドセンス合格した

のんびりと1年ほど運営していたソシャゲ中心のゲームブログ

先日、はてなで「無料独自ドメインあげるで」とキャンペーンをしていたのでついつい取得。(実質はお名前.comで1円販売してた.workを勧めてるだけだった)

ノリでアドセンス申し込んだら約一週間で合格した。事前にある程度は調べて受かる感じはなかったが、やってみるもんだなと。

せっかくなのでネット上では見つけられなかったり、参考にならなかった情報をまとめてみる。

同じよう理由アドセンス申請に躊躇していたひとの参考になれば。

自分ブログで書いてもよかったけど、唐突だし、逆にgoogle先生に目を付けられて取り消されてもバカらしいし。


はてなブログ独自ドメインに変えても、旧URLrss配信はされる

ゲーム系でアンテナサイトなどに登録してもらったひとも多いかと。

URLの再申請がめんどくさかったので、やらなかったら問題なかった。

普通に更新通知されるならもっと早く挑戦してたのに。

これ、ゲーム系にも限らないと思うので、もっとはてなブログ側で宣伝しておいたほうがいい気がした。


文字数少な目、画像沢山でも大丈夫

よくある「〇〇文字以上必要です!」は信じなくてよい。

書き出し2行以内に話が理解できる構成が好きなので、僕は必須だったらアドセンスやらない。

てか、それ意識してだらだら序文やら目次付けて書いてるゲームブログマジうざいよね。

あと持ってない最新キャラを「これは強い! 人権ですね!」とエアプレビューしてるブログは全部潰れろ(過激派

ちなみに合格時のブログのアパウトなスペックはこんな感じ

記事:120ぐらい

文字数:ほぼ500~750文字程度、10記事に1回ぐらい書く真面目?な記事だけ、1000文字超え。


パンツが見えてても合格した

ちょうど申請時、最新記事複数キャラ画像を貼って「パンツパンツ!」と連呼してた(反省はしていない

一番落ちる理由になるかなと思ってたが大丈夫だった。

おっぱい派の審査員にあったったら落ちるかもしれません(適当

必須だなと思ったのはプライバシーポリシーぐらいかな。これだけは申請前に作っていたほうがよさげ

僕はサイドバーにあるプロフィールコメント欄に「プライバシポリシー」って雑に固有ページへのリンクを置いただけ。

あ、レスポンシブデザインにしていない人はスマフォ版へのリンク作成も忘れずに(僕は3日忘れてた


あとなんかあったかな。初めての増田なので勝手がよくわからないけど、聞かれれば答えるかも。

ちなみに僕の収益目標は、はてなProの代金分ぐらい稼げればそれでいい。

それにしても合格たから言えるけど、アドセンスからないことを記事にしてるブログって、やっぱ自分考える力がないよね。(文章からも伝わってくる

そりゃ金が主目的ブロガーに引っかかって、サロンだなんだに参加しちゃますわ。

2019-01-23

anond:20190123224559

「世の中阿呆ばかりだ」と思い込んで騒いでる、精神病者やね

序文や書き出しを書かず突然本文を書く文体

普段生活での自身他者との距離感をよく表している

2019-01-17

anond:20190117094828

お前チャットからって社外の人間意図を汲み取れないような顔文字とか書き入れるわけ?

序文と結びを省けばビジネスチャットからといって入力する文章の量に代わりは無いというか空気読めてない奴だとリアルタイム合いの手入れてくるから寧ろタスク的にはメールより煩雑だわ。

2018-12-06

バカ文章ばかりを有難がって読んでいるおまえらへ告げたい

まじめで真摯かつ丁寧に書かれた記事が読まれることは基本的にはない。

人は文章を読むとき、読む前に「読む価値があるのか」と判定する。その判定部位は主題であったり序文であったり最初の数文であったり概論であったりするが、ともかくまず通読に値するかという判定をする。

真摯に書かれた文章推敲がなされ、文字の1つ1つに価値があって全体として深い内容になっていることが多い。一文の重みが軽薄なものと段違いである。つまり基本的にはわかりにくいものとなっている。わかりやすくしようとすればするほど細かくなって文の総量が多くなるためだ。こうした文章一見して重厚に見えるものでなく、見た目は平易ながらも内容が濃密なものも含む。その逆は含まない。

はてなブックマークもっとも良い記事は「ブクマはいっぱいついているがコメントはほぼない」記事であるブックマークが1000ついている場合コメントほとんどの場合100ほどはついているのに、良い記事場合は3とか6とかほどしかコメントがついていないものが過半である。全くついていない場合もある。そういった記事はたいていツッコミどころがなく長文で難解であり、有益と判定されながらも理解放棄されたものである個人的ライフハックとして、それらが低比率なほど中身を読まずとも信頼できる記事である可能性が高いとみなしている。

広く読まれ文章というのは、読む対象を広げたものしかない。たとえばこの記事主題読み手を広く惹きつけようと試みたものである。内容はそれとは真逆のものであるあなたバカ文章ばかりを有難がって読んではいないことは明々白々でありながらも、こうした主題をつけて煽り罵ったことに関してはお詫びしたいと思う。いずれにしても大衆一般に伝わるようにするにあたっては広く訴求するものでなくてはならない。これは大衆一般に伝わるようにすることが容易であるというわけではない。そういった文章大衆一般琴線に触れるための努力がなされており、彼らなりのマーケティング結晶でもある。

また、丁寧な文章というものはだいたい一分の隙もないものも多く、自分が口を挟めず納得せざるを得ないことが多いものである。これは自らの無知・不識を恥じてその愚かさを認識する、いわば痛みを伴うものでもある。誰もが苦しみを味わいたくないためにこれを避けたいと思うのでは必定である。だからこそすべからく重い文章と向き合って挑み戦うという姿勢が生きていくのであると思う。というわけである

2018-11-22

anond:20181121140118

マニアックというなら『暗黒太陽浮気娘』※だな(マニアック意味が違)

※全米SF大会で起きた殺人事件ミステリ

例に挙がってるのがドラマ性より「王道かつ知的なひねり」系なので、

半村良『岬一郎の抵抗』(超能力が発現したサラリーマン国家権力と町内の三つ巴)、

フレドリック・ブラウン火星人ゴーホーム』(ある日いきなり地球に大量の火星人がやってきて全世界パニック

野尻抱介太陽簒奪者』(異星文明ナノマシン太陽を改造しだして地球危機

あたりはいけるんじゃないかな。

星を継ぐもの』的な知的なひねりならスタニスワフ・レムお薦め

存在しない本の書評序文という体裁の『完全な真空』&『虚数』は読んでおいて損はない。

どの架空の本も本当に読めないのが残念になるほどのアイデアが詰め込まれいるから。

書評https://1000ya.isis.ne.jp/1204.html

宇宙活劇いけるなら『虎よ!虎よ!』は是非読んどいて欲しい。

2018-09-28

運と自己責任

 TLを眺めて、お前ら実は面白い話をしてるんじゃないのか? ということに思い当たったぞ。

.

 つまりだな、運が悪いことは、自己責任じゃないこととイコールなのか?

.

 Aくんは運悪く貧しい家庭に生まれたとして、運悪くろくな教育うけられず、運悪く周囲の環境が悪く、最終的に犯罪者になったとしてだ。それはAくんの責任なのだろうか。

 Bくんはキモくて汚いオッサンだとして、運悪くキモさや汚さを克服することが出来ないとして……普通キモさや汚さは行為解決できるが……しかし、たまたままれつき常軌を逸するキモさだったり、貧乏な育ちのせいでそのコスト負担する能力にかけていたり、つまり運悪く解決できないとして、それは障害者のように扱われるべきなのか?

 もしそうだとして、それが完全に運のためであり本人の営為でないことが証明可能なのか? もしくは運のためでないことは証明可能なのか? あるいは運が絡んだとしても、本人の責任であることに違いはないのだろうか。

 調べてみたら、なんかかなり新しい論文が、この問題倫理学無視してきたとか書いてたわ。

http://rci.nanzan-u.ac.jp/ISE/ja/publication/se32/32-02furuta.pdf

 まだ序文しか読んでない。

 どんな言い合いからでも発見はあるもんだ。

 まあ明確な答えはどうもないみたいだから、もう言い合いとかやめたほうがいいぞ。

2018-06-17

anond:20180616070150

2324文字は長いか

読むの1分ぐらいかかりそうだしあまり隙間も開けてないし、140文字文化だと厳しいかな。

元増田にも長すぎて読んでもらえないようなので反省文。

その本の目次と序文読んだけど、その長さは30分とか1時間単位の話では?

ちなみに本読んだのならどうしたらいいのか教えてくれると助かる。

以下は読まなくていい俺の反省メモ

1.増田に書き捨てるつもりで思いつくまま書き出したゆえ長い。校正したら半分にはなるが時間はかかる。

2.別にこれぐらい読める人は結構いるが、増田を読む大半の人には長い?

3.元増田意見にも一理あり、否定少なめに自分意見自分の話として閉じたかったゆえ長い。

(その本でいう「自分に酔ってる」というやつ)

かに気のつかいすぎかも。

4.もっと表面的な話をしてるのになぜなぜと原理原則を深掘りすることが難しく、読む人に関係のない話になってしまう。

4.が一番大きな理由かな。

「長い」じゃなくて、「考え過ぎ」「深掘りしすぎ」「もっと単純な浅い話」かと。

元増田画像引用なしで感想を書いたりしてるかもしれないのに、そのブログ画像引用して漫画感想書いてるのが気に食わないだけの話。それを著作権のあり方や考え方の話を改めて考え直すところまでなぜなぜと原理原則を深掘りしてるので関係のない難しい話に見える。著作権の話を持ち出したのは元増田なんだけど、それは相手を叩きたいための自分の正しさや常識の盾として使ってるだけ。

から反論するなら「引用に値するかどうか」までであって、そもそも著作権のあり方、捉え方、変わっていく著作権のあり方とかほんとどうでもいい話になる。

俺の文章を書き換えるなら

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著作権自分実益を守るためのものであって、その一コマブログにはると本が売れなくなるとか、作者に根も葉もない悪い噂がたつとか、とんでもない誹謗中傷するとか、実際に損害がない限り内容証明書送るだけでも無駄な手間。そんな手間をあちこちにかけないよう著作権をむやみに行使しない権利出版社にはある。

元増田正義サンドバッグターゲットを見つけたので、はてなのみんなだったら喜んで叩くと思って煽ったあと、後ろから眺めようとしてたのだろ? 自分悪趣味社会実験はてな低能な連中操ってやりたかったんだろ?

""

あたりでわざと煽ったところで止めて、なぜの階層を一つで終わるほうがわかりやすいだろう。

ただそうすると個人的元増田結論への回答にはならない。

「結局悪いことをやらないとだめなんだ。ネット現実も結局そんなものルールを守っている真面目な人間が損をする。」

これにちゃんと応えるには

著作権に関する善悪ルールとは何か?

それは誰が決めて、誰が変えて、どうあるべきか?

そこにどれだけたくさんの関連性と、考えることがあるか?

という常識外れの事例や考えがたくさん必要になってくる。

それを受け取るかどうかは、元増田読み手がそれを必要としてるかどうかで変わるだろう。

増田で返事するのもこう書くのも、自分の話として閉じてるのも、自分思考の整理や自分の変化のためなので、ちゃんと読み取ってブコメできちんと自分なりの反論してる人がいるのもいいし、ただ「長いよバカ」で受け取らず読まなくても、それはその人の人生でほんとに必要ないことだから別にいいのだ。

それを両立させようとするなら、、、

ひとつ「なぜ」と深堀りしていくごとに、投稿を分けてツリーにしていけばいいかな。

元増田への単純な意見投稿と、そのツリー自分のために深掘りしていく投稿で読みたい人を絞っていけばいいか。次に機会があれば試してみることにする。

2018-06-02

anond:20180602011433

いよいよ序文を読み終えたかと思ったら次に後書きが始まるというエクストリーム薄っぺら内容の中に、とにかくやるしかない、やるんだ、みたいなイキリがひたすら出てきて本当にもう無理と思った。昔あやしい通販サイト裏ビデオ買ったら別に裏でもなんでもない詐欺だったの思い出した。あれと同レベルBOOTHAmazonみたいにカスタマー評価書いたり見たりできるようにしてほしい(切実)

2018-03-23

あと似たようなのは序文を有名な著作から引用することな

さも引用っぽく自分で書いた文を書いてるのは逆に好きだよ

かどのこうへいとかにしおいしんとかな

[]献辞

献辞(けんじ)は、著作物を献呈することを示すことばである。献詞(けんし)、献辞文。

書籍場合著作物の冒頭に通常1ページを取り「…へ」「…に捧ぐ」などと記される。音楽場合楽譜に記される。

献辞は主に、以下のような人物に捧げられる。

家族恋人親友など

その人物に読ませる・聞かせるために作った作品

音楽場合、初演者、もしくは希望する初演者

出版直前に死去した関係者

パトロン君主

内容にかかわった者は献辞ではなく、序文フランス語版、英語版)や謝辞(英語版)、あとがきで協力者などとして言及されることが多い。

献辞 - Wikipedia

2018-02-14

ミネルバフクロウ

ヘーゲル「法の哲学」の序文に、「ミネルバフクロウは迫り来る黄昏に飛び立つ」という言葉がある。

 

フクロウ夜行性で、通常人活動する昼間は眼を閉じて眠っている。夜闇が近づく夕暮れになると、フクロウは眼を開けて羽ばたき始める。そして、夜の闇に飛び立っていく。

それは、知性とか知恵、英知、洞察力や思考力を意味するものだという。つまり最盛期を過ぎて衰えが目立つようなときになって、人はようやく知恵や洞察力を獲得するものだということらしい。

 

若い時には分からなくても、年を重ねることで分かるようになることもある。

未来は誰にも分からないけど、自分で創る未来ならある程度予想できる。

 

果たしてその男運命相手なのか?

誠実な人が大事なことで冗談を言ったり嘘をつくだろうか?

恋愛結婚パートナーへの対応が、その人にとって大事なことであれば嘘はつかないのでは?

ダメ男をつかんでしまった場合でも、教育によって更生させられる可能性はある。(手間だけどw)

 

「命短し恋せよ乙女」(ゴンドラの唄)

人生は有限。限られた時間無駄にしないように賢明選択をされてください。

 

anond:20180214172716

2018-01-06

古典小説差別的表現を撲滅しないとレイシズムは消えない

よく昔の文学作品を手に取ると序文とかで「差別的単語があります時代文化考慮してそのまま」という甘えた文章がある。

だがその甘えがどこかで「差別していい」という助長になっているのではないか

差別的単語修正たからと大きく作品の質が下がるものではない。

これらを絶版にするなり修正版を出すなりしないと、世の中のレイシズムの火が消えることはないだろう?

日本小説に関わるものはこのような国際感覚を身に着けてほしい。

2017-11-13

石山修武磯崎新

石山修武磯崎新論は、ボルヘス注釈のみで構成した架空小説のようなものなんだ。

きっとこのまま書かれることもない。

以前にすこし書いたボツになった序文磯崎新論についての論だけが残されるんだ。

世田谷日記3255-3256

"「作家論・磯崎新」を仲々本格的にやり始めないのかの、要するに、これは誰一人聞く者もいないはずの弁明である"

この直後に磯崎新鈴木博之が持っていた記憶力につなげてボルヘスが出てきている。

しろロジェ・グルニエ短編沈黙」に近いか

あれは自分が書く予定の小説について色々な名作小説の部分部分をあげながら夢想する小説だった。

「この私が書きたいのは、むしろ新しい『感情教育』なのである

2017-10-10

増田に書くと消される3DS児童ポルノ掲示板の件

1年ぶりです。

去年、300ブクマほどいただいたので覚えてる方は少しくらいいるかと思いますが、

例の増田に書くと消される3DS児童ポルノの件、1年経ったらそろそろ言及して良い感じになったので書きました。

おそらくかなりの長文になると思われます。まだ、序文程度しか書けていませんが

あの、増田の即削除は何があったかなど、自分なりに詳しく書いていこうと思います

とりあえず、増田に書くのは禁止のようなので、自分ブログに書きました。

なぜ禁止なのかは後々書くとして、とりあえず報告まで、

http://pandaporn.hatenablog.jp/entry/2017/10/10/070525

この件を覚えていて1年前に何があったか気になる方は、是非。

2017-09-09

アイドルマスター シンデレラガールズ U149 はつまらないという話。

まず何も知らない人に簡潔に書くと、『アイドルマスター シンデレラガールズ U149』(以下適当に略す)とは『アイドルマスター シンデレラガールズ』(以下適略)というゲームコミカライズ作品の一つである

コミカライズとしては原作に対して忠実さ・リスペクトのある作品一定以上の品質もあるのでファンアイテムとしてはそれなりに良いものだ。一方で、原作を知らない人にとっては取るに足らない凡庸漫画ひとつに過ぎないという、よくあるコミカライズ作品である

Web漫画としてサイコミで連載されていて今なら最初から全部読めるので興味がある方は読んでみてもいい。

https://cycomi.com/title.php?title_id=46

こういう前置きをしている私は上記に当てはまらない、アイドルマスターシンデレラガールズ既存ファンである。それを前提にして本題に入る。以降の話は関連作品も含めてネタバレを有することを注意しておきたい。

本題

この作品は非常に退屈な物語である

コミカライズとしては及第点以上を取れていると思う。漫画に限ったことではないが、世の中には自己主張控え目な毒キノコのように見る者を誑かし食することで生命を脅かすように読んだ者の精神健康を害する作品があることを思えばよっぽど良い。そういうものに金を払った経験はいっそ高度な文明的行いのようだった。

さて、それでも私の周りで似たような意見を聞くのでそれを取りまとめておきたい。

作品問題に対する指摘はいくつかあるが、ここでは一つだけ取り上げる。

それは物語が繰り返しに過ぎないということ。

ただし、この言葉には二つの意味がある。既存ファンでなくても気付く点、既存ファンにだけ感じられる点の二点において、この物語は繰り返しである。前者を単調であるといい、後者を焼き直しと呼ぶ。この二点において少しだけ掘り下げる。

単調な物語の繰り返し

今ならタイトルページに全ての話が並んでいるのでそれを眺めれば、この漫画原作のことを知らない方でも各話のタイトルにはより小さな物語主題とその話の順の数字が割り振られていることに気付くし、そのすぐ後には最初を除いた全てがキャラクター名前であり、各話がそのキャラクターに焦点を合わせた内容であることを理解する。

これは単調な物語という問題が、表出しているのである。この作品はより小さな物語の3話毎の繰り返しであるのだ。

物語の主要キャラクターであるアイドル少女たちは9人いる。

この9人のプレティーンが自己存在意義をかけて衝突したり複雑な人間模様を描くということはない主題になっているアイドル以外は添え物で誰でもいい場合が多い。もちろん例外もあるが、せいぜい一対一の関係だ。ここにプロデューサーという『アイドルマスターシリーズで要となる役目を持つキャラクターを加えても何も変わらないことは一読すればわかるということも付け足しておこう。

このように個人に根差し問題解決を3話毎に繰り返している。この個人に根差し問題という指摘は後にも関係しているので覚えておいてほしい。

さて、3話というイテレーションが、序破急が、問題提起確認解決という流れが、如何なる読者にも理解できるのはある切実な悪影響を産む。読者の誰もが次の話を更新を待たなくてもどうなるのか、結末は果たして何処へ行こうとしているのか容易に想像できるし、その想像を超えてくることは絶対にない。個人に完結する問題バリエーションに変化を付けるのは難しい。特にこの作品は主要なキャラクターをプレティーンと限定しているのでそれが顕著に表れる。また、解決手法に目を惹くものがなくむしろただの会話で済んだりするので盛り上がりや起伏、それによる興奮がない。

読者の期待を煽ることは決してなく、要するにただただ単調なのだ

焼き直しの繰り返し

どのようなWeb漫画サイトも同様に、序文に書かれるあらすじを読めば誰でも物語全体の概要理解できるだろう。ここで同作品最後の文を引用する。

さなアイドル達と小さな新人プロデューサーが贈る、新しいシンデレラストーリーが開幕する。

しかし、既存ファンにとってこれは新しいシンデレラストーリーでは無かった。

前項で個人に根差し問題という指摘を行った。これがなぜこの作品既存ファンの心象に退屈さを塩傷口よろしく塗り込まれ現象となる理由は、それは原作ゲームがもう何年も更新され続けているゲームであり、かつアイドルとそのプロデューサーとして一対一の関係を描いているゲームからである

直截的に言えば、そのキャラクター個人の悩みなど従来のファンには既知の事柄であるし、改めて描かれても新鮮味が無いのだ。

また新鮮味という話であれば、最初橘ありすの「宣材写真撮影」に纏わる話は、『シンデレラガールズ』のアニメでもやってるし派生元でも別の派生先でもやってる定番である。その中で言えば解決方法も極めて平凡なのもファンの期待に応えているようで一層下回る。

この作品の最大の特長といえばこれまでフォーカスされなかったプレティーンのキャラクターやそれに見合う矮人族のプロデューサーがいることだ。しかし、如何せんどいつもこいつも真面目に波乱起こす気が無く、二度目になるが盛り上がらない。波乱があればいいとは言わない。しかし波乱が起きないということは、キャラクターという個性を持ち得ないのも同じではないか。ただ低身長の皮を被った誰かの物語に置き換えられる。ただ真摯優等生ソロプレイしか活躍できないキャラクターであるのなら、彼らは彼らである必要がなく、他の誰だっていいのだ。皮だけ派手にしたところで、平凡な物語は平凡だ。なぜ狂言回しと呼ばれるキャラクターが生まれるのか、我々は反面教師を以て理解してしまう。

物語は単調な起伏を繰り返すだけ。計画し尽くされた行程は作り手にとっては満足するものだが、受け手にとっては必ずしもそうとは限らない。我儘な顧客であることを承知で言えば、我々は見たことがないものが見たいのだ。アニメゲームも各々アイドルの成長を描く先駆者だったが故に満足した。そうではない点ももちろんあったが、概ね次の展開を予想できないものだった。しかし本作品はその後追いに過ぎなかった。

我々はこの物語を知っている。恐らく作者よりも。

まり深く内容に触れずともこの作品が読者を退屈にさせてきたことは説明できただろう。

現時点で19話。イテレーションは5回目で4人目の物語解決の途中である。連載10か月。プレティーンは全員で9人いるのでまだ残り半分残っている事実に戦慄しよう。

私は最新話の作者コメント第一話と同じだったことに慄いたが、今見たら差し替わっていたので深掘りしない。その第一話のコメント引用すると、

お待たせしました!いよいよ「U149」始まりますアイドル達の新たな一面をどんどん見せられればなと思ってますので、よろしくお願いいたします!

新たな一面など無かったということはさんざ書いた。

実のところ、我々が期待していたこハードルを超える作品では無かったと思う。それでもコミカライズという点では良評価を当たられる。新規の読者にとってはこれも新たな一面になるのだから

雑感

最新19話は良かった。賑やかしでも他のアイドルが出てくるのは良いことだ。ここで出てくるのは誰でもいいが上の主張とは誓って矛盾しない。賑やかしだけでもいいじゃん、という主張はよく見るがこうなると容易に首肯する。なけなしの起伏だって要らねえや。冗談だが一考する余地はある。

しか最後の見開き、見れば見るほど最終回みたい画だ。つづくって文字が誰かの悪い冗談しか思えない。

10か月やって最初ステージって、悠長過ぎだろう。アニメなんて一か月半でやってたじゃないか

アニメといえば…これでアニメ化してほしいという意見を稀によく見るが、冗談でも口にすることじゃあない。

2017-08-27

http://www.blossoms-japan.com/entry/2017/08/26/192202

id:blossoms_japan さんに IDコールされました。

>非常に申し訳ないのですが、わかりやすいまとめとは誰が述べているのでしょうか。そして余計な形容詞とはなんでしょうか。ご教授いただければ幸いです。

とあったので書きます反論になっていないかもしれませんが。

ブログを読み返してみて、確かに わかりやすいまとめ という記述はありませんでしたが、

blossoms_japan氏自身が同様の趣旨のことを述べていたと解釈したためそのように書きました。

タイトルに「(略)わかりやす解説」 とあり、赤字で「最近騒がれているワインセラー図面云々の話をまとめながら、

その周囲の野党議員をはじめとした人々の衝撃的発言をまとめておこうかと思います。」とあります

明らかに間違った記述ではないと思うのですがいかがでしょうか。

余計な形容詞とは、事実を述べるにあたって不要と思われる形容詞すべてです。

事実事実、それに対する筆者の評価評価として分けて記載するのがよいと私は考えます

例;

悲しいぐらい←筆者の嫌味を込めたレトリックであり事実記述としては不要

さな方向に向かって←終息しつつあるような印象を与える

総理意向どこ吹く風←追及側が総理意向に関して無視を決め込んでいるような誤解を与える

引っかかったのは序文だけであり、形容詞が「多い」は言い過ぎました。すみません

言いたかったこととしては、形容詞は必ずしも状態客観的表現とは限らず、

筆者の評価意見を強く反映していることに留意すべきということです。

ちなみに、もしもこんなに客観的記述しているのに何をいっているんだこいつはと

思わるのであれば無視して頂いて結構です。

2017-05-27

http://anond.hatelabo.jp/20170525145352

これの件について、倫理的問題がどうとか法的にはどうだったのかという話については個人的に話が出尽くしてるのでいまさら何か言うこともないけど、個人的論文のものについてとても気になったことがある。

そもそも例の論文の作者は何がしたかったのか、したいことを実現させるために正しい方法を選べていたのか、ってあたり。

というのも問題論文タイトルって「ドメインにより意味が変化する単語に着目した」猥褻表現フィルタリング、っていうタイトルで、文脈や使われる場所によって同じ単語でも実は隠喩だったりするので、そういうものをどうにかフィルタリングできないか、っていう話のはず。

そして序文を読むにフィルタリングがきちんとできていないかフィルタリングしたい、って話でもあるはず。

それなら「フィルタリングされているドメイン猥褻表現として使われている単語」をサンプルにしても「ドメインにより意味が変化する」からフィルタリングされていないドメインでは猥褻表現として使われていない」は可能性があるんじゃないの?

フィルタリングされているドメイン猥褻表現として使われている単語」が「フィルタリングされていないドメインでも猥褻表現として使われている」のであればそれは「ドメインにより意味が変化する単語に着目」してないじゃん。

そもそもドメインにより意味が変化する単語」に着目できてない。着目しているのは「文脈により意味が変化する単語」じゃないの?

それならPixiv小説サンプルになるのは理解できる。

もしも「ドメインにより意味が変化する単語に着目」していると言うなら、AというドメインとBというドメインでは特定単語が同じ意味で使われていることを証明しないとだし、それができないならAというフィルタリングされたドメインで使われている文章は何の参考にもならないし、そもそもAというサイトはきちんとフィルタリングされていないと主張するならその根拠を提出しないといけないのでは?

から個人的には「猥褻表現サンプリングからPixiv文章引用したのは適切」「法的に問題がない」とは思えない。無関係文章を解析する理由なんてないでしょ。Pixivというフィルタリングされたドメインでの文章はこれこれこういう理由で他のフィルタリングされていない別ドメイン文章フィルタリング有用、って納得のいく説明ができるなら法的に問題ないって言ってもいい。

2017-03-06

高学歴によるSAO劇場版感想ネタバレほぼ無し)

序文: 私は所謂俺TUEEEE】が嫌いだ。

主人公が画面の中で無双しているのを自己投影することで、リアルでは弱い自分を忘れて気持ちよくなるだけの虚無な行動。

あんなのはただのオナニー自己満足であり【俺つえー】アニメを見て喜ぶのは猿の知能レベルとなんか変わらない。

最近話題に無理やり絡めると、けものフレンズを見てIQが溶けて喜んでいる人たちもいるようだが、脳細胞破壊されて喜ぶ人たちの気持ちがわからない。

SAO職場アニメクラスタと話を合わせるために1期2期共にほぼリアルタイムで視聴した。

内容はそこそこには面白かったが、主人公キリトの【俺TUEEE】要素はあまり好きになれなかった。

今思えば魔法科高校の劣等生司波達也蘇生したあたりで萎えしまったし、テニスの王子様越前リョーマ無我の境地相手の技をコピーし始めたあたりでギャグ漫画として捉えるようになってしまった。

長い前置きとなった。感想を書いていこう。

一言で言って最高の映画だった。

最終盤、ラストバトルでの盛り上がりは涙無しでは見られなくて汗や鼻水、他にもいろいろなものが出てしまった。うんこも漏らしたかもしれない。

クライマックスにおいてスパロボテイルズアメリカ映画の良いとこどりをしたような王道中の王道展開。

そしてキリト最初弱かったのに強くなって最終的に【俺TUEEEE!】をする圧倒的な快感、開放感。

細胞が溶ける楽しさを知った。

俺TUEEEE!!!!!!】がこんなに気持ちいいものだとは・・・

これはもう麻薬といっても過言ではない。元の思考回路には戻れないかもしれない。

2016-11-22

http://anond.hatelabo.jp/20161122023244

元増田記事消えてしまったが、結局あれはそういう出来なのか。

pixivで元となる二次創作序文だけ読めるので、それは読んだんだが文章を読ませる力はあるように思えたし、グロテスク描写がある割に読みやすくも感じた。

元ネタ小説オマージュ、借用のおかげの部分もあるのかもしれないが。


一方で、その二次創作題材となるアニメキャラクター自体矛盾の塊、魅力の無さの権化みたいなキャラクターばかりが出てくるアニメ作品からSFと絡めてあの作品二次創作を行うとしたら、その設定の矛盾点やキャラの魅力のなさへの皮肉と絡めて書くことができたら唸る作品が生まれたかもしれないと思った。

オマージュ、というよりパクリを用いているといえばその二次創作題材となるアニメ盗作問題炎上した。未だに誰も反省の弁を口にしていない近年でも最悪のシリーズ作品だった。

からその点も含め、皮肉を込めた作品にできていたら、二次創作の名作になったかもしれない。

まあざっと読んでも、エログロSFおもしろおかしく混ぜてみても結局は単純にその出来の悪いアニメ作品キャラクターへの盲目マンセー百合パロディみたいなノリで終始しそうな気配がぷんぷんしたからどうにかして読んで見たいなんて気は起きなかった。

元がファンアンソロジー本への寄稿小説からそんなもの載せられるわけがないのだろう。

その序文だけ読んでも察する所はあったが作者のTwitterや読者の感想を眺めてみるとやはりアニメラブライブの影響を受けての礼賛的なテーマが込められているものなのだろう。だから残念ながら面白そうとは思えない。

それと、それらを見ていたら、やはり「君の名は。」「紫色のクオリア」に似ている的な言及が見られた。

自分は「紫色のクオリア」は超絶名作だと思っているが、それを先に知っているだけに「君の名は。」がストーリーや設定的に陳腐に感じられ、かといってもちろん萌えアニメキャラアニメ的な軽薄な派手なキャラ付けも弱いし、TSネタも使い古された薄味のものばかり、恋愛エンタメ性すら弱いため、なかなかにまらなく感じた。

まあ駄作ではないのだろうが、名作とはどう頑張っても呼べない。欠点が多く長所がそこらへんの深夜アニメと比べても少ないレベルであるが、不快になる作品ではなかったから人の好みや気分によっては良作と呼べるのかもしれない、という程度の感想だ。

ラブライブ!が好きな連中には「君の名は。」も絶賛できる輩が多い印象がある。どちらも辻褄がスカスカで、かといって爆発力的なエンタメ性や萌えなどがあるともいえない。強いて言うとラブライブ場合ライブシーンや楽曲君の名は場合は美麗作画で誤魔化しにかかっているがまともに見ていたら満足感に到底結びつかない。変な薬か宗教に浸かるでもしない限りは。

実際自分君の名は。を見た時に自分ラブライブのことを思い出した。この辻褄の矛盾が気になる構成、辻褄云々を吹っ飛ばしてくれるエンタメ的なシーンを用意できない構成、それで誤魔化した気になってるのかと突っ込みたくなるふざけてキチガイダンスしだしたような寒い演出。そんなことに目をつぶりながら見続けても結局陳腐な話でサービスもなく終わり何もカタルシスが残らない作品。まあ君の名はそこまでは酷くないが、方向性としてはそういう面で似ていたし、あれが世間で人気だという点も含めて、こういうものこそが広くいいものだと思われる認識が広まるのは日本世界文化にとって危機的状況だと感じた。

人間科学技術や知能の発展というのは人間歴史が続く限りは永遠に続いていくと思われがちだがある時をピークに衰退に転じるという予測もある。手塚治虫の「火の鳥」でもそんな話があったように記憶するが、もしかしたら映像芸術文化芸術表現力や認識力において人間は既に衰退に転じてきたのではないか…なんて思えてきている。


恐らく序盤のシーンを超えていくと、上記の作品に似たエッセンスを用いた流れがやってくるのだろう。そうなると二番三番煎じかつ、元ネタアイドルしかもあのクソアイドルアニメということで説得力には期待ができない。

結局あの作品の大半を占める百合なら何でも喜ぶタイプオタク、ラなら何でも喜ぶタイプオタクが読まないと賛美するという方向に思考が結びつかない、ラブライブ二次創作に相応しい作品なのだろう…。

アイドルになれるとかアイドル概念がどうとか言っているが…三次元アイドルとは違って、理想を実現させられるはずの二次元アイドルという概念三次元現実やその事情と絡め貶めた設定を用いた、アンチ二次元アイドル権化であるラブライブ!、そしてアンチ二次元アイドル権化であるアニメ版矢澤にこ元ネタになっている点で作者や読者のアイドルという概念の捉え方や理想(のアイドル)の捉え方にも期待が出来ないどころか絶望的な不安しか感じられない。

百合は素晴らしいということを否定はしないが、結局のところ百合マンセーラブライブマンセーナントカSFマンセーを行う道具として片手間で作られたラブライブらしくラブライバーらしい小説が元なんだろうなあ…と想像を働かせてしまうのだった。


これに限らず、なんかの受賞作品といってもその賞自体価値審査自体価値が危ういなんてのは珍しい話でない。

必ずまともな審査員しかいないコンテストなんて殆どどこにもない。ノーベル賞アカデミー賞ですら賛否両論は珍しくない。

からまともじゃなくていいなんてことではないが、どうしようもない人がどうしようもない作品を作っても何かが間違うと高く評価されるなんてこともあるかもしれないのだ。

今はピコ太郎の「PPAP」が流行している。しょうもないとまでは言わないが、素晴らしい含蓄がある歌詞画期的で流麗な音楽に感動した…なんて到底言えないものだ。

しかし、どんな歌詞を込めてどんな演奏力ある楽器隊や歌唱力あるボーカルを擁して作られた他の殆ど日本音楽よりも今は世界的に流行評価されてしまっているのが現状だ。

から、その最後最初のなんとかみたいな駄作小説が賞をとれてしまうこと、ラブライブかい駄作アニメが売れたり賞をとれてしまことなども含め、そういうのを見てると、ワンチャンどころでないチャンスが実は世の中誰の目の前にも転がってるのではないかと思う。

しかするとラブライブやこの小説はそんなことを言いたかったのだろうかと思ってみてもやっぱり評価する気にはならない。

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